« ひまつぶし…数字ナゾナゾ~何年か後に役に立つ(かもしれない)ミニ知識 | トップページ | 北京五輪をどう報じたか~各紙コラムや総括記事+毎日新聞の鹿島茂氏のコラム »

2008年8月24日 (日)

書評 谷徹、今村仁司、マーティン・ジェイほか著「暴力と人間存在」(筑摩書房)~「暴力的文化アイコンとしての『赤ずきん』物語」など収録

 2008年8月25日初版第1刷発行。定価3200円+税=3360円。帯には<社会に隠された暴力をあばき、その真相と本質を解明する>とある。表紙裏の宣伝文句は次のようなものだった。

暴力と人間存在 暴力と人間存在

著者:谷 徹,今村 仁司,マーティン・ジェイ
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 <戦争・殺人・虐待・いじめ・DV……。あまりにも多様な暴力がわれわれの社会を脅かしている。いや、暴力は人間の生活全体のなかに住みついているのだ。暴力が人間の存在規定と不可分であることを疑う人はもはやいないだろう。とすれば暴力現象の解明は、その深さにおいて人間そのものの解明でもある。人間が人間として存在するかぎり、人間は暴力から完全に解放されることはないかもしれない。しかし、そうであるからこそ、暴力に適切に対応することが求められている。暴力の問題は、思想・倫理・法律・政治・文化・歴史・教育・心理・医療……など、きわめて広い領域に関わっている。しかも、すでに明るみに出された暴力だけでなく、これまで明るみに出ることのなかった暴力が、それらのいたるところに潜んでいるのである。本書は、こうしたさまざまな暴力の問題に取り組むために、可能なかぎり研究の領域を広げ、隠された暴力を掘り起こしながら、暴力現象の深層と本質を解明する。暴力と人間存在との関わりを理論的・実証的に考察した画期的成果。>
 谷徹氏によるまえがき、あとがきによると、2004年に今村仁司氏らが中心となって立ち上げた「暴力論研究会」は2007年度末までに計26回の研究会を重ね、その成果に基づいて本書ができた、ということだった。
 「2001年9月11日の同時多発テロで21世紀は幕を開けた。あまりにも多種多様な暴力が現出している。これらは人間存在には暴力が深く根付いていることを示しているものではないか」という認識で、人間研究としての暴力研究を続けたようだ。
 ところが、中心人物の今村氏が2007年に病に倒れ、永眠された。大著「社会性の哲学」を残すことができただけでも良かった、という。
 残念ながら、この本に入っている今村論文が難しすぎたので、この大著を読もうとは思わないが。
 たしか、今村さんといえば、最近、岩波書店から出た「岩波社会思想事典」の編集者だったのではないか、と思って、探してみたらやはりそうだった。
 思想史事典のはしがきでも、「誠に残念なことに、今村仁司氏は、2007年5月、本事典の完成を見ることなく、病に斃れられた。心より哀悼の意を示したい。そして、共同編者としては、本事典が、今村氏の御遺志に違わぬものになっていることをただ願うばかりである」とあった。共同編者は三島憲一、川崎修両氏だった。
 ちなみに、思想史事典の「暴力」項目は今村氏が書いており、「暴力と権力」「供犠(sacrifice)の暴力」「排除の暴力」の三つに分けて説明していた。短い説明なお出、余計分かりにくい感じがした。
 さて、「暴力と人間存在」に戻ると、幅広い分野の専門家がずらりと揃って、暴力を論じた論文が目一杯詰まっている感じである。
 難しくて分からない論文も多かったが、こういう業際的作業は「知」の総合化のために必要だろう。
 私のような専門知識のない素人がある程度読め、薄々でも理解できた論文だけあげておこう。
 著者たちはほとんど、立命館大学の学者さんたちである。谷さんの人脈なのだろうか。
▽谷徹「暴力論の基礎考察」
 暴力論を3分類する。
 ①社会論的暴力論(ソレル、ベンヤミン、アドルノとホルクハイマー、ジラール、今村仁司)…「社会」の成立要因の考察の中で暴力が問われる。
 ②心理学的暴力論(フロイト、ハーマン)
 ③現象学的暴力論(ハイデガー、アーレント、レヴィナス、デリダ)
 の三つである。
①社会論的暴力論
 ベンヤミンは暴力を、法がおのれを維持するために用いる「法維持的暴力」と法を初めて樹立する「法措定的暴力」の2種類に分ける。
 この二つは「神話的暴力」とされ、それを破壊するものとしての「神的暴力」を対置する。
 神話的暴力は権力に結びつき、神的暴力は法外な正義の支配・統制の可能性を開くことが重要とされる。
 神的暴力は「法」を超えた「正義」である。つまり、法自体が暴力(神話的暴力)であり、その法=暴力に支配された世界を、その外部の正義(神的暴力)と関連させることが重要だった。
 これはデリダが「もろもろの小文字の法を超えた大文字の法そのもの」を考えたのと同じ問題意識だ、とされる。
 フーコーにとっては「近代における権力」が最も重要な研究対象だった。
 しかし、フーコーの言う「権力」は独特の含意を持ち、それは「見る」とともに「知」あるいは「理性」と一体化している。
 フーコーは「臨床医学の誕生」で近代医学が死体を開いて見ることで、生命とそれに結びついている病の闇を光に曝す、つまり「見る」=「知」「理性」を育てた、と見る。伝統的に高級な感覚とされた「見る」は曝すものとして暴力的なのである、と。「見る」を高級と見ているかぎり、この暴力性は隠れている、という言葉にも含意がある。
 さらに、フーコーは「監獄の誕生」で、残酷な公開処刑(死)を人々に見せることによって自らを維持してきた王権的権力が変貌し、新たに、拡散した・ミクロの権力が「パノプティコン」(一望監視)型の「眼差し」(つまり「見る」こと)を張り巡らすことによって、いわば自発的に権力に服従する「主体=臣民}を形成するようになったことを示した。
 また、「見る」のみならず、「知」も人畜無害ではなく、権力による支配と結託しているのである。
 この支配の仕方で印象的なのは、それが(主体化=従属化)といういわば自主的な従属を示す概念で表現されたことであろう。「主従」が反転的に結びつくのである。主体を主体的と見ている限りでは、その従属性は隠されてしまう、とあった。つまり、なかなか見えない真実が多いのだなあ。
 さらに、フーコーは、「狂気の歴史」で、近代の理性が狂気を閉じ込めるという形で(いわば敵意を持って)排除したことも示した。
 そして、また「性の歴史」第1巻で、性の秘密を告白させる医学・精神医学の「知」がセクシュアリティなるものを形成して、それに反する性的異常なるものを排除し、そのことを通じて人間の生全体を支配・管理しつつ「生・権力」として機能するようになったことを示した。
②心理学的暴力論
 心理学的暴力論の典型はフロイトだ。フロイトは当初の「攻撃欲動」の理論から、「生の欲望(エロス)」と「死の欲望(タナトス)」の理論に進み、サディズム、マゾヒズムなどの概念を使って分析を進めた。
 エーリッヒ・フロムの「権威主義的人格」と「自由からの逃走」のプロセス分析。
 この心理学的暴力論では暴力被害者の心理も問われる。
 だが、暴力現象は総じて隠れる傾向を持つ。とりわけ性的事象が絡むと、この傾向はさらに強まる。
 J・ハーマン「心的外傷と回復」。トラウマ(心的外傷)と孤立無援化、解離=その事件の記憶を統合できなくなること。外傷的事件は被害者に他人や社会との「感情的紐帯」を引き起こし、他者との関係のうちで維持されている自己というものの構造を粉砕する。そして、世界の安全性の基礎的前提を破壊する。世界に対する基本的信頼がなくなる。
 通常、幼児は肯定的な自己像のうえにイニシアチブを取る能力を発達させるが、それの発達が不十分だと、その人は罪悪感と劣等感を起こしやすい、とハーマンは言う。
 しかるに、外傷的事件は、被害者をこうした状態に陥れる。そのことから、被害者は、被害者自身が悪いのだという感覚をもってしまう。こうして「離断」が生じる。
 さらに、長期の反復性外傷は「監禁状態」という条件によって生じる、とハーマンは言う。
 長期の監禁状態において加害者は被害者に加害者を尊敬するように、また感謝や愛情を表明するように要求し続ける。
 参照されるべき事象として、従軍慰安婦の場合、オウム真理教の場合などがあげられているが、実際の分析には入っていない。自分で考えてみろ、ということだろう。
③現象学的暴力論
 現象学的暴力論だ。フッサールでは暴力論まで進まなかったが、ハイデガーで根源的な経験における暴力とでもいったものが露わにされた。ハイデガーの暴力論はアーレントやレヴィナス、デリダを引きつけた。
 しかし、ハイデガーの「ポレモス」論はナチスの人種優越主義を止めることができなかった。
 ハイデガーのナチス加担責任問題である。ロゴス的収集とポレモス的闘争。「生」は「戦争で生き残ること」の単語と同根だった。ハンナ・アーレントの「暴力について」や、レヴィナスのハイデガー批判h、ハイデガーを基礎にしながら、それを批判的に乗り越える試みだった。
▽今村仁司「暴力以前の力 暴力の根源」は読んだが、難しくて全くチンプンカンプンだった。残念だが。
▽鳶野克己「暴力の教育的擬態を超えて――教育学的暴力研究における人間学的展開のために」
 これは、学校などでの「暴力反対」教育が児童・生徒に効果を表さない原因を探求する試み。
 教育とは、そもそも「望ましい人間の望ましい生き方」に向けて子どもに働きかける営みだから、親や教師にとっては、それを目指し、実現すべき価値的目標となる。
 その価値的目標を目指す営みは、到達度を測られ、評価される。
 評価とはある事象を特定の視点から当該の評価対象として位置づけ、基準に即してランク付けする作業だから、子どもも親も教師も、教育し教育されることを通して自分たちのうちに到達された成果としての「望ましさ」の度合いに応じて位階が与えられる。
 与えられた位階の違いは価値的な優劣と上下の差を意味する。
 したがって、教育は「望ましさ」という価値的目標を実現するために、その到達度を絶えず向上させていくことを迫られ求められる営みとなる。
 「望ましい」は強制になる。それが「教育に固有な暴力性」だ、というのだ。ただ、これも普段は隠れていて見えないので、生徒にも[親にも教師にも気付かれにくい。だから、教育に暴力が内在しているという認識がなくなり、「学校から暴力を追放しよう」という空虚なキャンペーンが繰り返されるのだ、と分析している。
▽福原浩之「暴力とその癒し――インナーチャイルド・メソッドの観点から」
 これは面白かった。実践論である。滝に打たれ、瞑想して、と、その山伏のような生活がうらやましい。
▽竹山博英「組織犯罪と暴力」
 これは風変わりな研究。イタリア・シチリア島のマフィアの歴史の研究である。マフィアが暴力を目的にしているのか、お金なのか、とか。シカゴ・マフィアのルーツがどのように誕生したか、よく分かった。読みやすいし、勉強になって面白かった。
▽服部健二「暴力・審判・救済――ヘーゲル哲学を参考に」
 これは精神障害者の犯罪を裁くことができるか、など非常に現代的問題を罪刑法定主義の父フォイエルバッハ(ヘーゲル学派のフォイエルバッハの父)とヘーゲル本人の思想を対比させながら考えたものだ。
 罪刑法定主義はもともと、「罪を憎んで人を憎まず」で、人を罰するのではなく、あくまで行為を、しかも有責の行為のみを罰しようとした思想。
 昔、聾唖者とかが責任能力なしとされ、それが徐々に改正された。日本の刑法でも1995年(平成7年)には阻却対象から外された経緯があり、今日、統合失調症といわれる精神障害者もそれと同じ可能性がある、とする。
 「内面を裁くのではなく、行為を裁く」という近代刑法の基本思想をある意味徹底しながら、精神障害者の場合も、その行為によって分節している自己があるのだ、と考えることができるのではないか、と問題提起するのである。
 <精神障害者を法的世界の正当な住民と認め、憲法に保証された裁判を受ける権利を認めることによって、ヘーゲルが目指したように、法の正義の回復と彼らあるいは彼女らの自己回復の機会も与えられるといえよう。そうしてはじめて、近代刑法の大きな問題点の一つが乗り越えられるのではないだろうか。>
 この視点は私には新鮮だった。どうして、あまり話題にならないのだろう? もっと主張、論争されてしかるべきではないか、と思うのだが。
 2003年7月に成立した「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」で精神科医に再犯の恐れがあるかどうか、の管理的判断まで求められるのは問題だとしていた。
▽ウェルズ恵子「暴力的文化アイコンとしての『赤ずきん』物語」
 この本で、これが一番面白かった。
 相当に長い論文だが、何しろテーマが赤ずきんちゃんである。グリム童話が有名だが、ウェルズ氏はそれ以前の民間伝承まで遡るとともに、最近の庄司薫の「赤ずきんちゃん気をつけて」や米国の映画まで引っ張り出してきて、時代と「赤ずきんちゃん」の消費のされ方、性的な表象なのか、暴力との関係がどうなっているのか、などをきめ細かに分析していく。
 学術論文を読んでいて「わくわくドキドキ」はほめ言葉ではないだろうが、まさに「わくわく」する論文。一般の単行本になっても、売れるのではないか。
 読んでいて、森鴎外「山椒大夫」を思い出してしまった。
 安寿と厨子王の物語だ。
 ハッピーエンドではない。母と安寿の悲劇があり、その対極としての厨子王の出世話がある。
 底流のテーマは権力と悪とセックスである。子供向けではセックスは隠されるのだが、子どもは心の中に疑問を持ち続け、大人の性への架け橋にもなりうる物語だ、と思っていたのだが、ウェルズ氏的に言えば、この物語も時代の中で改編されてきたのかもしれない。
 男性中心社会の成立とか、関係あるのだろうなあ。それに、山椒大夫とその仲間の「山賊」という職業も、後世に抽象化されただけで、当時は「山賊」だって、いいところをたくさん持っていたから、生き残れたのだろうし、とまあ、この論文はいろいろな連想を膨らまさせてもくれる。お薦めの論文である。
▽最後の三つの論文は難しいので、除外させてもらう。
 戦争からいじめまであらゆる「暴力」の学際的研究をまだ続けているそうだ。
 地味な研究だが、今や「戦争とは何か」「平和とは何か」「テロとは何か」「反テロ国際協力とは何か」が問われる時代である。本にあるとおり、人間と暴力が切っても切り離せないことが分かった、という。それが分かれば、分かるほど、その暴力をどうコントロールするか、が問われるのだから。貴重な研究をもっともっと続けてほしい。

|

« ひまつぶし…数字ナゾナゾ~何年か後に役に立つ(かもしれない)ミニ知識 | トップページ | 北京五輪をどう報じたか~各紙コラムや総括記事+毎日新聞の鹿島茂氏のコラム »

思想・哲学」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

書評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1078516/23510523

この記事へのトラックバック一覧です: 書評 谷徹、今村仁司、マーティン・ジェイほか著「暴力と人間存在」(筑摩書房)~「暴力的文化アイコンとしての『赤ずきん』物語」など収録:

« ひまつぶし…数字ナゾナゾ~何年か後に役に立つ(かもしれない)ミニ知識 | トップページ | 北京五輪をどう報じたか~各紙コラムや総括記事+毎日新聞の鹿島茂氏のコラム »