小室哲哉氏の逮捕をはじめとした事件については書く気はなかった。今でも事件そのものをメモしておこうとは思わない。新聞を読んでも分からない部分が多すぎて、もう少し裏の面が分からないと、今の段階で書いておいても仕方ない、と今でも思っているからだ。でも、事件ではなく、小室の楽曲がなぜ流行したか、の音楽論が最近、新聞の文化面、娯楽面などに載るようになったので、小室氏の音楽について、少しメモしておこう。
そんなことを思ったのは11月16日のスポニチ社会面連載[明るい明日を]で美輪明宏さんが<真理をバカにする者は滅びる>のタイトルで、小室哲哉氏の音楽を語っていたのを読んだからだ。「そうかぁ、美輪さんも歌手だったなぁ、美輪さんが言うのならば、やっぱり音楽評論家たちがいろいろと言っていることは本当なんだろう」と思ったのだ。
美輪さんの若い頃の「ヨイトマケの歌」は力があった。うまかった。マイクなどなくても、劇場中に響き渡った。あの丸山明宏がこんな占い師になるとは当時想像もできなったが、今でも美輪氏をテレビで見ても嫌悪感はない。スカルノ夫人とか、安岡正篤の戸籍が入っていない後妻とか、化け物のような女がテレビを席巻しているが、美輪さんの場合、レベルが違う、という感じがしているのだ。
美輪さんは小室容疑者の逮捕を「一つの音楽バブルが弾けたことの象徴」という。何がバブルだったのか? 美輪さんは小室容疑者がキーの高い歌を作ったのは商売上手だからだ、とも言う。どこが商売上手なのか?
美輪さんは、
<高い声がもてはやされるのは井上陽水やクリスタルキング、オフコースからでした。それが80年代のカラオケブームに乗って量産されるようになりました。カラオケで高いキーの曲を歌うと周りから「あの人はすごく高い声が出る」と尊敬されるのです。小室容疑者が作った曲はカラオケボックスで歌って踊って騒ぐためのものだったのです。>
と、カラオケボックスの流行と小室サウンドとの関係について重要な指摘をする。そのうえで、
<本来、高い声というのは不快音になりかねません。クラシックのソプラノのように発声が豊かできちんとしていれば良いのですが、そうでなければトタン屋根をガラスでひっかいている音のように感じます。歌っている本人は金切り声を上げて気持ちいいでしょうが聞かされる方は他人が吐き出す毒を耳に入れるわけですからたまりません。>
トタン屋根をガラスでひっかく、という表現はユニークだが、どんな音がするのだろう? ガラスといえば、ガラス板を十円玉でひっかく音は想像するだけで気持ちが悪くなるが…。
<もともと日本の歌謡界もビング・クロスビーやジョニー・ハートマンのように低音が良いとされていました。フランク永井さんの歌がヒットしたのは低音の魅力があったからです。森進一や青江三奈さんのようなハスキーな声がはやった時代もありましたが、石原裕次郎さんにしてもフォークソングにしてもニューミュージックにしてもみんな普通の声で快いメロディを歌っていました。小室容疑者の楽曲のブームが去り、最近になって秋川雅史の「千の風になって」がヒットしたのは高い声でギャーギャー叫ぶ文化を正統派に軌道修正しようという動きだったのです。>
小室音楽に関する部分は以上である。あとはホリエモン、村上ファンド、亀田兄弟など、話は飛んでいく。音楽の話ではないが、小室容疑者の生き方については、以下のような「ご託宣」が下されている。
<小室容疑者も同じですが、彼らに共通しているのは日本人独特の奥ゆかしさ、謙虚さ、たしなみ、程の良さといったものが欠如していることです。「金さえもうかればいい。奥ゆかしさなんて古い」ということでしょうが、人間が生きていくことに古いも新しいもありません。いくら今新しいといっても明日にはもう古くなるのです。真理というのは動かないものなのです。それをバカにする連中は必ず滅びます。>
美輪明宏氏の言葉を読んで、小林秀雄の、芥川龍之介の皮相さを強烈に皮肉った「歴史と文学」(1941年4月)の次の言葉を思い出した。
<日本の歴史が、自分の鑑とならぬような日本人に、どうして新しい創造があり得ましょうか。>
「歴史と文学」には滋味深い言葉が多い。
「歴史は決して繰り返さない。だからぼくらは過去を惜しむ」
「『史観』は手段、道具に過ぎないのに、それを信じる人がいる」
「史的唯物論などの近代合理主義史観は『人間がいなければ歴史はない』という大切なことを忘れている」
「歴史事実とはかつて在っただけでは足りず、今もなおその出来事が在ることが感じられなければ仕方ない」
「歴史は繰り返してくれれば、というはかない望みが『歴史の発展』という考え方を生んだ」
「歴史の弁証法的発展という目笊で歴史の大海をしゃくって万人が等しく承認する厳然たる歴史事実というだぼはぜを得る」
「現代の文学は心理とか性格だとかいう近代頭脳の発明にかかる幻の驚くべき氾濫と陳列とにより、人間の運命というものが、覆い隠されている」
などである。これは小林の表現そのままの表現ではないが。ここは小林秀雄を論じる場ではないから、これ以上は触れないが、美輪の文章の中に小林と同じ魂を見る人もいるのではないか、と思う。でも、それもここのテーマではない。ここでは小室哲哉氏の音楽とカラオケの発展と流行歌の変遷を見てみたいのだ。
「高音」というのが一つのキーワードだろう。
◆カラオケ用、芸術家じゃない~読売新聞解説面から
この問題は11月5日読売新聞朝刊解説面に文化部の西田浩記者が<小室哲哉サウンド/カラオケ曲でヒット/音楽「大量消費時代」を体現>の見出しでうまくまとめていた。
小室哲哉氏は作詞、作曲、編曲、歌手のプロデュースまで手掛け、90年代の音楽界に旋風を巻き起こしたが、当時、バブル経済は崩壊し、不況の真っ只中だが、CD市場は98年まで右肩上がりの成長が続いていた。その原動力となったのが10~20歳代の若者層に広がったカラオケ・ブームだった、という。
カラオケで歌う曲を求め、熱心な音楽ファン以外もCDを購入。「歌いやすく上手に聞こえる」がヒットの重要な要素になり、業界でも「作り手が送り出したい音楽」よりも「聴き手が求める音楽」を制作するため、マーケッティング的な手法を導入。音楽市場の好況を背景に巨額の宣伝費を投入して次々と新人を売り出した。
そうした時流を巧みにとらえたのが小室氏だった、という。西田氏が2001年に小室氏にインタビューした際に「僕は創作衝動だけでものを作る芸術家じゃない。受け手の反応は必ず計算する。最新の制作技術や音楽スタイルと大衆の仲人みたいな存在」と答えた、という。
親しみやすい旋律に、シンセサイザーを軸とした華やかな音作り。ダンスビートを大胆に導入し、ダンスに興味を持つ層も取り込んだ。多くの亜流も生まれた。
安室奈美恵さんやglobeをはじめとするJ-ポップの中国、台湾などアジア市場への進出にも貢献した、という。
ここで音程の高い話が出てくる。
<音楽評論家の富沢一誠さんは「彼の楽曲は全体に音程が高めで、歌うと高音を心地良く響かせられるように計算されている。育てた歌手は、自分の色に染められるアイドル的な存在が大半。逆に、確固たる表現スタイルを持ったアーティストの長所を引き出すすべは持ち合わせなかった。それが彼の限界だった」と指摘する。>
そういうことなのだろう。西田記者は、
<小室流が巷にあふれた分、反動で飽きられる宿命にあったと言えるだろう。勢いに陰りが見えた90年代末、代わって大きな人気を集めるようになったのが、曲作りも手掛ける宇多田ヒカルさんや椎名林檎さんら個性的なキャラクターだった。似通った作りの音楽が売れる時代は終わりを告げ、好みはより多様化していった。>
と、音楽の好みの多様化現象を小室氏凋落の主な原因と結論づけていた。次の指摘も面白い。
<98年をピークにCD市場もマイナスが続き、昨年の音楽ソフト生産額は全盛期の約6割にまで落ち込んだ。かつて、「カラオケで歌うため」「流行に遅れないため」といった動機でCDを買っていた、ファン以外の消費者が離れていった。「小室サウンド」のヒットを支えた大量宣伝の手法も難しくなった。>
時代の流れだ、と単純にいう時に、これだけのデータが裏にある。大量宣伝の手法が難しくなったことについては、詳しい分析はなかった。
音楽の大量消費時代が終わった時に、サザンオールスターズのようなカリスマ性に乏しい小室氏はファンの心をつなぎとめておくことができなかった、というのだ。
安室奈美恵「CAN YOU CELEBRATED?」(97年)は230万枚。globeの「DEPARTURES](96年)が229万枚、篠原涼子「恋しさと せつなさと 心強さと」(94年)が202万枚…など、当時は爆発的な売れ行きだった。今や夢幻、荒城の月である。
◆東京新聞[こちら特報部]の見方も同じだった
東京新聞11月5日朝刊[こちら特報部]も小室容疑者を特集した。なぜ時代に愛され、時代に捨てられたのか? という疑問を解こう、という試みである。高音域に特徴がある小室サウンドは「TKサウンド」と呼ばれて、カラオケでもてはやされた、ともあった。
この中では音楽評論家の反畑誠一さんの言葉が面白い。
<「1990年代後半、速いテンポのダンスミュージックに乗せたギリギリの高音域の女性ボーカル―という新しいエンターテインメントで頂点に上り詰めた。東アジアにJ-POPがファッションとして広まるのに連動し、台湾、香港、中国にまで小室サウンドも広まった。(ところが21世紀に)ダンスミュージックと入れ替わりにR&Bがブームになっていった。でも彼は、より刺激的な音楽を創り出そうとし、2001年ごろから次は『トランス』(音楽ジャンルの一つ)がストライクゾーンだと言っていたが、そうではなかった。そのへんから”選球眼”が鈍るというか、大衆との間のズレが出てきたような気がする」>
◆毎日新聞夕刊は随分と情緒的な分析だった
11月13日毎日新聞夕刊[特集ワイド]<「Jポップ」全盛期築いた小室哲哉の音楽/「90年愛」終幕の偶像>は小室氏の略歴を入れながら、小室氏の音楽を探った。
音楽評論家の反畑誠一氏は「日本の音楽産業の盛り上がりと小室ブームは同じラインを描いている」と話している。「Jポップとは何か―巨大化する音楽産業」(岩波新書)の著者でジャーナリストの烏賀陽弘道氏は「リスナーの性別や年齢、居住圏をはっきり想定してから曲をつくっていたから売れた。(ターゲットは若い女性だが)聞く人が求めているものを曲に取り込んでいた。86年に渡辺美里さんに提供した『My Revolution』からその傾向は始まった。この曲は一人でも夢を追いかけようと呼びかける歌詞に軽快なテンポが合う。この年に男女雇用機会均等法が施行されたのも偶然ではない。男と対等の働き手として職場に送り込まれた女性への応援歌になっていた。90年代半ば、小室氏の視線の先には女子高校生がいた。コギャルという新語が流行った。小室さんやレコード会社は高校生たちがどんな歌詞にぐっとくるか、どのような衣装が人気かをきちんと調べていた。そういうマーケティングを曲作りに生かした」と話している。
東京・原宿の女子高生中心のマーケティングリサーチ会社は89年創業で現在も1000人を超すモニターをネットワークしているが、ある取締役は「安室さんやtrfなど、小室さんがプロデュースした曲を視聴させたり、音楽ビデオを見せてアンケートを取っていました。今も、彼女たちの口コミは、はやり物への強い影響力がある」と話している。
国内の音楽ソフト生産が最高になった98年、小室氏はアジア進出を目指して香港に総合音楽プロダクションを設立し、活動はピークを迎えたかに見えたが、この年、香港のベンチャー市場で株価が暴落し、巨額の負債を抱えた。烏賀陽さんは「そもそもアジアに進出するメリットはない」と言い切る。日本はアメリカに次ぐ世界第2の規模の音楽市場を持つが、中国、香港、台湾はそれぞれ日本の50分の1程度の規模しかないからだ、という。
「少子化で小室さんのファン層だった若者人口が減った。といって、団塊の世代向けの曲は今更作れない。日本の購買層が少なくなり、海外に市場を探さざるを得なかったのかと思う」
というのは反畑さんおコメントか。反畑さんは98年にデビューした宇多田ヒカルさんの影響が大きい、という。当時15歳、女子高校生世代で、宇多田さんの存在感は際立っていた、といい「宇多田さんの曲は若い女性の生活感にあふれた詞と自然に近い音でつくられていた。彼女のリズムアンドブルースが、デジタル音でできた小室さんのダンスミュージックに取って代わった。聞き手が刺激よりも安らぎを求め始めていたことに小室さんは気付かなかったのかもしれない」。
最後に坂巻記者は、次のように総括していた。
<テレビよりネットの時代。趣味の多様化、楽曲のダウンロードなどもあり、98年以降のCDなどの音楽ソフトの売り上げは減少傾向だ。その下降線は小室プロデューサーの衰退と重なる。90年代という時代をつかんだ男はいま、「音楽で再起したい」と話しているという。>
結構説得力のある書き方だ、と思った。
◆安室奈美恵(31)は鮮やかに復活してきたのだが…
朝日新聞10月30日夕刊芸能面<アムロ30代も刺激的/歌、衣装…自己像操り七変化>は97年頃、小室サウンドでヒットを連発した安室奈美恵が31歳になって小室哲哉プロデュース時代とは異なる音楽性・ビジュアルを打ち出し、2度目のピークを迎えようとしている、という内容だ。
3月には3曲入りCD「60s70s80s」で9年ぶりにシングルチャート1位獲得だそうだ。7月発売のアルバム「ベスト・フィクション」は10年ぶりに100万枚突破だ、と。だから、安室奈美恵は10代、20代、30代と三つの年代でミリオンヒットを飛ばした日本初の歌手だそうだ。
ここでは音楽評論家の萩原祐子さんの言葉が出てくる。引用する。
<表現力がダントツ。痛みを知っているから優しくなれるとか、そんな生ぬるいものを超えている。90年代には小室哲哉やつんくなど旬のプロデューサーが仕掛けさえすればヒットするという幻想があったが、2001年に小室の手を離れたのを境に彼女はセルフプロデュースに能力を発揮し始めた。制作集団の見事な編成に、彼女のその時々の主張を感じる。03年のユニット「スイート・シーク」ではヒップホップのジブラやm-floのバーバルとも、いい化学反応が生まれた。詞も大部分はプロに任せている。自分で作詞しなければアーティストではないという呪縛にとらわれていないのも強み。>
作家の柴崎友香さん(35)のカラオケで消費されることを拒むようなダンス音楽への挑戦にも潔さを感じる、というコメントは、同じダンス音楽でも小室哲也氏の目指すものとは逆のサウンドを目指している安室奈美恵の強さを感じさせる。
記事を書いた藤崎昭子記者の、
<「聖子ちゃん」の残像を求めるファンに応え続ける松田聖子も偉大だが、ときにムチを構えてファンのイメージを裏切り続けるところに、女子がほれる「安室ちゃん」の真価があるのかもしれない。>
という言葉を読み、安室ファンなんだ、と納得いた。
歌は世につれ、である。私のような団塊の世代にとっては実は小室哲哉サウンドは自分の青春時代とは無縁な音楽である。
グループサウンズや山口百恵、せいぜいキャンディーズが同時代に少し引っかかっているかなあ、という程度の古い人間だから、こういう記事も自分の感性ではなく、平成音楽史の一幕として読んでしまいがちだが、実際にはこのサウンドを自分の人生に重ね合わせて生きている人間がたくさんいることを想像できなければ、こうした記事は無用の長物になってしまう。
◆山口百恵「横須賀ストーリー」の原点
でも、やはり、私がシンクロできる記事と言えば東京新聞9月28日朝刊[東京歌物語 横須賀ストーリー]<スターの原点にじませ>など、自分の青春時代が甦る記事である。
1972年12月、日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」に応募し、翌年5月に「としごろ」でデビュー、わずか7年半後の80年11月に俳優の三浦友和さんと結婚して引退した山口百恵と「横須賀ストーリー」の作詞者、阿木耀子の物語である。
1976年6月発売で、オリコン1位を獲得、百恵の最大ヒット曲になった。
記事には阿木氏の「年齢も違う百恵さんと唯一の共通項は横須賀だと思って、横須賀をテーマにタイトルから入ったんです」、「あのリンとした姿勢。百恵さんは時代が生んだ人だと思う。一作ごとに目を見張るほど歌が進化していき、大輪の花が開いていく過程は見事でした」という話が載っていた。
記事は、
<百恵引退から、すでに28年の月日がたつ。かつて、百恵が住んでいた三浦半島の丘の頂に立つ団地は今もある。周辺は歌詞にもある急な坂道が多く、宅地開発が急速に進んで一戸建てやマンションが目立つ。埋め立て地の平成町ができるまでは、丘の上からも遠くに海が見えた。>
と百恵にちなんだ今の横須賀の変化を書き記す。
今、横須賀市議で、当時は社会科の教師だった男性の「百恵さんはまじめで何事にも熱心な生徒さんでした」という言葉。また、同級生で市議の「端正できれいな顔立ちでしたが、歌手になると聞いた時はびっくり」という思い出話も、当時は百恵さんの心の琴線にまで触れることができなかった「周囲の人々」の見方を代表した言葉に過ぎない。
記事の結びは、
<すべての原点がこの街にあり、彼女が描く”横須賀ストーリー”の結末は「平凡で幸せな家庭」だったのだろう。四十九歳。長男は社会人、次男は大学生と二人の子供にも恵まれ、いまはキルト作家としても活躍している。>
だった。お幸せに、である。
東京新聞のこのページが好きなのは、[あの時代]として、その歌が流行した年の出来事をメモでまとめているところだ。ちなみに、この記事では1976年の出来事を次のようにまとめていた。
<1月に周恩来・中国首相死去。鹿児島市立病院で五つ子誕生。2月にロッキード事件が発覚。その年「黒いピーナツ」「灰色高官」が流行語に。9月に毛沢東・中国国家主席死去。暮れには三木内閣総辞職、福田内閣成立。司馬遼太郎の「翔ぶが如く」がベストセラーに。映画「JAWS(ジョーズ)」が日本上陸し、大ヒットを記録した。>
こうした簡単なメモは記憶をたどるよすがになる。
◆53歳になった太田裕美さんが輝いているわけ
産経新聞9月30日[人、瞬間~あの曲]は太田裕美さん(53)の「木綿のハンカチーフ」を取り上げていた。1976年に大ヒットした、あの歌である。
小学校3年からピアノ、中学・高校ではクラシック音楽を学び、自身もアルバムの作詞作曲に参加する太田は「木綿のハンカチーフ」が売れて、アイドル扱いされると、葛藤に悩んだ、という。
常に新しい歌を作り、これこそ今の自分の歌だ、と思うのに、どこに行っても「木綿のハンカチーフを歌って」と言われるのに耐えられなかった、というのだ。それも、出産で歌手活動を抑えた時期を過ぎてライブを本格的に再開すると、吹っ切れた、という。
「かつて自分が歌った自分の曲を愛着を持って聞いてくれる人がこんなにいるんだって身にしみるんです」という言葉に太田の成長があらわれている。「自分が歌手をしている限りは、持ち歌は自分の子供と一緒です。責任を持って歌わないと。歌を愛してくれた人に恩返ししないと。もう歌わないなんて、言っちゃいけないんですね」と。1974年の「雨だれ」がデビュー曲。1985年に結婚。2人の男の子の母親。今でも現役で、加藤和彦氏らとのライブが多いようだ。一回、聞きにいきたいなぁ。
◆47歳の手塚理美さんは高校2年(17)と中学1年(13)の兄弟の母
日経新聞9月16日夕刊[こどもと育つ]に女優の手塚理美さん(47)が登場していた。
歌手ではないが、小林亜星さんと一緒のコマーシャルで鉄棒にぶら下がった手塚さんに眩しい思いをした古いファンとしては、ここに加えて書いておこう。
最近では「ALWAYS続・三丁目の夕日」に出ていた。俳優の真田広之さんと結婚したが、1997年に離婚。次男は父と暮らした記憶がない、という。子供の育て方についての話だから、内容はどうでもいい。だが、手塚さんの子供のころと同じ笑顔の写真が載っていたので、切り抜いておいた。
ユニチカのマスコットガール時代だったか? たしか13歳だった、と思うのだが、小林亜星の大きなユーモラスな体型と手塚のこわれそうな小ささのコントラストが印象的で、いまだに手塚を見ると、あのCMを思い出す。34年前だったか?ということは1974年? もっと前だったか? 華がある女優ではないから、今主演しろといっても、なかなかだろうが、バイプレーヤーとして確固たる位置を占めているのだろう。
と、何か変なおじさんの変な趣味にマッチする女性が何人か出てきた、という感じになってしまった。本当は日本音楽とアメリカ音楽と韓国の流行歌について、もう少し突っ込んだ話を書こうと思っていたのだが。反省。
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