文化・芸術

2009年8月14日 (金)

お盆:墓参り:先祖供養:少子化:無縁墓:家の継承……かぁ、考えてみよう~産経新聞09年8月14日社説

 産経新聞09年8月14日朝刊の第2社説は<先祖供養/「家」の継承考える機会に>だった。この問題に正面から取り組んだ社説は珍しいと思う。
 読んでみる。
 <お盆のテレビニュースにはしばしば、墓参りをする家族連れの姿が映し出される。見ている者まで心の安らぐ思いがするのは、祖霊が慰められることへの幸福感のようなものが伝わってくるからだろう。>
 という書き出しで、
 <民俗学者の柳田国男が「われわれの祖霊が血すじの子孫からの供養を期待していた…」(「明治大正史/世相篇」)と書いたように、墓は恐らく、子孫らが参ってくれることを願って建立されるものに違いない。しかし現実には、子孫が絶えるなどして参り手のなくなった無縁墓が急増している。>
 柳田国男の「明治大正史 世相篇」は講談社学術文庫版を神保町の古書店で買ってきて読んだのだが、朝日新聞に連載された庶民の歴史だそうだ。ところが、それは新聞紙面から拾った題材でつくった歴史だ、というところが珍しい。そこで柳田が「新聞を読めば世相が分かると言うのは嘘だ。新聞は世の中に起きた変わったことしか報じない。当たり前の庶民の生活の姿はそのままでは載っていない」という趣旨のことを書いていたのが印象的だった。
 柳田のこの本は特に上巻が面白かった。その上巻の面白い中のひとつがこの先祖供養だったのではなかったか、と思うのだが。今、手元に本がないので確定的なことは言えないが。
 <この傾向は急激な少子化により、ますます顕著になっていくだろう。第一生命経済研究所が平成17年に発表した資料は、将来自分の墓が無縁墓になる可能性を感じている人がほぼ4人に1人、子供のいない人に限れば約半数にも上ると示した。>
 少子化である。少子化は一般的な国の傾向というだけでなく、身近な出来事として私たちの前に出現してきた。その一つが自分たちの死後の話だ。
 <核家族化の進行や若者の都会志向といった要因も無視できない。「平成20年国民生活基礎調査の概況」(厚生労働省)によると、65歳以上の者がいる世帯の22%は単独世帯だといい、平成元年調査時の14.8%と比べても、いかに急ピッチで“独居”高齢者が増えているかが分かる。>
 平成元年といえば1989年。平成20年は2008年。10年間で5ポイント増えたのか。これは急ピッチだ。
 <ただ無縁墓の増加を、先に挙げた少子化などの社会的要因につなげるだけでは、日本人として何か大切なものを見失うような気がしてならない。墳墓の地である「ふるさと」への愛着が薄れ、「家」や「祖霊」に対する意識も変容してしまった現代人の「心のかたち」にまで踏み込んで考える必要があるだろう。>
 なるほど、そこに誘導するのか。
 <戦後になって「家よりも個」の風潮が強まると、「家」の継承は大きな関心事でなくなり、情緒豊かな「家」のしきたりも忘れられていった。お年寄りの知恵を大事にするなど、大家族が一つ屋根の下で暮らしていた頃には当たり前だった世代間の相互理解という美風も失われようとしている。祖霊を供養するのは、わが身が先祖からの「命のつながり」によって生かされている事実を知ることでもある。自分の命の意味が分かれば、他者を労わる心も自然と湧いてくる。柳田は先著で「家永続の願い」とも書いた。せめてお盆の帰省時くらい「家の永続」に思いを巡らしてみるのも、よいのではないだろうか。>
 そうだなぁ、と思わず頷く内容だ。
 ではどうすればいいのか、となれば、難しいだろうが。

| | コメント (0)

2009年8月 7日 (金)

<日本のイルカ漁「むごい」/米映画で物議>(読売新聞09年8月7日朝刊)は欧米文化至上主義者の戯言だが、無視できない。政府はきちんと文句を言うべきだ

 またまた腹の立つ記事を見つけた。記事自体の書き方やスタンスに腹を立てているのではない。米国人や豪州人の思い上がりに腹が立つのだ。
 読売新聞09年8月7日朝刊国際面のハコ記事<日本のイルカ漁「むごい」/米映画で物議>である。ロサンゼルス支局の飯田達人特派員の署名記事だが、◇がついているので、◇の後ろは和歌山支局の取材した内容だろう。
 記事を読んでみる。
 <日本の伝統的なイルカ漁で、漁師が多数のイルカを仕留めるシーンを収録した米ドキュメンタリー映画「入り江」(原題The Cove)がロサンゼルスとニューヨークで公開され「むごい秘密が暴かれた」(米有力紙)などと論議を呼んでいる。>
 という書き出しからして頭にきたのだが、続きを読もう。
 <映画の舞台は和歌山県太地町。イルカの知能が極めて高いことが強調され、米国人ダイバーが入り江に潜入し、隠しカメラを設置。漁師が大量のイルカを追い込み、モリで突き、海が血で染まるシーンが登場。上映は7月31日に始まり、ロサンゼルス・タイムズ紙は「虐殺の入り江」との見出しで映画を評価。ニューヨーク・タイムズ紙(7月31日付)も「海が血で染まり、(鑑賞者の)目は涙であふれる」とする評論を載せた。>
 こんな馬鹿な評論は無視しておけばいい、とおっしゃる方もいるとは思うが、これが動物愛護運動の現実である。地球上には様々な文化があり、日本のように自然と共生しながら、自然に感謝しながら生き物を食べて人間が生活するという生き方もあるし、欧米のキリスト教文化のように自然は人間とは敵対しており、征服する対象だ、として、その中で人間に近い動物たちを(偶然性が強く働くが)ピックアップして大切にする。それ以外の自然は無慈悲に切り倒したり、殺したりするという人間中心の一神教文化もある。
 そういうアジア的な多神教文化、死生観を真っ向から否定して「イルカを殺すのは悪い奴」「人道的に許せない」「鯨を食べるのは原始人」などという偏見を国際標準にしようとする欧米人の傲慢さをこれ以上許してはいけないと思う。
 北京五輪の際に(1988年のソウル五輪のときもそうだったが)犬の肉を食べるという中国、韓国の昔からの習慣をいかにも「文明人ではない」と断罪するような論調の欧米紙があり、お調子者の日本の新聞の中には、それに同調する論を掲載するところもあった。
 日本人はなぜ自分の頭でものごとを考える習慣をなくしてしまったのだろうか?
 イルカを大切にする人は勝手に大切にすればいいし、イルカを食べる人は食べればいい。犬を飼う人は飼えばいいし、犬を食べる人は食べればいい。簡単なことだ。なぜ人の嗜好の話を強制するのか? 
 ニューヨーク・タイムズやロサンゼルス・タイムズなどの記者がこんな記事を書いているとは、情けなくなる。米国では大学で何も教えないのか? 文化多元主義とかもう少し教えたほうがいいのではないか。
 欧米人中心の文化覇権主義など、20世紀にすでに終わってしまっている、という冷厳な事実を踏まえていない記者がいい加減なことを書いているだけなのだが、こういういい加減な記事で米国民の反日感情が強まるとすれば、看過出来ない。日本政府はここに書いたようなことを駐日米大使館や駐ワシントン日本大使館から米政府へのチャンネルできちんと抗議しておくべきだと思う。
 こういう問題は堂々と自国の主張をすべきなのだ。それを遠慮しておずおずしていたら、第1次世界大戦後のベルサイユ会議で西園寺公望らが人種差別撤廃を訴えて結局は容れられなかった時からの大東亜の努力が無駄になる。
 日本政府は心して取り組むべきだ。
     ◇
 <和歌山県太地町の三軒一高町長は「そういう映画が制作されていることも、撮影に来たことも知らなかった。作品を見ていないのでコメントのしようがない」と話している。ただ、同町の姉妹都市オーストラリア・ブルーム市には、姉妹関係解消への圧力がかかっているとの情報があるという。>
 自然愛好家とか昔のマルクス主義者の成れの果てだろうが、汚い奴らが多い。結局は盗撮しているのだろう。堂々と来い、と言ってやりたい。

| | コメント (0)

2009年8月 3日 (月)

中国で昔の漢字に戻す動きがある、と。日本は無理かも、と。さて、どうだろう?~09年8月3日[産経抄]

 産経新聞09年8月3日朝刊[産経抄]は「両岸」会議での漢字の話だ。
 <中国・共産党と台湾の中国国民党は2006年から「両岸(中台)経済貿易文化フォーラム」と称する会議を行っている。先月、中国湖南省で行われた第5回大会では、文化の接近がうたわれ、特にお互いの使う「漢字」の話題で、盛り上がったそうだ。中国では、もとの漢字を簡略した「簡体字」が使われている。新中国の成立後共産党が将来の漢字廃止をにらんで制定したものだ。一方台湾の漢字は「繁体字」という。といってもあくまで簡体字の側からの呼称で台湾の人たちは「正体字」と書く。従来の漢字に余計な手を加えずにいるのだから当然だ。>
 やはり、中国共産党の文化的劣等感から「漢字廃止」を念頭に置いた政策が結実したのが「簡体字」だったのか。
 <中台が経済的な結びつきを強めるなかで一時は、台湾への簡体字の浸透が問題になったことがある。最近では中国で漢字文化を尊重する機運の高まりから、繁体字を見直す動きが出てきた。パソコンの普及で、字画の多い漢字も瞬時に打ち出せるようになったことも大きい。>
 そうなるだろうなぁ。
 <中国文学者の高島俊男さんは以前から少なくとも中国社会の学術と商業の世界で「野暮で見苦しい」簡体字から「美しくてしゃれている」正体字に戻るのでは、と指摘してきた。「昔から学問と商賣とは中国の大黒柱」だからだ(『お言葉ですが…別巻2』連合出版)。>
 そういう流れになると思うが、中国共産党はどういう方向なのか?
 <中国と同じ時期に、やはり漢字の簡略化に踏み切った日本はどうか。「俺」を加えたが、「淫」は削除すべきだ。新しい漢字表の名称は、「基本」か「一般」か。文化審議会の委員会では「常用漢字表」の改定をめぐって、相変わらずこんな議論ばかりしている。もとの漢字、すなわち正字に戻せという声は、一部の文化人の主張にとどまっている。高島さんも「残念だが、もうダメだろう」とあきらめ顔のようだ。>
 簡単な字しか知らない人間がもう還暦を超えた。戦後のマッカーサーGHQ時代、その後の日教組全盛時代の教育を受けた年代がもう60歳を超しているのだ。今ならば間に合う、というようなことはないだろう。間に合うも間に合わないもない、断固やるのだ、という指導者が出てくれば改革はできるのだ。

| | コメント (0)

2009年6月28日 (日)

日経新聞は醇風美俗は捨て去って少子化対策のために結婚制度を変えろ、と主張する。根拠は国際標準だそうだ:経団連新聞が何を言う”!~6月28日日経社説

 日経新聞が社説の中で行っている[チェンジ!少子化]キャンペーンの一環として6月28日に<日本の「結婚」は今のままでいいのか>を掲載していた。まあ、少子化問題を論じればここまで行くかなぁ、とは思っていたが、家庭の中にいきなり手を突っ込んでくる感じの見出しだったので、少し驚きながら読んでみた。
 <法的に結婚していない両親から生まれる「婚外子」の割合が欧米諸国で増え続けている。フランスでは、昨年生まれた赤ちゃんの53%が婚外子だった。2007年の統計をみても、スウェーデン55%、米国40%、ドイツ30%などとなっている。これに対し日本は2%と格段に低い。なぜか。少子化対策を考える時、婚外子やその背景にある結婚の多様化の問題を避けては通れない。>
 なるほど、結婚の形としての婚外子問題を論じるのか。
◆婚外子の相続差別放置
 <日本に婚外子が少ない一因は「非嫡出子(婚外子)の相続分を嫡出子の2分の1とする」という民法の規定にある。法務省によると、相続で婚外子が法的に差別されているのは日本とフィリピンぐらいという。この規定はかねて「法の下の平等」を定めた憲法14条に違反すると批判されてきた。法制審議会も1996年に規定を撤廃するよう答申を出している。しかし、最高裁大法廷が1995年に合憲の判断を下したこともあって、答申は13年間たなざらしになったままだ。政治の怠慢であり、異常なことである。>
 そういう経緯があったのか。
 <最高裁決定を読むと、非嫡出子を基本的に「既婚者が配偶者とは別の相手との間につくった子ども」ととらえている。法改正に自民党が動かないのも、家族の外にできた子と家族内の子には相続で差があって当然との意見が根強いからだ。>
 まあ、そうだと思うが。
 <しかし、大法廷の決定の時点ですでに15人の裁判官のうち5人が「違憲」だと厳しい意見を述べている。婚内子と婚外子で異なっていた戸籍や住民票への記載方法は改められ、記述上の区別はなくなった。婚外子の相続差別には、国連の規約人権委員会、子どもの権利委員会も撤廃を求める勧告を出している。>
 日本の醇風美俗を「国際標準に合致していない」という刀で切り捨てる論法はどうも好きになれないのだが。
 <そもそも、結婚していない両親の子どもを指す「非嫡出子」にあたる言葉は、差別的な意味があるとして国際的には死語になりつつある。民法の規定は、婚外子が社会的に差別される原因にもなっている。まず民法を改正する必要がある。>
 すべて国際標準ですか。
 <欧米で婚外子が増えているのは、法的な差別がなくなったから、だけではない。結婚とは別の形のカップルを法的に認める仕組みが生まれ、婚外子の概念そのものが変わったことが大きい。>
 結婚という形が古臭くなったと?
 <例えばスウェーデンにはサンボ(同せいの意)、フランスにはPACS(連帯市民協約)という仕組みがある。いずれも、結婚より緩やかな結びつきをカップルに認め、生まれた子どもには相続も含め婚内子とまったく同じ権利を与えている。男性が父親になるためには認知が必要だが、法の枠組みにしたがった同居という意味では結婚に近い。>
 まあ、よく調べていること。
 <スウェーデンではサンボがカップル全体の3分の1を占め、0~17歳の子どもの親の3割はサンボのカップルだ。スウェーデンでも晩婚化が進んでいるにもかかわらず出生率が上昇しているのは、サンボの間に出産するケースが多いためだ。フランスでは昨年、結婚が26万7000組、PACSが13万7000組だった。サルトルとボーボワールのように、かつて未婚のカップルは社会規範への異議、反抗ととらえられていた。もうそうした意識はない。>
 サルトルを出してくれば年寄りが納得すると思ったら大間違いなのだが。
 <こうした仕組みには、互いに相性を判断する「試行結婚」の意味合いがある。法律婚に比べ解消が簡単だからだ。婚外子の割合が増えたからといって、出生率が高まるとは必ずしも言えない。ただ、フランスの昨年の出生率は2.02、スウェーデンも1.91と先進国の中で高い。>
 出生率問題と事実婚問題は直接の関係化はないと思う。あくまで女性が出産しても安心して働ける環境を国と地方と企業が整備できるかどうか、が問題なのだ。そこに手をつけずに、民法をいじろうとする敗北主義は、いずれ、非正規動労者が全体の3分の1になったように、家というものを無力化し、子供の教育を無責任なものにするのではないか?
◆今も影落とす「家」制度
 <日本では婚外子の相続差別撤廃とセットで法制審が答申した選択的夫婦別姓制度の導入も実現していない。夫婦で別姓を名乗ると家族のきずなが弱まるという意見があるためだ。「家」を基本にした戦前の家族制度が今も影を落としている。>
 法制審議会がおかしいのだ。欧米かぶれの学者だけ集めても、日本の古層は分からないだろう。
 <2006年の内閣府の世論調査では、58%が婚外子を法律上不利に扱うことに反対しながら、民法の相続規定に対しては41%が「変えない方がよい」と答え、「相続額を同じにすべきだ」の25%を上回った。これも日本人の家族観、結婚観の表れである。>
 分かっているじゃないか。
 <結婚の形は国の文化や伝統、国民の価値観にかかわる問題だ。しかし、日本の国際結婚は1970年の5500組から2007年には4万組に増えた。日本人の価値観だけで結婚を考えることは、もう実情に合わない。>
 国際化が進んだのだから、慣習を変えろ、と。ちょんまげを落として、散切り頭にするのとはちょっと訳が違うのだが。
 <日本・東京商工会議所は少子化問題に対する提言の中で「伝統的な法律婚以外に事実婚や婚外子が受け入れられる社会のあり方について検討すべきだ」と訴えている。>
 企業の論理だろう。儲けに血眼になっている守銭奴らの言うことだけを聞けと言うのか?
 <日本の結婚のあり方が少子化の一因となり出生率上昇の妨げになっているとすれば、障害を取り除く必要がある。それは、婚外子の相続差別をなくさねば始まらない。>
 違うだろう。どうして国、企業の責任を書かないのだ。日経新聞は経団連新聞だから企業の代弁をしているのだろうが、ここまでいくと見苦しいぞ。

| | コメント (0)

2009年4月 8日 (水)

天皇、皇后両陛下の結婚50年記者会見(4月8日)~産経新聞ネット版詳報と産経4月24日曽野綾子氏コラムから

 金婚式を前に天皇、皇后両陛下が4月8日、皇居・宮殿で記者会見し、結婚50年の心境をお話になった。産経新聞は4月10日、ネット版に記者会見全文をアップしていたので、詳しく読んでみた。

 4月24日産経新聞1面コラム[小さな親切大きなお世話]で作家の曽野綾子さんが<皇后陛下 卓抜な表現力>がこの記者会見の感想を書いていたが、本当に美智子皇后のウイットに富んだやりとりなど、このまま本にしてもいいような内容だった、と思う。

 産経新聞ウェブ版で会見を読んでみよう。

◆厳しい経済情勢、祝って頂くこと心苦しくも……

 <《問1》両陛下にお尋ねいたします。ご成婚の日から50年の月日が流れ、高度成長期からバブル崩壊、いくつもの自然災害や景気悪化など、世相、人の価値観も大きく変わる中、両陛下も皇室に新しい風を吹き込まれてきました。皇太子同妃両殿下として、天皇、皇后両陛下として夫婦二人三脚で歩んできたこの50年を振り返り、お二人で築き上げてきた時代にふさわしい新たな皇室のありよう、一方で守ってこられた皇室の伝統についてお聞かせいただくとともに、それを次世代にどう引き継いでいかれるのかもお聞かせください。>

 <《天皇陛下》私どもの結婚50年を迎える日も近づき、多くの人々からお祝いの気持ちを示されていることを、誠にうれしく、深く感謝しています。ただ、国民生活に大きく影響を与えている厳しい経済情勢の最中のことであり、祝っていただくことを心苦しくも感じています。>

 と天皇陛下は必ず、今の世の中の、それも恵まれない人々への配慮を口にする。どうも宮内庁の役人の言葉ではなく、ご自分の言葉でしゃべっているようなのだ。

 <顧みますと私どもの結婚したころは、日本が多大な戦禍を受け、310万人の命が失われた先の戦争から日本国憲法のもと、自由と平和を大切にする国として立ち上がり、国際連合に加盟し、産業を発展させて、国民生活が向上し始めた時期でありました。>

 「先の戦争」には必ず言及される。

 <その後の日本はさらなる産業の発展に伴って豊かになりましたが、一方、公害が深刻化し、人々の健康に重大な影響を与えるようになりました。また、都市化や海、川の汚染により、古くから人々に親しまれてきた自然は人々の生活から離れた存在となりました。>

 「故郷喪失」への天皇陛下の感慨が伝わってくる。

 <結婚後に起こったことで、日本にとって極めて重要な出来事としては、昭和43年(1968年)の小笠原村の復帰と、昭和47年(1972年)の沖縄県の復帰があげられます。両地域とも、先の厳しい戦争で日米双方で多数の人々が亡くなり、特に沖縄県では多数の島民が戦争に巻き込まれて亡くなりました。返す返すも残念なことでした。>

 小笠原諸島と沖縄復帰は天皇にとっても「戦争」が終わったことを実感させるものだったのだろう。

 <一方、国外では平成になってからですが、ソビエト連邦が崩壊し、より透明な平和な世界ができるとの期待が持たれましたが、その後、紛争が世界の各地に起こり、現在もなお多くの犠牲者が生じています。>

 冷戦崩壊を「平和の前進」と喜んだ当時の学者、政治家、文化人たちの思慮のなさをやんわりと皮肉っているのだろうか?

 <今日、日本では人々の努力によって都市などの環境は著しく改善し、また、自然環境もコウノトリやトキを放鳥することができるほど改善されてきましたが、各地で高齢化が進み、厳しい状況になっています。ますます人々が協力し合って、社会を支えていくことが重要になってきています。>

 「協力」がキーワードである。

 <私どもはこのように変化してきた日本の姿とともに過ごしてきました。さまざまなことが起こった50年であったことを改めて感じます。>

 <皇后は結婚以来、常に私の立場と務めを重んじ、また、私生活においては昭和天皇をはじめ私の家族を大切にしつつ、私に寄り添ってきてくれたことをうれしく思っています。>

 <不幸にも若くして未亡人となった私の姉の鷹司神宮祭主のことは、いつも心にかけ、那須、軽井沢、浜名湖でよく夏を一緒に過ごしました。姉は自分の気持ちを外に表さない性格でしたが、ある時、昭和天皇から、私どもと大変楽しく過ごしたと聞いたがどのように過ごしたのか、というお話があったことがありました。皇后はきょうだいの中で姉だけを持たず、私との結婚で姉ができたことがうれしく、誘ってくれていたようなのですが、この時の昭和天皇が大変喜ばれた様子が今でも思いだされます。>

 美智子皇后の優しさはそのような形でも人をなごませていたのだなぁ、と初めて知った。

 <私ども二人は育った環境も違い、特に私は家庭生活をしてこなかったので、皇后の立場を十分に思いやることができず、加えて、大勢の職員とともにする生活には、戸惑うことも多かったと思います。しかし、何事も静かに受け入れ、私が皇太子として、また、天皇として務めを果たしていく上に、大きな支えとなってくれました。>

 これは宮内庁職員と旧華族らのいじめ問題についてやんわりと語った、ということだろうか?

 <時代にふさわしい新たな皇室のありようについての質問ですが、私は即位以来昭和天皇をはじめ過去の天皇の歩んできた道にたびたびに思いを致し、また、日本国憲法にある「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」という規定に心を致しつつ、国民の期待に応えられるよう願ってきました。象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず、その望ましいあり方を求めて今日に至っています。なお、大日本帝国憲法下の天皇のあり方と、日本国憲法下の天皇のあり方を比べれば、日本国憲法下の天皇のあり方の方が、天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇のあり方に沿うものと思います。>

 この言葉には驚いたが、うれしかった。「権威と権力の分離」ということを天皇皇后両陛下が十分に理解されていることが分かったからだ。

 <守ってきた皇室の伝統についての質問ですが、私は昭和天皇から伝わってきたものはほとんど受け継ぎ、これを守ってきました。この中には新嘗祭のように古くから伝えられてきた伝統的祭祀もありますが、田植えのように昭和天皇から始められた行事もあります。新嘗祭のように古い伝統のあるものはそのままの形を残していくことが大切と考えますが、田植えのように新しく始められた行事は、形よりはそれを行う意義を重視していくことが望ましいと考えます。従って現在、私は田植え、稲刈りに加え、前年に収穫した種もみをまくことから始めています。学士院賞や芸術院賞受賞者などを招いての茶会なども、皇后とともに関係者と話し合い、招かれた全員と話ができるように形式を変えました。短時間ではありますが、受賞者、新会員、皆と話をする機会が持て、私どもにとっても楽しいものになりました。>

 工夫をされていることが、よく分かって、微笑ましい。

 <皇室の伝統をどう引き継いでいくかという質問ですが、先ほど天皇のあり方として、その望ましいあり方を常に求めていくという話をしましたが、次世代にとってもその心持ちを持つことが大切であり、個々の行事をどうするかということは、次世代の考えに譲りたいと考えます。>

◆WBC、サムライ的で美しい強さを持って戦っておりました

 <《皇后さま》50年前、普通の家庭から皇室という新しい環境に入りましたとき、不安と心細さで心がいっぱいでございました。今日、こうして陛下のおそばで金婚の日を迎えられることを、本当に夢のように思います。結婚以来今日まで、陛下はいつもご自分の立場を深く自覚なさり、東宮でいらしたころには、将来の象徴として、後に天皇におなりになってからは、日本国、そして国民統合の象徴として、ご自分のあるべき姿を求めて歩んでこられました。こうしたご努力の中で、陛下は国や人々に寄せる気持ちを時とともに深められ、国の出来事や、人々の喜び、悲しみに、お心を添わせていらしたように思います。50年の道のりは長く、時に険しくございましたが、陛下が日々真摯に取るべき道を求め、指し示してくださいましたので、今日までご一緒に歩いてくることができました。陛下のお時代を共に生きることができたことを、心からうれしく思うと共に、これまで私の成長を助け、見守り、励ましてくださった、大勢の方たちに感謝を申し上げます。>

 一気に段落なしで繋げてしまったが、この部分は一気に読みたい。ここも美智子皇后の肉声である。

 <質問の中にある皇室と伝統、そして次世代への引き継ぎということですが、陛下はご即位に当たり、これまでの皇室の伝統的行事および祭祀とも、昭和天皇の御代のものをほぼ全部お引き継ぎになりました。また、皇室が過去の伝統とともに現代を生きることの大切さを深く思われ、日本各地に住む人々の生活に心を寄せ、人々とともに今という時代に丁寧にかかわりつつ、一つの時代を築いてこられたように思います。>

 「過去の伝統とともに現代を生きる」というのは何も皇室だけでなく、日本人すべてが思いを致さねばならないことがらだと思う。その先導役としての皇室が輝いている、ということだろう。

 <伝統とともに生きるということは、時に大変なことでもありますが、伝統があるために、国や社会や家がどれだけ力強く、豊かになれているかということに、気付かされることがあります。>

 「伝統」があるから日本人でいられるのだから。

 <一方で、型のみで残った伝統が社会の進展を阻んだり、伝統という名のもとで、古い慣習が人々を苦しめていることもあり、この言葉が安易に使われることは好ましく思いません。>

 厳しいお言葉だ。何を想定されてこのようにおっしゃっているのか? 男女差別とか部落差別などの差別意識のことなのだろうか?

 <また、伝統には表に表れる型と、内に秘められた心の部分とがあり、その二つがともに継承されていることも、片方だけで伝わってきていることもあると思います。>

 として、現代の話に。

 <WBCで活躍した日本の選手たちは、よろいも着ず、切腹したり、「ござる」とか言ってはおられなかったけれど、どの選手もやはりどこかサムライ的で美しい強さを持って戦っておりました。陛下のおっしゃるように、伝統の問題は、引き継ぐとともに、次世代に委ねていくものでしょう。>

 このユーモア。切腹、「ござる」などという言葉が自然に出てくるおおらかさ。美智子皇后の知性の輝きだろう。

 <私どもの時代の次、またその次の人たちが、それぞれの立場から、皇室の伝統にとどまらず、伝統と社会との問題に対し、思いを深めていってくれるよう願っています。>

 美智子皇后の仰る通りだと思う。皇室に限らないのだ。「伝統と社会」、「伝統と国家」、「伝統とグローバリズム」など、考えなければならないことはたくさんある。

◆結婚で開かれた窓から多くを吸収、今日の自分を作っていった……

 <《問2》両陛下にお尋ねします。お二人が知り合われてからこれまでにさまざまな言葉のやり取りがあったと思います。色々なエピソードが伝わっていますが、陛下はどのような言葉でプロポーズをされ、皇后さまは陛下にどのような言葉を伝えてご結婚を決意されましたか。銀婚式を前にした会見では、陛下は皇后さまに「努力賞」、皇后さまは陛下に「感謝状」をそれぞれ差し上げられたいと述べられましたが、改めてお互いに言葉を贈られるとすれば、どのような言葉になりますか。ご夫婦としてうれしく思われたこと、苦労されたこと、悲しまれたこと、印象に残った出来事、結婚されてよかったと思われた瞬間のこと、夫婦円満のために心掛けられたことなど、お伺いしたいことは多々ありますが、お二人の50年間の歩みの中でお心に残ったことについて、とっておきのエピソードを交えながらお聞かせください。>

 <《天皇陛下》私のプロポーズの言葉は何かということですが、当時、何回も電話で話し合いをし、ようやく承諾をしてくれたことを覚えています。プロポーズの言葉として一言で言えるようなものではなかったと思います。>

 外出がなかなかできない古い皇室の中で恋する皇太子が電話でしきりとプロポーズしていた姿を想像すると微笑ましい限りだ。

 <何回も電話で話し合いをし、私が皇太子としての務めを果たしていく上で、その務めを理解し、支えてくれる人がどうしても必要であることを話しました。承諾してくれたときは本当にうれしかったことを思いだします。>

 うれしかっただろうなぁ。

 <結婚50年にあたって贈るとすれば「感謝状」です。皇后は「この度も努力賞がいい」としきりに言うのですが、これは今日まで続けてきた努力をよみしての感謝状です。本当に50年間よく努力を続けてくれました。その間にはたくさんの悲しいことや辛いことがあったと思いますが、よく耐えてくれたと思います。>

 銀婚式の記者会見で皇后陛下が天皇陛下に「感謝状」を贈りたい、と言っていたのを先取りしてしまった感がある。

 <夫婦としてうれしく思ったことについての質問ですが、やはり第一に二人が健康に結婚50年を迎えたことだと思います。二人のそれぞれのあり方についての話し合いを含め、何でも二人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。 皇后はまじめなのですが、面白く楽しい面を持っており、私どもの生活にいつも笑いがあったことを思いだします。また、皇后が木や花が好きなことから、早朝に一緒に皇居の中を散歩するのも楽しいものです。私は木は好きでしたが、結婚後、花に関心を持つようになりました。
 語らひを重ねゆきつつ気がつきぬわれのこころに開きたる窓
 婚約内定後に詠んだ歌ですが、結婚によって開かれた窓から、私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます。終わりに私ども二人を50年間にわたって支えてくれた人々に深く感謝の意を表します。>

 健康で二人で50年を迎えることが出来たことへの素直な感謝にあふれているなぁ。

◆陛下が誠実で、謙虚で、寛容でいらしたことが何よりの支え

 <《皇后さま》たくさんの質問があって、全部はお答えできないかもしれません。とりわけ婚約のころのことは、50年を超す「昔、昔のお話」で、プロポーズがどのようなお言葉であったか、正確に思いだすことができません。>

 本当かな? 皇后陛下は生涯忘れていないと思うが。小泉信三氏のアドバイスとか、今はまだ心を整理してしゃべることができない、ということなのだろうか?

 <また、銀婚式を前にしてお尋ねのあった同じ質問に対してですが、このたびも私はやはり、「感謝状」を、何かこれだけでは足りないような気持ちが致しますが、心を込めて「感謝状」をお贈り申し上げます。>

 心を込めた感謝状、いいですね。

 <次の夫婦としてうれしく思ったこと。このようなお答えでよろしいのか……。嫁いで1、2年のころ、散策にお誘い頂きました。赤坂のお庭はクモの巣が多く、陛下は道々クモの巣を払うための、確か寒竹だったか、葉の付いた細い竹を2本切っておいでになると、その2本を並べてお比べになり、一方の竹を少し短く切って、渡してくださいました。ご自分のよりも軽く、少しでも持ちやすいようにと思ってくださったのでしょう。今でもその時のことを思いだすと、胸が温かくなります。>

 いいエピソードだ。

 <昭和天皇の崩御後、陛下はご多忙の日々の中、皇太后さまをお気遣いになり、さまざまに配慮なさるとともに、昭和天皇が未完のままお残しになったそれまでのご研究の続きをどのような形で完成し、出版できるか、また、昭和天皇の残されたたくさんの生物の標本をどうすればちりぢりに分散させず、大切にお預かりする施設に譲渡できるかなど、細やかにお心配りをなさいました。こうしたご配慮のもと、平成元年(1989年)の末には「皇居の植物」が、平成7年(1995年)には「相模湾産ヒドロ虫類」の続刊が刊行され、また、平成5年(1993年)には昭和天皇ご使用の顕微鏡やたくさんの標本類が国立科学博物館に、平成7年(1995年)には鳥類の標本が山階鳥類研究所に、それぞれ無事におさめられました。印象に残った出来事はという質問を受け、この時の記憶がよみがえりました。>

 なるほど、そういう経緯があったのか。

 <結婚してよかったと思った瞬間はという難しいお尋ねですが、もうエピソードはこれで終わりにさせていただいて、本当に小さな思い出を一つお話し致します。春、コブシの花が取りたくて、木の下でどの枝にしようかと迷っておりましたときに、陛下が一枝を目の高さまで降ろしてくださって、そこにほしいと思っていたとおりの美しい花がついておりました。うれしくて後に歌にも詠みました。歌集の昭和48年(1973年)のところに入っていますが、でも、このようにお話をしてしまいましたが、それまで一度も結婚してよかったと思わなかったということではありません。>

 皇后陛下らしい。

 <この50年間、陛下はいつも皇太子、また、天皇としてのお立場を自覚なさりつつ、私ども家族にも深い愛情を注いでくださいました。陛下が誠実で謙虚な方でいらっしゃり、また常に寛容でいらしたことが、私がおそばで50年を過ごしてこられた何よりの支えであったと思います。>

(注)皇后さまがお答えの中で指摘された和歌は次の通り。

 仰(あふ)ぎつつ花えらみゐし辛夷(こぶし)の木の枝さがりきぬ君に持たれて

◆結婚50年の人々、共通した経験をして今日に

 <《関連質問》ご結婚50年おめでとうございます。両陛下は4月10日、今年結婚50年を迎えられるご夫婦をお招きになって茶会を開かれます。これは両陛下のご発案と聞いておりますけれども、どのようなお気持ちでこの茶会を開かれたいと思われたのか、そこら辺のことをお聞かせいただけないでしょうか。>

 <《天皇陛下》もちろんこの100組の、結婚50年を迎える人々を呼ぶということには、二人の意思とともに宮内庁長官をはじめ、関係者の色々な尽力があったことと思います。ちょうど私どもが結婚してからの50年は、先ほどもお話ししましたように、さまざまな出来事の多い時だったと思います。結婚したころは必ずしも豊かでありませんでしたが、みな希望に満ちて未来に向かって進んでいったのではないかと思います。そして、その前の時代に戦争があり、その戦争の厳しい環境の中で、青少年時代を送ったことだと思います。このように、この結婚50年の人々はさまざまな、そして、共通した経験をして今日に至っていると思います。このたび、結婚50年に当たって、結婚50年を迎えられる人々をお招きしてこの茶会を催し、それぞれの皆さんがたどってきた道を話し合うということは、私どもにとっても意義深いことだと思いますし、また、お互いに話し合って楽しい一時になるのではないかと期待しています。>

 なるほど。

 <《皇后さま》いま陛下がすべてお話くださいました。私も当日を楽しみにしております。>

 蛇足だが、産経新聞4月24日朝刊のコラムの最後で曽野綾子氏は、

 <誰が何をしようが人間の権利だという放任の時代にあって、この記者会見の内容がどれだけ重く日本人の在り方を見せて衝撃的なもんだったか。それは政治を超えて政治的力を持ち、道徳を超えて深い徳性を考えさせるものであった。>

 と書き記していた。

 そこまで深く考えなかったのだが、言われればそういう感じがした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月 1日 (水)

永井陽之助氏追悼文(中嶋嶺雄氏と粕谷一希氏)~3月19日読売新聞朝刊と4月1日毎日新聞朝刊の寄稿

 2008年12月30日に国際政治学者、永井陽之助氏が亡くなった。84歳だった。各紙は3、4月に追悼文を掲載していた。毎日新聞は4月1日朝刊で中嶋嶺雄・国際教養大学長の追悼文を掲載した。見出しは<永井陽之助氏をしのぶ/平和論に切り込んだ現実主義者>だった。文章を書き写しながら、読んでみよう。

◆中嶋嶺雄氏による追悼文

 <文学、哲学から物理学や精神医学にいたる豊饒な学識、坂口安吾や丸山真男、E・フロム、ハンナ・アーレント、エリック・ホッファーからD・リースマン、スタンレー・ホフマンにいたる知的系譜、研ぎ澄まされた文章と挑発的なレトリック、まさにわが国20世紀知識人の最も優れた到達点を示し続けた国際政治学の永井陽之助氏は昨年末に逝去されていた。大きな喪失である。>

 という書き出しである。知的系譜として出てきた名前は綺羅星のようだ。ただ、この名前で普通想像する系譜に脈絡がないところが面白い。「堕落論」以後、日本文化を追求し続けた坂口安吾。進歩的文化人の代名詞である丸山真男、「自由からの逃走」のエーリッヒ・フロム、私が尊敬するハンナ・アーレント。「孤独な群衆」のデービッド・リースマン。こういう人たちの論の中からステレオタイプでない魂の部分を引き出してきた、ということなのだろう。

 <私個人にとっても永井先生はかけがえのない存在であった。私の著書を引用されたからと名著『平和の代償』(中央公論社)を署名入りで贈ってくださったのが1967年初頭だったので、もう40年以上も前のことになる。同書は、氏が在米中に出会った1962年のキューバ危機に強い衝撃を受け、朝鮮戦争からべトナム戦争までを見据えて、核時代の日本外交の拘束と選択の有様を示した力作であった。平和論過剰のわが国の言論界にいわば現実主義の立場から切り込んだ挑戦である。>

 産経新聞のオピニオン面に当時の論を再掲しているが、当時の「平和の過剰」は今になるとはっきり分かる。

 <私が永井氏に最初にお会いしたのは1967年春、日米知識人会議への出席を松本重治氏から要請された、国際文化会館での準備会のときであった。ウイリアムズバーグで開かれたこの会議は日本側が笠信太郎、桑原武夫、永井道雄、加藤周一、坂本義和の各氏ら、米国側がD・リースマン、E・ライシャワー、ダニエル・ベル、スタンレー・ホフマン、R・スカラピーノ各氏らの錚々たる面々で、中国の文化大革命とべトナム戦争がテーマであった。この会議では私が最年少かつ最初の訪米だったので、会議の後に永井氏とワシントンDCやハーバード大学へご一緒させていただいた。>

 こういう右も左も同席する話し合いの場が昔はあったのだ。だから、論壇という存在も命を吹き込まれ続けたのだろう、と思う。

 <中国の文化大革命の余波は、まもなくわが国の大学紛争へと連なっていった。東大の安田講堂落城が注目されたけれど、実は東京教育大と東京外大の紛争も深刻で、やがて東京工業大へも波及していった。私は東外大の教授会代表委員として過激派学生と対決せざるを得なかったが、永井氏も東工大で人社系を代表する立場にあり、私の東外大での経験を東工大で講演したこともあった。この学園紛争を国際的視野で論じた書が『柔構造社会と暴力』(中公叢書)である。同じ中公叢書にはキッシンジャー外交や日中友好外交を批判的に論じた『多極世界の構造』、政治的資源としての「時間」を「非対称紛争」としてのベトナム戦争に当てはめて論じた『時間の政治学』がある。>

 大学紛争を中国の文化大革命と関連付けて論じるとは、いかにも中嶋氏らしいが、日本の若者の反乱は中国の毛沢東の復権闘争である文化大革命と比較するよりは、フランスの「若者の反乱」や米国のヒッピー運動との関連の強さを論じたほうがいいとは思う。

 <こうした旺盛な言論活動のなかでの学術的貢献が、永井主査による文部省科学研究費特定研究「国際環境の基礎的研究」であった。この共同研究は、国際的な冷戦研究として注目を集め、京都シンポジウムには世界第一線の学者が集まった。その成果が英文ではコロンビア大学出版会から出され、わが国では永井著『冷戦の起源』などの「叢書 国際環境」(中央公論社)となり、永井氏は日本国際政治学会理事長にも就任された。>

 この辺はさすがにインナーグループにいて、永井氏の近くで過ごした方の思い出話だ、と思う。参考になる。

 <当初は現実主義の立場から理想主義者の平和・安全保障論を鋭く批判した永井氏だったが、言論や政治に軍事優先傾向が強まるなかで氏は、主に岡崎久彦氏との論戦を意識して防衛論を『文藝春秋』に1年間連載、1984年度文春読者賞を得ている。>

 そうなのだ。永井陽之助氏の分かりにくさはこの辺にもあるのだ。

 <永井氏の1985年の東工大最終講義を巻頭にした『二十世紀の遺産』(文藝春秋)は、粕谷一希氏と私もお手伝いした浩瀚な編著であり、氏の人脈の広さを物語っている。そこに登場する高坂正堯氏も江藤淳氏もすでに亡く、神谷不二氏もつい最近、永井氏の後を追って急逝された。これらの方々は、佐藤栄作政権の時代以降、首席秘書官・楠田實氏のもとで日中関係や日米関係の方策を永井氏とともに提言した論客でもあった。永井氏が論じた軽武装・日米同盟重視の「吉田ドクトリンは永遠なれ」との見解が一部で誤読されてもいる昨今だけに、氏の一貫した警告を忘れてはなるまい。>

 そうかぁ、佐藤政権のブレーンだったのか。

 <なお永井氏は毎日新聞社アジア調査会アジア研究委員会の代表幹事としても貢献された。>

◆粕谷一希氏による追悼文

 永井氏の業績はあまりに幅広いので、なかなか一言では言えない、というのだろう。中嶋氏が共同作業をした、として名前を挙げていた評論家の粕谷一希氏も3月19日読売新聞文化面に<永井陽之助さん追悼/壮大・華麗な思考の社交家>のタイトルで追悼文を寄稿していた。「論壇で大活躍をしていた1970年当時の永井陽之助さん」のポーズ写真がついていた。

 粕谷氏は5、6年前まで中嶋氏、粕谷氏らとの勉強会に出てきたが、ある時からプッツリと外界との関係を断ち、我々とも連絡が取れなくなった、と書き出している。文化人の中にはそういう人が結構多いようだ。衰えた姿を他人に見せたくないのだろうか?

 粕谷氏は、

 <1960年代後半から70年代前半にかけて、永井さんの舌鋒は圧倒的な迫力を持ち、壮大・華麗な体系的思考を展開して、論壇の中心的存在となった。歴史畑出身の人が多かった政治学界で、政治理論、政治社会学、政治意識論などを専門とされた。キューバ危機で米ソの正面衝突を危ぶまれた米国での経験を機に、国際政治に関心を移していかれた。>

 と書く。「歴史畑出身」というのは日本政治思想史を専攻した丸山真男氏を考えれば分かりやすいだろう。

 <私は北大時代から、永井さんと接触があり、編集者として、当時流行だったD・リースマンとW・ミルズの比較論を「思想の科学」に掲載した。やがて高坂正尭、萩原延寿など、新しい感覚の欧米帰りとの交わりは、私にとって”職業上の青春”と言ってよい。原稿を読むたびに、読み手の私が興奮し、高揚し、新しい想念の刺激を受けた。「平和の代償」の諸論考は、文学的感性を刺激し、福田恒存は「論壇のバラバラ事件」と評し、三島由紀夫は即座に面会を申し込んだ。以後「柔構造社会と暴力」、「冷戦の起源」など、またアンソロジーの傑作「政治的人間」が当時の読書人の意識を変えた。永井政治学の魅力は斬新な理論的枠組みにあった。またヨーロッパの正統派、R・アロン、S・ホフマン、C・シュミットなどを深く読み込み、アメリカとヨーロッパの幸福な融合を自分のモノとしていた。>

 「壮大・華麗」の中身が語られている。

 <永井さんは警句とジョークを愛していて、若い女性とのたわいない会話を楽しんだ。読書はその合間に集中的にやるらしく、我々は社交人永井氏を存分に味わった。警句では、ビスマルクの「愚者は自分の経験に学び、賢者は他人の経験に学ぶ」という言葉を好み、つねにヒントにしていた。>

 なるほど、このビスマルクの言葉は深いなぁ。読書は他人の経験に学ぶ最たるもの。どれだけ深く読み込めるか、で他人の経験を自分の経験と同一化できるかどうか、決まるのだろう。

 <今日、社会科学者は政府の審議会のメンバーであり、大きな対立もなく、論壇も総合雑誌も影が薄くなった。細分化された思考はますます専門化し、素人には見えない世界になってしまった。永井政治学の壮大と華麗を想い起こすのも、今日の意識と言語とを省みるひとつの方法かもしれない。>

 いいことを言っている。さすが粕谷氏だ。細分化した「知」を再び総合化する大きな手段がヘーゲルなのではないか、と誰かが書いていたのを思い出したのだが、名前を思い出せない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月21日 (土)

卑弥呼がお祈りに使った建物かもしれない:纒向遺跡の建物跡発掘~3月21日読売新聞朝刊から

 3月21日各紙朝刊は扱いの大小はあったものの、奈良県の纒向遺跡の重要施設の発掘を報じていた。

 東京新聞は対社面ハコ扱い<卑弥呼時代の重要施設か/3棟の建物跡 柵内外に整然と>の見出しで「纒向遺跡」の注釈をつけ、遺跡の写真と今回見つかった建物群を特記した[纒向遺跡の遺構配置図]や現地の地図などとともに掲載していた。

 読売新聞も対社面2段<邪馬台国畿内説の有力地 纒向遺跡/3世紀前半~中頃の建物跡>で写真付きの記事だった。

 古代のロマンを想起させる発見だと思う。

 読売新聞の記事をコピペしておく。

 <邪馬台国の最有力地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、女王・卑弥呼の時代にあたる3世紀前半~中頃の建物跡が、大規模な整地をしたうえで、柵で囲み、建物の方向をそろえるなど、計画的に整備されていたことがわかり、市教委が20日、発表した。この時期、こうした施設は他に見られないといい、専門家は「この地が邪馬台国とすれば、宮殿など中枢施設の一角だった可能性がある」と指摘している。>

 <1978年に出土し、神殿状とされた建物跡(約5㍍四方)や柵跡の周囲を発掘。この建物跡の東側で、三つ並んだ柱穴が新たに見つかり、南北6㍍以上の別の建物跡があったとみられる。柵は凸状に建物を囲み、南北23㍍以上、東西9㍍以上に延びることがわかった。付近は整地のため、広い範囲で盛り土をされていた。大規模な施設の西端にあたり、施設はさらに東に広がっているとみられる。>

 <また、1978年に今回の調査地より約5㍍西側で見つかった柱穴も柵の外にあった建物跡と判明。少なくとも3棟が柵を挟み、建物の北側の面をそろえて東西一列に並んでいたらしい。>
 <邪馬台国は3世紀後半の中国の史書「魏志倭人伝」に記された倭の中心地。卑弥呼が239年、中国・魏に使者を送った。所在地について畿内説と九州説に分かれて論争が続いており、九州説の研究者らは同書の記述から纒向遺跡は邪馬台国と無関係とみている。>

 <畿内説を唱える辰巳和弘・同志社大教授(古代学)の話「方位を意識して造られた建物や柵は中国的で、強力な支配者がいた証しの一つだ。卑弥呼が祭祀や政治を行った、最も重要な施設の一部だったのではないか」>

 畿内説は京都大学派が、九州説は東京大学派が主張していた。

 この発見で決め手が出たわけではないが、何となく畿内説の分が良くなった感じがするのだが、どうだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月17日 (火)

「山川草木が育んだ宗教観を死なせてはいけない」と久保田展弘氏~東京新聞3月17日夕刊

 東京新聞3月17日夕刊[生きる 心のページ]にアジア宗教・文化研究所代表の久保田展弘氏が<故郷に見えないカミ・仏/山川草木が育んできた宗教観こそ、出番のとき>の見出しで寄稿していた。全面的に賛成、というわけではないが、こういう故郷の森の持つ心の癒しという役割にまで踏み込まないと、あまりにもカサついてしまった日本人の心を癒すことはできないのか、と思った。

 その意味ではみのもんた氏が木曜日夜のテレビ番組で都道府県代表芸能人によるお国自慢番組を始めたことは評価できる、と思う。各地にある特産品を紹介しながら、その来歴にも触れる手法で、南北に長く、1億2000万人の人が住む日本列島のもつ表情をクローズアップして、現代の若者にも理解させるといういい手法だ、と思うのだ。

 久保田展弘氏は1941年東京都生まれ。早稲田大学卒。専門は比較宗教思想・文化論。主な著書は「インド聖地巡礼」(新潮社)、「さまよう死生観―宗教の力」(文春新書)、「役行者と修験道」(ウェッジ選書)、「原日本の精神風土」(NTT出版)など、とあった。

 久保田氏は「派遣切り」にあった40歳代の男性が「故郷へ帰りたいが、もっと厳しいしなあ」と呟いた言葉を噛み締めて思考を深めていく。

 <地方の現実は大都会やその近郊よりも厳しい。日本中に出現した大小の銀座通りとインフラ整備の拡大は、東京から全国各地へと、その道中に都会近郊のミニチュア的たたずまいを生み、この30年、急速に地方色を打ち消してきた。>

 この30年といえば、1979年からの30年だ。もう少しファジーに見ると、第2次石油ショックあたりからの時代だろうか。

 <それは、地方の都市化という外観の変化にとどまらない。文化の根っ子ともいうべき祭事・儀礼と一体のカミ・仏を祀る宗教施設の変貌、消失を強いてきたのである。都市を結ぶ幹線道路が山を削り、宅地造成が森をはらい、日本人の自然崇拝に根差したカミの認識を歴史遺産の向こうに追いやってきた。「故郷に帰りたいが、もっと厳しいしなあ」と呟いた男性の言う厳しさは、職の当てのない厳しさと、こころを癒してくれるはずのカミ・仏の見えない、故郷独特の山川草木の変貌を思い浮かべてのことでもあるだろう。日本人の霊魂観に根差したカミ・仏の気配を喪失した故郷へ帰る厳しさが、”派遣切り”という言いようを一層生々しく思い起こさせるとしたら、日本各地の都市化、インフラ整備、過剰で画一的な情報化とは何であったのかが、改めて問われなくてはならない。>

 ここが重要な指摘だ、と思う。宮崎駿監督の映画「となりのトトロ」は失われていく所沢の自然への追憶、オマージュだったらしいが、宮崎監督の一連の映画が日本人をひきつけてやまないのは、この自然と人間の近さだと思う。

 大木が語り、精霊が呟き、お化けが語る。現代に生きる我々は1億2000万人で生きているのではなく、過去の日本人たちに生かされており、子孫たちがまた我々の死後、日本人として、この素晴らしい自然と共生しながら生きていく。

 この「歴史的連続性」と「人間も自然の一部」という感覚が日本人をつくってきたし、久保田氏が言うように、その精神がアミニズムとでもいえそうな自然の中や人間をすぐに「カミ」にする心情、インドの仏ではない自分たちの先祖の分身としての「仏」を一体として敬う日本人の心情をつくってきた、と思う。

 <地方も東京・大阪のように都会になればいい。そのためには道路も商店街も変え、衣食住も都会にならうのだ。地方の活性化という名の下に多くが右へ倣えしたここには、おそらく地方独自の文化が何に根差し、それがどんな伝統を作り上げ、地に足の着いた意識・思想を育んできたのかという問いがなかった。日本人に特有の、共同意識の盛り上がりを乱すまいとする思いが、足元を問うことを拒ませたのだ。いやどこかに、地方色をとどめることが、都市化にも、企業誘致にもマイナスであるように思ってきたところがあった。>

  久保田氏は田中角栄元首相の日本列島改造論をシンボリックに取り上げる。

 <…あらためて私に、列島改造の進軍ラッパに始まる地方の大変貌が何をもたらし、何を失わせたかを問うことになった。>

 そして、日本における「故郷」の意味合いを次のように書く。

 <故郷の深い森がいのちの源泉であり、日本人のカミ・仏のありようを示す情報源であったこと、森とその気配が伝統文化の情報発信源であったことを忘れたとき、こころの荒廃がはじまったのではないか。そして同時に地方の衰退、意気消沈が日本という国の体力を急速に弱め、アジアの中の日本を見失わせている。>

 そして、山岳宗教の伝統の独自性とアジアとの共通性に触れ、それを認識することが大事だ、という。次の結びの文章も重要だ。

 <なぜ人は帰るべき故郷を求めるのか。それは故郷ということばがカミ・仏の気配を持つ山川草木、海が育んできた日本人の宗教観こそが、あらゆるものが対峙してやまない現代に、もっとも深い生命観に根差したメッセージを発し得ることを見逃してはならない。>

 秋葉原連続殺傷事件を「派遣切り」や携帯電話に頼って人間的ふれあいがない社会という切り口で語る人が多かったが、この「森の消失」こそが、現代人のこころの問題と深いところで繋がっているのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 4日 (水)

毎日新聞長期連載[40年前~<政治の季節>を再考する]が最終回~3月4日毎日新聞朝刊から

 毎日新聞の長期連載[40年前 <政治の季節>を再考する]は「団塊の世代」が20歳前後だった1967~69年の激動の時代を問い直すシリーズ。2007年4月から21回にわたり連載し、3月4日朝刊で最終回。今回はかつて全共闘にも参加した社会学者の橋爪大三郎氏明治以降の文化史に詳しい評論家の坪内祐三氏当時の映画事情を専門に研究する平沢剛氏の3世代の論客が「60年安保」との比較から、「50年後」への展望までを語った、という。近く単行本として刊行されるらしい。楽しみだ。

 平沢剛(ひらさわ・ごう)氏は1975年生まれ。明治学院大文学部卒。編著に『アンダーグラウンド・フィルム・アーカイブス』『ファスビンダー』『若松孝二 反権力の肖像』など。▽坪内祐三(つぼうち・ゆうぞう)氏は1958年生まれ。早大文学部卒。著書に『靖国』『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』『一九七二』『変死するアメリカ作家たち』『考える人』など。▽橋爪大三郎(はしづめ・だいさぶろう)氏は1948年生まれ。東大大学院博士課程修了。著書に『橋爪大三郎コレクション(全3巻)』『アメリカの行動原理』『冒険としての社会科学』など、と紹介されていた。

 記事の見出しは<座談会・シリーズを総括する/価値観・文化・生活…大きく転換/ヒントも残した全共闘―橋爪/思想・運動の実験あった―平沢/テレビが世界同時性生む―坪内>だった。

 いつものように、気になった発言を書き写しながら、コメントしていこう。

◆橋爪大三郎氏

▽第二次世界大戦後から現在まで、世界的には冷戦終結が大きな区切りだが、日本は60年代後半から70年代初めに区切りがある

 これを言う人が多いのだが、本当にそうなのか? 単なるノスタルジアではないのか? 区切りと言えるだけの客観的な事象が欠けている気がする。

▽音楽では66年に来日公演したビートルズが受け入れられ、大学生がジーンズを着て学生服は姿を消した。今も続く様々なことが初出し定着したのが40年前だった。

全共闘(全学共闘会議)は大学ごとにできた任意団体で、参加したのは大部分が一般学生。60年安保時の全学連(全日本学生自治会総連合)は街頭闘争で警官隊にぶつかり負けたが、全共闘は学内闘争で外から入ってきた機動隊に学内で負けたから、その後大学は正常化し授業が再開した。

▽戦後のベビーブーマーによってこの時期、世界で一斉に若者文化、カウンターカルチャー(対抗文化)が起こる。日本と欧州は左翼運動、社会主義の政治運動の性格が濃かったが、マルクス主義の影響がほとんどない米国はカウンター・カルチャーや反戦運動の側面が強かった

▽当時、団塊の世代の多くが左翼になったのは、資本主義に反対で、既成左翼の社共もダメと思っていたからで、全共闘から見ると社共、ソ連がダメなのは一国社会主義だから。

全共闘を含む新左翼は国際共産主義で世界連帯を唱えたから、どの外国も基本的には敵視しない。グローバル化が進まないうちから意識だけはそうなっていた。だからロックを聴いたりした。

▽総力戦だった20世紀前半の戦争と異なり、核兵器ができて限定戦争になると、ベトナム戦争のように正規軍が勝てるとは限らない。だが、戦争の勝ち負けとは無関係に冷戦の枠は維持され、日本はどうあがいてもその枠を左右できない無力感が冷戦期の日本の政治や外交につきまとった

最も現実的に考えることと最も空想的に考えることが等価になる感覚があり、全共闘的左翼の「結果無責任」につながったのかなと感じる。

▽「消費」概念ができた。60年前後の「三種の神器」(白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫)だとかなり気張って買う感じがあったが、「消費」は必要かどうかではなく個人の便益・効用に応じて自由にモノを選んで買うこと。衣食住すべてにわたって大きな変化が起こった。消費が出てくると同時に大衆も出てきた。

▽社会変化で発生した非合理的問題に対して、若者たちは街頭闘争参加などで政治を動かそうとしたが、政治というより運動だった。運動は半ば空振りに終わったが、半ばは時代を超えるヒントを残したかもしれない。今は当時の運動を冷静に評価できるようになったが、政治によって解決すべき構造的問題が出てきた。

◆坪内祐三氏

▽「1968年革命」という言い方がある。68~72年ごろにパラダイム・チェンジがあり、価値観や世界のあり方が変わったとよく言われるが、注意したいのは個別のテーマごとに考えると、全体の連関性が見えにくくなる点だ。

▽当時小学生だった自分の感覚で、69年1月に全共闘の東大安田講堂が落ちた後は、アポロ11号の月着陸(7月)、翌年の大阪万博での「月の石」展示と、時代は未来イメージに変わった。

60年安保は反米意識が強かったが、団塊の世代はベトナム戦争には反対だけどファッションや社会風俗の面ではアメリカ的なものを受け入れた。その米国に対する意識の分裂は興味深い。

世界同時性ではテレビの影響が大だ。ベトナム戦争にしても、テレビで放映されることによって戦争の悲惨さが人々に伝わった。キング牧師のデモ行進でも、暴力的に排除される時、大げさに転んで見せたりしたように、テレビを強く意識していた。メキシコ五輪の記憶が鮮明だが、衛星中継で海外の動きもリアルタイムで伝わるようになった。カラーテレビも出始めていた。

▽69年5月に東名高速道路が全通したが、マイカーが普及した時代でもあった。当時の少年雑誌で描かれる未来都市像には高速道路網が肯定的に描かれていた。

▽あと10年たって、68年から50年後になった時、どう論じられることになるか興味がある。今が歴史の大きな変動期だと思うからで、これから10年の変化を経た後に、68年がどういうイメージで見えるかを考えると面白い。

◆平沢剛氏

▽昨年、68年から40年後に際して海外で開かれたいくつかのシンポジウムに参加したが、日本では68年を振り返る機会がなかった。冷戦崩壊で共産主義、社会主義の失敗が強調されるが、今の金融危機の中、資本主義とは何だったのかも問い直す時代だ。68年前後に歴史的転換点があったとするならば多角的に読み直し、現在の観点から見つめ直す必要がある

▽「全共闘」「68年」のキーワードで語られる「大文字の歴史」に集約されがちだが、実際には「68年」的なものはヨーロッパでも日本でも70年代まで多様な形態で続いた。神話化した部分は検証し直さないといけない。

当時の理論や実践は、今の反グローバリズムの思想が訴える反権威主義、脱中心主義を予見的に提示した面もあった。評価は様々にあるとしても、巨大な思想・運動の実験が行われていたことは強調したい。

▽テレビに比べタイムラグはあっても、当時の映画にも世界的に共通の関心をもって結びついていく特徴が見られた。海外旅行に簡単には行けなかった時代に、国際問題に関心を持ち、盛んに考えたり分析したりしていた。

そのころ日本にもあった国際的な想像力を今、取り戻す必要も感じる。50~60年代には黒澤明や溝口健二ら巨匠の映画が日本という国民国家の芸術として評価を受けたが、この時期になると大島渚、吉田喜重、若松孝二の各氏など若い世代の作品が同時代の表現として評価されるようになった。映画や漫画、写真、美術といった単独のジャンルでは語れないようなジャンル横断性が生まれたのは文化史的にも特異だろう。

都市と農村の二項対立の失効があった。東京五輪(1964年)や大阪万博(70年)に伴う国土再開発が本格化し、高速道路をはじめ、均質化された日本の風景を準備することになった。今の日本の問題を分析するうえでも重要だ。

▽68年の運動には、今だからこそ見えるイメージも含まれている。構造的問題を分析しながら、あり得たかもしれない「可能性としての68年的なもの」がどこにあり、どう引き継いでいけるのかを冷静に考えなければならない。

 何か舌足らずな言葉が並んでいるようにも見えるが、様々な問題提起はされている。

 この68年問題は単純に人口論で見るとどうなるのか? 「団塊の世代」などと堺屋太一氏が名付けてしまったので、日本特有な現象のように見えるが、世界的に1945年は戦後の始まりだったわけで、出生率が一斉に上昇した。1945~1950年生まれの大群が今や還暦を迎えたので、高齢化の問題が出てきている。60年代後半から70年代前半はその世代が成人する時期だ。世界的に政治的思春期が来た、ということではないか。あまり秩序感覚もなく、思想への忠誠心もない大きな塊が大人になった時期、何があったのかである。

 このような社会学者の分析も議題設定には欠かせないが、やはり、経済の変化と政治の変化をもう少し精密に見る必要性があると思う。1968年は米国は実は経済的には困り始めていた時期で、71年には破綻するのだから。政治的には東西冷戦の諸相と日本の関連、それに中国を変数として入れないと見えてこない部分もあるだろう。

 その中での日本国民精神史である。

 でも、相当に面白かった企画だったことは間違いない。

 ついでに記事につけてあった年表を写しておく。

[政治の季節]年表

1966年5月 中国文化大革命始まる

 〃  6月 ビートルズ来日

 〃  7月 三里塚への空港設置を閣議決定

1967年4月 美濃部亮吉が東京都知事に当選

 〃  6月 自動車保有台数1000万台突破

 〃  8月 ASEAN発足▽公害対策基本法公布▽状況劇場が新宿で初のテント公演

 〃  10月 「オールナイトニッポン」放送開始▽ツイッギー来日

 〃  12月 佐藤首相が非核三原則を言明▽テレビ受信契約数2000万件突破

 〃     ATGと独立プロによる1000万円映画の製作が始まる

1968年1月 ドプチェクがチェコスロバキア共産党第1書記就任(プラハの春始まる)

 〃  4月 キング牧師が狙撃され死亡▽米コロンビア大をベトナム反戦学生が占拠

 〃  5月 パリ5月革命

 〃  7月 東大全共闘結成

 〃   8月 ソ連など5カ国軍がチェコスロバキアに侵入(チェコ事件)

 〃   10月 国際反戦デー(新宿騒乱)▽明治百年式典▽三島ら楯の会結成▽メキシコ五輪

 〃   12月 3億円事件

1969年1月 東大安田講堂攻防戦

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月21日 (土)

「遅く考える」時間の大切さ:中山元氏の論に賛成~朝日新聞2月21日夕刊

 哲学者の中山元氏が朝日新聞2月21日夕刊文化面に寄稿していた。<言葉と思考 遅さの技法/朗読・翻訳 その豊穣な時間>のタイトルだ。短文だが、書いてある内容は滋味に富んでいる。今、政治家だけでなくマスメディア、思想家、文芸評論家たちを含めて言葉の軽さが問題になっている時、この「言葉」=「思想」を理解するために時間をかける、という「ゆっくり」のススメは貴重な提言ではないだろうか。

 中山氏はデリダ、フーコー、カントらの翻訳書が多いので、どちらかといえば翻訳家として知られているかもしれないが、その本質は現代が抱える諸問題をすべて自分の頭で考えて解いていく、という珍しい哲学者だと思っている。借り物の欧米思想を物差しのように当てて、計算機に頼るような真似は間違ってもしない人だから、安心して著書が読める。この記事で紹介されている「賢者と羊飼い」は読んだことがなかったが、哲学入門のような題名は忘れたが、分厚い文庫本を読んで感動したことを覚えている。

 寄稿に移ろう。中山氏はまず、

 <思考は言葉によって紡がれる。言葉にならない思考は、昨晩の夢のようなものであり、雰囲気としては残っていても、揺らいでいく。思考は言葉に定着させる必要がある。>

 <言葉のうちで思考は育ってゆく。蚕が糸を紡ぐように、思考は言葉を繭として、言葉のうちで育まれ、成長し、やがて羽ばたくようになる。思考は言葉の網の目のうちで息づく命のようなものだ。>

 と、「言葉」と「思考」との密接な関係に注目する。

 <だから他者の思考を理解するということは、そのひとの言葉のうちで呼吸している思考を理解するということだ。しかしただテクストを読んでいても、著者の思考の鼓動を感じ取れないことがある。優れたテクストの多くは長い時間をかけて書かれたものであるのに、読む者の目は、しばしばテクストの上を高速で滑走してしまうからである。>

 これは、いつも経験していることだ。

 <思考を読み解くためには、遅さというものが大切なのだ。テクストの背後と行の間を読み込み、その白紙の部分にみずからの思考を書き込みながら、長い時間を過ごす。著者との沈黙の対話のうちに過ごすこの時間は無駄ではない。それこそが豊穣な時間なのだ。>

 ここまで読んで、万歳をしたくなる。いつも、私はこのような新聞掲載の論文を読みながら、パソコンに手でキーボードを叩いて入力し、それへのコメントを短く書いているのだが、その行為をも意味ある行為だ、といってくれているような感じを受けるのだ。「読む」という作業は、今の忙しい時代、一人一人の心の中で、徐々に軽んじられてきているのではないか、と思うのだ。読んでも、たいしたことが出ていないな、とか、表題だけチェックして、自分の興味のある記事だけ熱心に読むが、それも、斜め読み。事実関係だけ知れば、あとは新聞を棄てる。そんな「読書」が今、一般的になってしまったのだ、と思う。しかし、思考の格闘をしなければ、本当の読書とはいえない、というのは正しいと思う。

 中山氏はこの「遅さ」を担保する方法として、テクストを朗読し、録音し、その自分の声の録音をじっと聞く。何度も聞くことによって、目と耳を通した他者の思考と対峙する、という。次第に自分の思考と絡み合ってくる。その生き物のような変化が微妙で深い、と書く。

 また、翻訳してみるのだ、という。これは誰にでもできることではないが、思わぬほど思考の道筋が見えてくるのだ、という。日本語のテクストだったら、覚束なくとも他の国の言葉に翻訳してみるのだ、という。

 <翻訳という営みでは、もとの言葉の網の目のうちに入りこみ、著者と同じようにその思考の鼓動を感じ取ろうとすることが、決定的に重要な意味を持つ。翻訳家というぼくの仕事では、どうしても肌の合わない文体の思想家のテクストを翻訳するときに苦しくなることがある。それは相手と思考を共有しにくいためなのだ。>

 なるほど、翻訳ねえ、できればいいのだけれども。

 <必要なのは、滑りすぎる目の速度から、どのようにして思考を「遅らせる」かということなのだ。>

 だから、すでに翻訳がある、例えばジョージ・オーウェルの「1984年」の原著をペンギンブックスで買って、自分だけで翻訳して読むのも価値があるのだ、という。それはそうだろう。

 <「遅く考える」時間をぼくにくれるのだ。>

 という方法を自分たちで見つけるしかないのだろう。ぼくは、このブログに、特に書評を書く時には、本の内容をなるべくエッセンスにして略述しているが、そういう略述する、という作業の中で著者と会話しているつもりだ。

 中山氏の深い思考と比べるのは牽強付会だろうが、各自自分の方法で「遅く考える」手段を見つけることが大切なのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月19日 (木)

[ナショナリズムと中間団体]に関する中島岳志、中野剛志両氏の対談~毎日新聞2月19日夕刊から

 毎日新聞2月19日夕刊文化面の連載[中島岳志的アジア対談]は評論家の中野剛志氏との対談でタイトルは<金融危機、保守と国家>だったが、議論がそうは深まっていないように思う。経済政策が今後、社民勢力も保守勢力も似たようなものになるだろう、というような話とナショナリズムの話。

 このナショナリズムに絞って、中野氏の経済ナショナリズム論をもう少し多面的に話し合ったほうが深まったのではないか、と思った。

 中野剛志(なかの・たけし)氏は経済産業省産業構造課課長補佐。1971年生まれ。東大卒。旧通産省入省後、英エディンバラ大大学院に留学。同大学院博士号取得。経産省新エネルギー対策課課長補佐などを経て現職。雑誌『表現者』などで論考を発表。著書に『国力論』『経済はナショナリズムで動く』と人物紹介してあった。中島岳志氏同様、西部邁氏に影響を受け「経済ナショナリズム」論を展開している、という。どちらかと言えば右派の若手論客らしい。

 対談記事の見出しは<中野さん 不況に対し構造改革でミス/中島さん 左派も賛成し違い不鮮明に>、<中野さん 経済政策はナショナリズム/中島さん 国が乗っ取ると暴力が加速>だった。今、「かんぽの宿」問題をめぐって問い直されている郵政民営化をはじめとする小泉構造改革の是非なども、もう少し突っ込んでほしかった。

 発言の中で面白い部分を書きとめておく。

▽中野氏 日本はバブル崩壊後の不況で民営化、規制緩和、小さな政府など新自由主義的構造改革を行った。手本は80年代の米英。当時の両国はインフレに悩み、緊縮財政、規制緩和、競争促進でデフレを起こし、価格上昇を止めようとした。日本の平成不況はデフレが懸念されたのにインフレ対策をした。初歩的なミスを10年以上続けた。

 そういう見方があるのか。知らなかった。視点を変えればそういう事実が見えるのか、これは勉強になった。

▽中野氏 欧米は今、金融規制を強化しようとしている。日本は平成不況の原因を金融ではなく産業構造や社会システムとして、金融市場を規制緩和し、米国型金融システムを導入しようとした。日本の構造改革は今の欧米と全く逆のことをやった。

 金融ビッグバンを平成大不況が顕在化する前に橋本政権で決めてあり、そのスケジュールに則って進めていた。当時は金融、特に世界的な過剰流動性が大きな原因だ、とは分からなかった。

▽中島氏 日本は、保守も「左派」もそれを推し進めた。保守と新自由主義に共通するのは「左派」的な理性で良き社会を設計するという設計主義への批判だが、保守は人知を超えた常識や経験知を重視し、新自由主義は市場に依拠する。

▽中野氏 米英保守が80年代、新自由主義に転じた理由は、その通りかもしれないが、日本の構造改革論者で伝統や地域社会を重視した人はいなく、レベルの低い議論だった。気になるのは「左派」だ。福祉国家で弱者への配慮を言っていた人たちがなぜ小さな政府で痛みを伴う改革に賛成したのか。マスメディアは右も左も団結して賛成した。メディアは戦後ずっと「軍国主義を反省して全体主義反対」と言っていた。なのに、全体主義的に構造改革に賛成した。

 このメディア批判は重要だと思う。確かに小泉構造改革に正面切って反対した社説はなかった。その当時の社説に対する反省の弁も見ていない。日本の論説は言いっ放し、書きっ放しの傾向があるのだろう。別に年がら年中反省していなくてもいいが、今のような節目に昔を振り返ることくらい、やってもらいたいものだ。

▽中島氏 人間の努力、英知で平等社会を実現できるとするのが「左派」の最大公約数的定義で、手段は二つ。国家を通してか、市民社会を通じてか。社民主義、社会主義と自立した個人の連帯で平等社会を実現する市民主義的な立場で、極端なのがアナキズムだ。この両者が勘違いした。社民主義者は政治改革を主張する延長線上で足元が見えなくなった。市民社会派は小さな政府は小さな権力になると思ったのではないか。

▽中島氏 今後、保守と社民の違いが経済政策ではよく分からなくなるだろう。財政出動をすべきとの点で同じになる。両者の違いは「中間団体」への認識の違いではないか。中野氏はナショナリズムが単なるステイティズム(国家主義)にならないよう家族や職業団体など中間的なものが必要だ、と強調するが、この中間団体を保守は自生的、歴史的なものと見て、社民は、人工的に作れると考える。

 この中島氏が紹介した中野氏の中間団体論は佐藤優氏も近著の「テロリズムの罠」で書いていた。人民の国民意識の高まりは国民史の中で再生された「想像上の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)に至り、それが新しい集団的自己アイデンティティーの結晶化の核となる」ユルゲン・ハーバーマスの「他者の受容―多文化社会の政治理論に関する研究」からの引用で、(佐藤本右巻P100~)、佐藤氏は続けて雨宮処凛氏の思想に触れながら、国家に強制されない多層「社会」の必要性を強調し、ナショナリズムをファシズムや宗教原理主義と並べたf形で論じる、という離れ業を展開して、読者を惹き付けている。

テロリズムの罠 右巻  忍び寄るファシズムの魅力 (角川oneテーマ21) テロリズムの罠 右巻 忍び寄るファシズムの魅力 (角川oneテーマ21)

著者:佐藤 優
販売元:角川学芸出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

テロリズムの罠 左巻  新自由主義社会の行方 (角川oneテーマ21) テロリズムの罠 左巻 新自由主義社会の行方 (角川oneテーマ21)

著者:佐藤 優
販売元:角川学芸出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

▽中島氏 保守とは自生的秩序をそのまま称揚するのではなく、何かを伝統として選び直す立場で、理想社会が実現不可能なら状況に応じた漸進的改革が必要と考える。

▽中野氏 左派にも過激な暴力革命論から漸進的な福祉国家論まである。保守も中間団体が壊れたら理性で計画的に作り直すが、その理性の根拠は良識や伝統、慣習に行き着くと保守は言う。左翼思想家にも似た議論をする人がいる。米国では共和主義が保守とされるが西欧の社民主義やマルクス主義論者には共和主義者が多い。結局、保守と「左派」を厳密に分類しても、あまり意味はないのかもしれない。

▽中野氏 国民国家が遂行する経済政策はすべてナショナリズムと無縁ではない。それ自体に善悪はないが、ナショナリズムは暴走の危険性もあり、それを防ぐには中間団体が大事だ。

▽中島氏 現実のナショナリズムの多くがステイティズムを含むから難しい。ナショナリズムはフランス革命のように主権を求める国民の要求として下から生じるが、内での同質化と外への排除が出る。それを国家が上から乗っ取り、権力的暴力が加速する。

▽中野氏 下からのフランス革命の結果はとても排他的だ。旧ユーゴスラビア、ルワンダなど下からの民主化で虐殺が起きた例は多い。むしろ上からできるのが、保守思想が好む国民国家のスタイルだ。王朝の下で暮らす人々が同じ国民となり、時間をかけて穏健に民主化する。たとえばイギリスだ。王朝がある限り暴力的な革命はない。国民が殺し合わないためには、王朝の権威をねつ造しても構わない。

▽中島氏 ナショナリズムは国民がそれをフィクションだと知りつつ引き受けて、初めて可能な概念だと思う。

▽中野氏 ナショナリズムがフィクションだと国民全体が知る必要はあるのか。知らないから排外的になるわけではない。ナショナリズムに限らず、仲間意識は排他性を伴うが、排他性にも限度がある。問題は排他と博愛ではなく極端か極端ではないかだ。「ナショナリズムは悪いことをしたから全否定」では「悪い大人がいるから大人は全員信用できない」という話。結局、物事の複雑さをとらえるためには、いろんな議論が必要だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月14日 (土)

「歯切れを悪くする」市民の役目:曽野綾子氏の34年前の論~産経新聞[昭和正論座]から

 曽野綾子さんの昔の論文を読んで、今も昔も同じだと思った。

 産経新聞2月14日朝刊[昭和正論座]の<矛盾と混とんは社会の摂理>である。昭和50年(1975年)1月3日掲載だ。論文を読む前に、当時がどんな時代だったかを見ておこう。

 1972年7月7日に成立した田中角栄内閣は日本列島改造論をひっさげて過疎と過密の同時解消を狙う。9月29日には訪中した田中首相と大平正芳外相が日中共同声明を出し、外交関係を樹立した。その前の佐藤栄作政権時の1971年8月15日にニクソン米大統領が金とドルの交換を一時停止するなどのドル防衛策を発表し、国際通貨体制は揺らぎ始めていた。1973年10月6日には第4次中東戦争が勃発。アラブ産油国が石油価格を上げ、輸出を制限したため、日本では11月16日から主婦がトイレットペーパーに群がる「狂乱物価」騒ぎが起きた。

 始まっていたインフレは列島改造論で加速され、石油値上げで油を注がれた。過剰流動性は地価を押し上げた。1974年の参院選挙は田中首相がヘリコプターで全国を飛びまわり、企業が自民党を推す「企業ぐるみ選挙」となったが、自民tの右派改選議席70に届かない62しか取れず、敗北。保革接近参院が出現した。8月15日には朴正煕大統領夫人が在日韓国人に狙撃され死亡。1973年8月8日に起きた金大中拉致事件の処理をめぐっても日韓が対立した。

 8月4日にはニクソン米大統領がウオーターゲート事件を引責辞任。5日にフォード大統領が就任した。文藝春秋11月号の立花隆論文などの田中金権批判が外国プレスの報道で火がつけられ、日本の新聞も報道。11月18日に現職大統領の初来日という記念すべきフォード米大統領来日をこなした後、田中首相は辞任表明。

 12月1日の椎名裁定で三木武夫氏が12月9日に首相になった。12月27日に通常国会が召集され、院の構成を決めて自然休会。1月中旬から再開される、その直前の1975年1月3日に掲載された論文である。

 曽野さんはこの当時から根性が座っていた。書き出しがいい。

 <年の初めに当たり、何を望むかと言われると、私は、ますます深く迷いたい、と思っている。などというと体裁はいいが、実は、昔から、私は何事につけても、なかなか本質が見えてこないので、それがよく見えるようになるまで、かなり長い時間、待たねばならぬことを何とかして正当化しようとしているのかも知れない。>

 である。相当に謙虚だが、「本質が見える」人などほとんどいないのだ。だから、曽野さんは時間がかかるけれども「私は本質が見えるようになるまで見続ける」と言っているのだ。

 交通戦争でトラックの運転者が加害者という論理、ヘドロを出す製紙会社が加害者、と割り切れない現実をあげ、加害者と被害者が大抵の場合重なっているという事実、その矛盾がまさに人生そのものだ、と書くのである。

 チクロという薬の発がん物質と認定されたり、また使用可能となったり、という歴史に触れながら、炎上したタンカーを沈没させようとして自衛艦から魚雷を撃ったが、一発で沈まなかったことなどの「矛盾」をあげていく。

 そして、本ボシである。田中角栄首相退陣に触れる。

 <クリーンな政治家が、田中内閣後にひとしきり望まれるようになった。もちろん、政治家といえども、私生活はきれいな方がいいだろう。しかし、本当にひたすらふるまいのきれいな政治家がもしあるとすれば、その人は恐らく国際社会で日本の国益になるような交渉はできまい。人間が、個人としても集団としても、あることを決定するまでには、決して単純ではない、複雑な配慮が必要になって来るからである。>

 曽野綾子氏の人間観察は透徹している。悪い人、いい人と単純に区分けできないこの世の仕組みを述べて、

 <私たち大部分の平凡な市民にとって、大切なことは、せめて軽挙妄動、即断をせぬことではないか、という気がしてならない。あらゆるものは毒を含み、すべての美と善は、醜と悪のうらうちによって支えられる面が必ずあるからである。>

 <一人の首相が全くきれいだったり、一人の総理が悪いことしかしなかった、というのは、むしろ人間性の面から見て、不可能なことなのである。>

 <この矛盾の中にただよっていると、本当に歯切れは悪くなる。しあkし、私は歯切れ悪くしていることが、むしろ一人の市民のささやかな役目のように思うのである。>

 立派な言説だ。先ほど歴史を見たように、この時期は「田中ケシカラン、三木は素晴らしい」とテレビも新聞も一斉に報道していた時期である。これだけのことを言える曽野綾子氏は腹が据わっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月13日 (金)

森達也氏のセキュリティ意識過剰論はおかしい!~毎日新聞2月13日夕刊[特集ワイド]から

 毎日新聞2月13日夕刊[特集ワイド~この国はどこへ行こうとしているのか]は作家の森達也さん(52)の<暴走防ぐ「違和感」>だった。森氏は1956年広島県生まれ、立教大卒業後、俳優などを経てテレビ番組製作会社に入り、数々のドキュメンタリーを手がける。自主制作した「A」(1998年)が話題となり、続編の「A2」(2001年)は山形国際ドキュメンタリー映画祭で審査員特別賞に。「放送禁止歌」「下山事件」「悪役レスラーは笑う」「死刑」など著書多数、と紹介してあった。

 <「最近、気づきませんか? 地下鉄の駅に張られた防犯カメラのステッカー、以前は『作動中』だったのが、いつの間にか『監視中』になっているんです。結構大きなことだと思うんですよ。『お前ら監視してるぞっ』と言っているわけですからね」>

 なるほど、気付かなかった。「監視中」かぁ。何か国家の暴力性を象徴するような言葉ですね。

 <「放送禁止歌」ではメディアの自主規制の問題からこの国の宿痾とでもいうべき差別問題に迫り、オウム真理教をテーマにしたドキュメンタリー映画「A」「A2」では異物を排除しないではいられない日本の社会を描いた。「死刑」問題もしかり……。誰もが見ているのに、気づかない、気づこうとしない禁忌領域に迫り、押しつけではなく自らが感じた「違和感」を提示して見せる。>

 というのは地の文で、隈本浩彦記者が書いている。禁忌など何か曰く言い難い言葉遣いをする記者だなぁ。

 <「よくコンビニとかにもぶら下がっていますけど、『特別警戒実施中』の看板。24時間、一年中なのに『特別』というのもおかしな話ですよね。セキュリティー意識が過剰なほど高まっている。その行き着く先は大きな悲劇のような感じがするんです」>

 「安全」「安心」と国家の問題を語るのか?

 <初の本格小説「東京スタンピード」を出版した。スタンピードとは群れが恐怖、興奮で一斉に暴走するさまを意味する。近未来の日本を舞台に、危機意識の高まりが虐殺事件を引き起こす群衆の「狂気」を描いた。執筆の動機は「福田村事件」だった。関東大震災の5日後の1923(大正12)年9月6日、千葉県東葛飾郡の利根川沿いの村で、香川県からやってきた行商人の一行9人が自警団に虐殺された事件だ。関東大震災では「朝鮮人が日本人を襲撃している」といううわさが流れ、朝鮮人、中国人それに社会主義者の6000人を超える人たちが自警団らによって惨殺されたことは比較的知られている。けれどもこの事件は日本人が日本人を襲っていた。四国の言葉が聞き慣れず、朝鮮人と思い込んだらしい。>

 と毎日新聞から出版された「東京スタンピード」の粗筋を書き、

 <「背景には過剰な危機管理意識があったと思います。当時、日本が朝鮮を植民地としたことで、多くの日本人は朝鮮人にいつ襲われるか分からないという恐怖感があった。そして震災。流言飛語のなかで自警団が結成され、自分たちから見て『異質』な人々を次々に襲い殺していった。重要なのは襲った側が『善』である点なんです。アウシュビッツにも行きましたが、当時のドイツ人すべてが邪悪だったわけではない。人はよこしまな欲望だけで大勢の人を殺すことはできません。セキュリティー意識、あるいは愛するものを守るという大義名分が高まったときに人は虐殺に走る。『悪』という存在に目を奪われがちですが怖いのは『善』だと思う。善の陶酔、善の暴走がスタンピードを起こす。関東大震災の自警団だって『善』と信じて虐殺に走ったんです」>

 なるほど、これが「森哲学」の一端ですか。悪は目に見えるし、制御できるが、善はみんなアプリオリに安心して従う。思考停止になる。そして、その結果、悪が行われる、ということだろう。

 <集団暴走を考えるきっかけはオウム真理教事件だった。>

 というのは記者のト書きである。

 <「オウムのドキュメンタリー作品(『A』『A2』)は、オウム施設の内側から日本社会がどう見えるのかということをテーマにすえました。警察の捜査、メディアの報道、市民の反応のどれをとっても『集団暴走』を感じた。オウムも同じですが、個としての考えは吹き飛んで周りに同調して一つの方向に突き進む。その怖さを知りました」>

 見ていないので何とも言えないが。

 <「A2」はオウム信者の退去を求める「善良」な市民をとらえているが、集団となって「異物」を排除しようとする姿は、関東大震災での自警団もかくやと思わせるほど日常から逸脱した雰囲気が漂う。そのオウム事件が起きた1995年を境に日本の社会は変調をきたしたと見る。>

 これも記者のト書き。「関東大震災の自警団もかくや」と書いているが、自分の家の隣にオウムのアジトがあったら、この記者はどうするのだろう。「オウムだっていい人がいるのだから。法律違反はしていないのだから」と日常生活を今まで通り続けることができるのだろうか? やはり、オウムは近くにいてほしくない集団ではないか。

 <「膨大な報道を通して更生できない邪悪な人間、組織が存在する、という刷り込みが徹底してなされたと思う。その結果、監視カメラなどの設置が進み、危機管理意識が高揚し、犯罪に対する厳罰感もどんどん進行している」>

 私もそんな「刷り込み」をされた一人に過ぎないのか?

 <死刑廃止論議はすっかりなりを潜め、それどころか死刑相当犯罪の時効廃止について論議されようとしている。>

 毎日新聞がキャンペーンしているのではないか。

 <もう一つ危惧するのは、同調圧力に弱く周りを気にしやすい国民性ゆえに、共同体への帰属意識が強い点だ。>

 それは昔の話だろう。今は異質な人間、「アトム化した個」がうじゃうじゃいるじゃないか。

 <「稲作、島国という条件が影響しているのでしょう。和を重んじる文化もある。今も同じです。仲間内で状況が読めないとKY(空気が読めない)と呼んで排除したりする。歴史問題で中国、韓国が反発するけど、集団化したときの日本人の怖さみたいなものを民族の記憶として継承しているのではないかと思う」>

 何か、このへんは薄べったい感じがするし、第一、牽強付会だ。

 <いま、この国を見渡せば、「100年に1度」の名のもとに派遣、正社員切りの動きが加速する。そう、あたかもスタンピードのように。>

 100年に一度の言葉と派遣切りとは直接関係ないだろう。100年に一度だから思い切り国費を使った経済対策をする。派遣切りはその前の小泉政権の申し子ではないか。混同している。

 <「断言」「反復」によって群衆は自覚的な個を喪失して扇動されると指摘したのは、フランスの社会心理学者のル・ボン(1841~1931年)。扇動者として想定したのは為政者で、ヒトラー、スターリンらの出現でその説は実証された。けれども今日、仕掛けるのは為政者ではなく無自覚なメディアではないか――。森さんはそう考える。>

 この辺のメディア批判は面白い。私もファシズムとメディアとの関係は研究したいテーマだ。

 <「メディアは過剰に危機をあおる傾向にあります。刺激的でないと視聴率はとれないし、読者も離れていく。だからますます扇情的にならざるを得ない。メディアが『断言』『反復』の危険な連鎖に陥っている。問題なのはメディアの無自覚性だと思うんです。『放送禁止歌』もそうだったんですが、だれも制限なんかしていないのにみんな勝手に放送してはダメだと思いこんでしまっている。思考が止まってしまっているんです。オーウェルの『1984年』(全体主義が支配する世界を描いた小説)で最高権力者として『ビッグブラザー』が設定されているが、最後まで姿を見せない。つまり実体がないものに、過剰な忖度で空白を埋め合わせているわけです」>

 そうかぁ、この人が「放送禁止歌」の研究をしていたんだっけ。「1984年」のビッグブラザーは今流行といっていい。

 次は記者のト書きだ。

 <果たして人ごとだろうか。おもしろい話を聞いた。モンゴルでは羊の群れに何頭かのヤギを放すという。群れへの依存度の高い羊は草を食べ尽くすとその場で立ちつくしてしまう。ヤギは違う。草がなくなれば別の場所に向かう。結果として羊も移動する。>

 これって有名な話なのかな? 前にも誰かに聞いたことがある。

 <「ヤギは群れようとしない。同調圧力に強い。摩擦を起こし足並みを乱すことで、破滅的な危機から群れを救っているわけです。私たちも同じですよ。個人が抱く『違和感』という『摩擦』が危機的な集団暴走を防ぐ」>

 牽強付会な比喩が始まる。 

 <東京メトロによると、防犯カメラのステッカーの表現が「作動中」から「監視中」に変わったのは北海道洞爺湖サミット前の昨年6月。けれども広報担当者は「聞かれるまで知らなかった」と話した。ふだん見ているのに、見えない、気づかない変化の積み重ねの先に控えているのは、どういう国のかたちなのだろうか。>

 と隈元浩彦記者は読者に問いかけて終わる。何かなぁ、テレビ朝日の夜のニュースショーの例の男性キャスターを思い出すので、こういうような問いかけは嫌いなんだけど。

 一読、違和感を覚えた。森氏の「人間主義」と日本人固有の「どうでもいい」感覚は合わないのではないか、と思うからだ。汎神論ではなく、一神教の考えだろう、森氏の言っていることは。人間中心主義、近代理性万能主義。それではうまくいかなかくなったから、日本の心を探そう、ということではないか。それとオウム真理教がどこで結びつくのか? 悪いものは悪いのではないか? ゴミ屋敷の主が森氏の隣に引っ越してきても文句一つ言わずにニコニコできるのか? という単純なことを問いたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月12日 (木)

日本人の「初期設定」、国民合意がないのは昔からか?~内田樹氏の毎日新聞2月12日夕刊寄稿から

 毎日新聞2月12日夕刊文化面連載[水脈]に内田樹・神戸女学院大教授(フランス現代思想専攻)の<日本特殊論/他国と比較「だから、どうした」>が掲載されており、面白かったので書いておく。何が何だか分からないと思うので、第一段落を書き写しておこう。

 <「日本特殊論」という言説がある。任意の論件について「日本は他国とこう違う」ということおを列挙し、そこから「だからダメなんだ」と「だからよいのだ」と二種類のどちらかの言明を導くものである。私はそれ以外の第三の言明もあってよいのではないかと思う。「だから、どうした」である。>

 この文章を読めば、内田氏が他者に論争を挑もうとしているのが分かる。楽しい論争を、である。今、若者に抜群の人気の哲学者だという。論争相手には不足だろうが、一応、内田氏の論にコメントをつけながら読んでみる。

 まず内田氏はオバマ米大統領の就任演説について「アメリカ的なスピーチだと思った」として、

 <清教徒も、アフリカから連れてこられた奴隷たちも、西部開拓者も、アジアからの移民たちも、それぞれが流した汗や涙や血は、どれも今ここにいる「私たちのため」というものだったという国民の歴史の連続性が強調されていたからである。>

 <アメリカ人がアメリカ人であるのは、「かつてアメリカ人がそうであったようにふるまう」限りにおいてである。つまり、アメリカ人の国民性格はその建国のときに初期設定されている。だからもし、アメリカがうまくゆかないことがあったとしたら、それはその初期設定から「逸脱」したせいなのだ。彼らはそう考える。そういう場合には「初期設定に戻す」のである。(誤作動したコンピューターといっしょである。)>

 アメリカ人はリセットできる、という。ところが、日本人には立ち還るべき「初期設定」が一杯ありすぎて、どれが「初期設定」なのか、国民合意ができていない、というのだ。「敗戦」なのか「明治維新」なのか「天孫降臨」なのか、と。

 <だから、私たちは危機に際会したときに立ち還るべき原点を持たないのである。>

 という問題提起は重いと思う。

 <私たちがうるさく語り合うのは「アメリカではこうだが、日本ではこうだ」、「フィンランドではこうだが、日本ではこうだ」という類の他国との比較だけである。私たちには「時代を超えて継承されてきた国民性格」に基づいて、国民として果たすべきことを叙するという習慣がないのである。>

 これは、今の時代というか明治維新後を見ればその通りだと思う。特に戦後は「戦前、戦中はすべて悪だった」というGHQの史観を受け入れながら民主化が進んだこともあって、この考え方がほぼ日本を覆い尽くしている観がある。

 しかし、内田氏の次の言葉が挑戦的に聞こえるのだ。

 <私たちは「そういう国民」なのだ。私たちは「あるべき国民像」を、祖先たちの生き方を範とすることでなく、同時代の他国との比較でしか語れない国民なのである。それが「時代を超えて継承されてきた国民性格」であるなら、「それで何か問題でも?」と反問しつつ、その「同じ旅程」を私たちもたどる他ないだろう。>

 である。

 内田氏ほどの方だから、「反米」と「親米」、「鎖国」と「摂取」、「愛国」と「国際化」など対立する概念を一つの人格の中に持つ近代知識人の煩悶の歴史を知らないわけがないだろう。夏目漱石、和辻哲郎、柳田國男、小林秀雄、江藤淳各氏らの努力はまさにそこにあったわけだろう。

 だから、内田氏の言いたいことは軽佻浮薄で伝統の重みを全く理解できないマスメディアと文化人、学者や政治家への痛烈な批判なのだ、と理解している。

 内田氏は温故知新ができないことを「日本人の国民性格」というが、兼好法師や紫式部、親鸞や日蓮を見れば、あふれるほどの愛国心と伝統を大切に受け継ぎながら一部を壊し、新たに建てるという作業を繰り返してきたことが分かると思う。日本人の国民性を考えた時、決して、縦の思考(歴史的思考)ができずに平目のような横の思考(世界比較)だけで生きてきた民族とは思っていない。

 しかし、内田氏はそんなことは百も承知で言っているのだろう、と思う。内田氏が言うように他国比較を絶対である如く言う「文化人」「政治家」が多すぎるし、テレビメディアなどを通じて、相当の悪影響を日本国民に与えていると思う。「だから、どうした」の視点は非常に大切だ、と思う。

 特に外人による日本論、日本人論を有難がって拝聴し、神棚に祭り上げることだけはやめたほうがいい。最近の新聞でチャルマーズ・ジョンソンのインタビューが出ていた。例の日本異質論者だ。最近は日本の左翼と相性がいいようだが、そんな連中の片言隻句に一喜一憂することはやめよう。外人の話も日本人の話も同じ地平で見るようにすれば、違ったものが見えてくると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 9日 (月)

吉本隆明氏の内村剛介氏への追悼文、勉強になった~東京新聞2月9日夕刊から

 東京新聞2月9日夕刊文化面に[追悼・内村剛介さん]として吉本隆明氏が語った話を大日方公男記者がまとめた文章が掲載されていた。タイトルは<国家や主義に同化せず>。いい文章だった。内村氏はずっと以前、たしか「収容所」ものを1冊読んだだけで、ロシア学者だ、ということは知っていたものの、ご本人がどのような方か、は全く知らなかったが、吉本氏の文章を読み、その名前さながらの剛直さ、芯が通っている生き方に感動した。最近「内村剛介著作集」(恵雅堂出版)が出始めた、と書いてあり、読んでみたくなった。

  最初に内村氏の訃報を見てみよう。朝日新聞の記事がネットにあったので、コピペする。<評論家・元上智大教授の内村剛介さん死去>1月30日午後1時過ぎに配信された記事だ。

 <内村 剛介さん(うちむら・ごうすけ=評論家、ロシア文学者、元上智大教授、本名内藤操〈ないとう・みさお〉)が30日、心不全で死去、88歳。通夜は2月5日午後6時、葬儀は6日午前10時から東京都品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場で。喪主は長女冨永まなみさん。栃木県出身。ロシア文学研究とともに、シベリア抑留体験に基づく評論活動を展開した。著書に「生き急ぐ」「呪縛の構造」ほか。>

 随分と簡単な訃報だった。各社、訃報本記はこの程度の扱いだったのだろうか? と思って、ためしに毎日新聞のネットを見たら、詳しい訃報が出ていた。<内村剛介さん 88歳 死去=シベリア抑留…独自の思索ロシア文学者>とあって、

 <シベリア抑留体験を背景に社会や文学に対して独自の思索を進めた評論家でロシア文学者の内村剛介さんが30日、死去した。88歳。栃木県生まれ。元上智大教授。>

 までは同じ。その後に、

 <14歳で中国東北部に渡り、ハルビン学院などで学んだ。関東軍に徴用されたが、敗戦時にソ連軍に捕らえられ、以後1956年の帰国まで、約11年間にわたって、監獄や強制収容所で過ごした。帰国後は商社勤務の傍ら文筆活動を続ける。収容所で身につけたロシア語を基に、ロシア人の思考方法を深く洞察。ソ連国家を厳しく告発しスターリン批判を行った。同時に現代日本の思想の軽薄さについても警鐘を鳴らした。主な著書に「生き急ぐ」「呪縛の構造」「ドストエフスキー」「ソルジェニツィン・ノート」、訳書に「エセーニン詩集」など。>

 <抑留体験が原点>の小見出しがあって、

 <沼野充義・東京大教授(ロシア・東欧文学)の話 ロシア文学者の系譜で、批評家として自立した独特な人でした。原点にあったのはシベリアでの抑留体験。ソ連という巨大な怪獣のはらわたの中に入って地獄巡りをし、一対一で立ち向かった。反権威の人で若手には優しく目をかけてくださった。>

 と、識者の談話を入れていた。この扱いが正当だろう。それに比べると、朝日新聞は何か、不当に内村氏の業績を貶めている感じを受ける。

 毎日新聞記事で大体の輪郭を得た後、東京新聞夕刊に戻って、吉本氏の話を読んでみよう。

 <内村さんは日本の高等小学校を出てすぐ満州に渡り、後藤新平がつくった満州国立大学ハルピン学院でロシア語やロシア文学を学んで、優秀でしたから関東軍に軍属として徴用された。そして二葉亭四迷以来の、ロシア(ソ連)の文化を探求し、社会政治事情を調査する<ロシア学>を身につけた。

 満州育ちなのだ。

 <満州は多くの民族や移民がおり、ソ連と中国と日本の力が拮抗する面倒な場所でした。敗戦間際にソ連軍が侵攻し、内村さんも抑留され、シベリアの強制収容所を転々とした。関東軍の軍属でロシア語も堪能ですから、ソ連軍から見ると内村さんは最も目をつけるべき人間で、収容所よりも監獄生活が長かった。>

 そういう生活だった。

 <ロシア文学者の江川卓さんのような戦後に進歩派と呼ばれた知識人も抑留されており、多くはソ連と折り合いをつけて帰国しましたが、内村さんはソ連の共産主義体制に頑強に同化しなかった一人で、それが11年間という長い拘束につながったと思います。昨年出た陶山幾朗さんの「内村剛介ロングインタビュー」(恵雅堂出版)は、そういう生涯を完璧に近く丹念になぞっています。>

Book
内村剛介ロングインタビュー
販売元 恵雅堂出版
定価(税込) ¥ 2,940

 <かくのごとく僕は内村さんを、国家や主義に頑強に同化しない二葉亭につながる<ロシア学>の最後の学徒だととらえていました。彼らはロシアの風土や宗教や文芸、西洋的ロシアと東洋的ロシアの違いなどを探求し、それを日本に紹介した。それはレーニンの革命理論の中心をなす西洋的ロシアの教養や認識では包摂できないロシア像だったと思います。彼らに比べれば、戦後の日本共産党の同伴知識人のロシア認識も問題にならないと感じていました。>

 このへんから深い話になっていく。こういうインタビューものが楽しいのは、ロシアを論じる時に、こういうことを知っていて論じるのか、それとも、今の新聞や雑誌の表面的知識の継ぎはぎで論じるか、同じように見えても違う、と思うからだ。吉本氏の内村氏評価は確かに深い。

 <スターリニズムの毒が凝縮された強制収容所という場所で痛めつけられ、ようやく帰国してから、内村さんはわが身を絞るかのような発言を始めました。抑留中に日本の左翼のことも勉強したようで、帰国後に用心深く左翼知識人を歴訪した。「ソ連が死ぬか、俺が死ぬか」という思いで帰国した人の目に、僕らのような日本の発言者の姿は、お寒く写ったようでした。>

 内村氏はソ連との戦いに勝ったわけだ。

 <安保までは進歩的だった江藤淳が「小林秀雄」を書いて転身したような「一身にして二世を生きる」経験は認めなかったし、僕が埴谷雄高や花田清輝と付き合うのも内心は快く思わなかったようです。>

 江藤淳が進歩派だった、とは迂闊にも知らなかった。60年安保で相当数の文化人が転向したのか。埴谷、花田を認めない、というのは今の時代から見れば「了見が狭い」と言われるだろうが、内村氏にはそういう言い方は適切ではないだろう。

 <内村さんと初めて会ったのは1960年ごろ。僕が出していた「試行」に連載してもらい、ロシアについて僕は生き生きと教えられました。トルストイやドストエフスキーの小説の描写や会話はなぜごてごてと長いのかと聞くと、ロシア人は理屈が大好きで屁理屈でも徹底すれば納得してしまう、だから長弁舌になる、と解説してくれたのは内村さんが初めてでした。戦後すぐのドイツ政府はあれだけ敵対していたソ連に交渉して捕虜の返還を求めて了承された、と陶山さんのインタビューで言っています。ソ連が科学技術や文化をドイツに依拠していたからでしょうが、堂々とした理屈が正当であるなら彼らは無視しない。

 ここは非常に重要な部分だ。

 <僕はロシア人もアメリカ人も毅然とした態度と理屈で訴えていけば通ると思います。日本人もそうすれば占領も捕虜の問題も早く解決されたでしょうし、最近で言えばイラク派兵や三浦和義の裁判や疑惑の死の問題も、もっと正面から合理で臨むべきだと思います。戦後何十年もたっていますし、遠慮する必要はないですね。>

 日本人から「毅然さ」が失われてしまったことを嘆いているのだろう。内村氏の思想を借りて、吉本氏が自分の主張を展開している、と見たほうがいい。

 そうなのだ、と私も思う。

 すべて、堂々と正面から向かい合う、という態度が必要なのだ。すぐに「近隣条項」などと気を遣ったふりをするその偽善が国民も国際社会も嫌気がさしてきているのだ、と思う。幕末のちょんまげを結った訪米使節団は好奇心の強い米国民からバカにされず、歓迎を受け、幕末明治の日本人は来日した欧米人から、その礼儀作法などが絶賛された。

 <内村さんは自分一個で旧ソ連邦全体に向き合い、その姿勢は世界を見る時にはどれほど重要なことかを単身で示しました。

 以上である。心にしみる言葉が並んでいた。なぜ、日本人がこうなってしまったのか? 安倍元首相的な戦後否定しか解決策はないのか? 大平正芳が今生きていたら、どのような形で「古き良き日本の心」を取り戻そうとするのだろうか?

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年2月 7日 (土)

清張生誕百年=朝日新聞2月7日夕刊<清張なら「いま」どう描く>と毎日新聞朝刊の昨年10月からの長期連載の中の「点と線」

 松本清張生誕100年で新聞紙上にも清張に関する記事がよく掲載されるようになった。

◆朝日新聞2月7日文化娯楽面<清張なら「いま」どう描く>

 最近では毎日新聞朝刊文化面で昨年10月から連載している[清張とその時代 生誕百年]が面白いので、記事を切り抜いているが、今日2月7日の朝日新聞夕刊文化・娯楽面の<清張なら「いま」どう描く/バブル後に届く先見性と時代的限界/リアルな社会派始祖の視座>も難しい言葉を使っていて読みづらいが、内容は面白かった。

 結局、松本清張の時代、つまり戦前を引き摺り、戦争の生々しさが記憶に鮮明で、戦後のGHQの無理無体が許される時代には、犯罪が「貧しさ」から抜け出す、という動機で起こることが多かった、ということと、今ではそういう貧しさ、貧乏やそういう家に生まれたことへの卑下はほぼ消えたけれども、<人間が社会に承認されず、犯罪によって「成り上がる」ことすら不可能な社会>だ、というのだ。鳥居達也記者の解釈だ。秋葉原の無差別殺傷事件「アキバ事件」などを経た現代犯罪学的な見方なのだろうか。

 この記事に出てくる大澤真幸・京都大学教授(社会学)が「現実の向こう」などで清張論を展開していることは初めて知ったが、その大澤氏が、「砂の器」の「和賀」や「けものみち」の成沢民子、「黒革の手帖」の原口元子ら一見勝ち組的な生き方について「だが、その繁栄は、先の戦争(死者のまなざし)を棚上げして、米国流民主主義と経済市場主義に滑り込んだという思想的ごまかしを土台としていた」と言った、というのだが、文脈の中で、この言葉が浮いてしまっている。

 <清張は、和賀を大衆から遊離した前衛音楽家と設定することで、虚妄性を強調した。和賀を通じて、戦後日本社会の繁栄のもろさと危うさを暴いて見せたのだ。大澤教授は、そこに清張の先見性を見る。と、同時に「時代的制約」もあると話す。>

 大澤氏の言葉である。

 <「『砂の器』では多くの人が和賀を勝ち組とみなしていたが、80年代後半以降は、社会的成功やそれに基づく幸福がどこか底の浅いものであることをみんな知ってしまった。例えばホリエモンや小室哲哉の成功はどこかむなしい、というふうに。金融バブルがはじけた『ポスト虚構の時代』の今は、清張が鋭い洞察力を持って暴いた社会の虚妄性・欺瞞性は、犯罪を犯てでも隠すべきものどころか、自明の前提となった」>

 前半は分かるのだが、最後の部分で、なぜ隠したり、自明だったりするのか、がどうも分からない。何か論理の飛躍があるのではないか?

 鳥居記者は続けて、

 <加えて、「100年に一度の不況」下での格差の拡大。著書「新しい階級社会 新しい階級闘争」で橋本健二・武蔵大教授(理論社会学)は書く。「階級構造の底辺には『階級以下』の存在、つまり『アンダークラス』」が大規模に形成されていると。それは、ホームレスの支援活動を行っている湯浅誠氏が著書「反貧困」で、社会から排除された人間が「自分自身からの排除」に行き着いて暴発する可能性に言及した認識と重なる。>

 として、アキバが出てくるのだ。どうも理解できない。

 何か、清張を出汁に使って、現在の状況を大澤氏と湯浅氏に語らせただけのような気もするのだが、言おうとしていることは「清張の時代よりも良くなった、といわれるけど、そうじゃないんだ」ということだったのか? 何しろ考えさせる記事だった。

 そして、毎日新聞の連載だ。

◆毎日新聞の清張生誕百年連載=初回3回の「点と線」だけ取り上げる

 タイトル通り、2009年が松本清張の生誕100年にあたることから、今の時代から見直してみよう、という趣旨のようで、「点と線」、「小説 帝銀事件」、「「ゼロの焦点」などと続いている。「点と線」は上中下、2008年10月6日、13日、20日付の3回で、筆者は鈴木英生記者だ。

 上は<『点と線』/あさかぜ/感傷が見つけた「東京駅の4分間」>だった。

 <1957年の1月14日午後6時前後、東京駅15番線ホームに姿を見せた一組の男女。2人は6日後、福岡県の香椎海岸で死体となって見つかる。男性は汚職事件の渦中にあった××省課長補佐、佐山憲一、女性は東京・赤坂の料亭に勤める、お時。当初、心中に見えた2人の死は、××省汚職の隠ぺいが絡む殺人事件の線が濃くなってゆく。疑いの目は、同省出入り業者の安田辰郎に注がれた……。『点と線』は、言わずとしれた松本清張の初期代表作だ。57年2月から1年間、雑誌連載され、58年2月に単行本が出た。>

 元祖社会派推理小説だが、

 <今の視点では、経済白書が「もはや戦後ではない」とうたった時代の東京と地方の距離感がうかがえることも、興味深い。>

 と書いている。具体例は次のようなことらしい。

 <佐山とお時が乗ったのは1956年秋に登場した博多行き夜行特急「あさかぜ」。終点まで約17時間半は当時最速。事件を追う刑事の三原紀一は、博多まで20時間以上かかる急行を使った。博多まで「あさかぜ」3等寝台下段が3250円、急行は3等座席車で1790円。飛行機なら1万2600円かかり、大卒初任給とほぼ同額である。今春の大卒初任給は平均20万6969円で、57年の約16倍だが、夜行特急の料金はB寝台2万3040円と約7倍になっただけ。飛行機の割引料金は夜行より安く、所要時間1時間40分。>

 そして、

 <『点と線』の連載誌が『旅』だったことも興味深い。旅行が今よりはるかに大変だった当時、この作品は、読者に長距離を移動する興奮をバーチャルに与えていた。>

 なるほど、今だったらアテネで出逢った男女がニューヨークの投資銀行で仕事をして、香港で遊び、インドに旅行に行くようなものか。

 清張は、『点と線』連載の少し前まで朝日新聞社に勤め、53年に小倉から東京へ単身赴任。帰宅途中の東京駅で「この夜行列車に乗れば明日の昼には小倉の家族に会えるのだが」という感傷がホームでの4分間の目撃シーンを思いつく背景となった、という。

 <東京発の九州行き夜行は57年に8本あったが、今は「はやぶさ」と「富士」の2本だけ。「あさかぜ」は既に廃止された。9月のある日、「はやぶさ」に乗ってみた。東京―博多間は、かつてより1時間半だけ速い。乗った車両は、東京出発時点の客が4人で定員の1割強。小説では、佐山のポケットにあった食堂車の受取証が警察の疑問を呼び、殺人事件の捜査が始まるきっかけになった。今の「はやぶさ」に食堂車はなく、朝まで車内販売すら来ない。東京からの乗客は、全員が鉄道ファンだった。九州行き夜行は来春にすべて廃止となる。だから、廃止前に乗っておくのだという。>

 中は<『点と線』/香椎海岸/多喜二が殺された年、歩いた街>は<西鉄香椎駅で降りて、海岸の現場までは、歩いて十分ばかり>の遺体発見現場。今は変わってしまったのだ、という。

 今は福岡高速道のすぐ横にある川の南側とされ、作中では<石ころの多い広い海岸>とされたが、北側が後年埋め立てられて団地となったため、今の海岸線は、川より500㍍ほど奥にあり川は、両岸がコンクリートで固められて高速道と近くの国道3号の音が響いていたそうだ。そして、新しい海岸線は、『点と線』に出てくる<黒い岩肌のごつごつした>、<これはいかにも荒涼とした>場所ではなく、人工的に砂浜が作られ、海岸に沿った道に街路樹もあり、家族連れが散歩を楽しみ、遠くにはショッピングセンターやマンションが見えるような場所に変わっていた、という。

 <清張が香椎に遊んだのは1933年。貧しさの中、尋常小学校高等科を出て以来9年間、働き詰めだった。文壇デビューは、まだ17年も先だ。4年前は、友人がプロレタリア文学雑誌を購読したことに絡んで検挙された。>

 そういう時代だった。

 西鉄香椎駅とJR香椎駅前間は5分もかからない。西鉄香椎駅は2年前に建て替わり、JRも駅ビルが建ち、県内上位の乗降客数がある。駅前と海岸をつなぐ道の両脇は商店が建ち並び、歩道は大変な混雑。JRの駅前に、『点と線』で海岸へ向かう男女を目撃した店主のいた果物店が、今はたばこ店となって残る。店は40年ほど前に持ち主が変わった。今の店「恒久堂」の店主、大部慶金さんは当時、小学生だった。「道路は未舗装で、西鉄より海側は、小説通りのさみしいところでしたね。よく、通りで遊びました。にぎやかになったのは、団地ができて以降です」と振り返る、とあった。

 <清張がこの駅前にも来たであろうその年、プロレタリア文学作家、小林多喜二が警察に殺されている。それを思うと、『点と線』が、汚職の隠ぺいで殺された死体を香椎海岸へ置いたことに、評論家・小説家、伊藤整の、次の言葉も重なってくる。清張は、<プロレタリア文学が昭和初年以来企てて果たさなかった資本主義社会の暗黒の描出に成功>した(「『純』文学は存在し得るか」)。>

 そういう読み方もできるのか。勉強になる。

 下は<『点と線』/造船疑獄/踏み出せない憤り>。この回も記者は、時代を反映している部分をピックアップして訪問している。

 <『点と線』は、省庁の汚職を殺人事件の背景としている。この作品が書かれた1950年代、日本経済は戦後復興から高度成長への助走期間に入る。そして、似たような汚職が多発した。特に、54年の「造船疑獄」は、『点と線』を解説する際、しばしば引き合いに出されてきた。造船疑獄では、石川島重工社長の土光敏夫ら、政官財の計約70人が逮捕された。しかし、焦点だった佐藤栄作・自由党幹事長の逮捕は、犬養健法相の「指揮権発動」によって政治的に回避されてしまう。池田勇人・同党政調会長も無傷だった。>

 「点と線」の解説で造船疑獄が取り上げられているとは知らなかった。

 <「かわいそうなのは、その下で忠勤をはげんで踏台にされた下僚どもです」。『点と線』の最後で警視庁の刑事、三原紀一が、福岡県警の刑事に手紙を送る。現実の汚職で、事件解明の鍵となる<下僚ども>は、自殺する例が少なくなかった。造船疑獄でも、運輸省の課長補佐や石川島重工の取締役が自殺した。作中の三原は、××省課長補佐、佐山憲一が殺されて、「安堵の胸を撫でおろした佐山の上役はずいぶん多いでしょう」と、こぼす。>

 そういう意味で関連付けられているのか。分かった。

 <ところで「『清張以前・清張以後』という言葉がある」(『松本清張を読む』細谷正充著)。現実にあり得る犯罪をリアルに扱った作品群は、「それまで限られたマニアの読み物だったミステリーを、一般読者へと開放した」(同前)。つまり、『点と線』はプロレタリア文学を引き継ぐかのように社会悪をえぐった。しかも、社会派推理小説という新分野を広く認知させるほど、多くの読者を獲得した。ここで、そのわけを考えたい。>

 随分と学問的なのだ。

 <戦前のプロレタリア文学には、労働者の決起を促すという目的があった。だから、どうしても「希望」が描かれなければならなかった。『点と線』も社会悪を弾劾した。だが、その完全な排除は無理だという、ある種のあきらめをも描いたような面がある。このあきらめが、ポイントではないだろうか。たとえば、殺された佐山の上司や殺人の片棒を担いだはずの事務官は出世してゆく。それを見ても、三原は、<役所というものはふしぎなところですね>と記すことしかできない。この後味の悪さが、むしろ、作品に現実味を与え、読者の心をとらえたかに思える。北九州市立松本清張記念館の中川里志・学芸担当主任は「松本清張は、普通の庶民の視点で社会を見て、憤った。しかも、憤ってもその先に踏み出せない状況を描いたのです」。三原のセリフは、まさに、この状況を象徴しているだろう。>

 と一般論を書き、

 <造船疑獄で逮捕を免れた佐藤栄作と池田勇人は、後に首相となり、高度経済成長を推進した。汚職の温床でもあった政官財のトライアングルは、フル回転で成長を支えた。同じ疑獄で逮捕された土光敏夫は、80年代、臨時行政改革推進審議会会長などとして3公社民営化などを提言。高度成長期の枠組みを解体する、そのさきがけとなる。高度成長と土光臨調との間に、幾多の佐山憲一、清張の言う「気の小さい、善良な人間」がいたのではないか。造船疑獄と絡めて『点と線』を読み返すと、そんな思いにとらわれる。>

 と具体論を書いている。

 それが日本社会なのだ、と思う。「許す」というのとは違う何かがある。単純に「流される」というのともまた違うと思う。

 毎日新聞の連載は読みでがある。いずれ一冊の本にまとめてもらいたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月27日 (火)

橋本治のゴミ屋敷物語が秀逸らしい~1月27日読売新聞朝刊、26日毎日新聞夕刊文化欄から

 「新潮」1月号の橋本治「巡礼」が面白いらしい。まだ本物を読んでおらず、2紙の文芸時評を読んだだけなのだが、テレビのワイドショーの格好の話題となっている「ゴミ屋敷」の主人公である老人たちの心象風景を想像を膨らませて書いた庶民の近代史となっている、というのだ。

 小説の内容を簡潔にまとめていたのが読売新聞の[2009文学1月]の文化部・山内則史記者だ。<「戦後」、何が失われたか/孤児、ゴミ屋敷に根付く記憶>の見出しを見ただけでも読みたくなる。山内氏は「群像」2006年6月号から2009年1月号まで連載、完結した宮本輝「骸骨ビルの庭」をメーンに取り上げ、その文脈の上で「巡礼」に言及している。「巡礼」の内容紹介を写しておこう。

 <橋本治(60)が「巡礼」(新潮)で焦点を当てたのは、近隣住民に迷惑を振りまき、ワイドショーの格好の餌食になっているゴミ屋敷。この屋敷の主である男の半生と救済が綴られる。国民学校高等科1年の時に終戦を迎えた彼の戦後は、荒物屋の跡取り息子として順調に進むかに見えたが、5歳の息子を小児がんで亡くし、それを機に姑と不仲だった妻が家を出たことから大きく狂い始める。その背後には、郊外に伸び拡がる鉄道での通勤、団地や新興住宅地の出現など、<雪崩を打つように変わって行った>時代の風景が、俯瞰するような視点から描き込まれている。大量生産・大量消費を「善」として突き進んだ社会の価値観から取り残された男。ゴミ屋敷は、物が人の欲望を上回り、暮らしの身の丈をも超えて増殖していった果ての、墓場のようでもある。>

 そして、山内記者は宮本氏が骸骨ビルの管理人(いわくありげな老人で、この小説の主人公というか舞台回し)と同じ1947年生まれ、橋本氏は48年生まれで、

 <世代と作品の関係は一概には言えないが、両氏が『戦後』を見据えた作品をこの時期に書いたことは、偶然の一致とは言い切れないのではないだろうか。>

 と戦後に生きてきた作家たちの自分探しの旅でもあっただろうことを書いている。

 毎日新聞夕刊[文芸時評]で文芸評論家の川村湊氏は<ゴミ屋敷に見る「近代日本」/戦後が失い、得たものとは>の見出しで「巡礼」について論文のほとんどを使って語っている。キーワードの一つが「荒物屋」だ。

 <「荒物屋」という商売自体が、死後だろう。乾物屋とか小間物屋などと同じように。そうした店で取り扱われていたものは、今ではすべてゴミとなってしまうようなものばかりだ。穴のあいたバケツ、バラバラになって竹箒、まさに瓦礫でしかない瓦、いずれ付喪神(古い器具、道具が妖怪となる)ともなりそうな品物ばかりだが、それらは棄てられて「ゴミ」となる。しかし、それは忠市(主人公)という、元荒物屋の跡継ぎだった老人にとっては「ゴミじゃない」のだ。>

 と書いた上で、川村氏はテレビカメラが大写しにして、近所の人の話を聞くが、まともな話は出てこない、それもそのはずで、近所の住民は昔のこの場所のことなど知らない人たちばかりだからだ、と言う。そして、

 <古い二階建ての荒物屋、そして瓦屋からゴミ屋敷への変貌は、昭和から平成へと移り変わる近過去の物語でありながら、永遠の相の下に見た「近代日本」の確かな肖像そのもののように思える。日本の「戦後」は何を失い、何を得てきたのか。そんなことさえ考えさせる。>

 救いの旅、巡礼での両手に指のないという障害を持つ女性とのちょっと変わった食事の場面、と川村氏は書いている。この場面も面白そうだが、さあ、「新潮」を買ってこよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月12日 (月)

タイトルにつられて読んでみた:長谷川三千子氏の<ホントは怖い「多文化共生」>~産経新聞1月12日[正論]

 産経新聞1月12日の[正論は]埼玉大学教授・長谷川三千子氏の<ホントは怖い「多文化共生」>だった。「共生」はいいことでなかったの? と疑問を持って読み始めた。

 長谷川氏は▽2004年に内閣府が作った「共生社会政策担当」という部署が「共生社会」の実現を推進中▽総務省が06年に「多文化共生推進プログラム」を提言し、各自治体に多文化共生推進の大号令が下っている――と例示して、「共生」が今後流行のスローガンになるだろう、という。

 そして、この「共生」という言葉について、内閣府は意味不明で使っているが、総務省の「多文化共生推進プログラム」は狙いが明確で、近年の外国人定住者増加現象にともなって出てきた話だという、と書く。

 <このプログラム提言の立役者、山脇啓造先生は、多文化共生の発想は、外国人をいかにもてなすかという従来の「国際交流」とは違うのだと言って、こう説明しています――「今求められているのは、外国人を住民と認める視点であり」「同じ地域の構成員として社会参加を促す仕組みづくりである」。>

 ここからが長谷川氏らしくて面白い。

 < なるほど、これまで日本人は外国人のすることはみな「お客様」のすることとして大目に見てきたけれど、「住民」だとなればキッチリ地域のルールを守ってもらいましょう。日本語もしっかり覚えてもらって、「ニホンゴワカリマセーン」の逃げ得を許さない、ということですね、と思うとさにあらず。今後外国人の定住化がすすめば「『日本人』と『外国人』という二分法的な枠組み」それ自体を見直す必要が出てくるだろうという。その上で、「国籍や民族などの異なる人々が」「互いの文化的違いを認めあい、対等な関係を築こうとしながら、共に生きていくこと」が多文化共生だと山脇先生はおっしゃるのです。つまり、これから外国人定住者がふえつづければ、やがて日本文化は日本列島に存在する多くの文化の一つにすぎなくなる。そしてそれでよい、というのが「多文化共生」の考えだということになります。なんともどうも、怖ろしい話です。>

 そうきたか。

 <どうしてこんな話がまかり通ってしまったのか。おそらくその鍵は「共生」という言葉にあります。生物学では、異種の生物同士が同一の場所で互いに利益を与えたり害を与えたりしながら生きてゆくことを総称して「共生」と言うのですが、「共生」と聞くとわれわれはすぐ、アリとアリマキのような共利共生を思いうかべてしまう。だから「共生」イコールよいこと、というイメージが出来上がってしまうのです。>

 やはり、曖昧な言葉には注意せよ、ということになるだろう。1960年の「安保反対」も思想的には空虚な号令だった、ということが21世紀になってようやく理解される世の中だ。今から警告を発しておくことはいいことだ、とは思う。

 <しかし、実際の生物世界の共生は、互いに害を与え合うことすらある苛酷な現実そのものです。そして、それにもかかわらず、なんとか多種多様の生物たちがこの地球上を生き延びてこられたのは、そこに或る平和共存のメカニズムが働いているからであって、それが「棲み分け」なのです。>

 棲み分けと共生の違いかぁ、なるほど、そこに持って行ったか。これは理解できる議論だろう。

 <これは、かつて今西錦司さんが、同じ一つの川の中でも、流れの速いところ遅いところ、住む場所によってカゲロウの幼虫が違う体形をしていることから思い至った理論です。つまり生物たちはそれぞれ違った場所に適応し、棲み分けて、無用の争いや競争をさけているということなのです。実は人間たちも(カゲロウのように体形自体を変えることはできなくとも)多種多様な文化によって地球上のさまざまの地に適応し、棲み分けてきました。>

 そうです。今西さんの理論です。

 <それぞれの土地に合った文化をはぐくみ、そこに根づいて暮らす――これが人間なりの棲み分けシステムなのです。ところがいま、この平和共存のシステムは世界中で破壊されつつあります。日本に外国人定住者が増加しつつあるのも、そのあらわれの一つに他なりません。この事態の恐ろしさを見ようともせず、喜々として多文化共生を唱えるのは、偽善と言うほかないでしょう。>

 そこまで言うか、とも思うが、外国人労働者を安く使うことばかり考え、その社会的影響を軽視し続けてきた企業トップと政治家にはきっちりと考えてほしい問題ではある。

 鎖国しろ、と言っているのではない。だが、日本列島は日本人が住んでいる土地なのだから、日本語が通じる人たちが住み、その文化を繁栄させるような文化政策をこそ政治家は推進すべきだ、と思う。明治維新の欧化政策の反省をまじめに総括すればそうなる。

 ただ、長谷川教授のように全部ダメとは言えないとも思う。その辺、難しくてまだ詰めて考えてはいないのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月31日 (水)

秋葉原事件と永山事件の共通点と相違点~見田宗介氏インタビュー(08年12月31日朝日新聞朝刊)

 朝日新聞12月31日朝刊3面[あしたを考える]に社会学者、見田宗介・東大名誉教授(71)のインタビューが掲載されていた。6月に秋葉原で起きた無差別殺傷事件の加藤智大被告(犯行当時25歳)と1968年に連続射殺事件を起こした永山則夫(当時19歳)の比較をして、現代を分析した論考だ。聞き手は四ノ原恒憲編集委員。

 見田宗介(みた・むねすけ)氏は東大教授から08年3月までは共立女子大教授。永山の事件を分析した73年発表の論考「まなざしの地獄」が今年書籍化されたそうだ。「現代社会の理論」「社会学入門」「気流の鳴る音」(真木悠介のペンネームで発表)などがある、とあったが、見田氏の著作は多い。僕も新書を何冊か持っている。

 見田氏は、

 <後から見れば、今年が戦後日本に何回かあった大きな転換点の一つになっているのでは、と考えています。そんな時代の問題点を、秋葉原の事件が鋭く表わしています。>

 と語り始める。見田氏が分析した1968年の永山事件の永山則夫と今回の加藤被告の共通点と相違点が面白い。以下、見田氏の分析のポイントを書いておこう。

 共通点は共に青森県出身の若者が東京で事件を起こしたこと。永山は中卒の集団就職で東京に来た。加藤も途中からアルバイト、派遣社員とそれぞれも時代の最底辺の労働を担っていた。当然、そこには貧困や差別、階級構造の問題がある。もっと重要なことは事件の核心がそんな問題にないことだ。貧困から逃れるのならば強盗も考えられるし、差別ならばある種の反体制行動もあるが、二つの事件は共に動機がとても分かりづらい。

 この分かりにくさがポイント。犯罪の核に「実存的」な生き方というか、アイデンティティーの問題が潜んでいる。だから、今回の事件の残酷さにもかかわらず、貧困層だけでなく若い正社員や大学生らからある種の共感がネットなどに寄せられたのだと思う。

 では決定的な違いは何か、というと「実存的」な核の中身が正反対だ。一つは未来の消滅だ。永山の場合、希望に胸を膨らませて上京してきた。東京での挫折の結果、次にアメリカに密航しようとして米軍基地に侵入するが、密航の夢は果たせず、犯行につながった。何か未来へのあこがれがあって、その可能性が遮断された瞬間に犯罪が起きる。永山は例外ではなく、1970年代くらいまでの若者のほとんどは中身様々だが今よりも素晴らしい未来があるということは前提になっていた。

 ところが加藤の場合は東京への憧れは最初から持っていない。「とりあえず安定した生活を」とアルバイトや派遣社員で国内を転々とした後、静岡で働いていて人々の注目を集める場所として東京を犯行場所に選んだだけだ。僕のゼミの学生の話をずっと聞いていても、夢や未来に対する想像力のスケールがどんどんしぼんで、現実的になっている。今、素晴らしい未来が必ず来ると思っている若者はほとんどいないのではないか。

 もう一つの違いは人々の「まなざし」だ。中卒、貧困家庭出身、青森弁など永山は世間の人々の「まなざし」が鳥もちのように纏わり付き、自由に生きることを許さなかったことに苦しんだ。ところが加藤の場合は反対で、いわば「まなざし」の不在の地獄だった。ネットにも書いているが、これまで自分は誰からも必要とされなかったと思い込む。犯行予告をしても誰からも相手にされない。「まなざし」の不在に耐え切れずに結局、加藤にとって一番注目されると思う秋葉原で犯行を通じて「僕はここに居るんだ」と叫ぶしかなかった。

 無視していじめる、という意味で「シカト」という言葉が広く世間で使われ始めたのが80年代からだと思うが、いまや日常語として定着してしまった。文学では当時、村上春樹が小説の中で「空気が薄い」という言葉を使っていた。

 大きく言うと「空気」が「濃い時代」と「薄い時代」がある。「濃い」というのは人と人の関係の中で愛情であれ関心であれ憎しみや干渉にしても他者との間に交わされる関心というか「気」が濃厚だという意味だ。そういう意味では永山の「濃い時代」から、現代は「薄い時代」にすっかり変わってしまったことを加藤の事件がよく表わしている。

 どちらがいい、というわけではないが、日本は戦前の「共同体」や戦時体制のような濃すぎる社会から戦後の近代化を経てだんだん薄くなってきたのだが、その結果、現代は「薄くなりすぎた」という問題が出てきた、ということだろう。

 僕はこれまで日本の戦後を

①敗戦から60年ごろまで…人々が「理想」に生きようとした「理想の時代」

②高度成長が完成した70年代前半までを「夢の時代」

③ポスト高度成長期の90年代前半までを、もうリアリティを愛さない「虚構の時代」

 と分析してきた。その後は何の時代か、とよく聞かれたが、

④「バーチャル(仮想)の時代」

 だと考えている。「虚構」という言葉には基本的にどこか否定的なイメージが付き纏っているが、「バーチャル」には何か「新しさ」というポジティブなイメージがある。電子メディアの発達で古典的な現実なんてものにとってかわって、バーチャルな世界だけで人間は幸せにやっていけるんだ、と多くの人々は思い込み、虚構に居直った時代、という意味だ。

 そういう視点から加藤がネットの中で自分と反対の立場にいて「敵」と考えた存在を「リア充」と呼んだことに興味を覚えた。生活や人間関係の「リアリティーが充実している人たち」の意味だ。敵は理想の裏返しでもある。加藤の犯罪は大変、この国に多い若者のリストカットと似ていると思った。腕を切ること自体の痛みや血が流れることで、生のリアリティーを得ようとする。共にリアリティーへの飢えでリストカットは自らの内側に向けられた無差別殺人なのかもしれない。

 そういう意味では「薄くなりすぎ」また、仮想世界に居直った「バーチャルな時代」の中で、リアリティーというか、古典的な現実への飢えがこの国に充満し始めたことが明らかになり、「バーチャルな時代」が臨界点に達したことを加藤の事件は象徴している。

 出口はあるのか、だが、例えば旅行会社の話で、最近の若い人たちはただの観光ツアーには興味はないが、現地の人の役に立つような活動が入ると人が集まるという。これも同じリアリティーの飢えだだ、人を殺したり自分を傷つけたりするのとは別の仕方で生きるリアリティーを充実する仕方を青年たちが見つけることができれば、もう一つ新しい時代が開かれると思う。

 以上がほぼ全文である。

 見田氏はじっくり考えているようだ。見田氏のような大きな輪郭で秋葉原事件を分析することが必要だ、と思う。永山死刑囚の死刑は1997年に執行された。もう11年前になるが、その名前は長く残る。不名誉な残り方だが、それは集団就職列車の記憶を伴った残り方で、言ってみれば「三丁目の夕陽」がプラスの面、永山がマイナスの面を象徴しているとも言える。必ずプラスの面もあればマイナスもある。

 その意味で加藤の事件は永山の事件ように記憶されないのだろうと思う。何年かたてば皆忘れ果てるのではないか。見田氏はネットで共感した若者が居た、と書いているが、それはごく一部だと思う。加藤は馬鹿だ、もう少し違った方法で生きたり死んだりできたのではないか、と思っている若者の方が圧倒的に多いと思う。

 空気の薄さは大問題だろう。この問題には今は立ち入らずにおく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月24日 (水)

長部日出雄氏の<真の独立><楕円と再生の思想>を読んで~日経新聞12月17、24日夕刊から

 日経新聞夕刊1面コラム[あすへの話題]は毎日欠かさず読む。12月17日の長部日出雄氏の[真の独立に向かって]に感動して感想を書いておこうか、と思ったのだが、「当方担当の最終回となる次週の本欄で述べたい」とあったので、今日の夕刊を首を長くして待っていたら、[楕円と再生の思想]というタイトルで長部コラムが掲載されていた。

 ということで、この2回のコラムを紹介しながら、ちょっとだけコメントしたいと思う。

 まず12月17日[真の独立に向かって]だ。「真の独立」という言葉を見て、「アメリカからの独立」を思い浮かべる人は多いだろう。まさに長部氏の書いているのはそのことだった。ただ、安全保障面での独立とか、政治面での独立ではなく、日本人の精神、心に関する「独立」である点が政治家や政治的学者と違うところだ。古くは江藤淳氏らの保守思想に連なる系譜と言っていいのだろう。

 長部氏には申し訳ないが、コメントを書く都合上、逐条的に書き写す。著作権上の問題が発生するのかもしれないが、どうか大目に見てください。

 <わが国の政治家の大半が、すっかり小粒になって、とても安心して国を任せられない状況になったのは、戦後のある時期からアメリカの属国の地位に甘んじて、自国を独立国として統治する経綸も矜持も必要とせずにやって来られたからである。国家の主権の正当な認識がなく、従ってそれを的確に行使する術に熟練する筈もなかった。>

 「戦後のある時期」について長部氏は2回のコラムで具体的に書いていないのだが、いつ頃なのだろうか? 外交文書公開で明らかになった佐藤栄作首相の日米首脳会談や米国防長官との会談での中国への核攻撃を米国に約束させる鬼気迫る交渉ぶりには頭が下がるが、こういう心根が責任ある政治家から失われたのはいつなのか? つまり、東久邇稔彦、幣原喜重郎、吉田茂は間違いなく国益を考えた政治をした。社会党の片山哲だって非武装中立なんて言わなかった。芦田均もある意味、国士だ。鳩山一郎の筋金入りの日本主義は米国に嫌われたほどだ。岸信介も個人的には嫌いだが、あれだけの反対の中、日米安保条約の改定をやり遂げたのは、当時の国益に沿っていただろう。池田勇人の高度経済成長は決して軟弱路線ではなかった。土性骨が座った国富政策だった。そして、佐藤栄作である。そこまでは何とか及第だと思う。

 そうすると、問題はその後だ。田中角栄はどうなのか? 金権腐敗のうえ、日本の航空政策を米国のロッキード社に売り渡し、ワイロをもらったかのように指弾され、名誉も奪われて失意の死を迎えた天才には国益観念があったのかどうか? 私には今コメントする能力がない。

 三木武夫という椎名裁定で図らずも総理大臣になって田中角栄逮捕のために暗躍したような男は保守政治家の風上にも置けない。失格間違いなしだ。小派閥の長で国民の支持ばかり気にしているから、重要な政策に腰を据えて取り組めない。GNP比1%枠とか、どんな意味があったのだろう。

 福田赳夫はアジアを向いていた。米国の核の傘の下にいるのは仕方ないと考えながら、日本はアジアで支持を広げなければ先細りになる、と具体的に動き始めたのは評価できる。ただ、この人も気が弱いのか、連続爆弾事件の犯人が牢屋から犯人を逃がすように要求した時「人命は地球より重い」とか言って、超法規的措置で犯人を釈放するなど、無原則極まりないことをやった。日本は国家ではない、という批判が上がったが、西欧的な「人間主義」がひねくれた形で導入されていた日本ではマスメディアがこの問題への深入りを避け、曖昧にされた。それが後々まで尾を引いて、最後には小泉首相時代の「自己責任論」に結びついたのだと思うのだが、どうも「地球より重い」人命などないし、「自己責任」は国家の責任放棄だ、という常識論が通じなくなっていたようだ。極端から極端に振れる日本人の悪い点をあますところなく露呈している。だから、福田氏だけを責めてはかわいそうかもしれないが、総理大臣というのは何を言われてもやるべきことはやらなければならないのだから、やはり、福田首相は失格だろう。

 大平首相は愚直な人だった。一般消費税をまじめに考えて導入しようとしたら、野党の集中砲火にあっただけでなく、福田氏との「40日抗争」で心身をすり減らし、病死した。憤死のようだった。正義派の国益重視派と言っていいだろう。

 鈴木善幸氏は暗愚の宰相と言われた理解能力に欠けた人間。田中角栄氏のロボットとしては便利だったというだけだが、やはり「日米同盟に軍事は含まない」などメチャクチャ過ぎる発言は最低だった。言うまでもなく失格だ。

 中曽根康弘氏は合格でいいだろう。

 竹下登氏も合格と言っていいのかどうか。消費税を導入して高齢化社会への対応を図ったことは立派だった。ただ、竹下、安倍晋太郎、宮沢喜一の大正生まれ3人、「安竹宮」は線が細く、政治信念の底の底を覗けば国家への不信が見て取れる。軍国主義日本によって死ぬ一歩手前まで行った年代だが、その上の世代のように自分の意思でコントロールできたのではなく、あくまで命令に従って黙々と死に向かって生きていた世代だ。自分の確固とした信念もない世代。竹下氏が「わしらは明治のじいさまと昭和の若者のつなぎの世代」と言っていたように、実際つなぎ世代でしかなかったし、そもそも戦争での死亡者が多く、人口構成で見てもこの世代は少ない。

 宇野宗佑、海部俊樹はロボット。コメントに値しない。宇野は竹下のダミー。海部は金丸のダミー。

 宮沢喜一は竹下のところで述べたとおり。宮沢回顧録で御厨貴氏らのインタビューに答えていろいろ言っていたが、印象に残ったのは決断できない官僚そのもの、という姿。自分では客観的に振り返っていたのだが、佐藤政権で沖縄返還を実現するためにも「糸と縄の取引」が必要になった時、佐藤氏は宮沢氏を通産相に据え、国内の調整と対米交渉を任せたのだが、国内調整が全くできず、つまり米国に何も回答できず、あきれた佐藤首相が通産相を田中角栄に替えて、打開したケースなどがそうだ。優柔不断で、政治家ではない。耳に優しいことは言えるが実行できないから政治家ではない。

 細川護煕、羽田孜、村山富市は前2者は小沢一郎氏のダミー。村山氏は自民党のダミーだったから、論外。

 橋本龍太郎は個人的には合格点をあげたいのだが、あまりにも細かいことを気にしすぎて大局を見ていなかった。だから、最終的に失敗した。省庁再編をやり遂げたり、経済財政諮問会議の枠組みを作るなどの改革は良かったが、厳密に考えれば、失格と言わざるを得ないだろう。

 小渕恵三氏も悩ましい。大平氏に似ているところがあり、バックにいた竹下氏がこのケースではロボットにするのではなく、小渕氏の手足として動くことで政権のために一肌脱いだことを考えれば、小渕+竹下=合格なのか?

 森喜朗氏は勿論不合格だろう。

 小泉純一郎は合格だろうか? いくら後世の史家が郵政民営化のインチキ振りを暴き、北朝鮮政策の失敗をあげつらっても、バブル崩壊で腑抜けになっていた日本国民に「構造改革をやれば少しは良くなる」という夢をバラまいたことは確かだ。だから、5年間という長期政権になった。しかし、その結果は企業だけ焼け太りして、国民はやせ細り、ワーキングプアが常態化した。アメリカ様の言うことは何でも聞くが、日本の国民の言うことは聞かない、という政治を見れば、失格に入れるしかないだろう。ここの判断は微妙である。何が国益なのか、厳密な論議が必要だろう。

 安倍晋三、福田康夫、麻生太郎は3人とも失格。

 と戦後の総理大臣を振り返れば、佐藤栄作までは何とか合格点をあげるとして、その後は大平、中曽根、竹下、小渕には合格点を与えても、田中角栄は?がつく。他の首相は不合格、となる。

 <この点においてはメディアと学者文化人の多くも似たようなもので、政治と経済において学ぶべき規範はことごとく欧米にあり、わが国に固有の伝統は押しなべて過去の遺物で、国際的な普遍性を欠いた誤謬と見做され、殆ど一顧もされなくなった。>

 そうなのだ。全くその通りなのだ。

 <だが、何よりもまずインターナショナリズムやグローバリズムを唱え、ある一元的な原理によってそれが実現できる、とする主張には気をつけたほうがいい。コミンテルンが人類に共通する理想として掲げたインターナショナリズムが、実はソ連の軍部と国家官僚層を掌握した指導者が独裁するクレムリン帝国主義の別名でしかなかったことは、既に白日のもとに曝された。自分たちの学説を、世界中全ての国に普遍妥当するものと信じたアダム・スミスに始まる古典派経済学の部分的で単純な拡大解釈によって「新古典派」あるいは「新自由主義」と称された学派の唱導したグローバリズムの実態が、砂上の楼閣を金殿玉楼に見せかけようとしたウォール街による金融帝国主義であったことも、今や大方の目に明らかになった。>

 しかし、長部氏はよくここまで思い切ったことを書いたなぁ、と溜息が出る。言っていることはその通りで、私も大賛成である。ただ、長部氏といえば、私も最近マックス・ウェーバーに関する新潮選書をパラパラと読んだばかりだが、欧米思想を肯定的に受け止めているのか、と誤解していた。そうではなかったのだ。

 コミンテルンの32年テーゼは日露戦争に負けたロシアがソ連と国名を変えた後も日本に対する怨念を持ち続け、復讐の機会をうかがい、日本弱体化のために日本共産党に強いた政策だった。国際共産主義運動のはずが、日本だけをターゲットにしたテーゼというのも後から考えればおかしな話だが、当時の共産党にはコミンテルンを批判的に見る視点がなかった。長部氏が言うように、肌の白い人間が言うことを金科玉条として、日本の伝統を馬鹿にしていた知識人の大失敗だ。この傾向は丸山真男以後の戦後知識人にも連綿と引き継がれている。

 こういう言説が公に出るようになったのは、世界金融危機のおかげなのかもしれない。

 <ソ連とアメリカの覇権が共に崩壊した今日、われわれは真の独立を目ざす道へ歩みださなければならない。そのさい何を軌範にすべきかについては、当方担当の最終回となる次週の本欄で述べたい。>

 として、次週の12月24日のコラム[楕円と再生の思想]になる。

 こちらは最近どこかで誰かが書いていた神仏習合の見直し論につながる「楕円の思想」だった。

 <「日本」という国家の原型は、古代史上最大の内乱であった「壬申の乱」によって生み出された。当方の考えるところ、これは唐風文化一辺倒の大友皇子を奉ずる近江朝廷と、国風文化を重んずる大海人皇子との戦いで、結果はご承知の通りである。では、勝利を収めて即位した天武天皇の治世が、こんどは国風を唯一絶対とする原理主義になったかといえば、決してそうではない。>

 長部日出雄氏は1934年9月3日青森県弘前市生まれ。故郷、津軽に関する小説、エッセイが多く、津軽出身の棟方志功、太宰治らの評伝も執筆している。ウィキペディアで略歴を見ると、1953年に早稲田大学文学部に入学、中退。57年、週刊読売記者。大島渚、永六輔、野坂昭如、筒井康隆、小林信彦らを一早く評価し、彼等と深く交友。退職し、雑誌『映画評論』編集者、映画評論家・ルポライターを経て作家。73年に『津軽じょんから節』と『津軽世去れ節』で直木賞受賞、とあった。「天皇はどこから来たか」(新潮社、1996年)、「反時代的教養主義のすすめ」(新潮社, 1999年)「二十世紀を見抜いた男 マックス・ヴェーバー物語」(新潮社, 2000年)、「天皇の誕生 映画的『古事記』」(集英社、 2007年)、「『古事記』の真実」(文藝春秋、2008年)という著作目録を見れば、私の勘違いで、実は日本の古典、古代への造詣が深かったことが分かった。

 <漢字と和語を綯い交ぜにして、話し言葉と書き言葉の双方の働きをそなえた「日本語」を最初に確立した「古事記」の口誦しながら、天武天皇は官寺の造営にも力を注いで、日本中の家々に異国の教えである仏教を浸透させた。このような原理主義者がどこにいるだろう。和語と漢字の見事な融合、神と仏の和らかな共存。世界に類のないこの二元の構造こそは、わが国の文化の最大の特徴で、壬申の乱が「日本」という国家の原型を生み出す基になった……というのは、そういう意味なのである。>

 なるほど、である。やはり古代史への造詣が深い。

 <異質で相反する要素の和らかな共存を図って、二つの焦点を持つ楕円形の国家を形成したい、というのが天武天皇の願った理想の和の国の姿であった。伊勢神宮において旧宮と新宮の敷地が隣接し、二十年毎に神儀(御神体)がその間を往復する……という奇跡的な遷宮制度の創始者も天武天皇である。希望を失って真っ暗闇と化した世の中に、ふたたび天照大御神が新たな光明をもたらす「天の岩屋戸」神話は、死と再生の劇であり、遷宮はその祭祀化なのである。この「楕円と再生の思想」こそ、日本を救う。ぼくはそう確信して疑わない。>

 そうなのだろう。明治維新の際に薩摩や長州の若手武士がこれらの国の物語を軽く扱い、国家神道化した。そして、戦争に負けた後、マッカーサーが神道指令で国家神道をやめさせた。その後の日教組の教育で神話が不当に弾圧された。

 今はじっと沈思黙考しながら、日本を再び考える人が増えることを望みたい。インターナショナリズムはナショナルを理解してはじめて理解できる、とはよく聞いた話だが、その通りだと思っている。長部氏が説くように、そろそろ虚心坦懐に日本を見詰め直そう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

秋葉原「心の闇」事件の遠因はニュースピーク、という鹿島茂氏のご託宣~12月24日毎日新聞朝刊から

 毎日新聞12月24日朝刊[引用句辞典 不朽版]で鹿島茂氏(仏文学者)は<ニュースピーク>を取り上げていた。「ニュースピーク」とは、知る人ぞ知るジョージ・オーウェルの近未来SF小説「1984年」の全体主義社会で住民たちが話す言葉である。と言ってもよく分からないので、もう少し作品そのものを説明しておかなければならないだろう。

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8) 1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

著者:ジョージ・オーウェル,新庄 哲夫,George Orwell
販売元:早川書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 となれば、やっぱりウィキペディアの出番だ。少し長めに引用する。(以下ウィキの引用を少し書き直したもの)

 <トマス・モア『ユートピア』、スウィフト『ガリヴァー旅行記』、ザミャーチン『われら』、ハクスリー『すばらしい新世界』などのディストピア(反ユートピア)小説の系譜を引く。スターリン体制下のソ連を連想させる全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描く。「1984年」は執筆された1948年の4と8を入れ替えたアナグラムで、当時の世界情勢そのものへの危惧を暗に示した。出版当初から冷戦下の英米で爆発的に売れ、同じ著者の『動物農場』やケストラーの『真昼の闇黒』などとともに反全体主義思想のバイブルとなった。あらゆる形態の管理社会を痛烈に批判した本作のアクチュアリティは、コンピュータによる個人情報の管理システムが整備されつつある現代においても、その輝きを全く失ってはいない。>

 <1950年代発生の核戦争を経て1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国が分割統治。紛争地域をめぐる戦争が絶えない。作品の舞台であるオセアニアでは思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビで屋内・屋外のほぼすべての行動を当局に監視されている。>

 <ロンドンに住む主人公ウィンストン・スミス(39)は妻キャサリンとは別居中。真理省記録局の役人として日々歴史記録の改竄作業を行っていた。物心ついたころに見た旧体制やオセアニア成立当時の記憶は、記録が絶えず改竄されるため、存在したかどうかすら定かではない。スミスは古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという、禁止された行為に手を染める。ある日の仕事中、抹殺されたはずの3人の人物が載った過去の新聞記事を偶然に見つけたことで体制への疑いは確信へと変わる。「憎悪週間」の時間に遭遇した真理省創作局の同僚で青年反セックス連盟の活動員、ジューリア(26)から手紙で告白され、出会いを重ね、黒髪のグラマラスな女性と愛し合う。また、下町のチャリントン(63)の古物商店で隠れ家を提供されるが、実は年齢も60歳代ではなく、秘密警察の隊員だったが、ウィンストンは隠れ家でジューリアと過ごした。ウインストンは夢に度々出てくる真理省党内局の高級官僚の1人、オブライエンを自分の味方で話が分かる男と思い込み、現体制への疑問を告白。オブライエンは秘密結社『兄弟同盟』の一員であると名乗り、 エマニュエル・ゴールドスタイン(レフ・トロツキーがモデルでトロツキーの本名はブロンシュタイン)の禁書を渡すが、実はオブライエンはオセアニアの指導者、偉大なる兄弟(ビッグ・ブラザー=ヨシフ・スターリンがモデル)によって率いられる唯一の政党「党」に忠誠を尽くす男で、ウィンストンを騙す嘘だった。思わぬ人物の密告からこうした行為が明るみに出て、ジューリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、オブライエンによる尋問と拷問を受ける。彼は「愛情省」の101号室で自分の信念を徹底的に打ち砕かれ、党の思想を受け入れ、心から党を愛しながら処刑(銃殺)される。>

 <オセアニアは旧アメリカ合衆国をもとに、南北アメリカおよび旧イギリス、アフリカ南部、オーストラリア南部(かつての英語圏を中心とする地域)を領有する。他の超大国はソ連をもとに欧州大陸からロシア極東にかけて広がるユーラシア(イデオロギーは「ネオ=ボリシェビキズム」)、旧中国や日本を中心に東アジアを領有するイースタシア(イデオロギーは「死の崇拝」あるいは「個の滅却」)。どの国も一党独裁体制であり、イデオロギーにもそれほど違いは無い。これら3大国は絶えず同盟を結んだり敵対しながら戦争を続けている。表向きは、各国とも世界支配のため他の大国を滅ぼすべく戦っているが、実際は世界を分割する3大国が結託し、労働力を浪費して富の増加による階級社会の不安定化や崩壊を防ぎ、支配と権力を半永久的に維持するために行っている永久戦争。3大国はどれも戦争で滅ぼすことは不可能である(オセアニアは海に守られているため、ユーラシアは国土が広大であるため、イースタシアは人口が多く勤勉であるため)。 北アフリカから中東、インド、東南アジア、北オーストラリア一帯は3大国が半永久的に争奪戦を繰り広げる紛争地域。>

 <「偉大なる兄弟」は国民が敬愛すべき対象であり、町中の到る所に「偉大なる兄弟があなたを見守っている」 (BIG BROTHER IS WATCHING YOU) という言葉とともに彼の写真が張られているが、正体は謎に包まれ実在すら定かでない。党の最大の敵は「人民の敵」ゴールドスタインで、国民は毎日、テレスクリーンを通して彼に対する「2分間憎悪」を行い、彼に対する憎しみを駆り立てる。テレスクリーンの登場により、全国民は党の監視下に置かれ、私的生活は存在しなくなっている。>

 <党のイデオロギーはイングソック(IngSoc、Ingland Socialism、つまりイングランド社会主義の略)と呼ばれる一種の社会主義。核戦争後の混乱の中、社会主義革命を通じて成立したようだが、誰がどのような経緯で革命を起こしたのかは、忘却や歴史の改竄により明らかではない。エマニュエル・ゴールドスタインのパンフレットによれば、そのイデオロギーの正体は「寡頭制的集産主義」とでも呼ぶべきもので、「社会主義の基礎となる原理をすべて否定し、それを社会主義の名の下におこなう」ことであるらしい。もとは社会主義運動の中から発したが、現在は中層階級が下層階級を味方につけて上層階級を倒す事態を永久に防ぎ、非自由と不平等を恒久的なものにすることを目的としている。>

 <党には中枢の党内局(inner party)と一般党員の党外局(outer party)がある。党内局員は黒いオーバーオールを着用し、貴族制的な支配階級(上層階級)で、世襲でなく能力によって選ばれ、テレスクリーンを消すことができる特権すらある。党外局員は青いオーバーオールを着る中間層(中層階級)で、党や政府の実務の大半をこなす官僚たち。党に関わりを持たない人々はプロレ(the proles、プロレタリア)と呼ばれ、人口の大半を占める被支配階級(下層階級)の労働者たち。娯楽(酒、ギャンブル、スポーツ、セックス、ほか「プロレフィード(Prolefeed)」と呼ばれる人畜無害な小説や映画、音楽など)がふんだんに提供されている。>

 <「戦争は平和である(WAR IS PEACE)」「自由は屈従である(FREEDOM IS SLAVERY)」「無知は力である(IGNORANCE IS STRENGTH)」という党の三つのスローガンが至る所に表示されている。>

 <ニュースピーク (Newspeak、新語法)とは思考の単純化と思想犯罪の予防を目的として、英語を簡素化して成立した新語法。すべての言葉は意図的に政治的・思想的な意味を持たないようにされ、この言語が普及した暁には反政府的な思想を書き表す方法が存在しなくなる。ニュースピークは現代英語を必要最小限にまで簡略化することを目指し、現在では別々の言葉が似たような意味を持つという理由で統合され名詞や動詞の区別も接尾語により変化する。たとえばthought(思想[名詞])はニュースピークの文法ではthink(考える[動詞])で代用でき、speed(速さ[名詞])に形容詞をあらわす-fulや副詞をあらわす-wiseを加えることでそれぞれの品詞に自在に変化する。badをあらわすにはgoodに否定の接頭語un-をつけたungoodでこと足り、強意表現はplus-,doubleplus-といった接頭語をつけることで表現される。また、Minipaxなどのように略語を極端に採用しているが、これによって本来の語源を考えることなく、全く自動的に単語を話すことができる(これにはかつてソ連が「コミンテルン」などのような略語を多用したことの影響がある)。>

 <新語法(ニュースピーク)辞典が改定されるたびに語彙は減るとされている。それにあわせシェークスピアなどの過去の文学作品も書き改められる作業が進められている。改訂の過程で、すべての作品は政府によって都合よく書き換えられ、原形を失う。freeの意味も「free from ~」の意味しか残らず「政治的自由」「個人的自由」の意味は消滅しているなど変化しており、原文の意味を保って自由や平等を謳う政治宣言などをニュースピークに翻訳することは不可能になる。なお、ニュースピークという言葉自体が既にニュースピークである。本来、speakという単語に名詞としての用法は無い。>

 <ダブルシンク(doublethink、二重思考)とは1人の人間が矛盾した二つの信念を同時に持ち、同時に受け入れることができるという、オセアニア国民に要求される思考能力。現実認識を自己規制により操作された状態でもある。過去を支配する者は未来まで支配する。現在を支配する者は過去まで支配する。政府が過去を改竄し続けているのは、党員が過去と現在を比べることを防ぐため、そして何よりも党の言うことが現実よりも正しいことを保証するためである。党員は党の主張や党の作った記録を信じなければならず、矛盾があった時は「犯罪中止」により誤謬を見抜かないようにし、万一誤謬に気づいても「二重思考」で自分の記憶や精神の方を改変し、党の言うほうが正しいということを認識しなければならない。>

 <「古代の専制者は命じた。汝、するなかれと。全体主義者は命じた。汝、すべしと。我々は命じる、汝、かくなり、と」。オブライエンの言によれば、かつて専制国家は人々に対しさまざまなことを禁止していた。ソ連などは人々に理想を押し付けようとした。現在のオセアニアでは人々はニュースピークやダブルシンクを通じ認識が操作されるため、禁止や命令をされる前に、すでに党の理想どおりの考えを持ってしまっている。党の考えに反した者も、最終的には自由意思で屈服し、心から党を愛し、党に逆らったことを心から後悔しながら処刑される。>

 <「2足す2は5である」(2+2=5、Two plus two makes five)というフレーズはこの小説を象徴するフレーズの一つ。スミスは当初、党が精神や思考、個人の経験や客観的事実まで支配するということに嫌悪を感じて(「おしまいには党が2足す2は5だと発表すれば、自分もそれを信じざるを得なくなるのだろう」)自分のノートに「自由とは、2足す2は4だと言える自由だ。それが認められるなら、他のこともすべて認められる」と書く。後に愛情省でオブライエンに二重思考の必要性を説かれ拷問を受け、最終的にはスミスも犯罪中止と二重思考を使い、「2足す2は5である、もしくは3にも、同時に4と5にもなりうる」ということを信じ込むことができるようになる。>

 <ダブルスピーク(doublespeak、二重語法)とは矛盾した二つのことを同時に言い表す表現。「戦争は平和」・「真理省」のように、例えば自由や平和を表す表の意味を持つ単語で暴力的な裏の内容を表し、さらにそれを使う者が表の意味を自然に信じて自己洗脳してしまうような語法。他者とのコミュニケーションをとることを装いながら、実際にはまったくコミュニケーションをとることを目的としない言葉。実は作品には登場しない用語であるが、初版発刊後の1950年代に発生し一般化した言葉で、しばしば作品由来と考えられている。ニュースピークのB群語彙の定義におおむね影響を受けている。また、現実にある政策や婉曲話法などを批判的に言及する際に「二重語法」という言葉を使うことがある。たとえば事業の再構築を意味するリストラクチャリング(リストラ)を単に「従業員の大規模解雇」の意味に使用するなど。>

 という「1984年」をベースにした話である。

 見出しは<言葉の簡体化が導いた「心の闇」の大量発生>。

 毎日新聞コラムの鹿島氏の言説をほぼ全文引き写しながら、コメントを加えてみる。

 以下が本文である。

 <全体主義社会では、住民たちはニュースピークと呼ばれる簡易言語を話すようになるというエピソードがあったと思う。語彙の少ない簡易な表現ですべてコミュニケーションが成り立ってしまうのである。>

 として、

 <この未来予測は、少なくとも日本にかんする限り、見事に当たった。「ムカつく」「感動した」「泣ける」「KY(空気読めない)」etc。まさにニュースピークそのものである。それどころか、ニュースピークの首相まで現れ、マスコミでもニュースピーク派が多数派を占めるという状況が生まれてきている。全体主義社会ではないにもかかわず、である。>

 と小泉純一郎元首相の「ワンフレーズ・ポリティクス」を強烈に皮肉りながら、その小泉戦略に簡単に乗せられたマスコミ批判を繰り広げる。

 <では、なにゆえに、高度資本主義の社会で、このようなニュースピーク化現象が起きるのかと考えているときに、右の言葉に出合った。>

 右の言葉とは吉本隆明の次のフレーズである。

 <「社会が、ますます機能化と能率化を高度におしすすめてゆくとき、言葉は言葉の本質の内部では、ますます現実から背き、ますます現実からとおく疎遠になるという面をもつものであり、言語は機能化にむかえばむかうほど、この言語本質の内部での疎遠な面を無声化し、沈黙に似た重さをその背後に背負おうとする。つまり、コミュニケーションの機能であることを拒否しようとする」>(「自立の思想的拠点」徳間書店)

 鹿島氏が吉本説を解説する。

 <すなわち、社会が機能化と能率化を追求していくと、当然、言語もそれに伴って機能化・能率化する(つまりニュースピーク化する)わけだが、その一方で、個々の言葉は、現実から遠ざかるという指摘である。ソシュール理論のシニフィアン・シニフィエで言うと、シニフィアン(音声・文字記号)によって喚起されるシニフィエ(概念)の中で、その概念抽出のもとになる「現実」とのつながりが失われてしまっているということだ。吉本の言語理論なら、指示表示ばかりが前面に出て、自己表出が稀薄になることだ。>

 さあ、難しくなってきたぞ。でも、難しいのはここだけ。ぶっちゃけて言えば、どんどんと情報化が進めば、言葉が進化して、現実を表わさなくなる、ということではないか。

 <しかし、では、こうした現実から離れ、薄っぺらになったニュースピーク(機能化言語)を用いている人は、それによって、コミュニケーションがより円滑になっているのかといえば、そんなことはない。むしろ、逆であって、ニュースピークでは掬いきれずに残る感情と心理の余剰部分(自己表出部分)は、澱となって心の底に沈み、無声の言語、すなわち沈黙でしか表現できないものと化す。

 <その象徴が、殺人や傷害致死などの重大犯罪を犯して逮捕された少年・少女たちの口から漏れてくるあきれるような言葉の数々である。犯罪の動機というには、あまりにも幼稚で単純な言語! 「なぜ殺したのか?」「ムカついたから!」「なぜムカついたのか?」「無視されたから」「どのようなところで無視されたと感じたのか?」「わからない」これはつまり、「言語のコミュニケーション機能の拒否」である。>

 なるほど、やっぱりここに結び付けましたか。動機なき殺人、誰でもよかった、ムカついたから、などの供述を聞いても大人には理解できないから、何とか理解しようとして鹿島氏は言葉の面から切り込んだわけだ。

 <彼ら少年・少女(ときには中年・中女)はニュースピークを用いているからといって、感情や心の襞がないわけではないし、それを表出したいという願望がないわけではない(ニュースピークによるブログの繁盛を見よ)。ただ、困ったことに、ニュースピークでは、最も本質的な部分つまり、一番言いたいことが、沈黙という言語でしか語りえない構造になってしまっているのである。>

 分かりやすい。ここに持ってくるのに、ジョージ・オーウェルを使ったんですか。

 <なんというパラドックス。機能化・能率化を目指した社会は、機能化・能率化言語としてのニュースピークを生んだが、しかし、そのニュースピークは逆にコミュニケーション機能の喪失をもたらし、いわゆる、語りえない「心の闇」を大量発生させる結果となったのである。>

 この「心の闇」論。鹿島氏は半分おふざけで書いたかもしれないが、実際そういうことかもしれない、と思うのだ。語るべき言葉を持たない日本人たちが大量に生まれているのかもしれない。

 秋葉原事件をはじめとする殺伐とした事件を起こす容疑者たちの心は計り知れない。

 その心の中を語るべき言葉を持たないことが、逆に言えば問題の解決を妨げているのではないか、と思う。

 自分の頭の中でもいい、自分が何に対して怒っているのか、を言葉にして論理的に考えることができれば、突然噴き出す衝動的怒りの発作もある程度制御できるようになるだろう。

 その制御はオセアニアのビッグブラザーの洗脳によるダブルシンクではない。自分で紡ぎ出した言葉で自分で考えることで生み出させるものに違いない。

 ということは、テレビなどのステレオタイプ的言葉の押し付けがニュースピークの大き原因になっているのではないか、とも思えてくる。本当はテレビ、インターネットを含めた現代情報社会のありようだけでなく、家族制度や社会そのものの変化が原因なのだが、そこまで話を広げると収拾がつかなくなるので、とりあえず。

 <ところで、マルクスの指摘をまつまでもなく、言語のような上部構造は、経済という下部構造を、ある種の歪んだかたちで反映しているという。ならば、効率化・能率化を追い求めたあげくに自爆した経済を、これからの言語はどのようなかたちで反映することになるのだろうか? ニュースピークの解体だろうか、それともさらなるニュースピーク化の加速だろうか? こちらも予断を許さない状況になってきているようである。>

 なるほど、頭の切れる鹿島氏はそこまで言うか、と思う。なるほど、である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月12日 (金)

「伝統を切り捨てる天才」が閉塞感の原因~森本哲郎氏(83)インタビュー(毎日新聞12月12日夕刊)

 毎日新聞12月12日夕刊[特集ワイド この国はどこへ行こうとしているのか]は83歳の作家、森本哲郎氏のインタビュー。1925(大正14)年東京生まれ、東大哲学科卒、同大大学院社会学科修了。東京新聞を経て朝日新聞。学芸部員として世界各地を歴訪し、文明論、比較文化論の視点から記事を担当した。退社後の88~92年、東京女子大教授。主著に「文明の旅」「詩人 与謝蕪村の世界」「日本人の暮らしのかたち」。社会や日本文化などへの評論活動も、とあった。聞き手は坂巻士朗記者。

 森本氏の主な発言次の通り。

▽今ほど便利な時代はない。コンビニに行けば24時間、何でもそろう。本屋に出向かなくたってパソコンで注文すれば本を届けてくれる。友達の家を訪ねなくとも携帯のメールでピピッと連絡を取れば終わりです。だけど、今ほど閉塞感に満ちた時代はない。子供だったせいもあるが、戦前さえもまだ充実感があった。現代はものがたくさんあり、情報があふれかえって無力感が生まれている。便利なのに、決して豊かではない。何でもあるのに何か足りないという飢餓感をみんなが持っていると思うのです。

▽(閉塞感の土壌には何があるのか?)日本は伝統を切り捨てる天才です。何でも新しいもの、海の向こうからくるものを取り入れて、伝統というものは古臭いという一言で切り捨ててきました。文明開化は成功したといえる。因習にとらわれていたら、社会は進歩しないですから。ただ、伝統を捨ててしまっては歴史の教訓が生きないんです。戦後もそうです。日本の手本は米国だった。経済の先生は1903年に創業された自動車製造のフォード社。それから100年、アメリカは因習に縛られずに自由な天地を謳歌した。しかし、最初は健全だった自由主義、合理主義がどんどん進んでいき過度になった。大量に作って大量に消費するシステムだ。日本はこの60年あまり伝統を切り捨ててアメリカの猿真似をしてきたわけです。上っ面の同調化とでも言いますか。アメリカ式の自由主義、民主主義、合理主義を推し進めていった。アメリカのやり方を何でもありがたがるというのは、大いにマイナスだった。

▽まずは「アメリカなら何でもいい」から目を覚まさなければ。合理主義一辺倒、もうけ一辺倒になって、金にならなければ何もやらないって、そういうもんじゃない。物を次々買っても、狭い家に置く場所はない。じゃあ、テレビをもっと薄くしますか。きりがない。人間が生きるために、それほど多くの物はいらないですよ。

▽取材はマッカーサーの時代から。1951年4月、東京新聞の記者としてGHQのマッカーサー元帥が日本を離れる様子を見届けた。羽田空港に続く沿道にたくさんの人が詰め掛けていました。みんな涙を流して「さようなら」って手を振っていたね。当時の報道機関はマッカーサー元帥を恩人としてたたえた。新聞の使命は民主主義の確立である、とのGHQの方針で他社の記者とともに米国に招かれた。4ヶ月間、シカゴ、テキサスなど広く各地の新聞社を回り、取材活動をした。新聞報道は客観的でなければならないということを徹底して言われた。

▽今はテレビもインターネットもあるので、新聞が売れなくなったと聞く。確かに速報性では劣るけれども、権力に向かい合って主張すべきを主張し、キャンペーンを張る報道がないためではないか。売れないのは本来の姿勢を失っているからではないか。

▽世界中を旅して、あるとき、パリで急な雨に降られて広場のカフェを見つけて一休みしたが、「なるほど」と気づいた。ヨーロッパの建物には庇がない。雨宿りを許してくれる軒がないんです。窓はあまりに明るく、あまりに乾きすぎている。自然と人間が窓で対決している気さえした。しかし、日本の家屋も今や洋風になった。高度成長とともに、コンクリートの団地やマンションが増えた。戦前まで日本の家屋は自然と親しんでいた。縁側が住居と庭をつないでいた。ぼくの家も小さい庭があるけれども縁側がない。だから、ほとんど庭に出ることがない。縁側で子供が遊び、近所の人が腰掛けて話をすることもなくなった。自然が遠ざかり、人間的な温かみが切断されてしまった。

▽英国の動物行動学者、デズモンド・モリス(1929~)は「都会は今や人間の動物園だ」と言うんですね。食べ物はたっぷりあってそこそこ安全な場所に閉じ込められていると。まさにその通りだと思います。

▽一度手にした便利な生活を放り出すのはなかなか難しい。この国の行方は見えないなあ。過ぎたるは及ばざるがごとし、という格言がありました。腹八分目なんていうのも。つまり、抑制ですね。受け継がれてきた伝統や歴史という重みこそが、過剰を抑制してくれるのだと思います。

▽<なつかしき冬の朝かな。湯をのめば、湯気がやはらかに顔にかかれり。>ぼくの好きな石川啄木の歌です。26歳で亡くなった啄木には死の予感があったんでしょう。寒い朝、一杯の湯を飲もうとして、ふわっとほおに触れる湯気に、安らぎを感じた。幸せは遠くにあるんじゃない。ありふれた日常の中にあるんですね。

 森本氏の新潮選書が何冊か、私の書庫に眠っている。水道橋のいつも行く古書店で店頭の台で安売りしていたのを買ってきた。3、4冊になったか。今度読もう、今度読もう、と思いながらまだ読んでいない。今度読もう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 6日 (土)

ハイデガー哲学の流行~日経新聞12月6日文化面に木田元氏の名前がない

 日経新聞12月6日朝刊文化面<激動の現代見直す視点/ハイデガー哲学色あせず/中堅・若手が研究リード/存在の根源問う>が載っていた。さすが日経、哲学までフォローしている、と少し驚いた。舘野真治・文化部記者の記事である。

 書き出しはこうだ。

 <20世紀を代表するドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーの研究が熱を帯びている。40代前後の中堅・若手の著者刊行が相次ぐほか、新たな研究組織も発足。人間存在の本質を根底からとらえた巨人の思想は、金融危機など激動する世界情勢の中で輝きを増しているようだ。>

 1889年に生まれ、1976年に没したハイデガーは「存在と時間」などで「存在とは一体どのようなものなのか」という自明なようでいて実はとらえがたい根源的問題を徹底的に解き明かそうとし、逆に人間が本来は最も大切な存在論を忘れ、日常に埋没して世間に流されることを批判した、とも書く。

 記者が取材したのは9月20日から都内で開いた「ハイデガー・フォーラム」大会。2日間で延べ160人が出席、半数以上が一般参加だった、という。このフォーラムの第1回は2006年で今年が3回目。

 旗振り役の森一郎・東京女子大教授は「あえて学会という体裁にせずに誰でも参加できるようにした」という。

 出版も目立っている、として、いろいろ書いている。

 雑誌「理想」今年2月号で「ハイデガーという広場」特集。森教授も寄稿したと。森教授は1月に主にハイデガーを論じた単著「死と誕生」を出した。

 門脇俊介・東大教授は解説書「『存在と時間』の哲学1」を6月に出し、仲原孝・大阪市立大教授は研究書「ハイデガーの根本洞察」を6月に出した。フォーラム創設メンバーの一人の秋冨克哉・京都工芸繊維大学教授は05年に「芸術と技術 ハイデガーの問い」を出した。

 これまで日本のハイデガー研究を牽引してきたのは今年2月に亡くなった渡邊二郎・東大名誉教授ら1920~30年代生まれの重鎮だったが、彼らに教えを受けた世代がキャリアを積み、成果を出し始めた、という。森、秋冨氏はともに1962年生まれで40代半ば、まさに脂が乗りつつある、と書いている。このへんが書きたかったことなのかなぁ、とも思う。

 ドイツ現代思想が専門の北川東子・東大教授は「物事を突き詰めて考える姿勢、根本から問いを立てる力がすごい。世界を覆う金融危機など従来の常識では捉えきれない事態が次々と生じる中で既存の枠を飛び越える問いや思考法が求められている」と見ているそうだ。

 <現在、よく言及されているのは「技術」についての批判的な論考だ。ハイデガーの見方によれば技術は自然の様々な物を本来の在り方とは関係なく、何らかの目的に役立つ資源やエネルギーとしてとらえ、取り立て収奪する側面がある。人間自身も「人的資源」「臨床事例」などと呼ばれ、駆り立てられる。そうした流れに疑いを差し挟む思想は、技術による利便性の向上を当然とする現代的な考え方を見詰め直す契機になる。「大きな問題をその場しのぎではなく、深く思索する視点を与えてくれる」(森教授)。ただ、その議論は抽象度が高く、環境破壊などの個別事例にすぐ応用できるわけではない。ハイデガー自身も「哲学は本質的に時代向きではない」と公言。流行のように注目されることを嫌がった。「彼の思想を何かの問題に役立てようとすること自体がその内容に反する」(東大の石原孝二准教授)との声は根強い。それでもハイデガーの議論が示唆に富み、多くの人をひきつけるのは紛れもない事実。技術論にしても人間の存在を揺るがすという単純な疎外論には終わらない。例えば「存在論的メディア論」などの著書がある和田伸一郎・中部大学講師はハイデガーの技術論の肯定的な側面に着目。「携帯電話やインターネットなどの技術が、人減存在の本質を新しい形で引き出す可能性もある」との考えを示す。世界の中で開放的に、遠くにいる人にも配慮する在り方につながるとの見方だ。>

 少し長くなったが、これがどうも著者が今言いたいハイデガーと技術との新しい切り口の研究の「現時点」なのだろう、と思う。そして、

 <ハイデガー思想は「とてつもない広さと深さ」(北川教授)を持つが故に、こうした様々な議論をくみ出せる。技術論に限らず多義的な魅力を備える哲学者は、様々な難題に直面する現代人が立ち返る原点として注目され続けそうだ。>

 と結んでいた。

 不思議だったのはハイデガーと言えば木田元といわれるほど日本のハイデガー研究で有名な木田氏の名前が記事に一回も出てこないとだった。

木田元の最終講義  反哲学としての哲学 (角川ソフィア文庫) 木田元の最終講義 反哲学としての哲学 (角川ソフィア文庫)

著者:木田 元
販売元:角川グループパブリッシング
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 2008年5月25日初版発行の「木田元の最終講義 反哲学としての哲学」(角川文庫、税込み660円)を読むと、1928年生まれの木田氏は海軍兵学校、山形県立農林専門学校を経て1950年に東北大学文学部哲学科に入学。同大学院哲学科・特別研究生課程に進学し、東北大学文学部助手、中央大学文学部専任講師、助教授を経て1972年に中央大学教授。99年に定年退職、名誉教授に就任した。「ハイデガーの思想」「ハイデガー『存在と時間』の構築」など既存のハイデガー解釈を一新した、というのが文庫本の人物紹介にあった。

 木田氏の最終講義は中央大学文学部で1991年1月23日に行われた「ハイデガーを読む」と1992年2月25日に中央大学人文科学研究所で行われた「哲学と文学~エルンスト・マッハをめぐって」があり、文庫本ではこれに<最終講義・補説>として「『存在と時間』をめぐる思想史」をつけてあり、素人にも分かりやすい。

 木田氏はハイデガーはソクラテス・プラトン・アリストテレス以前のギリシャに遡って哲学を考え直した、つまり、西洋哲学の見直しを行った、と見た。以下は文庫版のP52からの引用である。

 <西洋哲学史を見なおすといっても、ハイデガーが考えているのはなんとも思いきったことで、彼はプラトン/アリストテレスからヘーゲルにいたるまでの西洋哲学の全体が間違っていたのではないか、少なくともおかしな考え方、不自然な考え方だったのではないかと考えているのです。しかも<哲学>と呼ばれてきたこの不自然な考え方が、西洋文化経世の青写真の役割を果たしてきた、そのため、西洋文化が全体としておかしな方向に形成されることになった、とそんなふうに考えているらしいのです。>

 木田氏はこれはニーチェと同じ問題意識なのではないか、と言うのだ。一読、同感だったのだが、日経新聞の記事にある技術論の問題はこうした大きなパースペクティブで見れば、近代文明=西洋文化に内在する問題点だ、と言えるのではないか。

 というようなことを木田氏は考えさせてくれるのだから、こういう記事にも木田元氏の名前を入れてほしかったなぁ、と思う次第だ。日経新聞の夕刊1面コラム[あすへの話題]で定期的に寄稿しているし、日経文化部記者だって日常的に話を聞けるんじゃないのかな?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 5日 (金)

きょうはモーツァルトが亡くなった日~毎日新聞12月5日朝刊[余録]

 毎日新聞12月5日朝刊1面コラム[余録]できょうがモーツァルトの命日であることを知った。享年35歳。若死にだが、今の平均寿命で考えないほうがいい。

 ウィキペディアを見たら、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)は1756年1月27日、オーストリアの都市であるザルツブルクに生まれ、1791年12月5日にウィーンでレクイエムの作曲中に没したとあった。

 父は元々は哲学や歴史を修めるために大学に行ったが、途中から音楽家に転じたザルツブルクの宮廷作曲でヴァイオリニストのレオポルト・モーツァルト(Leopold Mozart)で、息子の天才を見出し、幼少時から音楽教育を与えた、という。

 つまり、特訓を受けた2世が後世に残る音楽を残した。

 モーツァルトと妻・コンスタンツェ(Constanze, 1762年 - 1842年)は4男2女がいたが4人は乳幼児のうちに死亡。成人したフランツ・クサーヴァー(Franz Xaver)は職業音楽家となり「モーツァルト2世」を名乗ったという。

 この人は3世である。

 なるほど、2世、3世という才能の伝承は必要なのだな、と思わすエピソードだ。

 [余録]は違った切り口で迫った。

 <「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追ひつけない」とは小林秀雄の有名な言葉である。空の青さや海のにおいのように万葉の歌人が使い方をよく知っていた「かなし」にも通じるという(新潮社版小林秀雄全集「モオツァルト」)。こんなかなしさなら歓迎だろう>

 と、小林秀雄を持ってきたのだ。オッと思う。余録子はその後で、

 <だが、涙が追いつけないのはモーツァルトの名曲だけではあるまい。インドのムンバイで先月26日に起きた無差別テロの悲劇はどうだ。ホテルやレストランで楽しい夜を過ごしていた人々が理不尽にも殺された。駅やユダヤ教施設も襲われ死者は170人を超えた>

 <武装グループは笑いながら発砲し、息絶えた人の口に手投げ弾を押し込んでブービートラップ(罠(わな))にしたという。「5000人殺す予定だった」という供述もある。肌に粟(あわ)が生じるとはこのことだ>

 <数知れぬ遺族が涙を流した。容疑者らの身内も泣いただろう。が、人類のひとりとして事件を眺めると泣くに泣けない。01年の9.11テロの時のように「どうして世界はこんな冷血の集団を生み出してしまったのか」という悲しみだけが込み上げる>

 と世界のテロを取り上げる。「かなし」続きということだろう。そういう「かなし」の解釈もあっていいが、どうも私の感覚とは違うのだが。特に小林秀雄の「かなしさ」の解釈は余録子とは違うと思う。小林の「かなしみ」は解釈が難しいが人間の根源から来る。輪廻であり、自然の中で生きて死ぬ人間、誰にもある根源的な「かなしみ」だと思う。テロに「かなしみ」を重ねることは平均的知識人ならば当然なのかもしれないが、小林もモーツァルトも平均ではない、と思う。

 余録子はその後、またモーツァルトに戻る。

 <きょうはモーツァルトが亡くなった日だ。35歳で逝った大天才は晩年「ぼくはもう息もたえだえです。自分の才能を楽しむ前に死んでしまうのです」「誰も自分の命数を計れるものはなく、ひたすら諦めねばなりません」と記している。「モーツァルトの手紙」(吉田秀和編訳、講談社学術文庫)に収められた書簡だ。白鳥の歌となる「レクイエム」に取り組みつつ、迫りくる死を予感していたのだろう。>

 と書き、最後の結びが、

 <限りある命を大事にしたい。まして他人の命を銃弾や爆薬で奪うことは許されない。>

 という優等生の作文で終わっていた。

 別に「テロを批判するな」と言っているのではない。卑劣なテロは糾弾されるべきで、テロの根絶は必要だ、と私も思っている。しかし、生命のダイナモ、魂の輝きを曲に込めたモーツァルトの生涯とこれほどかけ離れた結論はないのではないか、と思うのだ。優等生であらねばならない新聞1面コラムでは仕方ないことなのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 3日 (水)

山折哲雄氏の「散り際」「退き際」考…権力維持の知恵だった~毎日新聞12月3日夕刊から

 毎日新聞12月3日夕刊2面[特集ワイド]に山折哲雄氏(77)が<散り際の美学>について小松やしほ記者のインタビューに答えた記事が掲載されていた。面白かったのでメモしておく。

 山折氏は1931年米サンフランシスコ生まれ。国立歴史民俗博物館教授、白鴎女子短大学長、国債日本文化研究センター所長などを歴任。「近代日本人の宗教意識」など著書多数。近著に「信じる宗教、感ずる宗教」(中央公論新社)がる、と紹介してあった。

 最初から面白かった。記者が「散り際の美学」「退き際の美学」について聞こうとすると、山折氏は、

 <退き際、散り際というと、後ろに美学と付けたくなる心情は分かりますが、本来はそういうものではない。権力を維持する知恵なんです。王が死んで次の王が即位するまでの間に、何が問題になるか。一つは王権の正統性を何で保障するかということ、失敗すれば空位期間が発生する。それを避けるためにはどうするか。この二つです。(そこで考えた最高の知恵が)死んでも死んだことにしないこと。一番安全な方法は譲位です。生前に決めておく。余力を残して退くということです。そうすれば次の権力に対し口を出すことができる。>

 <定年とは、システマチックに身を退くということです。美学などというセンチメンタルなものは、入り込む余地はないわけです。>

 <見事ですね。小泉さんは、余力を残して退くということをよく知っていたんですよ。彼には大きな野心があるのかもしれません。後継を息子にしたのは、人物の卑小さを暴露したというところかな。>

 <(引退が美学と併せ語られるようになったのはいつからか?)やはり武士道ですね。平家物語に出てくる源氏方の武将で源頼政という人がいます。戦いに敗れ、宇治川で切腹するのですが、その前に歌を詠むんです。~埋木の花咲くこともなかりしに身のなるはてぞかなしかりける~(辞世の歌を詠み、西を向いて念仏を唱え、刀を腹に突き立てる。壮絶な死である。)これが武士の美しい死に際と、当時の人々には映った。歌を詠み、西方往生という信仰の心を持つ。それがこの世から退いていく時の心の作法、死ぬ作法です、覚悟の死が感動を与えるのです。>

 <その心がやがて、かの有名な良寛の歌へとつながっていく。~裏を見せ表を見せて散るもみぢ~散るという言葉が死と重なっている。彼の遺言のような歌にはこうあります。~形見とて何残すらむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉~>

 <頼政にも良寛にも、我々が考えるセンチメンタルな意識などなかったと思う。あったのは死の作法、覚悟だったんじゃないかな。権力に恋々としてもいい。しがみつきたいと思う心があってもいい。でも、ギリギリのところであきらめ退いていかなければならない。その悔しさを、最後の場面でどこかに昇華してほしいんだよね。そうすれば、なるほどと人々にわかってもらえる。それが一言の言葉ですよ。>

 <安倍さん(晋三元首相)や福田さん(康夫前首相)に歌を作ってくれとは言いませんよ。言いませんが、辞めるときにああそうかと思わせるような一言がないよね。いかに今の日本の政治家に言葉がないか。我々の先祖は武人であろうと、歌人であろうと、きちんとした言葉を残して表舞台から去っている。言葉の貧しい民族じゃないんですよ。>

 <(いつから言葉が貧しくなったのか?)06年のトリノ冬季五輪の期間中、過去の日本選手の活躍を振り返る回想番組で1932年のロサンゼルス五輪で銀、36年のベルリンで金メダルの故前畑秀子選手が当時を振り返る映像が流れた。「母の言葉」を胸に、スタート台に「死ぬ覚悟」で立ち、号砲の直前、心の中で「神様」と叫んだ、と言っていた。前畑選手だけじゃない。どの選手も同じキーワードを支えにしていたのではないか。送り出す国民も、同じ感情を持っていたのではないか。今はそれが「自分らしく」「楽しく」「笑顔で」の三つに変わった。約70年の間に価値観の変化があったんだ。かつての日本人が使った言葉を、今は使わなくなった。言葉が薄くなったのか、生き方が薄いのか、と初めは考えて落ち込みました。だが、それでも金メダルを取っているじゃないか、と思い直した。彼らも心の奥底では、母の言葉を胸に刻み、死ぬ覚悟で、神様と叫んでいるかもしれない。大人の社会が聞こうとしていないのではないか。特に上っ面の言葉しか聞こうとしないマスコミの責任は重大です。プレッシャーがかからないようにという思いやりかもしれないけれど、それは甘やかしです。我々自身の価値観を封印してしまっている。それでだんだんと言葉を失い、政治家までが、退き際に本気で思いを述べることができなくなってしまった。

 <(やはり退き際には言葉が必要なのですか?)ただ美しい言葉を並べればいいというものではない。沈黙という姿勢もある。退き際というのは、新しく登場する人がいれば、去る人もいなければならない。それを制度としてどう調整するかということなのです。そこに美学をあてはめるのは、そうありたいという庶民の願望かもしれないね。>

 と言って、山折氏は最後に細川ガラシャの辞世の歌を紹介したそうだ。~ちりぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ~。

 いい記事だと思う。毎日新聞夕刊の特集ワイドは時々このようないい記事が載るので目が離せない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月27日 (木)

秋山駿が語る「ドストエフスキーと現代」~日経新聞11月27日夕刊

 日経新聞11月27日夕刊[シニア記者がつくるこころのページ]に文芸評論家、秋山駿氏のインタビューが掲載されていた。<ドストエフスキーと現代/生きる意味求め読む/理由なき殺人の時代>のタイトルだ。

 秋山氏は1930年生まれ。少年時代からドストエフスキーを読み込んできた、という。16歳のとき、敗戦直後の混乱の中、どう生きるか分からず新宿の街を歩いていたら、青梅街道沿いの古書店で内田魯庵訳の「罪と罰」を見つけ、立ち読みしているうちにラスコーリニコフが自分を呼んでいるような高揚感を覚え、ほかの古書店で三笠書房の米川正夫訳「罪と罰」上巻を買って徹夜で読み、興奮して頭に血が上った感覚になった、という。下巻もすぐに探して読み、「地価生活者の手記」「白痴」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」と立て続けに読んだ、と言っている。

 つまり、16歳にしてドストエフスキーに出会い、それだけ共鳴できた、というのだ。素晴らしい理解力だと思う。

 <生きていることにどういう意味があるか、自問自答する時代には必ずドストエフスキーが読まれるんです。最初のブームは内田魯庵訳「罪と罰」が出た明治20年代。北村透谷の「罪と罰」の評論が出るなど、ドストエフスキーのリアリズム文学に新しい文学を発見した。二度目のブームは敗戦直後。埴谷雄高「死霊」、椎名麟三「深夜の酒宴」、大岡昇平「俘虜記」、三島由紀夫「仮面の告白」などのドストエフスキーに影響された戦後文学が一斉に登場した。いまのブームは三度目。生きることの意味を探り始めた現代人がドストエフスキーを読んでいるのです。>

 「罪と罰」の中でドストエフスキーはラスコーリニコフが自問自答しながら歩く際の心の動きを詳しく描いているが、そういう描き方は日本文学にはなかった、という。ラスコーリニコフの日のあたらない部屋で金貸しの老女殺しの考えを生み出すが、

 <児童連続殺傷事件を起こした神戸の14歳の少年も「人間の壊れやすさを確かめるために聖なる実験をしました」とノートに記し、内部から凶行を宣言していた。「罪と罰」は「理由なき殺人」を描いたものだと思う。いま読まれているのも、秋葉原殺傷事件などの青年の「理由なき殺人」が頻発していることがあるだろう。>

 秋山氏は「罪と罰」で最も魅力的なのは娼婦にして聖女のソーニャがラスコーリニコフを再生へと導いていく過程、神の問題を描いた場面だ、という。

 <日本人は「神は死んだ」というニーチェの言葉をすぐに持ち出しますが、これは全く軽薄だと思いますね。今日の日本人が向き合わなくてはいけないのはむしろ、ラスコーリニコフのように神を探すことにあるでしょう。もっとも日本人にとってこれは難しい問題があります。神は、キリスト教の伝統のない日本人にjはなかなかなじめない。小林秀雄と正宗白鳥が、私とカトリック教徒の小川国夫が神をめぐって論争したのもそこから発しています。しかし、神は死んだと安易に断定することはできない。>

  秋山氏は日本文学になくドストエフスキーの文学にあるのが悪魔、悪の問題だという。「罪と罰」のスヴィドリガイロフ、「白痴」のラゴージン、「悪霊」のスタヴローギン、「カラマーゾフの兄弟」のイワンなどドストエフスキー作品には悪霊に取り付かれた人間、悪の化身たちが登場する。日本文学ではこうした真の悪人が登場しない。

 <ただ法律に背いたり、犯罪を犯すのではなく、悪魔が体内奥深くに眠っている人間。それが描かれているからこそ「カラマーゾフの兄弟」の父親殺しも、「悪霊」のリンチ殺人事件も生きてくる。さらに見逃せないのが男たちを破滅させる「カラマーゾフの兄弟」のグルーシェニカのような恐るべき美女たち。ボードレールの詩集「悪の華」とも重なる悪と美です。これこそ文学の魅力といえる。>

 ドストエフスキーの文学には酔っ払いなどこっけいな登場人物もいる、という。そして、

 <「カラマーゾフの兄弟」には諄々と道を説くゾシマ長老のような聖者が登場しますね。いまテロや殺人などが横行していますが、我々が求めているのは、ゾシマ長老のような人物だと思います。>

 でインタビューが終わっていた。78歳になっても矍鑠としている。秋山氏の評論は高校生時代に何か読んだのだけれども忘れた。ドストエフスキーを描いた「内部の人間」「神経と夢想~私の『罪と罰』」くらいは読んでみようかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月21日 (金)

クロード・ルブラン氏とマイケル・オースリン氏が説く「アニメの限界」~8月4日朝日新聞、11月20日読売新聞や1年前の新聞など

 まず1年半前の記事から見る。朝日新聞2007年7月14日朝刊[世界発2007]のワッペンの付いたパリ沢村亙記者のまとめ記事<オタク文化 外交に一役?/和製アニメ・漫画 欧州席巻/政府、観光客誘致も狙う/中・韓、激しく追い上げ>である。

 <日本の漫画やアニメへの関心が欧州でうなぎ登りだ。6~8日にパリ郊外の国際展示場で開かれた欧州最大の漫画・アニメ紹介イベント「ジャパンエクスポ」には、過去最高の8万3000人が訪れた。和製ポップカルチャーを「ソフトパワー」の目玉にしたい日本政府もブームを後押しする。同様に「文化」を外交の柱に据える中国や韓国との競争も始まっている。>

 という前文。一覧表で次のように歴史を略述していた。

▽勃興期(70年代後半)=日本のテレビ番組がフランスの主要テレビに登場。「ゴルドラック」(邦題グレンダイザー)、「キャンディ・キャンディ」に人気沸騰。手塚治虫作品も紹介される。

▽冬の時代(80年代後半)=日本アニメ・バッシングが始まる。89年にロワイヤル氏(07年フランス大統領選候補)が和製アニメを「暴力的、女性差別的」と批判。地上波テレビから和製アニメがほとんど姿を消す。

▽コミック期(90年代前半)=アニメにかわってコミックに人気。ファン年齢層も20~30代にまで広がる。「AKIRA」「ドラゴンボール」は世界的ヒット。和製コミック専門店がパリに登場。

▽芸術志向と大衆路線(90年代後半以降)

97年=北野監督の「HANA-BI」がベネチア国際映画祭でグランプリ。フランスでもヒット。パリ日本文化会館が開館。

2000年=パリで第1回ジャパンエクスポ開催。3200人が集まった。「ポケモン」が世界的ブームに。

2002年=宮崎駿監督「千と千尋の神隠し」がベルリン国際映画祭で金熊賞受賞。

▽多様化の時代(2000年以降)=日本料理やJポップ、ファッション、テレビゲームなど関心が広がる。

2003年~=日本の漫画「ヒカルの碁」の影響で若者の間で囲碁ブーム。

2006年=「真の日本料理レストラン」認証制度がフランスで始まる。ジャパンエクスポに5万6000人集まる。

2007年=国際マンガフェスティバル(仏アングレーム)で水木しげる氏が最優秀賞を授賞。

 本文はこの一覧表の説明のようなものだ。アニメ主題歌から広がったJポップ(和製ポップ音楽)やロリータファッションなども広がっている、と。ドイツやイタリアでも漫画・アニメ発の日本文化への関心が広がっている、と書いていた。また、「米アニメが優勢だった英国でも5月のロンドンエクスポ」に2万人が集まった」と。

 この記事で、

 <日本に詳しいジャーナリストのクロード・ルブラン氏は「漫画やアニメは平和で文化が豊かな国という日本のプラスイメージに確実に貢献している。それには漫画文化の健全な発展が不可欠なだけに、日本の漫画誌の最近の不調が心配だ。日本政府の支援は遅すぎる印象もある」と指摘する。>

 と早くもルブラン氏に注目している。

 バブル崩壊後、日本経済への関心は急速に冷えたが、日本語を学ぶフランス人は約1万6000人で微増傾向で、それを支えるのが漫画・アニメだそうだ。だが、中国語が猛烈な勢いで追いつき、追い越しつつある、と。中学・高校では日本語の2倍以上の1万人が履修。中国語を教える小学校も15校にのぼる、と。フランス政府は日本語の代わりに中国語の教員資格を増やし、日本語クラスを縮小して中国語クラスを増やす学校もあり、日本語教育関係者は危機感を募らせている、という。

 それから約1年後の読売新聞2008年8月19日朝刊解説面では[「ジャパン・クール」活用]のタイトルで永原伸編集委員が<海外で人気 漫画・アニメ・若者ファッション/ビジネス化熱く議論を>の見出しで、

 <①日本の若者ファッションや漫画、アニメが「クール」だと海外で高い人気を得ている②海外での人気がビジネスと結びついておらず、産業力強化への取り組みが必要だ。>

 と説いていた。

 産業構造審議会の基本問題検討小委員会が最近まとめた報告書で、ジャパン・クールに多くの紙数を割いている、と。

 業界用語が面白い。赤文字系というのが「CanCam」「JJ」「ViVi」「Ray」などの女性向けファッション雑誌が扱うエレガントなカジュアル・ファッションで、これらの雑誌のタイトル文字が赤で印刷されていることが語源だ、という。ストリート系とは「自分らしさ」志向、ガーリー系は「カワイイ・カジュアル」志向のファッションを指すそうだ。これらの雑誌はすぐに中国語に翻訳され、中国内で販売されている。特に赤文字系の「Ray」、OL系の「ef」、赤文字系の「ViVi」、ガーリー系の「mina」の各中国版が人気で、この4誌だけで女性向けファッション誌全体の販売部数の55%を占めている、という。

 ところが、これほどの日本発ファッションの人気ぶりなのに、それが日本のアパレル業界の海外進出に結びついていない。同業界の輸出総額は韓国と比べて5分の1、中国と比べると実に150分の1にとどまる、と書いている。

 人気とビジネスとのギャップを埋める方策として報告書はアジアの消費者がどんなライフスタイルを好むかを分析した「アジア消費マップ」を作成するよう提唱しているそうだ。

 経済産業省の西山圭太・産業構造課長は「赤文字系、ガーリー系といったカテゴリーの一つひとつが若者たちの嗜好、ライフスタイルになっていることに着目したい。例えば、携帯電話。赤文字系ファッションを好む人たちは、そのファッションにあった携帯を持ちたがり、間違ってもストリート系にある携帯は買おうとしない。こうした消費者の嗜好をきめ細かく把握してマップを作成し、商品開発や営業に役立ててもらう。赤文字系の洋服、アクセサリー、携帯をセットで売り込むといった業種横断的な取り組みも可能になる」と説明しているそうだ。

 ジャパン・クールが注目されてかれこれ10年になるが、「日本のアニメで一番儲けているのはハリウッド」と揶揄されるように、自国の産業力に結びついてきたとは言いがたい、という。

 永原氏は人口減、高齢化進展で日本の労働者人口は徐々に減少、近い将来、経済成長著しい中国に世界第2の経済大国の地位を譲ることになるだろうが、ジャパン・クールは日本の産業力ひいては国力の維持・強化の有力な武器になりうるので、その活用法を政府任せにせず、民間を含めた「オールジャパン」で検討すべき課題だ、と書いていた。

 ところが、2008年8月4日朝日新聞朝刊[地球観察]でクロード・ルブラン氏は7月3日~6日の「ジャパンエキスポ」について書いている。

 <フランスでは今や日本のマンガは市場全体の約40%を占める。英BBCなどの08年の調査では日本が世界に良い影響を与えていると思う人は56%で、ドイツと並んでトップだった。>

 と書き、

 <この状況を見れば、日本はそこから実利を引き出し、自国の利益を守ったり、世界に言い分を聞かせたりすることができるのではないか、と思うかもしれない。02年2月、当時の小泉首相は日本の文化伝統を全世界に紹介することを打ち出し、日本が新しい外交の時代に入ったことを示そうとした。>

 <自衛隊のイラク派遣は同盟国である米国との協調をはっきりと示したが、自衛隊が使う給水車には人気アニメ「キャプテン翼」のステッカーが貼ってあった。「翼」は現地でも大人気で、自衛隊員が標的にならないよう装甲車の役目を果たしたのだ。今や日本政府はこうした「武器」をさらに効果的なものにする努力を惜しまない。>

 として、ジャパンエキスポへの力の入れよう、「本物」和食レストランの動きなどに触れる。

 <こうした対応は長期の投資のようなものだ。欧州でもアジアでも、若い世代はマンガやコンピューターゲームのキャラクターとともに成長し、いつかは国の運命をその手に握る。彼らはサルコジ大統領よりもずっと日本を考慮し、好意を持つだろう。相撲についてのサルコジ氏の発言を見れば、彼が日本をどう思っているかわかる。「ポマードで光ったまげをつけた肥満男の戦いなんかに、どうしたら魅了されるんだ? まったく知性のないスポーツだ」。04年、彼はそう言い放った。>

 <この発言や、欧米の首脳が日本に対して時折見せる尊大な行動は、日本の「イメージ作戦」の限界をよく表わしている。米国が北朝鮮のテロ支援国家指定を解除する手続きに入ったのを見れば、日本の国益がいかに無視されているかがわかる。

 <リアルな政治は、魔法の力を持つマンガのキャラクターよりずっと強大だ。それについてはジャパンエキスポに来た若者たちも、文句のつけようがない。>

 ルブラン氏はフランスのジャーナリストで1964年生まれ、フランス国立東洋言語文化学院で日本語を学ぶ。仏クーリエ・アンテルナシオナル誌副編集長を務める知日家、と紹介してあった。

◆アメリカ人は日本を子供向け異国情緒文化の発信地と見始めている

 このルブラン氏の発言と同趣旨ではないが、日本人に「あまりアニメに期待しないほうがいいよ」と呼びかけたのが読売新聞2008年11月20日[論点]のマイケル・オースリン氏だ。アメリカン・エンタープライズ公共政策研究所研究員。元エール大学准教授、41歳。物凄く若い学者さんだ。知日派なのだろう。タイトルは<ポップカルチャー偏重/米の対日観 軽薄化の恐れ>である。

 過去200年以上にわたって日米は双方の文化に魅せられ、影響を与え合ってきた、として米国人が版画、生け花、仏教、儒教にまで関心を広めたこと、黒沢明の映画がジョージ・ルーカスに影響を与えたこと、庭園の美が全米に広がった。日本文化への関心は日米関係において重要な役割を果たしてきた。つまり、米国は日本を重大な国と受け止めてきた、というのが書き出し。

 しかし、今日の日米関係は劇的に変わった、という。過去10年ほど、米国人は日本文化を真剣に見つめるのをやめてしまった。代わりに、日本のアニメやポップカルチャーが人気を博し、日本を見つめる際に通すレンズとなった。米国の若者は黒澤映画の変わりにアニメを見るようになり、大学の中には源氏物語や安部公房の代わりにマンガを読ませるところも出てきた。言い過ぎかも知れないが、多くの米国人は日本を異国情緒に満ちた子供向け文化の発信地とみなすようになった、と書く。

 <何が起きたのだろうか。1990年代のバブル崩壊後、米国人は少しずつ、しかし確実に日本への興味を失った。いま、経済の超大国になると目されているのは中国だ。日本の政治的リーダーシップへの信頼は失われ、アジアで主導的な役割を演じると考える人はほとんどいない。米国の大学教授たちの中には、日本の国内政治やマクロ経済政策といった難しい課題ではなく、野球やアニメについて教える者も増えてきた。>

 この動きは日米の安全保障、経済関係には影響を与えないだろうが、米国での日本に関する焦点がポップカルチャーになったということは、米国人が日本の社会、経済、政治といったまじめな事項について話さなくなったことを意味する、という。

 <米国人の関心がポケモンに集まれば集まるほど、日本が今も東アジアで最古で最大、そして最も安定した民主国である事実は忘れられることになりそうだ。日本は世界第2位の経済国で巨額の対外援助を提供し、世界中で人道支援を実施しているというのに。>

 <さらに憂慮すべきは、米国で日本の言語、歴史、社会を理解する専門家の数がどんどん減っていることだ。大学でアニメの講座をとった学生たちが、日本を真剣な研究対象とみなす可能性は低い。日本といえばイチロー選手のことしか知らない米国人は、日本が日米同盟において偉大な役割を果たしている世界的大国と考えることはあるまい。米国の政策や米世論に影響を及ぼすことのできる日本専門家が米国にいなくなれば、将来、重大な問題が起きた時、米国が日本を緊密なパートナーとして頼りにする可能性は少なくなるだろう。>

 <私は日本のポップカルチャーに反対するものではない。ただ、深みのある長期的日米関係を、ポップカルチャーのみを基礎として築くことはできない。深い相互理解と相互への敬意がなくなれば、日米両国はアジアを発展させ、地域安保を維持し、自由主義を広めるパートナーの関係を維持することはできないだろう。>

 知日派の中にアメリカでもフランスでも、こうした見方が広がっていることは日本にとって危機ではないか。政治の論点が世界と同期していない、とは感じていたが、ここまで無視されるようになっていたとは。何もできずに竦んでいる政府や国会に任せず、国民が真剣に考える時なのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 5日 (水)

<フォークソングの時代>っていうと何か感じが違うんだけど…~毎日新聞11月5日朝刊文化面[40年前 <政治の季節>を再考する]+日経新聞[春秋]

 [40年前<政治の季節>を再考する]は毎日新聞朝刊文化面の月1回の連載企画。毎回、地味だが、内容は面白い。今回は<フォークソングの時代>がテーマで、音楽評論家の中村とうよう氏の寄稿と、フォークシンガー、高石ともや氏のインタビューと<フォークソング関連年表>からなり、1ページを切り抜いておけば、「あの時代が懐かしく甦る」(?)という趣向である。

 記事の前文は、

 <街頭に響いた若者の声は、デモ隊のシュプレヒコールだけではなかった。1960年代後半、反戦平和や自由を訴える歌詞を自作の曲に乗せギター一本で歌うフォークソングは、軽音楽の「革命」だった。多くの個性的な歌手が登場する一方、東京・新宿のフォーク集会には機動隊も導入された。雑誌『ニューミュージック・マガジン』を創刊(1969年4月)し、フォークのレコード化にも取り組んだ音楽評論家、中村とうようさんの寄稿と、「受験生ブルース」などで初期のブームを先導した歌手、高石ともやさんのインタビューで振り返る。>

 である。中村氏って名前だけは知っていたが、ポピュラー音楽評論家だったんだなぁ。知らなかった。

 中村氏寄稿の見出しは<「学生」と「関西」が二大勢力だった/新宿西口の集会で社会現象に>である。

 ダイジェストしながら、書き写そう。

◆団塊の世代がどこまで昔を懐かしむことができる文章か、は人によるかも…

 <ポピュラー音楽の世界で、フォークソングが初めて大きな注目を浴びたのは、キングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」のヒットだ。1958年、アメリカのヒットチャートでトップになった。今からちょうど50年前だ。フォークソングつまり民謡は、もともとは民衆のあいだで自然に歌い継がれたものだったが、「トム・ドゥーリー」は古くから伝わった民謡がプロの手で化粧直し、商品化されてヒットしたもの。民謡とポピュラーソングの境界線にまたがる存在だった。この大ヒットで民謡風ポピュラーソングが次々生み出され、60年代にかけ大きな潮流に高まった。アメリカの流れが日本に波及し、日本独自のフォークソング・ブーム現象を引き起こした。>

 なるほど、そういうことだったのか。キングストン・トリオは日本ではそんなには流行しなかった、と思うのだが、好きな人たちには堪えられなかったのだろうなぁ。

 <1963年、ジョーン・バエズの「ドンナ・ドンナ」のLPが日本発売されたころにはアメリカでのフォーク・ブームの噂は一部の若者の関心を引き始め、ギターを弾きながらフォークソングを歌う学生グループの活動が急速に盛り上った。そんなアマチュアたちの間から出たマイク真木が「バラが咲いた」のヒットを放ったのが1966年4月。「黄色いさくらんぼ」などで知られる人気作曲家、浜口庫之助の作品だった。>

 1966年12月には高石友也デビュー。フォークルといえば、「イムジン河」が発売中止になったのが68年2月。このころはまだ朝鮮総連が飛ぶ鳥を落とす勢いで、無理難題を吹っかけては社会を混乱させていた時期だった。高石の「受験生ブルース」が同じ1968年2月。
 そうかぁ、「バラが咲いた」は浜口氏の作曲だったか。忘れていた。

 <間もなく東京の学生フォークと一味違う動きが、関西で起きた。高石友也や岡林信康たちが現実社会の問題をリアルに取り上げる歌を作り、その土壌から1967年12月に生まれた大ヒットが加藤和彦らフォーク・クルセダーズ(65年8月結成)の「帰ってきたヨッパライ」。1969年にはURC(アングラ・レコード・クラブの頭文字)というフォークソング商品化目的の日本初のインディーズ・レーベルが誕生した。>

 こういう寄稿でも岡林信康氏はなかなか名前を出しづらいのかなぁ。

 <アメリカでは既に1965年、フォークのトップスターとして人気最高だったボブ・ディランがエレキギターを使用したロックっぽい曲を試みていた。同様な歌で1968年に姿を現わしたのが遠藤賢司で、フォークとロックの境界を無意味化した。遠藤のレコードが出た1969年は日本のフォークソングの盛り上がりの頂点であり、分水嶺でもあった。>

◆ぼくにとっての60年代後半はビートルズとPPMとバエズとGSだった

 フォークとロックの融合かぁ、ピーター・ポール&マリーとか、ジョーン・バエズはこうした歴史には登場しないんだね。

 <1969年春から新宿西口の地下広場には、土曜日ごとにアマチュアのフォークシンガーが集まって自由に歌う、当時フォーク・ゲリラと呼ばれた集会が展開され、それを聞きに集まる人たちは最大で5000人とも1万人とも言われたが、5月に警視庁が「そこは広場ではなく道路だ」と道路交通法で集会を禁止。70年安保を境に「シラケ」という語が広くささやかれ、フォークソングの商品化が進み、72年1月に吉田拓郎(この時は平仮名のよしだたくろう、だった)の「結婚しようよ」がヒットしたころには、フォークソングはニューミュージックへ変質をとげた。>

 そういう流れとして整理できるのか。

 何か、団塊世代の青春史みたいだが、こんな薄っぺらいものだったかなぁ? もう少し思想があったような感じもするし、このフォークソングの大流行の一方ではザ・スパイダースやザ・タイガーズとかのグループサウンズ全盛期があったはずだ。フォークとグループサウンズがいつの間にか融合して、ニュー・ミュージックになった、という理解をしていたんだけど、違うのか?

 年表から補足すると、1972年2月には井上陽水「傘がない」が出ている。

 年表はなぎら健壱「日本フォーク私的大全」(ちくま文庫)などから作成した、と書いてあった。

◆何か時代が戻っちゃった感じがしたんだけど……高石氏インタビュー

 高石ともや氏のインタビューの見出しは<個人で世界と切り結ぶ 若者の「もがき方」認める空気があった 深夜放送のつながり、今も>である。高石氏は1941年生まれで、マラソンランナーとしても知られるそうだ。聞き手は大井浩一記者。

 高石氏は、60年代後半は個人で歌を作って世界と切り結ぶことができたまれな時代。その後はみんな売れなきゃいけないからレコード会社という企業、組織に走った。呼び名もニューミュージックに変わり、ヒットソングを歌うようになった。自分らしく歌えたら、それだけでいいという価値観は1969年で終わり。しかし、今から見ると70年以降しか目に入らない、と語る。

 また、京大のバリケードで歌ったり、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)に参加し新宿西口の反戦フォーク集会にも出た。あの時期、若者が若いなりのもがき方をするのを認める空気がまだ日本社会にあった。ギターで世界が変えられると思えた、と昔を懐かしんでいた。

 何か、今の新聞紙面に高石氏が出てきて、こういう話をされると、時代が戻っちゃったのかな、と変な感じもするんだけど…。彼の話に未来に向けてのどのような意味があるのだろう? 「この40年は夢だった」、なんて、冗談でも言わないでほしい、と思うのだが。

 やっぱり、貧乏な時代という連想から「山谷ブルース」→フォークソングということなのかなぁ? 分からないけど。読み終えても<フォークソングの時代>というより、フォークソングとGSの時代なのか、フォークとロックとGSの時代なのか、そんな感じがする。フォークソングだけを60年代後半に結びつける必然性は薄い、と思うのだが。

 日経新聞11月5日朝刊[春秋]に捕まった小室哲哉容疑者(49)が13年前に1世代上の歌手、吉田拓郎さん(62)に「あ、売れる方程式ですか? ”ディスコ、プラス、カラオケ割る二”なんですよ」と話し、吉田さんが「割っちゃうのがすごいよね、二で」と答えていたエピソード(「小室哲哉音楽対論2」)を紹介していた。

 春秋子は、

 <なるほど、この方程式を武器に売りまくったのか。振り返って売れ方のすさまじさに改めて驚いた。同時に二〇〇〇年代に入るとさっぱりだったのが意外だった。沖縄サミットのイメージソングを作ったのが二〇〇〇年。政治は周回遅れで流行に便乗するのが常だ。思えばこのころが人気の潮目だったのだろう。>

 と書いていた。吉田拓郎さんはこの時、皮肉交じりで「あなたは今が『食い時』だけど十年たったらまた会おう」と言っていたそうだ。吉田さんの慧眼なのか、単なる皮肉なのか、ポピュラー音楽の流行の儚さを見せつけた小室哲哉容疑者逮捕だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月17日 (金)

「馬食い家内が象になった」でいいじゃないか~パソコン誤変換を楽しもう+10月17日産経抄の沢村貞子さんの日常生活

 傑作だった。10月17日読売新聞朝刊[編集手帳]である。パソコンの誤変換で「うまくいかない画像サイズになった」が「馬食い家内が象になった」となってしまったことが、日本漢字能力検定協会が募った漢字変換ミスの年間賞に選ばれた、という内容である。

 <教えれば何でも覚えるが、文脈の流れを理解しない。「記憶力抜群のバカ」と呼んだ人がいるが、文章を作成する機械にはそういう面がある。>とあった。

 その通りなのだが、この種の論調にちょっとした違和感を覚えるのは、もともとワードプロセッサー機能なんて人間の自堕落な便利さ追求の果ての商品で、完全ではありえない、という真理がすっぽり抜け落ちているように思えるからだ。

 文章はボールペンで紙に書くのが一番だ、と思う。脳と手と指とが連動し、脳を適度に刺激し、記憶もリフレッシュされる。パソコンのワープロ機能が年々便利になり、変換も文節変換ができ、記憶能力まで持つようになったが、考えながら変換しているのではなく、使っている人間が判断するチャンスをまだ残している。

 これが、使う人間の特性を覚えて、単語の優先順位をパソコンが決めていく能力をフルに発揮し始めたら、逆に怖くないか。アマゾンのアフィリエイトでお薦めの本がパソコン画面に出てくるのも良し悪しだ、と思うのだ。

 機能的生活とは、別の選択肢を自然自然に排除する日常生活に甘んじることでもある。
 「今の思考の連続で思考を続けていいのですよ。それには、この本が参考になるでしょう」と薦められなくても、自分で本屋さんの店頭や新聞の読書欄、新聞や雑誌、出版社のPR誌で探す楽しみのほうを、私は大事にしたい。

 誤変換を「パソコンって変な奴だなぁ」と面白がる分にはいいのだが、あまり目くじら立てて怒ることはないと思うのだ。編集手帳子も別に目くじら立てているわけではないだろうが。

 日本人は昔から言葉の深みを川柳や和歌、狂歌などを中心に楽しんできた。

 誤変換をきっかけに、言葉の面白みに興味を持つ若者が増えてくれるといいと思う。

 新聞記者は入社早々、先輩から「紋切り型表現をつかうな」と教わる。

 朝日新聞8月18日[天使人語]に

 <駆け出し記者だった頃に厳しいデスクがいて、紋切り型の表現をすると怒られた。びっくりする様を「目を白黒」などもってのほか。「衝撃が走った」と書いた新米の背中に「衝撃」と大書した紙を張り、社内を走らせたという伝説も残した>

 とあった。

 紋切り型表現は最近ではワープロソフトのワードを使い「拝啓」と書き始めると、定例文として「敬具」までの紋切り型表現が次々出てくるサービスもある。

 自分で考えなくなる時代である。

 誤変換が自分で考える機会になれば、と思う。

 産経新聞10月17日[産経抄]も普通の人の普通の生活の大切さを説いていた。

 コラムをMSN産経コムからコピペしておく。

 <テレビドラマの祖母役で、かつお節を削りながら孫娘とあれこれ話すシーンがあった、と、女優の沢村貞夫がエッセー『わたしの献立日記』に書いている。収録が終わると、若い女優がため息をついて聞いてきた。「沢村さん、おうちでもこんなことをしているんですか?」。「そうね、よくやってるわ」「アラ、スーパーへ行けば、チャンと細かくしたものを袋に入れて売ってますよ、知らなかったんですか?」。沢村は、「知ってはいるけれど、使いたくない、とは言えなかった」という。確かにスーパーを見渡せば、便利な食材にことかかない。>

 そう、沢村さんは若い女優さんに、若い人の常識=テレビCMをアプリオリに信用する生活への疑いのない生活信条が間違っている、とは言えなかった。言ってもいいが、面倒だったのだろう。後で「あの婆さん、変わっているわよ」と陰口を叩かれるのがせいぜいだからだ。

 <冷凍野菜もそのひとつだ。たとえばインゲンだったら、筋を取る手間がいらず、そのまま切って、ゆでたり、炒めたりできる。必要なだけ袋から出せばいいから、少量使うときも重宝する。東京都八王子市の主婦が食べたその冷凍インゲンから、基準の3万4500倍という高い濃度の殺虫剤ジクロルボスが検出された。中国で製造されてから、日本の売り場に並ぶまで、何度も行われた検査をかいくぐってきた。ギョーザ中毒事件もまだ解明されていない。つまり今のところ、猛毒の混入を防ぐ手立てがないということか。>

 と、話は一転、インゲンになったので、これでまた世相批判で終わりか、と読むのをやめようか、と思ったら、違った。

 <女優業のかたわら、夫のために丹精込めた食事を作り続けた沢村は、冷凍庫を愛用した。といっても、中身はすべて手作りだった。ゴボウ、タケノコ、干しシイタケを細かくきざんで炒め、みりんやしょうゆでゆっくり煮込んだ自家製「すしの素」や、出盛りのグリーンピースをさっとゆがいて小分けしたものなど。とてもそこまではできない、という向きは、せめて市販の冷凍食品の袋を開いたら、においをかいでみる。こんなひと手間をかけて身を守るしかない。>

 「とてもそこまではできない」と思う前に、「やってやろうじゃないか」と思わないかなぁ。そう思う人が増えれば、都市近郊農家の野菜も売れるし、日本の農業も変わってくると思うのだが…。

 ワープロソフト頼り過ぎ、冷凍食品頼り過ぎ、すべて同じ根っ子のような気がする。便利さに慣れ過ぎて感覚が麻痺しているのだ。もう少し「不便さ」を楽しもうよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月27日 (土)

街の監視カメラ、プラス評価が多いようだ~東京新聞9月27日夕刊から

 東京新聞9月27日朝刊[生活]面[私もひと言]欄で<街の監視カメラ>を取り上げていた。見出しは<気分的に安心/教育で抜本対策を>。前文は<防犯効果に期待する一方、プライバシーが気になる人も多いよう。>とまとめていた。

 50代の会社員男性は居住するマンションでいたずら防止のため2年前に監視カメラを設置。「今の世の中は何かにつけて危険。防犯かプライバシーか迫られたら防犯を選ぶ」。

 70代の無職男性はマンションのガラスドアが壊されて自転車が盗まれたため、監視カメラの設置を検討中。「ほかの手段が考えられず、防犯のためには必要だが、嫌な世の中になった」。

 30歳の主婦は「監視カメラがあれば気分的には安心。だが、いざ大きな事件が発生した時にしか役に立たず、犯罪の防止にはつながっていない。もっと活用の仕方を工夫してほしい」。

 60代の会社員男性は「監視カメラはプライバシーの侵害。見回りの人数を増やし、教育などで根底から解決しないと犯罪は減らないのでは」。

 70代の自営業男性は「地域防犯の基本は近所づきあいの緊密化だが、世の中が昔と変わっているので新しい方法もやむを得ない。監視カメラでプライバシーを侵害されたと感じたことは一度もないが、映像が悪用されないよう管理は厳重にすべきだ」。

 40代の会社員男性は「風景写真を表示できるインターネットのサービスで自宅を検索したら、車のナンバーまで読めたので削除してもらった。現場に行けば確認できる情報とはいえ、簡単に机上で見られることに怖さを感じる」。

 最後の声はグーグルのストリートビューに関する意見だったが、基本的に街頭の監視カメラに関しては肯定的な意見が多いようだ。僕らの目に見えるのは丸いガラスだけで、その中にカメラがあり、そのカメラが中央監視室につながっていたり、そうではなく、回し続けたカメラを後で時間を遡って見ることができるわけだが、その「裏」の部分は一般市民は見ることができないから、プライバシーが侵害されている、という実感がわかないのと、犯罪防止効果があることでプラス評価が多くなるのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

<鳥瞰図>を<とりあえず>と読む若い人+新聞OBによる政治家失言報道批判~各紙コラムと業界紙から

 読売新聞9月27日[編集手帳]が面白かった。

 歌人の鎌田弘子さんに、漢字の読み違えを詠んだ

 <鳥瞰図(ちょうかんず)を とりあえずと よむというを 一度(ひとたび)笑い たちまちさみし>

 という一首がある、と紹介したものだ。

 「あえて…する」の「あえて」は「敢て」で「瞰」に似ている。

 大所高所から見る、という意味の「鳥瞰図」と、目先の「とりあえず」の対比が面白い、とあった。

 若い「おバカ」タレントが並んで、クイズに答えるテレビ番組が結構人気だが、そんな番組でも取り上げているのだろうか。二十歳を超したくらいの女の子が「とりあえずぅ?」と語尾を上げながら答えている姿を想像すると、たしかに笑える。

 だが、鎌田さんは、笑ったあと、「たちまちさみし」なのである。

 日本語を大切にしたい、と真剣に思い続け、日常生活の中からきれいな日本語を紡ぎ出している歌人にしてみれば、あまりにも若い人(だけでなく、団塊の世代だってえばれないのだが)の国語能力の低下に寒々としたものを感じたのだろう。

 新聞コラムは、このあと一転、小泉政権論になるのだが、それはさて置き、このような読み間違い、結構あるのだろうなあ。

 同じ日の朝日新聞[天声人語]は舌禍で辞任した中山成彬国土交通相を取り上げた。

 中国の宋代の大詩人で政治家でもあった蘇軾(そしょく)は直言癖が災いしてか、たびたび遠方へ流されたりしたが、詩の一節に「自ら笑う、平生、口の為に忙なるを」と記したそうだ。口がもとで数々の面倒を起こしたのが自分でもおかしい、という意味だと中国文学の井波律子さんの著書にあった、と。中山氏の失言だけでなく、引退表明した小泉純一郎氏も「口の為に忙」な人だった、と半分こじつけていた。

 毎日新聞[余録]は中山氏辞任を皮肉るのに中国の格言を三つ出してきた。

 まずは、「禅譲」という言葉は中国の伝説の帝王が子ではなく有徳の者に帝位を譲った故事によるとして、その帝王の一人である舜(しゅん)は禹(う)への禅譲に際して「口は好(こう)を出(いだ)し戎(じゅう)を興(おこ)す」(口は友好をもたらすこともあれば、戦争を引き起こすこともあるといういましめ)と言って、政治に携わる者は言葉に気をつけるように諭した、とある。

 また、人のしゃべる言葉を兵事になぞらえた名言として「口は関なり、舌は兵なり、言を出して当たらざれば反(かえ)って自ら傷(そこ)なう」(説苑)を紹介している。口は関所で、舌はそこに詰める兵隊。口から出た言葉が不適切なら自分が傷つくのだから、慎重に話せ、という意味だそうだ。

 もう一つ紹介していたのが「乱の生ずる所は即ち言語を以って階を為す」(易経)。乱は言葉から始まる、という意味だそうだ。

 鎌田さんの「笑って、たちまち寂しくなる」気持ちに通じるのか通じないのか、分からないが、天声人語子の

 <それにしてもと思う。国会論戦などの肝心なメッセージはさっぱり胸に届かず、失言や放言、漫談まがいばかり記憶に残る。これは政治家の劣化か。それとも政治に娯楽を見いだした我々が、まじめな言葉には打てども響かなくなっているのか>

 という言葉が、なぜか気になった。

 実は、偶然目にした新聞業界の業界紙「新聞之新聞」10月6日号の1面コラム[ひろば]で元毎日新聞社専務の平野裕氏が<失言報道は自家撞着>のタイトルで新聞の政治家失言報道について相当にひどい言葉で批判を加えていたのを思い出したのだ。

 <…僅か五日後の辞任劇は全く後味が悪いものだった。最後に、日教組に悪態をつきながら引きずり下ろされる様に舞台を去って行く姿は見るにたえなかった。>

 <政治家の失言報道は新聞でいちばん嫌な記事である。政治家の軽率さというだけでない。言葉が仕事のジャーナリズムが人の断片的な言葉遣いをとらえて民衆の前にさらすという言論の自由の根幹に触れるものだからである。>

 と持論を展開し、話題は一転、平野氏が現役時代の得意分野だったロシアに移る。シベリアで服役中のかつての「石油王」が起こした仮釈放申請の裁判について、メドベージェフ大統領を気にしながらも、ロシアのメディアが「健闘した」報道ぶりだった、と褒め称えた。そして、

 <それに比べ、日本の新聞は内向き。その最たるものが、今回の中山国交相の失言による辞任劇だった。>

 と返す刀で日本の新聞の批判をしているのだ。

 <日本の現職閣僚の失言はある日突然起こる。ある閣僚がこんな怪しからんことを言ったと、発言した前後の事情説明も無く紙面に現われる。その後は、進退問題、総理の任命責任とあれよあれよという間にワンパターンで進行する。>

 <言葉遣いの曖昧さも全く気にすることなく記者たちは記事化し、編集者は紙面化する。>

 <一度記事化されると、失言は一人歩きして政局の渦中に巻き込まれ、新聞は報道に都合のいい談話を集めてフォローし、失言した政治家は弁明する心の余裕もなく、ごうごうたる雑音を浴び、進退窮まって辞任に追い込まれる。>

 <政治家は公人と言っても基本的人権はあるはずだ。世の中に完全無欠な人間なぞいない。誤った発言をすることだってある。謝って修正すれば許せばよいのに、誤報を訂正で済ます新聞が絶対に容赦しないのもおかしい。>

 <もう少しこの問題を掘り下げると、新聞にタブーがあるという。雑誌編集者の間では、新聞が書かないタブーの問題を意識して編集を心掛けているという話である。特定の問題について当たり障りのない報道を心掛けるというのがタブーであり、皆で渡ればの意識で、妙にそれが共通しているのも特徴と言える。>

 <そのタブーを破る発言をした人物に新聞が一斉に襲いかかり、「物言えば唇寒し」の心理にさせ、自由な言論を封殺するとすれば、ジャーナリズムの自家撞着という他ない。>

 という論理展開で、「ジャーナリズムの自家撞着」にたどり着く。「新聞の書かないタブー」問題の中に日教組批判が入っているのかどうか、はっきり書いていないから分からないが、前後から推測するに、そうであるようだ。平野氏の思考方式だから、もしかすると、部落開放同盟の加入者による不正や在日朝鮮・韓国人の利権問題など、あまり新聞が書かずに週刊誌が特報するような問題も「タブー」として考えているのかもしれない、と推察できる。

 平野氏の論は極端であり、物事の重要性のレベルを無視している、という点で与しないが、新聞のワンパターン化した政治家批判にも苦々しいものを感じる時があるのは事実だ。せめて、天声人語子がこの日書いたような<自分の足元を見つめる視線>、複眼の視点も併せ持ってほしい、と思う。

 10月1日産経新聞朝刊政治面コラム[政論探求]<「失言」騒動の危うさ>で花岡信昭・客員編集委員が平野氏と似たような論を展開していたが、同様に賛成できない論旨だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月24日 (水)

月刊誌相次ぎ休刊…雑誌冬の時代~9月の新聞各紙まとめ

 8月7日に「月刊現代」と「論座」の休刊について書いておいたが、その後も休刊旋風はおさまらず、雑誌不況が列島を覆いつくす勢いで進んでいる。各紙も文化欄を中心に現状、不況の原因、影響などをまとめていた。9月2日読売新聞朝刊から9月24日産経新聞朝刊までに掲載された主な記事の内容をざっとまとめておく。

 データ的に最もしっかりした記事は毎日新聞9月22日朝刊メディア面<部数 最大で8割減/06年に「休刊」が「創刊」上回る>(臺宏士記者)だろう。

◆雑誌発行部数のピークは1997年
 <日本雑誌協会によると、「月刊現代」「論座」「PLAYBOY日本版」のいずれも最近では最も発行部数が多かったのは98年で、それぞれ14万部、8万部、10万部。08年(4~6月の平均)は、8万3000部、1万7367部、5万5000部と大きく減らしている。98年は、各社が同協会に自己申告した部数で、08年は印刷工業会が証明した部数。また、休刊誌ではないが、「中央公論」(1887年12月創刊)も98年は9万部だったが、08年には4万1300部と半減した。出版科学研究所によると、月刊誌や週刊誌の販売高のピークは97年。以降は前年割れが続き、06年から雑誌の休刊点数が創刊点数を上回り始めたという。>

 (読売新聞9月2日朝刊メディア面<月刊「現代」「ROADSHOW]休刊>は、出版科学研究所の佐々木利春主任研究員の「かつては社の意見を発信する看板雑誌を『志』で出し続けてきたが、体力も広告収入も落ち込み、ラインアップを検討する時期に入ってきた」と話している。同研究所の調べで、雑誌の売り上げは1997年の1兆5644億円をピークに、2007年は1兆1827億円と10年連続で減少、07年の休廃刊誌は前年より3割増の218点と過去最悪だった、という。)

 この部分だけ読売新聞で、また毎日新聞の続きに戻る。

◆中小新刊書店の廃業が影響
 <日本雑誌協会の担当者は「雑誌の部数減には、駅前などに立地した中小新刊書店の相次ぐ廃業も影響している」と指摘する。新刊書店で構成する「日本書店商業組合連合会」の加盟社は98年4月に1万277店だったが、今年4月には5869店にまで落ち込んでいる。>

 <一方、雑誌広告費も減少している。電通が毎年調査している「日本の広告費」によると、98年は4258億円だたtが、06年は3887億円にまで縮小した。06年の広告費は、専門誌や地方誌を集計対象に加えれば4777億円と統計上は増加する。しかし、同じ基準で、07年には4585億円と減少に転じており、雑誌広告市場の縮小傾向に歯止めがかかっていない。06年はインターネット広告が4826億円で雑誌広告を追い抜き、07年は6003億円と大きく伸びた。出版科学研究所は「インターネットや携帯電話の普及を背景にライフスタイルが変わり、若い人は雑誌を最初の情報源と見ないようになった。どの雑誌も新規読者の獲得に苦戦し、読者は高齢化している。後から見ると今回の相次ぐ休刊は氷山の一角だったということにもなり得る」と分析する。>

 という記事だった。「ライフスタイルの変化」が最も大きな原因なのだろうが、その変化を呼び起こしたインターネットと携帯電話の影響の大きさには今更ながら驚くしかない。

◆総合月刊誌の採算ラインは5万~6万部
 同じ毎日新聞記事の別稿<月刊現代、論座、PLAYBOY…相次ぐ休刊/ノンフィクション存続に危機感>(鈴木英生記者)では①総合月刊誌の採算ラインは実売5万~6万部とされるが、論座ははるかに下回る2万部しか刷っていなかった。月刊現代は8万部。PLAYBOYはここ半年の平均部数が5万5000部。実売は最近、論座が1万部を、月刊現代も4万部をきることがあった②朝日新聞、講談社とも総合誌は社の論調を示す看板であり、単行本の書き手を確保する使命もあったので発行してきたが、社全体の不採算部門見直しでついに切られた③両社とも後継媒体を模索中で、朝日新聞は論壇系記事中心の別刷りを作成する案があり、講談社はノンフィクションの媒体を検討中だ、と書いていた。

◆「新潮45」は12月発売号からノンフィクションを軸に刷新
 「新潮45」は過去の事件の読み物中心だったが。部数は最盛期(2002年)の半分で約4万6000部だ、と。

◆「国家と個人の間にある『社会』の情報が失われる」~魚住昭氏インタビュー(聞き手は鈴木英生記者)

 毎日新聞の前掲記事の別稿。見出しは<「社会」の情報失われる>。月刊現代の休刊の影響を聞いている。魚住氏の発言を拾う。

▽月刊現代は、いわば戦後民主主義路線の雑誌。講談社は、戦争に協力した反省を込めていたのだと思う。その志が、経済的にもたなくなったのだろう。月刊現代の休刊で、講談社がアイデンティティーを失ってしまうことを恐れている。

▽(雑誌ジャーナリズムが担ってきた役割とは?)情報には、大きく分けて官の情報と民の情報がある。官の情報は精選され、すぐ記事にできる。民の情報は雑多だから記事化に手間がかかる。前者主体になりがちな新聞に対して、雑誌は公社を中心に伝えてきた。雑誌が衰退すれば、情報の多様性が失われる。官の情報は伝えられ続けるだろうし、ブログなどに私的な情報はあふれている。つまり、国家と個人の間にある、「社会」の情報が失われてしまう。

▽(雑誌が読まれなくなった原因は?)貧困の拡大も原因だと思う。雑誌にお金をかけられる人が減った。書き手の責任も大きい。本当に面白く、核心を突いた内容ならば売れたはずだ。

▽(業界の今後は?)今の流れが続けば、新人の書く場は失われ、ノンフィクションは、10、20年先、新聞記者など組織ジャーナリストの副業としてしか残らないだろう。現役の書き手としては、今後、月刊現代のような媒体が復活できるように、優れた作品を書くしかない。

 以上が毎日新聞メディア面の記事である。

◆主な雑誌の創刊と休刊一覧

 読売新聞9月6日朝刊解説面<月刊現代休刊へ>(文化部・川村律文記者)には「主な雑誌の消長」の年表が載っていて参考になった。朝日新聞9月13日文化面と9月24日産経新聞<eye>の表も付け加えておく。

朝日ジャーナル(朝日新聞社)1959年創刊 1992年休刊
マルコポーロ(文藝春秋)1991年創刊 1995年休刊
Views(講談社)1991年創刊 1997年休刊
ノーサイド(文藝春秋)1991年創刊 1996年休刊
BART(集英社)1991年創刊 2000年休刊
FOCUS(新潮社)1981年創刊 2001年休刊
噂の真相(噂の真相社)1979年創刊 2004年休刊
ダカーポ(マガジンハウス)1981年創刊 2007年休刊
主婦の友(主婦の友社)1917年2月創刊 2008年休刊 
PLAYBOYに本版(集英社)1975年3月創刊 2008年休刊
論座(朝日新聞社)1995年3月創刊 2008年休刊
月刊現代(講談社)1966年12月創刊 2008年休刊
ロードショー(集英社)1972年3月創刊 2008年休刊
広告批評(マドラ出版)1979年4月創刊 2008年休刊
週刊ヤングサンデー(小学館)1987年3月創刊 2008年休刊
ラピタ(小学館)1995年12月創刊 2008年休刊
Latta(小学館)2006年創刊 2008年休刊
Style(講談社)2001年9月創刊 2008年休刊
BOAO(マガジンハウス)2004年9月創刊 2008年休刊
KING(講談社)2006年9月創刊 2008年休刊
マガジンZ(講談社)1999年創刊 2008年休刊
GRACE(世界文化社)2007年3月創刊 2008年休刊
ビーイング(リクルート)1988年創刊 2008年休刊
Judy(小学館)1983年創刊 2008年休刊

 川村氏によると、月刊現代は編集者有志による「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」でも月刊誌としては最多の10回の受賞を誇る、という。講談社のノンフィクション担当編集者は「ノンフィクションに特化した雑誌として、ガラパゴス諸島の動物のように、特異な生態を維持してきた希少種」と話している、という。

 また、2006年12月から07年11月末まで、同社のコミック雑誌を除く雑誌売り上げは221億7000万円と、前年度を3.5%下回っており、他の雑誌の売り上げが低迷する中で「月刊現代」を支えることが難しくなっていた、という。

◆フリーのノンフィクション作家が育たなくなった
 川村氏の記事で面白かったのはいろいろな作者のコメントを取っていたこと。

 ノンフィクション作家の野村進氏は「ついに来るものが来たか、と感じた。私がデビューした80年代は新人でも単行本の初版は5000部だったが、現在では大宅壮一ノンフィクション賞の作家も初版4000部。ノンフィクション市場は厳しい」と。紀伊国屋書店のサイトによると、大宅賞でも62の受賞作のうち、吉田司さんの「下下戦記」など22作、講談社ノンフィクション賞でも受賞作52作品のうち15作が重版未定などの理由で入手不可となっている、という。

 作家の柳田邦男さんは「かつては雑誌に書くときでも、原稿用紙80枚から100枚ぐらいは書いていたが、90年代に入ってからは30枚から40枚になった。ノンフィクションの長期連載が好まれなくなってきた」と読者離れを指摘。「調査報道は若いライターや30代、40代の脂の乗り切った書き手でなければできない。それをバックアップするのは雑誌の役目」と強調。「インターネット上の情報は、断片的、表面的。深く掘り下げて、考えることが脆弱になる」と警鐘を鳴らす、という。

 川村氏は

 <左翼勢力の退潮とともに、権力を批判するようなノンフィクションは徐々に読まれなくなった。インターネットなど競合するメディアも増え、編集者から「今日の読者は本当に移り気で、腰を据えた調査報道に対して手応えが少なくなった」という嘆きも聞こえる。>
 <時間と資金をかけ、膨大な取材を積み重ねるノンフィクションは、編集者や編集部のサポートがあって成り立つ。近年、大手メディアに所属しながらノンフィクション賞を受けるケースが目立つのは、フリーの書き手が長期の取材に取り組む難しさの裏返しでもある。>と分析している。

◆インターネットのブログでは代替できない役割
 東京新聞9月12日朝刊<硬派月刊誌、相次ぎ休刊/論座なき現代に?/「ブログは受け皿にならない」>(文化部・中村陽子記者)で論座の薬師寺克行編集長は「世界がどこに向かうのか、長い目で考える機会を提供したいと思ってやってきた。だが、刹那的に楽しいものが売れる時代。雑誌としての役割を終えたと判断した」という。60万部台を維持している「文藝春秋」の飯窪成幸編集長は「編集側の理念だけでは、なかなか読んでもらえない。娯楽の要素も重視して、多様な興味に応えるつもりで作っている」と編集方針を話している、という。

 東京新聞らしく、佐藤卓己・京大准教授(メディア史専攻)の談話を使っていた。佐藤氏は「岩波書店の『世界』などは一種のブランドで、購読していることが自分たちのアイデンティティーとなる時代があった。80年代に若者だった新人類といわれる世代以降は、そのような原体験がない。読者の投稿を見てもわかるとおり、団塊より下の世代の読者が付かなかったのでは。(月刊誌は数多くあるが、)主義・主張を強く出し、似たような考えの人が買う専門誌的なものが多い。(インターネットのブログなどは)まだじっくりした議論ができているとは言えない。めまぐるしく過ぎ去っていく時間の流れから距離を置いて社会を考える媒体が、(月刊現代、論座)2誌のような月刊誌だった。本当の意味での意見を交わす場所がなくなるのは非常に寂しい」と話しているという。

◆編集者のスキルを失えば取り戻すのは難しいのだが…
 朝日新聞9月13日朝刊<月刊誌冬の時代>は高橋明男・月刊現代編集長と藤井真也・ロードショー編集長へのインタビューと雑誌に詳しい永江朗氏の分析が内容。西秀治記者と竹端直樹記者の連名記事だった。

 高橋編集長の話で身に沁みたのは「秋葉原の殺人事件も、次の事件があれば忘れ去られる。事件後すぐ用意した原稿が、発売段階では話題にもならなかった。自民党総裁選は22日に投開票ですが、月刊現代は21日が締め切り。紙面に反映できません。ネットを含めて情報の流れがすごく速いし、みんな移り気になった。月刊誌を腰を落ち着けて読む感覚がなくなった。ノンフィクションは編集者の力量が重要。スキルを失えば取り戻すのは難しい。そこを私は主張し、なくすべきではないと言ってきた。会社も社員の育成の場と分かっている。その上で今回はどうしようもないと。残念です」と語っている部分だ。「なるほど」と思うことが多い。

 また、ロードショーの藤井編集長はかつては映画スターの情報を届けるには「ロードショー」「スクリーン」がベストだったが、今や女性誌やフリーペーパー、インターネットなどあらゆる媒体が情報を提供するため、最近の誌面ではスターのファッションやライフスタイルなど女性誌的な内容も入れたが、差別化できなかった、と。映画会社からの広告も最近はテレビ中心でなかなか入らなかった、と。藤井氏の言葉で貴重なのは「存続するなら人員を最小限にし、部数を絞って本当にコアな人に向けたカルチャー誌しかない。狭いターゲットに当てる手法。そんな提案もしました。活字離れと言われますが、若い人でもすごく読む人がいるし、携帯小説もある。ただ、若い世代は情報にお金をかける必要がないと思っている。興味があっても立ち読みですます。女性誌は付録が豪華なときだけ買う。100万部雑誌のような大きなビジネスは難しい。市場は細分化してますから」という部分だろう。今後の雑誌の運命を見切っている感じだ。

◆永江氏は「次は週刊誌。勇気ある転進が必要な時代」とご託宣
 ライターで早稲田大学客員教授の永江氏は雑誌がこの世の春を謳歌する「雑誌バブル時代」が終わりを迎えた気がする、という。漫画も売り上げは落ち込んでいる。書店、特に小規模な街の本屋さんが減り続けることが痛手だ、と。

 <いまや大手を含め、出版社の経営基盤はもろい。伝統や、出版の意義がある雑誌でも、赤字を見過ごせなくなった。月刊誌の次は週刊誌の選別でしょう。雑誌も書籍も抱える日本型の「総合出版社」や、従来の雑誌ビジネスが限界なのかもしれません。米国では書籍と雑誌をつくる出版社は別々。販売ルートも、書籍は書店が売り、雑誌は定期購読化が進んで読者の手元に届くスタイルが主流です。日本の出版社は各社とも「後退戦」の最中。縮小しながら新しいビジネスモデルを模索する、上手な「後ずさり」の仕方が求められています。従来の読者層ではなく、若い世代向けに新ジャンルを開拓する。販売チャンネルを定期購読に絞る。無料誌やウェブマガジンに転進する。今後の出版業は、従来のビジネスモデルを捨てる勇気が必要かもしれません。>

 さすが雑誌業界に詳しいだけあって、言うことが鋭い。

 しかし、新聞業界だけでなく、雑誌業界の実情も聞きしに勝るひどさなのだなあ、と驚いた。

 産経新聞9月24日朝刊[eye]<雑誌不況底なし/ネット台頭 紙代も高騰>も出版業界の深刻な内幕に触れていた。

 このほど出揃った大手3社の決算によると、この10年間で、雑誌部門の売上高は講談社が31%、小学館が28%、集英社が22%減少。収入の柱は営業と販売だが、営業でも広告収入が06年、インターネットに抜かれた。追い打ちをかけたのが紙代の値上がりだという。燃料高などにより、原価が15%以上アップ。紙の種類によっては20%のコスト高になり、出版社も値上げせざるをえなくなり、月刊誌の平均価格は毎年3~4円ずつアップしてきたが、今年5、6月は昨年同月比で13円高になった、と。

 ある中堅出版社社長は「少しくらい定価を上げただけでは用紙の値上がり分を回収できない」と明かした、という話も紹介してあった。

 以上が9月24日までの大体の新聞記事のまとめだが、雑誌不況だけでなく出版不況全体を含めて、活字文化のある意味危機を迎えているような気もする。電子媒体さえあればいい、という時代がつい先まで来ているのだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月13日 (土)

書評「対論 部落問題」組坂繁之、高山文彦著

 平凡社新書、2008年9月16日初版第1刷、定価756円。

対論部落問題 (平凡社新書 434) 対論部落問題 (平凡社新書 434)

著者:組坂 繁之,高山 文彦
販売元:平凡社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 <部落解放同盟トップリーダーの組坂氏と「水平記――松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年」や「エレクトラ――中上健次の生涯」といった破壊力のある作品を生み出してきた作家の高山氏が戦後の部落解放運動を検討し、あるべき今後のあり方を語り合った一冊>と出版社による宣伝文書にあった。

 <部落差別とは何か。人はなぜ差別をするのか――。同和対策事業特別措置法の廃止から数年が経ち、解放運動は今、大きな曲がり角を迎えている。運動の再構築を図る部落解放同盟の指導者と、人間存在の根源をみつけてきた作家が、差別の本質に向き合い、運動のこれからを語る。未だ残る部落差別に向き合うために、全国民必読の書!>というのが、表紙裏の宣伝文句。

 本の著者紹介によると、組坂繁之氏は1943(昭和18)年2月25日福岡県小郡市生まれ。大学卒業後、27歳で部落解放運動に入る。部落解放同盟福岡県連合会書記長、中央本部書記長を経て、98年に中央本部執行委員長に就任。2008年で5期11年目に入った。ほかに、世界人権宣言中央実行委員会副実行委員長、部落解放全国共闘会議議長、折尾愛真短期大学講師(非常勤)などを歴任。

 高山文彦氏は1958年宮崎県高千穂生まれ。2000年、「火花――北条民雄の生涯」(飛鳥新社、角川文庫)で大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞を受賞。2008年、高千穂あまてらす鉄道株式会社代表取締役社長に就任。著書に「『少年A』14歳の正三」「水平記」(ともに新潮文庫)、「鬼降る森」(幻戯書房)、「エレクトラ」(文藝春秋)など、最新刊に「孤児たちの城」(新潮社)がある。

 最初、あまり読みたくなかった。いつもの部落解放ものなのか、「差別はいけない」と頭ごなしに説教を垂れる形の本なのか。そんな本など読みたくない、と思っていた。

 韓国の内政・人々の暮らしを紹介する本や、在日韓国人に関する本が昔、そうだった。

 麻布十番長坂交差点から川沿いに南に歩くと、二の橋か何かの橋の近くにあった大きなビルは昔、韓国大使館だったこともあるビルで、その当時は在日韓国居留民団の本部になっており(今でもそうかもしれないが、最近は行ってないので分からない)、当時、在日朝鮮・韓国人問題に興味を持っていたので、ビルを訪ねたことがあった。書籍がそろっていた部屋でいろいろと本や雑誌を見たのだが、皆同じ内容で、日本政府に選挙権を求めたり、法的地位に関する要望が前面に出された本がいろいろとあったのを覚えている。

 「ああ、権利要求ばっかりか」というのが、その時の感想だった。

 がっかりした。

 当時は1988年のソウル五輪はまだまだ先の話で、煙も立っていなかった。

 日本との格差はものすごく、韓国観光といえば男性によるキーセン観光が流行しており、日本の女性たちにとって韓国ときけば、男性天国、キーセン売春など汚らわしい印象がこびりついていた時代だった。

 そんな中でも韓国は高度経済成長を続け、ソウル市民は軍事政権の下ではあるが、少しずつ豊かな生活を楽しみ始め、日本にお追いつけるかもしれないという希望を上流層の一部だけでも抱き始めた頃だったと思う。

 そのような時代の息吹が民団で見た本には感じられなかった。

 それだけではなく、帰還船で在日朝鮮人が北朝鮮に帰っていった、その欺瞞を正面から突いた本もなかった。

 力道山や大山倍達ら在日韓国人の有名人に関する本もなく、すべてが在日朝鮮人の苦しみに関する本だけ。「苦しみだけじゃあないだろう。駅前の一等地を買い占めてパチンコ屋やサウナやキャバレーをやっている在日は可哀相なのか」とものすごい違和感があったのだ。

 実態を無視して理念だけを大声で叫ぶと、実態との解離が生じて、言葉が空しくなる。

 同じことは部落問題にも言えた。

 部落問題と聞いて思い出すのは白土三平の一連のサンカ漫画だ。サンカと被差別部落は違うかもしれないが、白土は天皇権力、武士権力と普通の人々、それも稲を栽培する農民と、それ以外の非農民など、あたかもマルクスの階級闘争史観のように非人の生活ぶりが図式のようではあるが、それなりに生き生きと描かれていた。

 それだけでなく、当時は、白土漫画の意味について朝日ジャーナルなどで評論家や学者が熱く語っていた時代だった。

 被差別部落問題も当時は実態を詳しく観察せずに、理念重視で「けしからん」と怒ったり、差別の不合理を嘆いたりしていた時代だったのではないか、と思う。

 しかし、僕らの世代は全共闘でゲバ棒を振り回した連中もいたが、翌月にはケロリとして就職試験を受けて一流企業に入っていたっけ。怒るといっても、怒る「ごっこ」を楽しんだんじゃないか、とあの時代の「いい加減さ」について今になって思うところもある。

 白土三平の一連のサンカ漫画を「ガロ」で見ながら、中世・近世の非農耕民の生き方はこんなものだろう、と想像した私にはリアルな「部落」への差別意識はない。

 私は東京で生まれ育ち、誰が部落出身なのか、どこが「部落」の地域なのか、に関する知識が全くない。日常的に部落差別をしたこともないし、具体的に想像できないのだ。

 関西や九州の部落差別の話を聞くとひどいことをするやつがいるなあ、と思う。

 逆に、部落解放同盟が行政での優遇を悪用して税金を騙し取っているというニュースを見れば、「解放同盟ってきれいごとを言っているけど、実態は利権集団ではないのか」と思ったり、まあ、そうではないことは知ってはいるのだが、そうも思いたくなる世相に嫌になる、という軽い人間だ。組織の関係者や非差別の当事者から見れば、ミーちゃんは―チャンの部類に入るだろう。

 この本は部落解放同盟の現職委員長と、部落解放運動の父と言われた松本治一郎の伝記を書いた作家の対談だから「結局は『部落解放同盟頑張れ』で終わるのではないか、宣伝用の文章を平凡社ともあろう出版社がよく出したなあ」と思ったくらいだった。だから、最初は読むつもりはなかった。

 読もうと思ったのは、<未だ残る部落差別に向き合うために、全国民必読の書!>と赤い大きな字で表紙裏に大書してあったからだ。

 単純な奴と思われるかもしれないが、「そうか、全国民必読の書と書いてあるのならば、読んでやろうじゃないか。それで下らない本だったら読者カードで文句を書いてやろう」くらいの気持ちで読み始めたである。

 組坂氏が生まれた小郡市の家の近くに太刀洗飛行場がり、1945年に爆撃を受けた。当時、太刀洗飛行場には航空廠があり、それから特攻機地の鹿児島県・鹿屋基地に行ったりしており、巨人軍の青田昇氏も太刀洗にいた、という。

 そういう時代の人が一方にいて、一方は僕よりも若い人である。

 話がかみ合わない部分も多かったし、対話の醍醐味である火花を散らす言葉が、思いもかけない深い洞察を生むという言霊の作用も見えなかったのは残念だった。

 「おわりに」で組坂氏が書いていたが、松本冶一郎を研究して伝記を書いたノンフィクション作家と話すことに躊躇したそうだ。松本氏という理想形を知っている人は当然、対談相手を松本氏と比較して見るから、今時点の組織や組坂氏の欠点ばかり見られるのではないか、と思ったらしい。それでも話し合って良かった、と思っている、と書いてあった。

 いくつか新しい知識は得られたが、それだけのことだった。残念だったのは、最近の国会で廃案になったり継続審議になっている人権擁護法案について対談で全く触れていなかったことだ。

 今最もホットな問題は人権擁護法案ではないのか。なぜ触れなかったのか?それとも、部落解放同盟が言う「人権」と、この「人権」とは関係がないのか? 人権という概念自体、欧米中心主義がもたらした「人間」概念から出ている日本国憲法で保障されている。「人権」「基本的人権」は、お二人が使っている意味以上に深く遡って考えるべきだろう。

 インドの仏教は少数派だが、ほとんどがアンタッチャブル=不可触賎民=アウトカーストだ、とは知らなかった。

 江戸時代、被差別部落民は「上見て暮らすな、下見て暮らせ」の鎮め石の役割を受け持ち、同時に百姓、町人の犯罪者の逮捕、護送、拷問、処刑など下級警察の役割も部落民に課していた。弱いもの同士をいがみ合わせるという分裂政策。あの時代は強引に取り締まるので、恨みは部落民に向かった。特にひどかったのが長崎の隠れキリシタン弾圧に部落民が使われたこと。隠れキリシタンの逮捕、拷問、それもすさまじい拷問を被差別部落の人々にやらせていた。黒瀬曻次郎「切腹」は島原の乱鎮圧後に初代の代官となった鈴木重成を主人公にした小説だが、鈴木は隠れキリシタンを単に弾圧したのではだめだ、と考え、坊さんだった兄の鈴木正三を領地に招く。感謝した人たちが正三神社を作った。鈴木重成は幕府に年貢の引き下げを直訴する。島原の乱というのは単なるキリシタン一揆ではなく、当時の藩主・松倉勝家農民からものすごく搾取したものだから、それに対する一揆でもあった。幕府に申告した石高は実際の収穫の倍以上だったとも言われている。だから、農民に対する収奪も激しくて、空に困って娘を遊郭に売らなければならないような、もう本当に苛斂誅求という状態で、それに耐えかねてキリシタンになって一揆に加わったという人もたくさんいたわけです。そうした事情を知った鈴木重成は2回江戸に直訴するが、幕府は石高を下げることを許可しない。最後の3回目に鈴木重成は江戸の自宅で諫死する。願いを聞き入れてもらうために切腹して、農民を救おうとした。素晴らしい人ですよ。また、この人は転びキリシタンの娘さんを嫁にもらう。転びキリシタンですから顔を焼かれて髪まで焼かれて、化r打中やけどだらけだったそうですが、その女性を嫁さんにするわけです。すごい人です。後に奉られるだけの人ではあったんですね。(組坂)

 だから、長崎では隠れキリシタンと被差別部落の人とはずっと仲が悪かった。(高山)

 長崎市長を4期務めた本島等さんが狙撃される少し前に部落解放同盟九州地方協議会主催の全九州研究集会を長崎でやった。そのとき、本島市長に講演してもらったら、彼はキリシタンで、明治政府が廃仏毀釈でキリシタン弾圧をしたときに、お祖父さんがやっぱり拷問を受けていて、片方の足が不自由だったらしいのです。自分の祖先がそういう弾圧の被害を受けたから、私にも差別問題を語る資格があると言われ、原爆や平和のことなどいろいろ話してもらいました。とても感動的な内容でした。そんなこともあり、最近はキリシタンの人たちとの関係もとてもよくなってきました。(組坂)

 大逆事件では熊野の新宮というところの一つの被差別部落が事件の舞台になりました。浄泉寺という大谷派の寺の住職、高木顕明が逮捕され、実刑になったわけですが、この方は新宮の部落のほとんどを檀家として見ておられた。貧しい人たちがどぶさらいや鼻緒のすげかえなどで稼いだ金の中から寄進してくれるので、彼は按摩を習って、それでお返ししようとしていた。その浄泉寺で談話会が催され、そこに幸徳秋水が着たり、大石誠之助が来たりしていたわけです。高木自信も「余が社会主義」という文章を書いていますが、彼は徹底した非暴力主義者なんですね。それでも天皇暗殺計画に加わったとして逮捕され、新宮の部落外の人々から石もて追われ、最後は恩赦が下って無期懲役となった。秋田監獄に移されたわけですが、奥さんがはるばる秋田まで訪ねてきて、このままではとても暮らしていけないので、とうとう娘を芸者置屋に身売りしたとなきながら言う。その後、高木顕明は絶望し、首をくくって死ぬんです。僕は「狂死」だと思うんですが、そういう悲劇が、中上健次が言うところの「路地」を舞台に起きている。(高山)

 被差別部落には浄土真宗信者が多い。

 「鼠浄土」「舌切り雀」は貧者が富者となる話。「竹取物語」は隼人の恨み節。隼人族のように中央の大和民族に滅ぼされた者、あるいは選民階級の差別されてきた者たちが日本の文化、伝承、芸能を作り上げてきたんでしょう。かぶき踊りの創始者、出雲阿国もそうですし、能の世阿弥なども中世賎民といわれている。(高山)

 この本の[注釈]は役立つ。特に人名事典的な内容は良かった。知っておくほうがいい人のファイルなどを写しておく。 

 上杉佐一郎(うえすぎ・さいちろう 1919~1996年)福岡県生まれ。1948年から部落解放運動に参加。63年に部落解放同盟中央執行委員、68年同書記長、82年中央執行委員長に就任、死去までその地位にあった。88年には「反差別国際運動」(IMADR)を組織して理事長を務めた。92年小郡市名誉市民。

 松本治一郎(まつもと・じいちろう 1887~1966年)福岡県生まれ。「解放の父」と呼ばれ「不可侵不可被侵」(侵さず侵されず)を心情とした部落解放運動家。戦前・戦後を通じて国会議員としても活動し、初代参院副議長。1922年3月、全国水平社が結成されると、その呼びかけに応じて運動を起こし、25年の全国水平社第4回大会で議長に就任。千円、2度にわたるでっち上げ事件(徳川公爵位辞退勧告闘争での暗殺未遂、福岡連隊爆破陰謀事件)によって、懲役刑を受ける。戦後は46年2月の部落解全国委員会(55年に部落解放同盟と改称)の結成以来、委員長を務め、最期までその地位にあった。世界の水平運動を提唱し、アジア・アフリカの被抑圧人民の解放にも尽力、日中友好協会の初代会長を務めるなど国際的にも活躍した。「社会運動派万年被告の覚悟でやれ」「命より長い刑期はない」が座右の銘。1948年1月、参議院副議長だった松本は通常国会開会式に臨席の天皇に対し、「カニの横ばい」式の拝謁を拒否、世間の耳目を集めた。この横ばい式拝謁は天皇に横顔を見せることを不敬とした旧憲法下帝国議会以来の慣習だったが、次の国会から改められた。

 楢崎弥之助(ならざき・やのすけ 1920~)福岡県生まれ。松本冶一郎の秘書を経て1960年の総選挙で福岡1区から衆院に初当選(左派社会党)。1977年に社会党を離党、翌年江田五月らと社会民主連合を結成し、初代書記長、副代表を歴任。安保・防衛問題などで爆弾質問で売り出し、「国会の爆弾男」の異名を取った。1996年に政界引退した。

 この本では事業法を推し進めようとした上杉佐一郎氏が松本冶一郎氏に相談に行ったら「事業法は解放運動を堕落させるから求めるな」と強く言われた、という。上杉は被差別部落を取り巻く環境の劣悪さを強調して必死に説得した、と。楢崎氏は著書に中で松本氏が「事業法は大きなカネが動くから利権や腐敗が必ず起きる。宣言法のような基本法でもいいのではないか」と言って、相当抵抗したとして、「そのときの上杉サアちゃんは鬼気迫るような表情で涙ながらに訴えた」と書いているという。それが最終的に松本氏を動かし「そのかわり変なことにはならないようにせいよ」と言われ、上杉委員長も「利権腐敗が起こらないようにするから」と約束して法案にゴーサインを出した、という。特別措置法が成立する前に松本冶一郎は死去した。

 中上健次(なかがみ・けんじ 1946~1992年)和歌山県生まれ。小説家。被差別部落という出自に向き合い、独自の世界を築いた。1975年発表の「岬」で芥川賞を受賞。

 西山廣喜(にしやま・こうき 1923~2005年)宮崎県生まれ。戦後、松本冶一郎の下で日本社会党結成に参画するが。1961年、右翼団体昭和維新連盟を結成する。右翼シンクタンク「日本政治文化研究所」の理事を務めるなど、裏から政財界に睨みを利かせ「最後のフィクサー」と呼ばれた。母が大逆事件に連座した大石誠之助(死刑執行される)の従姉妹で親戚同然の付き合い。また、大杉栄と伊藤野枝の遺児、伊藤ルイさんの面倒も見ている。伊藤野枝の実家が福岡で、玄洋社の代準介が甘粕正彦に会って残された遺児を福岡に連れて帰る。代は野枝の叔父になる。

 朝田善之助(あさだ・ぜんのすけ 1902~1983年)京都府生まれ。1922年3月の全国水平社創立大会に参加以後、解放運動に入る。1931年、「全水解消意見」を発表し、運動に衝撃を与えた。戦時中、松本冶一郎ら主流に対立し、水平社内の旧共産派と国策協力運動を企て、1940年に除名。戦後は解放運動再構築の中心となり「差別の本質」「差別の社会的存在意義」「社会意識としての差別観念」を解放同盟全国大会の議を経て定式化市し、朝田理論を確立した。67年から75年に中央執行委員長を務めた。30年代初頭の水平社解消運動は絶望から来る松本への裏切り行動だったが、これを先導したのが朝田だった。全国の水平社組織では荊冠旗(水平社旗)を焼く動きが強まり、福岡も焼かれそうになったときに、松本が金庫にしまって防いだが、この焼く勢力の中心が朝田。近衛体制ができて、みな「バスに乗り遅れるな」と一斉に体制翼賛運動に馳せ参じた中の解放同盟版。

 とまあ、<部落解放同盟のトップと大宅賞作家がすべてを語る!>の帯にしては不満が残る内容だった、というのが結論。

 入門書、基本書のつもりならば、基礎知識をもう少し入れてほしかった。歴史的事実を補強しながら、具体性も持たせて書いてほしかった。「現状を斬る」という趣向なら、同和不正の分析や人権擁護法案への対応をきちんと書いてほしかった。その意味でちょっと中途半端だったと思うが、読めばそれなりにためになる本だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 8日 (月)

細木数子氏の大相撲モンゴル巡業時、首相主催晩餐会での「国辱的」行状~東京新聞9月8日朝刊コラム+週刊文春9月11日号から

 9月8日東京新聞朝刊コラム[週刊誌を読む 9月1日~7日]<総裁選報道 騒ぎすぎ!?/福田首相辞任で政界激変>を見出しにつられて読んだところ、総裁選の話はさもありなん、という内容だったが、後半に書いてあった週刊文春9月11日号の<新聞・テレビが絶対報じない 細木数子・朝青龍モンゴル巡業の「国辱」>には驚いた。というか、腹が立った。

 このコラムは月刊「創」編集長の篠田博之氏が書いている、とあるのだが、篠田氏の言うとおりだと思った。東京新聞コラムを引用する。

 <8月下旬に行われた大相撲モンゴル巡業で国に帰った朝青龍に、以前から親しい細木数子さんが同行したらしいのだが、26日夜に行われた大統領晩餐会でとんでもない光景が目撃されたというのだ。記事によると「ど派手なピンクのスーツで」なぜか大統領の横に並んだ細木さんは、酒宴の終盤、「各テーブルを回って、力士たちにジャンケンでウォッカを一気飲みさせていたんです。ジャンケンで細木さんに勝つと日本円の現ナマ10万円の束をポンッと」(現役力士のコメント)渡していったという。>

 <そして記事はこう続く。「ちなみに、モンゴルの平均収入は日本円に換算して月約1万5000円から2万円だという。モンゴル人の年収を超える現ナマを大盤振る舞いした計算になる」>

 <あまりに恥ずかしい話だが、居合わせた日本のテレビは細木さんに口止めされ、報じなかったのだという。こういう話をスッパ抜けるのが週刊誌の真骨頂だ。>

 いくらなんでも、と思って週刊文春を見たら、38ページから40ページまで3ページを使って、写真もふんだんに入れていた。この部分は記事の後半で、「現役力士C」は続けて「ジャンケンで負けても、ウォッカを一気飲みすればポンッ。確か5、6回はやっていたんじゃないですかね」と続いていた。

 そして、モンゴル人の年収のくだりの後には

 <さすがに「これはまずい」と、相撲協会の巡業親方たちが、真っ青になって止めに入る。もちろん、日本のテレビクルーやカメラマンも、この現場をしっかり撮影していたのだが、「『この写真はさすがに使えないよなぁ』と話していたんです。内輪の飲み会でのことならまだしも、首相晩餐会でのことですからね。そうしたら、細木さん自ら、『絶対にこの写真は使うな』と報道陣に念を押してきた。現場にいたモンゴル人たちは、『日本ではよくあることなのか?』『首相の前であんなことができるなんて、あの人何者なんだ』と、怒りを通り越して呆れていましたよ」(現場に居合わせたカメラマン)>

 という文章が続いていた。そして、日本に帰国後、細木氏をこの件で取材したやり取りが続くのだが、その中でジャンケンについての細木氏の弁明はこうだった。

 <――首相晩餐会でジャンケン大会をしていたそうですね。>

 <あのねぇ! あなた方は前後の左右を全然知らないのよ! あの日は私は疲れてるから欠席したいっていうのを、向こうの首相と森元首相に招かれて席が用意してあるっていうんで行ったのよ。あの目立つ席に座りゃ、くったびれるんだ。>

 <でも行ってみたら、相撲取りもくたびれてるし、なんか晩餐会がものすごーく白けてたわけ。そこで森先生たちが退場しかかった頃、『朝青龍、力士もマスコミもみんなヘナってきてるよ。ちょっと盛り上げようと』って、各テーブルを回って”ジャンケンポン大会”をやっただけのことよ」>

 <――首相晩餐会で現金をバラまくのは、モンゴルでも常識に反するのでは?>

 <「……じゃあ、やらなきゃよかったよ。あんまりシラーっとした雰囲気だったから”ごっつぁん”でさあ。稀勢の里なんか喜んでねえ。お相撲さんが総立ちになって『俺も俺も』って、その雰囲気が珍しかっただけじゃないの。でも100万円なんて大げさです。四つのテーブルを回って全部で二十数万程出しただけよ」>

 <――力士が盛り上がったのはわかったが、モンゴルに対しては失礼ではないか。>

 <「そこまで規制しちゃいけないと思うよ。だから今の子供たちはおかしくなるんだ。ガス抜きさせなきゃ、相撲取りだっておかしくなるよ。『ガス抜きやるなよ清く正しく1、2、3』じゃあおかしくなるよ。>

 <今度の巡業、朝青龍はモンゴルと力士を喜ばせるために大変な苦労をしたんだよ。あんたたち、もっとあったかい記事を書きなさい。裁判官みたいなことやんない方がいいよ」>

 記事は<今回のモンゴル巡業では、このお方が日本の代表として、大統領や首相と同席していたのである。>と結んでいた。

 素晴らしいスクープ記事だ。森元首相が退席する頃、と微妙な言い回しをしているが、森氏がもしもこのことを見て見ぬふりをしていたのだったら、政治責任を問われなければならない事態だって考えうる。

 週刊文春は偉いが、情けないのは同行したテレビ局とスチールカメラマンの所属するマスメディアである。

 例えば、福田首相主催の晩餐会でアメリカの喜劇俳優がプロレスかアメフトの選手の間を回ってコインの表裏を当てるゲームをして、1人当たり1000㌦ずつポンッと手渡していたら、日本のマスコミは「なめるんじゃない、日本は植民地じゃないぞ」と怒り心頭だろう。

 それに怒らないマスメディアはもう日本のメディアではなく、アメリカのメディアだとしか言いようがないと思う。ジャーナリストにはまず愛国心が必要なのだ。その愛国心は偏狭なものであってはならず、他人の痛みを知ることのできる愛国心でなければならない。

 細木氏の傲慢な振る舞いを見たモンゴルの知識層やマスメディア関係者はどんな気持ちだったろう、と想像すると、いたたまれなくなる。

 「この婆あのために、日本との関係をギクシャクさせるのは得策ではない」と大人の判断をして我慢したのだと思うが、普通だったら、首相や大統領を侮辱したとして逮捕されてもおかしくない。モンゴル人は誇り高い人々なのだ。

 他人の痛みを分からないような人間が霊媒師だか何だか知らないが、テレビに出て偉そうにするな、と何故テレビ関係者は言わないのだろう。視聴率が稼げる老女だからじっと我慢しているのか? そんな我慢をするから、今の子供たちはおかしくなる。テレビはたまには清く正しい姿も子供たちに見せる義務があると思うのだが。

 本当に腹が立った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月31日 (日)

ストリートビューという新しい”恐怖”(?)~東京新聞30日こちら特報部、2日朝日新聞メディア欄、3日毎日夕刊コラム

 8月30日毎日新聞朝刊1面[余録]でストリートビューを取り上げていた、と昨日書いたが、同じ8月30日の東京新聞朝刊見開き特報面[こちら特報部]に<映像地図「ストリートビュー」の是非/ネットに自宅…見られる恐怖/プライバシー保護の強化カギ/低い認知度、使用は1人/米国では訴訟も/性犯罪など悪用が心配>の見出しで大々的に取り上げ、秋葉原、巣鴨とげ抜き地蔵、新橋での30人アンケート結果の一覧表までついていた。山川剛史、片山夏子記者の執筆だ。

 検索大手グーグルが8月5日から札幌、仙台、東京、横浜、京都、大阪など全国12都市の映像を公開している、とある。

 まずは、記事から離れて、自分の経験を書かさせていただく。

 インターネットでグーグルを出すと、最初のページの上のほうにストリートビューという文字が出てくるので、そこをクリックすると、幾つかの段階を経て地図が出てくる。検索の空欄に例えば、自宅の住所を地番まで打ち込んでリターンキーを叩くと、地図が出てきて、小さな人の形が出てくる。そこにある小さな文字のストリートビューを表示をまたクリックすると、別の少し小さな窓(ウインドウ)が開き、何とそこには自宅のカラー写真が現れる、という仕組みである。

 びっくりするのはマウス操作で画面を左右に動かすと、家の周囲360度がぐるりと見渡せ、上下動では地面から空までが出てくる。

 全く知らなかったのだが、余録を読んで自宅で実験して驚いた。

 女房に教えたら、びっくりして、「これじゃあ、プライバシーも何もないじゃない!」と最初は怒っていたが、そのうちに住所録を取り出してきて、自分の友人の地番を打ち込み、「ああ、本当に出るのね」などと感心したり、「この写真は洗濯物が干してあって、日差しが午後2時か3時。5軒先の家がまだ取り壊されていないので、4月か5月に写真を撮ったのね。いつ撮ったのかしら、気味悪いわねえ」など、非常に複雑な反応を見せていた。

 つまり、パソコンに不慣れな還暦前後の夫婦でも操作できる地図なのである。

 どうしてこんなものが出てきたのか? さあ、ここからは東京新聞の記事のダイジェストである。

◆8月30日東京新聞特報面の記事

 屋根の上にパノラマレンズを取り付けた自動車で各都市を数カ月かけてくまなく走り、撮りためた力作だ、とある。記事にあるように、写真の中の矢印をクリックすると、道を歩く感覚で写真が移動し、まるで、その道の左右を見ながらゆっくり歩いている感じだ。人が歩いていたり、自転車がいたり、家には花が咲いていたり、洗濯物も干してあれば、布団も干してある。

 <自宅では見られたくないものが写っていなくてほっとしたが、ガレージの自家用車の映像を同僚に見せると、「ナンバーは4●64だね」と言い当てられた。>

 つまり、そこまでの解像度はあるのである。学生アルバイト3人が秋葉原、巣鴨とげ抜き地蔵、新橋で30人にアンケートしたところ、遣ったことがあったのは1人だけ。知っているが使ったことはない、は4人。25人は「知らない」だった、という。

 知らない場所に行く前に映像を見ておけば迷いにくい、などプラス面を言う人もいるし、「犯罪者に情報を提供しているようなもの」と強硬な反対論もあった、という。単純な賛否は少なく、容認するにしても人の顔や家庭の生活状況を示す部分を見えなくするなどプライバシー保護強化を求める声が多かった、と書いてある。

 <グーグルは適切な対策を取っているのか。グーグルは広報資料で「個人情報保護に尽力」と強調。「公道から視覚的に見えるものだけを画像として使用し、識別可能な人の顔をぼかす技術が用いられ」「ユーザーが不適切と判断したイメージ(写真)は削除対象として警告できる」とする。>

 ということで、

 <ネットで自宅が見られることが怖いと感じた記者は29日、手順に従い、自宅の画像削除をメールで申し込んだ。「確認して対応します」の返信はすぐ来たが、夜になっても画像はそのまま。>

 何かひどいなあ、グーグルは。

 <数多くの窃盗事件を手がけてきた元警察官(61)は「ひったくりに好都合な場所の当たりを付けるなど悪用される可能性もある。性犯罪やストーカーの面でも心配だ。とにかく、(犯行を計画する人間にとって)その場に行って姿を見られる危険性がない。その点が大きい」と指摘する。>

 <ネット問題に詳しい元検事の落合洋司弁護士は「公道から見えるからといって、人は肖像権やプライバシー健を放棄しているわけではない」と説明する。>

 衝撃映像の削除問題など、ストリートビューとは直接関係のない議論を紹介した後で、落合氏の言葉がある。

 <「撮影対象は網羅的かつ広範囲で、不特定多数の人が見る。サービス自体に権利侵害のおそれがある。日本でも訴訟が起きる可能性が高い。利便性は高いが、最終的には国民がどんな考え方を持つかではないか」>

 <米国ではペンシルベニア州の夫妻が、プライバシーを侵害され、家の資産価値も下げられたとして2万5000㌦(約275万円)の損害賠償を求めた。こうした状況への対応も含め疑問に答えてもらおうと、グーグルに26日から再三、取材を申し込んでいるが、29日現在、何の音さたもない。>

 デスクメモで(剛)さんは<米国の訴訟では、グーグル側は「完全なプライバシーは存在しない」と反論。刺激された米国の団体が、ストリートビューなどを使いグーグル役員宅を突き止めたそうな。>と書いていた。

 グーグルの驚異的な発展の秘密を見た感じがする。つまり、法律で禁止されていなかったら何でもやっていい、という考え方で、従来のコミュニティー、共同体が暗黙の了解として守ってきたルールを大規模に無視して、それを商売にする、という手法である。

 プライバシー権など、侵害されたら脆いものだ。記事にもあったが、一度ネットに晒された画像は消去されても、コピーは生き残り、転々流通する。つまり、一度侵害されたら取り返しがつかないのがプライバシーである。

 グーグルに倫理を求めるのは八百屋で魚を求めるようなものだろうが、このような<共同体の暗黙のルール>を土足で踏みにじるグローバル資本主義の野蛮さは徹底的にお仕置きされねばならないのではないか、と思った。

◆9月2日の朝日新聞記事

 朝日新聞も福田首相退陣表明を報じた9月2日朝刊第3社会面[メディアタイムズ]<路上から見た画像、ネット上に/無断撮影 公表に波紋/「住宅街 画像削除を」/企業活動で活用例も/他社は目線から撮影>で特集していた。

 <道案内に便利だから、と不動産物件の紹介に活用する企業が登場した一方、写った人や住民のプライバシーを侵すとの批判も出ている>という価値中立的な前文。小堀龍之、松村北斗記者の署名記事だ。

 ここでも、止めておいた車のナンバーが読みとれ「気持ち悪いとしかいえません」という主婦の話。この主婦の場合は私道からの撮影で「公道」ではないので、削除要請している、と。また、自宅付近の路上や公園に子供が写っているのを見つけた主婦は画像削除を求め、ほどなく削除されたが、同じ場所を違う角度から見るとまた子供が写っていたので、近所の通学路上の子供の画像すべてを削除するよう求めたという。通行禁止と掲示された場所での撮影画像もある、と。

 <グーグル日本法人の広報担当者は「一部公道と私道の区別がつきづらいところで、誤って撮影している場所が確認されている」と認めたうえで「ユーザーからの連絡や当方の再確認によって、削除している」と説明している。本人から寄せられた自分の顔や自宅の削除依頼には応じ、本人以外からの顔やナンバーが見えるという連絡は「意見として伺い、ぼかしや削除をしている」という。>

 朝日新聞は一応、グーグル側から取材できていた。しかし、それならば、そもそもこのサービス自体がプライバシー侵害ではないか、との疑問をなぜぶつけなかったのだろうか? アメリカでの訴訟の話についてのコメントも取材したのだろうか?

 朝日新聞によると、ストリートビュー(SV)は屋根に柱を立てた車で1都市に数カ月かけて撮影した、と。SVはグーグル本社のある米国で昨春サービスが始まったものだそうだ。訴訟の経験から、日本版は最初から通行人の顔を自動的にぼかす仕組みを導入したが、看板の顔にぼかしが入る一方、人の顔や車のナンバーが判別できる画像もある、と書いている。

 朝日新聞は2氏の談話を掲載した。情報セキュリティに詳しい牧野二郎弁護士とIT産業に詳しい池田信夫・上武大教授だ。

 牧野氏のコメントは次の通り。

 <企業活動は反社会的でない限り自由が原則だが、SVは国民の平穏な生活を脅かし、プライバシー侵害のおそれがある。画像の利用目的を特定しないまま無断で撮影、公表している。社会的な利益にかなうとある程度認められている報道機関と違い、公道からの撮影でも侵害になりうる。自分の姿や家屋を将来にわたって撮影しないよう法的な制球も可能だろう。>

 池田氏のコメントは次の通り。

 <グーグルと写された当事者との問題で、気味が悪い人は削除要請すればよい。表現や報道の自由にかかわる問題で、グーグル批判を撮影や公表の規制につなげてはならない。>

 朝日新聞によると、グーグルだけでなく、他社も同様なサービスを開始しているそうだ。ヤフーは6月に東京23区内の駅の出入り口の画像を見られる機能を「ヤフー!地図」に追加した、という。NTTレゾナントも「グー地図」で2006年4月から約2000カ所の駅周辺の画像を提供している、という。「ロケーションビュー」のサイトでは、道路沿いを画像だけでなく動画でも見られるという。25地域が対象で、東京23区は道路の約8割に対応。昨年10月に公開、もとは公的機関向けに設計され、一般向けは画質を落として無料で提供しているといい、3社ともいまのところ、目立った苦情はないという、と書いていた。

 また、3社のカメラの高さは地上から約1.6~1.8㍍、人の目の高さだ。グーグルのカメラの高さは2.5㍍近くあり、塀の上から住宅の敷地内をのぞきこむような画像もある、という。ロケーションではカメラが高いほうがよく見えるが、プライバシー侵害に当たらないか、など事前に検討した、としている、と。3社は画像を社員らが目視で確認し、顔や車のナンバーを隠す処理をしたといい、自動処理するグーグルとの違いを強調している、という。

 朝日新聞にはグーグルの撮影車の写真が載っていた。この車を見つけたら要注意だな、と思ったが、すでに写真はアップされているし、どうしよう?

(9月3日追記)

 9月3日毎日新聞夕刊文化面[そのほかのニュース]欄は週刊誌の話題を掻い摘んで紹介するコーナーだが、週刊SPA!9月2日号「Googleマップの新サービス[ストリートビュー]の波紋」と週刊プレイボーイ9月1日号「発掘!「ストリートビュー」を先取りした国産ネット地図があった!」、FLASH9月2日号「苦情殺到!Google新サービスの『プライバシー侵害』問題画像」の三つの週刊誌の記事を紹介していた。

 SPA!では、自分の部屋の2階ベランダに干しておいた下着が写っていた、という同誌ライターの声を紹介。<路上でキスをしている高校生のカップルやラブホテルに入る男女の姿といった画像まで写りこんでいることもある。>には、思わず笑ってしまうが、ご当人には大変な事態だっただろうなあ、と推察する。

 また、FLASHでも、<この新サービスでは、無差別に撮影された「乳揉みカップル」「立ちション」の画像なども公開されている。ラブホテル前のカップルの画像には「この画像を見たときの2人の驚きはいかほどか…」とのキャプションがついている。>とあった。まあ、週刊誌だから、こんな書き方をしているけど、やはり、結構大きな問題ですよ、これは。

 さきほど、池田信夫さんのブログを拝見したが、朝日新聞のコメントのような突っ放したようなものの言い方はしていなかった。住基ネット問題の二の舞にならないように、とか、深い話をしており、グーグルの担当者が総務省でどんな話をしたか、とかやたら詳しい。専門的な知識を得たかったら、このような週刊誌ではなく、池田教授のブログを見たほうが役立ちそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月30日 (土)

世界の動物は北を向いている~毎日新聞[余録]から

 毎日新聞8月30日朝刊[余録]が面白かった。

 <ドイツとチェコの研究グループが今週、論文誌に発表したデータは不思議だ。放牧中の牛がどんな方向を向いているか。世界各地で8500頭以上を調べると、多くが南北を向いていた。チェコで野生のシカ2900頭以上について、雪に残された「寝床」の跡などを調べた結果も同じで、多くが頭を北に向けていたというのだ。詳しく調べると、地図上の南北より地磁気の南北に同調していることもわかった。渡り鳥やコウモリが地磁気を感知することは知られているが、牛やシカもそうなのか。だとすると、私たちはどうなのか。>

 動物が地磁気を感知して、頭を北に向けて寝ている、というのだ。それだけでなく、昼間起きているときも、南北の線に沿って立っている、と。不思議な現象だ。

 死者を祀る際に、北枕にする風習は、この動物の習性と関係があるのかどうか? 「地脈」などを重視する「風水」は「オカルト」「似非科学」と切って捨てられていたが、何らかの科学的根拠があるのではないか? 牛やシカは体の中のどの部分の作用で北を向くのだろうか、それとも北極星を見るなど、視覚や聴覚を使って北を知るのだろうか?

 疑問は次々に湧いてくる。このような研究は、今までの「知」のレベルを引き上げる可能性を持っているのではないか。僕たちが「常識」と思っていることは、産業革命以来の常識に過ぎず、長く見てもルネサンス以来の常識だろう。その常識を生んだ枠組みへの疑問を大切にして、疑問が解ければ、本当の意味での「近代」から「ポストモダン」へのブレイクスルーが起きるのではないか?

 こんな夢想が広がる。

 そして、[余録]の次の文章も、さすが現代の科学者は違うなあ、という驚きを感じさせるものだった。

 <論文には別の驚きもある。研究に「グーグルアース」のデータが使われたことだ。衛星などで上空から写した写真を公開しているもので、自宅の屋根を見てみた人もいるだろう。そこからこんな成果を生み出したのは、発想の勝利というべきか。>

 身の周りにあれば、すべて研究材料に転化する。これも当然の話。性能がアップしたパソコン、インターネットを利用していない研究などもはや皆無ではないか。

 <グーグルアースの先には懸念もある。最近、議論を呼んでいるのはグーグルの「ストリートビュー」だ。上空からではなく、道路から撮影した写真がネット上に公開され、自宅や車、街の様子などがリアルにわかる。どうやって写しているのか、プライバシーが侵害されているのではないか、不安に思う人がいるのは当然だろう。>

 と、余録子はプライバシー侵害に懸念を表明しているが、この「便利さと怖さ」との二律背反はどこで折り合いをつければいいのか、当面は結論が出ないのではないか。

 <人間も地磁気を感知しているのか。南北を向いてすわっている時と東西を向いている時で脳波に違いがあるという報告もある。さまざまな場所で人間のデータを集めると、手がかりが得られるかもしれない。ただし、プライバシーは要注意だ。>

 人間も動物である以上、地磁気を感知できるのだろうが、その能力がどこまで落ちているのか。チンパンジーやゴリラと人間との比較などの数値が出たら、人間研究にとって新たな飛躍材料になりそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月29日 (金)

書評 小川浩、林信行著「アップルとグーグル」、ジェフリー・L・クルークシャンク著「ジョブズはなぜ天才集団を作れたか」

 「アップルとグーグル~日本に迫るネット革命の覇者」(小川浩、林信行著)。インプレスR&D、2008年4月21日初版第1刷発行、定価1890円。

「ジョブズはなぜ天才集団を作れたか」(ジェフリー・L・クルークシャンク著徳川家広訳)。講談社、2008年8月27日第1刷発行、定価1890円。

 この種の本は最近、ほとんど読んだことがなかったが、ちょっと勉強したくなって、集中的に何冊か読んだ中の1冊。

 1990年に東芝のハードディスクなしノートパソコンを買って、使い始め、その後、アップルの一体型マックとノートに買い替え、海外からカラー写真を、そのモノクロマックで日本に送って、なぜモノクロのパソコンでカラー写真を送れるのか、ずっと考えても分からなかったようなパソコン音痴なので、プログラム言語の本など高嶺の花で、せいぜいエクセルの使い方とか、その前にはMS-DOSの使い方などのハウツー本を読んだくらい。

 パソコンとかインターネットの本とはとんと縁がなかった、と言ってもいいだろう。

アップルとグーグル 日本に迫るネット革命の覇者 アップルとグーグル 日本に迫るネット革命の覇者

著者:小川 浩,林 信行
販売元:インプレスR&D
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 読んで、「目から鱗」の感じだった。

 アップルはスティーブ・ジョブズの家のガレージで創業し、グーグルはスタンフォード大学の構内で初期の検索サービスを開発後、このサービスに人気が出て事業化を考えてからは、現在グーグル副社長であるスーザン・ウォイッキの家のガレージを間借りして開発を行ったそうだ。両社はガレージ出身という共通項を持っている、と。両社はエンジニア系の人材を非常に優遇。フラットな組織で、あまり上下の階層はない、と。両社の社員食堂はシリコンバレーでも一、二を争うおいしさだ、ともあった。

ジョブズはなぜ天才集団を作れたか (講談社BIZ) ジョブズはなぜ天才集団を作れたか (講談社BIZ)

著者:ジェフリー・L・クルークシャンク
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 この辺のアップル社に関するディテールはさすがに「ジョブズは」のほうが詳しい。特に、スティーブ・ジョブズの人となりについては書き込んである。

 面白かったのは日本語版への序文「iポッドを生んだ戦略は、実は日本流」で著者が紹介したエピソードだ。

 <アップル創業期、アップル社が入居していた小さなビルにソニーアメリカ西海岸地域事務所が入っており、アップル社を創業した天才2人組の1人スティーブ・ジョブズはビルの反対側にあるソニーのオフィスにするりと入っては、ソニー製品の美しいデザインを五感で吸収する作業をほとんど日課としていたのだ。ソニー・デザインは素晴らしかった。すべてに一貫したテーマがあるように見えた。何もかもが大胆であるであると同時に、控え目だった。ソニー製品には、自信がみなぎって見えた。一言で言ってしまえば、ソニー製品はクールだったのである。>

 概略、こんな話だ。そして、

 <ジョブズはソニーの製品に対する姿勢を借りることにした。そして、これにドイツ流のデザイン精神を少々合わせて、まるで新しいタイプのコンピュータ会社を作ろうと考えたのだ。それから四半世紀を経た2001年10月21日に、ジョブズはソニーに「お礼参り」をする。当時、どこでも見かけられたソニーの携帯CDプレーヤー「ディスクマン」の市場を奪うことを念頭に置いてデザインされた小型のデジタル音楽プレーヤー「iポッド」を発売したのだ。>

 iポッドの根っこが日本とドイツの電子製品にあることは明らかだった、それが家電ショップのソニー製品売り場にあっても、誰も違和感も覚えなかっただろう、と。ウォークマンをはじめとする、当時すでに他社が発売していたデジタル音楽プレーヤーを少しだけ改良したもの。日本が得意な製品戦略を取った、と書いている。

 ジョブズはニューヨークの日本食レストランでそばのおいしさに目覚め、カフェマックのシェフを築地のそばうち教室に送って修業させたので、アップルのカフェマックの日本食そばは本格的だ、とあった。また、ジョブズは秋葉原好きだ、とも。

 難しいことはわからないが、どうも、今までだったら日本のホンダ、トヨタ、松下、ソニーなどの技術者が欧米の技術を使いやすく改良、小回りの効く会社組織のトップが決断して世界に通用する商品を供給してきた、その「日本方式」が根本的なところで真似されているように見える。

 シリコンバレーだって、羽田空港近くの中小工場の誇りを持った技術者(職人)集団のようなものだろう。ただ、決定的に違うのはコンピューター、インターネットを使いこなすかどうか、なのだろうが、そんなことは国家が本気になって職人さんたちに無料で職業訓練をして、ネットに通用するような技術開発を誘導すればよかっただけの話だろう。

 どうも、この2冊を読んで思ったのは、そのような日本の科学技術・応用技術対応の遅れだった。

 「ジョブズは…」は表紙の帯に<非エリートで二流エンジニア、最悪の上司にして壮大なビジョンで世界一の成功を収めた怪物経営者…「スティーブ・ジョブズの下で働くことは麻薬的な経験だった」。戦略なき「カウボーイ的組織」アップルが最もクールで革新的な企業になるまで>とあった。

 訳者のあとがきにもあるように、

 <革命的な製品/アイデアのパソコンを生み出した注目すべき会社が、手に負えない天才創業者を追い出し、経営のプロをCEOに据えて、いっそうの成長を遂げる。だが、逆境に遭遇して一時は倒産寸前の状態に陥る。窮地の会社員、ついに天才創業者が復帰して、際立った個性の魅力的な新製品群を生み出して大ヒットを飛ばし、再度最も注目される企業となった。>

 ジョブズの個性があまりに強いので、ジョブズ物語も面白いが、「アップルと…」の表紙帯にある

 <日本企業に足りないものすべてをこの2社が持っている>

 が、刺激的キャッチコピーではあるのだが、今、日本人が立ち止まって、じっくり考えるべき論点なのだろう。

 つまり、日本企業のふがいなさを嘆け、というのではなく、かといって「上げ潮派」エコノミストや政治家が言うように規制緩和の不十分さを咎めるのでもない。

 1980年代の最後にある意味では米国を抜いて経済パフォーマンス世界一になった日本が、「坂の上の雲」を見失い、目標喪失状態が約20年続いている、という異常さになるべく多くの人が早く気付き、新たな目標を見つけようと、前を向くことから始めないといけない、と思うのだ。

 落ち込みの原因をいつまでも探し続け、その落下のスパイラルの中で自分探しまで始まってしまったのが今のご時勢だが、こんなことを続けていると、第3、第4のアップル、グーグルが次々、日本の良さを生かした商売でのし上がり、新製品群の事実上の世界標準(デファクト・スタンダード)を奪っていってしまうだろうから。

 「アップルと…」で著者は「iフォン」とグーグルの「アンドロイド」が電話だけでなく、ネット家電やゲームソフト端末なども操作できる携帯端末のデファクト・スタンダードとなるだろう、と予測する。

 NTTドコモも仕方ない、と諦めているとか。パナソニック、富士通、NECなどは日本の携帯電話の特殊性を乗り越えて世界に飛躍するチャンスと見ているらしい。

 情けないけど、そういうことなんだろう。

 旧郵政省官僚だけが悪いのではない、NTTだけが悪いんじゃない、とは思うが、日本の特殊のルールでやっていけてしまう、日本という国の規模。これが韓国だったら国内需要だけでは利益が出ないから、最初から海外雄飛を考えた戦略を取るのだろうが、日本はある意味、恵まれ過ぎてているので、飛躍できないのだろう。

 そこまで見据えて、新成長戦略を考えないといけないのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月25日 (月)

北京五輪をどう報じたか~各紙コラムや総括記事+毎日新聞の鹿島茂氏のコラム

◆米国五輪放送事情

 第20回夏季オリンピック大会は8月24日夜、北京で閉会式が行われ、17日間の祭典の幕を閉じた。各紙は8月25日朝刊1面から社会面まで多くの面に、北京五輪総括記事が満載だった。競技・種目別の総括とか、大上段に振りかぶった社説のような「大きな物語」的な総括も、それはそれで大切だが、ここでは、視点を替えたコラムや小さい部分、普通は見えない部分にこだわった「総括」に注目してみよう。

 毎日新聞8月25日朝刊2面[発信箱]<北京五輪 米の総決算>で北米総局の坂東賢治記者は米国ではNBCがテレビ中継を独占し、夜のゴールデンタイムの放送を「トップ・スポーツ」と位置づけた水泳、陸上、体操、バスケット、ビーチバレーボールの5競技に集中していた、と書いていた。

 <テレビ向きで、米国選手が強く、視聴率が稼げるという理由だろう。放映権獲得に1000億円近くを投じたNBCが水泳の決勝を北京時間の午前(米国時間の夜)に行うよう圧力をかけた理由もよくわかる。米国のフェルプス選手の8冠挑戦が最大の売り物だったからだ。>

 坂東記者は今まで、五輪を日本で見ていたらしく、日本のテレビ観戦とアメリカでのテレビ観戦の比較が面白い。

 <他の人気競技では放送時間優先で生中継がないのにまいった。>

 というのだ。

 <ジャマイカのウサイン・ボルト選手の世紀の快走はどれも半日待ってようやく放送された。NBC系サイトでのネット中継もなく、待ちきれない人は動画投稿サイトなどでゲリラ的に見るしかなかったらしい。>

 動画投稿サイトはアメリカでそこまで活用されているのか。これも驚きだ。

 <フェルプス選手が期待どおりの活躍をしたこともあり、96年の米アトランタ五輪以来の高い視聴率を記録。大統領選を争うオバマ、マケイン両上院議員も巨費を投じ、五輪時間帯にテレビ広告を流した。NBCはしっかり元を取ったようだ。>

 とある。大統領選目前のアメリカ・メディア事情が目に浮かぶようだ。面白かったのは、結びの文章だった。

 <金メダル獲得数では中国の後塵を拝したが、あまり騒がれてはいない。日本を含め、世界的には金メダル獲得数順で国別ランキングを決めるのが一般的だが、米メディアは金銀銅のメダル獲得総数で順番を決めている。これなら米国はまだ世界一。自国の独自基準にこだわるところは中国とどっこいどっこいだ。>

 である。へえー、金メダルにこだわらないのか。それは北京五輪に限らず、今までもそうだったのだろうか? そうだろうなあ、とは思うのだが。今回、金メダル獲得数で中国に抜かれるのが分かっていて、今回だけ急にメダル総数での計算にに変えたら、視聴者だって何か言うだろうからなあ。

 こういう文化比較は面白い。日本での放送権料話は後で読売新聞で出てくる。

◆各国メダル獲得数

 金メダルだけが五輪ではない、のだが、国別メダル獲得数も気にはなる。一応、書いておこうか。毎日新聞25日朝刊2面の表を写したものだ。

                   金      銀     銅      計

①中国               51      21    28      100

②米国               36      38    36      110

③ロシア              23      21    28       72

④英国               19      13    15       47

⑤ドイツ              16      10     15       41

⑥豪州               14      10     8       46

⑦韓国               13      10     8       31

⑧日本                9      6     10       25

⑨イタリア              8      10     10      28

⑩フランス              7      16     17      40

⑪ウクライナ             7      5      15     27

⑫オランダ              7      5       4     16

⑬ジャマイカ             6      3       2     11

⑭スペイン              5      10      3      18

⑮ケニア               5       5      4      14

 あと話題になった国では、グルジアが3,0,3の6個。北朝鮮が2,1,3の6個。インドは1,0,2の3個。台湾は0.0,4の4個くらいか。合計で金メダルは302個、銀メダルは303個、銅メダルは353個授与された。授与されたメダルの合計個数は958だった。

◆大きな真実は往々にして小さな穴からのぞき見える

 朝日新聞8月25日朝刊1面コラム[天声人語]子は開花式の「フェイク?」を、閉会式後の新聞でまつぃても、ぶり返して批判していた。相当に腹に据えかねたのかな?

 「漢民族の子が扮した56民族の代表」「CGの花火映像」「口パクの歌」をあげて、

 <わけても口パクである。ある少女から「容姿」を、別の少女からは「声」を「いいとこ取り」するやり方には、「個の人格」を軽んじる危うさが透けていないか。「国益のため」という説明を聞くにつけ、国家主義の横顔が脳裏から消えやらない。>

 「国益」「国家主義」と朝日新聞が好きそうな言葉が並ぶ。

 <開閉会式の総監督を務めた張芸謀氏は、本紙との会見で「小さなことを意図的に拡大するのはよくない」と批判に異を唱えた。だが、大きな真実は往々にして、小さな穴からこそ、のぞき見えるものだ。>

 この「大きな真実は小さな穴からのぞき見える」って誰かの名言だったのかなあ、忘れてしまったけど、何か心に残る言葉だった。

 <ともあれ五輪は成功裏に幕を閉じた。17日間にわたった「お客さん用」の化粧を落として、中国は宴のあとの日常に戻る。化粧を落とした新たな表情は、大国としての自信を深めていることだろう。その「自信」の先行きに、隣人として目を凝らしたい。>

 という結びだった。1面の藤原秀人・中国総局長総括論文の見出しも<宴の後こそ向き合う時>。朝日は「宴」が好きだなあ。2面[時時刻刻]は<「成功」五輪遠い存在>の見出しで<チベット 僧に毎日「愛国主義教育」><ウイグル 「私たちに自由などない」><北京市民 「外出控えよう」標語>と北京五輪の「負の部分」を特集していた。

◆デモ申請77件、許可はゼロ

 読売新聞8月25日朝刊2面<デモ申請77件 許可ゼロ>は北京特派員の記事。

 北京五輪期間中に北京市内3カ所の公園内に限って認めるとされていたデモ行進は24日の閉幕日を迎えても1件も実施されないままに終わる見通しとなった、と書いていた。

 北京市公安局の18日の発表では今月1日以降、外国人3人を含む149人から77件のデモ申請があったが、1件も認められないまま、すべて取り下げられた、という。国境なき記者団(本部・パリ)によると、15人の中国人申請者が拘束されたという、とあった。

 朝日2面が特集した「負の側面」なんだけど、もっと大きなテロを封じ込められた北京共産党政権はホッと胸を撫で下ろしていることだろう。

◆5000年の歴史の中の17日間の「邯鄲の夢」、意義は大きい

 日経新聞8月25日朝刊1面コラム[春秋]は中国5000年の歴史を引き合いに出しながら、北京五輪の意義を説くスタイルだった。8月26日だったかの毎日新聞コラム[余録]も同じ手法を用いていたと思った。次のは日経の文章である。

 <中国は米国、ロシアに金メダル争いで圧勝し、愛国の胸は高まるばかりだろう。胡錦濤主席がいう「アヘン戦争以来、艱難辛苦の道を歩んできた」中華民族は一つの転機を迎える。一方、閉幕とともに不満が一気に噴き出す気配もある。これが現実だ。ギョーザ事件も少数民族の人権問題もすべて棚上げにしてきた。>

 <開会式で「朋あり遠方より来る……」と孔子の言葉で迎えた。その後、遠方の仲間は偽装五輪などと酷評した。論語はこのあとこう続く。「人知らずして慍(いか)らず、亦た君子ならず乎」(人から認められなくても腹を立てない、それこそ君子ではないか)と。中国が大人の国であれば早く変化の兆しを見せてほしい。>

 <冷厳な国際政治の現実はあるが、若いボランティアの多くは柔軟でしなやかだったと現地記者は伝える。神秘で異質な国も徐々に世界に扉を開いていくことだろう。中国5000年の歴史の中で17日間のこのスポーツの熱狂は「邯鄲の夢」のごときものだが、世界も中国も五輪によって互いを肌で知った意義は大きい。>

 悠久の歴史を世界に訴える中国に負けないように、孔子の言葉などを引いて、大きく構えたコラムだが、言わんとするところは良く分かる気がする。

◆中国メディアの五輪総括ぶりと日本の民放のうるさい中継ぶり

 朝日新聞8月25日夕刊1面は<五輪総括 自賛と自戒/中国メディア/当局の指導徹底>の見出しで北京特派員電がトップ記事。中国の新聞などが五輪をど総括したか、を見てみようという趣向である。

 <北京五輪の閉会式から一夜明けた25日の中国各紙は一斉に「過去に例をみない五輪」と成功を祝った。一方で、最多となった金メダル数については「冷静かつ理知的に見つめる必要がある」と呼びかける記事が目立つ。「肯定的かつ民族精神を高揚させる記事を書きながらも、過度にあおらないように」という五輪直前に中国当局から出された通達が色濃く反映されている。>

 <「五輪を通じて中国は世界と未曽有の親密な関係となり、新しい時代に突入した」――人民日報は1面に閉会式で手を振る胡錦濤国家主席の大きな2枚の写真を掲載し、共産党がもたらした成功であることをアピール。>

 <だが、世界中で話題になった開会式での少女の「口パク問題」など過剰演出や、会場周辺で取材中の外国人記者が相次いで拘束されたことは触れられていない。>

 <こうした報道の背景には、8月上旬、五輪批判を禁じてプラス面を強調するよう中国共産党中央宣伝部が各社幹部に指示した通達がある。…通達は「メダル数に固執したり予測したりする報道をするな」とも指示。世論形成に強い影響を持つネット上で獲得メダル数に関心が集まり、ナショナリズムが暴発することを恐れたためとみられる。>

 という内容である。謙虚に、謙虚に、と思いながら、紙面の端々から嬉しさがはみ出してくるような新聞だったのだろうなあ。

 朝日1面は<欧米は人権指摘>のベタ記事もつけており、米CNNの「言論の自由や政治的な抗議に対するスタンスに問題が残る」、英紙フィナンシャル・タイムズの中国当局がインターネットへの接続を制限したこと、デモを許可しなかったことを批判したことを取り上げた。

 しかし、この日の朝日新聞夕刊は、この1面記事よりも対社面の<識者の声>のほうが本音が見えて、面白かった。

 コラムニストの天野祐吉さんは

 <民放スタジオの狂想曲はひどかった。見ていれば分かることをいちいち言う。勝つと『ギャー』、負けると涙。競技の間は選手の汗と涙のビデオ>

 と、まずは民放批判をしている。民放アナウンサーの声、確かにうるさかったよなあ。

 また、天野さんは中国の人権問題について、

 <反対意見も分かるが、やらなかったら見えてこなかったことがたくさんある。テレビやウェブのおかげで、もう国威の発揚の道具にはならない。情報が流れるから問題をオープンにせざるを得なくなる。オリンピックもそういう時代になった>

 と話していた。この見解には賛成だがすぐに結論を出さず、じっくりと考える必要があると思う。

 中国社会に詳しい早稲田大学の園田茂人教授(比較社会学)は、

 <2億人強がネットで五輪を見た。ブログが炎上することもあるし、ネットでの世論調査もある。閉鎖されないよう、駆け引きしながら本音を出す。市民の成熟によって、世論形成のあり方も変わっていくだろう>

 と、五輪が中国社会を変える可能性あり、という前向きな捉え方。これが事実となればいい、と思うのだが。

◆日本の北京放送権料は198億円。バンクーバー冬季+ロンドン夏季五=325億円也

 読売新聞8月26日朝刊解説面<北京五輪のTV中継>で鈴木嘉一編集委員はテレビ中継で8日の開会式(37.3%)、日本が米国を破った21日のソフトボール決勝(30.6%)など、平均視聴率が20%を超えたのが15本(ビデオリサーチ調べ)だったとして、時差もあったが、前回のアテネ五輪は日本人選手が大活躍したのに、20%超えは7本だけだった。それに比べて、北京五輪の視聴率はすごい、という論調。NHKと民放で流した全番組の平均視聴率(10.7%)でもアテネを0.5ポイント上回った、という。

 NHKと民放が共同で取得した今大会の放送権料は1億8000万㌦(198億円)だった。

 その多くを負担するNHKはほとんど”五輪一色”に染まり、総合テレビ、衛星第一、衛星ハイビジョン、ラジオ第一に加え、時には教育テレビでも中継し、放送時間の合計は800時間に迫ったという。

 どうりで、いつどこのチャンネルを回しても五輪をやっていたわけだ。

 計173時間の放送を予定した民放は2局が同時間帯で別の競技・種目を中継する「2波出し」が前回の6回から10回に増えた、という。民放関係者は「営業的には競合を避けたいが、『生』を重視したから」と言っている、という。

 鈴木賢一・NHKスポーツ業務監理室長は「NHKと民放が五輪で生中継できる衛星回線は四つあり、今回はほぼフル稼働した。地上波と衛星放送の四つのチャンネルで、違う競技・種目をかなり生中継できた」と総括した。鈴木編集委員は「NHKと民放が視聴者の選択肢を広げた姿勢を歓迎したい」と評価した。

 2011年7月にはアナログ放送を終了し、完全移行する計画の地上デジタル放送にとっては2度目の夏季五輪だそうだが、この夏、デジタル対応の受信機は良く売れたそうだ。NHKは7月末でBSデジタル放送の普及が4000万件を突破し、地上デジタル放送は3757万件と推計しているそうだ。

 今大会は、全競技の国際映像が初めてハイビジョンで制作された。2006年から始まった携帯電話向けの地上デジタル放送「ワンセグ」のデータ放送で、五輪情報を提供した局もあるという。

 また、今大会では初めて五輪の映像がインターネットで国内に限り配信された。民放各局は共同の五輪動画サイトを開設し、5分以内に編集した競技・種目のハイライトを400本近く流した、という。人気種目に限らず、放送されにくいカヌーやセーリングなどの競技も取り上げたという。アクセス数は公表していないが、サイトではベスト5が1時間ごとに更新されたそうだ。

 NHKもホームページでニュース映像を配信し、動画へのアクセス数は110万を超え、「技術的には生中継も可能。今回は次の五輪をにらんで試験的に実施した」という。

 HNKと民放はすでに、10年のバンクーバー冬季五輪と12年のロンドン夏季五輪の放送権を325億円で一括契約、地上波テレビ・ラジオ、衛星放送、ネットの権利が含まれている、という。

 坂東記者のリポートにあったアメリカだけじゃあないんだ。足元の日本でも「五輪狂想曲」にならざるを得ない経営要請があったのだ、とシビアに資本主義の論理が分かる解説記事だった。

◆オリンピック選手の顔が幼く見えてしまったワケ~鹿島茂氏の分析

 面白かったのが毎日新聞8月27日朝刊文化面連載[引用句辞典 不朽版]<北京の「子供顔」>の鹿島茂氏の文章。

 見出しは<「自我パイ一人食い」という団塊世代の迷惑遺産>と、何やら見出しを見ただけでもそそられる。

 <「大塚 君(東浩紀)がよくいう小さな遊び場で、大人にならなくてもいいからっていうのは、それこそぼくたちの時代にもあったメッセージだよね。浅田彰の『逃走論』がある意味ではそうだったし、中森明夫たちが言っていることもそうだった。もっと言っちゃえば、それは団塊世代の思想だった。(中略)団塊世代も大人になりたくない大人たちだったから」(大塚英志+東浩紀の対談『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』講談社現代新書)>

 なるほど、これをまず引用してきたか。鹿島先生、さすがにいいところに目を付けておられる。

 <北京オリンピック・女子ソフトボールのテレビ中継で400球を投げぬいた上野投手の力投を見ながら、団塊世代以上の人は、昭和33年・日本シリーズの西鉄ライオンズ・稲尾、あるいは翌年の日本シリーズの南海ホークス・杉浦を想起したのではないだろうか?
 そうそう、昔の日本人には、たしかにこうした肉体の限界を越える超人的な「大人」がいたものだ。上野の顔は久しぶりに「鉄腕」という言葉を思い起こさせてくれた「大人顔」であった。>

 <半面、テレビ画面に映る日本人選手の顔が、種目・男女を問わず、ひどく幼く見えてしまったというのもまた事実である。これは私一人の思いすごしだろうか?>

 と、この問いが、北京五輪と今、最高に旬な本である「リアルのゆくえ」を結びつける結節点なのである。

 <どうも、そうとは思えない。欧米や中国の選手と比べて、日本人選手が例外的に若いというわけではないのに、日本人選手だけが特別に幼く、子供のように頼りなく見える。ごくわずかな例外を除いて、男も女もみんな「子供顔」なのである。>

 <かつて、マッカーサー元帥は離日後のアメリカ上院で、民主主義の成熟度に関して(ただし、好意的な意図のもとに)「アングロサクソン民族が45歳の大人だとすれば、日本人は12歳の子供だ」と発言して物議をかもしたが、この元帥の言葉を、ごく単純に肉体的、精神的成熟度と捉えた場合、それはそのまま21世紀の日本人に当てはまってしまうのではなかろうか?>

 なるほど、フンフン、それで…。

 <なぜなのだろう? なにゆえに、また、いつごろから、日本人は肉体的にも精神的にも大人になることを拒否して、子供のままであり続ける道を選んだのだろう?>

 名調子である。

 <思うに、原因は二つある。>

 そうか、二つか。

 <一つは、日本における高度資本主義の異常な発達。なぜ、高度資本主義が「日本人総子供化」の要因かといえば、それはマーケットの大半が子供(大人になりきれない大人)であれば、それだけ儲かるという原理が働いているからだ。>

 <商品に対する判断力をもった大人が消費者では、新しくて便利な商品の宣伝をしても、簡単には買ってもらえないが、消費者が子供なら、いくらでも宣伝に乗せることはできる。世の中に子供が増えれば増えるだけ、高度資本主義は儲かるような仕組みになっているのである。>

 売りつける対象とは確かに判断能力のない「子供」のままフリーズドライしておけば、物を売りやすいだろう。流行させれば買うのだから。

 <もう一つは、成熟に伴う責任を回避したいと願う人間がある時期を境に急激に増えてきたこと。その時期とは、これは自ら体験したことなのではっきりといえるが、団塊の世代の登場からである。>

 さあ、「団塊」責任論である。居住まいを正して読もうじゃないか。

 <思い出していただきたい。大学生になってもマンガを読む。背広のかわりにジーンズとTシャツを着る。結婚を回避して同棲を選ぶ。サラリーマンとなるよりも民芸品店(あるいはモダンジャズ喫茶)の主となる、等々、記録に残されている団塊世代の特徴は、いずれも成熟拒否のピーターパンたちの発したメッセージだったのだ。>

 ピーターパン症候群かぁ、懐かしい言葉がたくさん出てきます。

 <それは、自我というパイを家族、共同体と分かちあうことを前提とする日本人的な、いいかえれば大人的な生き方を、団塊世代がなによりも鬱陶しいと感じ、自我パイは全部一人で食べたいと思ったからにほかならない。>

 <もちろん、自我パイの一人食い(これは当時、「感性の無限の解放」などと呼ばれた)は共産主義ユートピアと同じくらいに不可能な絵空事なのだが、しかし、それは幻想であるだけに、後続世代に強い影響力を及ぼした。>

 <共産主義の幻はあとかたもなく消え去ったが、「自我パイ一人食い」幻想の方は消えるどころかますます強固なものとなり、その結果、気がついてみると、日本人は全員、自我パイは一人食いしていいと信じる「子供」と化していたのである。>

 随分とひねくれた文明論だな、これは。「自我パイ」の配分論って誰の論理なんだっけ?

 <オリンピック選手の子供顔を責めるのは酷である。彼らを子供顔にしたのは戦後の日本社会そのものなのだから。>

 と、まあ、”鹿島節”全開です。好きなテーマなので、読みながら、ついつい全文を引き写してしまいました。

 異論反論もあるし、「子供顔のせいだけじゃあないだろう」、と突っ込みを入れたくもなるが、こうした、ちょっとひねくれた分析というか、見方は、みんなが一点集中、蛸壺に入ろうとしている時には強烈な爆弾となって、理性を呼び戻してくれるきっかけになるかもしれない。

 このタイミングで東、大塚の対談本と北京五輪を結びつけた牽強付会さ。鹿島さんの精神力というか、体力はすごいと思う。こうした”斜め斬り”論文を新聞社の編集委員とか遊軍記者にももっともっと書いてほしかった。もっと読みたかった。野球選手、男子体操、柔道…みんな幼かったんだもん。ひ弱だったんだもん…。カッカしている時こそ、こうしたシラケさす論文が必要なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月24日 (日)

書評 谷徹、今村仁司、マーティン・ジェイほか著「暴力と人間存在」(筑摩書房)~「暴力的文化アイコンとしての『赤ずきん』物語」など収録

 2008年8月25日初版第1刷発行。定価3200円+税=3360円。帯には<社会に隠された暴力をあばき、その真相と本質を解明する>とある。表紙裏の宣伝文句は次のようなものだった。

暴力と人間存在 暴力と人間存在

著者:谷 徹,今村 仁司,マーティン・ジェイ
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 <戦争・殺人・虐待・いじめ・DV……。あまりにも多様な暴力がわれわれの社会を脅かしている。いや、暴力は人間の生活全体のなかに住みついているのだ。暴力が人間の存在規定と不可分であることを疑う人はもはやいないだろう。とすれば暴力現象の解明は、その深さにおいて人間そのものの解明でもある。人間が人間として存在するかぎり、人間は暴力から完全に解放されることはないかもしれない。しかし、そうであるからこそ、暴力に適切に対応することが求められている。暴力の問題は、思想・倫理・法律・政治・文化・歴史・教育・心理・医療……など、きわめて広い領域に関わっている。しかも、すでに明るみに出された暴力だけでなく、これまで明るみに出ることのなかった暴力が、それらのいたるところに潜んでいるのである。本書は、こうしたさまざまな暴力の問題に取り組むために、可能なかぎり研究の領域を広げ、隠された暴力を掘り起こしながら、暴力現象の深層と本質を解明する。暴力と人間存在との関わりを理論的・実証的に考察した画期的成果。>
 谷徹氏によるまえがき、あとがきによると、2004年に今村仁司氏らが中心となって立ち上げた「暴力論研究会」は2007年度末までに計26回の研究会を重ね、その成果に基づいて本書ができた、ということだった。
 「2001年9月11日の同時多発テロで21世紀は幕を開けた。あまりにも多種多様な暴力が現出している。これらは人間存在には暴力が深く根付いていることを示しているものではないか」という認識で、人間研究としての暴力研究を続けたようだ。
 ところが、中心人物の今村氏が2007年に病に倒れ、永眠された。大著「社会性の哲学」を残すことができただけでも良かった、という。
 残念ながら、この本に入っている今村論文が難しすぎたので、この大著を読もうとは思わないが。
 たしか、今村さんといえば、最近、岩波書店から出た「岩波社会思想事典」の編集者だったのではないか、と思って、探してみたらやはりそうだった。
 思想史事典のはしがきでも、「誠に残念なことに、今村仁司氏は、2007年5月、本事典の完成を見ることなく、病に斃れられた。心より哀悼の意を示したい。そして、共同編者としては、本事典が、今村氏の御遺志に違わぬものになっていることをただ願うばかりである」とあった。共同編者は三島憲一、川崎修両氏だった。
 ちなみに、思想史事典の「暴力」項目は今村氏が書いており、「暴力と権力」「供犠(sacrifice)の暴力」「排除の暴力」の三つに分けて説明していた。短い説明なお出、余計分かりにくい感じがした。
 さて、「暴力と人間存在」に戻ると、幅広い分野の専門家がずらりと揃って、暴力を論じた論文が目一杯詰まっている感じである。
 難しくて分からない論文も多かったが、こういう業際的作業は「知」の総合化のために必要だろう。
 私のような専門知識のない素人がある程度読め、薄々でも理解できた論文だけあげておこう。
 著者たちはほとんど、立命館大学の学者さんたちである。谷さんの人脈なのだろうか。
▽谷徹「暴力論の基礎考察」
 暴力論を3分類する。
 ①社会論的暴力論(ソレル、ベンヤミン、アドルノとホルクハイマー、ジラール、今村仁司)…「社会」の成立要因の考察の中で暴力が問われる。
 ②心理学的暴力論(フロイト、ハーマン)
 ③現象学的暴力論(ハイデガー、アーレント、レヴィナス、デリダ)
 の三つである。
①社会論的暴力論
 ベンヤミンは暴力を、法がおのれを維持するために用いる「法維持的暴力」と法を初めて樹立する「法措定的暴力」の2種類に分ける。
 この二つは「神話的暴力」とされ、それを破壊するものとしての「神的暴力」を対置する。
 神話的暴力は権力に結びつき、神的暴力は法外な正義の支配・統制の可能性を開くことが重要とされる。
 神的暴力は「法」を超えた「正義」である。つまり、法自体が暴力(神話的暴力)であり、その法=暴力に支配された世界を、その外部の正義(神的暴力)と関連させることが重要だった。
 これはデリダが「もろもろの小文字の法を超えた大文字の法そのもの」を考えたのと同じ問題意識だ、とされる。
 フーコーにとっては「近代における権力」が最も重要な研究対象だった。
 しかし、フーコーの言う「権力」は独特の含意を持ち、それは「見る」とともに「知」あるいは「理性」と一体化している。
 フーコーは「臨床医学の誕生」で近代医学が死体を開いて見ることで、生命とそれに結びついている病の闇を光に曝す、つまり「見る」=「知」「理性」を育てた、と見る。伝統的に高級な感覚とされた「見る」は曝すものとして暴力的なのである、と。「見る」を高級と見ているかぎり、この暴力性は隠れている、という言葉にも含意がある。
 さらに、フーコーは「監獄の誕生」で、残酷な公開処刑(死)を人々に見せることによって自らを維持してきた王権的権力が変貌し、新たに、拡散した・ミクロの権力が「パノプティコン」(一望監視)型の「眼差し」(つまり「見る」こと)を張り巡らすことによって、いわば自発的に権力に服従する「主体=臣民}を形成するようになったことを示した。
 また、「見る」のみならず、「知」も人畜無害ではなく、権力による支配と結託しているのである。
 この支配の仕方で印象的なのは、それが(主体化=従属化)といういわば自主的な従属を示す概念で表現されたことであろう。「主従」が反転的に結びつくのである。主体を主体的と見ている限りでは、その従属性は隠されてしまう、とあった。つまり、なかなか見えない真実が多いのだなあ。
 さらに、フーコーは、「狂気の歴史」で、近代の理性が狂気を閉じ込めるという形で(いわば敵意を持って)排除したことも示した。
 そして、また「性の歴史」第1巻で、性の秘密を告白させる医学・精神医学の「知」がセクシュアリティなるものを形成して、それに反する性的異常なるものを排除し、そのことを通じて人間の生全体を支配・管理しつつ「生・権力」として機能するようになったことを示した。
②心理学的暴力論
 心理学的暴力論の典型はフロイトだ。フロイトは当初の「攻撃欲動」の理論から、「生の欲望(エロス)」と「死の欲望(タナトス)」の理論に進み、サディズム、マゾヒズムなどの概念を使って分析を進めた。
 エーリッヒ・フロムの「権威主義的人格」と「自由からの逃走」のプロセス分析。
 この心理学的暴力論では暴力被害者の心理も問われる。
 だが、暴力現象は総じて隠れる傾向を持つ。とりわけ性的事象が絡むと、この傾向はさらに強まる。
 J・ハーマン「心的外傷と回復」。トラウマ(心的外傷)と孤立無援化、解離=その事件の記憶を統合できなくなること。外傷的事件は被害者に他人や社会との「感情的紐帯」を引き起こし、他者との関係のうちで維持されている自己というものの構造を粉砕する。そして、世界の安全性の基礎的前提を破壊する。世界に対する基本的信頼がなくなる。
 通常、幼児は肯定的な自己像のうえにイニシアチブを取る能力を発達させるが、それの発達が不十分だと、その人は罪悪感と劣等感を起こしやすい、とハーマンは言う。
 しかるに、外傷的事件は、被害者をこうした状態に陥れる。そのことから、被害者は、被害者自身が悪いのだという感覚をもってしまう。こうして「離断」が生じる。
 さらに、長期の反復性外傷は「監禁状態」という条件によって生じる、とハーマンは言う。
 長期の監禁状態において加害者は被害者に加害者を尊敬するように、また感謝や愛情を表明するように要求し続ける。
 参照されるべき事象として、従軍慰安婦の場合、オウム真理教の場合などがあげられているが、実際の分析には入っていない。自分で考えてみろ、ということだろう。
③現象学的暴力論
 現象学的暴力論だ。フッサールでは暴力論まで進まなかったが、ハイデガーで根源的な経験における暴力とでもいったものが露わにされた。ハイデガーの暴力論はアーレントやレヴィナス、デリダを引きつけた。
 しかし、ハイデガーの「ポレモス」論はナチスの人種優越主義を止めることができなかった。
 ハイデガーのナチス加担責任問題である。ロゴス的収集とポレモス的闘争。「生」は「戦争で生き残ること」の単語と同根だった。ハンナ・アーレントの「暴力について」や、レヴィナスのハイデガー批判h、ハイデガーを基礎にしながら、それを批判的に乗り越える試みだった。
▽今村仁司「暴力以前の力 暴力の根源」は読んだが、難しくて全くチンプンカンプンだった。残念だが。
▽鳶野克己「暴力の教育的擬態を超えて――教育学的暴力研究における人間学的展開のために」
 これは、学校などでの「暴力反対」教育が児童・生徒に効果を表さない原因を探求する試み。
 教育とは、そもそも「望ましい人間の望ましい生き方」に向けて子どもに働きかける営みだから、親や教師にとっては、それを目指し、実現すべき価値的目標となる。
 その価値的目標を目指す営みは、到達度を測られ、評価される。
 評価とはある事象を特定の視点から当該の評価対象として位置づけ、基準に即してランク付けする作業だから、子どもも親も教師も、教育し教育されることを通して自分たちのうちに到達された成果としての「望ましさ」の度合いに応じて位階が与えられる。
 与えられた位階の違いは価値的な優劣と上下の差を意味する。
 したがって、教育は「望ましさ」という価値的目標を実現するために、その到達度を絶えず向上させていくことを迫られ求められる営みとなる。
 「望ましい」は強制になる。それが「教育に固有な暴力性」だ、というのだ。ただ、これも普段は隠れていて見えないので、生徒にも[親にも教師にも気付かれにくい。だから、教育に暴力が内在しているという認識がなくなり、「学校から暴力を追放しよう」という空虚なキャンペーンが繰り返されるのだ、と分析している。
▽福原浩之「暴力とその癒し――インナーチャイルド・メソッドの観点から」
 これは面白かった。実践論である。滝に打たれ、瞑想して、と、その山伏のような生活がうらやましい。
▽竹山博英「組織犯罪と暴力」
 これは風変わりな研究。イタリア・シチリア島のマフィアの歴史の研究である。マフィアが暴力を目的にしているのか、お金なのか、とか。シカゴ・マフィアのルーツがどのように誕生したか、よく分かった。読みやすいし、勉強になって面白かった。
▽服部健二「暴力・審判・救済――ヘーゲル哲学を参考に」
 これは精神障害者の犯罪を裁くことができるか、など非常に現代的問題を罪刑法定主義の父フォイエルバッハ(ヘーゲル学派のフォイエルバッハの父)とヘーゲル本人の思想を対比させながら考えたものだ。
 罪刑法定主義はもともと、「罪を憎んで人を憎まず」で、人を罰するのではなく、あくまで行為を、しかも有責の行為のみを罰しようとした思想。
 昔、聾唖者とかが責任能力なしとされ、それが徐々に改正された。日本の刑法でも1995年(平成7年)には阻却対象から外された経緯があり、今日、統合失調症といわれる精神障害者もそれと同じ可能性がある、とする。
 「内面を裁くのではなく、行為を裁く」という近代刑法の基本思想をある意味徹底しながら、精神障害者の場合も、その行為によって分節している自己があるのだ、と考えることができるのではないか、と問題提起するのである。
 <精神障害者を法的世界の正当な住民と認め、憲法に保証された裁判を受ける権利を認めることによって、ヘーゲルが目指したように、法の正義の回復と彼らあるいは彼女らの自己回復の機会も与えられるといえよう。そうしてはじめて、近代刑法の大きな問題点の一つが乗り越えられるのではないだろうか。>
 この視点は私には新鮮だった。どうして、あまり話題にならないのだろう? もっと主張、論争されてしかるべきではないか、と思うのだが。
 2003年7月に成立した「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」で精神科医に再犯の恐れがあるかどうか、の管理的判断まで求められるのは問題だとしていた。
▽ウェルズ恵子「暴力的文化アイコンとしての『赤ずきん』物語」
 この本で、これが一番面白かった。
 相当に長い論文だが、何しろテーマが赤ずきんちゃんである。グリム童話が有名だが、ウェルズ氏はそれ以前の民間伝承まで遡るとともに、最近の庄司薫の「赤ずきんちゃん気をつけて」や米国の映画まで引っ張り出してきて、時代と「赤ずきんちゃん」の消費のされ方、性的な表象なのか、暴力との関係がどうなっているのか、などをきめ細かに分析していく。
 学術論文を読んでいて「わくわくドキドキ」はほめ言葉ではないだろうが、まさに「わくわく」する論文。一般の単行本になっても、売れるのではないか。
 読んでいて、森鴎外「山椒大夫」を思い出してしまった。
 安寿と厨子王の物語だ。
 ハッピーエンドではない。母と安寿の悲劇があり、その対極としての厨子王の出世話がある。
 底流のテーマは権力と悪とセックスである。子供向けではセックスは隠されるのだが、子どもは心の中に疑問を持ち続け、大人の性への架け橋にもなりうる物語だ、と思っていたのだが、ウェルズ氏的に言えば、この物語も時代の中で改編されてきたのかもしれない。
 男性中心社会の成立とか、関係あるのだろうなあ。それに、山椒大夫とその仲間の「山賊」という職業も、後世に抽象化されただけで、当時は「山賊」だって、いいところをたくさん持っていたから、生き残れたのだろうし、とまあ、この論文はいろいろな連想を膨らまさせてもくれる。お薦めの論文である。
▽最後の三つの論文は難しいので、除外させてもらう。
 戦争からいじめまであらゆる「暴力」の学際的研究をまだ続けているそうだ。
 地味な研究だが、今や「戦争とは何か」「平和とは何か」「テロとは何か」「反テロ国際協力とは何か」が問われる時代である。本にあるとおり、人間と暴力が切っても切り離せないことが分かった、という。それが分かれば、分かるほど、その暴力をどうコントロールするか、が問われるのだから。貴重な研究をもっともっと続けてほしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月23日 (土)

ひまつぶし…数字ナゾナゾ~何年か後に役に立つ(かもしれない)ミニ知識

◆16.8%増で1位
 日経新聞8月21日夕刊1面トップ<対中輸出額、対米上回る/戦後初/全体の黒字86%減/貿易統計7月>は財務省が21日発表した7月の貿易統計速報(通関ベース)で中国向けの輸出額が前年同期比16.8%増の1兆2864億円、米国向けの輸出額は11.5%減の1兆2763億円となり、中国向けが米国向けを戦後初めて上回った、中国が日本にとって最大の輸出相手国となった、という内容。
 香港・マカオも含めた中国圏向け輸出量は2007年5月から米国向けを上回っているが、今回は香港・マカオを除く中国向け輸出量で初めて中国向けが米国向けを超えた。中国向けは38カ月連続で増え、米国向けは11カ月連続で減った。米国向け輸出額が2桁減となったのは2カ月連続。円高による輸出価