御厨氏のいう「戦後」とは?~朝日新聞1月3日朝刊[私の視点]から
朝日新聞1月3日朝刊OPINION面[私の視点]は御厨貴・東大教授(政治学)の<今年の選択/「戦後」乗り越える強い首相を>だった。ものすごく抽象的に書かれており、言っていることがよく分からないのだが、「戦後」をめぐる歴代政権の格闘ぶりを書いて興味深かった。
◆吉田茂首相は「戦後」を作った。
これはサンフランシスコ講和条約と日米安保条約体制のことだろう。軽武装・経済大国路線の基礎を作ったのが吉田茂だった、という意味で「戦後をつくった」と書いたのだろう。
◆1956年の経済白書が「もはや戦後ではない」と高らかにうたった。
これは鳩山一郎内閣。
1954年春に明らかになった造船疑獄が吉田内閣の首を絞めた。朝鮮戦争の停戦協定発効で不況に苦しんだ業界が政府・与党に利子補給など業界に有利な法整備を求めて働きかけた。自由党吉田派の佐藤栄作幹事長の逮捕も間近とみられたが、犬養健法相が検事総長に指揮権を発動し、佐藤逮捕が幻になった。内閣不信任案も与党の反対で否決された。吉田批判が燃え盛り、巻き返しを図った吉田は岸信介を除名したが、これを機会に岸派、鳩山派、改進党、日本自由党が合体して日本民主党を結成する。初代総裁は鳩山一郎、幹事長は岸信介で衆院120人の勢力を誇った。左右社会党と連携すれば吉田政権を倒せる勢力になった。
1954年12月6日、民主党と社会党が内閣不信任案を提出すると、第5次吉田内閣は総辞職の道を選ぶしかなかった。第2次吉田政権から数えて6年2ヶ月にわたる長期政権に幕が下りた。
1954年12月10日、鳩山一郎が首班指名を受けた。第2次鳩山内閣の55年10月に左右の社会党が左派の鈴木茂三郎氏を委員長に、右派の浅沼稲次郎氏を書記長に新たに日本社会党を結成。
一方、危機感を深めた財界の後押しもあって11月15日に自民党が誕生した。この自民党政権は宮沢喜一政権が倒れた1993年8月まで38年間、「一党支配」(御厨氏が言う「一党優位体制」)を続ける。国会では多数の自民党と万年野党の社会党による「自社55年体制」が続いた。
鳩山首相は56年10月19日にはモスクワで日ソ共同宣言に署名し、平和条約締結の際には歯舞色丹両島を返還するとされた。ソ連の賛成で56年12月18日には国連加盟が実現した。
鳩山首相は55年1月に「経済自立5カ年計画」を閣議決定し、吉田茂前首相が嫌った計画経済を押し進める。
54年11月に不況を抜け出した後、日本経済は57年6月まで31ヶ月に及ぶ神武景気を謳歌する。55年から56年にかけて主要産業が一気に設備投資を行い、56年はそれまでに見られなかったような好況の年になった。
そこで、56年度の経済白書は「もはや戦後ではない」と高らかに宣言したのだ。
◆岸信介が60年の安保改定で「戦前」の幻影を呼び覚ました結果、次の池田勇人は高度成長政策で「戦後」をいま一度演出しなければならなくなる。
それはそうなのだが、草野厚・慶大教授が2005年に出版した「歴代首相の経済政策全データ」(角川oneテーマ21)で「条約の不平等性を改正することに、なぜ、人々が反対したのか。それは、岸が戦前の満州経営の総責任者であり、東條内閣の閣僚でもあったことなど、A級戦犯として訴追された、その経歴にあった」と書いている通り、吉田茂首相が結ばざるを得なかった日米安保条約には米国の日本防衛義務が明記されていなかった。それなのに、日本は米国に基地を提供する義務がある、という不平等条約だった。
| 歴代首相の経済政策全データ (角川oneテーマ21) 著者:草野 厚 |
このため、吉田は講和条約は出席者全員が署名にしたものの、安保条約では自分一人の署名にとどめ、閣僚らを巻き込まなかった。地獄に行って先祖に「こんな屈辱的な植民地になるような条約を結んだのは私だけです。すべては私の責任です」と謝らねばならないだろう。その時、謝るのは自分だけでいい、と考えたのだろう。その日米「不平等押し付け」条約の改定のチャンスがようやくめぐってきたのだ。
しかし、国民の受け止め方は違っていた。
草野氏が書いているように、A級戦犯の首相、満州の妖怪、右翼とのつながり…など、当時の空気からすれば「悪」とされる印象ばかりが岸にこびりついていた。
岸内閣が最初に取り組んだのが鳩山内閣以来の懸案だった教職員に対する勤務評定問題だった。地方公務員法では任命権者が職員の勤務評定をする、と決められているのに日教組が反発していた。日教組は岸内閣発足に合わせて全国で勤評闘争を繰り広げたが、岸内閣は58年4月以降、全国の都道府県で勤務評定を実施した。日教組はストライキなどで抵抗した。
しかし、一般公務員には行われている勤務評定をなぜ教師に対して行ってはいけないのか、という疑問。日教組社会党もその本質的な国民の質問に答えられなかった。
58年5月22日の総選挙では社会党は8議席増えたものの、自民党も追加公認を入れて298と8議席増やし、社会党への風は吹かなかった。
しかし、その後の警察官職務執行法(警職法)は総評・社会党が「おいこら警官がデート中でも邪魔をする」「デートもできない警職法」というキャッチフレーズで反対闘争を展開し、岸首相は58年11月21日、鈴木茂三郎社会党委員長との会談で廃案を明らかにするという敗北を喫した。
岸は傷を負い、池田勇人、前尾繁三郎、三木武夫の3閣僚が辞任する騒ぎとなった。
この流れの中で安保改定が出てきた。ソ連と友好関係にあった社会党はソ連が日本に中立を求めたため、中立を党是として、安保廃棄を目標に闘いを組み立てた。冷戦の真っ最中に米国に敵対する勢力に寝返ろうという政策だった。浅沼稲次郎書記長は訪中し「アメリカ帝国主義は日中両国人民の敵」と発言した。日本の中で米ソ冷戦の代理戦争が戦われているようなものだった。
岸首相は60年1月に訪米して新安保条約に調印した。
5月20日未明、新安保条約の批准を衆院本会議で単独強行採決。国会を大デモが取り巻き、政治はマヒ状態に陥ったが、1カ月後の自然承認を岸はじっと待った。東大の女子学生がデモ中に死亡するなどの痛ましい事故もあった。
しかし、条約の自然承認後は、安保反対の熱気が嘘のように引いた。国内は政治無関心、政治アパシー状態に陥った。
岸首相は混乱の責任を取って1960年6月23日に引退表明した。そして、7月19日に池田勇人政権がスタートする。
実は所得倍増計画は岸内閣からスタートしている。
ただ、発案者は池田勇人だった。59年にブレーンの中山伊知郎・一橋大学教授らと協議の上「月給倍増論」を打ち出し、参院選挙の公約にもした。池田は自分の内閣をつくると、本格的に所得倍増論を打ち出した。すさんだ国民感情を慰撫するための内閣のスローガンは「寛容と忍耐」だった。
池田内閣が「戦後」を卒業するための階段を何段か上ったことは間違いない。
1963年にはGATT11条国に移行。国際収支の赤字を理由に輸入制限を行うことができなくなった。64年にはIMF8条国に移行。64年4月にはOECDに加盟した。それは日本が国際社会の中で開発途上国を卒業し、先進国の仲間入りしたことを意味した。
池田首相の最後の晴れ舞台は東京五輪だった。これは「戦後への決別セレモニー」でもあったのだが、池田自身はがんにおかされ、入院。五輪閉会式後に辞任を表明する。
◆続く佐藤栄作は約8年の政権を通して「沖縄の返還なくして戦後は終わらない」と訴え続けた。返還は実現したものの、「戦後」の安定的な秩序を確認するにとどまった。
「人事の佐藤」と言われる。だから、長期政権ができたのだ、と。しかし、そうでもない。怒りっぽい佐藤は臆病なだけで、決断できない首相だったのかもしれない。満州経営に辣腕を振るった兄にいつもコンプレックスを抱き、運輸相という二流官庁でうだつが上がらなかった青年時代を過ごしながら、這い上がってきた。佐藤は運がいい。首相になった時も池田ががんに倒れたため、権力闘争を繰り広げずに官邸に入れたため、余力を持って政権運営ができた。最も恵まれていたのはライバルがどんどん死んでしまったことだ。大野伴睦、河野一郎である。藤山愛一郎が残ったとはいえ、絹の手袋をして生まれてきた経済人は佐藤の相手ではなかった。運鈍根を地で行ったのが佐藤だろう。
佐藤時代、外交の発展は目を見張るものがある。1965年6月22日、日韓基本条約を締結した。韓国は対日賠償請求権を放棄する一方、日本は韓国に無償資金協力、円借款を供与するという内容だ。
この日韓条約は後々、韓国で何度も政争の具とされる。朴正煕政権が「漢江の奇跡」を起こすためにぜひとも必要だった金を日本から調達する意味もあって条約を急いだのは事実だ。そして韓国は長かった朝鮮戦争後遺症からようやくテイクオフすることができた。国と国の取り交わした条約なのに、韓国の「民主化勢力」は「軍事政権のやったことは認めない」「歴史を書き換える」などとめちゃくちゃを言って、条約にけちをつけ、「個人の賠償請求権は残っているはず」などと主張していた。この問題は最高裁が温家宝来日直前に判決を出し、国家が結んだ条約は国民をも縛る、という当たり前の内容をうたったため、ようやく決着したものの、長い間、無駄な法廷闘争が繰り返された、というのが一般的な受け止め方だろう。
佐藤がいつ沖縄返還を自分の最大の仕事と決意したのか。勉強不足で分からないが、佐藤のすごさは一旦決めたら、その目標に向かって、すべてのことを集中することだ。ここで思い出すのが宮沢喜一通産相の無策ぶりだ。佐藤首相はニクソン大統領の南部対策のため繊維摩擦を解消する必要が出てきた。このため、日米関係に詳しい宮沢氏を通産省にして、繊維問題の解決を託した。ところが宮沢氏は何もできずにおたおたしただけで、終わってしまった。このため、機嫌を損ねたニクソンが米中国交正常化を日本に事前連絡しなかったり、ドルと金の交換停止というニクソンショックも事前連絡なしに行われたのではないか、と言われている。愚図な宮沢氏の実害は実は日米関係で出ていたのだ。
宮沢氏は回顧録で「私は政治家ではなく官僚だった」とか言って、法制局の説明を真に受けて、法律内ではできることが限られていたので、できなかった、と話しているが、法律内でしかものごとをすることができないのを官僚といい、政治家はできないときには法律を作らねばならない。自分で自覚しているようではあるが、宮沢氏は首相の器でもなければ、本格的な政治家でもなかったことは確かだろう。評論家としてテレビで言うことを聞いているともっともらしかったが。
この宮沢通産相が無策だったので、佐藤首相は田中角栄を通産相に据え、即座に繊維摩擦を解決する。この手柄も角栄がポスト佐藤で福田に勝つ一つの勲章になっていたはずだ。
御厨氏のいう「『戦後』の安定的な秩序を確認するにとどまった」の意味がよく分からなかった。つまり、返還とは言っても今も沖縄は事実上、アメリカの植民地ではないか、といっているのか? よく分からない。
◆佐藤を範とした中曽根康弘は82年、「戦後政治の総決算」を華やかに宣言して登場した。国鉄改革など「戦後」改革に着手したものの、イデオロギー面を含めた「戦後」からの転換は未完に終わる。
臨調行革路線と戦後政治の総決算路線という二つの路線で長期政権を謳歌したのが中曽根康弘だった。レーガン、サッチャー、全斗煥というトップが同時代にいた。新自由主義の二人と軍事政権の一人。系統は違うはずなのに、中曽根を含めてこの4人はよく似ていた。中曽根時代はソ連の力の衰えが目に見えるようになってきた時代でもある。レーガンが軍備拡張でゴルバチョフをいじめ、最後にゴルバチョフはお手上げになる。サッチャーは沈んだままだったイギリスを規制緩和という手段を使って金融大国に蘇生させ、その後のイギリスの栄光の序章を形作った。全斗煥は民主化勢力をいじめはしたが、韓国の安定を最大の目標に日米韓連携を重視、朴正煕の経済成長路線を踏襲した。
御厨氏の言葉はどうも意味不明なのだが「イデオロギー面を含めた『戦後』からの転換は未完に終わる」というのは、どういう意味なのだろうか? もしかすると平和憲法イデオロギーからの脱却つまり、憲法改正のことか、と思ったのだが、御厨氏は論文の最後に違う文脈で憲法改正の話を書いているので、どうも違うらしい。よく分からない。
◆90年代は「戦後」の限界が指摘され、政治改革や行政改革さらには憲法改正など「改革」が時代のキーワードとなった。もっとも、89年に「昭和」から「平成」への代替わりと重なり、戦後憲法に育まれた最初の象徴天皇が登場、「戦後」的価値の肯定と再確認が行われた。
1990年代に「戦後」の限界が言われたのは具体的には湾岸危機、湾岸戦争で日本が国際貢献のために自衛隊を湾岸に出せるかどうか、をめぐる憲法論争が起きて、最終的に内閣法制局が縛りをかけて自衛隊の派遣を認めたのが最初だった。海部政権はこの国際貢献問題をめぐり竹下派の小沢幹事長と対立することもあって最終的には衆院解散を封じられ、総辞職する。その後、宮沢政権ではカンボジアPKO問題もあった。世界がグローバル化し、国際貢献が1980年代までのように単純ではなくなったことが日本にとって大きな問題となった。単純に米国の言うことを聞いていればよかった時代から、ある程度自分で判断しなければならない時代に変わったのに、自己決定できるような法制度になっていなかったことに気づいた心ある政治家たちは愕然とする。それが小泉政権時代の有事立法につながるのだが、それはまだ先の話だ。
昭和天皇の崩御は当時騒いだものの、まだ国民的に決着していない。というのも、戦犯問題が燻っているからだ。これに決着をつけるにはまだ生々しすぎるということなのか。
◆「ぶっ壊す」と「構造改革」を叫び続け、5年半の長期政権を維持した小泉純一郎は、90年代に有名無実化していた「55年体制」と「自民党一党優位体制」にとどめを刺した。しかし新しい何かを生み出すことはなかった。
「戦後」というキーワードと小泉政権との関係は考えれば考えるほど難しい、と思う。対外的には中国との関係悪化があり、その原因は靖国神社参拝という戦後処理問題だったし、米国との関係もブッシュ=小泉関係で日米運命共同体を形作ったが、5年半の間に徐々に形骸化して米中関係が徐々に深く濃くなっていき、最終的には小泉政権ではないが、米国は日本を裏切るような北朝鮮のテロ支援国家指定解除をやってきた。北朝鮮の脅威に対応するため、遅まきながら有事立法を整備したものの、まだまだだし、基本的に日本の安全保障は片肺飛行で、米国の核兵器がなければ安全を確保できないことは誰が見てもはっきりしている。
「55年体制」にとどめを刺した、というのはどういうことなのか? これも意味不明だ。「自民党一党優位体制」にとどめを刺した、というのは「自民党をぶっ壊した」ということだろう。これは支持基盤を自らが掘り崩したという意味だろうから、それはそうだと思う。郵政で郵便局長の連合体を離反させ、農協も徐々に離反し、建設業界も離れていった。しかし、小泉ほドラスティックではないにしても、誰がやっても同じようなトレンドで政権運営をせざるを得なかったのではないか、とも思う。
「新しい何かを生み出すことはなかった」というのはどうか? 小泉政治の総括は難しいが、少なくとも今まで「日本よ国家たれ」などと批判されていた権力中枢のないという批判に対する答えは官邸強化と経済財政諮問会議の活用である程度の方向性を出したのではないか、と思うのだ。橋本龍太郎首相が断行した省庁再編で国家機構は変わった。大蔵省の絶大な権限を奪って官邸に予算編成権を持ってきたこと、それを小泉が実践したことの意味は大きいと思う。
飯尾潤氏が言うように、今の日本政治は官僚が支配する民主統治の構造から脱却していない。これを真の議会制民主政治に転換しなければならない
御厨氏も最後の段落で書いているが、憲法を実践することが大切で、それには旧態依然とした慣行をやめるしかない。
ただ、旧態依然とした慣行というのは弱者保護のための慣行、つまり少数野党を守るための国会規則であり、不文律だった。
だから、安倍晋三政権はこの慣行をほとんど無視し「憲法の規定にあるから」と強行採決を繰り返したら、マスメディアの徹底攻撃を受けた。新聞記者の頭の中は現実の政治を見ていない。お手本はスクラップブックだ。つまり、過去の記事を見ながら、今の情勢を書くのが記者だから、強行採決となれば「けしからん」という言葉が用意されているわけだ。
安倍政権は消えた年金問題や閣僚の事務所費問題など政治資金問題疑惑だけではなくこの強行採決への批判が内閣支持率ダウンの大きな要因となったのだろう。
安倍政権失墜の大きな原因はこの強権的国会運営も響いたはずだ。しかし、憲法の規定で言えばこの国会運営は許されてしかるべきだし、そんなに批判することはないということになる。この辺も難しいところだと思う。
御厨氏は、
<政治家は現行憲法の原則や規定に戻ってはどうか。そこには「強い首相」と「機能する国会」がある。もろもろの政治慣習から解き放たれ、原点からコトを考えるようになろう。そうすることによって「戦後」を自覚的にリセットし、政治の新たな飛翔を可能にすると思われる。>
と綺麗な言葉で書いているが、現行憲法の欠陥は昨年何度も新聞に取り上げられていたように、参議院の権限が異常に強いことだ。「強い首相」という抽象的な言葉の意味がよくわからないが、中曽根氏が勘違いして使っていた「大統領的首相」という意味ならば、小泉以後は実現している。ただ、議院内閣制だという一点でごねる自民党の守旧派を説得できるかどうかは首相やスタッフの力量だろう。小泉氏は自民党総務会を無視して郵政民営化を閣議決定して、押し切った。憲法に戻って首相が国会の今までの慣習を打ち破ってでも国会運営を行うのはいいのだが、限界はある。果たして原点からものを考えて、その先に「戦後」の自覚的リセットがあるのだろうか? これも言葉の遊びのように思えるのだが。
御厨氏は最後に、
<そして、逆説的だが、「戦後」から解放されて初めて、戦後憲法の改正が現実の日程に上ってくるに違いない。>
と書くのだ。私には意味が分からない。何を意味しているのだろうか? まあ、この辺は御厨氏の最も言いたいことなのだろうし、見出しにもなっている「強い首相」がキーワードだとすれば、首相主導でやってくれ、と言うことが言いたいのかとも思う。先を急ぎすぎたので、また、歴代内閣と戦後の問題に戻ろう。
◆初の戦後生まれの首相となった安倍晋三は「戦後レジームからの脱却」をストレートに訴えた。しかしまことに皮肉なことに、安倍は「戦後」の枠組みに足を取られ、わずか1年で退陣を余儀なくされる。戦後憲法下の二院制国会で論理上起こりうる、衆参「ねじれ」状況を招いてしまったのだ。
「戦後」の枠組みに足を取られた、というのは何か? 年金問題なのか? 年金は戦後の枠組みというよりかは戦時体制の産物だろう。そうすると「戦後」の枠組みとは何なのか? これも私には意味不明だ。二院制の問題は安倍が足を取られたのではなく、参院選の敗北の結果足を踏み入れてしまった蟻地獄だろうから、違うだろう。分からない。
◆福田康夫もなす術もなく、やはり1年で職を辞し、総選挙で勝てるタマとして選ばれた麻生太郎は早くも迷走状態のただ中にいる。
これはその通りで、福田辞任こそ「戦後」憲法の呪縛に倒されたのだろう。麻生太郎はまだ現在進行形でコメントしづらいが、解散権を事実上なくしてしまった首相である。選挙管理内閣だったのに選挙をしなかったからこうなった。
以上が御厨氏による歴代首相と「戦後」の関係だそうだ。
そして、「政権交代可能な二大政党制」による政権交代が起こりうる、としながらも、有権者もマスコミも政治家も「総選挙による政権交代」の意味を考えていないのはお寒い限りだ、と言う。政権交代が「戦後」に終止符を打つものか、「戦後」を延命させるものか、それが曖昧なままであることが問題なのだ、というのだ。器ではない麻生、首相になりたくない小沢が争うのは何とも情けない、とも書く。そして、
<必要なことは何か。あまりにも長く続き、歴代首相が克服できなかった「戦後」を終わらせるための総選挙であり政権交代であると、どちらもはっきり示すことだ。もちろん一度の総選挙で「戦後」がガラリと変わることはありえまい。しかし今年こそは「戦後」の終わりの始まりと認識すべきだ。そして「戦後」を乗り越えるために「強い首相」を作り出す必要がある。>
と書く。「強い首相」を作るべきだ、というのは大賛成だ。だが、どうしてそこに「戦後」が出てくるのか? 最近の御厨氏の本を読んでいないので、御厨氏がどういう意味で「戦後」という言葉を使っているのかよく分からないのだが、僕は日本国憲法の改正をもっと堂々と論戦できる空気が醸成できればそれでいいと思っている。個別具体的な問題でタブーが多すぎる。例えば、
核を持つべきかどうかも論争すべきだ。武器輸出三原則を今後も守るべきかどうか、も論争すべきだろう。同和問題、在日朝鮮人問題、外国人労働者問題、米国の人種差別問題、中国の人権問題、台湾が本当に中国の一部なのかどうかの問題、ロシアとの領土問題、満州に違法に攻めてきて強姦を繰り返し、男をシベリアに連れ去ったソ連の責任問題、米国が原爆という非人道兵器を使用した責任問題、靖国神社参拝問題、東京裁判は勝者の裁きだったのか人類として受け入れるべき裁きだったのかという問題、南京虐殺問題、大東亜戦争はアジア解放戦争だったのかという問題、戦争責任を日本人として問うていない問題――などなど日本人が心の奥底に押し込めている問題は非常に多い。これは多かれ少なかれ「戦争」「戦後」にかかわっている。
「戦後」を終わらせるということは、こういう問題に日本人としてある程度納得いく解答を得ることではないか。それを次の政権から始めることができるのかどうか。
僕はまだまだ30年はこのままの状態が続くのではないか、と思うのだが。
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