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2008年11月19日 (水)

宗教と「死生観」、団塊の世代と全共闘運動etc.…各紙の文化面などから

◆四谷怪談、イザナギ、イザナミ神話…生と死について

 東京新聞夕刊連載企画[生きる 心のページ]は地味だが、中高年にそれなりの固定読者を持っているのではないか? と推察させる記事である。最近の記事を見てみよう。

 8月26日、9月2日で上下で連載した[想像する死と無常]は㊤が<死後の救いを願わぬ現代人/生者の都合だけで完結>。㊦は<冷徹に生を洞察する眼差し/「私」見失った今こそ必要>。

 筆者は廣澤隆之・大正大学人間学部仏教学科教授、智山伝法院院長、八王子市・真言宗智山派浄福寺住職。1946年東京都生まれ。専門分野はインド大乗仏教教理学。著書に「図解雑学・仏教」(ナツメ社)や難しい名前の本がたくさんある。そうかぁ、この間、友人の父親の通夜で行ったお寺の住職さんだ。この人がお経を詠んでいた。

 内容は難しかった。約めて言えば、最近は身近な人が死ぬと甘く美しい思い出の世界に行き続ける、という考えが一般的になっているのだが、これは生きている「私」の都合を優先させ過ぎていないか? と問い、

 <生きるために不都合なものを抱え込み、死者との不条理な関係を生きることが見失われているのが現代の文化の特徴かもしれない。>

 と言うのだ。「千の風になって」の歌詞への批判である。

 <かつては、おどろおどろしい闇の世界から死者が私たちに語りかけてくることが想像されていた。それは数多くの謡曲でも、あるいは卑近な幽霊譚にも見られる。死者の世界を想像することは、生きている自分の根本を問いただすものであった。たとえば四谷怪談では自分の都合で身勝手な生活をする伊右衛門に貞淑な妻であった岩が復讐するのであるが、それは勧善懲悪的な道徳律であると同時に、死者との共存が見失われた生者の生存が危機的になるという宗教性を含みもっていた。>

 <死者の世界は生者によって身勝手に想像されるのではなく、深いところで生き方を支える死者と生者の共存が私たちの文化を伝統的に基礎づけていたのではあるまいか。私たちはそのことを凝視することなく、むしろ死を直視する文化を捨て、生きる者の都合のみで完結する消費文明を極端にまで推し進めてしまっている。しかも近代の文明は死の管理を徹底し、もはや死体を直視することもなく私たちは死を想像する。>

 として、清潔な病院での死、清められた身体、数日後に死体を火葬し、もはや死体を直視することがない現代では、

 <死が嫌悪すべき醜悪な様相をもって私たちに迫らなくなっているからこそ、私たちは死者との交わりを稀薄にしているのではないかと考えられる。>

 という。ここまでくると、イザナギ、イザナミを連想するだろう。著者はその話題に入る。

 <かつて人は死をまざまざと見なければならなかった。死体は硬直し、次第に腐爛し、むきだしの骨となる。このような死体を見た者は、けっして死者の世界を甘美なものとだけ想像することはできない。それはイザナギノミコトが黄泉の国に死んだ妻を訪うという神話にも見られる。かつて情愛で結ばれた甘美な思い出の中の死者への感情と、他方では現実の醜悪な死を忌避する感情、この背反する感情が同居するにしても、そこに生きる「私」を見つめることを神話は記述しない。死者を直視する「私」が生きることの意味を問う文化は、日本に仏教的無常観が伝えられて著しく展開する。>

 仏教の「無常観」を体得するために、釈迦は修行者に死体置き場で死体を直視するよう教えたのだという。そして、林の中で瞑想し、死体を思い浮かべるのだ、という。死体が硬直し、次第に斑点が浮かび、腐爛し、ついには犬やカラスなどによって死肉が食われて骨が散乱する。この過程をまざまざと直視し、林の中の瞑想でそれをありありと思い浮かべるのだ、という。次に自分の死体が同じように骨となって散乱するまでを思い浮かべる。そのようにして無常な身体への執着を離れるとき、修行者は真に無常を体得し、生きるためにかき立てられた欲望を抑制することができるようになる、というのだ。

 このような瞑想を「不浄観」といい、「無常観」の一つだそうだ。

 <きびしい実践による人間の生死への洞察が無常観なのである。このような洞察を抜きにして無常は知られない。このことを知らなければ私たちは無意味に生と死を繰り返すのみである。>

 ところが、次第に日本の文化の展開の中で死を凝視し生を洞察する態度が変容し、はかなく移ろうものへの詠嘆の感情によってイメージされる死が文学的に表現されることが多くなった、という。永遠に生きると思われた釈迦でも老いて死ぬという厳然たる事実を通した「諸行無常」のイメージと現世のはかなさが重ねあわされた詠嘆が「平家物語」だ、という。インド仏教とは違った傾向が日本仏教に浸透している証拠だ、と。「方丈記」もそうだ、と。

 <時間の流れを超えた来世に希望を託す浄土往生の宗教感情は、現世に生きることのむなしさをことさらに強調する情緒を強める。だが他方で、現世の享楽にこだわる文化も日本には根強い。現世に生きる価値にこだわりつつ、美文調の詠嘆が美化されると、死のイメージは自然の風物の中に溶け込み、稀薄になる。美しい自然の中で生きることを日本文化の特徴と見る傾向が強いが、そこには無常観のように冷徹に死と生を凝視することもなく、むしろ生と死の密接な関係を稀薄化する傾向もあわせもってしまっているのかもしれない。>

 <このことが現代の世相の中で問われる意義があると思う。欲望が渦巻く現世の中で感性に支配されて生きる人間的営みも、そして死後に思いをはせることも、究極的には死に行く存在として自分が今、ここに生きていることを凝視することにもとづく。死に向かって生き続ける「私」を洞察する冷徹な眼差しが現代にも必要なのではあるまいか。とりわけ、科学技術にもとづく消費文明が肥大化し、「私」が見失われ、生と死の共存する文化を失った現代においてこそ、このことを問い続ける必要があると思われる。そのことを一遍上人の次の一文が見事に教えているように思う。>

 として、

 <華麗を愛し月を詠ずる、やヽもすれば輪廻の業。仏をおもひ経をおもふ、ともすれば地獄の焔。>

 をあげていた。難しいが、何とか読み通した。生が死に向かっているものだ、ということをいつも意識せよ、というのか? 今一つ分からないのだが、何か大切な教えのようだ。

◆宗教を無視した政治分析はできない時代だ、ということ

 10月21日<仏教と社会参加/宗教抜きで政治は語れない>は東大大学院人文社会系研究科教授の末木文美士さん(59)だ。1949年甲府市生まれ。東大文学部印度哲学科卒。著書に「日本宗教史」(岩波新書)、「日本仏教の可能性」(春秋社)など多数、とあった。

 この中で末木氏は仏教界で最近、メディアに露出する僧侶が増えている、と書いている。神仏分離をもう一度考え直そう、と神道界・仏教界合同で「神仏霊場会」を結成して、仏教の僧侶が大挙して伊勢神宮に参詣したりした、と。

 このように目立つ行動、マスコミ受けを狙った行動が増えた背景には「葬式仏教」の衰退がある、という。

 <従来の檀家制度が急速に揺らぎ、形骸化した葬式仏教に頼っていたのでは仏教は衰退するという危機意識が強くなってきたという事情が挙げられるであろう。従来の葬式仏教は、死者儀礼と墓地管理に経済的な基盤を置くことによって定着していたが、祖先祭祀を継承する「家」の意識が弱まり、その上に少子高齢化の影響で墓地の維持さえままならなくなってきた。併せて伝統的な死生観も揺らいで、葬式は必ずしも仏教に頼る必要はないという風潮も広がりつつある。葬式仏教がなくなるわけではないが、それだけでない仏教の新しいイメージの創出が不可欠となってきている。>

 これは、社会現象として、今、進んでいることである。

 そして、末木氏はアメリカのキリスト教原理主義や中東を中心としたイスラム教原理主義などの宗教勢力の動きが政治にからんできたことから、社会の側でも宗教を無視できなくなってきている、という。

 <宗教抜きで国際政治は語れなくなった。

 というのだ。チベット問題にしても、中国専門家は宗教を知らないので、チベット問題の本質に迫れないし、靖国神社問題も政治・外交問題として扱ってきたが、靖国神社が宗教施設であるという根本のところが忘れられている、という。

 <大きな宗教団体を支持母体とする政党が政治の中核で活躍していながら、いまだに一種の宗教隠しがまかり通っている。

 として、<マスコミを使いながら社会の宗教アレルギーに挑戦しようというのであれば、仏教界の戦略もなかなか侮れないところがある。>

 と結んでいる。

 「心」という意味では朝日新聞9月12日夕刊<「心」を探る学生たち/心理学系の学科が大学で人気/いじめ・不登校・自傷…体験から内面に興味>という吉住琢二記者のまとめ記事もそれなりに面白かった。

 日経新聞9月10日夕刊文化面インタビュー<「人並み」という基準見失った現代/欲望の果て 行き止まり>は漫画家のしりあがり寿さんに文化部の白木緑記者がインタビューした。しりあがり氏は1958年静岡市生まれ。81年多摩美大卒。キリンビール入社、94年退社。81年「エレキな春」で漫画家に。代表作に「弥次喜多 in DEEP」「コイソモレ先生」など。

 ちょっと違う統計ものだが、読売新聞8月29日朝刊解説面<日本人の結婚観/格差拡大 影落とす/未婚増「経済力に自信ない」>は読売新聞世論調査結果の分析だが、なかなか結婚しない時代、という新しい現象にメスを入れた記事だった。

◆西部氏の全学連回顧

 朝日新聞8月5日夕刊[追憶の風景~東京拘置所]<思い切って退却決めた>は評論家の西部邁(にしべ・すすむ)氏。1939年北海道生まれ。社会経済学者、元東大教授。「表現者」顧問。「六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー」など著書多数。

 20歳の終わり頃、東大自治会委員長の時に首相だった岸信介が安保改定調印で訪米するのを阻止しようと全学連中央から動員がかかり、羽田に行ったが、学生が少なく、機動隊の前に一網打尽で初めて逮捕された、とか、巣鴨の拘置所生活を体験し、差し入れされた「資本論」を読んで、「こんなものがマルクス主義の聖典か、とがっくりきたので、拘置所を出る前に運動から離れることを決めていた、とかの若い頃の話。

◆全共闘シンポジウムなんて開いたんだ

 「心」とは直接は関係ないが、朝日新聞10月22日夕刊文化面<68年の「若者の異議申し立て」から40年/「反乱」に共感と違和感/時代の気分「似てきた」/「雰囲気だけ」「検証を」>は藤生京子記者の記事。

 見出しそのまんまの内容。9月下旬に立教大学で開かれた「1968+40 全共闘もシラケも知らない若者たちへ」と題したシンポジウムの紹介だ。パネリストで北大准教授(経済思想)の橋本努さん(40)は「全共闘の学生が口にした『自己否定』の動機に、親にほめられるために勉強してきた『いい子ぶりっこ』に自分を否定する願望があった。公害など資本主義のひずみが噴き出した高度経済成長時代に受けた『あしたのジョー』のように、展望もないまま『青春を燃やし尽くす』が全共闘の考える自由だったが、今の時代の気分は40年前と似てきている」と言う。

 「1968年」(ちくま新書)を書いた全共闘世代の文芸評論家、絓さんは「内ゲバや聨合赤軍事件へと至る挫折として語られてきた68年の経験がフェミニズム、環境問題の起点であり、現代史の転換点だ」と言う。このシンポは彼の主張を踏まえた討論だった。

 パネリストにはロスジェネ世代から鈴木謙介・国際大学GLOCOM研究員(32)も参加。アントニオ・ネグリらの「<帝国>」を翻訳した大阪府立大准教授の酒井隆史さん(43)はシアトルで99年に起きた反WTOの抗議行動以来、排除された人たちによる全く予測できない出来事が68年と連なる形で海外では続いている、と強調し、市民を巻き込めなかった日本の68年と今後の展望については自律した労働運動の必要性を言うにとどめた、という。内田樹・神戸女学院大学教授(58)は全共闘運動はただ時代のうねりの中に流されただけと批判的。「若い世代が関心を寄せている背景にはグローバリゼーションを含む『反米機運』の高まりを感じるが、それは雰囲気に過ぎない」と突き放す、という。

 全共闘世代のすぐ下で運動に懐疑的だったという御厨貴東大教授(57)はあまりにも語られぬまま忘れ去られていることに疑問を感じ、60年代論を執筆中だ、という。

◆団塊とジャネーの法則

 団塊の世代といえば、古い記事だが、日経新聞3月30日の[遠みち 近みち]で安岡崇志・特別編集委員が<団塊とジャネーの法則>という面白いコラムを書いていた。

 時間の長さの主観的評価は人の年齢の逆数に比例する、という経験則を心理学で「ジャネーの法則」というのだそうだ。メディア文化論が専門の稲増龍夫・法政大学教授に聞いた話だそうだが、山崎豊子原作「白い巨塔」のテレビドラマ新旧2シリーズのテンポの速さの大変な違いがある、という。同じ法廷シーン3分間で、画面を切り替えるカット数を計り演出のテンポを比べる。証言する主人公の顔をじっと映す1979年放映の旧シリーズは23カット。主人公、弁護士、傍聴人の表情をめまぐるしく追う2004年版は83カットだった、と。

 79年に25歳の人は新シリーズ放映時には50歳。ジャネーの法則に従えば、時間を2倍の速さに感じていたことになる。そこへもってきてセリフの速度が上がり、さらにカット数で3.6倍になる速いテンポで畳み掛けられては、たまったものではない、と書いている。

 稲増教授によると、極端にカット数が多いテレビドラマが初めて登場したのは2000年。1時間ドラマ1回分の総カット数は400台という常識を破り、700を大きく超えた「池袋ウエストゲートパーク」だった、という。テレビドラマのカット数はここ数年多くて800で安定している。300から400のゆったりしたものもある。棲み分けているのが現状だ、と稲増教授。

 稲増教授は「団塊世代なら、多少テンポの速いものにもついていける」と太鼓判を押している、というが。

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コメント

 貯蓄が多いというのは将来が不安ということだ。この漠然とした不安は死に対するものとハイデガーはいった。カルト宗教がますます力を強めまともな神経をした人間は無神論に傾いていく。そして心の不安が消えることはない。
 日本においてイワン・カラマーゾフは今なお強烈な存在感を放っている。

投稿: | 2008年11月21日 (金) 00時12分

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