和田春樹・東大教授が2007年3月11日に「フォーラム神保町」の佐藤優氏の講座で語った内容が2009年5月14日、フォーラム神保町の別働隊「魚の目」というホームページにアップされていた。6月3日には第2回というか、同じ日の講演の後半部分がアップされた。
http://uonome.jp/article/satoh/228
ttp://uonome.jp/article/wada/298
最初に佐藤優氏の冒頭発言があった。佐藤氏の発言と和田氏の発言の要点を筆記しておく。全文はあくまで「魚の目」で見ていただきたい。これは私の個人のメモ帳代わりなので、誤字脱字、大幅な改変もあり、引用は不適当です。発言を引用されたい方は、フォーラム神保町の了承を得た上で、あくまで「魚の目」から引用してください。
和田氏の講義はまだまだ続く。今回は1回目ということだが、5回くらいまでいくのだろうか?
【佐藤優氏の冒頭発言】
▽私は1960年生まれでポストモダン世代。日本のポストモダンは浅田彰の『構造と力』(勁草書房、1983年刊)出版に始まる。1985年4月に外務省入省。翌年夏、外国へ行き、日本に戻ったのは1995年3月なのでポストモダンの嵐とバブルの嵐を知らず、日本に帰って日本の思想状況が驚くべきものに見えた。
(1986年から1995年までの10年間の日本の変化はどんなものだったのだろう? 確かにだらしないポストモダンは流行し、オタクブームもこの頃だったか? 当時の日本は本当に佐藤氏が驚いた「思想状況」のような知的風景だったのだろうか?)
▽これほどマスメディアの世界と知的なアカデミズムの世界が乖離している国は世界でも珍しい。1986年では乖離はそうなかったが、今や恐るべき乖離。私はポストモダンに極めて批判的。ラカン、フーコー、デリダらは周辺から物事を見て、おもしろい知的な物語を出し、「脱構築」するのはいいが、人間は物語を作る動物という重要な真実を忘れてはいけない。知識人の大きな仕事は「大きな物語」を作ること。この責任を日本の知識人は放棄し、自らの小さな物語をエンジョイしてる。
(このマスメディアと象牙の塔の乖離、って深刻な問題なのだろう。もともと1968年頃に全共闘が問題にしたのもこういう大学の閉鎖性だった。「大きな物語」を語る学者がいない、という佐藤氏の論に賛成だ。昔、ポール・ケネディがやったことを最近はフランスの学者たちが大きなスパンでやろうとしている。言ってみれば塩野七生さんの文明論を少しだけ学問的にしただけの論文が多いのだが、そうした論文の流通する場が大きいので、世界的に騒がれる。塩野氏や山内昌之氏のような論文を若い学者が書かなくなった。山内氏の「スルタンガリエフの夢―イスラム世界とロシア革命」のような雄大な地平を見渡した学問的営為の結晶が出てこないと、日本の知はゼロだ、と言われる。丸山真男氏のような似非講座派的な学問だけが「正統」で、学問領域をまたいだ論文は「イカサマ」と見る了見の狭い日本の象牙の塔を全共闘は結局、破壊仕切れなかったのだ。)
▽ある学会でインテリジェンスの話をした後、大学院生や助手たちの話は、新聞紙の上にクソがついたものを乾燥させて落として、そのあとの染みがどういう形かという類の議論。インテリジェンスの実務をしていた私には関係ない話だが、アカデミズムの中ではそこがマーケットになっている。このポストモダン後遺症からどう脱け出すか、が重要。
(この佐藤氏の表現はいかにも佐藤氏らしく辛辣だが、あっている。)
▽『獄中記』(岩波書店、2005年)の柄谷行人氏の書評は「佐藤の知性が面白いのは外交的、行動的だからだが、外交的、行動的な知性は通常は知的でない。知的なものは普通は行動性や実効性をもたない。この間の架け橋を彼はどう見つけていくのだろう」。私は柄谷行人氏争奪戦をしている。私は「大きな物語」世界に柄谷氏をもっていきたい。反対側はポストモダンの旗手や縮小再生産された学校秀才左翼連中だ。向こうから見ると私は非常にマッチョで、暴力的に見えると思う。
(柄谷行人がそんなに立派か? そうは思わないけど。)
▽和田春樹氏は東大文学部卒業後、大学院に行かず助手になり大学の先生になった東大の秀才中の秀才。語学は英語、ロシア語、ドイツ語、朝鮮語も完璧に理解する。東大社会科学研究所に長く、アカデミズムでも講座派、労農派双方の伝統を踏まえ、竹内好氏の伝統を引く「アジア主義」の流れもある。和田氏自身は日本共産党の硬直したマルクス主義とは常に距離を置いてきた。全共闘や民青からぶん殴られた人。常に熱い問題を拾う癖があり、ゴルバチョフが登場して北方領土が動きそうになった時は日本外務省の北方領土交渉の弱点を衝いた。日本政府が主張しているクリル諸島の中に国後島や択捉島が入っていないという議論は、実証史学の立場からすれば恥ずかしくて口に出せない稚拙な水準で、冷戦下で日本政府がでっち上げた議論。そういうことを言うと右バネ(右翼)がはねるから怖い。誰も日本外務省の立論の問題点を指摘しなかった時に、きちんと発言。1855年の日露通好条約のオランダ語原文に当たり、当時の日本語訳とオランダ語原本の間に大変な乖離があ、事実上の誤訳だったと指摘し、外務省を徹底的に叩きのめした。
(和田氏については、和田氏本人の書いたものを読まず、本人の話を聞かずに批判していた部分が大きかったのではないか、と私は今、反省している最中だが、そうは言っても、私と和田氏の考え方は異なる。)
▽最近は学者の立場と政治的実践の立場を区別せず「50:50」論や「三島返還」論を言っている学者がいて、ある程度の批判が出てきたところで「私は当面沈黙する」と毎日新聞に書いた。北海道大学スラブ研究センターの岩下明裕教授だ。私は「週刊金曜日」(2007年3月9日号)でかなり手厳しく批判した。理論と実践の間のどこに線を引くかは、知識人にとって重要。政治的提言をした以上は学問研究と違い、言論に責任が伴う。
(この学者の政治的発言についての佐藤氏の論も正しい。北海道大学スラブ研究センターの岩下明裕教授については佐藤氏は糞みそだが、和田氏は褒めていた。これも本人に会うまでは判断を留保したほうが良さそうだ。)
▽和田氏は常にその責任を負っていく姿勢だ。和田氏の言説を勉強し、本当に北方領土を動かそうとした時は和田氏に見せて恥ずかしくないものを作らなければならない、と取り組み『日本とロシア―真の相互理解のために』という日本政府の立場でできるギリギリのところでロシアとの対話の論理を作るロシア語の宣伝パンフレットを外務省の特命で私が原案を作った。その日本語訳はまだない。パンフ作成時に日露関係の大きな転換が行なわれた。
(この日本語訳がない、というのが佐藤氏の言いたいところなのではないか、と思うのだ。外務省が右翼を怖がって、と。外務省のけつの穴が小さすぎることは確かだ。)
▽和田氏は「二島+α」論か「二島返還」論かと思っていたが、話を進めるうちに「四島が日本人としての強い意見なのだから、四島返還という形で議論を組み立てるのは日本の立場として当然だ」という言葉をもらって、日露の戦略的提携で、冷戦の論理を超えるところで和田氏と話をしながら北方領土議論を進めてきた。東郷和彦、丹波實両氏もみな和田ファンだった。
(和田氏の4島返還論は本人がしゃべっていた。)
▽我々日本の外交官にとっても決して胸を張れるようでない事を過去に日本人が引き起こした。それを隠蔽するのではなく、素直に認めることで日本のポジションは強化される、と私は思っていた。「慰安婦」問題に関して私は「従軍慰安婦」という定義には問題があると思うが、日本軍に付属して「慰安婦」がいたことは、まぎれもない事実だ。私の母は沖縄出身で沖縄戦に軍属として参加していたから、母から沖縄「慰安所」の話を聞いている。「長崎ピー」や「朝鮮ピー」と呼ばれた「慰安所」があって、母親が「そこで何をするのか」と訊いたら、軍属だった母の姉から「そんなことに関心をもつんじゃない」と言われた、と言っていた。「慰安婦」がいなかったなどというのはとんでもない話だ。「慰安婦」問題は封印されているが、南洋諸島の琉球「慰安婦」問題もある。東映の映画「大日本帝国」の中で丹波哲郎が東條英機役、三浦友和は将校の役でサイパンに行く。佳那晃子が演じる現地で付き合っている女性の役柄は明らかに琉球「慰安婦」。そのあたりの歴史の断面は右側の映画の中でも残っている。
(最近、佐藤氏は沖縄出身の母親について語りだしている。佐藤氏の思想の中には沖縄的なものもあるのだろう。)
▽「慰安婦」問題はアジア女性基金というユニークな形が取られた。国家補償とは形が違うが、責任を取る。和田氏の提唱でやった。右からよりも、かつて和田氏と同じ陣営にいた左からの攻撃が厳しかった。「和田は政府の側に歩み寄るのか。権力に取り込まれるのか」と。そんな中で知識人の立場をきちんと保持しながら現実に影響を与える姿勢を示す学者として、私は和田氏を誰よりも尊敬する。
(例の「知識人と政治」問題だ。大正デモクラシーから、というよりも、もっと前の夏目漱石の時代から大きな問題だった。)
▽和田氏ならばロシア関係学会のドンになれる。東大社会科学研究所を定年退職後、どこかの私立大で人事の手配師のようなことをやれば、日本のロシア学界を簡単に席巻できるが、一切せず、今、ロシアが持っているコミンテルン文書をちゃんと集めて編纂しなければいけないということで、ロシア人もきちんとやっていないからということで、ロシア語で本を出している。モスクワでロシア語の資料集の編纂をしている。和田氏がロシアで出した本は非常に高く評価されている。
(そういうものなのか? 学者の世界は分からないが、ドンがいて差配するなんて、永田町と変わらない。どこでも人がいる限りサル山ができるのだろう。)
▽1993年9月初め、当時エリツィン政権の側近だったブルブリス元国務長官(戦略センター所長)を日本に連れてきた時、当時、外務省と和田氏との関係は良くなかったが、ブルブリスが「和田先生とだけはどうしても話がしたい」「日本政府の立場もあるので公に会わせられないなら、電話だけでもつないでほしい」ということで、電話をつないだことがあった。あの時はブルブリスは国立ロシア人文大学学長になったアファナシエフ氏から和田氏のことを聞いた。アファナシエフ氏は著名な改革派系インテリで、ロシア国立人文大学の前身であるロシア国立文献大学学長として、サハロフ博士と連携してソ連体制の変革を進めた人だ。アファナシエフ氏は和田氏を非常に高く評価し「和田と語らずして日本を語ることなかれ」と言った、と私はブルブリス氏から聞いた。
(和田春樹氏がロシアの友人に信頼されている、という話。)
[メディアと知識人①]和田春樹氏講演
▽<知識人とは>ラヴロフによると「知識人とは批判的に思惟する主体」。職業は別に関係なく、批判的にものを考える人間が知識人。知的職業にあっても、批判的に考えられない人間は知識を売っている商売人にすぎない。私は自分を知識人と考える時、ラヴロフの言葉を一番重要なポイントと考えてきた。日本ではかつて「反政府的」「反体制的」な人が知識人、という考え方があった。政府に協力したり体制内的発言をする人を変な目で見る雰囲気があった。
(これも冷戦時の「知識人」論だろう。)
▽<政府とは是々非々>だが、知識人は批判的にものを考える人間だが、批判的に考えることは別に反政府的ということにはならない。政府に良ければ「良い」と言い、悪ければ「悪い」と考える存在だ。「革命が必要だ」と考える人も知識人だ。いろいろな知識人がいるという点が重要なポイントだ。
(この辺、和田氏と話が合いそうなのだが。)
▽<戦後日本の特徴>戦後冷戦期、日本は日米安保体制のもと、アメリカの同盟国として生きてきた。米ソが全世界で熾烈に争っている冷戦期、東アジア、東北アジアでは1945年以後も30年間、「熱戦」が続いた。1975年にベトナム戦争が終わるまで東アジア、東北アジアにあったのは「冷戦」でなく本物の戦争で、日本は終始アメリカの庇護の下、平和だった。基本的には戦争に参加せず、非軍事的経済発展を続けたのが戦後日本の特徴だった。
(この認識も正しいと思う。)
▽<自社が協力して高度経済成長を成し遂げた>日本は憲法9条を持ち、9条存続のもと1954年から自衛隊を置いた。憲法9条の縛りがある自衛隊なので専守防衛の自衛隊、海外で行動しない自衛隊だ。日本は二重三重に安全装置のかかった軍事力として自衛隊を保持していた。政権は55年体制で自民党がほとんど永久的、恒常的に執権。社会党は万年野党だが、非常に落ちぶれていたわけでもなく、相当に堂々としていた。議席の3分の1という憲法改正発議をはばめる勢力を持っていた。国民の中でも約3分の1の支持を得ていた。社会党は日米安保体制、自衛隊に反対で、政権を取れない。社会党は冷戦下で政権担当できなず永久に野党だったが、野党として自民党の政策にブレーキをかけ、その効果があって、日本は基本的に非軍事的経済発展を遂げた。
(この実質は「自社連立政権」という見方は面白いと思う。社会党研究者の中にもあまりない視点だと思う。)
▽<自民党政府に歴史認識なし>自民党政府は歴史認識を持っていない。戦前の歴史について、統一見解を持てなかった。吉田茂の保守本流は「軍国主義は良くなかった」の考え方だったが、岸信介の傍流は「戦前の歴史に問題はない」という考え方。当然、自民党では戦前が「いい」とも「悪い」とも評価しない暗黙の合意があり、自民党政府は過去の戦争についての評価は全くしていない。
▽<憲法は吉田+社会党VS.岸の構図>憲法で吉田茂の主流派は護憲社会党と同盟し、改憲派岸派と対立した。保守本流は明文改憲しないことで野党・社会党と同盟していたが、それだけはやっていけないので、保守本流は解釈改憲で自衛隊を認めた。当初の解釈では、憲法9条は一切の軍事力、自衛のための軍事力も認めていなかったが、1954年に「憲法は自衛権を否定していない。自衛のための軍事力は持てる」と憲法解釈を変えた。これが解釈改憲だ。
▽<社会党の政策を受け入れた政府自民党>自民党政権は万年野党である社会党の政策を受け入れ、社会民主主義的な政策を実行した。経済成長を図ると同時に社会民主主義的な政策を入れて、格差拡大を防ぎ、。中央と地方の差が出ないよう努力した。
▽<知的世界での反権力と一党支配がバランス>その時代、知的世界ではメディアも大学も出版界も基本的に政府批判の野党的、左翼的機運が強かった。政権獲得可能性のない永久野党的だ。大学では経済学といえばマルクス経済学を教え、それが主流だった。メディアには左翼的記者が多く、出版界にも左翼的出版社が多かった。知的世界では右翼的な意見、戦前を賛美する議論は抑えられた。そういう考えをもっている人はいるのだが、そういう意見の表出はむしろ抑えられた状態だった。政権は自民党政権だが、知的世界は野党的な政府批判の意見が主流で、そういうあり方が社会全体を健全な雰囲気にした。一党独占政治が1955~1993年まで38年も続き、社会は全体主義的雰囲気になってもおかしくなかったが、そうならなかった。
(ここまでの冷戦期日本の権力構造論はユニークで面白いと思う。論壇という一見、非政治的人間の集団が果たしてきた政治的な役割を重視し、一党支配体制とのバランス論を展開している。「なるほど」の論理だが、本当にそこまで影響力があったのか、論壇勢力が影響を与えたのはインテリ層だけで、最も大きなマスである庶民階層には無縁だった、という事実を無視している感じもある。)
▽<冷戦崩壊とアメリカ>1980年代終わりに冷戦体制が終わる。ソ連国家社会主義体制が終わる状況になり、変化が起きた。これまでのあり方はそのままでは維持できない。変わらなければならなくなった。アメリカが一人勝ちしたようにも見えたが、今から考えると、冷戦終結段階で、アメリカの体制も相当程度傷ついていたと考えるべきではないか。それが遅れて、今日のアメリカの混迷になって出てきていると考えられる。一見するとアメリカに非常に力があって世界をリードして支配していくように見えたが、それは一種の幻想だったことが今では明らかだと思う。冷戦が終わった段階でアメリカも含めて変わらなければならなかったのだと思う。
▽<アジア台頭と北朝鮮>代わりに出てきたのはアジアの台頭。中国やインドや東南アジアが上がってきた。アジア全体が台頭したが、特に悲劇的に危機的状況に入ったのが北朝鮮だった。社会主義が終わり、ソ連との関係がダメになり、重油が入らず経済的に完全に破壊的状態に陥った。アジア全体は台頭したのに北朝鮮は危機、というのが今日の特徴だ。
(これが和田氏の北朝鮮認識のベースなのだろう。和田氏の認識の特徴は非常に透明だ、ということだ。こだわりがない。宇宙人のように、立脚点が固定していないから、相手の立場にすぐに没入する。だからナショナリズムというバイアスがない。だから、日本の国益という話をしても理解できないのではないか、と思う。だから、この人と論争しても仕方ないのではないか、空しいという気もしてきた。)
▽<地域戦争多発時代の自衛隊海外派遣と憲法との関係>国内的には55年体制が終わり、自民党の永久執権状態ではなくなった。細川連立非自民政権後には自社さ連立で社会党の首相も誕生。憲法9条のもとに自衛隊があって専守防衛だ、と言っているだけでは済まない状況が現出した。世界戦争時代が去っただけに、地域的戦争が激発し、自衛隊の海外業務が問題になり、憲法と自衛隊の関係をどう考えるか、が問題になった。
(これが冷戦崩壊の日本政治への影響論なのだろうが、当時、外務省や首相官邸がどう言っていたか、と言えば「欧米の冷戦は終結したが、東アジアの冷戦は続いている。北朝鮮を見ろ」という論調だった。これが日本の大戦略作りを遅らせた最大の誤算だった。冷戦崩壊という歴史的事象を矮小化してしか理解できない外務官僚たちの猿知恵に政治家も踊らされ、冷戦後の世界への想像力が湧かなかった。日本の最大の失敗だった。この判断ミスがその後、「第2の敗戦」などと言われる世界標準からの遅れを生んでしまったのだ、と思っている。)
▽<村山氏のように変われない人たち>社会党の村山首相は日米安保と自衛隊を丸呑みした。自民党の論理を丸呑みしたので、社会党の支持者が逃げ、社会党はつぶれた状態になった。村山氏は明らかに一つの解決策を出したのだが、そのようには変われない人がいた。
(「9条の会」の方々に恨みはないし、日本国民の中の最大限良識的な方々であることは間違いないのだが、この「変われない人々」に入るのではないか、と思うのだ。憲法を守っていれば戦争は起きない、というのは冷戦終結まで信じられていた神話、日本でしか通じなかった幻のような共同幻想だったのだ、と早く悟ってほしい。)
▽<避けて通れなくなった歴史問題>自民党はずっと歴史問題を回避してきたが、東アジアの熱戦が終わり、米ソ冷戦が終わり、アジアが台頭すれば、アジアと日本の関係で、日本がアジア侵略に明確な態度を示す必要が出てきて、避けて通れなくなった。
▽<過去の軍隊と違うと明確化させねば自衛隊海外派遣ができない状況>両方合わせれば、歴史問題をはっきりさせずに自衛隊を海外に出せない。過去の戦争否定、過去の侵略否定を明確化し、そういう歴史と完全に切れたことになって、初めて新しい意味で自衛隊を国の外に出せる。歴史問題はその意味で非常に重要問題になった。
(この問題が大きいと思う。自衛隊を海外派遣するためには、今でもここがネックになっていると思う。ソマリア派遣では「相手が国でなく、海賊だから」でクリアしたため、問題は先送りされている。)
▽<冷戦期は北方領土問題は解決しないことが重要だったが>いまや地域協力が非常に問題だ。北朝鮮問題がある。北朝鮮問題を考えれば、ロシアと日本の新しい関係が必要となり、北方領土問題が重要になる。北方領土は冷戦時代には解決しないから意味があった。日ソ関係が緊張し日米関係が仲良くなるために役立っていた。冷戦後の新状況では領土問題を解決して日ロの新協力関係を作り、地域貢献することが必要だ。その意味で新しく問題がさまざまに出てきた。そこで知識人の新しい役割が必要とされる。
(この冷徹な見方は貴重だ。そういうことだ、と思う。)
▽<知識人の新たな役割>冷戦期、知識人は社会党万年野党の体制の中で気楽に政府批判していればよかったが、今や責任を持って日本の国家、日本の国民が今後どう生きなければならないか、考えて道を見出すために貢献する必要が出てきた。単純に社会党支持者にとどまっている状況では済まない状況になった。80年代末はまさにそういう時期だったと思う。
(これも「9条の会」の方々に考えて頂きたい問題だ。)
▽<大学生の頃の関心はロシア革命>私はロシア史をやろうと大学に入学したのは1956年。日ソ国交樹立の年、日ソ共同宣言の年だった。当時ロシア史研究を志望する人はロシア革命に関心を持つ人だったから、日ソ国交樹立、日ソ共同宣言がほとんど関心の対象にならない。ロシア革命の次には1956年の第20回党大会でスターリンが批判された「スターリン批判」に関心があった。秋に起きたハンガリー事件にも関心があり、日ソ共同宣言にはあまり関心を持たない状態だった。
▽<領土問題に関心を持ったのは80年代>80年代半ば、日露関係シンポジウムでソ連側歴史家の報告を聞き、初めて領土問題が深刻な問題だと気づいた。日ロ関係には関心を持っていたが、領土問題には全く関心がなく、調べたことも一度もなかった。考え始めた時は1986年、日ソ共同宣言30年の年だ。前年の1985年、ソ連にはゴルバチョフという新リーダーが登場した。日本政府はゴルバチョフに日本訪問を頼もうとし、北方領土問題にも新しく光が当たる状況だった。
▽<1986年の「世界」論文の衝撃>ロシア史専門家としても、これだけ国民が悩んできた北方領土問題が解決できるよう、研究し提言する義務があると思った。それで『世界』(86年12月号)に「『北方領土』問題についての考察」という論文を出した。80年代初めから私に韓国問題の論文を書かせてくれたので「世界」編集長の安江良介氏に頼んで書かせてもらった。私の論文は領土問題は解決しなければならない。領土問題を解決するためにはどうしたらいいか。それを考えるには、三つの前提がある。
①日本人は四島を返してほしいと思っている。なぜかというと、それは日本とロシアが幕末に初めて国交を樹立したとき、択捉島と得撫島の間に国境線を引いたのだ。あの1855年の日露通好条約はある意味では日本人とロシア人の麗しい友情に満ちた関係で結ばれた条約であって、そこで引かれた国境線に戻りたいという日本人の願いの中には、ロシアに対して侵略的な気持ちも、報復的な気持ちもない。四島を返してほしいという日本人の気持ちは、日本とロシアの国交の原点、友好の原点に戻りたいということなのだ
②はソ連側の見方。日本とロシアは日露戦争を戦いロシアはサハリンの南半分を取られた。そして、1945年の日ソ戦争でソ連は南サハリンを取り戻し、こんどは千島を獲得した。戦争でお互いの領土を取ったり取られたりした歴史がある。現状は既成事実で、これを変えることは大変だ。変えるべきではない。戦争でできた既成事実を変えるのは関係を混乱させるから、現状を守りたい気持ちがロシア人の側にある。日本人もこの気持ちは理解できる
③サンフランシスコ条約で日本はクリル諸島を放棄している。一方、歯舞、色丹は放棄しないと吉田茂(首席全権)は会議の席上発言している。そしてソ連は1956年の日ソ共同宣言で平和条約調印後に歯舞、色丹を引き渡すと約束した事実がある。これは両国間の国際法的な取り決めだ。
この三つの前提から出発し、解決策を考えれば、結局③から、択捉、国後はロシア領土だと認めるしかないだろう。歯舞、色丹は約束通り日本に渡してもらう。しかし、それでは①の日本の国民の希望が満たされない。1855年の原点に戻りたいという気持ちが生かされない。それを生かすには、主権は分かれるが、四島を日ソで共同経営する、ということにすべきではないか。
四島共同経営の原則は①四島を非軍事化し、軍隊は置かない②両国民の4島への自由往来可能とする③資源、環境を保護④共同経済開発する――でやったらどうかと、いう提案だった。
お互い国境を乗り越えて協力関係に入ることが、新世紀にとって必要ではないか。問題解決が何よりも望まれるのは、日ソが第2次大戦末期に戦争をして最大の被害を受けたのは、ソ連参戦の結果、国土が分断された朝鮮の人々だからだ。今日でもそこから問題が発生している。だから日本とロシアが領土問題で話をつけることが必要。日本とロシアが互いに協力し、朝鮮人問題解決への貢献が求められる、という論文だった。
(このソ連の参戦、日本との戦争で朝鮮半島が分断された、という因果関係は正しくない。そのトラウマで朝鮮半島問題に深入りしているとしたら、それは大いなる勘違いだ。朝鮮半島は当時、日本だった。日本人として大東亜戦争に参戦していた。だから、東北の娘と一緒に朝鮮半島の娘の中にも慰安婦として生きた人がいただろう、とは思うが、そういう時代だったのだ。ソ連が最後の最後に米国の了承のもと、日本に参戦し、満州で日本人を虐殺、婦女子を略奪しながら北方領土と樺太を不法占領した、というのが当時の日本人の記憶だ。国際文書に何と書いてあっても、日本人が根絶やしにされない限り、この記憶は伝承されるだろう。そこが頭でっかちの和田氏には理解できない部分だろう。日本が国家として朝鮮半島の方々に謝罪し、今からでも過ちを正さねばならないのは、終戦直後の非人間的な行いだ。これだけだ。日本に半強制的に連れてきて、日本人として、というよりも2級日本人として労働させたうえ、終戦となったらば「おまえは日本人ではない」と国籍を取り上げたことだ。こんな非人間的なことはない。日本人になってもらった朝鮮半島出身の人々は日本人なのだ。それを日本人でない、として追い出そうとした。終戦直後、食糧難の時代、人口は少ないほうが良かった。だから、弱い朝鮮人をまたいじめたわけだ。そして、韓国に国籍を移した人以外は「朝鮮人」とした。在日朝鮮人である。在日朝鮮人は北朝鮮の人という意味ではない。日本人なのに国籍を取り上げられ、韓国籍も入手しなかった人たちだったのだ。だから、戦後60年経とうが、100年経とうが、日本という国家はこの人たちに日本国籍を無条件で与えるべきだ、と思っている。それが、まず第一に行うべき日本の償いだ。朝鮮半島に住み、韓国という国家に保護されるようになり、それを望んだ方には、それでも日本国家として、戦争の補償を何らかの形ですべきだが、それhじゃ東京大空襲の被害者たちへの補償と同じ意味だと思っている。)
▽<共同通信配信で大騒ぎ>朝日新聞記者の白井久也氏が読んで「私の言い分」という欄に出してくれた(87年11月30日付)。私はあまり恐怖は感じなかったが、すぐ電話がかかってきたのは有名な村山七郎先生(1908~95、言語学者)からだった。「右翼から攻撃が来ませんか」とお尋ねになった。『世界』論文が11月に出る前に、共同通信が論文を記事化して配信した。「国立大教授がこういう論文を出す」という趣旨の記事で、私とだいぶ立場が違う人ですが、東京外国語大教授(当時)の中嶋嶺雄さんが『現代』に書いた二島返還論も一緒にとりあげていた。国立大教授2人が「2島返還」がらみの論文を書いたということで、共同通信が記事にした。共同通信の記事は『世界日報』という統一教会系日刊新聞の一面トップで取り上げられた。『世界』が出る前の話だった。ゲラ段階で読んだのだろう、私は「大変な騒ぎになっているな」と思った。私が書いた『世界』論文は、すぐそちらの系統の議員が質問をして、中曽根首相が「二島返還を要求する気などない。4島返還の要求は守る」と答弁した。私の論文が出る前にそこまで行ってしまった。
(以下、国会議事録より該当部分)。
《木下敬之助委員 最後に外交問題で一点お伺いして、質問を終わりたいと思います。
ソ連のゴルバチョフ書記長の来日が実現するのかどうかということが日ソ外交の焦点となっておりますが、もし日ソ首脳会談が実現すれば、当然領土問題が議題になると思います。北方四島一括返還は我が日本国民の悲願とも言えるものでございますが、このところ二島返還という観点に立った記事や論文をいろいろと見かけます。きのうの世界日報にも載っておりましたし、九月九日の世界週報にも「歯舞、色丹の二島返還はあり得る」こういった推測記事が掲載されておりました。この記事を書いた方は外務省の動きをかなりよく知って書かれたのかなとも思いますが、どういうことでございましょうか。外務省、そして総理の御見解をお伺いして質問を終わります。
中曽根内閣総理大臣 この間も、衆参両院におきまして満場一致で四島返還の御決議をいただいて、これが国民的合意であり、悲願であります。政府はそれを体してやるのでありまして、二島返還というものを考えてはやらない、四島返還というものをばっちり考えておるということを申し上げます。》(衆議院予算委員会 1986年11月5日)
▽<中曽根首相の日ソ「新しい道」志向>中曽根首相が領土問題で新しい道を選ぶのではないかという心配が当時、非常にあり、事前につぶそうというわけだった。中曽根首相と中嶋氏とは関係があるのではないかと思われたのだろう。右の方からは、朝日新聞の記事を見て「けしからん」という手紙が五通ほど来たが、ほとんど恐怖を感じるような状態ではなかった。
▽<伊藤憲一氏の「日面ソ心」論と秦郁彦氏の「日面金心」論>87年になって外務省OBで青山学院大学教授の伊藤憲一氏が「北方領土『2島返還論』を疑う」(『諸君!』1987年2月号)で「和田の論文を読むと、この人物が日面ソ心だということがわかる」と書いた。顔は日本人だが、心はソ連人という意味で、「人面獣心」のもじりだ。その後、私はアジア女性基金関係で秦郁彦氏から「日面金心」と言われた。「金心」の「金」は金大中の金か金日成の金かわからないと言われる。レッテル貼りの最初が伊藤憲一氏のコピーだった。
(伊藤憲一氏ってそういう方だったのか? この方の本は昔、2、3冊読んだことがあるが、内容は覚えていない。)
▽<条約正文のフランス語からの日本語訳に間違い>中世から近代初期であれば、私は当然決闘を申し入れるところです。こんなことを言われて黙っているわけにはいかない。しかし、今の時代そんなこともできないので、私は伊藤さんの論文をしげしげと読んだ。私は『世界』論文で「クリル諸島が何かということは、世界の百科事典を見れば一目瞭然だ。クリル諸島の中に択捉島も国後島も入っているし、色丹島まで入れているのが普通じゃないか。どの国の百科事典でもそうなっている」と書いたが、伊藤氏は次のように書いた。「和田は得意になって百科事典を引用しているようだが、そんなことには意味がない。国と国の外交では、外交文書しか意味がないのだ。日本とロシアの外交文書にどう書いてあるかが問題だ。日本とロシアの外交文書、即ち1875年の千島・樺太交換条約を見ると、クリル諸島というのは得撫島以北であるということが明らかだ。」
私は伊藤氏のこの主張に注目して、調べた結果、決定的なことを発見して、書いたのが「千島列島の範囲について??『北方領土』問題を考えるために」という論文(「世界」87年5月号)だった。条約には正文というものがある。これを両国で共通に確認し、調印する。千島・樺太交換条約の正文はフランス語だった。それに日本語とロシア語の訳がついているが、それは訳文にすぎない。伊藤氏が千島・樺太交換条約を見ると、クリル諸島というのは得撫島以北だと分かると言う時、伊藤氏が見ているのは、日本語訳文だけだった。フランス語の正文を読んだらそうは読めない。ロシア語の訳文もそうは読めない。だから私は『世界』の反論に「外交交渉で意味があるのは訳文ではなくて正文である。それがわからないのか。あなたの言うことはまったく成り立たない。」と書いた。これが決闘の代わりだった。伊藤氏が私のことを「日面ソ心」だと非難したことには触れなかった。
▽<安政条約にもオランダ語からの誤訳…外務省の天敵に>翌年にも私は「世界」にこの問題で論文(「世界」88年5月号「再論・千島列島の範囲について??安政条約とクリル諸島」)を書いた。「安政条約と千島・樺太交換条約を読むと、二つとも同じで、クリル諸島というのは得撫島以北だということは明らかだ。だからサンフランシスコ講和条約で放棄したクリル諸島は得撫島以北しか含まれていない」というのが外務省の考え方だった。そこで今度は1855年の安政条約(日露通好条約)のオランダ語の正文に当たって調べた。すると、どうしてこういう誤訳が生じたかと思うほどの、欠陥のある日本語の訳文だった。そんな誤訳に基づいて議論をすることはできない。少なくともロシア人にはまったく通用しない。ただ、それを私が書いたから外務省と全く悪い関係になってしまった。外務省の天敵のようになった。
96年9月13、14日、東大で「ロシアはどこへ行く」シンポジウムをやった時、外務省に協力を要請しに行ったら、篠田研次氏というロシア課長が真っ先に「和田さん、クリル諸島についての解釈は改めましたか」と言った。私は「ご期待には沿えない。私は改めてはいません」と言った。その時は篠田氏は私が考えを改めなくともロシア課課長代理氏を派遣して懇親会であいさつしてくれたが、最初の挨拶がそれだったのは、とても印象に残っている。
(篠田研次ロシア課長か。今は何をやっているのだろう?)
▽<土井たか子はゴルバチョフに全千島返還を要求し、ぶち壊し>80年代末、私は外務省と接触できない状態だったので、社会党の方へ行った。土井たか子氏が88年に社会党委員長として訪ソすることになり、協力を求められた。ゴルバチョフに何を言ったらいいのか、意見を聞きたいという。私が土井さんに言ったのは「二島返還を約束した56年の日ソ共同宣言の確認をゴルバチョフに求めたらどうか」ということだった。ゴルバチョフは国際的な取り決めを尊重する新思考に立って外交をやろうとしているので、日ソ共同宣言の再確認を求めるのがいいということになり、土井氏のために学者、外務省OBに呼びかけてシンポジウムをやった。私も報告し土井氏はみんなの話を聞いてそれで行こうということになったと思った。
社会党のそれまでの主張は、共産党と同じで、全千島返還。とんでもない話だ。社会党政権になったらソ連が頭をなでてくれて、全千島を返してくれると思っていた。そんなことはありえない。社会党や共産党の政権ができたって、返すはずがない。ソ連は社会党代表団にそんな要求はうけいれられないとはっきり言っているのに、全千島返還を言い続けていた。「通ろうと通るまいと、これが最も正しい主張だ」という考えだ。私は「そういう主張をゴルバチョフに言ってもいいが、後のほうでコッソリ言ってください。最初は日ソ共同宣言の再確認をはっきり言って下さい」と土井氏には言った。会見の冒頭から「全千島を返還してくれ」などと言ったら「この人は頭がおかしい」と思われる、と言ったのだが、蓋を開けてみると私の提言は採用にならなかった。社会党内部のブレーンが「我が党の立場は全千島返還だ。これをまず言わなければならない」と言ったので、土井氏はそれに従い、ゴルバチョフ会談は台無しになった。これは失敗の経験だ。
(土井たか子氏の「やるっきゃない」「山が動いた」「駄目なものは駄目」は小泉純一郎氏よりも前に「ワンフレーズ・ポリティクス」を実践していた感じがする。といえば褒めているように見えるかもしれないが、土井氏の頭の中が空っぽ、と言いたいのだ。できもしない幻想を振りまいて、日本の政治に害悪だけを垂れ流した人だと思う。)
▽<エリツィン東京宣言後の行き詰まり>90年代に入って、ゴルバチョフが日本にきたが、1956年宣言の再確認もできずに終わった。エリツィンのロシアになってから4島返還に期待をかけて宮澤(喜一)首相と渡辺(美智雄)外相が交渉したが失敗し、エリツィンは訪日をドタキャンした。そして1993年には反エリツィン派が立てこもるホワイトハウスに砲弾を撃ち込んでから日本に来た。そして東京宣言(93年10月13日)で「歴史的・法的事実、両国合意文書、法と正義の原則に立って四島の帰属問題を解決する」というところまで来た。ところが実際には何も話は進んでいない。
歴史問題にしても法律問題にしても、ロシア側にはロシア側の考え方がある。日本人は歴史的事実について考えれば、四島の日本帰属になると思ったが、そうはならない。それで東京宣言のあと、完全に行き詰まってしまった。
(イルクーツク宣言後の日露の行き詰まりに田中真紀子が果たした役割の大きさ。)
▽<佐藤優氏作成のパンフレットの新しさ>90年代の半ばになって「これではダメだ」となり、外務省の中でいろいろなご努力があったようだ。完全に行き詰まっていると私も感じ、ある出版記念会の場で外務省の方の前で「外務省は外務省、学者は学者で、自分の世界だけで意見を言っているだけではダメだと思う。学者も苦労している外交官に協力して、お互いに議論をして何か道を見出さなければ解決に至らないと思っている」と言ったら、ロシア課長だった原田親仁氏が「和田さんと話す用意がある」と言ってくれた。
96年9月の東大シンポジウム「ロシアはどこへ行く」に協力要請をしに外務省に行った。新しい篠田課長に代わっていたが「わかりました。あなたはクリル諸島についての考え方を変えていないようだけれども、外務省から人を派遣してパーティで挨拶くらいしましょう」ということになり、何人か外務省から来た1人が佐藤優氏だった。佐藤氏が持ってきて私にくれたのがロシア語パンフレット『日本とロシア??真の相互理解のために』だった。実はこの前の渡辺外相時代に『日本の北方領土』というロシア語パンフレットを外務省が出したが、とてもロシア人を説得できないものだった。日露通好条約、千島樺太交換条約によればクリル諸島には択捉、国後は含まれていない、という主張を述べ立てているが、ロシア語では言えない主張だ。条約の日本語訳にのみ基づいている主張だからだ。パンフレットは条約の本来のロシア語訳文をつかわず、不完全な日本語訳文をさらにロシア語訳して使ったので、とてもダメだと批判していた。
ところが、佐藤氏の持ってきた『日本とロシア??真の相互理解のために』は択捉、国後がクリル諸島には入らない、とは全然書いてない。画期的だった。火傷を負った少年の話や地震のときの援助のことなどいろいろ書いてあり「お互いに助け合っていくのだ」という話になっている。本当に新しい流れが外務省内に出てきた感じがした。
(原田親仁ロシア課長は今、何をしているのだろうか? 佐藤氏によると外務省悪人列伝に出てくる人らしいが。)
▽<和田氏が4島返還論に立場を変更>そこで96年10月16日の日ソ共同宣言40周年に際して、朝日新聞に談話をもとめられたとき、私は「国民が4島返還を望むのならば、4島を返してもらうようにどういう道があるか、考えたい」と述べた。それまで私は2島返還、4島共同経営を提案してきたが、4島返還にベースを変えた。これで外務省と関係が良くなった。
▽<イルクーツク宣言を評価>その後、橋本政権になってから、佐藤さんたちが大いに頑張った。私は99年に『北方領土問題 歴史と未来』(朝日選書)という本を書き、「日露の新時代が来た」と外務省の新しい努力を評価した。
2001年3月25日にイルクーツク声明が出た時も歓迎した。イルクーツク声明の前夜、朝日新聞に「どうする北方領土」という形で末次一郎氏と私の談話が載った。末次氏は4島一括返還の立場で、僕は2島+2島の段階論で行くべきだという主張だった。
56年の日ソ共同宣言の中には、クリル諸島の一島である色丹島を「日本国の要望に応え、かつ日本国の利益を考慮して」、歯舞諸島と一緒に日本に引き渡すと書いてあるから、クリル諸島のほかの島(国後,択捉島)だって「日本国の要望に応えて日本国の利益を考慮して」渡せないはずはない、と説得できる。そういう余地が日ソ共同宣言の中にはある、と述べた。イルクーツク声明が出た時には私はそれを支持すると毎日新聞に書いた。当時そういう意見を述べた人はほとんど私だけで、アメリカの学者が「和田の声は孤独な声だった」と書いていた。
▽<2002年からの外務省の悲劇…>2002年からの悲劇的な状況はよくご存知のことだろうと思う。再び外務省と私の関係は全然存在しないに等しいことになってしまった。このごろは岩下明裕君(北大教授)の『北方領土問題』(中公新書)が出たが、とても良い本だと思う。岩下君は私の議論を評価する立場で書いた。岩下君に以前にモスクワで会った時「外務省から『和田の議論を否定する材料がないか調べてきてくれ』と頼まれてきたんです」と言っていた。「だけどうまく見つからない」と言っていた。この本の中で、岩下君ははっきりとクリル諸島の範囲問題については和田の議論が正しいと言っている。
(北方領土問題の仕組みはことほど左様に難しい。)
◎2009年6月3日アップ分(2007年3月11日「フォーラム神保町」佐藤優×和田春樹セミナーの和田春樹氏講演の「慰安婦問題と戦後50年」部分の要点筆記は以下の通り)
▽<高校1年から「申し訳ない」必要と思っていた>慰安婦問題は歴史問題だ。私は相当早い時期から日本の植民地支配が朝鮮人を苦しめていた、と意識してきた。日本が過去に対し「済まない」、「申し訳ない」の気持ちを持つことが日本と朝鮮、日本と韓国が関係を持つ前提として必要だと高校1年ころから思っていた。日韓会談が久保田代表発言で中断した時だった。しかし、運動は何もしなかっ。1965年に日韓条約締結時は歴史家団体の役員で、そこで多少運動した。一人の知識人として運動を始めたのは1973年の金大中氏拉致から。1974年からは「日本の対韓政策をただし、韓国民主化闘争に連帯する日本連絡会議」(日韓連帯連絡会議)事務局長となり、1978年まで市民運動をやった。1978年から1年間ソ連で在外研究をし、帰ってから1980年には「金大中氏を殺すな」運動を一生懸命やった。この運動は日朝関係を人間的なものにする新しいチャンス、第3のチャンスを生かそうとする運動だと考えていた。1980年代に北朝鮮問題が出て、問題を広げて考えるようになり、日本の過去の植民地支配問題を改めて重視するようになった。
(バイアスのない和田氏の唯一のバイアス、トラウマが「朝鮮半島への謝罪」衝動だったわけだ。これは論理でも何でもなく、直感なのだろう。大野伴睦ではないが「理屈はあとから貨車いっぱい載せてやってくる」。大事なのは直感なのだが、なぜか戦中派・和田氏の直感は少年時代に縛られているように見えるのだ。)
▽<謝罪していなかった日韓共同声明>1982年に中韓両国から「日本の歴史教科書が歪曲されている」という批判が起こった。その時、日本政府はこう言った。我々の態度は何も変わっていない。1972年の日中共同声明では「日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と述べている。その精神はちっとも変わっていない。教科書についてもその精神で考えている、と。これはいい。だが、韓国については1965年に日韓条約を結んだ時の日韓共同コミュニケでも過去の関係は遺憾だと深く反省しており、その精神は変わっていないと言った。だが、こちらは通らない。日韓共同コミュニケは「過去のある時期に不幸な関係があった」の言葉で「このような過去の関係は遺憾であって、深く反省している」の言葉があるに過ぎない。不幸な過去の関係とは何なのか、全く説明されていない。「遺憾」は「残念だ」の意味で、謝罪的な意味は全く含んでいないから、日本は韓国に対し植民地支配について何の謝罪もしていない。この際、韓国にもはっきりと日韓併合は侵略だった、日本の統治は過酷な帝国主義的支配だったことを認め、謝罪する政府宣言を出すべきだ、という知識人声明を青地晨、中野好夫、鶴見俊輔、日高六郎氏ら7~8人と一緒に出した。
(大平・金鍾泌会談で竹島を話し合い、お互い政治問題化するのをやめようと密約を結んだ、とか、そういう類の話は相当に聞いたが、これは本質に関わる話だ。そして、帝国主義時代に植民地を持った国家として、植民地支配を謝罪するということが本当にいいことなのかどうか。歴史の味方の問題だと思う。当時は帝国主義の時代だったし、食うか食われるかの時代だった。その中で日本は朝鮮を植民地にした。仕方なかった。今の倫理観、国家観、民主主義観で裁いていいのだろうか、という見方である。私はその歴史修正主義の言い分にも一理あると思うのだ。だから、宮沢内閣の河野官房長官談話も村山政権の戦後50年総理談話も評価していない。)
▽<日韓条約2条の解釈問題>1984年の全斗煥大統領訪日時、クリスチャンと一緒に同じ主旨の声明を出したが、そこではっきり「国会決議すべきだ」と主張した。決議すれば、決議の精神で1965年に結んだ日韓条約の解釈の変更が可能になる。日韓条約は英語の正文があり、日本語と韓国語でそれぞれの解釈に立って訳文をつけている。第2条が韓国併合条約無効化を規定しており、その時点が問題になった。韓国は「最初から条約は無効、日本の支配は不当だった」の解釈だ。日本は「条約は有効で、日本の支配は合法的だった、無効になったのは、韓国建国の1948年だ」という解釈。韓国は現在形で「無効である」という正文にしたかった。日本側は「無効になった」と現在完了形にしたかった。妥協して「already」という副詞を入れたので、日本語訳は「もはや無効である」となった。韓国語訳では「すでに無効である」となっている。これはそれぞれの国の国会で説明され、承認されている。こういう手品みたいなことをやってごまかした。この手品みたいなことで、自分たちの解釈を通すという解決を獲得するのに、韓国人は15年間闘った。日本側は植民地支配を反省することは一切認めなかった。
(これが国家、つまり子孫の名誉のために必要なことだったのではないか、と思うのだ。アジアとつきあうために、つまり経済的な理由で国家の尊厳を捨てるというのは武士ではない、と私は今でも思う。)
▽<韓国側解釈での国会決議を求めた二つの狙い>1984年の私の考えは、国会で植民地支配を反省し、謝罪する決議を出せばいい、日韓条約の韓国側解釈を採用したらいい、ということだった。そうしないと歴史認識が統一されない。もう一つは、国会で決議すれば、その国会決議を持って北朝鮮のドアを叩くことが可能になる。当時は「二つの朝鮮」論反対という立場を北朝鮮が取っていた。どっちかしかない。韓国を取るか北朝鮮を取るかだ、という。実は1972年の日中国交樹立は台湾を捨て北京を取った。中国も「二つの中国」論に反対だった。北京と外交関係を結ぶため、日本は台湾と断交した。北朝鮮はそれと同じことを要求していた。韓国と国交を持っている日本にそんなことができるはずはないから、北朝鮮とは話ができない状態が続いた。だが「朝鮮植民地支配を反省する。お詫びしたいのだ」と言ってドアを叩けば、北朝鮮が問答無用だ、「来るな」とドアを閉めたままにすることはできないはずだ、と私は考えた。そういうふうにドアを叩くべきだというのが、私たちの提言で、各政党に出した。社会党は「支持する」と言ったが、当時の石橋委員長は「これが国会で通るのは夢物語だ」と言っていた。
(石橋の考えが常識論だ。)
▽<土井たか子社会党委員長の建国40年声明に盛られる>4年後の1988年、社会党委員長の土井たか子氏が二つの国家の建国40周年にあたり声明を出した。1948年8月に大韓民国が、9月に朝鮮民主主義人民共和国ができ、40年経ったからで、岩波書店の「世界」編集長だった安江良介氏の助言に拠ったものだろう。声明も安江さんが書いた。安江氏は「朝鮮植民地支配反省の国会決議が必要だというあなた方の主張を土井さんの声明に入れておいたよ」と私に言った。当時、韓国のある新聞は、ごく少数の知識人の声が日本の代表的な政治家の声になったのは驚きだ、と取り上げた。そのころは私は安江氏と組み、北朝鮮と日本の関係正常化運動を考えていた。植民地支配反省でドアを叩くのが一番いいと二人は考えた。
(土井たか子という人物は相当に問題だ、と思っている。)
▽<安江→田辺→金丸→竹下首相の謝罪の手紙→1990年の金丸訪朝の失敗>1989年に昭和天皇が亡くなられ、私は非常にショックを受けた。昭和天皇の時代にあの戦争もあり、植民地支配もあり、朝鮮人との関係でもいろいろなことがあったにもかかわらず、何も清算されずに昭和天皇が去った。その時代のことは我々が清算しなければダメだと思った。そこで朝鮮植民地支配謝罪国会決議を求める国民署名運動を1989年3月1日、昭和天皇が死んで1カ月ちょっとで立ち上げた。安江氏は社会党の田邊誠副委員長と話し、説得に成功した。竹下登首相が応じ、北朝鮮のドアを叩こう、それには植民地支配で被害を与えたことを反省すると表明しよう、となった。竹下氏の手紙をもって金丸・田邊両氏が訪朝したのは1990年のことだ。金丸氏は自民党の副総裁だったが「植民地支配について申し訳なかった」と平壌で謝罪した。金日成は「分かった。それでは国交交渉に入ろう」となった。ソ連が韓国と国交を結ぶ直前だったから北朝鮮も必死だったということも影響しているが、表向きに言えば、日本が「過去を反省する」「植民地支配の歴史を反省する」と言ったので、北も「わかった」と言って、国交樹立に向かったということだ。少数の知識人の良心的な声に過ぎないと考えられた主張が日本の外交の舞台を作ることになった。しかし、これは結局うまくいかなかった。
(安江氏は信念を持って世論を誘導するための操作を行っていた。これは歴代岩波書店幹部に共通した特徴だ。「韓国からの通信」は本当に韓国にいる人が自分で体験していることを送ってきたリポートだ、と思って読んだ。ところが、池という東京にいる人が空想の世界で書いていたことが後で分かった。こういう嘘を書くという癖が染み付いている岩波書店をギリギリのところでは信用できない。普通の時にはその反政府的言辞が耳に心地よい時もあるが。)
▽<金学順氏の慰安婦だった発言→補償問題浮上>1991年、韓国で金学順氏が「私は慰安婦だった」と言って登場した。「植民地支配反省の国会決議を求める運動」をしている私たちは慰安婦の存在を認識していた。1989年3月1日に署名運動を開始した時の集会の決議文には「娘たちは慰安婦として戦場へ送った」と書かれている。慰安婦が植民地支配のもとで最も惨い苦しみを受けた存在ということを忘れることはなかった。しかし、現実に慰安婦だった人が出て「私が慰安婦だった。私に対する謝罪と補償を要求する」と言ってくるとは全く思っていなかったので、我々は反省、謝罪ばかり言っていたが、被害者補償は全く考えていなかった。90年代に入り単に謝罪だけではなく、補償が問題になった。
(この辺の記述から、和田氏の軌跡が分かって面白い。随分と飄々としているものだなぁ、と驚いた。)
▽<慰安婦に関する河野官房長官談話>1993年、慰安婦問題について自民党政府が河野官房長官談話を出した。日本政府としては本当に珍しいことだった。宮澤喜一首相のリーダーシップがあったと思う。「慰安婦の問題がある」と韓国から言われ、慰安婦問題の調査を決定し国内と外国で2度調査し、被害者16人から聞き取りをした。慰安所を設営した経営者や軍人からも聞き取りし、総括して慰安婦問題はこういうふうに考える、と結論を出した。軍が直接関与して慰安所開設や人員輸送をした、甘言で欺き、意に反して連れてきたことも多くあった、と認め、謝罪した。日本政府は不人情だった。自民党独裁最後の政府となった宮沢内閣がそれまでとは全く違う行動を取った。私は河野談話は非常に立派な声明だと思う。やり方も立派だと思う。
▽<細川首相の「侵略戦争」発言>声明を出したらすぐ宮澤内閣がつぶれ、5日後に細川内閣になったから、細川首相も黙ってはいられない。首相就任会見で「あの戦争は間違っていた」と言った。「侵略戦争だ」とも言った。韓国に行って「朝鮮の植民地支配も反省する」と言い「創氏改名もいけなかった」と言った。これは個人プレイ的ですが、宮澤内閣のレベルが高かったので、次の非自民連立政権の首相も頑張った。
▽<村山自社さ連立内閣成立>保守勢力が猛然と立ち上がり「こんなことは許されない。英霊に泥を塗るのか」と言い出し、細川首相攻撃の国民的署名運動が始まり、細川内閣は何もできずに終わり、自民党が1年ちょっとで政権に戻った。しかし、1994年にできた自社さ連立の村山内閣で、社会党と新党さきがけは戦後50年国会決議をやると共同政策を決めていたが、自民党がそれを丸呑みして、戦後50年の国会決議をやることになった。この際、未解決問題を解決しようということになり、その筆頭に慰安婦問題が上がったが、雲行きは怪しかった。村山内閣と言うが首相と官房長官が社会党なだけで、本体は自民党で、自民党内には、そういうことはいけないという勢力があった。
(この一連の動きは何だったのだろう?)
▽<国民基金案に賛成した>村山内閣成立後2、3カ月後に、慰安婦問題は国民の募金で基金を作り、お見舞い金を出す方針だ、と報道された。朝日新聞一面のスクープだった(1994年8月19日付)。私は「この内閣でできなければ何もできない」と思い、この内閣が何かすると言ったら、賛成した上で議論し、さらに前進してもらわなければ無理、と思っていた。朝日新聞のスクープ時に朝日記者に談話を取られ「基本的にこの案に賛成する」と言った。僕の考えは、まず国民がお金を出して、その後に政府に出してもらうというもの。ポンプの呼び水がある。ポンプから水を出そうと思ったら、水を少し入れなければ出てこない、というのが私の考えだった。
▽<奥野氏らの議連が自民党の3分の2占める>1994年12月に村山内閣が作った戦後50年問題の3党プロジェクトの慰安婦問題小委員会にヒヤリングに呼ばれた。私は「基金を作るのは結構だが、基金作りは議会を通す法律で行い、基金に政府のお金と国民のお金の両方を入れてほしい」と言った。その意見はもちろん通らない。その頃できたのが奥野誠亮会長の終戦50周年国会議員連盟で、この前の戦争は自存自衛のための戦争、アジア解放の戦争なので、いかなる謝罪も反省も必要ない、という。そういう文言を入れた決議はまかりならんという主張だった。奥野誠亮会長、幹事長が村上正邦氏、事務局長が板垣正氏、事務局次長が首相の安倍晋三氏。彼の名を会員リストで見た時「この人はお父さんの果たせなかった夢である総理大臣になる気がないんだなあ」と思った。こんな議連の幹部になった人は首相にはなれないと、その時、私は思っていた。議連はまたたく間に拡大した。95年5月には自民党国会議員の3分の2が入った。自民党の3分の2がその議連に入れば、国会決議が出るはずがない。
▽<「世界」論文での提案と左翼からの批判→第3次案でOK→衆院で「侵略戦争」認める決議>私たちは95年3月に「世界」(95年3月号)に論文を出し、国会決議の内容について提案した。私たちが考えた国会決議は国会議員の最大公約数の意見、国民のコンセンサスが反映されたものであるはずだから、生ぬるい、不十分でもいい、「朝鮮に対する植民地支配を反省する」「中国に対する侵略戦争を反省する」が最低必要だ、太平洋戦争、大東亜戦争については侵略戦争だと言わなくてもいい。あの戦争が結果としてアジアの人々に被害をもたらしたことについて反省があればいい。あの戦争で死んだすべての人、日本の兵士、日本の銃後の国民もアジアの人々も、全員の死を弔い、この人々の死が我々の平和を支えていると認める。日本国憲法に立って平和のために努力する、という決議がいい。決議は橋本龍太郎厚生相も賛成するものでなければならない、と書いた。幾人かの人が「何を言うか」「知識人たるものが政治家のやるようなことをやっていいのか」と言う。「どういう内容なら決議案がまとまるかというのは、政治家に任せるべきじゃないか」と言う。しかし、国民のコンセンサスだから、政治家だけの問題じゃない。国会決議は国民の総意を表わすものとしてやらなければ意味がない。国民が考えて意見を言うのは当然だ、と私は思った。でもそういう批判が出たので「ああ、ずいぶん考えが違うなあ」と思った。知識人というものは政府批判の立場に立っていなければダメだ、政府と関係を持てば堕落する、という考え方だ。中には「国会決議についてなど考える必要はない。民間で国民の宣言を出したらいいじゃないか」という意見もあった。私たちが最初に作った国会決議案文には慰安婦問題も入れ、社会党に持って行った。社会党が3党協議に最初に出した決議案はほとんど私たちが出した決議案と同じものだったが、自民党はもちろん受け付けないで、ダメだとなる。ガラリ変わった第二次案もダメという。通った第三次決議案は「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いを致し、我が国が過去に行なったこうした行為や、他国民、特にアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する」という非常にわかりづらいものだった。世界中の国が侵略や植民地支配をやっていたし、我が国もこうした行為をやった。他国民、アジアの諸国民に苦痛を与えたことを反省する、となっている。自分が反省するのに、他人もやっていたと言わなければならないのは情けない次第だが、とにかく植民地支配と侵略的行為と認め、反省している。これは衆議院で単純多数で可決された。社会党、自民党、さきがけで通した。共産党は反対票を投じた。奥野議連の幹部はみな欠席した。新進党は修正案が受け入れられないということで欠席した。参議院は村上氏や板垣氏が頑張って、かからなかった。だから、散々の結果だったが、それでも通ったことは前進だ、というのが私の評価だった。惨敗という言葉があるが、これは惨勝だと「世界」に出したら「これは載せられない」とはねられてしまった。
▽<アジア女性基金のスタートと全面広告>国会決議はひどく印象が悪く、日本の新聞も「こんなものはダメだ」と言い、アジアの新聞はもちろんみんなダメだと言った。その決議5日後、アジア女性基金設立が発表になった(95年6月14日)。政府がアジア女性基金という財団法人を作り、国民に募金を呼びかけ、国民の拠金から慰安婦とされた人たちに償い金を出す。その際、政府として何らかの謝罪の意を表明する。一方、政府は慰安婦のために医療福祉支援活動を行なう団体をアジア女性基金を通じ援助する、という内容だ。私も呼びかけ人20人の1人だ。引き受けるか引き受けないか、で争いがあった。名前が出ると電話が殺到して「引き受けるな!」と言う。宮城まり子さんはいったん引き受けまが、すごい圧力が女性団体からかかってとうとう「辞退させてください」と言って辞退した。僕のところには言って来なかったが、僕と一緒に運動していた人たちは、みな反対だった。政府の案は曖昧だが、戦後50年で村山内閣がこれだけのものしか出せないとすれば、この先これ以上のものが出る可能性は全くない。これが我々の到達した水準ならば、これに対して責任を取らなければならず、政府の呼びかけを受けたら、そこに入って、その中で改善に努力し、これ以上後退しないようにする責任がある、と思った。だから、私のところに依頼に来た政府のお役人に言ったのは「私には条件がある。一つは、スタートするときに新聞に全面広告を出してもらいたい。アジア女性基金をやり、政府はこれを支援してやっていくのだという政府の決意を示してほしい」と言ったら「それはできる」と言う。実際そうなった。1995年8月15日、戦後50年のその日に、村山談話が昼の12時ころ出た。国会決議よりはるかにはっきりした文章の総理談話が出た。その朝に朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、日経、産経の各紙に全面広告が出た。産経新聞も「私のところにも出してくれ」と言ってきたそうだ。5大新聞に載った。総額1億3000万円かかった。それだけかかると言われて僕らもひるんだが、僕らは全面広告がいいと主張した。政府は不退転の決意を日本国民と全世界に示さなければならない、ということだ。アジア女性基金の呼びかけ文と村山首相のご挨拶の文章、それに村山氏の写真と村山氏のサインを載せた。首相の写真とサインまで出し、逃げられない証拠だ。被害者が名乗り出てくる限り償い金を出し続ける。国民からの拠金が集まらなければ政府がカバーするのは当然だ。そういう意思を表示するためにやるのだと了解して、あの広告を出し、基金はスタートした。
▽<総理のお詫びの手紙が大きかった>基金の達成の中で一番大きいのは、総理大臣のお詫びの手紙だ。初めは「国としての反省とお詫びの気持ちを表明する」とだけ言って、総理大臣のお詫びの手紙とは決まっていなかった。私たちは、一人ひとりの慰安婦に対して総理大臣が自署してお詫びの手紙を出してもらいたいと主張した。三木睦子さんは、それが出そうにないというので、辞表を提出して橋本首相に圧力をかけた。橋本氏は遺族会会長で、難しいところに立たされていた。私たちもただの呼びかけ人だが、その手紙が出なければ全員が辞表を出すつもりだった。総理大臣のお詫びの手紙が出るか出ないかが、我々の条件だった。それで橋本氏はついに決断して、これを書いた。立派な決断だったと思う。手紙はだいたい河野談話に沿って書かれた。文章も「こういう内容にしてくれ」と私たちは提案したが、政府で原案を書いた。政府から出る医療福祉支援は被害者のために医療福祉支援活動をする団体に援助するということになっていたが、そうではなく、医療福祉支援は被害者個人にやってほしい、と修正を求める運動を基金の中でやり、その通りになった。基金側で頑張ったことだった。
▽<結果的に安倍首相を助けた女性基金>韓国では最終的には国民拠金から200万円の償い金が出たが、政府資金から出る医療福祉支援は300万円と、政府の方がより多く出したことになった。フィリピンでは国民の拠金から200万円、政府の医療福祉支援が120万円で、生活水準の違いでそうなった。オランダでは国民の拠金からの償い金はなく、すべて政府からの医療福祉支援300万円。オランダは被害者が79人、フィリピン、韓国、台湾合わせて385人が受け取った。成果は最初思ったよりは多かったとも言えるし、まだ少ないとも言える。基金はそういう結果になり、2007年3月31日に解散した。広告には「基金は政府と国民の協力で」とスローガンを入れた。初のケースだったと思う。政府と民間が協力し、会議には基金呼びかけ人、理事のほか必ず政府の役人も出た。基金で出す文章は政府が全部一語一語点検するので私が原案を書いたパンフレットも出るまでには1年半くらいもかかった。そういうふうにして、政府と国民が協力して12年間やってきた。現在、日本政府を批判しているアメリカ議会の決議でもアジア女性基金は評価されている。日本にとって貴重な資産だと思う。ある意味では、こういうふうにやってきたことは安倍首相を助けていると私は思う。
(こうした詳しい経緯は歴史そのものだ。岩波書店の幹部と違って、本質的なところで嘘はつかない人だろうから、勉強になる。これが右寄りの学者だったら、日経新聞の「私の履歴書」で書かれていただろう。そのくらいの重みがある、と思う。)
以上、「フォーラム神保町」と「魚の目」のホームページから無断引用したが、本文そのままではないので、詳しく読みたい方は最初のほうに載せたURLで「魚の目」を訪ねて、本物を見てください。
「フォーラム神保町」のホームページを見て感心したが、「魚の目」まで発展し、本当にいい企画が動き出している、と感動している。総合雑誌が相次いで廃刊になるなか、新たな言論空間を創作する動きだろうと思う。陰ながら応援したい。
(追記 2009年7月5日)
[魚の目]を久しぶりに見たら、2009年6月30日に佐藤優氏が和田氏の講演後の所感と質疑応答の部分を詳しくテープ起こしした文章をアップしていた。
http://uonome.jp/article/satoh/500
<2007年3月11日 「フォーラム神保町」佐藤優×和田春樹セミナー【和田春樹さん講演を受けての、佐藤優さん所感】>という題名だった。コピペして読んでみる。
<(佐藤)非常に難しい問題に関して、和田先生は真摯に取り組んでいます。それで、和田先生ということになると右翼国家主義陣営からは――私も右翼国家主義陣営の恐らく端っこのほうにいると思いますが――自虐史観の代表者であると言われていますが、実は自虐史観というのは、私は今右翼国家主義陣営の中で強く言っているんですが、あれは日本でしかあり得ない。我が国体の問題と非常に関係していると言っているわけですね。革命という考え方を導入すると、その瞬間に革命以前のことが関係なくなるんです。完全にリセットされるわけです。今の中華人民共和国は、中華民国時代のことに関しては一切責任を負おうとしません。それは、革命が起きているからそこで一回リセットということなんです。そうすると、自虐史観というのは絶対に起きてこないんですね。自虐史観というのは、その構成から見る限りにおいては、それは明らかに日本の歴史というのはずっと連続しているんだと。我が国家、我が民族はそれに対する責任を取らなければいけないんだという発想から来ているわけです。ですから実は、和田先生のアプローチというのは、私は非常に日本的だと思うんです。>
なるほど、発想を変えれば、そう言えるのか。自虐史観というのは歴史の連続性があるから、反省する。革命では、革命前の政権がやったことには責任を持たない、と。歴史的に見れば、まさにボルシェビキがそうだった。ロシア帝国時代の負債を全部チャラにしたので、西側が怒ったが、取り付く島もなかった。
<それから和田先生の今日のお話の中で私が非常に尊敬するのは、問題を裏から誰々の話を通して処理するとか、あるいはデモ隊に圧力をかけさせて「あいつとあいつがキーパーソンだから少し脅し上げてやれ」とか、あるいは「街宣を出せ」とかいう形で問題を解決するのは、物事の技法としては非常にやりやすいわけなんですよ。ところがそこのところを愚直なまでに公共圏における議論を通じてやると。日本の場合、国家という領域は強いですし、私的領域も強いですけれども、公共圏は弱いですからね。公共圏の中で処理していくということが、非常に大きなところだったと思うんです。その観点からしますと、今後、和田先生の話をいろいろ引き出していかなければいけないと思うんです。>
<先生は自伝を書かれたんですが(『ある戦後精神の形成 1938-1965』岩波書店)、あれは65年で終わっていますよね。例えば金大中大統領も、もし和田先生を中心とする金大中さんを救う運動がなければ、全然違う運命をたどっていたと思うんです。ですから韓国史の中にも大きな影響を与えているわけなんです。それと同時に、やはり和田先生の中にあるところの一種の――それこそ先生のお叱りを受けるかもしれませんけれども――玄洋社あたりまでさかのぼるような亜細亜主義の発想なんですよ。ここのところも非常におもしろいと思っています。>
<それで、和田先生に対して左からの批判というのは非常に激しくなされたんですが、右からの批判も山ほどあるんです。そのうち一番悪質だった批判は、あたかも和田先生が岩波書店の「世界」の中で「拉致問題はない」と言ったと。こういう大嘘プロパガンダですね。和田先生は「拉致問題がない」などとひとことも言っていません。逆です。「拉致問題として辛光洙(シン・ガンス)の一件を明らかに確定できる。だから拉致問題として処理しなければいけない。それ以外の問題を現実的に処理するためには、外交交渉としては行方不明者としてやる以外にない」と。相手は認めていないのですからね。これは外交の世界でごく当たり前の議論なんです。それが曲解されて、「拉致問題はない」ということを言った東大教授であると。そこのところには、東大教授というエスタブリッシュされた人間が、現実からかけ離れたところで「拉致はなかった」と偉そうなことを言っていたのだというウソ言説が作られて、日本の反エリート主義的な機運、日本の反東大的な機運といったところと合わせてやられちゃったんですね。それに対して事実に即した形で反論するメディアがほとんどなかったということが極めて残念です。>
辛光洙については、土井たか子元衆院議長というか元社会党委員長が助命嘆願の署名をしたので覚えている。捕まって、韓国で死刑になるはずが、助命嘆願の署名があまりに多く集まったので、金大中大統領が北朝鮮に逃がしてやって、北朝鮮で国家英雄にされたのではなかったか。
<それから岩波書店の「世界」は私も非常にお世話になった重要な媒体なんですけれども、やはりアジア女性基金の問題においての和田先生へのアプローチというのは、これは厳しすぎたというか、非常にセクト主義だったと思います。もっと和田先生の主張をきちっと載せるべきだったと思うんです。それから左の側からの批判として、この人たちを左と言っていいのかというのは私は非常に疑問があるんですが、往々にして日本の大学の中には優等生左翼というのがいるんです。これは大学が講座派、労農派双方の影響が強く、マルクス主義の影響が強かったので、その中で左翼の顔をしているとだいたい優等生になるというのが基本的に日本の大学の、特に国立大学の特質なわけなんです。実際の運動とは関係なく、暴れたりもしないんだけれども、言説は極端な左翼。共産党よりもずっと左というのが非常に多いんです。今でもその残滓があります。>
<佐々木力さんという人の「批判的思考の再生を求めて 日仏左翼知識人の30年」(上下回、「世界」99年1月号、2月号)という文章があります。なぜ「世界」がこのような文章を載せたのか。要するに現代転向者論です。転向者の中で何人か挙げているんですが、一人は東大の山内昌之先生です。山内先生はかつて学生運動の活動家として相当運動をやっていたが、いつの間にか右になりやがったな、この野郎という話です。ですから山内先生は怒り心頭に発していて、あの先生はなかなかそのへんにおいては記憶力のよろしい方ですから、それ以降一度も「世界」には登場していないと思います(笑)。>
<和田先生に関しては、要するに政権に歩み寄っていると。こういうようなやり方は、知識人の頽廃なんだという議論です。それから何人かの人たちの、かつての左翼系の運動をしていたことを、佐々木さんは「世界」に書いている。和田先生はこれを受けて、反論を書くんですよ。それで「複写自由」という形にして、その反論を何カ所かに配る。そうするとネズミ算的に増えていくわけなんですが(笑)。その中で「おい佐々木、お前も特定の団体に入っていただろう。自分自身の団体について明らかにせずに人の団体を暴露するのは、左翼の仁義に反しているではないか」とかなり激しい調子でアジりました(笑)。すると佐々木さん自身はその後ちゃんと、「世界革命」という新聞の中で「自分は第四インターナショナルだ。トロツキストの世界的な組織のメンバーだ」ということを明らかにして論文を書きました。これは新左翼系の中で非常におもしろい議論だったと思います。>
<それで私がやるよりも、どうぞフロアの皆さん、率直な意見を出してください。それで意見交換をしましょう。>
<(会場発言、雑音で再現不可)>
<(佐藤)村上正邦さんというのは、私はその後非常に親しくした人間です。例えば「慰安婦問題がなかった」などという言い方がありますが、彼自身は慰安婦問題については発言していないんですね。そのことを私はあるとき訊ねたんですよ。すると村上さんはこう言うわけです。「私の父親は、福岡の炭鉱の寄せ場で現場監督だった。理由もないのに朝鮮人が引き出されて、『口の利き方が悪い』ということで雪の中で木刀で殴られて半殺しにされた。そういうものを目の前で見ている。戦前の日本における軍隊にはたしかに公娼制度はあったし、その中に慰安婦たちもいた。ひどい扱いをしていたのは明らかだと思う」と言う。そういうことに関して彼は「自分が見てきたことと違うことについては絶対に発言しないことにしている。ただし自分の仲間たちが日本の尊厳のために『こんなものに対して頭を下げてはいかんのだ』と運動をやっている。それについて自分のほうからその運動をストップするという話ではない」と言っていましたね。>
<村上さんは常に人間として良質だと思うんですよ。残念に思うのは、もう少し時間の軸がズレていれば良かったということです。私が当時村上さんと知り合っているのだったら、もっと胸襟を開いた形で、閉ざされた扉の中で和田先生や村山さんや村上さんや橋本さんときちんと議論をすれば、もっと収斂した議論になったのではないかと思います。私は今の風潮として、「話してもわからないんだ」ということを軽々に言いすぎると思うんですよ。あらかじめ「話しても通じないんだ」と決めつけないほうがいい。その姿勢が和田先生の中には非常に強かったと思います。その和田春樹的なものが今媒体で扱われなくなってしまっている。記事としてはわかりにくい、という線があるからかもしれませんが。>
<会場から意見を聞かせてほしいのは、どちらかというと保守系のテレビ媒体におられて、なおかつ学者の卵であり、むしろ民族的な形、エスニシティとしては中国人。拉致問題については中心的にやっておられ、恐らく近い将来北京オリンピックでは中心的に引っ張っていくであろう日テレのジャンさんにお訊きしたい。例えば日中間の相互理解、相互対話に関して、メディアとインテリの関係をどう考えていけばいいとあなたは思います? あなた自身がその現場にいるインテリであり、なおかつメディアの一人のエリートであり、なおかつエスニシティとしては中国人、シチズンシップとしては日本人というアイデンティティの問題もあるでしょう。>
<――和田先生のお話は初めて聞いたのですが、メディアやテレビで扱う場合は、ほとんど視聴者に伝わらないですよね。それをどう伝えていくかということはすごく大きなテーマでもあります。現状のメディアではほとんど不可能に近い状態であって、どうわかりやすく伝えていくかは大きな課題です。佐藤さんの話はわかりやすいので若干みんな聞くのですが。>
<(佐藤)わかりやすくするということに関しては、僕もすごくつらさを感じながらやっています。やはりおもしろくないとわからない。それから短時間で説明しなければならない。それと同時に、思考停止をどこで停止するかということだと思うんですよ。それから、私自身はやっぱりマージナルな人間で、少数派だと思う。少数派だから、日本の中心になる言説を出したらいけないと思うんですよね。それが宿命的に少数派だというのは、やはり沖縄の血が入っているということです。これは陰にも陽にもいろいろな場所に出てくるわけなんですよ。ですから突き放してみるならば、アイヌと沖縄というのは、ヤマトンチュ(大和の民)、シャモ(和人)からの距離が同じくらいなんですよ。ところがアイヌはエスニシティとして独自の別民族を選んだ。沖縄は強くヤマトと同一民族だということを選んだ。しかし調べてみればこれがどちらにもなるということは明白なんですね。ところがそういう問題は僕にとってものすごく琴線に触れる問題で、例えば慰安婦について僕は生理的には扱いたくないという気持ちがあるわけです。どうしてなのかというと、母親から聞いていたということと同時に、先ほど言ったように「大日本帝国」という映画に琉球慰安婦が出ていると、そこのところで他人事と思えない。自分の同族の思いが出てくる。するとそこに触られるということは何か心臓をギュッとわしづかみにされるようなイヤな感じが出てくるんですよ。これは少数派でないとわからない。>
<それからもう一つ、僕自身が国家公務員になるときも――これは今まで話したことがないのですが――かなり意図的に専門職員、ノンキャリアを選んだんです。役所に入る前に予備校に入るとかもう少し一生懸命勉強すれば、別の方向も可能だったかもしれない。大学でも神学のようにはじっこのものしか選ばなかったというのは、やはりマイノリティのところ、境界のところに自分を置いておくというのは非常におもしろいし、そこから見えてくるものがあると思う。しかしそこから出てくる言説というのは、絶対に中心的な言説にはならないんです。保守陣営の一部の人たちが、私に対して非常な危機意識をもっている。私の中には根源的には破壊的な要素があるんですよ。それは自分でもよくわかっているわけです。それから左翼のほうの党派的な考え方も嫌いなんですね。それはやっぱりマージナルなところにいるからだと思うんですよ。>
<それに対して和田先生の考え方というのは、実は非常に中心の考え方なんです。常にきちんと体制を動かしていく。インテリとしてどうやっていくかという、中心となる考え方なんです。今非常に重要なのは、中心の側の考え方、あるいは大きな物語を作っていくということだと思うんです。どうしてかというと、インテリが大きな物語を作っていく、日本の国家方針を作っていくということをやめたら、そのスカスカになったところに神様は真空を嫌うわけですよ。真空に悪魔がたくさん入ってくる。とうてい国際的に通用しないような、レベルのものすごく低い神話、物語ができてしまう。そうすると、世界中の中で日本だけがスッテンテンに浮いているような状況が出てきます。しかし、あるレベルよりもっと低くなると、自分のレベルが低いということが自覚できなくなってしまう。特に今の日本の外交当局はそういった状況になっているわけです。だから、そこの連鎖をどこから切っていくかということになると、教えてほしいのは右とか左とかいう色にはとらわれない編集方針でやっているとすると、例えば「中央公論」です。>
<(ここで「中央公論」の中西さんより発言あり/聞こえないため省略)>
<(佐藤)中西さんと僕はストレートにこういった話をしたことはないんですが、彼女は僕のためにリスクを負ってくれているんですよ。「中央公論」というのは、私のことを名指しでぶっ叩いてきた数少ない雑誌です。私を名指しでぶっ叩いているのは「中央公論」と「諸君!」だけなんですね。恐らくは、前回(2007年3月6日)来た手嶋龍一さんが、「これはどこかで軌道修正したほうがいい」と言ったのではないでしょうか。彼は陰徳を積んで説明をしない人なんですよ。それで偶然を装って何度か「中央公論」との接触機会を作ってくださいました。恐らく「中央公論」に僕の考えていることを出したほうがいいと手嶋さんが提案したのではないか。>
<《※「中央公論」にはこれまで佐藤優氏と手嶋龍一氏の対談が3回掲載されている。「緊急提言 ロンドン旅客機爆破計画の阻止に学ぶ 日本版MI6の創設を急げ」(2006年10月号)▽「元ロシア・スパイ暗殺事件の真の恐怖 今そこにあるポロニウム拡散の危機」(2007年2月号)▽「佐藤優・二審敗訴の意味 外務省は”武装解除”される(2007年4月号)》>
<雑誌というのはインテグリティ(首尾一貫性)がすごく重要ですから、「佐藤なんてとんでもないヤツだ。俺が内部調査したらこいつが悪いヤツだということがよくわかりました」なんていうことを外務省の退職者が「中央公論」に書いているのを、ある人がコピーで送ってくれました。本人に当たらずしてこんなことを書いているとは、なんちゅう雑誌だと思いましたよ。それはそうとして、そういう中で僕を「中央公論」に出すということはすごく勇気があることだったと思います。編集者の人たちは、案外みんなそういったリスクを冒しながらやってくれているんですよね。それがちゃんとした書き手にはそこのところが見えると思うんです。>
<それと同じような形でリスクを冒してくれている人がもう一人左側にいます。「佐藤なんかを出してけしからん。『防人の詩』を歌うようなヤツの論考を出しているのはどういう姿勢なのだ」とお怒りの投書が来て、お怒りの投書が来るまではわかるのですが、お怒りの投書を載せるということは編集部も基本的にはそういう考えだということですよね(笑)。そのあと私は反論も一回書いています。今知識人にとって最も識字率が高い雑誌は、恐らく「週刊金曜日」だと思います。「週刊金曜日」の伊田さん、どうですか。>
<伊田(「週刊金曜日」副編集長) 投書を選んでいるのは、実は私です。編集部がそう思っているというより、潜在的にそういう読者もかなりいるだろうと。だから投書欄という公共圏に移してきっちり議論しておいたほうがいいんじゃないだろうかと。佐藤さんが直接「反論を書きたい」と言ってくださったのは予想外にうれしかったです。佐藤さんへの批判の投書を載せれば、その投書自体への反論の投書がかなり来るだろうという見込みがあって載せました。あとはいくつか投書が続いておりまして、だいぶ議論が整理されてきているのではないかと思います。>
<「週刊金曜日」はよく左翼的とは言われますが、筑紫哲也編集委員がよく言うように、どちらかというと川上のメディアです。根本的な議論をちゃんとしておく。そういうところを私個人はしておきたいと思っていまして、そういう意味では和田先生が「拉致はなかったと主張している」というデマに対しては、そんなことがウソだということは当たり前ではないかと思う。しかし「週刊金曜日」としてはもっとはっきり「あれはデマだ」と強くキャンペーンしていったほうがいいかな、とは思っています。>
<(佐藤)先生は「週刊金曜日」とはどんなご縁でしたっけ?>
<(和田)僕は以前「週刊金曜日」に佐藤勝巳さんの批判を書かせてもらいました(「佐藤勝巳『救う会』会長の研究」、「週刊金曜日」2003年9月19日号)。それからこの間は佐藤優さんと対談をさせてもらいました(「北朝鮮と安倍外交」、「週刊金曜日」2006年10月27日号)。>
<(伊田)私の入社する前のことですが、恐らく慰安婦問題の解決については、わりと「週刊金曜日」は和田さんに厳しい論調でしたよね。>
<(和田)そうですね。>
<(佐藤)インカーネーション(キリストにおける神の受肉)は、キリスト教の神学ではすごくポイントになる部分です。神様というのは神様でいただけで満足してしまうのではない。人間の肉の形を取ってきたというわけです。クリスマスをなぜ歓迎するのかといったら、神様が肉の形を取ったからなんですよ。物事を現実のところにもっていかなければいけない。現実のところに神様が来たらどういう運命なるかといったら、世の中とうまくやれなければ死んでしまう運命にあるわけなんですよ。しかもそれは刑事犯として処刑されるという運命にあるわけです。現実の世界の中で生きていくのだったら、必ず現実の世界と妥協しなければいけないから歩留まりがある。非常にそこがシンボリックなのは、当時の革命派でインテリのパリサイ派の連中が「イエスをひとつ引っかけてやろう」と思った。それで「税金を払うべきですか。払わぬべきですか」と訊く。そうすると「金貨を見てみろ」とイエスは言う。「金貨に誰の顔が描いてあるか。それは皇帝の顔だ。ならば皇帝に返しなさい」と言った。結論から言うと、「税金は払え」ということです。権力に直接従うかどうかという議論は必要ない。しかし、最低限の付き合いとして税金を払うという形で国家と関係を結ぶ。貨幣というものに表われている力も、仕方がないものだ。必要最低限なものだということです。しかしそれにはとらわれないという感覚なんです。>
<経済合理性ということから考えると、大学という中に入ってしまえば大学の狭い権力や権威、あるいは小さなお金がある。私の知り合いでも大学の行政をやっている人間は、そこの中でだんだん埋もれていってしまう輩がいる。すると周囲が見えなくなってしまうわけです。それから我々が外務省にいるときには、ちょっとでも難しいことを言う教授がいれば、まずメシを食うことにするんです。それで1回目は絶対に批判をせず「お話をうかがってごもっともでございます」と言う。それを3回くらいくり返し、外務省の広報誌「外交フォーラム」に論文を書いてもらうんです。「外交フォーラム」はたしか今、山内昌之先生が編集委員でしたね。その「外交フォーラム」に論文を書いてもらう。そして破格の原稿料を出すんです。その次には政府の諮問委員に入っていただく。だいたいこの段階を踏むと、無二の親友になると決まっているわけなんです(笑)。ところが、そういうことが通用しない先生が何人かいるんですよ。行政官のときにこの手段が通用しない先生の一人が、和田先生でした。和田先生と付き合うと、みんな官僚の方が汚染されてしまうわけです。篠田研次さんもシカゴの総領事(現駐米大使館公使)ですが、これは決して良いポストではないのです。というのは、和田先生のドクトリンに汚染されて「国際的に通用しないクリル諸島の範囲なんてやっていてはダメだ」と。そして方向を転換していった外交官の一人だったわけなんですね。>
<アジア女性基金というのは、外務省ではアジア大洋州局のアジア地域政策課が担当するんです。これは和田先生自身からお聞きしたんですが、和田さんがアジア地域政策課の事務官から年賀状をもらった。「私は良心に基づいた仕事が今回できるので、非常にうれしく思っている」という趣旨だったそうです。アジア女性基金というのは実は外務省の中でも、非常にみんな深刻に受け止めるとともに、やりがいのある仕事だということで多くの人間たちが手を挙げていったわけです。どうしてかというと、多くの外交官が中国語を学ぶ。ベトナム語を学ぶ。ビルマ語を学ぶ。マレー語を学ぶ。インドネシア語を学ぶ。タガログ語を学ぶ。朝鮮語を学ぶ。そういった外交官たちは、現地の歴史、現地の皮膚感覚がわかる。そういったところが好きなんですね。それで、紋切り型の日本政府の方針の中で抜け落ちているものがある。それを実際に生かせる場所というのがなかなかない。そういったところでアジア女性基金ができた。>
<政府がやれることには歩留まりがあるのだけれども、私たち自身が自分たちの良心というものと仕事の間を合わせていくことができる。あのときに北方領土問題とアジア女性基金が同時に動いていったというのは、外務省の中でそういう空気があったわけなんですよね。だからそこではみんな意欲的に仕事をするんですよ。そういう外交を取り戻すためにはどうしたらいいかと考えるんだけど、簡単に結論は出てきませんね(笑)。>
<(和田)被害者にお金をお渡しする式に、外務省の人が同席するんですよ。台湾でもそうですし、韓国人にお渡しするときにも外務省の人がついてきました。異口同音に皆さんおっしゃるのは「自分の外交官生活にとってこれは非常に重要な場面だった」と言っておられますね。総理大臣の手紙が朗読されて、お母さんたちがどれだけ感激するかということですね。ここが非常に重要な点です。お金の問題じゃないんですから。そういう意味では、珍しい経験だったと思いますね。被害者がそれだけ目の前にいるということです。被害者の心を少しでもやわらげる。怒りをやわらげて和解の方向へもっていけるかどうかということですから、それは極めて人間的な作業です。これを日本の政府がやったということは、非常に大きなことだったと思います。>
<アジア女性基金では、政府のお役人や基金に関係した人など関係者の証言を集めた『オーラルヒストリー アジア女性基金』という本を最後に出して終わろうとしています。もう一つは「デジタル記念館 アジア女性基金」と「慰安婦問題とアジア女性基金」をインターネット上に立ち上げようとしているんですね。そこにはアジア女性基金の資料も入るし、回想的なものも入る。この経験について国民がちゃんと考え、批判的に検討していく。そして評価すべきところは評価し、問題点があれば問題を指摘する。10年間の経験は共有していくべき経験だったと思います。>
<(佐藤)本当にそう思います。それとともに私は、アジア女性基金のこの活動ができたは、一種の不作為があったからだと思います。その不作為とは、村上正邦さんであるとか板垣正さんであるとか右派国家主義陣営に入っている人で、本当に自分たちの動きを発揮するならば、こういった動きをつぶすことができた。しかしある種の歩留まりにおいても不作為を行なった。そういった人たちの中にあったところの歴史に対する思い、これはなかなか文字にはなりにくいものです。彼らの立場もありますからね。なかなか見えにくいものなのですが、私は行政の内部におりましたのでそれは見えるんですよ。例えば衆議院で決議を行なったんだけれども、参議院で決議を行なわなかったという前代未聞の事態がどうして起きたのか。これを裏返すと、当時の村上氏の力をもってすれば衆議院決議をつぶすこともできたんですよね。村上さんはたしか魚住昭さんとの回想録では「だまされた」と言ったんでしたっけ。しかしあの人は簡単にだまされるような人ではありません(笑)。そういったことを含めて、いろいろな物語を読み取っていく力が必要と思うんです。>
<「フォーラム神保町」は今日で8回目です。少しずつやりたいなと思っていることができてきていると思います。今のメディアを取り巻く状況、官僚、知識人を取り巻く状況で最大の敵はシニシズム(冷笑主義)だと思います。「どんなことをやったって状況が動くはずはないさ。何カッコつけやがってあいつは」と斜めに構えてヘラヘラと笑う。この冷笑をアイロニーにおける笑い、あるいはもう少し転換してユーモアにおける笑いへと、笑いの質を転換していけないかなと考えています。>
<最後に和田先生に訊きたいのは、「東北アジア共通の家」を含め、和田先生の中にユートピア思想はありませんか。最後にユートピアについて語っていただきたいと思います。「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相等しい」と魯迅は言っています。私は和田先生のユートピアについて訊きたいんです。>
<(和田)ユートピアを考えるというのは、現在存在しない理想の社会を夢見る、その実現をめざすということです。そういう気持ちは人間にとって重要なことであり、そういうものを失うと社会としては現状追随という退嬰的な気分に流れてしまうと思います。戦後の日本の社会には、マルキシズム、社会主義がユートピアの要素を果たしていたところがあるんですよ。学生運動はだいたい左翼が握っていますから、学生運動に積極的に参加していなくとも、活動家が胸を張っていろいろ言っているのをみんな聞いているわけです。そういうリーダーも多くは大学を出たら転向してしまって変わってしまうわけですが、若いときにある理想の社会を夢見るということに触れるということは、社会の中で前向きに生きていくのに助けになっていたのではないかと思います。ナベツネさんも共産党だったし、氏家(齊一郎)さんも共産党だったし、田中角栄の秘書の早川(茂三)さんだって共産党員だった(笑)。そういうことを経てきて、それぞれ仕事をされているのでしょう。そういうところがあるんですよ。>
<ところが今や左翼が非常に弱ってしまった。マルキシズムの権威がなくなってしまった。それではこまる。やはりユートピアの再建がどうしても必要になる。19世紀に生まれた社会主義のユートピアを実現する行為が、大変な虐殺を呼んだり抑圧を生んだという事実を我々は目に前にしているわけです。北朝鮮の問題もあります。いまは簡単に、一挙に理想的な社会をつくろうとして、そういう社会ができればすべて一遍に世の中が良くなるとは言えないことがわかっています。>
<その点、柄谷行人さんの言う「世界共和国」のようなユートピアはできるはずがないと思っているのです。そういう全面的なユートピアでないような、新しいユートピアが必要です。つまりもっと漸進的なものです。「漸進的なものはユートピアではない。一挙に理想の状態に到達するという考えがユートピアだ」という考え方もあります。しかし漸進的に人々の合意に基づいて、現実に存在していない理想的な状態に近づいていくということでなければ、いまは人々を引きつけることもできない。強制でユートピアをつくることはできないのです。そういう意味で言うと、漸進的なユートピア、部分的に実験されながら世界を変えていくユートピアということになると、それは地域主義ではないかと思います。>
<世界が一遍に、人類全体が一挙に新しい理想状態になるというようなことを夢見たら、世界的な強権政治になってしまう。アメリカがやっていることは、まさにそれじゃないですか。そうじゃなくて、いろいろな複雑な要素がからんでいる一つの地域の人々が集まって、その地域のみんなが協力して生きるような形を模索することによって、一種の理想状態に近づく道を実験する。トライ・アンド・エラーでやっていく。その地域主義が新しいユートピアではないでしょうか。>
<私は「東北アジア共同の家」をずっと提唱してきました。中国、韓国、北朝鮮、日本、ロシア、アメリカ、この6カ国でそういうことを考えるべきではないか。とりあえずの問題は朝鮮半島の平和、安全保障ということでした。自然にそうなるわけです。アメリカも当然そこに入るということになる。>
<初めはまったくそれも夢物語だったのです。だいたいアメリカを入れるのはみんな反対ですから、僕はなんとかハワイとアラスカを入れようという考えで(笑)、そこを含めて東北アジアだと言っているんです。一度日航の飛行機に乗ったら、日航の機内誌に北極を中心にした地図があって、それで見ると、モンゴルからアラスカ、ハワイまでが一つの地域として、まとまります。「これはいい」ということでそれをもって帰って僕の本に載せました(『東北アジア共同の家――新地域主義宣言』平凡社、2003年)。>
<2003年には、韓国で盧武鉉大統領が出現して、就任演説で言ったのが「東北アジアの共同体を目指す。これが私の年来の夢である」ということです。これはいいと思いましたね。その年さらに6者協議がはじまりました。6者協議は北朝鮮の核危機にとりくんでいるのですが、「北朝鮮の核問題が解決したら、地域の安全保障のための新しい仕組みを考えるように努力をする」と二度にわたって声明しているんですよ。2005年9月と、つい先ごろも言ったわけですね。北朝鮮は難関ですけれども、北朝鮮の核問題が解決すればそういう時代になる。北朝鮮の核問題が解決するときに6カ国の首脳が集まって、調印式でもやれば、それがそのまま東北アジア・サミットにもなりうる。ここの地域は環境問題をもかかえています。黄砂の問題も酸性雨の問題もありますから、そういう問題も含めて、安全保障と環境問題ということで、地域の協力体を考えることが意味がある。それが6者協議という形を通じて現実に目の前になっている。>
和田氏は権謀術数と無縁の理論派なのだろう。しかし、日本の短期的な国益を守るのも政治家なのだ。
<そういう意味で言うと、ユートピアではありますけれども手の届かないようなユートピアではない。努力しだいによっては達成できるものであって、そこで安全保障の新しい考えができて地域の協力ができれば、エネルギーの問題にしても経済システムの問題にしてもお互いの経験を交流してやっていけるのではないか。そしてアメリカとロシアと中国という巨大な国が入れば、ここで何か問題が漸進的に解決すれば大変な人類的意義があるのです。解決していないのはイスラエルとユダヤ問題だけですね。とにかく東北アジア共同の家は人類に対する非常に大きな貢献になると思います。それが私の新しいタイプのユートピアであると、主張しています。『東北アジア共同の家』(平凡社)ではそういうことを書きました。>
<いまは東アジア共同体論議もさかんで、東アジア共同体協議会というものもあるんです。その基本的な文書を書いているのが田中明彦さんと青木保さんです。しばらく前に青木さんと一緒にシンポジウムに出ました。私が東北アジアの共同体の話をすると、青木さんは「東北アジアという考えが面白い、そういうことは考えたこともなかった」と言うんですよ。僕は、これはもうちょっと交流しなければダメだなあと思いました(笑)。>
<(佐藤)青木さんや田中さんの知力だったら、そのあたりはやむをえないでしょう(笑)。>
<(和田)僕はもう一つ議論しなければいけないと思いました。>
<(佐藤)「フォーラム神保町」というのは、一つのユートピアなんです。地域で顔が見える範囲にこだわって参加者を限定しています。最近、ぶん投げてやめちまおうかと思ったことが2~3回あるんですよ。というのは、対話が成立しえない場合が多い。要するに、二つのモノローグをやっているのだったら意味がないわけなんですね。それは知的な能力において劣っているから対話ができないからではないのだと思うんです。例えば私の知的水準が極端に低いから呼んできた人と対話ができないということではなくて、何か相手の側に警戒心があって心を開かないということなんですね。何かのきっかけで心をパッと開くと対話ってできるものなんですよ。それは、そのときの知的な集積であるとかなんとかとは本質的には関係ないんです。あるいは国家の力も関係ない。私がそのことを強く学んだのは、イスラエルの連中との付き合いを通してなんですよ。僕はイスラエルの中で、名前を出していい中で一番尊敬しているのはエフライム・ハレヴィというモサドの前の長官です。このモサドの前の長官が光文社から回想録を出す準備をしているという話でして、この回想録が出ると日本のインテリジェンスの世界にものすごく大きな影響を与えると思います(エフライム・ハレヴィ[河野純治訳]『モサド前長官の証言「暗闇に身をおいて」』光文社、2007年)。このエフライム・ハレヴィ長官というのは、アイザック・バーリーンの従兄弟なんです。バーリーンは文芸批評家で、イギリスから来ている珍しいユダヤ人なんですね。>
<エフライム・ハレヴィは最初はモサドの分析局、工作局にいて、ある時点ではヨルダンとの間の平和条約交渉の全権になるわけなんです。それで、双方の訓令でうまくまとまらずに交渉が決裂になりそうになったときに、ヨルダンのフセイン国王がお手洗いに立った。そしてハレヴィさんはフセイン国王をトイレに追いかけて行って、立ち小便をしながら2人で交渉をまとめたんですね(笑)。そういうような人です。北朝鮮でミサイルの件が起きたときには、彼のチームは北朝鮮に乗りこんで直談判をする。「いくら払えばミサイルを作るのをやめるのか」と言う。結局それは決裂します。>
<それからイランの連中に対しても本当によくネットワークをもっていると同時に、イランという国について「イランは地政学上重要で、本来アラブと敵対しているイランというのは我々の味方なんだ。どうやって味方に入れようかと考えている」と言う。彼はOECDの大使になって1回モサドを引退しているんですよ。ところがそのあと、とんでもないチョンボをモサドがするんですね。ハマスの代表のヤーシンをぶっ殺そうとしてモサドの工作員が耳から毒を入れるんですよ。すると毒の入れ方が中途半端だったので、完全に死ななかったのです。それと同時にヨルダンのフセイン国王も怒り心頭に発して、イスラエルの首相に電話をかけてきて「すぐに解毒剤を出せ。下手人を始末しろ」と要求した。ハレヴィさんがフセイン国王との人脈を使って問題を何とか処理した。>
<その直後に、スイスでモサドの工作員が捕まっちゃうわけなんですよ。イラン大使館の盗聴をしていたんですね。ところが「挙動不審なヤツがいる」ということで市民から通報されて、捕まったらカナダ旅券が大量に出てきて、カナダ人の偽装をしていたわけなんです。そしてカナダとイスラエルの間で大変な問題になって、ヤトムというモサドの長官が辞めさせられてしまったんですよ。そのときにモサドの工作員は電話ボックスで死んだフリをしたとかいう話で、本当に諜報の世界に大恥を塗るような二つの失態が生じて「モサドは解体か」と言われたときに、エフライム・ハレヴィというおじいちゃんに頼んでもう1回モサドの再建をして、モサドの再建がだいたい成ったので2005年にリタイアして、今はヘブライ大学で国際関係の先生をやっています。>
<この先生と話していると、和田先生と話しているときのこのトーン、タッチとすごく感じが似ているんです。それと同時に、彼から言われたんですよね。「学問だって情報だって、情報のための情報、分析のための分析では究極的につまらないんだ。おもしろいこととは世の中を動かしていくためであり、おもしろいことというのはやはり平和をちゃんと志向していくことなんだ。平和を志向していくことはおもしろいんだよ。だから我々インテリジェンスの人間というのは、基本は平和を志向していくのだ」。一番殺しに長けて闘いをやっている中心のところにいるモサドの長官がそんなことを言う。それを知って私は、情報の世界というのはとても奥が深いのだなあ、と思ったわけです。>
<和田先生、今日はどうもありがとうございました。>
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