12月22日朝刊各紙は22日付で外務省が公開した外交文書を大きく扱っていた。各紙が注目しているのが1965年1月12、13日にワシントンで行われた佐藤栄作首相とジョンソン大統領、マクナマラ国防長官との会談で中国が直前に行った核実験にどう対応するか、が詳しく話し合われていたことが初めて明らかになった。
1965(昭和40)年1月13日に米国ワシントンで45分間行われた佐藤・マクナマラ会談が重要だ。日経新聞2面に主なやり取りが掲載されていたので転記しておく。転記部分は<>の中。
<長官 中国の核爆発(核実験)の性格が問題で、今後2,3年でいかに発展するかは注目に値する。問題は日本が核兵器の開発をやるかやらないかだ。>
毎日新聞特集面に、佐藤首相が訪米前の1964年12月29日、ライシャワー駐日米国大使と会談し「仏大使は中共が核武装を行っているのだから、日本も核武装すべきだと言ったので、日本はそのような問題でフランスの指図は受けないと言っておいた」と語ったエピソードが出てくる。1964年10月に中国が第1回原爆実験を行い、核保有国になった、という状況の変化があり、マクナマラ国防長官の端的な質問もその事態を踏まえた日本の対処方針を聞いたものだった。
佐藤栄作日記第2巻212ページの12月29日(火)の項目には
「萩原、中馬、小川半次等数氏来邸。何れも大臣候補の猟官運動か。十時からライシャワー大使と二時間懇談。更に東京会館で実業人と会談。四者懇談会。神田厚相、医療費の取り扱ひに就いて相談あり。AP、アメリカンマガジン等と会見。植村甲午郎、大野[勝巳]大使、椎名外相と会見。石井氏亦来りて渡米につき懇談。いヽ事だが余り変った意見はない。二十九日会に出席」
とあった。前日、御用納めをすませており、公務が終わった普通の年ならば、少しは暇ができる季節である。1月の訪米を控えて、米メディアとの会見などを精力的にこなしている姿が浮かぶ。
<首相 日本は核兵器の所有あるいは使用についてあくまで反対だ。技術的には核爆弾をつくれないことはないが、フランスのドゴール大統領のような考え方(独自の核兵器開発)は採らない。陸上への核兵器持込については発言に気を付けてほしい。もちろん、戦争になれば話は別で、米国が直ちに核による報復を行うことを期待している。その際、陸上に核兵器施設を造ることは簡単ではないかもしれないが、洋上のものならば、直ちに発動できるのではないかと思う。>
ジョンソン米大統領との首脳会談(1965年1月12、13日の2回)で佐藤首相は「中共の核実験に拘わらず、日本国民の間には、日本は核兵器を保有せず、核兵器を使用するような事態の発生に対しても反対する空気が支配的である」と繰り返し国内事情を強調し「日本は核武装は行わず、米国との安全保障条約に依存するほかない。米国があくまで日本を守るとの保障を得たい」と訴え、ジョンソン大統領が「You have my assuarance」(あなたには私が保証します)と断言した、と毎日新聞特集面にあった。
閑話休題。
佐藤栄作日記の1月12日(火)も書き写しておこう。
佐藤栄作日記第2巻222ページ。
「昨夜は興奮の結果か、ねつき悪く、午前四時頃迄転々。八時過ぎ起される。午前はゆっくりして、十一時にホワイトハウスに出かける。ブレアHOUSEはすぐ前なので2分前に出発。儀仗兵の両わきにならぶ中を静かに車が進行。表玄関には大統領夫妻が勿論出迎え。そこで簡単なメッセーヂ、更に玄関わきに大統領と並んで一々握手をかわす。その後大統領が案内して執務室に入る。ケネディ当時のロッキングチェアーそのまヽ。短(単)刀直入に会談に入り、三八度線、形はともかく台湾、ベトナムも退かないとはっきり答へ、日本の防衛に任ずるから安心しろとすべて話はとんとん。沖縄、小笠原の墓参も、当方の云分を採用して何等心配はない。こんなに話がトントンに進んだのでびっくりした。別室即ち閣議室に出かけたが、その時はすでに五十分を経過して居た。別室の話は午後のラスク会談にゆづり、早々にきり上げる。プレスクラブに出かける。質問は余り気のきいたものにぶっつからず至極平凡。而して三時半のラスク会談では、まづ大成功としてほめてくれた。三時半からつっこんで中共、韓国、沖縄、小笠原、航空、漁業協定、短期農業移民等次々に重要な話をすヽめた。漁業だけは勉強がしてないとして後廻し、その他は当方の云分をきいてくれる様子。CIAの説明を一時間半ばかりきく。これはU2機並に衛星での写真撮影。案外きれいにうつるものだ。ソ連、中共の地上設備につき、詳細説明された。誠に驚き入る。八時から晩餐会。ジョンソン大統領のもてなしは、ほんとに気をつかったもの。その挨拶も非常によろしい。テンガロンハットを無心する。実際心から友人になれた様だ。午後零時すぎ帰宿。橋本君と電話連絡する。万事明日のコンミニケ待ち。」
と、ここまで書けば日記の1月13日(水)も必要だろう。
「ワシントン最後の日。マクナマラ国防長官と対談し、終わってアーリントン墓地に出かける。マ国防相とは初めての人。ワトソン弁務官の能吏な事や、国防予算等につき話が出たが、当方に指図する様な事はなかった。ア墓地は海軍少将の案内で無名戦士の墓(一次、二次、朝鮮戦役)に詣で、更に[ジョン・]ダレス氏の墓地、これにはダレス未亡人並にアレン・ダレス氏(ジョン・ダレスの弟でCIA長官)参拝。ケネディ永遠の火ともるリンカーンメモリアルに向った。景勝の地、花輪を捧げる。引続き白亜館に大統領を訪問、御別れと同時にコムニュケ作成、医療研究団の打合わせをする。更にテンガロンハットを得て御別を云ふ。玄関まで見送り、揃ってカメラに入る。至れり尽せりの感あり。国務省ラスク長官の午餐会、ジロン[米財務]長官と約十分会談。利子平衡税の問題は難行[航]の様子。食中ラスクと低声にかたる。沖縄はかへしてもいヽのだが、まだ中共が安心出来ぬ、国防は引きうけたと確信を得た。三時半記者会見、更にショーラムホテルで外人記者と会見、コムミニケについてなり。十三項目あるが何れに重点ありやに答へて、我方は沖縄、小笠原、双方は中国並びにベトナム、新しきものとして医療団の問題ありと。概して成功なりと各面の批評よろしい。大使館のパーテー。橋本と連絡をとる。椎名外相ロンドンに向ふ。」
途中、ホノルルあたりで首脳会談が成功だった、という評価が日本国内でもっぱらだった、という便りを聞き、羽田空港にも大勢の出迎えが詰め掛けているのを見て「評判がいいとこんなものか」と書いているのは、岸内閣の安保改定を思い出してのことだろうか。天皇への報告も「大変熱心にきかれるので、一時間と十五分、大変な長説明となった。尚昨日は酒十本を下賜さる。その上今日は皇后様から御菓子をいたゞく。更に皇太子殿下のもとで記帳挨拶する」など、いたるところで褒められてまんざらでもない様子が日記から浮かんでくる。
話を新聞記事に戻す。
<長官 洋上のものについてはなんら技術的な問題はない。日本の政治的な空気も漸次変わるのではないか。>
<首相 日本が核兵器を持たないことは確固不動の政策だ。防衛産業育成の問題があり、差し支えないものは日本でつくりたい。>
毎日新聞特集面には、ただ、米国で公開済みの会議録では、この時の訪米で首相はラスク国務長官らに「個人的には、中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきであると考える」とも主張している、とあった。
<長官 日本が防衛産業の(育成で)なし得る軍事的援助をアジア諸国に与えることはできないだろうか。>
<首相 日本では宇宙開発のためのロケットを生産している。必要があれば軍用にも使うことができる。将来は人工衛星の開発にも進みたい。>
今回公開された外交文書は1945~76年の225冊、約11万2000ページ。21回目となる今回は佐藤栄作首相の就任後発訪米(65年)や田中角栄首相の訪米(73年)記録などが対象で、キューバ危機(62年)での日本政府の対応をまとまえた文書も公開された。
65年1月12,13日の佐藤訪米をもう少し見てみよう。毎日新聞特集面からである。
まずは黒崎輝・立教大兼任講師(国際政治学)の話だ。「佐藤栄作までの戦後の首相は、大半が『核を持って当然』と思っていた節がある。他方で政治家の意思とは別に政府の現実的立場は整理されてきた。それを加速したのは中国の核開発だ。佐藤首相は核抑止力の必要性を強く感じたが、反核世論は無視できず、日米首脳会談で非核を明確にした。核拡散を危惧する米国も『核の傘』の提供を再確認した。こうした動きが非核三原則と核4政策へとつながった」と語っている。
佐藤栄作首相の1965年の初訪米では、アメリカ統治下の沖縄、泥沼化する直前のベトナム情勢などでも意見交換がなされた。以下は毎日新聞特集面記事を書き写したものだ。
<佐藤首相とジョンソン大統領の初会談では、米軍基地を残したままの沖縄返還という方向性が形成された。首相は在沖縄米軍の重要性を確認したうえで沖縄の施政権返還を訴えた。これを受け共同声明には「大統領は施政権返還に対する日本政府及び国民の願望に理解を示し」と、これまでで最も踏み込んだ文言が入った。>
<65年1月12日の会談要旨によると、首相は「沖縄における米軍基地保持が極東の安全のため重要であると十分理解」と断言。そのうえで「施政権の返還は沖縄住民のみならず、全日本国民の強い願望」と強調した。「住民の協力を得ることが大局的には米国の利益とも合致」とたたみかけた。>
<佐藤首相は首脳会談後の65年8月、沖縄を訪問して「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後は終わらない」と改めてアピール。67年の首脳会談の共同声明には返還時期を「両3年内に合意するよう検討」との文言も盛り込まれた。1969年11月21日、佐藤・ニクソン両首脳は沖縄返還協定に調印した。>
こうして書き写していると感慨が湧いてくる。佐藤首相は65年1月の初訪米できっかけを作り、それから約5年かけて沖縄返還を実現した。一政権でやり遂げる、という意思と実行力、と簡単に言うが、この時代でも5年かかっている。北方領土返還にしても北朝鮮との正常化にしても1年で交代する軟弱政権ではできない、といういい証拠なのではないか。
<我部政明・琉球大教授(国際政治学)は「米国にとり、沖縄基地の重要性で日本側の言質を取るのは返還議論の大前提だった。1965年1月の会談で両国はようやく返還への話し合いの入り口に立った」と解説する。>
そして、ベトナム戦争問題である。
<佐藤首相は、ベトナム戦争で米国側に忠告していた。直後に米国は忠告を振り切ってベトナム戦争を泥沼化させていった。>
<訪米前のライシャワー駐日米大使との会談で首相は「これは東洋と西洋の心理の相違であって、西洋の合理主義に基づいて『これ位は簡単だ』と言って一発やると危険なのである」と安易な戦争拡大論を批判。「あの辺りには、前国民党軍人であった華僑もいることだから、彼らを第一戦に使うでもして、アメリカはゆっくり後に構えてやる位(ぐら)いがいいのではないか」などとアドバイスした。>
<さらに「大東亜戦争」まで引き合いに出し、「日本が満州だけで満足していれば、あのような結果にはならなかったであろう。早く解決しようとあせったのが失敗であった」と自戒を込めて米国の自制を促した。>
<これらの発言は、米側にも強い印象を与えたらしい。首相の訪米中には、マクナマラ国防長官が意見を改めて聞いた。首相は「ベトコンの方はその土地に住んでいるのに、米軍はよそから入って行くのであるからそこに非常な困難がある」と改めて指摘。だがマクナマラ長官は東南アジア共産化の危機を強調した。会談の翌月、米国は北爆を開始して戦争は泥沼化し、10年後に北ベトナムが勝利した。>
佐藤氏は「だから言わんこっちゃないだろう」と苦虫を噛み潰していたのかどうか。
1962年のキューバ危機に関する外交文書も面白かった。
<1959年の革命政権成立で冷戦の最前線となったキューバ。核戦争寸前まで緊張が高まったキューバ危機(62年)で、池田勇人首相はケネディ米大統領の対応を支持した。だが60年代初頭の外務省内部文書や電信には、米ケネディ政権の指導力への疑念や、同盟国と協議せずに対処した米国への不満が記録されている。>
として、毎日新聞特集面は以下のように書いている。今回の外交文書公開は毎日新聞の独り勝ちではないか? 内容が一番良かった。どうしても毎日新聞からの引用が多くなる。
<米国は1961年1月、キューバとの国交を断絶。同年4月15日、米国の支援を受けた亡命キューバ人部隊がカストロ政権転覆を目指してキューバに侵攻し、撃退される「ピッグズ湾事件」が発生した。>
<外務省中南米課は4月21日付の「極秘」文書で失敗の原因を「米国の情勢判断の甘さと決断のタイミングの悪さ」と分析。5月11日付文書で「米国政府の言動には、国際政治上の指導力に不安を感じさせる点があり、わが国を含め自由諸国が国際政治上のパートナーとして米国の評価において、影響するところがあろう」とケネディ政権の指導力に疑問を呈している。>
<1962年10月14日、ソ連によるキューバへのミサイル搬入を米偵察機が確認。大統領は海上封鎖を決め、10月22日夜、テレビ演説で「キューバ危機」発生を公表した。朝海浩一郎駐米大使から大平正芳外相あての10月22日付公電によると、米国が危機発生を日本に説明したのは大統領演説の45分前。日本はその2年前に安保条約を改正して米国との同盟を強化したが、何も知らされなかった。危機回避直後の10月30日、朝海大使から大平外相への公電には「同盟国がこぞって支持の態度を示したことは米国を力づけ、ソ連にある程度の印象を与えた」と判断の正しさを強調した。その一方で「一歩進めば核戦争となる措置を採用するについて、全く同盟国と協議しなかった」「最も近い英国にさえ、(中略)ゴア(英国)大使が『自分は数時間前に知らされていた』と述べていたにすぎず(中略)、日本も考えざるを得ない点かと思われる」と記した。>
米国が本当に重要な政策決定を日本抜きで行うことは過去何度もあった。ニクソンショックが有名だが、今回の北朝鮮のテロ国家指定解除問題も日本は相談に預からずに、事後報告のような形で追認させられ、後味が悪かった。今後の朝鮮半島政策でも、米国は日本と相談するのではなく、中国と相談して決めるのだろう。北朝鮮の親である中国と韓国の親である米国、という構図だ。今の日本の国力では致し方ない、ということなのか?
1973年の田中角栄首相訪米、ニクソン大統領との首脳会談はロッキード事件ばかりクローズアップされるが、実はいろいろと懸案があった。その辺も毎日新聞は詳しい。
<1973年の田中角栄首相とニクソン米大統領の会談前に、朝鮮半島の緊張緩和を目指して中国とソ連が韓国、米国と日本が北朝鮮をそれぞれ承認する「package deal(一括取引)」案を日本政府は想定していた。キッシンジャー米国務長官が75年の国連総会で提唱したのと同内容で、日本は2年前から構想を練っていたことになる。会談前に作成された「総理発言要領案」で、米国から「『ソ連、中国の韓国承認』を問われた場合の回答」としてまとめられた。「北朝鮮の態度から見て当面はあまり期待できない」としながらも「長期的な方向」として、北朝鮮と韓国の承認に関する「一括取引」案のほか「朝鮮半島に関する何らかの国際的な枠組み作りを考えるべきかもしれない」と提案した。>
南北同時承認などという案を当時、新聞でよく見かけたものだった。
<田中首相訪米に際し、日本政府は米国メディア対応に細心の注意を払った。日本の対米貿易黒字は1972年は30億㌦を超える勢いとなった。芽生えつつある反日感情を収めようとする過剰なまでの姿勢がうかがえる。「シカゴには米国屈指の有力紙があり、首相は訪問日に必ず記者会見を開くように」「サンフランシスコ到着日にも、PR効果を一層高めるため記者会見を行うべきだ」。7月29日からの訪米を前に、在米日本大使館から指南電信が次々と届いた。米国人記者一人一人の性格や、どのテレビ番組に出演するのが効果的か、といった記述もある。ワシントンでの懇談会に出席する記者は、名前の横に「大物コラムニスト」「熱心だが小物」「近く訪日予定」など注意書きや、どの記者を優先するかも記されている。>
どうでもよさそうに見えるかもしれないが、この外交文書は非常に重要だと思う。というのは、貿易黒字減らしが当時の日本の国策だったこと、内閣あげて米国の世論に気を配っていることはなぜ田中首相がニクソン大統領の提案を受けてロッキード社のトライスターを購入する約束をしたかの背景を説明してくれるからだ。
私は田中角栄無罪説に肩入れするだけの理論武装を持っていないが、一国の総理大臣がカネで一国の航空政策を売るとはどうしても思えないのだ。田中角栄という異形の総理の人格的欠陥が産んだ冤罪なのか、米国の陥穽に嵌ったのか、何かあるのではないか、と思う。
奇しくも12月22日毎日新聞朝刊社会面に<ロッキード事件で証言/コーチャン氏死去/94歳>の死亡記事が出ていた。田中元首相を有罪にしたコーチャン証言である。関係者はどんどん死んでいく。そして、歴史的事実は確定していくのだろうか。
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