昔の本である。1998年10月20日第1刷発行、定価660円+税で693円。手元の本は1999年3月20日第11刷発行だった。当時は「マネー敗戦」が流行語になるほどよく売れた本だったが、吉川さんが亡くなったこともあって、今では古書店の100円均一に並んでいる。
亡くなる前にはアメリカ陰謀論に加担しているのか、と思うくらいアメリカの影の力を大きく見ていた吉川さんだが、この本は非常に実証的な論理展開で、まともである。
問題意識は一貫している。
日本は世界の中心的債権国になったのに、大蔵省の役人と銀行が既得権益死守のため、円建て経済圏の拡大に踏み切らず、アメリカにその弱点を突かれて、国民の汗と涙の集積であるドル建て在米債権が減価して、国民の財産が半分以下に減ってしまった。この構造はまだ続いており、このままでは日本は「金融敗北」を繰り返すしかなくなっている、という結論である。
一読、その通り、と思うのだが、もう少し、この論点について説明しておこう。
世界史を紐解けば、世界には工業化による豊富な経常収支の黒字を対外投資に振り向け、世界の資本移動の中心軸になった国々があった。時代順にイギリス、アメリカ、日本。この3国は歴史上の「中心的債権国」または「中心的資本輸出国」といえる、と吉川さんは言う。
◆パクス・ブリタニカのもとでの「ビクトリア循環」は海運収入に支えられていた
19世紀半ばに産業革命をほぼ完成した頃のイギリスはその圧倒的な経済力にもかかわらず貿易収支は終始赤字だった。
イギリスの貿易構造はインドなどの植民地向けが輸出の3割近くを占め、また三角貿易などの複雑な仕組みもあったけれども、結局のところ再輸出を加えても製品輸出総額は輸入額の8割程度にすぎなかった。
これは製造業の競争力に早くも黄信号が点り始めていたことを示しているが、マネー循環の立場から見れば、この赤字はイギリスが自国通貨のポンドを基軸通貨として国際的に散布するチャネルが満足に機能していた証しでもあった。
イギリスの貿易赤字は20世紀に入ってからも続いたが、その間、経常収支ベースでは常に黒字であり、しかもその黒字幅は拡大基調にあった。
それは、世界の商船隊の約3分の1を擁する大海運国として海運収入によって貿易赤字を生め、経常黒字を維持していた。
しかも、この経常黒字はさらに海外への投資に向かい、その利子収入がもともと大きかった海運収入に加わり、経常収支の黒字を一層引き上げた。
海外投資→利子収入による経常収支黒字増→海外投資という循環の中で、19世紀後半には黒字の雪だるま式増大の家庭が明確に見て取れるようになった。
◆イギリスの海外投資の隆盛の原因は内外金利差
資本循環の面で「大西洋経済」を成立させていたイギリスの海外投資が隆盛を極めた原因は内外金利差だった。
当時、アメリカ国債の長期金利はイギリスより高かった。これは海を隔てた国への投資がはらむ心理的リスク、債務不履行リスクを埋め合わせるためだったが、イギリスは「周辺部」の植民地をフルに利用して、リスクを軽減。
基軸通貨ポンドを国際的に散布しては回収した。シティー(ロンドン金融市場)の中でもポンドの守護神であるイングランド銀行などが「世界の銀行」の一大インフラとして機能した。
覇権国家の経済力はもっとも端的には国際マネー循環に現れる。世界経済をリードするマネー循環を形成し、その中心軸に位置できるか否か、そうした存在になるためには対外純資産を擁し、それを背景に自国通貨を基軸通貨として世界に信認させる必要がある。そうしてはじめてマネーはパワー性を発揮する。その意味でパクス・ブリタニカは極めて安定した基盤の上に成立していたし、世界派遣の一つの「理念型」を示している。これがイギリスの「ビクトリア循環」だ。(以上は本文のP14~18)
◆国際収支発展段階説
19世紀末から国際経済学などで展開されてきた学説である。大債権国の対外(経常)収支や資本輸出はあるパターンをたどって進展する、という内容だ。
どのような発展段階なのか?
外国資本の流入で工業化を推進していた経常赤字国は経常収支の黒字化とともに債務の返済を始め、いずれ返済し終えると未成熟の債権国になる。
やがて年を追うごとに増加する経常黒字がそのまま資本輸出に結びつき、やがては成熟債権国の段階に至る。
しかし、成熟期は永遠には続かず、ピークを過ぎるとその後は経常収支の赤字化などによって債権を取り崩すようになる。
債権が取り崩され、成熟債権国の看板を下ろした後は、おそらくは債権小国として生き残る道が想定されている、という段階を踏む考え方である。いろいろとバリエーションがあるらしいが、以上はその共通項だ、という。
イギリスはこの「発展段階説」のモデルとなったもので、「ビクトリア循環」は成熟段階に至った後、第一次世界大戦をきっかけに変調をきたす、という。
◆第一次大戦はイギリスとドイツの金融覇権を争った戦争でもあった
イギリスは新興工業国・ドイツと対決する連合国側の盟主として戦費を調達するためにアメリカなどから借り入れを行う一方、自らの購入してきた米国債や連合国側の保有する大量の債券類をニューヨーク市場などで売却した。
さしもの対外資産も相当の侵食を余儀なくされ、イギリスの大債権国としての基盤を揺るがしたが、これに拍車をかけたのが1929年ウォール街の大暴落を契機とする世界恐慌であり、それに続く1930年代の世界経済の混乱だった。
イギリスの中心的債権国としての地位は後退し、資本輸出の中心はアメリカに移る。
こうして第二次世界大戦後はパクス・アメリカーナが確立する。
それでも投資収益などの寄与によるイギリスの経常収支の黒字は驚くべきことに1986年まで崩れなかった。
90年代に入って経常赤字国に転じることはあっても、債務の累計が長期にわたって資産残高を越えることはなく、イギリスは日本、ドイツに次ぐ世界第3位の純資産国(対外投資残高が債務残高を上回っている国)として踏みとどまっている。
いかに19世紀からの対外投資が手厚かったかを物語るものだ。
◆パクス・アメリカーナの確立
一方、鉄道建設などに主としてイギリスから大量の資本を導入していたアメリカは第一次世界大戦前には世界最大の工業国の地位を占め、大戦を契機に債権国、資本輸出国に変貌をとげていた。
第一次世界大戦の圏外にあったことが幸いして、工業力を無傷のまま維持できたため、戦中から輸出を急増させ、ありあまる外貨で負債の償還や直接投資を行えた。
1918年にはGNPの8%近い対外純資産を持つ。1930年には海外投資残高がイギリスとほぼ肩を並べ、その後は瞬く間に差を広げて「中心的資本輸出国」の座についた。
◆ケインズを破ったホワイ→ブレトンウッズ体制=金ドル本位制
戦後のマネー秩序を決定するブレトンウッズ会議でイギリスは新たに国際決済同盟とその通貨単位である「バンコール」創設を打ち出すケインズ案を提案しドルの浮上を抑えようとしたが、アメリカはウォール街の利益を反映させ、基軸通貨ドルを前提にIMF(国際通貨基金)をアメリカの分身として生み出そうというホワイト案を打ち出し、イギリスとアメリカの戦いはアメリカの勝利に終わった。
ただ、この時にはドルは中央銀行間では金とのリンクを維持するものとされ、これによって将来のドルの暴走に歯止めがかかるものとして了承された。
金ドル本位制と呼ばれる変則的な金本位制を採用したのだが、フランスのドゴール大統領はフランスの保有するドルを一挙に金と交換するようアメリカに求めたことがある。
アメリカに対するドゴールの嫌がらせで、アメリカは応じざるを得なかったが、これでアメリカの金保有の底が見えたとも言われている。
◆マーシャル・プランやアメリカの自由貿易主義選択は世界へのドルバラマキの道具
すぐに基軸通貨交代が実現するわけではなかったが、アメリカはヨーロッパ復興援助のために130億㌦にのぼるマーシャル・プランを実施。ドル建てで行われたため、ドルがポンドを押しのけてヨーロッパに浸透するために活用された。
パクス・ブリタニカの自由貿易体制の時代にアメリカは後発工業国家として19世紀以来、その巨大な市場を常に高率関税などで保護してきたが、この伝統的政策を転換し、国内市場の開放に踏み切った。
第二次世界大戦後に成立するガット体制にアメリカの果たした役割は大きいが、アメリカは自由貿易主義を選択し、自ら求めて輸入増を志向したのは、ドルを海外に散布し、国際的なドル支配を打ち立てるためのコストでもあった。
◆60年代は資本輸出国アメリカの絶頂期:ヨーロッパでの反米感情
やがて各国で戦後復興が進むとアメリカの次の戦略はドルによる対外投資だった。
アメリカは60年代には資本輸出国として絶頂期を迎える。その中軸は直接投資。化学、石油、自動車などの生産、販売拠点をヨーロッパに移動させた。
当時のヨーロッパ人に「アメリカの挑戦」(セルバン・シュレベール)と映り、少なからぬ脅威感を抱かせた。
◆スエズ運河派兵めぐり「英国債を売却するぞ」と脅したアメリカ
対外債権が一定の政治力を生むことをアメリカはよく知っていた。
1956年、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化宣言にイギリスはフランス、イスラエルとともに、スエズ出兵、軍事干渉をしたが、アメリカは干渉に強硬に反対し、イギリスが応じなければ保有する英国債を売却する、と警告、英国は引き下がった。
(これを読んで思い出したのは、アメリカが北朝鮮を金融鎖国したときの北朝鮮のあわてぶりだった。金融は国家安全保障上の有力な手段だ、とアメリカでは認識されているというが、中国やロシアもこの間の北朝鮮金融騒動を見れば、金融の安全保障上の重要性は認識したと思う。そこに気付かないのは残念ながら日本だけなのだろう)
◆戦後初めて貿易赤字になった1971年
しかし、債券大国アメリカの覇権も長くは続かなかった。
60年代に入ると、早くもアメリカからの資本流出が逆にドル不安を招く現象も発生。
ケネディ大統領がドル防衛策を打ち出す。
60年代後半にかけてはアメリカの貿易収支が黒字幅を狭め、1971年には戦後初めて貿易赤字を記録した。
◆1971年8月の「ニクソン・ショック」→短期間のスミソニアン体制→変動相場制へ
1971年8月、ニクソン大統領は「新経済対策」を発表した。
金・ドルの交換停止がメーンで、これ以後、ドルは金の束縛から逃れ、その価値の変動が世界経済を混乱させる独特の基軸通貨となった。
世界経済は大混乱に陥った。ニクソン・ショックである。
日本はフランスと違って保有ドルの金との交換を手控えていたのでダメージも大きかった。
ドルが金という価値基準の裏付けを失ったため、スミソニアン体制という固定相場制への試みがわずかな期間で挫折すると、世界の通貨はたちまち変動相場制に移行した。
◆1980年代日本の失敗はドルの不安定さを認識しなかったこと
ドルはもはや制度上は特別の通貨ではなかった。
ただ、ドルに代わる基軸通貨が誕生することもなかったので、その後もいわば不安定な国債通貨として相対的な信認を受け続けたのだが、そのドルに対してあたかも金ドル本位制が健在であるかのように付き合ってしまったのが1980年代の「円」であった。
もっとも、70年代はドルの価値の不安定さが露呈することなく過ぎていった。
1973年には石油危機が世界を襲ったが、アメリカは石油消費量の半分を国産でまかない、産油国通貨だからドルは強い、と外国為替市場はアメリカ経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)よりもそのことを評価した。
また、ドルは「有事に強い」通貨としても評価され、相対的に上昇さえ見せた。
ところがドル相場が安定していたのは1976年までで、70年代後半にはアメリカの経常収支の趨勢的な悪化が顕在化し、政府当局者の口先介入を契機にドルはたちまち下がり始める。
その間、アメリカはついにベトナムで建国以来初めて敗戦を体験。
79年にはイラン革命が発生し、これが第二次石油ショックとなって国際経済を揺るがすが、特にアメリカにとっては在イラン大使館人質事件という悪夢と重なり、政治的威信を傷つけることになった。
さらにソ連によるアフガン侵攻でアメリカは冷戦下における西側の盟主としての政治的対応も迫られた。
金ドル本位制放棄に始まる70年代は基軸通貨ドルにとっても波乱の10年間だったが、アメリカは政治的にもパクス・アメリカーナの維持再編に汲々としていた。
◆レーガノミックスの登場
こうした背景の下、「強いアメリカ」を掲げる共和党のロナルド・レーガンが80年代の大統領として選ばれた。アメリカのマネー経済はレーガン政権の下、急激な変貌を遂げた。
アメリカの経常収支は83年から赤字の拡大が目立ち、これを埋めるため、海外からの投資がさかんに行われ、資本の純輸入国になった。
一般に経常赤字の国は赤字を埋めるための資本の流入を必要とする。
それは直接投資を含めて広い意味での負債を増加させる。
フローの受入超過が続くとストック面でも対外純資産、つまり「貯金」がその分だけ減る。これが続くといずれは「貯金」を使い果たし、その後は対外純債務だけが累積する。
アメリカの対外純資産が規模として最大になったのは1981年の1400億㌦だった。
その後、経常赤字の拡大が続き、84年には早くもほぼ「貯金」がゼロになり、その後は経常赤字を埋める資本流入がそのまま純債務として積み上げられ、世界最大の債務国が出現した。
「国際収支の発展段階説」とあまりに異なっていっため、世界は当惑した。
また、アメリカが必要とする資本輸入の規模の大きさにも世界は当惑した。
経常赤字は86、87年には対GNP比で3%以上になった。
世界最大の経済規模を持つ国がかくも大規模な資本輸入を必要とし、しかもなおドルが基軸通貨然として世界に流通している姿は世界経済にとって未体験ゾーンだった。
アメリカの「中心的債権国時代」はせいぜい60年程度と、イギリスに比べればはるかに短かった。
これは一つには対外純資産の厚みがかつてのイギリスに比べると意外に薄かったことにもよる。
純資産額が世界最大だった81年でも対GNP比では4.6%にすぎず、経常収支の変化に対して脆弱な面があった。
アメリカの経常収支は80年代初めまでは過去の直接投資の果実である利子・配当などの投資収益が貿易収支の赤字をカバーする形になっていたが、その投資収益も貿易収支の急激な悪化には勝てなかった。
対日貿易赤字がその主たる原因としてクローズアップされた。(以上はP19~P32)
◆80年代「中心的資本輸出国」は日本だったが、基軸通貨は円でなくドルという異常さ
アメリカは日本に対しては資本の輸入国であったが、中南米などに対しては資本輸出国として振る舞った。
この奇妙な基軸通貨・ドルの流れをあるエコノミストは「帝国循環」と皮肉を込めて名付けた。本当の「帝国循環」はビクトリア循環である。
1980年代の「中心的資本輸出国」はアメリカでもドイツでもなく、資本輸出国として70年代後半から急速に頭角を現した日本だった。
もっとも、アメリカは日本から得た資金の一部を他国に散布しているので、日米を一国と考えればアメリカは引き続き中心的資本輸出国といえるのかもしれない。この着眼には、たいへん深い意味が含まれている。
(この部分は非常に示唆的だ。日本がアメリカの州である、とか、植民地である、という主張=アメリカ陰謀論=に限りなく近づく主張になるからだろう、この本では吉川氏は深くは触れようとはしていない。)
ビクトリア時代の基軸通貨はポンドイギリスは海外債券への投資をポンド建てで行い、その果実もポンドという自国通貨で得た。
アメリカの中心的資本輸出国時代もやはり基軸通貨・ドルが資本循環の主役だった。
ただ、80年代に始まる日本の中心的債権国時代のみ円建てではなく、主としてドル建てで行われている。
歴史的に見て、これは異常な現象だ。
ポイントはレーガン政権以降のアメリカのマネー戦略だった。
それに日本がどのように対応し、その結果、無残な結末を迎えるに至ったか、が問題だ。(P33~34)
……以上、「序にかえて」と「第1章」の要約である。
吉川氏がこの本で何を言おうとしているか、が大体書いてあるので、丁寧に写してみた。
この歴史の概略を見ただけでも、日本の「円」が不当に貶められていたことが分かる。
第2章以下は要点筆記するが、そこにはもっと具体的にクリントン政権のカンターUSTR代表とか、日本嫌いの人々がいかに無茶苦茶なことを言っていたか、が出てくる。
ポイントだけを要点書き出しするが、醍醐味を味わうには吉川氏の本を読んでいただくしかない。
◎第2章「日米共同幻想 1980~1985」
レーガン政権前期のドル高は日本発だった。ジャパン・マネーが集中的にドル買いに走った結果だった。(P39)
世界経済のシンボル経済化(P40)
為替取引における実需原則(P41)
ディーリングにおける為替取引、投機的売買(P42)
「マネー敗戦」の端緒、日本側の誤った一歩は80年代、対米貿易を中心として手にした膨大な貿易黒字、経常黒字でドルを買い支え、為替レートを捻じ曲げたこと(P43)。
日本からアメリカへの資本流入はカーター時代の70年代末~80年代初頭の日米金利差に引かれて始まった。(P44)
レーガン政権は双子の赤字で中長期の国債発行を急増させる→日本の生保など機関投資家が購入した。ジャパンマネーは全体の3~4割を占めた(P44)。
1977年1月の欧州通貨制度(EMS)発足で西ドイツのアメリカ離れ。80年代初頭の高金利政策は西独から日本へアメリカ経済の支え役の交代の為に仕掛けられたというロバート・ギルビン・プリンストン大学教授(「国際関係の政治経済学」)の説も(P46)。
ロン・ヤスの経済はズグニュー・ブレジンスキー「アメリッポン」説。(P49)
80年代前半は「中心的債権国の交代」現象で戦後国際経済史に特筆されるべき5年間だった。日米が冷戦の占有という共同幻想でスムーズに交代が進行した。(P50)
◎第3章「国際政策協調の病理 1985~1990」
邦銀は国内でカネをかき集め、短期ドル買い→6、7年ものの米国債を買うことで、利ざやを稼いだ。1984~の異常なドル高の背景。95年、不良債権に苦しむ邦銀は短期ドル買いに高金利を課された(ジャパン・プレミアム)…米欧の金融機関は返済期限の差を利用して利鞘を稼いでいた邦銀の弱点を狙った(P54)。
稼いだ貿易黒字を米国に還流させ、米国はそのカネで好況を維持して日本の製品を買う→日本は自分のカネで自分の製品を買い、それを米国人に使わせた上に貿易黒字と呼んでいたようなものだ(P56)。
1984年11月レーガン再選。1985年2月、資本市場重視派のリーガンから通商派のジェームズ・ベーカーに財務長官が交代。ベーカーはレーガノミックスを否定し、為替相場への協調介入をセットする。1985年9月プラザ合意で急速な円高。1987年2月、G7のルーブル合意(直前に1㌦=150円)。それまではベーカーやフレッド・バーグステン国際経済研究所長ら専門家の度重なるトークダウン(口先下げ介入)でドルが下がった。(P60)
ポール・クルーグマン「貿易におけるヒステリシス」の仮説(P63)。クルーグマンとW・グリーンの「マサチューセッツ・アベニュー・モデル(MAモデル)」→クリントン政権の「円高カード」(思い切ったドル安による輸出攻勢)(P64)。
プラザ合意で生じた日本の対外純資産の為替差損は約3.5兆円。(P70)
日本からの巨額の対米投資がドル建てで行われていた(P71)。
プラザ合意は対米徳政令。アメリカという債務者に元利払いの軽減を許した。ドル安誘導で①日本保有のドル資産の価値を殺ぎ②モノ経済面では米国輸出産業の競争力を増大させる→基軸通貨ドルの魔術(P72)。
非ドル通貨国はできる限り自国通貨で対外経済関係を結ぶしか有効策はない。プラザ合意ではドル安への介入に最も協力的だったのは日本で「2割まではOK」と竹下蔵相は渋るドイツを後目に大見得を切ったと伝えられる。竹下氏は甘かった(P73)。
プラザ合意後も機関投資家のジャパンマネーが米国に流れたわけは?(P74)
86年2月の日米独協調利下げは一方的なアメリカの要請によるもので、ドルの悲惨な暴落を避けるための資金流入の手当て策。この時、FRB内で宮廷クーデターあり。(スーザン・ストレンジ「カジノ資本主義」岩波書店)。(P76)
87年→89年5月まで2.5%という超低金利を続けたためバブルを呼び込んだ。円高不況は87年には回復、日本経済はプラザ合意以前の5%成長を取り戻していたのに。(P77)
「大蔵省(MOF)はブッシュの選挙事務所」といわれた。プラザ合意後ドルはつるべ落としに下落し続け、87年にはブラック・マンデーというNY株式市場の暴落があり、ドルは一時120円まで下がったのに、日本の機関投資家がドル債券を買い続けた理由は大蔵省の行政指導。レーガンからブッシュへの共和党政権継続の成否をかけた大統領選間近な1988年3月、アメリカの債券市場は日本の機関投資家が年度明けにドル債を売りに出るのではないか、との噂で持ちきりだった。大蔵当局は債券市場の動揺を抑えようと日本の生命保険会社に「4月になっても債券を売るつもりがない」と声明を出すよう求めた。この声明を市場が信用していないと知ると、大蔵省の担当者が自ら市場関係者を回って声明の背後には大蔵省がいる、と強調した。さらに日銀は「保有する外貨準備の9割はドルで運用している」ことを公表し、市場の安定に努めた。9割といえばカナダの運用状況に匹敵する。(P80)
バブル経済の発生…機関投資家にとってバブルの膨大な含み益は為替差損への隠れた緩衝装置(バッファ)だった。→88年7月のBIS規制の網にかからない生命保険会社(相互会社であり、株式会社ほどの規制を受けない)を使って、大蔵省が共和党のために工作した。(P82)
1987年10月19日のブラック・マンデーと裁定取引。(P88とP121)
ドル暴落、NY市場暴落を防ごうとした大蔵省の獅子奮迅の働き。①4大証券に東証を買い支えさせる②特金、ファントラにまで株を買わせる→「ドルを支える他に独自のマネー戦略を持たない日本」の姿を露呈した(P90)。
60年代後半には米ドルの強力なサポーターだったドイツは70年代末にはアメリカ離れしていた→日本の突出振りがいやでも目に付く(P91)。
NYのロックフェラーセンター買収「アメリカ人の魂を買った」との批判(P94)。
88年7月G10決定のBIS規制(国際業務銀行の自己資本比率を8%以上とする)は日本の銀行の伸張を抑えようとしたアメリカの意図による。なぜ8%か。アメリカの銀行にはたやすくクリアでき、邦銀には難しい数字だった。他に合理的根拠はなかった。日本は銀行保有の株の45%を含み益として自己資本に算入することで妥協したが、ドイツは含み益の自己資本化を拒否。日本は当座はよかったが、バブル崩壊後に苦労する。BIS後、邦銀は国際融資に慎重になる。世界の円建て融資はゼロに近くなる。(P95)
80年代の実体経済面での日米貿易戦争。裏では資本輸出国日本が為替リスクを負担するという奇妙な構造が莫大な為替差損を生み、日本経済を弱らせていた。マルク、ポンド、金などへとリスク分散をしなかった罪。(P99)
◎第4章「日米再逆転 1990~1995」
17世紀オランダのチューリップ投機(P102)
バブル経済を86年の「前川レポート」が打ち出した「内需主導型経済への転換」だと称賛したのが当時の主流的論調だった(P103)。
エクイティ・ファイナンス(株の時価発行増資)など(P105)
アメリカは日本の高株価のカギが①株式持合い(配当収入に関心のない株主の増加)②エクイティ・ファイナンスで利回り採算の悪さ、キャピタルゲイン増、株価上昇見込みという原因だと考え、この原因潰しをはかってきた。(P106)
株式市場の水準を示す指標…日経平均は値動きが激しい。TOPIXは対象銘柄の株式総数まで考慮に入れるので、より実態に近い(P108)。
1989年ジェームズ・ファローズ「日本封じ込め」。1989年秋、日米構造協議(SII)スタート(P111)。
アメリカのメッセージ「日本の高株価を望んでいない」+アメリカは「土地戦略ノート」を用意していた(P114)。
バブル経済の教訓…日本はマネー経済の成熟に失敗し、個人から企業への富の移動。国民除外。銀行は融資を地価の7~8割にとどめておけばよかった。調整はピークから2~3割下の水準が限界だったのに、やりすぎた。三重野氏は89年春の超低金利修正、89年10月、90年2月、8月と連続して公定歩合を上げて公定歩合を6%としたが、余りにも急ぎすぎた。90年4月には大蔵省が金融機関の総量規制を実施した。(P118)
アメリカは政府部門の赤字増大による経常黒字縮小を狙った。日本は10年間で430兆円の公共事業を対米公約した。財政破綻の一つの原因。アメリカがSIIでバブル潰しを狙ったとしたら、それ自体は成功した。大蔵当局にはアメリカの態度はショックだったか? バブル崩壊の米証券仕掛け人説=米国が日本に無理やり許諾させた裁定取引をフルに使い、日本にまだ禁止規定がないことをいいことに、狙いすましてやった、という説はもっともらしい。ウォール街基準がここでも生きている。(P115とP121とP122)
1991年湾岸戦争戦費のカラクリ。540億㌦の湾岸戦争戦費の国際支援が経常赤字をほとんど消してしまった。対イラク戦争で米軍が使用した武器弾薬類は、大部分がすでに予算処理されており、実際に経費として支出されたのは100億㌦以下だと推定されており、アメリカは国際的な政治力で500億㌦近い海外からの資金流入を確保した。(P126)
クリントン政権の円高誘導戦略…フレッド・バーグステン「日本には自分の鍋で自分を煮させる」。93年4月の日米首脳会談でクリントンは「日本の黒字削減には円高が有効」と。ベンツェン財務長官「日本の黒字が世界の成長を阻害する」。→94年2月の日米包括協議決裂、クリントン大統領は「貿易戦争」を宣言。4月末にはカンターUSTR代表の強硬発言で円高→ドル全面安になり、アメリカはあわてた。(P128)
バブル崩壊+円高で日本経済に大打撃(P130)。
対米貿易黒字の内訳、勝ち組はハイテク産業だけだった。包括協議、日米貿易戦争、CIAの盗聴事件、自動車産業の米現地生産化。日本のモノづくり産業が受けたダメージは深刻だった(P134)。
アメリカ産業にとってドル安は見えない補助金だった(P140)。
財政健全化はレーガノミックスが10年後に生んだ成果ではなく、ドル安による「補助金」をアメリカが活用した結果だった(P142)。
日銀の円売りドル買い介入でたまったドルで米国債を買い、米国民の財は株式市場に回すことができたため、米国の株式市場が活況を帯びた(P143)。
平成大不況の原因の一つは不良債権問題だが、米国の円高誘導が及ぼした直接的影響はものすごく大きい。日本の高コスト構造が平成不況を生んだのではなく、円高デフレが大不況の原因だったことは購買力平価の比較で一目瞭然だ。円高ドル安の為替変動は日米間の所得の実質的移動を意味するP145)。
日本の大不況時の財政出動効果なし、はケインズ政策の限界ではなく、手法が間違っていたため。ケインズは通貨の過大評価(過度の円高)がもたらす不況に対しては、まったく別の処方策を提示したであろう。(P148)
日米構造協議による長期公共投資拡大公約は公共工事にかかわる政官業の利益集団のパワーを強化した。円の過大評価は日本の「土建国家」化を促した。(P151)
日本は早い時期に円建ての投資環境を整備するべきだった。円建ての帝米と牛が多ければ、いたずらに米国が円高にする政策は取れなかったはずだ。(P152)
◎第5章「マネー敗戦 アジアへ 1995~」
95年1月に金融市場に冷たいロイド・ベンツェンからウォール街出身のロバート・ルービンに財務長官が交代した。95年4月のG7「相場の変動を秩序ある形で反転させることが望ましい」声明→95年8月に榊原・サマーズで大規模介入。1=100円を回復、97年には120円を超えた。ルービン=グリーンスパン関係も重要。95年、10年ぶりに円高の時代が終わった(P157)。
橋本デフレ。90年代後半の平成不況第2幕。16兆円の公共投資(景気対策)に市場は反応せず。95年9月~約3年間0.5%の公定歩合を続けた。年間約10兆円の金利所得が消えた。異常な低金利で国内資本が外国資産に向かった。再びアメリカの資本循環に組み込まれた日本。新「帝国循環」の時代。(P159)
97年のアジア危機は米国に流入した資金の余剰分がアジアに還流したもの(P166)
過度な円高(購買力平価に対して乖離が大きすぎる客観的基準で「過度」と見る)(P167)
いままで投機資金が悪さをしていたヨーロッパ市場が統合され、悪さができなくなり、アジア市場が投機資金に狙われやすくなった(P171)。
ルービンはタイ政府の通貨防衛策に反対し、ヘッジ・ファンドの味方をした(P172)。
コロンビア大学のジャグディッシュ・バグワディ教授は「かつての軍産複合体ではなく、いまや財務省・ウォール街複合体が国際金融を取り仕切っている」と。(P173)
1980年代のマハティールの東アジア経済協力体構想(EAEC)、ベーカー国務長官が宮沢首相に圧力をかけて断念させた。「EAECは太平洋を分断する。APECこそが双方の利益にかなう」と。(P174)
日本の金融政策当局の不作為の罪(P178)
◎第6章 「鎖国の代償」
1997年春の日産生命破綻の意味。一連の金融機関破綻と違い、円高により、持っていた米国債などが減価して破綻した。大蔵省の罪。大蔵省が負うべき責任は重い。(P180)
大蔵省は金融業界への影響力を失うことをおそれ、銀行は既得権益を失うことを恐れ、「ドルの世界」をそのまま受け入れ続けることを選択した。これが日本の苦渋の原因だった(P184)。
格付け機関の未発達(P192)
ジャパンマネーの過度の対米還流を生み出したもの①日本の対米特殊ポジション②日本独自の経済社会制度(P194)
◆問題は2010年の米国債償還だ
昔の本だが、最後の<終わりに キリギリスの「ニュー・エコノミー」>で吉川氏は
「2010年には、奇しくも日本が80年代初めに大量購入したアメリカ国債(最長期・30年もの)が償還期を迎える。償還を受けて手にしたドルは、さて今度はどのような投資に振り向けられるだろうか。『償還』ではなく、大部分がドル債の単なる『乗り換え』になってしまっては、日本はドルの鎖の中に国富が流出する構造から永遠に抜けられないだろう。そうならないように、と願って筆者はこの一冊をまとめた」
と書いてあった。問題は2010年なのである。まだ間に合うではないか。ちょうど10年前に書かれた本なのに、<死せる吉川、生ける財務省を動かす>となるかどうか?
今の国際金融危機を理解するのに役立った気がした。読み直して良かった。
自民党政権ではこのような大胆な金融政策の大転換は無理だろう。
政権交代するしかないのだが、小沢民主党は財務相に擬せられる榊原英資氏を中心にどのような戦略を描いているのか?
乞うご期待、では済まされない、喫緊の課題である。
できれば、総選挙の争点としてアジェンダ・セッティングすべきなのではないか、と思う。
しかし、アメリカはこの問題を表面化させたメディアにも意地悪するのだろうなあ、と想像する。まして、当落が分かれる政治家に公約させることは期待できないだろう。
反米的な政策を訴えて政権を取ると、その後の政権運営をアメリカに邪魔されるということもある。
アメリカは気に食わない日本の政権を引き摺り下ろす、という噂もある。
田中角栄の資源外交に腹を立てて、ロッキード事件で失脚させたというまことしやかな噂を信じる永田町関係者は今でもいる。
細川護煕首相は日米首脳会談で「NO」と言った首相だったが、短命に終わった。
まあ、最後の部分は与太話だが、金融危機の現象面だけに気を取られずに、もう少しロングスパンで見る努力をしてみよう。そうすると、違う風景が見えることもあるから。
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