歴史

2009年8月25日 (火)

<「戦後日本」の新たな自画像>という問題意識は面白い:分水嶺は保守VS.革新ではないと思うのだが…酒井哲哉・東大教授の寄稿~読売新聞09年8月25日

 久しぶりに文化欄で面白い記事を見つけた。読売新聞09年8月25日朝刊コラム[ワールドスコープ]の酒井哲哉・東大教授(日本政治史)が書いた<「戦後日本」新たな自画像を>である。ビートルズの「When I‘m Sixty-Four(64歳になったら)」を思い出させてくれるイントロからして楽しい。いい曲だった。落ち着いた曲調、のんびりした雰囲気。ジョンが歌ったていたのだろうか? と思い出したところで、「戦後日本は今夏で64歳である」とくる。

 <64歳の日本は、何を歌えばよいのだろう。私達はいま、どのような戦後史の自画像をもてばよいのだろうか。>

 と問いかけて前文を終わっている。つまり、これがこのエッセイのテーマなのだ。論理の運びも面白いし、言葉遣いも「ホー」という表現が案外多かったから、ここからは全文を書き写す。面倒だが、こういう寄稿はインターネットにアップされていないので、仕方ない。

 <戦後思想史は知っているようで知らない分野である。まずそれは学校で教わらない歴史である。若者の多くは、丸山真男や小林秀雄の名前さえ聞いたことがないかもしれない。より年長の世代にとって、戦後は保革の対立構図で理解される歴史である。「護憲」対「改憲」、「平和主義」対「日米安保」という図式は間違いではないが、歴史の複雑さを伝えない。保革対立の古典的構図が崩れた現在、このような図式からこぼれてしまう問題群に目を向ける必要がある。>

 歯切れのいい文章である。丸山真男氏は中学か高校で「であることとすること」くらいは習うのではないか、と思ったのだが、それは昔で、今はカリキュラムが変わり、教えていないのだろうか。小林秀雄氏は昔は、中学の国語の教科書に出てきたものだった。今は出てこないのかな? 随分と変わったのだろう。もっと上の世代というと私も含めてもらっているのだろうが、その世代には「戦後」は「保革対立」の歴史だった、と。思想史というジャンルでものを見ようとしていることを忘れてはいけない。あくまで思想という問題に絞って考えた場合、ということなのだろう。

 しかし、それでも「保守VS.革新」という区分けは1989年のベルリンの壁崩壊後は通用しづらくなっているのではないか。冷戦崩壊後、思想史的に考え直せば「あれがターニングポイントだった」という時点を各自持っているはずだ。高度成長とか、それこそ60年安保とか東京五輪とかテレビの発達とか。92、93年ころからの政治思想史の流れで言えば、それは「保守対革新」ではなく、「ハイポリティクスVS.開発政治」や「自民党=社会党55年体制=親米保守VS.アジアに開かれた新しい保守」などの区分けも可能かもしれない。

 <保革のイデオロギー構図が固定化したのは、60年安保前後である。それ以前はもっと入り組んだ構図があった。まず占領期には、保守政権とともに、片山・芦田内閣という中道左派政権が存在した。また平和論においても、現実主義は軽視されたわけでは必ずしもなかった。試みに当時の丸山真男の論説を再読してみればよい。そこでしばしば強調されているのは、悪をなし得る人間性への着眼である。政治は人間を「問題的な存在」として扱わざるを得ないという発想は、丸山の思想の根底にある。そもそもファシズムと戦争を経験した世代が、お目出度い楽観論者である訳はないだろう。>

 なるほど。丸山真男は単なる平和ボケの象牙の塔学者ではなかった、と。

 <従って、60年安保後の論壇が、「理想主義」対「現実主義」という形で平和論を定式化したのは不幸なことであった。のみならず、それ以前は中道左派政権を支えるべき理念であった民主社会主義も、「保守」の議論と見做されるようになった。このように半ば以降の日本の保守主義は、本来「革新」の議論であった主張を包摂する形で成立している。さらにそれは、60年代末の新左翼の産業社会批判をも部分的に取り込んだ。80年代にポストモダン論が、しばしば保守の論客から取り上げられたのは象徴的である。>

 この「ねじれ」というか、保守のバキュームカーのようなキャッチオール的曖昧さはいろいろな論者がそれぞれの言葉を尽くしながら説明してきたものだ。ただ、この「理想主義]対「現実主義」という分水嶺を不幸というが、それはいかがか。

 全面講和か部分講和か。日米安保には賛成か反対か。四つの組み合わせができて、政治勢力の合従連衡が進み、この大波をかいくぐった後には統一社会党結成、保守合同に向かって動きが加速するのではないか。その時に、現実政治の舞台である国会や討論会で「理想論を言っても始まらないじゃないか。もっと現実的になれ」という批判が一方から出され、逆からは「憲法前文、国連憲章の理想に反する行為は将来に禍根を残す」という論が出されて、この論議はどこまで行っても平行線だったのだ。

 あの時代、「理想主義]対「現実主義」という分水嶺以外、考えつかなかったのは致し方ないのではないか、と思うのだが。

 <今夏の政治劇が示すのは、ある時期まで保革対立の前提をなすものと信じられてきた要素が、もはや単純には維持できなくなったという現実である。だがそこから、過去の歴史や思想に学ぶものがないと考えるのは短絡すぎだろう。64歳の人生には、理想と現実がまだら模様になった知恵の集積がある筈である。「保守の中の革新」そして「革新の中の保守」という入り組んだ系譜から、新たな戦後日本の自画像が描かれるべきだろう。>

 酒井さんという方はこういう考え方をする人なのか。襞の部分が面白い感じだ。

 ウィキペディアによると、酒井哲哉氏は1958年4月27日生まれ、51歳。日本の政治学者で専門は日本政治外交史、国際関係思想史、外交論。

 福岡県出身。東京大学法学部卒業後、同大学院法学政治学研究科修士課程修了。同大法学部助手、北海道大学法学部助教授を経て現在は東京大学大学院総合文化研究科教授。

 著書に『大正デモクラシー体制の崩壊―内政と外交』(東京大学出版会、1992年)▽『近代日本の国際秩序論』(岩波書店、2007年)。

 編著に『岩波講座「帝国」日本の学知①「帝国」編成の系譜』(岩波書店、2006年)があるそうだ。

 論文は▽「『9条=安保体制』の終焉―戦後日本外交と政党政治」『国際問題』372号(1991年)▽「戦後外交論における理想主義と現実主義」『国際問題』432号(1996年)▽「戦後思想と国際政治論の交錯―講和論争期を中心に」『国際政治』117号(1998年)▽「後藤新平論の現在―帝国秩序と国際秩序」『環』8号(藤原書店、2002年)▽「国際関係論と『忘れられた社会主義』―大正期日本における社会概念の析出状況とその遺産」『思想』945号(2003年)▽「戦間期日本の国際秩序論」『歴史学研究』794号(2004年)▽「国際政治論のなかの丸山眞男―大正平和論と戦後現実主義のあいだ」『思想』988号(2006年)▽「国際秩序論と近代日本研究」『レヴァイアサン』40号(2007年)▽「社会民主主義は国境を越えるか?─国際関係思想史における社会民主主義再考」『思想』1020号(2009年)。

  単行本所収論文で新しいのは「近代日本外交史」李鍾元・田中孝彦・細谷雄一編『日本の国際政治学④歴史の中の国際政治』(有斐閣, 2009年)とあった。随分と細かくアップしている人がいるんだなぁ、びっくりした。

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2009年8月12日 (水)

井上寿一氏の「第二の国家再建」論、真剣に考えてみよう~産経新聞09年8月12日[正論]

 産経新聞09年8月12日朝刊オピニオン面[正論]は井上寿一・学習院大学教授の<「8月15日」を思う/第二の国家再建を考えるとき>だった。小見出しは<復讐から絶対平和主義へ>、<戦後矛盾が生む閉塞感>である。読んでみよう。
 <8月15日は「復讐記念日」である。敗戦時の国民は程度の差はあっても、そう決意したのではなかったか。たとえば医学生の山田誠也(のちに戦後大衆文学の国民的作家となる山田風太郎)は昭和21年の同月同日の日記に「復讐記念日」と記している。その翌年の同月同日も「われらが復讐記念日!」だった。あるいは作家の高見順は昭和20年8月16日に「こんなことで敗けるのはいやだ、戦争をつづければいいのにと、そういう人が多い」と記録している。>
 のっけからこれですか。だから井上氏の論は面白いんだけど。
 <「復讐」とはアメリカに対してである。当時も今もアジアに対してはともかく、アメリカに対して日本が侵略戦争を仕かけたと考える人は少ない。政治的な立場の違いを超えて、日米戦争は日本の「自衛戦争」である、との共通の理解がある。「自衛戦争」として正当化する論陣を張ったのは東京裁判の法廷におけるA級戦犯の東条英機元首相だった。東条は権限に逃避する矮小な政治指導者ではなく、検察側と互角に渡り合っている。国民は東条を再評価するようになる。判決の当日、ラジオの実況放送をとおして東条が「微笑んで静かに法廷を去った」ことを知った山田風太郎は「東条はかくて日本人永劫の英雄となった」と記している。>
 東条英機礼賛ですか? それはちょっと。
 <仏文学者の渡辺一夫も当日「東条元首相を救え」「トージョーは世界の英雄だ!」と叫ぶ国民の声を記録している。しかし、国民の「復讐」戦の誓いが持続することはなかった。その理由として言及したいのは、対米再戦をともに戦うはずの旧軍に対する国民の不信感である。8月15日、新聞記者たちは陸軍省の軍服姿の憲兵たちが「私物や官給品をごっちゃにくるんで肩にかけ、トットと門を出てゆく」のを目撃している。敗戦時に自決した将校は少数だった。ある学徒兵は「物欲、名誉欲、虚栄心以外の何ものでもなかった軍人たち」に対する非難の言葉を残している。>
 これは本当のことなのだ。軍人が国民を守らずに自分と自分の家族だけのために武器を使ったことは満州の守備隊や沖縄戦の日本軍を見れば分かるとおりだった。以前はそういう感覚がリアルに国民に共有されていたので、土井たか子氏の「子どもたちを戦争に行かせてはいけない」という訴えが憎っくき軍人のイメージとオーバーラップして説得力を持ったのだった。国民は決して非武装中立を望んだのではない。ただ、日本軍に増長させるのはもうたくさんだ、という原体験、父母の時代の原体験が1970年代までは継承されていた、ということだろう。
 <国民は「復讐」戦の誓いから絶対平和主義へと転換する。日本が戦争を起こさなければ、世界は平和である。このような絶対平和主義の思想に正統性を与えたのが「平和憲法」だった。占領軍の押し付けであることを百も承知で、国民はこの憲法を受け入れた。崩壊したモラルの回復を求める敗戦国民にとって、〈平和〉は国家再建のための魅力的な目標となったからである。ところが絶対平和主義は困難に直面する。朝鮮戦争が勃発したからである。日本が戦争を起こさなくても、戦争は起こる。これが国際政治の現実だった。国民世論は再軍備支持が過半数を超える。それでも改憲することなく、日本の安全保障をアメリカに委ねた。国民は「平和憲法」と日米安保条約の矛盾を矛盾として受け止めながら、両立を求めた。>
 転機は朝鮮戦争だったのだ。間違いない。
 <戦後日本は「平和憲法」と日米安保条約の下で、経済発展による国家再建を志向する。大衆消費社会を享受するアメリカが日本の国家モデルとなった。ここに親米路線が確立する。8月15日を起点とする国家再建の道のりは、以上のような紆余曲折を経ながらも、奇跡的な経済発展をもたらした。日本の戦後史は肯定的に評価されるべきだろう。>
 戦後日本のアンビバレントな感情ですか。
 <しかし、戦後日本が抱えた矛盾は、解消されることなく今日に至っている。長く続く矛盾は日本社会に歪みや閉塞感をもたらした。将来への悲観的な見通しが国民を捕らえて離さない。どうすればよいのだろうか。>
 そうなのだ。本当にどうすればいいのだろうか?
 <第一に、日米関係が敗戦国と戦勝国との関係である以上、矛盾の原理的な解消は困難である。それでも政治・経済・社会・文化などの諸分野での相互補完関係を強めるようになれば、対米対等性は事実上、可能になるかもしれない。あるいは国際社会のなかで真の協調関係を築くことができれば、対米対等性にこだわることもなくなるだろう。>
 戦勝国と敗戦国との関係という関係性。この二国間関係を国際性の中で薄める、というか違う関係性に変容させることができるかどうか、と問うているのだ。この問いは案外重要だと思う。
 <第二に「平和憲法」に依存することなく、政策としての〈平和〉を構想すべきである。改憲の是非よりもさきに、〈平和〉のために日本は何をすべきか、政策を議論しなくてはならない。憲法のために〈平和〉があるのではない。その逆である。>
 大賛成だ。
 <第三に、戦後の経済発展の一方で、失われた国家と国民との一体感を回復すべきである。そのためには家族関係や地域社会レベルで結びつきを強めることから再出発し、国家目標の国民レベルでの共有をめざす必要がある。>
 国家目標を国民レベルで共有する、ということ自体が難しくなっているのだ、という見方もある。
 <64年を経て、ふたたび国家再建をめざす時が来た。8月15日は国家再建の日である。敗戦国日本の国民が困難な状況のなかでも立ち上がった出発点を思い起こしながら、第二の国家再建に向けて、決意を新たにしたいと思う。>
 第2の国家再建か。道は遠いみたいだ。

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2009年8月 9日 (日)

時流に阿っていた石川達三の軍国主義批判、産経新聞批判が納得されていた時代もあった~産経新聞09年8月9日[昭和正論座]

 産経新聞の[昭和正論座]が面白いのは昔、「当然だろう」と思われていたような言説に対し、右派(?)文化人がいちゃもんをつけるコーナーが「正論」だったように思うのだが、34、35年経つと、その「当たり前」だったはずの論がいかにお粗末で時流に阿っていたものだったか、がはっきり分かるからだ。今回の石川達三氏の「正論」批判がそれに当たるだろう。

 産経新聞09年8月9日朝刊オピニオン面の[昭和正論座]だ。

 この紙面の別項[視点]で(石)氏が、

 <日本ペンクラブ会長だった石川達三氏が「新潮」昭和51年新年号で産経新聞のオピニオン雑誌『正論』50年9月号の特集「日本の防衛力総点検」を「核武装までも暗に力説」、「サンケイ新聞(当時)はいつから軍国主義的になったのか」などと批判した。これに対する西氏の反論である。西氏は特集にある米の政治学者の論文や日本の外交評論家の自衛隊体験記などを精読した結果、軍国主義的な論調はどこにもなく「石川氏はよく読んでいないのではないか」と疑問を提起した。石川氏は昭和31年、ソ連や中国を訪問後「共産国家に自由はある」などと両国を賛美した作家として知られる。>

 と石川氏を茶化して書いていたが、石川氏は当時はものすごい権力を持っていた作家だった。

 いわゆる文壇の実力者である。今だったら誰なのだろう? 丸谷才一氏あたりを想像すればいいのかもしれない。そういう実力者らしく、「新潮」編集部に頼まれて書いたのか、自分で怒りに任せて書いたのか知らないが、「正論」攻撃をしたのだそうだ。

 1976年新年号というから、1975年の冬には原稿を書いていたのだろう。

 筆者は西義之・東大教授でこの「正論」自体は昭和50年(1975年)12月19日掲載だ。見出しは<雑誌「正論」批判、石川達三氏に反論>で、小見出しは≪ショッキングな正論批判≫、≪お門違いの「軍国主義化」≫、≪核武装暗に力説も間違い≫、≪アレルギーどころか妄想≫だった。

 本文を読んでみよう。

 <なにげなく近着の新年号「新潮」のページをめくっていると、作家・石川達三氏のつぎのような文章があった。>

 <「サンケイ新聞出版局は去年あたりから『正論』という綜合雑誌を出している。その九月号は(日本の防衛力総点検)という特集を組んでいるが、その内容をざっと見ると、要するに日本の防衛力あるいは戦力を増大させろという論調である。のみならず核武装までも暗に力説しているようなところもあるそれが全頁をあげて、何か人心を戦備に駆り立てるような語調であって、私は少なからず驚いた」>

 石川達三は中谷巌氏に似ているのかもしれない。じっくりと自分の頭で考えることができないから、自分が属している共同体の怒り、喜び、悲しみなどの感情を自分が代わって表現する、言葉を替えて言えば自分の考えではなく「みんな」の考えを表現することに巧みだった作家だ。だから戦争中は「風にそよぐ葦」「生きている兵隊」などと兵隊シリーズを書き続け、戦後「戦犯じゃないか」と責められると、今度は日本民主主義の旗手として反軍国主義の急先鋒のような論を書く。つまりお先棒担ぎがうまい人なのだ。

 言っては悪いが、中谷巌氏にもそういう気配がある。気をつけてほしい。

 石川氏は1975年秋から冬にかけてこの文章を書いたのだろうが、1975年という年はどういう年だったか、もう一度おさらいをしておこう。日本の首相は三木武夫。佐藤栄作長期政権の1972年7月5日に開いた自民党第27臨時大会で田中角栄を新総裁に選出、7月7日に第1次田中角栄内閣が成立した。この年の9月1日にハワイでニクソン大統領と日米首脳会談。9月29日には日中共同声明を発表して日中国交回復。これにより日台条約は失効した。72年11月には衆院解散、12月総選挙。72年は2月に浅間山荘事件とニクソン訪中・上海米中共同コミュニケ。4月に外務省公電漏洩事件もあった。

 1973年は1月27日にパリで米国、南北ベトナムと臨時革命政府の4者がパリで和平協定・議定書に調印、法的には1946年の第1次インドシナ戦争以来27年間も続いていた戦争は終わった。しかし、これは米国がベトナムから撤兵するという儀式に過ぎず、南北ベトナムの戦争は続き、最終的には北ベトナムによる吸収合併となる。73年8月8日には金大中拉致事件。9月11日にはチリで軍部のクーデターが発生、アジェンデ大統領は大統領官邸で自殺した。10月10日には田中・ブレジネフの日ソ首脳会談で平和条約締結に関する共同声明を発表した。

 1973年10月6日、エジプト軍はスエズ東岸へシリア軍はゴラン高原へ進撃しイスラエルと交戦、10月13日にはサウジアラビアが参戦したことでアラブ側は10カ国が参戦した。10月16日にはOPEC湾岸6カ国が原油公示価格を70%値上げ。10月17日にはOAPEC生産削減と供給制限(石油戦略)を決定。18日にはサウジアラビアが原油の対米・オランダ輸出禁止。OAPEC諸国が追随した。10月21日の国連安保理の中東戦争に関する米ソ共同提案の12時間以内の現状停戦を採択し、22日にイスラエルとエジプトが受諾。23日にはシリアも受諾したが、PLOは戦闘継続を宣言した。

 これが第4次中東戦争と石油ショックである。ローマ・クラブは10月24日開いた東京大会で「成長の限界」を打ち出し、21世紀の大破局を避けるには「ゼロ成長」が必要だ、というショッキングな提言をした。11月には日本のスーパーからトイレットペーパーが主婦の買い占めでなくなる、というトイレットペーパー騒ぎが起き、驚くべき「狂乱物価」。田中角栄首相の日本列島改造論で土地投機に注ぎ込まれていたカネが悪性インフレを起こした。田中首相は政敵の福田赳夫氏を蔵相に起用し、物価沈静化を図った。

 1974年1月の田中首相の東南アジア5カ国歴訪ではタイ、インドネシアで反日デモ、日本製品ボイコットにあった。「日本経済帝国主義の侵略に反対」という主張で日本への恨みがこもる東南アジアという現実に「豊かな社会」の日本人は戸惑った。

 1974年7月7日の参院選挙は「企業ぐるみ選挙」で自民党敗北。8月15日には朴正煕大統領が在日韓国人に狙撃され、大統領夫人が死去。日韓関係が緊張した。10月初旬発売の文芸春秋11月号に田中角栄金脈批判が掲載され、最初、日本の新聞は無視しようとしたが、米国の新聞などが報じたため一斉に報じ、自民党内からも田中批判が噴出。11月18日のフォード米大統領が現職の米大統領として初来日したのを置き土産に田中首相は11月26日に辞意を表明。12月1日に椎名自民党副総裁が三木武夫を新総裁に推薦する、という「椎名裁定」を出して、12月9日に三木内閣が成立した。

 とまあ、そういうことで、佐藤内閣から田中内閣を経て三木内閣に至ったのだ。そういう時代の話である。

 <そして石川氏は言う。「サンケイ新聞はいつから軍国主義的になってきたのか。それとも産業界が戦争を待望しているので、それを反映しているのか。いずれにせよこの雑誌を見ると、原爆の悲惨な経験などは夙に忘れているとしか思われない」>

 <ここまででも中々ショッキングな発言であるが、石川氏は「この雑誌のような言説がくり返しくり返し流布されているうちに軍国主義は育てられて行くのだ」と言い、最後を「私は『正論』のような雑誌がそのような悪質な報道の最初の杭をここに打ち立てるのではないかと恐れるのだ」と結んでいる。>

 <私は「少なからず」どころか、大変びっくりした。私の承知しているかぎり、新聞「正論」と雑誌「正論」とは編集の主体もちがい、雑誌のほうは新聞「正論」のいくつかを転載しているが独自の編集をしているようである。私は正直言って(雑誌一般の熱心な愛読者でないせいもあり、自分のが転載されることが少ないせいもあって)雑誌「正論」をあまり読んでいない。この九月号も全く読んでいなかったのだが、「サンケイ新聞が軍国主義的になってきた」ということでは、新聞「正論」の執筆者の一人としても聞きずてにはできないので、私は大急ぎで雑誌「正論」九月号をさがし出して精読してみた。以下はその感想である。>

 <軍国主義的論調にみちあふれ「全頁をあげて、何か人心を戦備に駆り立てる」勇ましいラッパでも鳴りひびいていると思ってこの雑誌を手にした私は拍子抜けしてしまった。石川氏はべつの雑誌を読んだのではあるまいか、と思ったほどである。モーゲンソーが核兵器を論じているが、これは米ソの問題であり、例の自衛隊クーデター論文というのは国会でとりあげられた例の事件であり、解説者は「かりそめにもクーデター研究などやれば、かえって共産革命をつけ入らせることになるだけだろう」と警告しさえしているし、加瀬英明氏の自衛隊体験記も、駄目だと思っていた自衛隊も案外やっているという、見直した報告である。「非常事態発生! 陸海空自衛隊はかく戦う」という架空のルポは結局、日本の自衛力がどの程度かということを素人にも分るようにお話にまとめたものにすぎない。納税者(タクスペイヤー)として、このくらいの知識はあってもよかろう。石川氏はむかしの「日米もし戦わば――」などを連想したらしいが、よく読んでいないのではないか? 私があえて石川氏の「サンケイ新聞、軍国主義化」発言の根拠を推測するとすれば、おそらく「日本は核武装すべきか--生存のための研究会」という論文一篇によるのではないかと考える。>

 <さてこの論文であるが、この研究会は実は文芸春秋七月号に「楽園は終った」という安全保障論を書いて、国際的に「センセーションを巻き起こした」会らしく、この「楽園は終った」も私はいまはじめて探し出して読んだのだが、くらべてみると--国際的反響の大きさにびっくりしたのか――「正論」のほうはトーンダウンして、いわば二番煎じの感をまぬかれないものである。前者には、核武装のほうが安上りで、「ジェット機一機で住宅がどれだけ建つという素朴な庶民の声にも応えられることになる」とか「核武装を多くの選択(オプション)の一つとして持つべきことに、世論の注意を喚起したいのである」とかいう誤解をまねきそうな言葉があるが、雑誌「正論」のほうでは「われわれは核アレルギーを打破すべきことを主張しても、核武装すべきだとは主張していない」と強くことわっている。石川氏は「核武装までも暗に力説しているようなところもある」と言うが、むしろこれは「楽園は終った」のほうに当てはまるのではないか。>

 <もっともこの「生存のための研究会」が核武装は主張しないが、核アレルギーは打破すべきであるというとき、どの程度の核アレルギーを意味しているのか、私にもかならずしも明確ではない。日本共産党が抗議するような米軍の核模擬爆弾投下演習や、あるいは原潜寄港に対するアレルギー程度のことなのか、この会の主張の歯ぎれはよくない。この会がもっと防衛についての論議がおこることをすすめ、国民的合意がつくられることを提唱しているのはわるくないが、自衛隊違憲論や安保論争のレベルではなさそうなところにむずかしさがある。>

 <とにかく私の読んだかぎり、雑誌「正論」の防衛特集は、石川氏のいうように「全頁をあげて、何か人心を戦備に駆り立てるような語調」はなく「核武装までも暗に力説して」いるふうもない。むしろ新聞「正論」から高坂正堯氏の「核防批准のあるべき姿」が採られていて、その一節「逆に、日本は通常軍備による進攻に対しては、かなり守り易い存在である。なんといっても日本が島国であるという事実が大きいし、それに日本列島が細長いことなど、利用できる点がいくつもある。それ故、不幸にしてアメリカの『核のカサ』がなくなり、軍事的進攻の可能性が生じた場合においてさえ、日本の安全保障政策の第一の努力は軍事衝突を通常軍備のレベルに抑えることになければならない」と、きわめて理性的な判断も述べられている。ペンクラブの会長までしている石川氏がこういう判断もふくめて「サンケイ・軍国主義化」を言うのは困ったことである。>

 <私には見当もつかぬことだが「産業界が戦争を待望している」徴候がどこかにあるのだろうか? これではアレルギーどころか、妄想としか思えない。しかしいかに私が力説しても、妄想患者はどんな枯尾花をも幽霊に仕立てあげる傾きがあるから、「正論」がそんなに軍国主義の「悪質な報道の最初の杭」を打ち立てているかどうか、やはりその判断を冷静な読者諸氏にゆだねるほうが賢明かも知れない。>

 こう読んでみると、良識派の西氏の言い分が至極もっともような気がしてくる。時代というものは怖いものだ。当時はこの西氏の論は極右ととられたのかもしれない。そして、石川氏が「良識派」と見られたのだろう。

 現在の私たちを取り巻く環境で、同じようなことが進行している可能性がある。後世の歴史に耐えうるようなしっかりとした地に足をつけた思考をしたいものだ。

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2009年8月 7日 (金)

故マクナマラ氏とベトナムの小さな物語:冷戦期の氏のこと、調べてみたくなった~産経新聞09年8月7日朝刊国際面

 産経新聞09年8月7日朝刊国際面ハコ記事<元米国防長官 マクナマラ氏死去/ベトナムの「沈黙」の裏にあるもの>は在バンコク・ジャーナリストの鈴木真さんが寄稿した文章だそうだ。読んでみよう。
 <米国のケネディ、ジョンソン両政権で国防長官を務めたマクナマラ氏が先月、死去した。フォード社長、世界銀行総裁なども歴任したが、この人が歴史に名を残したのは何と言ってもベトナム戦争の遂行者としてだった。しかし、当のベトナムは奇妙なことに旧敵の死にほとんど沈黙を貫いた。>
 ベトナム政府にとったら「オレには関係ねえ」か。
 <ベトナム戦争は「マクナマラの戦争」と言われた。本人もそれを容認し「勝つために、できることはすべてする」と豪語した。冷徹な頭脳による分析力と理解力には定評があった。敵の死者数と爆弾の投下量などに基づく「科学的手法」で情勢を判断し、戦争拡大政策を推進した。しかし、米軍の増派と北ベトナム爆撃の強化にもかかわらず戦況は好転しなかった。戦争の泥沼化とともに米国内では反戦運動が激化した。マクナマラ氏の息子も参加者の一人だった。自室には「敵」の解放戦線の旗を飾り、父とは何年も口を利かなかったという。当初の氏の自信は疑問に変わっていく。政治解決重視への政策転換を試みたが果たせず、在任7年後の1968年に国防長官を辞した。その後はベトナムについて沈黙を貫き1995年に出版した回想録の中で初めて自らと米国の「ひどい過ち」を公に認めた。>
 95年のマクナマラ回想録、読んでみようか。それにしてもマクナマラの息子もどうして親に孝行しないのか? 忠義に殉じるという格好のいいものでもなかろうに、時代の雰囲気に流されただけではないか。
 <氏の死去を受けて米メディアにはさまざまなマクナマラ論があふれた。あるものは「もっと早く疑問を公にし、政策転換を促していれば犠牲を減らせたはずだ」と長い沈黙を告発した。一方で、遅れたとはいえ自ら過ちを告白した勇気を評価する声もあった。>
 それはアメリカのメディアの話。日本のメディアはほとんど無視だったのではないか?
 <対照的だったのは相手のベトナム側である。筆者の知る限り、公式の反応は外国通信社の求めに応じて出した外務省報道官の談話だけだった。「安らかに眠ることを祈る」。英語でわずか5語である。共産党の統制下にあるメディアにも論評や寄稿などは見かけなかった。米国との間で余計な波風を立てたくないという共産党の判断だろう。>
 共産党政権とはいえ、中国を見ても分かるとおり、ソ連崩壊後の共産党政権は共産党という資産家予備軍による市場経済実験過程だと思えばいい。今のベトナムはそんな昔のことに構ってはいられないのではないか?
 <ベトナム側のおそらく唯一の論評を掲載したのは米ニューズウイーク誌である。戦争中、外務省米国局で情報分析を担当したという筆者は寄稿の中で「マクナマラ氏にあまり怒りは感じない。(中略)戦争の遂行が氏の職務だった」と理解を示し、過去に拘泥しない姿勢を強調している。ホーチミン市の国際空港から市内に入る幹線道路には戦争中、マクナマラ氏暗殺未遂の罪で処刑された解放戦線工作員の名前が付いている。しかし、同じ市内の戦争証跡博物館を2年前に訪れた際に目にしたのは「ひどい過ち」を告白した氏の回想録である。悔い改めた氏をベトナムは評価する。氏は1995年に訪越し、抗米戦を指導したボー・グエン・ザップ将軍に面会したが、敵意の無さに驚いたと氏は後で語っている。>
 そうだったのか。
 <ベトナムの寛容な姿勢はマクナマラ氏だけに限らない。米国の戦争責任の厳しい追及をベトナムは避けてきた。戦後復興のためには国交正常化を優先させる必要があったという事情がある。抑制した対応は中国、フランス、日本と繰り返し外国の支配を受けてきた歴史に由来するという見方もある。しかし、抗米戦でベトナムは300万人以上ものおびただしい犠牲者を出した。国民の間には「寛容」や「未来志向」だけでは括り切れない様々な思いが米国やマクナマラ氏に対し、あるはずだ。>
 300万人って多いなあ。
 <思いだすのは1994年2月に米国が対越経済制裁を解除した際のハノイでの経験である。戦後20年近く続いたベトナム敵視政策の大転換とあって、公式の反応は歓迎一色だった。庶民の感想を知ろうと街中で何人かに話を聞いたが、その中に戦死した2人の息子を持つ72歳の老父がいた。2人は遺骨さえ見つかっていないという。口から出たのは「子を殺された親の気持ちがわかるか。アメリカ人を憎み続けてやる」という涙声だった。>
 まあ、それが普通の親だろう。
 <南北ベトナムを隔てた軍事境界線はかつてマクナマラ・ラインと呼ばれた。氏が死去した日とその2日前にはこの線の南北で不発弾の暴発事故があり、計6人が命を落とした。不発弾や地雷による戦後の犠牲者は4万2000人にのぼるという。枯れ葉剤の被害も深刻だ。「マクナマラの戦争」はまだ終わっていない。マクナマラ氏は晩年、自らの反省を踏まえてあの戦争の実相を客観的に見つめ直そうとベトナム側との対話に取り組んだ。沈黙や建前の裏に自分に対するどんな思いがベトナム側に隠れているのか。氏自身もそれを知りたかったに違いない。>
 ウィキペディアによると、ロバート・ストレンジ・マクナマラ氏(英: Robert Strange McNamara、1916年6月9日~2009年7月6日)は1961~68年、米国防長官。1968~81年、世界銀行総裁。邦訳著書は『能率への忠誠―マクナマラの世界経営哲学』(サイマル出版会、 1968年)▽『世界核戦略論―平和のための真実の提言』(PHP研究所、 1988年)▽『冷戦を超えて』(早川書房、 1990年)▽『マクナマラ回顧録 ベトナムの悲劇と教訓』(共同通信社、 1997年)▽『果てしなき論争 ベトナム戦争の悲劇を繰り返さないために』(共同通信社、 2003年)、とあった。
 マクナマラ氏は当時は今では考えられないほど世界に注目された冷戦時の戦略家で、キッシンジャー氏以上の影響力を持っていたことは確かだ。93歳という長寿を全うした生き方はすばらしかったのかどうか。1960年代の「若者の反乱」と関連して、少し調べてみたい人物ではある。

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2009年7月30日 (木)

金解禁に関する新事実:マスメディアの無責任さに怒りを感じた~岩波書店「図書」09年8月号の松尾尊兊氏論文「石橋湛山と賀屋興宣」を読んで

 本屋の前に「どうぞお持ち下さい」と書いて積んであった岩波書店の月刊PR誌「図書」(一応定価100円)を手にとって、読んでみた。冒頭の論文、松尾尊兊氏の「石橋湛山と賀屋興宣」が面白かった。松尾氏は日本近現代史研究家である。

 懇意の古書店主人が一通の書簡を見せてくれた、という。昭和30(1955)年10月15日の日付の石橋湛山から賀屋興宣氏への書簡で、1955年9月の巣鴨からの仮出所を報告する挨拶状を受け取ったお礼状だが、それにしては形式的な書き方ではなく、親身が籠っている、と見て、松尾氏は二人の接点を調べ始める。

 この時、石橋湛山は第2次鳩山一郎内閣(日本民主党)通産大臣で、翌11月には保守合同の自民党が誕生、引き続き通産相にとどまった。

 全集ものの威力を知るのは、研究者の調査方法を見てである。松尾氏は石橋湛山全集全15巻の総索引で「賀屋興宣」の項目を引くと、全部で8ヵ所あった、という。そのすべては第1次近衛文麿内閣の賀屋蔵相(1937~38年)に対する期待や批判、2ヵ所は東条内閣蔵相名の言及だったが、私的交流を伺わせるものはなかった、と。つまり、夏目漱石全集でもそうだが、やはり全集の醍醐味は総索引にある、ということがよく分かる。

 ところが、賀屋が池田勇人内閣の法相を務めていた1963年前半に日本経済新聞に連載し10月に第19集として書籍化された「私の履歴書」には「雑音会」という耳慣れない会合のことが出ており、このメンバーに石橋湛山の名前がある、というのだ。

 石橋湛山氏は東洋経済新報主幹、高橋亀吉氏は元東洋経済新報記者だったが当時は独立して高橋経済研究所所長。小汀利得氏は中外商業新聞(現・日経新聞)経済部長、山崎清純氏は時事新報記者から読売新聞に移籍した人。この4人が普通は「4人組」と言われたが、時事新報記者の西野喜代作氏(「歴代蔵相伝」「半世紀財界」などの著書あり)も参加していた、という。

 松尾氏の調査は進む。この「雑音会」とは何か? 経済評論家の会合らしいが、実は1930(昭和5)年に浜口雄幸民政党内閣の井上準之助蔵相が第1次大戦後の懸案だった金輸出解禁、つまり金本位制への復帰を断行したのだが、この金解禁は世界恐慌の嵐に「戸を開け放した」(武藤山治)効果を生み、昭和台恐慌の惨事を現出した。

 この時の様子を結構詳しく書いているのだが、要は井上蔵相は大蔵省の正規の手続きを経ないで重要問題でも省議を経ずに、所管の課長を電話で呼び出して決済するやり方で進める井上専制大蔵省だった、という。だから、当時は「大蔵省の中に井上財政、金解禁に反対する勢力はいなかった」と言われ、歴史はそう書かれているのだが、実はそうではなかったことがこの書簡で明らかになった、というのだ。

 つまり、蔵相秘書官などを務めた賀屋が司計課長になって少し暇になった時に、「雑音会」メンバーと大蔵省主計局メンバーとの懇談会をセットし、石橋湛山や高橋亀吉の金解禁反対の意見を聞いて、意見が一致していた、というのだ。

 有名な史実としては海外駐在の財務官、津島寿一が欧米財界の意向を踏まえて新平価で金輸出解禁すべきだ、という意見を抱いて帰国すると、井上大臣の命により再び欧米に赴き旧平価での解禁という方針の下で予想される正貨流出に備えてのクレジット設定に苦労した、という話がある。だから、今までは旧平価での金解禁に反対したのは津島氏だけだ、と思われていたのだが、そうではなく、大蔵省の中でも新平価での解禁が望ましいと思っていた勢力があった、ということが新たに分かった、というのだ。これが新発見だそうだ。一通の手紙からここまで調べるというのは、流石に専門家はすごい、と思う。

 ただ、驚いたのはそこではなく、論文の後ろのほうに出てくる当時の雰囲気である。石橋湛山ら「4人組」はマスメディアから「国家の大方針に弓を引く非国民」などと脅迫され、一斉に批判されていたのだ、という。

 今も昔も大新聞は大きな流れができると、その流れ自体の正否を判断する能力がなくなり、阿る論調一色になる、という日本のメディアの怖さを十分に示している部分だった。

 それも読売新聞、毎日新聞(東京では東京日日新聞)、朝日新聞が一斉にその論調で石橋氏らを批判した、という。だから、この「4人組」たちは日銀裏の東洋経済新報社を作戦本部として集まり、自分の持っている新聞や雑誌で新平価による金輸出解禁論を声高に論じていたらしい。

 メディアはこうして煽った金解禁が失敗しても自分たちが煽った責任にはほう被りし、井上氏一派だけを責めた。これで血盟団が井上氏を殺害する陰惨な事件まで起きるのだが、当時のマスメディアの無責任さは今の大手マスコミの無責任さと二重写しになる。

 若い記者諸君はこういう歴史こそ勉強して、博識を持って記事を書いてほしいものだ。

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2009年7月26日 (日)

緒方竹虎と正力松太郎がCIA協力者だった事実~09年7月26日毎日新聞朝刊

 面白いニュースが毎日新聞7月26日朝刊1面トップに出ていた。<緒方竹虎を通じCIA政治工作/50年代・米公文書分析/「彼を首相にすれば、日本は米国の利害で動かせる」>である。いわゆるCIA「緒方ファイル」の分析から出てきた新事実だ。「アメリカよ」取材班の執筆とあった。

http://mainichi.jp/select/today/news/20090726k0000m030117000c.html

 読んでみよう。

 <1955年の自民党結党にあたり、米国が保守合同を先導した緒方竹虎・自由党総裁を通じて対日政治工作を行っていた実態が25日、CIA(米中央情報局)文書(緒方ファイル)から分かった。CIAは緒方を「我々は彼を首相にすることができるかもしれない。実現すれば、日本政府を米政府の利害に沿って動かせるようになろう」と最大級の評価で位置付け、緒方と米要人の人脈作りや情報交換などを進めていた。米国が占領終了後も日本を影響下に置こうとしたことを裏付ける戦後政治史の一級資料と言える。>

 確かに戦後一級の資料だろう。

 <山本武利・早稲田大教授(メディア史)加藤哲郎・一橋大大学院教授(政治学)吉田則昭・立教大兼任講師(メディア史)2005年に機密解除された米公文書館の緒方ファイル全5冊約1000ページを約1年かけて分析した。内容は緒方が第4次吉田内閣に入閣した1952年から自由党と民主党との保守合同後に急死した1956年までを中心に緒方個人に関する情報やCIA、米国務省の接触記録など。>

 相当に手間のかかった分析だっただろうなぁ。それにしても米国の民主主義は半端じゃない。米公文書館(アーカイブ)には宝の山がまだまだ眠っているのだろう。

 <それによると日本が独立するにあたりGHQ(連合国軍総司令部)はCIAに情報活動を引き継いだ米側は1952年12月27日、吉田茂首相や緒方副総理と面談し日本側の担当機関を置くよう要請政府情報機関「内閣調査室」を創設した緒方は日本版CIA構想を提案した日本版CIAは外務省の抵抗や世論の反対で頓挫するがCIAは緒方を高く評価するようになっていった。>

 内閣調査室の淵源である。このほかに日本版CIAを作ろうとしていた、というが、どういう機関をイメージしていたのだろうか?

 <吉田首相の後継者と目されていた緒方は自由党総裁に就任。2大政党論者で他に先駆け「緒方構想」として保守合同を提唱し「自由民主党結成の暁は初代総裁に」との呼び声も高かった。>

 緒方を中心としたメディアの歴史については、朝日新聞政治部記者だった人が2冊の本にまとめていた。

占領期の朝日新聞と戦争責任 村山長挙と緒方竹虎 (朝日選書) 占領期の朝日新聞と戦争責任 村山長挙と緒方竹虎 (朝日選書)

著者:今西 光男
販売元:朝日新聞社
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新聞 資本と経営の昭和史 朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩 (朝日選書824) 新聞 資本と経営の昭和史 朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩 (朝日選書824)

著者:今西 光男
販売元:朝日新聞社
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 <当時、日本民主党の鳩山一郎首相はソ連との国交回復に意欲的だった。ソ連が左右両派社会党の統一を後押ししていると見たCIAは保守勢力の統合を急務と考え、鳩山の後継候補に緒方を期待。1955年には「POCAPON(ポカポン)」の暗号名を付け緒方の地方遊説にCIA工作員が同行するなど政治工作を本格化させた。>

 サンフランシスコ平和条約で日本が独立した後もこういう動きが行われていたわけだ。

 <同年10~12月にはほぼ毎週接触する「オペレーション・ポカポン」(緒方作戦)を実行。「反ソ・反鳩山」の旗頭として首相の座に押し上げようとした緒方は情報源としても信頼され、提供された日本政府・政界の情報はアレン・ダレスCIA長官(当時)に直接報告された。緒方も1955年2月の衆院選直前、ダレスに選挙情勢について「心配しないでほしい」と伝えるよう要請。翌日、CIA担当者に「総理大臣になったら1年後に保守絶対多数の土台を作る。必要なら選挙法改正も行う」と語っていた。>

 これじゃあスパイじゃないか。緒方竹虎という人物の再評価(マイナスの再評価)が不可欠な情勢になってきそうだ。

 <だが、自民党は4人の総裁代行委員制で発足し緒方は総裁になれず2カ月後急死。CIAは「日本及び米国政府の双方にとって実に不運だ」と報告した。ダレスが遺族に弔電を打った記録もある。結局、さらに2カ月後、鳩山が初代総裁に就任。CIAは緒方の後の政治工作対象を、賀屋興宣氏(後の法相)岸信介幹事長(当時)に切り替えていく。>

 岸信介については塩川正十郎死の「ある凡人の告白」で米当局がA級戦犯の岸を市ヶ谷の東京裁判軍事法廷に一回も引き摺りださずに釈放するなど特別扱いをして、冷戦時の日本の反響防波堤のトップに据える意向を終戦時から持っていた、との岸氏の回想が出ており、興味深かったが、それを裏付けた。また、賀屋興宣はゴリゴリの右翼。岸との交友関係などで有名な人物だ。

ある凡人の告白―軌跡と証言 ある凡人の告白―軌跡と証言

著者:塩川 正十郎
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 <加藤教授は「冷戦下の日米外交を裏付ける貴重な資料だ。当時のCIAは秘密組織ではなく、緒方も自覚的なスパイではない」と話している。>

 まあ、こう書いておかないと、右翼が緒方の遺族を襲うかもしれないからね。

 【ことば】として緒方竹虎について説明してあった。

 <緒方竹虎 1888年山形市生まれ。1911年早稲田大学卒業後、朝日新聞社入社。政治部長、編集局長、主筆を経て副社長。2.26事件で同社を襲った陸軍将校と対峙し名をはせた。国家主義者の頭山満や中野正剛らと親交があり、戦争末期に中国との和平を試みた。1944年社主の村山家と対立し辞職。政界に転じ、小磯、東久邇両内閣で情報局総裁。46年公職追放、51年解除。52年に吉田首相の東南アジア特使となり自由党から衆院議員当選。吉田内閣で官房長官や副総理を務めた。保革2大政党制や再軍備が持論で54年に保守合同構想を提唱、自由党総裁に。55年11月の保守合同後、自由民主党総裁代行委員。56年1月死去。>

 大体分かる。三好徹の「緒方竹虎」でも読めばもっとよく分かる。

評伝 緒方竹虎―激動の昭和を生きた保守政治家 (岩波現代文庫) 評伝 緒方竹虎―激動の昭和を生きた保守政治家 (岩波現代文庫)

著者:三好 徹
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 2面には解説<戦後日本/「米の影響下」鮮明/CIA工作/日ソ接近防ぐ目的>が出ていた。後藤逸郎記者の署名記事だ。

 <CIAの「緒方ファイル」は戦後の日本政治が東西冷戦の下、水面下でも米国の強い影響を受けながら動いていた様を示している。米情報機関が日本の首相を「作り」、政府を「動かせる」という記述は生々しいCIAが日本で活動を本格化したのはサンフランシスコ講和条約・日米安保条約が発効した1952年からだ。米国では翌53年1月、共和党のアイゼンハワー政権が誕生。同7月の朝鮮戦争停戦を受け新たなアジア戦略を打ち出そうとしていた。>

 欧州正面の冷戦対策だけでなく、アジアでも冷戦対応が急務になったということか。赤坂の東急赤阪ホテルが角地にあり、山王神社方面に歩いていくと左手に白い建物、山王ビルがあった。フルブライト委員会の留学手続きなどを行う機関や米国の文化関係施設が入ったビルだったが、このビルにはCIAが入っているのだ、と子どもの頃に聞いたことがあった。

 <それがCIAの積極的な対日工作を促し、日ソ接近を防ぐ手段として55年の保守合同に焦点をあてることになった。当時の日本政界で、情報機関強化と保守合同に特に強い意欲を持っていた緒方にCIAが目をつけたのは当然でもあった。>

 緒方の人望は今では想像できないほど高かったようだ。

 <ただ、CIAの暗号名を持つ有力な工作対象者は他にもいた。例えば同じ時期、在日駐留米軍の施設を使って日本テレビ放送網を創設するため精力的に動いていた正力松太郎・読売新聞社主(衆院議員、初代科学技術庁長官などを歴任)「PODAM(ポダム)」と呼ばれていた。>

 朝日新聞も読売新聞もCIAの協力者だった、ということか。戦時中は陸軍にコバンザメのように寄り添い、敗戦後は米軍に寄り添った大新聞か。毎日新聞はこのころから出遅れていたのだろうか?

 <加藤哲郎・一橋大大学院教授(政治学)によると「PO」は日本の国名を示す暗号と見られるという。また、山本武利・早稲田大教授(メディア史)は「CIAはメディア界の大物だった緒方と正力の世論への影響力に期待していた」と分析する。暗号名はCIAが工作対象者に一方的につけるもので、緒方、正力両氏の場合、いわゆるスパイとは異なるが、CIAとの関係はメディアと政治の距離も問いかける。>

 この辺だな。穏やかに書いているが、どう見てもスパイじゃないか。

 <時あたかも、政権交代をかけた衆院選が1カ月余り後に行われる。自民党結党時の政界中枢にかかわる裏面史がこの時期に明るみに出たのも因縁めく。また、自民党に代わり政権を担おうとしている民主党がここに来て対米政策を相次いで見直したのは日本の政界が政党の新旧を問わず半世紀以上前から続く「対米追随」の型を今なお引きずっているようにも見える。>

 この最後の文章は不要だった、と思うのだが……。折角の歴史的スクープを矮小化してしまうのではないか。

 ただ、この時期に戦後日米政治の淵源を暴く内容が明らかになった意味合いは大きいと思う。CIAの情報網は蜘蛛の巣のように日本の権力層内に張り巡らされているのだろうし、鳩山首相誕生という事態が米CIAにとってどう映るのか、興味深いところだ。

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2009年5月10日 (日)

高坂氏のバランス感覚を朝日新聞は学ぶべきだ~産経新聞5月10日朝刊[昭和正論塾]から

 産経新聞5月10日朝刊[昭和正論座]は昭和50年(1975年)8月30日掲載の高坂正堯・京大教授による<自由を守る姿勢崩すな>だった。小見出しは<盛んなデタント論議の裏で>、<現状固定で不正認めるか>、<非寛容の圧力に屈する恐れ>、<共産主義者とつき合うには>である。

 (湯)氏が【視点】で言っているように、冷戦時代のデタント(緊張緩和)は西側が受け入れざるを得なかった妥協の産物だ。戦後ソ連が力ずくで領土と勢力圏を拡大したままの状態の固定だったからだ。高坂氏はそのような「強大な核大国相手とどうつきあうか」で、西側が悩んだ末に当面の危機を避け「事態の変更は長期的な課題」としたことに理解を示しながら、共産主義とはにこやかにつきあっても「彼らの自由の精神の欠如への厳しい批判」がなければならないと喚起している。(湯)氏は、

 <実際にいま、日本周辺を眺めれば、中国と北朝鮮があり、権威主義化したロシアもある。右手で握手しても、左手の棍棒は離せない。>と感想文を結んでいたが、34年前も今も変わらぬ真実である。主権国家という存在がある以上、パワーバランス外交は永遠に続く、ということなのだろう。

 高坂氏の34年前の論文を読んでみよう。

 <このところ、西欧とアメリカでは、デタントに関する論議がさかんである。その直接のきっかけになったのは、この夏全欧安保・協力会議が開催されるようになったことであった。当然、そうした外交の是非、あるいはその歴史的位置づけが問題とされることになった。そしてそこに、ソルジェニーツィンやサハロフなどソ連の知識人が、共産主義の脅威に対抗しようとしない「自由世界」の怠惰を責める論文を発表したことが花をそえ、一層議論が活発になったものである。私は、その論議を見て西欧とアメリカでは自由の精神が依然として生き続けているのを感じた。そして、日本がその点では、いささか頼りない存在であることを思わずにはいられなかった。>

 当時の雰囲気を思い出す。

 <というのは、西欧諸国の人々は全欧安保・協力会議に際して、現実の平和を手放しで讃えはしなかった。たとえば、西欧諸国の新聞における全欧安保・協力会議の扱いは決して派手ではなかった。そしてそれは、西欧の人々が、デタントや全欧安保・協力会議を、現実的に必要であり、またやむをえないことではあるが、それ以上のものではないとみなしていることを示唆するものであろう。>

 日本の「平和勢力」との大きな違いである。

 <実際、全欧安保・協力会議に至る一連の動きの成果は、結局のところ、欧州における現状の承認ということにつきる。8月1日に35カ国の首脳が署名した全欧安保・協力会議の最終文書には、現国境の不可侵性がうたわれており、そのことは第二次世界大戦後にソ連が領土を獲得したことを認めると共に、東西ドイツ分裂の固定化を意味する。もちろん、最終文書には内政不干渉の原則や技術的、文化的交流の促進など他の点がうたわれてはいる。しかし、ソ連はたとえば1968年のチェコスロバキア介入を内政干渉とは思っていないようだし、逆にソ連は西側諸国の人々がソ連国内の弾圧の問題を持ち出すと、内政不干渉の原則で対抗する。つまり、内政不干渉の原則をソ連はごく勝手に使う。>

 クマの論理である。

 <また、交流の増大は長期的には効果があっても短期的には大した効果はない。共産主義国では政府と共産党が、きわめて強い統制力を持っているからである。かくて、全欧安保・協力会議の最終文書から、現状の固定という事実が浮かび上がってくる。>

 ここで高坂氏が「長期的には効果があっても」と言っていることに注目したい。こんなに早く、とは思っていなかったかもしれないが、このデタントなどで東側に西側の情報が流れ始め、東側の民衆が西側の実態を知るチャンスとなり、それが1989年のベルリンの壁崩壊を最終的には招いたのだから。

 でも、この1975年時点から考えれば、まだ14年も先の話だ。本当に「長期的」な話だったのだ。

 <もっとも、それは平和の基礎である。昔から、現状の承認なしに平和はなかった。それ故、今回、東側と西側が相互に現状を認めあったことは、現実には小さくない意味を持っている。しかし、それがよいことかどうかは別問題である。少くとも、西側の人々は第二次世界大戦後の状況が小さくない不正を含むと考え、それ故にソ連と対立して来た。ソ連が大幅にその領土を拡げたことは、そうした不正のひとつだし、またソ連が東欧諸国に共産主義体制を押しつけ、そこをソ連の勢力圏としたこともそうである。大量の亡命者でつぶれようとした――したがって国民の支持を欠く――東ドイツを強引な形で維持し、東西ドイツの分裂を固定化したこともそうである。それにソ連内部では依然として激しい思想弾圧が存在するから(反体制知識人は逮捕されて収容所や精神病院に入れられるし、そこまで行かなくても、ときには職場から追放される)そうした状況をそのままにしておいて国際政治の現状を承認することは、不正なものを認めるということにもなる。>

 そういうことだ。そのジレンマが西側世界を苦しませた。

 <とは言え、ソ連は強大な国であるし、現在は核時代である。それ故、不正な状況を力ずくで変えようとしても、危険が大きいだけで無意味である。そんな訳で、西側の人々はいろいろ思い悩んだあげく、現状をひとまず承認して緊張を緩和し、好ましくない事態の変更は長期的な課題とすることにしたのであった。>

 妥協の産物に過ぎない、そこに変な幻想を抱くな、ということだ。

 <つまり、デタントは現実に平和を求める方策である。しかし、それですべての問題が片づいたわけではないことを西側の人々は知っている。言い換えれば、彼らは現実の平和というレベルでは現状を承認したが、より高次の正義というレベルでは、決して現状を承認してはいないのである。それは彼らが自由の精神に生きる以上、当然のことであろう。>

 自由が抑圧された国、ソ連をどう見るか。当時、日本社会党と共産党はこうしたソ連型社会主義に本質的な批判を手控えていた。

 <そして、この二つのレベルを分けて考えないところにこそ、私が日本に対して危惧の念を感ずる理由がある。その結果、まず、現実の平和の構造が見失われてしまう。>

 さあ、ここからが高坂氏の一番言いたいところなのだ。

 <デタントの基礎は、当事者の間の妥協と、力の均衡とである。東側と西側とは決してお互いの信頼の上に現実の平和を築いているわけではない。対立が残っていることを認識し、それ故、軍事的な備えをしながら、なお衝突を避けるべく努力しているのが、現在のデタントなのである。われわれがその点を見失うならば、いつか痛い目を見る事になるだろう。>

 肝心なところを見失うなよ、と。

 <より重要な危険は、少くとも現存する共産主義体制が自由を弾圧していることを忘れ、それと仲良くしてさえおればよいと考えることである。この際、人によっては、どうせ仲良くするのなら、相手の悪い点は忘れてしまった方がすっきりすると言うかも知れない。しかし、それは過度に他人に自らを合わせすぎるというものである。残念ながら、その例は多い。>

 相手の欠点に目をつぶっているうちに、欠点が見えなくなり、「痘痕も笑窪」になる。日本人のいいところでもあり、悪いところでもある。

 <国の内外において、日本のマスコミほど「自主規制」をする存在は珍しいというのが世界の常識である。相手の怒りそうなことは書かないという姿勢故に、ソ連や中国や北朝鮮の自由の欠如は、ほとんど報道されない。そして批判しても怒らない「寛容」な国や集団については、いくらでも批判するのだから、結局は非寛容な人々の圧力に屈しているわけである。>

 昔から日本のマスコミは同じような問題を内包していたのだ、とここで気付かされる。自由主義陣営の悪口は言うが、社会主義の悪口は書かない。

 韓国の悪口を散々書いて、北朝鮮の金日成独裁をほめそやしていた朝日新聞が代表例だ。当時の朝日新聞の縮刷版を見れば、いかにひどい新聞だったかは、一目瞭然だ。そういう「過去」の反省はしないのが朝日新聞の特徴らしい。今でも朝鮮総連や金正日の悪口はあまり見ない。また、金大中の悪口は書かないことにしているらしい。ひどい新聞だ。小沢一郎氏の悪口は書き放題らしいが。

 <一体、それで腹が立たないのであろうか。もしそうなら、彼らは自由の精神を真実には持っていないということであろう。というのは、自由は守るべきだから守るといった難かしいものというより、自由が犯されているのを見ると腹が立ってしかたがないというのが自由の精神の基礎だからである。それがなければ、日本の将来は不安である。>

 チベットを中国共産党が弾圧、抑圧していることについて朝日新聞の腰の引けた報道ぶりを見よ!

 <なぜなら、われわれは国の内外で共産主義者とつき合って行かなくてはならない。しかし共産主義には自由と両立しないところがある。ソ連や北朝鮮など現存の共産主義は言うまでもなく、ポルトガルの例を見ても、共産主義と自由は両立しないし、日本の共産党を見ても、いくつかの事例は共産党が自由を尊重しない恐れのあることを示している。>

 北朝鮮の政治など、批判を100回してもし足りないのに、朝日新聞にはなかなか批判記事が出てこない。出てくるのは、国民が食料不足で大変なのに、日本政府は食料を送らなくていいのか、とかの偏向報道である。

 <それ故、共産主義国や共産主義勢力とつき合うとき、現実にはにこやかにつき合っても、心の底には彼らの自由の精神の欠如への厳しい批判がなければ、結局、われわれは自由を失うであろう。自由の精神がないものとはつき合わないというのも、つき合う以上相手に自由の精神が無くても平気であるというのも、共に正しい態度ではない。>

 この高坂氏のバランス感覚を朝日新聞も学んでほしい。

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五百旗頭氏のナショナリズム論と国家論:衰退論を超える視点は素晴らしいが…~5月10日毎日新聞朝刊[世界の風]

 毎日新聞5月10日朝刊[時代の風]は五百旗頭真氏・防衛大学校長の<日本の高い文明水準/西洋文明克服の方途>だった。

 とても参考になるだろう、と読み始めた。何しろ、書き出しが

 <日本という文明の盛衰について考えてみたい。>

 なのだから。

 <今日の日本は衰退期にあると、多くの人が感じている。それは本当か。そうだとすれば、どのような意味で衰えつつあるのか。上向きか下向きかはともかく、そもそも日本文明とはどのようなものなのか。その特徴は、その水準は、その国際的位置は、どうなのか。この国の豊かな歴史はこの問いにどう答えているのか。われわれはいつも眼前の事態に夢中になるが、時には大きな歴史地図の中での現在地と進路を意識してもよいのではないだろうか。>

 素晴らしい問題提起だ。

 <日本は乱れ、転落しようとしているとの意識が強まったのは、鎌倉時代であった。武力による応酬のやまない当時の状況を、識者たちは正法→像法→末法の大乗仏教の概念と重ね合わせ、末法思想にはまった。承久の乱を見守りつつ『愚管抄』を書いた慈円は、歴史の大サイクルは末法に向かっているとしつつ、歴史は一曲線ではなく、その中に小サイクルの振幅があり、一定の上昇局面もあると観察した。大小サイクルが共に転落に向かう状況にあって人はなす術ないが、両者が打ち消し合う事態にあって、人為は有意性を持ちうる。大切なのは歴史における道理を知り、人がそれを踏み行うことであると説いた。>

 この循環論については誰かも書いていた。最近読んだのだが、もう忘れてしまった。

 <元寇の時代を生きた日蓮は正法を見失ったことが世の乱れをもたらしたと政治と人々に激しく改心を迫りつつ、世界「大闘諍」の起こる末法の極みにこそ、かえって「妙法」の機が来ると逆転勝利の終末思想を説いた。>

 日蓮か。逆転勝利の終末思想だったのか。そういうことがなかなか理解できないので、読んでも面白くなかったのだが。

 <その後の応仁の乱から戦国に至る乱世は、末法の名にふさわしい現実であった。しかし、とめどない破壊エネルギーは、ついに徳川の手で治められ、逆に270年に及ぶ日本史上最長の平和時代を持つことになった。>

 応仁の乱から戦国に至る日本の「末法」があってはじめて徳川の270年ができたのかもしれない、と思わせる。

 <問題は、世界から隔離された長期平和の間に、イギリスで産業革命が始まったことである。それまでの諸文明が人力と馬力によって動いたのに対し、産業革命以後の西洋文明は動力によって地上と水面を走るようになった。西洋文明は人類史上はじめての世界文明となった。西洋列強のみが世界政治の主体となり、非西洋社会はその客体に転落した。世界各地の非西洋社会をわがものに収めつつ膨張する西洋の力が、鎖国日本にまで及んだ。日本史上空前の危機が迫っていた。>

 そういうことだ。それまでの西洋がいじめられ、弱く、侵略され続けた国々だった、と読んだばかりだ。

 <もし日本の文明水準が低いものであれば、他の多くの非西洋社会のように、日本も19世紀に植民地化されていたであろう。江戸時代の日本は、産業革命が生み出した利器と近代的システムこそ手にしていなかったが、識字率は同時代の西洋諸国に劣らなかった。日本が西洋文明の力の中心から遠くに位置した地理的好運や、西洋列強が日本をめぐり互いに対抗し、一国が日本を切り取ることへの牽制力が働くという国際政治力学上の好運もあった。けれども、日本が格別な対応力を発揮しなければ、列強に対し国を開きながら独立を守り、半世紀後に西洋の軍事大国ロシアに勝利し、西洋列強と並び立つ世界の主要国の一つに日本が成長することなどありえなかったであろう。どんな対応が、日本を非西洋社会の中での例外となし得たのであろうか。>

 日本の近代史に誇りをもたねばならない。マルクス主義講座派の連中は、この明治維新を中途半端な革命とか、訳の分からない解釈をして、いまだに歴史学界を惑わせている。

 <幕末から維新にかけて吹き荒れた攘夷運動の嵐とその収束に、その鍵が示されていると思われる。「攘夷」は一言で言えば、民族的プライドの発露である。有力な外部文明の挑戦を受ける時、誇り高い社会には熱狂的な愛国派(ゼロット)が登場することを、トインビーの『歴史の研究』は検証している。愛国者集団や攘夷派が台頭しないような国では、唯々諾々と強国の支配下に降るであろう。強いサムライの抗戦意志があってこそ、帝国主義時代に独立を保ち得たのである。>

 五百旗頭さん、よく分かっていらっしゃる。

 <とはいえ、大きな力の差がある西洋文明諸国のような強者に対して、軍事対決一辺倒で対応すれば、民族的玉砕の危険を冒すことになる。ローマ軍の侵攻に際して、ユダヤのゼロットたちは、エルサレム陥落後もマサダの砦に拠って徹底抗戦を続け、3年後に960名の戦士とその家族が集団自決をして果てた。

 さすが、世界文明史をよく勉強していらっしゃる。

 <トインビーは他方の典型的な対応の型として「ヘロデ主義」を示す。>

 <強大な外敵に玉砕することを避け、強大な外部文明の力の秘密を学ぶ。それをもって優越した外力を長期的に克服する冷静で合理的な対応である。>

 なるほど、これだったのか。「ヘデロ主義」などという名前を知らずとも、日本の文明の中にその手法は隠されていたわけだ。

 <薩英戦争や馬関での四国艦隊との交戦は攘夷の意志とその限界を明らかにした。幕府だけでなく、明治政府も結局はヘロデ主義に帰着した。>

 <強い民族的プライドを持つサムライが不退転の抗戦意志を示しながら国家としてはその内圧に耐え、国際協調を可能にする冷静で合理的な路線をとり得た。日本が近代西洋文明をこなし得た所以である。>

 この論の眼目はやはり、「強い愛国心」だと思うのだが。内圧に耐えた国家も素晴らしいが、その内圧自体がなかったら、滅んでいただろう。

 <幕末に充満した攘夷エネルギーが優れた西洋文明を学習する明治のエネルギーに内面化された時、近代日本は西洋文明を克服する唯一の非西洋国としての行路を見いだしたといえよう。>

 <今日の衰退を論ずる前に、日本史が「西洋の世界史」を「世界の世界史」へ転換する世界史的役割を果たしたことを認識しておきたい。それ程に高い水準を日本文明は築いているのである。>

 幕末明治時代の日本文明は確かに世界一流だった。でも、いまもそうなのか? そこに疑問が出ているので、今の衰退論の流行なのではないか。五百旗頭氏の論で言っても、まずは愛国心が必要だ。その愛国心=攘夷の心をうまくコントロールする強い国家も必要だ。今の日本は両方ともないように見えるのが、痛い。

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2009年3月12日 (木)

東京大空襲の虐殺犯ルメイを称え、被害者の日本人を無視する日本政府~3月12日産経新聞[正論]

 産経新聞3月12日朝刊[正論]は藤岡信勝・拓殖大学教授の<「東京大空襲」が意味するもの>だった。知らない話が相当に出てきているので、コピペしておく。

 <アメリカが日本の人口密集地に焼弾を使用することを考え始めたのは「パールハーバー」よりもはるか前のことである。日米戦を想定して、「木と紙」でできている日本の家屋を攻撃するには、焼夷弾のような火炎兵器が最も効果的だと分析した。>

 そうだったのか。知らなかった。

 <アメリカが日本の空襲用に開発した焼夷弾は「M69油脂焼夷弾」とよばれ、本体はゼリー状のガソリンである。開発責任者のR・ラッセルはスタンダード石油会社の副社長だった。焼夷弾1本の形状は、野球のバット半分程度の鋼鉄製の筒である。これを38発、鉄バンドで束ねたものを上空から投下すると、バンドが空中ではずれ、広い範囲にバラバラと落下し、家屋を燃やし、あたりを火の海にする。アメリカはテキサスの砂漠にわざわざ日本式の家屋を建てて実験し、効果が抜群であることを確かめていた。>

 こいつらのやることは徹底しているなあ、と驚く。

 <南太平洋のサイパン島を基地として、アメリカは昭和19年11月からB29による日本本土への空襲を開始していた。しかし、それは①飛行機工場などの軍需工場を目標に②日中③高度①1万㍍の上空から爆弾を投下するもので、命中率は平均5%程度にすぎなかった。同年12月29日、ホワイトハウスでルーズベルト大統領、マーシャル参謀総長らを含む秘密の作戦会議が開かれ、日本本土爆撃作戦を再検討した。そこで決まったのは①民間人を直接の対象とし②夜間③低空飛行で焼夷弾を投下する、戦時国際法違反の「無差別爆撃」だった。>

 戦時国際法違反を認識しながら、ルーズベルトが決断していた。ここで小見出し≪最大の戦争犯罪のひとつ≫が入っている。

 <この作戦変更に伴い、マリアナ3島の司令官のクビがすげ替えられた。民間人の家屋を焼く焼夷弾攻撃に反対していたハンセル少将にかわって、ドイツ・ハンブルクの絨毯爆撃をやり遂げたカーチス・ルメイ少将が任命された。ルメイは江戸時代の大火の50%が3月上旬に集中していることを調べ上げた。春先の強風が吹くこの時期が作戦には最も効果的だと分かった。3月10日は日露戦争の奉天会戦で日本が勝利した陸軍記念日だった。>

 ルメイはハンブルクでも虐殺をしてきた筋金入りの「悪」だった。

 <前日、マリアナ諸島を飛び立った325機のB29は、少量に抑えた燃料と満載の焼夷弾を抱えて東京を目指した。作戦計画に従ってまず、正方形と2本の対角線のライン上に焼夷弾を落として火の壁をつくり、住民の退路を断った上で、1平方㍍当たり3発、総重量2700㌧の焼夷弾を、雨あられと無辜の市民の頭上に降り注いだのである。>

 ここまで計算して虐殺をしている。虐殺を楽しんだとしか思えない。

 <ルメイは戦後、「もし、アメリカが戦争に負けていたら、私は間違いなく戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」と述べている。一夜にして10万の市民を焼き殺した「東京大空襲」は、第二次世界大戦の最大の戦争犯罪の一つであろう。>

 その通りだ。最大の戦争犯罪だ。

 <東京都江東区で家具店を営む滝保清さん(現在80歳)は、64年前の3月10日、空襲による業火の中を逃げ惑っていた。当時16歳の中学生で、早くに父を亡くした保清少年は、数日前に運悪く足にけがをして歩けない祖父を背中に背負い、安全な方角を目指した。だが、火の勢いは激しくなる一方で、やがて祖父の背中のドテラが燃えだし、煙と熱風の渦に巻き込まれた。目の前で燃えている祖父を残し、「後ろ髪を引かれる思いで、生きたいという本能と窒息の苦しさから逃れたい一心で」(私家版冊子『赤い吹雪』より)逃げ出さざるを得なかった。>

 庶民を苦しめたルメイの奴め。ここでまた、≪国立慰霊碑の建立を急げ≫の小見出しが入る。

 <長い年月がたち、つらい地獄の体験をやっと他人に語る心境になった滝さんは、平成3年、東京大空襲の犠牲者を追悼する慰霊碑の建立を求める署名運動を地元の仲間とともに始めた。本業をそっちのけで奔走し、3月10日の犠牲者の数を超える11万5000人の署名を集めきった。願いは国会に通じ、平成17年11月1日、衆議院本会議で国立慰霊碑建立の請願が採択された。昨年12月、自民党の国会議員からなる「戦災犠牲者の国立慰霊碑建立を目指す議員の会」(下村博文会長)が設立された。>

 国会議員も動いたのか。

 <しかし、所管の総務省は、兵庫県姫路市に昭和31年に民間の寄付で建立した「全国戦災都市空襲死没者慰霊塔」があり、国が新たに慰霊碑をつくる予定はないという。滝さんは、個人や民間や自治体ではなく国が慰霊碑を建ててほしいと切望する。空襲犠牲者は、東京都のために死んだのではなく、国のために命をささげた点で戦死者と同じではないか、と言う。滝さんたちが署名運動を始めてからすでに18年の歳月がたつ。残された時間は少ない。政治と行政は、一刻も早く決断すべきである。>

 以上が全文である。どういうことになっているのか? 日本政府は戦後復興に頑張った、とかいう理由でルメイに勲章をやったという。国は日本国民のための「国」ではなく、アメリカのための「国」なのか? 総務省の担当はどこなのか? 昔の厚生省援護局的な役所は今、どこなのか? 藤岡氏の論文だけでは分からないことが多すぎるが、いまだにアメリカに遠慮しながら、日本国民を切り捨て続ける日本政府というのは一体どういう組織なのだろうか?

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2009年2月12日 (木)

日本人の「初期設定」、国民合意がないのは昔からか?~内田樹氏の毎日新聞2月12日夕刊寄稿から

 毎日新聞2月12日夕刊文化面連載[水脈]に内田樹・神戸女学院大教授(フランス現代思想専攻)の<日本特殊論/他国と比較「だから、どうした」>が掲載されており、面白かったので書いておく。何が何だか分からないと思うので、第一段落を書き写しておこう。

 <「日本特殊論」という言説がある。任意の論件について「日本は他国とこう違う」ということおを列挙し、そこから「だからダメなんだ」と「だからよいのだ」と二種類のどちらかの言明を導くものである。私はそれ以外の第三の言明もあってよいのではないかと思う。「だから、どうした」である。>

 この文章を読めば、内田氏が他者に論争を挑もうとしているのが分かる。楽しい論争を、である。今、若者に抜群の人気の哲学者だという。論争相手には不足だろうが、一応、内田氏の論にコメントをつけながら読んでみる。

 まず内田氏はオバマ米大統領の就任演説について「アメリカ的なスピーチだと思った」として、

 <清教徒も、アフリカから連れてこられた奴隷たちも、西部開拓者も、アジアからの移民たちも、それぞれが流した汗や涙や血は、どれも今ここにいる「私たちのため」というものだったという国民の歴史の連続性が強調されていたからである。>

 <アメリカ人がアメリカ人であるのは、「かつてアメリカ人がそうであったようにふるまう」限りにおいてである。つまり、アメリカ人の国民性格はその建国のときに初期設定されている。だからもし、アメリカがうまくゆかないことがあったとしたら、それはその初期設定から「逸脱」したせいなのだ。彼らはそう考える。そういう場合には「初期設定に戻す」のである。(誤作動したコンピューターといっしょである。)>

 アメリカ人はリセットできる、という。ところが、日本人には立ち還るべき「初期設定」が一杯ありすぎて、どれが「初期設定」なのか、国民合意ができていない、というのだ。「敗戦」なのか「明治維新」なのか「天孫降臨」なのか、と。

 <だから、私たちは危機に際会したときに立ち還るべき原点を持たないのである。>

 という問題提起は重いと思う。

 <私たちがうるさく語り合うのは「アメリカではこうだが、日本ではこうだ」、「フィンランドではこうだが、日本ではこうだ」という類の他国との比較だけである。私たちには「時代を超えて継承されてきた国民性格」に基づいて、国民として果たすべきことを叙するという習慣がないのである。>

 これは、今の時代というか明治維新後を見ればその通りだと思う。特に戦後は「戦前、戦中はすべて悪だった」というGHQの史観を受け入れながら民主化が進んだこともあって、この考え方がほぼ日本を覆い尽くしている観がある。

 しかし、内田氏の次の言葉が挑戦的に聞こえるのだ。

 <私たちは「そういう国民」なのだ。私たちは「あるべき国民像」を、祖先たちの生き方を範とすることでなく、同時代の他国との比較でしか語れない国民なのである。それが「時代を超えて継承されてきた国民性格」であるなら、「それで何か問題でも?」と反問しつつ、その「同じ旅程」を私たちもたどる他ないだろう。>

 である。

 内田氏ほどの方だから、「反米」と「親米」、「鎖国」と「摂取」、「愛国」と「国際化」など対立する概念を一つの人格の中に持つ近代知識人の煩悶の歴史を知らないわけがないだろう。夏目漱石、和辻哲郎、柳田國男、小林秀雄、江藤淳各氏らの努力はまさにそこにあったわけだろう。

 だから、内田氏の言いたいことは軽佻浮薄で伝統の重みを全く理解できないマスメディアと文化人、学者や政治家への痛烈な批判なのだ、と理解している。

 内田氏は温故知新ができないことを「日本人の国民性格」というが、兼好法師や紫式部、親鸞や日蓮を見れば、あふれるほどの愛国心と伝統を大切に受け継ぎながら一部を壊し、新たに建てるという作業を繰り返してきたことが分かると思う。日本人の国民性を考えた時、決して、縦の思考(歴史的思考)ができずに平目のような横の思考(世界比較)だけで生きてきた民族とは思っていない。

 しかし、内田氏はそんなことは百も承知で言っているのだろう、と思う。内田氏が言うように他国比較を絶対である如く言う「文化人」「政治家」が多すぎるし、テレビメディアなどを通じて、相当の悪影響を日本国民に与えていると思う。「だから、どうした」の視点は非常に大切だ、と思う。

 特に外人による日本論、日本人論を有難がって拝聴し、神棚に祭り上げることだけはやめたほうがいい。最近の新聞でチャルマーズ・ジョンソンのインタビューが出ていた。例の日本異質論者だ。最近は日本の左翼と相性がいいようだが、そんな連中の片言隻句に一喜一憂することはやめよう。外人の話も日本人の話も同じ地平で見るようにすれば、違ったものが見えてくると思う。

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2009年1月 8日 (木)

櫻井よし子さんの「今こそ戦後体制を正せ」実行するのは小沢氏だろう~産経新聞1月8日1面より

 櫻井よし子さんが産経新聞1月8日朝刊1面コラム[麻生首相に申す]で<今こそ戦後体制を正せ>とハッパをかけていた。マスメディアの集中砲火を浴びている感がある麻生首相に対して、

 <こんな時こそ、指導者は1㍉もひるまず、自分の使命に思いをめぐらすのがよい。…首相が肝に銘ずるべきは、天命と信念である。>

 と書く。さて、その「使命」とは? ここで麻生首相の祖父、吉田茂元首相が出てくる。

 <自民党総裁に選ばれたとき、首相は、祖父の吉田茂元首相に言及した。吉田がやり残した課題は、日本に真っ当な軍隊を作ることだった。危機に際して国土、国民を守るに十分な軍事力を整備することであり、外交の支柱としての軍事力を充実させることだった。

 これは、以前何かの本で読み、調べようと、吉田茂の著作を見たが、分からず仕舞いだった点だった。

 <「国防と治安を欠けば国家の存立は期し難い」「(憲法)第9条第2項の軍備否定の条項は、(中略)問題がある」と吉田は明記した(「世界と日本」)。

 そうだったか。「世界と日本」だったか。この本も見たのだが、分からなかった。

 <また、こうも書き残した。「日本のような島国では、国民の将来は海にある。海はいわゆる天空海闊、進退自由である」と。>

 広辞苑によると天空海闊とは「人の度量が空や海のように広く大きいこと」で、進退自由はあまり聞かない言葉だが、進退窮まるの反対で、進むも退くも自在、自由という意味だろう。海洋国家日本の政治学ということか。

 <日本は、吉田の願った9条改正も達成せず、天空海闊、進退自由の闊達な国家となるべきところを、打ちひしがれたかのように内向きの国家となり果てて今日に至る。>

 そんな日本に変化を求める動きがこれまで何度もあったのに、対応できなかった。今回はソマリア沖の海賊退治だ。櫻井氏は、

 <海上警備行動を発令しても、現在のように警察官職務執行法を準用するのでは十分な取り締まりはできない。私たちは現行法下での制約が、いかに自衛官を無意味な危険に晒してしまうか、いかに任務の達成が難しいかを、北朝鮮の工作船に対する取り締まりで十分に体験したはずだ。したがって、海自派遣の際は明確な武器使用規定の整備を欠かしてはならない。

 海上警備行動って警察官職務執行法だったのか。岸政権の際の総評・社会党による「オイこら警官」反対キャンペーンを思い出す法律だ。あくまで国内で、それも微罪に関する法律だろう。それを海賊退治に使おうというのか。びっくりした。

 櫻井氏の本領発揮はここからだ。

 <さて、ここからが麻生首相の天命である。国際社会の必要とする力を、日本も他国と協調して出し合うこの行為を、自衛隊を真っ当な軍隊と位置づけることにつなげていかなければならない。どこに派遣されても、日本の自衛官らは、イラクのサマワで実証したように、誠実に任務を遂行するであろう。彼らが十分に働けるように、明確な武器使用規定を整備して、ソマリア沖に派遣することが大切だ。

 <さらにもう一歩、麻生首相は気力を振り絞って、日本の姿を歪めてきた戦後体制を正さなければならない。それは集団的自衛権の行使を禁じている内閣法制局の憲法解釈を、真っ当な解釈に変え、同権の行使を可能にすることである。それこそが祖父、吉田以来の日本の課題の達成であり、麻生首相に託された天命であろう。

 そういうことなのか。そこに麻生首相の最後の仕事をもってこい、と。しかし、今のふらつく麻生政権にそんなことができるだろうか。

 息も絶え絶えだから。

 櫻井氏はだからこそ「信念を貫け」と主張する。

 岩をも貫く信念があれば、百万人と雖も、という意気込みを期待しているのだろうが、そういう政治情勢ではないと思う。

 麻生政権では無理なのだから、早く解散・総選挙をして小沢政権を作り、小沢首相に集団的自衛権問題を解決してもらうしかないのではないか、と私などは思っているのだが。

 櫻井氏は中国の脅威に触れる。

 <日本周辺諸国の激変に目を移せば、日本の対応は待ったなしだ。中国は正式に空母建造を宣言した。ウクライナから購入した「ワリャ―グ」を含めて中国自身が建造する2隻と合わせて、空母3隻体制の海軍大国、中国が、近い将来私たちの眼前に姿を見せる。アジア唯一の空母保有国となる中国は、従来にもまして、軍事力を背景に外交上の要求を実現していくだろう。>

 <中国はこれまでも長年にわたって東シナ海で日本の海を侵してきた。天然ガス田に関して、日本が試掘の可能性に言及しただけで、中国側は軍艦を派遣して対抗すると、複数回にわたって恫喝した。>

 <軍事力で支えられた中国外交は、すでに日本に対してその軍事力の果実を得てきているのだ。日本側は、首相自らが「お友達のいやがることはしない」と愚にも付かないことを語り、中国の日本への侮りを増幅させた。>

 <日本側が糠喜びした”共同開発”も現状維持の”合意”も、中国にとっては何の意味も持たない。覇気なき日本の姿に、中国側はさぞかし自信を持ってガス田開発を進め、樫(中国名・天外天)での掘削を続けたであろう。>

 その通りだ。中国がソマリアの海賊退治に艦隊を出したときの出陣式で鄭和以来、という活字が中国の新聞に躍ったことを思い出す。

 今、中国はナショナリズムの渦の中にある。日清戦争で優越した艦隊を持ちながら日本に敗れたトラウマは今癒されつつあるのだろう。そして、空母だ。空母を持つということの戦略的意味合いを日本の政府やマス・メディアは十分知らないのではないか、と私など思ってしまうのだが。

 <日本はあらゆる意味で足元を見られているのである。中国同様、米国の新政権も、日本の覇気の欠如に加えて、安全保障の法的基盤の未整備という国家とはいえない欠陥を放置し続ける我が国の足元を見ることだろう。>

 オバマ政権がなぜクリントン氏を国務長官に据えたのか。日本の足元を見て、クリントン政権で中国と蜜月を誇ったヒラリーに勝手に中国外交をさせる、という意味でない、と誰も断言できないだろう。怖い話なのだ。

 <だからこそ、首相は一連の対策に、全力で取り組まなければならない。それを成し遂げれば、祖父の志は実現される。首相の掲げた「自由と繁栄の弧」の旗も輝く。その一事をもって、首相は、自信の信念を貫き、日本の国益に資すること、十分なのだ。>

 愛国心の権化、櫻井さんらしい文章である。麻生首相に向けた文章だから、ちょっと引っかかるのあって、吉田政権で日米安保条約批准に全精力を傾けた小沢佐重喜氏の子どもに対するメッセージであってもいいのだろう。

 麻生氏には悪いが、ここまでのことはできないだろう。ただ、心配なのは今の民主党は万全ではない。旧社会党系の議員もまだ権力を持っており、そのうえ、民主党単独では参院過半数に至らないので、民主党政権となれば社民党などと連立になる可能性が高い。そうなると、憲法9条や集団的自衛権で思い切った方向転換ができない可能性もある。

 そうなって初めて政界再編が起きるのではないか、と思っている。財政支出の方式などでは政界再編は起きないだろうが、憲法9条、集団的自衛権では起きる。

 ただ、問題はそうした時、総選挙が行われると、有権者はまた土井たか子氏が昔叫んだような「日本を戦争に引きこむ改正には断固反対です。子どもを戦場に送らない」などという恣意的なキャンペーンに過敏に反応してしまうのではないか、ということである。

 1989年は政治腐敗と消費税という安全保障問題ではない問題だったが、土井たか子氏の叫びに国民は惑わされた。今回も朝日新聞は憲法改正反対」「集団的自衛権は認めない」とキャンペーンを張るだろう。有権者はそうした運動論的に感情を刺激する俗論を見分ける力があるのかどうか。まだ心配だ。

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2009年1月 3日 (土)

御厨氏のいう「戦後」とは?~朝日新聞1月3日朝刊[私の視点]から

 朝日新聞1月3日朝刊OPINION面[私の視点]は御厨貴・東大教授(政治学)の<今年の選択/「戦後」乗り越える強い首相を>だった。ものすごく抽象的に書かれており、言っていることがよく分からないのだが、「戦後」をめぐる歴代政権の格闘ぶりを書いて興味深かった。

◆吉田茂首相は「戦後」を作った。

 これはサンフランシスコ講和条約と日米安保条約体制のことだろう。軽武装・経済大国路線の基礎を作ったのが吉田茂だった、という意味で「戦後をつくった」と書いたのだろう。

◆1956年の経済白書が「もはや戦後ではない」と高らかにうたった。

 これは鳩山一郎内閣。

 1954年春に明らかになった造船疑獄が吉田内閣の首を絞めた。朝鮮戦争の停戦協定発効で不況に苦しんだ業界が政府・与党に利子補給など業界に有利な法整備を求めて働きかけた。自由党吉田派の佐藤栄作幹事長の逮捕も間近とみられたが、犬養健法相が検事総長に指揮権を発動し、佐藤逮捕が幻になった。内閣不信任案も与党の反対で否決された。吉田批判が燃え盛り、巻き返しを図った吉田は岸信介を除名したが、これを機会に岸派、鳩山派、改進党、日本自由党が合体して日本民主党を結成する。初代総裁は鳩山一郎、幹事長は岸信介で衆院120人の勢力を誇った。左右社会党と連携すれば吉田政権を倒せる勢力になった。

 1954年12月6日、民主党と社会党が内閣不信任案を提出すると、第5次吉田内閣は総辞職の道を選ぶしかなかった。第2次吉田政権から数えて6年2ヶ月にわたる長期政権に幕が下りた。

 1954年12月10日、鳩山一郎が首班指名を受けた。第2次鳩山内閣の55年10月に左右の社会党が左派の鈴木茂三郎氏を委員長に、右派の浅沼稲次郎氏を書記長に新たに日本社会党を結成。

 一方、危機感を深めた財界の後押しもあって11月15日に自民党が誕生した。この自民党政権は宮沢喜一政権が倒れた1993年8月まで38年間、「一党支配」(御厨氏が言う「一党優位体制」)を続ける。国会では多数の自民党と万年野党の社会党による「自社55年体制」が続いた。

 鳩山首相は56年10月19日にはモスクワで日ソ共同宣言に署名し、平和条約締結の際には歯舞色丹両島を返還するとされた。ソ連の賛成で56年12月18日には国連加盟が実現した。

 鳩山首相は55年1月に「経済自立5カ年計画」を閣議決定し、吉田茂前首相が嫌った計画経済を押し進める。

 54年11月に不況を抜け出した後、日本経済は57年6月まで31ヶ月に及ぶ神武景気を謳歌する。55年から56年にかけて主要産業が一気に設備投資を行い、56年はそれまでに見られなかったような好況の年になった。

 そこで、56年度の経済白書は「もはや戦後ではない」と高らかに宣言したのだ。

◆岸信介が60年の安保改定で「戦前」の幻影を呼び覚ました結果、次の池田勇人は高度成長政策で「戦後」をいま一度演出しなければならなくなる。

 それはそうなのだが、草野厚・慶大教授が2005年に出版した「歴代首相の経済政策全データ」(角川oneテーマ21)で「条約の不平等性を改正することに、なぜ、人々が反対したのか。それは、岸が戦前の満州経営の総責任者であり、東條内閣の閣僚でもあったことなど、A級戦犯として訴追された、その経歴にあった」と書いている通り、吉田茂首相が結ばざるを得なかった日米安保条約には米国の日本防衛義務が明記されていなかった。それなのに、日本は米国に基地を提供する義務がある、という不平等条約だった。

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 このため、吉田は講和条約は出席者全員が署名にしたものの、安保条約では自分一人の署名にとどめ、閣僚らを巻き込まなかった。地獄に行って先祖に「こんな屈辱的な植民地になるような条約を結んだのは私だけです。すべては私の責任です」と謝らねばならないだろう。その時、謝るのは自分だけでいい、と考えたのだろう。その日米「不平等押し付け」条約の改定のチャンスがようやくめぐってきたのだ。

 しかし、国民の受け止め方は違っていた。

 草野氏が書いているように、A級戦犯の首相、満州の妖怪、右翼とのつながり…など、当時の空気からすれば「悪」とされる印象ばかりが岸にこびりついていた。

 岸内閣が最初に取り組んだのが鳩山内閣以来の懸案だった教職員に対する勤務評定問題だった。地方公務員法では任命権者が職員の勤務評定をする、と決められているのに日教組が反発していた。日教組は岸内閣発足に合わせて全国で勤評闘争を繰り広げたが、岸内閣は58年4月以降、全国の都道府県で勤務評定を実施した。日教組はストライキなどで抵抗した。

 しかし、一般公務員には行われている勤務評定をなぜ教師に対して行ってはいけないのか、という疑問。日教組社会党もその本質的な国民の質問に答えられなかった。

 58年5月22日の総選挙では社会党は8議席増えたものの、自民党も追加公認を入れて298と8議席増やし、社会党への風は吹かなかった。

 しかし、その後の警察官職務執行法(警職法)は総評・社会党が「おいこら警官がデート中でも邪魔をする」「デートもできない警職法」というキャッチフレーズで反対闘争を展開し、岸首相は58年11月21日、鈴木茂三郎社会党委員長との会談で廃案を明らかにするという敗北を喫した。

 岸は傷を負い、池田勇人、前尾繁三郎、三木武夫の3閣僚が辞任する騒ぎとなった。

 この流れの中で安保改定が出てきた。ソ連と友好関係にあった社会党はソ連が日本に中立を求めたため、中立を党是として、安保廃棄を目標に闘いを組み立てた。冷戦の真っ最中に米国に敵対する勢力に寝返ろうという政策だった。浅沼稲次郎書記長は訪中し「アメリカ帝国主義は日中両国人民の敵」と発言した。日本の中で米ソ冷戦の代理戦争が戦われているようなものだった。

 岸首相は60年1月に訪米して新安保条約に調印した。

 5月20日未明、新安保条約の批准を衆院本会議で単独強行採決。国会を大デモが取り巻き、政治はマヒ状態に陥ったが、1カ月後の自然承認を岸はじっと待った。東大の女子学生がデモ中に死亡するなどの痛ましい事故もあった。

 しかし、条約の自然承認後は、安保反対の熱気が嘘のように引いた。国内は政治無関心、政治アパシー状態に陥った。

 岸首相は混乱の責任を取って1960年6月23日に引退表明した。そして、7月19日に池田勇人政権がスタートする。

 実は所得倍増計画は岸内閣からスタートしている。

 ただ、発案者は池田勇人だった。59年にブレーンの中山伊知郎・一橋大学教授らと協議の上「月給倍増論」を打ち出し、参院選挙の公約にもした。池田は自分の内閣をつくると、本格的に所得倍増論を打ち出した。すさんだ国民感情を慰撫するための内閣のスローガンは「寛容と忍耐」だった。

 池田内閣が「戦後」を卒業するための階段を何段か上ったことは間違いない。

 1963年にはGATT11条国に移行。国際収支の赤字を理由に輸入制限を行うことができなくなった。64年にはIMF8条国に移行。64年4月にはOECDに加盟した。それは日本が国際社会の中で開発途上国を卒業し、先進国の仲間入りしたことを意味した。

 池田首相の最後の晴れ舞台は東京五輪だった。これは「戦後への決別セレモニー」でもあったのだが、池田自身はがんにおかされ、入院。五輪閉会式後に辞任を表明する。

◆続く佐藤栄作は約8年の政権を通して「沖縄の返還なくして戦後は終わらない」と訴え続けた。返還は実現したものの、「戦後」の安定的な秩序を確認するにとどまった。

 「人事の佐藤」と言われる。だから、長期政権ができたのだ、と。しかし、そうでもない。怒りっぽい佐藤は臆病なだけで、決断できない首相だったのかもしれない。満州経営に辣腕を振るった兄にいつもコンプレックスを抱き、運輸相という二流官庁でうだつが上がらなかった青年時代を過ごしながら、這い上がってきた。佐藤は運がいい。首相になった時も池田ががんに倒れたため、権力闘争を繰り広げずに官邸に入れたため、余力を持って政権運営ができた。最も恵まれていたのはライバルがどんどん死んでしまったことだ。大野伴睦、河野一郎である。藤山愛一郎が残ったとはいえ、絹の手袋をして生まれてきた経済人は佐藤の相手ではなかった。運鈍根を地で行ったのが佐藤だろう。

 佐藤時代、外交の発展は目を見張るものがある。1965年6月22日、日韓基本条約を締結した。韓国は対日賠償請求権を放棄する一方、日本は韓国に無償資金協力、円借款を供与するという内容だ。

 この日韓条約は後々、韓国で何度も政争の具とされる。朴正煕政権が「漢江の奇跡」を起こすためにぜひとも必要だった金を日本から調達する意味もあって条約を急いだのは事実だ。そして韓国は長かった朝鮮戦争後遺症からようやくテイクオフすることができた。国と国の取り交わした条約なのに、韓国の「民主化勢力」は「軍事政権のやったことは認めない」「歴史を書き換える」などとめちゃくちゃを言って、条約にけちをつけ、「個人の賠償請求権は残っているはず」などと主張していた。この問題は最高裁が温家宝来日直前に判決を出し、国家が結んだ条約は国民をも縛る、という当たり前の内容をうたったため、ようやく決着したものの、長い間、無駄な法廷闘争が繰り返された、というのが一般的な受け止め方だろう。

 佐藤がいつ沖縄返還を自分の最大の仕事と決意したのか。勉強不足で分からないが、佐藤のすごさは一旦決めたら、その目標に向かって、すべてのことを集中することだ。ここで思い出すのが宮沢喜一通産相の無策ぶりだ。佐藤首相はニクソン大統領の南部対策のため繊維摩擦を解消する必要が出てきた。このため、日米関係に詳しい宮沢氏を通産省にして、繊維問題の解決を託した。ところが宮沢氏は何もできずにおたおたしただけで、終わってしまった。このため、機嫌を損ねたニクソンが米中国交正常化を日本に事前連絡しなかったり、ドルと金の交換停止というニクソンショックも事前連絡なしに行われたのではないか、と言われている。愚図な宮沢氏の実害は実は日米関係で出ていたのだ。

 宮沢氏は回顧録で「私は政治家ではなく官僚だった」とか言って、法制局の説明を真に受けて、法律内ではできることが限られていたので、できなかった、と話しているが、法律内でしかものごとをすることができないのを官僚といい、政治家はできないときには法律を作らねばならない。自分で自覚しているようではあるが、宮沢氏は首相の器でもなければ、本格的な政治家でもなかったことは確かだろう。評論家としてテレビで言うことを聞いているともっともらしかったが。

 この宮沢通産相が無策だったので、佐藤首相は田中角栄を通産相に据え、即座に繊維摩擦を解決する。この手柄も角栄がポスト佐藤で福田に勝つ一つの勲章になっていたはずだ。

 御厨氏のいう「『戦後』の安定的な秩序を確認するにとどまった」の意味がよく分からなかった。つまり、返還とは言っても今も沖縄は事実上、アメリカの植民地ではないか、といっているのか? よく分からない。

◆佐藤を範とした中曽根康弘は82年、「戦後政治の総決算」を華やかに宣言して登場した。国鉄改革など「戦後」改革に着手したものの、イデオロギー面を含めた「戦後」からの転換は未完に終わる。

 臨調行革路線と戦後政治の総決算路線という二つの路線で長期政権を謳歌したのが中曽根康弘だった。レーガン、サッチャー、全斗煥というトップが同時代にいた。新自由主義の二人と軍事政権の一人。系統は違うはずなのに、中曽根を含めてこの4人はよく似ていた。中曽根時代はソ連の力の衰えが目に見えるようになってきた時代でもある。レーガンが軍備拡張でゴルバチョフをいじめ、最後にゴルバチョフはお手上げになる。サッチャーは沈んだままだったイギリスを規制緩和という手段を使って金融大国に蘇生させ、その後のイギリスの栄光の序章を形作った。全斗煥は民主化勢力をいじめはしたが、韓国の安定を最大の目標に日米韓連携を重視、朴正煕の経済成長路線を踏襲した。

 御厨氏の言葉はどうも意味不明なのだが「イデオロギー面を含めた『戦後』からの転換は未完に終わる」というのは、どういう意味なのだろうか? もしかすると平和憲法イデオロギーからの脱却つまり、憲法改正のことか、と思ったのだが、御厨氏は論文の最後に違う文脈で憲法改正の話を書いているので、どうも違うらしい。よく分からない。

◆90年代は「戦後」の限界が指摘され、政治改革や行政改革さらには憲法改正など「改革」が時代のキーワードとなった。もっとも、89年に「昭和」から「平成」への代替わりと重なり、戦後憲法に育まれた最初の象徴天皇が登場、「戦後」的価値の肯定と再確認が行われた。

 1990年代に「戦後」の限界が言われたのは具体的には湾岸危機、湾岸戦争で日本が国際貢献のために自衛隊を湾岸に出せるかどうか、をめぐる憲法論争が起きて、最終的に内閣法制局が縛りをかけて自衛隊の派遣を認めたのが最初だった。海部政権はこの国際貢献問題をめぐり竹下派の小沢幹事長と対立することもあって最終的には衆院解散を封じられ、総辞職する。その後、宮沢政権ではカンボジアPKO問題もあった。世界がグローバル化し、国際貢献が1980年代までのように単純ではなくなったことが日本にとって大きな問題となった。単純に米国の言うことを聞いていればよかった時代から、ある程度自分で判断しなければならない時代に変わったのに、自己決定できるような法制度になっていなかったことに気づいた心ある政治家たちは愕然とする。それが小泉政権時代の有事立法につながるのだが、それはまだ先の話だ。

 昭和天皇の崩御は当時騒いだものの、まだ国民的に決着していない。というのも、戦犯問題が燻っているからだ。これに決着をつけるにはまだ生々しすぎるということなのか。

◆「ぶっ壊す」と「構造改革」を叫び続け、5年半の長期政権を維持した小泉純一郎は、90年代に有名無実化していた「55年体制」と「自民党一党優位体制」にとどめを刺した。しかし新しい何かを生み出すことはなかった。

 「戦後」というキーワードと小泉政権との関係は考えれば考えるほど難しい、と思う。対外的には中国との関係悪化があり、その原因は靖国神社参拝という戦後処理問題だったし、米国との関係もブッシュ=小泉関係で日米運命共同体を形作ったが、5年半の間に徐々に形骸化して米中関係が徐々に深く濃くなっていき、最終的には小泉政権ではないが、米国は日本を裏切るような北朝鮮のテロ支援国家指定解除をやってきた。北朝鮮の脅威に対応するため、遅まきながら有事立法を整備したものの、まだまだだし、基本的に日本の安全保障は片肺飛行で、米国の核兵器がなければ安全を確保できないことは誰が見てもはっきりしている。

 「55年体制」にとどめを刺した、というのはどういうことなのか? これも意味不明だ。「自民党一党優位体制」にとどめを刺した、というのは「自民党をぶっ壊した」ということだろう。これは支持基盤を自らが掘り崩したという意味だろうから、それはそうだと思う。郵政で郵便局長の連合体を離反させ、農協も徐々に離反し、建設業界も離れていった。しかし、小泉ほドラスティックではないにしても、誰がやっても同じようなトレンドで政権運営をせざるを得なかったのではないか、とも思う。

 「新しい何かを生み出すことはなかった」というのはどうか? 小泉政治の総括は難しいが、少なくとも今まで「日本よ国家たれ」などと批判されていた権力中枢のないという批判に対する答えは官邸強化と経済財政諮問会議の活用である程度の方向性を出したのではないか、と思うのだ。橋本龍太郎首相が断行した省庁再編で国家機構は変わった。大蔵省の絶大な権限を奪って官邸に予算編成権を持ってきたこと、それを小泉が実践したことの意味は大きいと思う。

 飯尾潤氏が言うように、今の日本政治は官僚が支配する民主統治の構造から脱却していない。これを真の議会制民主政治に転換しなければならない

 御厨氏も最後の段落で書いているが、憲法を実践することが大切で、それには旧態依然とした慣行をやめるしかない。

 ただ、旧態依然とした慣行というのは弱者保護のための慣行、つまり少数野党を守るための国会規則であり、不文律だった。

 だから、安倍晋三政権はこの慣行をほとんど無視し「憲法の規定にあるから」と強行採決を繰り返したら、マスメディアの徹底攻撃を受けた。新聞記者の頭の中は現実の政治を見ていない。お手本はスクラップブックだ。つまり、過去の記事を見ながら、今の情勢を書くのが記者だから、強行採決となれば「けしからん」という言葉が用意されているわけだ。

 安倍政権は消えた年金問題や閣僚の事務所費問題など政治資金問題疑惑だけではなくこの強行採決への批判が内閣支持率ダウンの大きな要因となったのだろう。

 安倍政権失墜の大きな原因はこの強権的国会運営も響いたはずだ。しかし、憲法の規定で言えばこの国会運営は許されてしかるべきだし、そんなに批判することはないということになる。この辺も難しいところだと思う。

 御厨氏は、

 <政治家は現行憲法の原則や規定に戻ってはどうか。そこには「強い首相」と「機能する国会」がある。もろもろの政治慣習から解き放たれ、原点からコトを考えるようになろう。そうすることによって「戦後」を自覚的にリセットし、政治の新たな飛翔を可能にすると思われる。>

 と綺麗な言葉で書いているが、現行憲法の欠陥は昨年何度も新聞に取り上げられていたように、参議院の権限が異常に強いことだ。「強い首相」という抽象的な言葉の意味がよくわからないが、中曽根氏が勘違いして使っていた「大統領的首相」という意味ならば、小泉以後は実現している。ただ、議院内閣制だという一点でごねる自民党の守旧派を説得できるかどうかは首相やスタッフの力量だろう。小泉氏は自民党総務会を無視して郵政民営化を閣議決定して、押し切った。憲法に戻って首相が国会の今までの慣習を打ち破ってでも国会運営を行うのはいいのだが、限界はある。果たして原点からものを考えて、その先に「戦後」の自覚的リセットがあるのだろうか? これも言葉の遊びのように思えるのだが。

 御厨氏は最後に、

 <そして、逆説的だが、「戦後」から解放されて初めて、戦後憲法の改正が現実の日程に上ってくるに違いない。>

 と書くのだ。私には意味が分からない。何を意味しているのだろうか? まあ、この辺は御厨氏の最も言いたいことなのだろうし、見出しにもなっている「強い首相」がキーワードだとすれば、首相主導でやってくれ、と言うことが言いたいのかとも思う。先を急ぎすぎたので、また、歴代内閣と戦後の問題に戻ろう。

◆初の戦後生まれの首相となった安倍晋三は「戦後レジームからの脱却」をストレートに訴えた。しかしまことに皮肉なことに、安倍は「戦後」の枠組みに足を取られ、わずか1年で退陣を余儀なくされる。戦後憲法下の二院制国会で論理上起こりうる、衆参「ねじれ」状況を招いてしまったのだ。

 「戦後」の枠組みに足を取られた、というのは何か? 年金問題なのか? 年金は戦後の枠組みというよりかは戦時体制の産物だろう。そうすると「戦後」の枠組みとは何なのか? これも私には意味不明だ。二院制の問題は安倍が足を取られたのではなく、参院選の敗北の結果足を踏み入れてしまった蟻地獄だろうから、違うだろう。分からない。

◆福田康夫もなす術もなく、やはり1年で職を辞し、総選挙で勝てるタマとして選ばれた麻生太郎は早くも迷走状態のただ中にいる。

 これはその通りで、福田辞任こそ「戦後」憲法の呪縛に倒されたのだろう。麻生太郎はまだ現在進行形でコメントしづらいが、解散権を事実上なくしてしまった首相である。選挙管理内閣だったのに選挙をしなかったからこうなった。

 以上が御厨氏による歴代首相と「戦後」の関係だそうだ。

 そして、「政権交代可能な二大政党制」による政権交代が起こりうる、としながらも、有権者もマスコミも政治家も「総選挙による政権交代」の意味を考えていないのはお寒い限りだ、と言う。政権交代が「戦後」に終止符を打つものか、「戦後」を延命させるものか、それが曖昧なままであることが問題なのだ、というのだ。器ではない麻生、首相になりたくない小沢が争うのは何とも情けない、とも書く。そして、

 <必要なことは何か。あまりにも長く続き、歴代首相が克服できなかった「戦後」を終わらせるための総選挙であり政権交代であると、どちらもはっきり示すことだ。もちろん一度の総選挙で「戦後」がガラリと変わることはありえまい。しかし今年こそは「戦後」の終わりの始まりと認識すべきだ。そして「戦後」を乗り越えるために「強い首相」を作り出す必要がある。>

 と書く。「強い首相」を作るべきだ、というのは大賛成だ。だが、どうしてそこに「戦後」が出てくるのか? 最近の御厨氏の本を読んでいないので、御厨氏がどういう意味で「戦後」という言葉を使っているのかよく分からないのだが、僕は日本国憲法の改正をもっと堂々と論戦できる空気が醸成できればそれでいいと思っている。個別具体的な問題でタブーが多すぎる。例えば、

 核を持つべきかどうかも論争すべきだ。武器輸出三原則を今後も守るべきかどうか、も論争すべきだろう。同和問題、在日朝鮮人問題、外国人労働者問題、米国の人種差別問題、中国の人権問題、台湾が本当に中国の一部なのかどうかの問題、ロシアとの領土問題、満州に違法に攻めてきて強姦を繰り返し、男をシベリアに連れ去ったソ連の責任問題、米国が原爆という非人道兵器を使用した責任問題、靖国神社参拝問題、東京裁判は勝者の裁きだったのか人類として受け入れるべき裁きだったのかという問題、南京虐殺問題、大東亜戦争はアジア解放戦争だったのかという問題、戦争責任を日本人として問うていない問題――などなど日本人が心の奥底に押し込めている問題は非常に多い。これは多かれ少なかれ「戦争」「戦後」にかかわっている。

 「戦後」を終わらせるということは、こういう問題に日本人としてある程度納得いく解答を得ることではないか。それを次の政権から始めることができるのかどうか。

 僕はまだまだ30年はこのままの状態が続くのではないか、と思うのだが。

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2008年12月24日 (水)

長部日出雄氏の<真の独立><楕円と再生の思想>を読んで~日経新聞12月17、24日夕刊から

 日経新聞夕刊1面コラム[あすへの話題]は毎日欠かさず読む。12月17日の長部日出雄氏の[真の独立に向かって]に感動して感想を書いておこうか、と思ったのだが、「当方担当の最終回となる次週の本欄で述べたい」とあったので、今日の夕刊を首を長くして待っていたら、[楕円と再生の思想]というタイトルで長部コラムが掲載されていた。

 ということで、この2回のコラムを紹介しながら、ちょっとだけコメントしたいと思う。

 まず12月17日[真の独立に向かって]だ。「真の独立」という言葉を見て、「アメリカからの独立」を思い浮かべる人は多いだろう。まさに長部氏の書いているのはそのことだった。ただ、安全保障面での独立とか、政治面での独立ではなく、日本人の精神、心に関する「独立」である点が政治家や政治的学者と違うところだ。古くは江藤淳氏らの保守思想に連なる系譜と言っていいのだろう。

 長部氏には申し訳ないが、コメントを書く都合上、逐条的に書き写す。著作権上の問題が発生するのかもしれないが、どうか大目に見てください。

 <わが国の政治家の大半が、すっかり小粒になって、とても安心して国を任せられない状況になったのは、戦後のある時期からアメリカの属国の地位に甘んじて、自国を独立国として統治する経綸も矜持も必要とせずにやって来られたからである。国家の主権の正当な認識がなく、従ってそれを的確に行使する術に熟練する筈もなかった。>

 「戦後のある時期」について長部氏は2回のコラムで具体的に書いていないのだが、いつ頃なのだろうか? 外交文書公開で明らかになった佐藤栄作首相の日米首脳会談や米国防長官との会談での中国への核攻撃を米国に約束させる鬼気迫る交渉ぶりには頭が下がるが、こういう心根が責任ある政治家から失われたのはいつなのか? つまり、東久邇稔彦、幣原喜重郎、吉田茂は間違いなく国益を考えた政治をした。社会党の片山哲だって非武装中立なんて言わなかった。芦田均もある意味、国士だ。鳩山一郎の筋金入りの日本主義は米国に嫌われたほどだ。岸信介も個人的には嫌いだが、あれだけの反対の中、日米安保条約の改定をやり遂げたのは、当時の国益に沿っていただろう。池田勇人の高度経済成長は決して軟弱路線ではなかった。土性骨が座った国富政策だった。そして、佐藤栄作である。そこまでは何とか及第だと思う。

 そうすると、問題はその後だ。田中角栄はどうなのか? 金権腐敗のうえ、日本の航空政策を米国のロッキード社に売り渡し、ワイロをもらったかのように指弾され、名誉も奪われて失意の死を迎えた天才には国益観念があったのかどうか? 私には今コメントする能力がない。

 三木武夫という椎名裁定で図らずも総理大臣になって田中角栄逮捕のために暗躍したような男は保守政治家の風上にも置けない。失格間違いなしだ。小派閥の長で国民の支持ばかり気にしているから、重要な政策に腰を据えて取り組めない。GNP比1%枠とか、どんな意味があったのだろう。

 福田赳夫はアジアを向いていた。米国の核の傘の下にいるのは仕方ないと考えながら、日本はアジアで支持を広げなければ先細りになる、と具体的に動き始めたのは評価できる。ただ、この人も気が弱いのか、連続爆弾事件の犯人が牢屋から犯人を逃がすように要求した時「人命は地球より重い」とか言って、超法規的措置で犯人を釈放するなど、無原則極まりないことをやった。日本は国家ではない、という批判が上がったが、西欧的な「人間主義」がひねくれた形で導入されていた日本ではマスメディアがこの問題への深入りを避け、曖昧にされた。それが後々まで尾を引いて、最後には小泉首相時代の「自己責任論」に結びついたのだと思うのだが、どうも「地球より重い」人命などないし、「自己責任」は国家の責任放棄だ、という常識論が通じなくなっていたようだ。極端から極端に振れる日本人の悪い点をあますところなく露呈している。だから、福田氏だけを責めてはかわいそうかもしれないが、総理大臣というのは何を言われてもやるべきことはやらなければならないのだから、やはり、福田首相は失格だろう。

 大平首相は愚直な人だった。一般消費税をまじめに考えて導入しようとしたら、野党の集中砲火にあっただけでなく、福田氏との「40日抗争」で心身をすり減らし、病死した。憤死のようだった。正義派の国益重視派と言っていいだろう。

 鈴木善幸氏は暗愚の宰相と言われた理解能力に欠けた人間。田中角栄氏のロボットとしては便利だったというだけだが、やはり「日米同盟に軍事は含まない」などメチャクチャ過ぎる発言は最低だった。言うまでもなく失格だ。

 中曽根康弘氏は合格でいいだろう。

 竹下登氏も合格と言っていいのかどうか。消費税を導入して高齢化社会への対応を図ったことは立派だった。ただ、竹下、安倍晋太郎、宮沢喜一の大正生まれ3人、「安竹宮」は線が細く、政治信念の底の底を覗けば国家への不信が見て取れる。軍国主義日本によって死ぬ一歩手前まで行った年代だが、その上の世代のように自分の意思でコントロールできたのではなく、あくまで命令に従って黙々と死に向かって生きていた世代だ。自分の確固とした信念もない世代。竹下氏が「わしらは明治のじいさまと昭和の若者のつなぎの世代」と言っていたように、実際つなぎ世代でしかなかったし、そもそも戦争での死亡者が多く、人口構成で見てもこの世代は少ない。

 宇野宗佑、海部俊樹はロボット。コメントに値しない。宇野は竹下のダミー。海部は金丸のダミー。

 宮沢喜一は竹下のところで述べたとおり。宮沢回顧録で御厨貴氏らのインタビューに答えていろいろ言っていたが、印象に残ったのは決断できない官僚そのもの、という姿。自分では客観的に振り返っていたのだが、佐藤政権で沖縄返還を実現するためにも「糸と縄の取引」が必要になった時、佐藤氏は宮沢氏を通産相に据え、国内の調整と対米交渉を任せたのだが、国内調整が全くできず、つまり米国に何も回答できず、あきれた佐藤首相が通産相を田中角栄に替えて、打開したケースなどがそうだ。優柔不断で、政治家ではない。耳に優しいことは言えるが実行できないから政治家ではない。

 細川護煕、羽田孜、村山富市は前2者は小沢一郎氏のダミー。村山氏は自民党のダミーだったから、論外。

 橋本龍太郎は個人的には合格点をあげたいのだが、あまりにも細かいことを気にしすぎて大局を見ていなかった。だから、最終的に失敗した。省庁再編をやり遂げたり、経済財政諮問会議の枠組みを作るなどの改革は良かったが、厳密に考えれば、失格と言わざるを得ないだろう。

 小渕恵三氏も悩ましい。大平氏に似ているところがあり、バックにいた竹下氏がこのケースではロボットにするのではなく、小渕氏の手足として動くことで政権のために一肌脱いだことを考えれば、小渕+竹下=合格なのか?

 森喜朗氏は勿論不合格だろう。

 小泉純一郎は合格だろうか? いくら後世の史家が郵政民営化のインチキ振りを暴き、北朝鮮政策の失敗をあげつらっても、バブル崩壊で腑抜けになっていた日本国民に「構造改革をやれば少しは良くなる」という夢をバラまいたことは確かだ。だから、5年間という長期政権になった。しかし、その結果は企業だけ焼け太りして、国民はやせ細り、ワーキングプアが常態化した。アメリカ様の言うことは何でも聞くが、日本の国民の言うことは聞かない、という政治を見れば、失格に入れるしかないだろう。ここの判断は微妙である。何が国益なのか、厳密な論議が必要だろう。

 安倍晋三、福田康夫、麻生太郎は3人とも失格。

 と戦後の総理大臣を振り返れば、佐藤栄作までは何とか合格点をあげるとして、その後は大平、中曽根、竹下、小渕には合格点を与えても、田中角栄は?がつく。他の首相は不合格、となる。

 <この点においてはメディアと学者文化人の多くも似たようなもので、政治と経済において学ぶべき規範はことごとく欧米にあり、わが国に固有の伝統は押しなべて過去の遺物で、国際的な普遍性を欠いた誤謬と見做され、殆ど一顧もされなくなった。>

 そうなのだ。全くその通りなのだ。

 <だが、何よりもまずインターナショナリズムやグローバリズムを唱え、ある一元的な原理によってそれが実現できる、とする主張には気をつけたほうがいい。コミンテルンが人類に共通する理想として掲げたインターナショナリズムが、実はソ連の軍部と国家官僚層を掌握した指導者が独裁するクレムリン帝国主義の別名でしかなかったことは、既に白日のもとに曝された。自分たちの学説を、世界中全ての国に普遍妥当するものと信じたアダム・スミスに始まる古典派経済学の部分的で単純な拡大解釈によって「新古典派」あるいは「新自由主義」と称された学派の唱導したグローバリズムの実態が、砂上の楼閣を金殿玉楼に見せかけようとしたウォール街による金融帝国主義であったことも、今や大方の目に明らかになった。>

 しかし、長部氏はよくここまで思い切ったことを書いたなぁ、と溜息が出る。言っていることはその通りで、私も大賛成である。ただ、長部氏といえば、私も最近マックス・ウェーバーに関する新潮選書をパラパラと読んだばかりだが、欧米思想を肯定的に受け止めているのか、と誤解していた。そうではなかったのだ。

 コミンテルンの32年テーゼは日露戦争に負けたロシアがソ連と国名を変えた後も日本に対する怨念を持ち続け、復讐の機会をうかがい、日本弱体化のために日本共産党に強いた政策だった。国際共産主義運動のはずが、日本だけをターゲットにしたテーゼというのも後から考えればおかしな話だが、当時の共産党にはコミンテルンを批判的に見る視点がなかった。長部氏が言うように、肌の白い人間が言うことを金科玉条として、日本の伝統を馬鹿にしていた知識人の大失敗だ。この傾向は丸山真男以後の戦後知識人にも連綿と引き継がれている。

 こういう言説が公に出るようになったのは、世界金融危機のおかげなのかもしれない。

 <ソ連とアメリカの覇権が共に崩壊した今日、われわれは真の独立を目ざす道へ歩みださなければならない。そのさい何を軌範にすべきかについては、当方担当の最終回となる次週の本欄で述べたい。>

 として、次週の12月24日のコラム[楕円と再生の思想]になる。

 こちらは最近どこかで誰かが書いていた神仏習合の見直し論につながる「楕円の思想」だった。

 <「日本」という国家の原型は、古代史上最大の内乱であった「壬申の乱」によって生み出された。当方の考えるところ、これは唐風文化一辺倒の大友皇子を奉ずる近江朝廷と、国風文化を重んずる大海人皇子との戦いで、結果はご承知の通りである。では、勝利を収めて即位した天武天皇の治世が、こんどは国風を唯一絶対とする原理主義になったかといえば、決してそうではない。>

 長部日出雄氏は1934年9月3日青森県弘前市生まれ。故郷、津軽に関する小説、エッセイが多く、津軽出身の棟方志功、太宰治らの評伝も執筆している。ウィキペディアで略歴を見ると、1953年に早稲田大学文学部に入学、中退。57年、週刊読売記者。大島渚、永六輔、野坂昭如、筒井康隆、小林信彦らを一早く評価し、彼等と深く交友。退職し、雑誌『映画評論』編集者、映画評論家・ルポライターを経て作家。73年に『津軽じょんから節』と『津軽世去れ節』で直木賞受賞、とあった。「天皇はどこから来たか」(新潮社、1996年)、「反時代的教養主義のすすめ」(新潮社, 1999年)「二十世紀を見抜いた男 マックス・ヴェーバー物語」(新潮社, 2000年)、「天皇の誕生 映画的『古事記』」(集英社、 2007年)、「『古事記』の真実」(文藝春秋、2008年)という著作目録を見れば、私の勘違いで、実は日本の古典、古代への造詣が深かったことが分かった。

 <漢字と和語を綯い交ぜにして、話し言葉と書き言葉の双方の働きをそなえた「日本語」を最初に確立した「古事記」の口誦しながら、天武天皇は官寺の造営にも力を注いで、日本中の家々に異国の教えである仏教を浸透させた。このような原理主義者がどこにいるだろう。和語と漢字の見事な融合、神と仏の和らかな共存。世界に類のないこの二元の構造こそは、わが国の文化の最大の特徴で、壬申の乱が「日本」という国家の原型を生み出す基になった……というのは、そういう意味なのである。>

 なるほど、である。やはり古代史への造詣が深い。

 <異質で相反する要素の和らかな共存を図って、二つの焦点を持つ楕円形の国家を形成したい、というのが天武天皇の願った理想の和の国の姿であった。伊勢神宮において旧宮と新宮の敷地が隣接し、二十年毎に神儀(御神体)がその間を往復する……という奇跡的な遷宮制度の創始者も天武天皇である。希望を失って真っ暗闇と化した世の中に、ふたたび天照大御神が新たな光明をもたらす「天の岩屋戸」神話は、死と再生の劇であり、遷宮はその祭祀化なのである。この「楕円と再生の思想」こそ、日本を救う。ぼくはそう確信して疑わない。>

 そうなのだろう。明治維新の際に薩摩や長州の若手武士がこれらの国の物語を軽く扱い、国家神道化した。そして、戦争に負けた後、マッカーサーが神道指令で国家神道をやめさせた。その後の日教組の教育で神話が不当に弾圧された。

 今はじっと沈思黙考しながら、日本を再び考える人が増えることを望みたい。インターナショナリズムはナショナルを理解してはじめて理解できる、とはよく聞いた話だが、その通りだと思っている。長部氏が説くように、そろそろ虚心坦懐に日本を見詰め直そう。

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2008年12月22日 (月)

中国核武装後の佐藤栄作・マクナマラ、佐藤・ジョンソン会談~12月22日毎日新聞・日経新聞朝刊

 12月22日朝刊各紙は22日付で外務省が公開した外交文書を大きく扱っていた。各紙が注目しているのが1965年1月12、13日にワシントンで行われた佐藤栄作首相とジョンソン大統領、マクナマラ国防長官との会談で中国が直前に行った核実験にどう対応するか、が詳しく話し合われていたことが初めて明らかになった。

 1965(昭和40)年1月13日に米国ワシントンで45分間行われた佐藤・マクナマラ会談が重要だ。日経新聞2面に主なやり取りが掲載されていたので転記しておく。転記部分は<>の中。

 <長官 中国の核爆発(核実験)の性格が問題で、今後2,3年でいかに発展するかは注目に値する。問題は日本が核兵器の開発をやるかやらないか。>

 毎日新聞特集面に、佐藤首相が訪米前の1964年12月29日、ライシャワー駐日米国大使と会談し「仏大使は中共が核武装を行っているのだから、日本も核武装すべきだと言ったので、日本はそのような問題でフランスの指図は受けないと言っておいた」と語ったエピソードが出てくる。1964年10月に中国が第1回原爆実験を行い、核保有国になった、という状況の変化があり、マクナマラ国防長官の端的な質問もその事態を踏まえた日本の対処方針を聞いたものだった。

 佐藤栄作日記第2巻212ページの12月29日(火)の項目には

 「萩原、中馬、小川半次等数氏来邸。何れも大臣候補の猟官運動か。十時からライシャワー大使と二時間懇談。更に東京会館で実業人と会談。四者懇談会。神田厚相、医療費の取り扱ひに就いて相談あり。AP、アメリカンマガジン等と会見。植村甲午郎、大野[勝巳]大使、椎名外相と会見。石井氏亦来りて渡米につき懇談。いヽ事だが余り変った意見はない。二十九日会に出席」

 とあった。前日、御用納めをすませており、公務が終わった普通の年ならば、少しは暇ができる季節である。1月の訪米を控えて、米メディアとの会見などを精力的にこなしている姿が浮かぶ。

 <首相 日本は核兵器の所有あるいは使用についてあくまで反対だ。技術的には核爆弾をつくれないことはないが、フランスのドゴール大統領のような考え方(独自の核兵器開発)は採らない。陸上への核兵器持込については発言に気を付けてほしい。もちろん、戦争になれば話は別で、米国が直ちに核による報復を行うことを期待している。その際、陸上に核兵器施設を造ることは簡単ではないかもしれないが、洋上のものならば、直ちに発動できるのではないかと思う。>

 ジョンソン米大統領との首脳会談(1965年1月12、13日の2回)で佐藤首相は「中共の核実験に拘わらず、日本国民の間には、日本は核兵器を保有せず、核兵器を使用するような事態の発生に対しても反対する空気が支配的である」と繰り返し国内事情を強調し「日本は核武装は行わず、米国との安全保障条約に依存するほかない。米国があくまで日本を守るとの保障を得たい」と訴え、ジョンソン大統領が「You have my assuarance」(あなたには私が保証します)と断言した、と毎日新聞特集面にあった。

 閑話休題。

 佐藤栄作日記の1月12日(火)も書き写しておこう。

 佐藤栄作日記第2巻222ページ。

 「昨夜は興奮の結果か、ねつき悪く、午前四時頃迄転々。八時過ぎ起される。午前はゆっくりして、十一時にホワイトハウスに出かける。ブレアHOUSEはすぐ前なので2分前に出発。儀仗兵の両わきにならぶ中を静かに車が進行。表玄関には大統領夫妻が勿論出迎え。そこで簡単なメッセーヂ、更に玄関わきに大統領と並んで一々握手をかわす。その後大統領が案内して執務室に入る。ケネディ当時のロッキングチェアーそのまヽ。短(単)刀直入に会談に入り、三八度線、形はともかく台湾、ベトナムも退かないとはっきり答へ、日本の防衛に任ずるから安心しろとすべて話はとんとん。沖縄、小笠原の墓参も、当方の云分を採用して何等心配はない。こんなに話がトントンに進んだのでびっくりした。別室即ち閣議室に出かけたが、その時はすでに五十分を経過して居た。別室の話は午後のラスク会談にゆづり、早々にきり上げる。プレスクラブに出かける。質問は余り気のきいたものにぶっつからず至極平凡。而して三時半のラスク会談では、まづ大成功としてほめてくれた。三時半からつっこんで中共、韓国、沖縄、小笠原、航空、漁業協定、短期農業移民等次々に重要な話をすヽめた。漁業だけは勉強がしてないとして後廻し、その他は当方の云分をきいてくれる様子。CIAの説明を一時間半ばかりきく。これはU2機並に衛星での写真撮影。案外きれいにうつるものだ。ソ連、中共の地上設備につき、詳細説明された。誠に驚き入る。八時から晩餐会。ジョンソン大統領のもてなしは、ほんとに気をつかったもの。その挨拶も非常によろしい。テンガロンハットを無心する。実際心から友人になれた様だ。午後零時すぎ帰宿。橋本君と電話連絡する。万事明日のコンミニケ待ち。」

 と、ここまで書けば日記の1月13日(水)も必要だろう。

 「ワシントン最後の日。マクナマラ国防長官と対談し、終わってアーリントン墓地に出かける。マ国防相とは初めての人。ワトソン弁務官の能吏な事や、国防予算等につき話が出たが、当方に指図する様な事はなかった。ア墓地は海軍少将の案内で無名戦士の墓(一次、二次、朝鮮戦役)に詣で、更に[ジョン・]ダレス氏の墓地、これにはダレス未亡人並にアレン・ダレス氏(ジョン・ダレスの弟でCIA長官)参拝。ケネディ永遠の火ともるリンカーンメモリアルに向った。景勝の地、花輪を捧げる。引続き白亜館に大統領を訪問、御別れと同時にコムニュケ作成、医療研究団の打合わせをする。更にテンガロンハットを得て御別を云ふ。玄関まで見送り、揃ってカメラに入る。至れり尽せりの感あり。国務省ラスク長官の午餐会、ジロン[米財務]長官と約十分会談。利子平衡税の問題は難行[航]の様子。食中ラスクと低声にかたる。沖縄はかへしてもいヽのだが、まだ中共が安心出来ぬ、国防は引きうけたと確信を得た。三時半記者会見、更にショーラムホテルで外人記者と会見、コムミニケについてなり。十三項目あるが何れに重点ありやに答へて、我方は沖縄、小笠原、双方は中国並びにベトナム、新しきものとして医療団の問題ありと。概して成功なりと各面の批評よろしい。大使館のパーテー。橋本と連絡をとる。椎名外相ロンドンに向ふ。」

 途中、ホノルルあたりで首脳会談が成功だった、という評価が日本国内でもっぱらだった、という便りを聞き、羽田空港にも大勢の出迎えが詰め掛けているのを見て「評判がいいとこんなものか」と書いているのは、岸内閣の安保改定を思い出してのことだろうか。天皇への報告も「大変熱心にきかれるので、一時間と十五分、大変な長説明となった。尚昨日は酒十本を下賜さる。その上今日は皇后様から御菓子をいたゞく。更に皇太子殿下のもとで記帳挨拶する」など、いたるところで褒められてまんざらでもない様子が日記から浮かんでくる。

 話を新聞記事に戻す。

 <長官 洋上のものについてはなんら技術的な問題はない。日本の政治的な空気も漸次変わるのではないか。>

 <首相 日本が核兵器を持たないことは確固不動の政策だ。防衛産業育成の問題があり、差し支えないものは日本でつくりたい。>

 毎日新聞特集面には、ただ、米国で公開済みの会議録では、この時の訪米で首相はラスク国務長官らに「個人的には、中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきであると考える」とも主張している、とあった。

 <長官 日本が防衛産業の(育成で)なし得る軍事的援助をアジア諸国に与えることはできないだろうか。>

 <首相 日本では宇宙開発のためのロケットを生産している。必要があれば軍用にも使うことができる。将来は人工衛星の開発にも進みたい。>

 今回公開された外交文書は1945~76年の225冊、約11万2000ページ。21回目となる今回は佐藤栄作首相の就任後発訪米(65年)や田中角栄首相の訪米(73年)記録などが対象で、キューバ危機(62年)での日本政府の対応をまとまえた文書も公開された。

 65年1月12,13日の佐藤訪米をもう少し見てみよう。毎日新聞特集面からである。

 まずは黒崎輝・立教大兼任講師(国際政治学)の話だ。「佐藤栄作までの戦後の首相は、大半が『核を持って当然』と思っていた節がある。他方で政治家の意思とは別に政府の現実的立場は整理されてきた。それを加速したのは中国の核開発だ。佐藤首相は核抑止力の必要性を強く感じたが、反核世論は無視できず、日米首脳会談で非核を明確にした。核拡散を危惧する米国も『核の傘』の提供を再確認した。こうした動きが非核三原則と核4政策へとつながった」と語っている。

 佐藤栄作首相の1965年の初訪米では、アメリカ統治下の沖縄、泥沼化する直前のベトナム情勢などでも意見交換がなされた。以下は毎日新聞特集面記事を書き写したものだ。

 <佐藤首相とジョンソン大統領の初会談では、米軍基地を残したままの沖縄返還という方向性が形成された。首相は在沖縄米軍の重要性を確認したうえで沖縄の施政権返還を訴えた。これを受け共同声明には「大統領は施政権返還に対する日本政府及び国民の願望に理解を示し」と、これまでで最も踏み込んだ文言が入った。>

 <65年1月12日の会談要旨によると、首相は「沖縄における米軍基地保持が極東の安全のため重要であると十分理解」と断言。そのうえで「施政権の返還は沖縄住民のみならず、全日本国民の強い願望」と強調した。「住民の協力を得ることが大局的には米国の利益とも合致」とたたみかけた。>

 <佐藤首相は首脳会談後の65年8月、沖縄を訪問して「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後は終わらないと改めてアピール。67年の首脳会談の共同声明には返還時期を「両3年内に合意するよう検討」との文言も盛り込まれた。1969年11月21日、佐藤・ニクソン両首脳は沖縄返還協定に調印した。>

 こうして書き写していると感慨が湧いてくる。佐藤首相は65年1月の初訪米できっかけを作り、それから約5年かけて沖縄返還を実現した。一政権でやり遂げる、という意思と実行力、と簡単に言うが、この時代でも5年かかっている。北方領土返還にしても北朝鮮との正常化にしても1年で交代する軟弱政権ではできない、といういい証拠なのではないか。

 <我部政明・琉球大教授(国際政治学)は「米国にとり、沖縄基地の重要性で日本側の言質を取るのは返還議論の大前提だった。1965年1月の会談で両国はようやく返還への話し合いの入り口に立った」と解説する。>

 そして、ベトナム戦争問題である。

 <佐藤首相は、ベトナム戦争で米国側に忠告していた。直後に米国は忠告を振り切ってベトナム戦争を泥沼化させていった。>

 <訪米前のライシャワー駐日米大使との会談で首相はこれは東洋と西洋の心理の相違であって、西洋の合理主義に基づいて『これ位は簡単だ』と言って一発やると危険なのであると安易な戦争拡大論を批判。「あの辺りには、前国民党軍人であった華僑もいることだから、彼らを第一戦に使うでもして、アメリカはゆっくり後に構えてやる位(ぐら)いがいいのではないか」などとアドバイスした。>

 <さらに「大東亜戦争」まで引き合いに出し、「日本が満州だけで満足していれば、あのような結果にはならなかったであろう。早く解決しようとあせったのが失敗であったと自戒を込めて米国の自制を促した。>

 <これらの発言は、米側にも強い印象を与えたらしい。首相の訪米中には、マクナマラ国防長官が意見を改めて聞いた。首相はベトコンの方はその土地に住んでいるのに、米軍はよそから入って行くのであるからそこに非常な困難があると改めて指摘。だがマクナマラ長官は東南アジア共産化の危機を強調した。会談の翌月、米国は北爆を開始して戦争は泥沼化し、10年後に北ベトナムが勝利した。>

 佐藤氏は「だから言わんこっちゃないだろう」と苦虫を噛み潰していたのかどうか。

 1962年のキューバ危機に関する外交文書も面白かった。

 <1959年の革命政権成立で冷戦の最前線となったキューバ。核戦争寸前まで緊張が高まったキューバ危機(62年)で、池田勇人首相はケネディ米大統領の対応を支持した。だが60年代初頭の外務省内部文書や電信には、米ケネディ政権の指導力への疑念や、同盟国と協議せずに対処した米国への不満が記録されている。>

 として、毎日新聞特集面は以下のように書いている。今回の外交文書公開は毎日新聞の独り勝ちではないか? 内容が一番良かった。どうしても毎日新聞からの引用が多くなる。

 <米国は1961年1月、キューバとの国交を断絶。同年4月15日、米国の支援を受けた亡命キューバ人部隊がカストロ政権転覆を目指してキューバに侵攻し、撃退される「ピッグズ湾事件」が発生した。>

 <外務省中南米課は4月21日付の「極秘」文書で失敗の原因を「米国の情勢判断の甘さと決断のタイミングの悪さ」と分析。5月11日付文書で「米国政府の言動には、国際政治上の指導力に不安を感じさせる点があり、わが国を含め自由諸国が国際政治上のパートナーとして米国の評価において、影響するところがあろう」とケネディ政権の指導力に疑問を呈している。>

 <1962年10月14日、ソ連によるキューバへのミサイル搬入を米偵察機が確認。大統領は海上封鎖を決め、10月22日夜、テレビ演説で「キューバ危機」発生を公表した。朝海浩一郎駐米大使から大平正芳外相あての10月22日付公電によると、米国が危機発生を日本に説明したのは大統領演説の45分前。日本はその2年前に安保条約を改正して米国との同盟を強化したが、何も知らされなかった。危機回避直後の10月30日、朝海大使から大平外相への公電には「同盟国がこぞって支持の態度を示したことは米国を力づけ、ソ連にある程度の印象を与えた」と判断の正しさを強調した。その一方で「一歩進めば核戦争となる措置を採用するについて、全く同盟国と協議しなかった」「最も近い英国にさえ、(中略)ゴア(英国)大使が『自分は数時間前に知らされていた』と述べていたにすぎず(中略)、日本も考えざるを得ない点かと思われる」と記した。>

 米国が本当に重要な政策決定を日本抜きで行うことは過去何度もあった。ニクソンショックが有名だが、今回の北朝鮮のテロ国家指定解除問題も日本は相談に預からずに、事後報告のような形で追認させられ、後味が悪かった。今後の朝鮮半島政策でも、米国は日本と相談するのではなく、中国と相談して決めるのだろう。北朝鮮の親である中国と韓国の親である米国、という構図だ。今の日本の国力では致し方ない、ということなのか?

 1973年の田中角栄首相訪米、ニクソン大統領との首脳会談はロッキード事件ばかりクローズアップされるが、実はいろいろと懸案があった。その辺も毎日新聞は詳しい。

 <1973年の田中角栄首相とニクソン米大統領の会談前に、朝鮮半島の緊張緩和を目指して中国とソ連が韓国、米国と日本が北朝鮮をそれぞれ承認する「package deal(一括取引)」案を日本政府は想定していた。キッシンジャー米国務長官が75年の国連総会で提唱したのと同内容で、日本は2年前から構想を練っていたことになる。会談前に作成された「総理発言要領案」で、米国から「『ソ連、中国の韓国承認』を問われた場合の回答」としてまとめられた。「北朝鮮の態度から見て当面はあまり期待できない」としながらも「長期的な方向」として、北朝鮮と韓国の承認に関する「一括取引」案のほか「朝鮮半島に関する何らかの国際的な枠組み作りを考えるべきかもしれない」と提案した。>

 南北同時承認などという案を当時、新聞でよく見かけたものだった。

 <田中首相訪米に際し、日本政府は米国メディア対応に細心の注意を払った。日本の対米貿易黒字は1972年は30億㌦を超える勢いとなった。芽生えつつある反日感情を収めようとする過剰なまでの姿勢がうかがえる。「シカゴには米国屈指の有力紙があり、首相は訪問日に必ず記者会見を開くように」「サンフランシスコ到着日にも、PR効果を一層高めるため記者会見を行うべきだ」。7月29日からの訪米を前に、在米日本大使館から指南電信が次々と届いた。米国人記者一人一人の性格や、どのテレビ番組に出演するのが効果的か、といった記述もある。ワシントンでの懇談会に出席する記者は、名前の横に「大物コラムニスト」「熱心だが小物」「近く訪日予定」など注意書きや、どの記者を優先するかも記されている。>

 どうでもよさそうに見えるかもしれないが、この外交文書は非常に重要だと思う。というのは、貿易黒字減らしが当時の日本の国策だったこと、内閣あげて米国の世論に気を配っていることはなぜ田中首相がニクソン大統領の提案を受けてロッキード社のトライスターを購入する約束をしたかの背景を説明してくれるからだ。

 私は田中角栄無罪説に肩入れするだけの理論武装を持っていないが、一国の総理大臣がカネで一国の航空政策を売るとはどうしても思えないのだ。田中角栄という異形の総理の人格的欠陥が産んだ冤罪なのか、米国の陥穽に嵌ったのか、何かあるのではないか、と思う。

 奇しくも12月22日毎日新聞朝刊社会面に<ロッキード事件で証言/コーチャン氏死去/94歳>の死亡記事が出ていた。田中元首相を有罪にしたコーチャン証言である。関係者はどんどん死んでいく。そして、歴史的事実は確定していくのだろうか。

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2008年12月12日 (金)

「伝統を切り捨てる天才」が閉塞感の原因~森本哲郎氏(83)インタビュー(毎日新聞12月12日夕刊)

 毎日新聞12月12日夕刊[特集ワイド この国はどこへ行こうとしているのか]は83歳の作家、森本哲郎氏のインタビュー。1925(大正14)年東京生まれ、東大哲学科卒、同大大学院社会学科修了。東京新聞を経て朝日新聞。学芸部員として世界各地を歴訪し、文明論、比較文化論の視点から記事を担当した。退社後の88~92年、東京女子大教授。主著に「文明の旅」「詩人 与謝蕪村の世界」「日本人の暮らしのかたち」。社会や日本文化などへの評論活動も、とあった。聞き手は坂巻士朗記者。

 森本氏の主な発言次の通り。

▽今ほど便利な時代はない。コンビニに行けば24時間、何でもそろう。本屋に出向かなくたってパソコンで注文すれば本を届けてくれる。友達の家を訪ねなくとも携帯のメールでピピッと連絡を取れば終わりです。だけど、今ほど閉塞感に満ちた時代はない。子供だったせいもあるが、戦前さえもまだ充実感があった。現代はものがたくさんあり、情報があふれかえって無力感が生まれている。便利なのに、決して豊かではない。何でもあるのに何か足りないという飢餓感をみんなが持っていると思うのです。

▽(閉塞感の土壌には何があるのか?)日本は伝統を切り捨てる天才です。何でも新しいもの、海の向こうからくるものを取り入れて、伝統というものは古臭いという一言で切り捨ててきました。文明開化は成功したといえる。因習にとらわれていたら、社会は進歩しないですから。ただ、伝統を捨ててしまっては歴史の教訓が生きないんです。戦後もそうです。日本の手本は米国だった。経済の先生は1903年に創業された自動車製造のフォード社。それから100年、アメリカは因習に縛られずに自由な天地を謳歌した。しかし、最初は健全だった自由主義、合理主義がどんどん進んでいき過度になった。大量に作って大量に消費するシステムだ。日本はこの60年あまり伝統を切り捨ててアメリカの猿真似をしてきたわけです。上っ面の同調化とでも言いますか。アメリカ式の自由主義、民主主義、合理主義を推し進めていった。アメリカのやり方を何でもありがたがるというのは、大いにマイナスだった。

▽まずは「アメリカなら何でもいい」から目を覚まさなければ。合理主義一辺倒、もうけ一辺倒になって、金にならなければ何もやらないって、そういうもんじゃない。物を次々買っても、狭い家に置く場所はない。じゃあ、テレビをもっと薄くしますか。きりがない。人間が生きるために、それほど多くの物はいらないですよ。

▽取材はマッカーサーの時代から。1951年4月、東京新聞の記者としてGHQのマッカーサー元帥が日本を離れる様子を見届けた。羽田空港に続く沿道にたくさんの人が詰め掛けていました。みんな涙を流して「さようなら」って手を振っていたね。当時の報道機関はマッカーサー元帥を恩人としてたたえた。新聞の使命は民主主義の確立である、とのGHQの方針で他社の記者とともに米国に招かれた。4ヶ月間、シカゴ、テキサスなど広く各地の新聞社を回り、取材活動をした。新聞報道は客観的でなければならないということを徹底して言われた。

▽今はテレビもインターネットもあるので、新聞が売れなくなったと聞く。確かに速報性では劣るけれども、権力に向かい合って主張すべきを主張し、キャンペーンを張る報道がないためではないか。売れないのは本来の姿勢を失っているからではないか。

▽世界中を旅して、あるとき、パリで急な雨に降られて広場のカフェを見つけて一休みしたが、「なるほど」と気づいた。ヨーロッパの建物には庇がない。雨宿りを許してくれる軒がないんです。窓はあまりに明るく、あまりに乾きすぎている。自然と人間が窓で対決している気さえした。しかし、日本の家屋も今や洋風になった。高度成長とともに、コンクリートの団地やマンションが増えた。戦前まで日本の家屋は自然と親しんでいた。縁側が住居と庭をつないでいた。ぼくの家も小さい庭があるけれども縁側がない。だから、ほとんど庭に出ることがない。縁側で子供が遊び、近所の人が腰掛けて話をすることもなくなった。自然が遠ざかり、人間的な温かみが切断されてしまった。

▽英国の動物行動学者、デズモンド・モリス(1929~)は「都会は今や人間の動物園だ」と言うんですね。食べ物はたっぷりあってそこそこ安全な場所に閉じ込められていると。まさにその通りだと思います。

▽一度手にした便利な生活を放り出すのはなかなか難しい。この国の行方は見えないなあ。過ぎたるは及ばざるがごとし、という格言がありました。腹八分目なんていうのも。つまり、抑制ですね。受け継がれてきた伝統や歴史という重みこそが、過剰を抑制してくれるのだと思います。

▽<なつかしき冬の朝かな。湯をのめば、湯気がやはらかに顔にかかれり。>ぼくの好きな石川啄木の歌です。26歳で亡くなった啄木には死の予感があったんでしょう。寒い朝、一杯の湯を飲もうとして、ふわっとほおに触れる湯気に、安らぎを感じた。幸せは遠くにあるんじゃない。ありふれた日常の中にあるんですね。

 森本氏の新潮選書が何冊か、私の書庫に眠っている。水道橋のいつも行く古書店で店頭の台で安売りしていたのを買ってきた。3、4冊になったか。今度読もう、今度読もう、と思いながらまだ読んでいない。今度読もう。

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2008年12月 1日 (月)

田母神論文と朝日新聞

 朝日新聞は田母神論文を真摯に受け止め、社内で相当討議を重ねているのではないか。歴史的事実が間違えている、とか、自衛隊の隊員教育という問題ではなく、2度ほどこのブログに書いたように「では守るべき国とは何か」という根本の問題である。

 12月1日朝刊オピニオン面の大型コラム[風考計]で若宮啓文コラムニストがズバリ<自衛隊の君へ/守るべき「いい国」とは何か>のタイトルで論考している内容を見て、そう思った。

 朝日新聞は田母神論文が明らかになって、時間を置かずに秦氏に論文の歴史的事実の解釈について逐条的に正誤を聞き、完膚なきまでに粉砕した。しかし、それでは2チャンネルをはじめとする若者はなかなか納得しなかったし、田母神氏本人も産経新聞インタビューで堂々と主張を繰り返している。

 「なぜなのだ?」と朝日新聞社内では驚きが広がったかもしれない。正論を書いたのに、これ以上することがあるか、というため息が聞こえるようだ。それでも気を取り直したのか、11月24日、25日朝刊3面で続けて[検証・前空幕長論文の底流]を掲載し、㊤<自衛隊内潜む疎外感/半世紀「評価足らぬ」鬱屈/旧日本軍と連続性意識/幹部教育に校長独自色/田母神氏、異例の新講義>で自衛隊員の心の闇に迫ろうとし、㊦<政界 共感が見え隠れ/批判の比重「立場が問題」/制服人事に目届かず/「負の歴史」全否定は不健全」西原正・前防衛大学校長に聞く>で政治と自衛隊のシビリアンコントロール問題の現状分析を行った。

 そして、12月1日の若宮コラムである。

 若宮氏の結論は明白である。歴史的事実が間違えている、こんな誇大妄想のような歴史解釈を日本の軍トップがしているのかと世界は驚き日本を猜疑心で見るようになるだろう、という趣旨である。

 ただ、そこに苦渋に満ちながら、「守るべき『いい国』とは何か」というタイトルにもしている問いに対する答えも書いてある。では、どう書いてあるのか。まず、

 <国を愛すればこその国防だというのはよく分かる。>

 と、田母神氏の「日本がいい国だと思えなかったら、誰が命がけで国を守れようか」という言葉に共感する自衛隊員がいることにたいしての回答。若宮氏はそこで奇抜な論法を取る。2006年6月の天皇記者会見を引用したのだ。

 <日本では1930年から6年間に要人襲撃が相次いで首相と首相経験者の計4人が殺され、この時期に政党内閣が終わって言論の自由も失われた。そう指摘した天皇は「先の大戦に先立ち、このような時代があったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています」と語ったのです。>

 という部分だ。この天皇発言に誰も異存はないだろう。よほどの軍国主義者でもない限り、5.15事件、2.26事件や桜会事件、血盟団事件のようなテロが横行する社会は二度とごめんだ、と思っている。これは常識なのだと思うのだが、頭のいい若宮氏は、こう続ける。

 <要人襲撃とは、軍人が起こした5.15事件や2.26事件などのこと。満州事変から発展した日中戦争や太平洋戦争も、こうした流れの上に行われたことを忘れまい、という自戒の言でしょう。>

 いつのまにか論点は誰もが納得するテロ問題ではなく、満州事変、日中戦争にうつっているのだ。そして、

 <天皇が日本を愛していないわけがない。かけがえのない国だと思えばこその痛恨の思いが見て取れます。田母神氏は、こうした軍人のテロやクーデターも外国の罠だったというのでしょうか。>

 この論点移動の巧みさは称賛してもいいだろうと思うのだが、決して論理的ではない。大体、軍人テロというが、2.26事件の思想的背景は北一輝であり、農本主義であり、その背景には政治の失敗で飢えた農民を頻出した東北地方などの悲劇があった。世界恐慌と金解禁問題など、日本の政党政治の失敗が社会不安を呼んだことも事実だったのだ。

 5.15事件、2.26事件についてこれ以上ここでは語らないが、天皇のテロル反対という言葉をここまで引っ張ってきて、田母神氏の歴史認識と対比する、というのは、「守るべき国とは何か」という田母神氏の問題提起に答えているように見えて、いつの間にか田母神氏の歴史認識批判になってしまっているのではないか。

 私は前にこのブログで2度ほど書いたように、田母神氏の歴史認識が幼稚で、陰謀史観、謀略史観に毒されたものだと思うから、この部分は別に天皇発言を引いてもらわなくとも、若宮氏の言う内容に賛成である。

 問題は「守るべき国」なのだが、天皇がかけがえのない国だと思えばこその痛恨の思いを表明したものだ、と若宮氏が受け取るのは勝手だが、それは個人の受けとり方の問題だろう。

 「かけがえのない国」とはどんな国なのか、その実体は何なのか、兵士が命を賭けてまで守るべき国とは何なのか、には若宮氏は答えていないのである。

 若宮氏は新聞の戦争責任にも触れながら、今の時代にそれを反省して紙面化していることをあげて、そういう検証作業の大切さを説く。この反省にも賛成だ。

 <いまの世にも問題は多く、腹の立つことばかりでも、戦争と弾圧の時代に比べれば余程よい社会に違いない。>

 と書いている。さらり、と書いているが、ここの部分が問題なのだと思う。「戦争と弾圧の時代」というが、いつからが「戦争と弾圧の時代」なのか、それは、日本人だけの責任なのか、誰の責任でいつ、どのようにそうなったのか、重大な問題なのに、このようにセンチメンタルに断定されても納得できない読者が多いのではないか。 

 たしかに敗戦直後には丸山真男氏ら「超国家主義思想」批判をはじめとして軍国主義批判が日本の論壇に跋扈し、「何でも軍人が悪い」という風潮が社会を支配したが、それだけではすまないのではないか、という再発掘の研究作業が近年進んでいる。そして、その中で軍に限らず、宮廷勢力や政治家の中でも責任をかぶるのを嫌がって占領軍の東京裁判にすべてを任せるという無責任な態度を取り、日本人の手による戦争責任明確化を避けてきたのは、それによって得する勢力の裏の働きがあったからではないか、という研究成果も出てきている。これは別に陰謀史観ではない。

 最近出た猪瀬直樹氏が1990年前後に行った対談をまとめた本の中で猪瀬氏や対談相手の江藤淳氏や高坂正尭氏らが言っているように、軍部が勝手に戦争を拡大したのではなく、新聞や本、小説で軍部の行動前に「日米もし戦わば」的なテーマが特集され、国民が熱狂したことが軍を突き動かした面が強くあったことも確かだ

 こういう様々な見方がある問題を勝手に断定して、その断定の上で論理を進める論理展開は信用できない、というのが一点。この断定の上で若宮氏は、

 <田母神氏は戦後50年の村山首相談話を目の敵にするけれど、反省すべきを反省し、謝罪もできる潔い国こそ、守るに値する「いい国」だと僕は信じます。>

 というのがこの大きな問いに対する若宮氏の答えである。反省して謝罪する国が「いい国」だ、と言うのだ。

 「謝罪すべきことは謝罪できる国」ならば国際社会に堂々と胸を張れるだろう、と私も思う。しかし、少なくとも「謝罪すべきではないことを謝罪している国」はみすぼらしいだけではないか。

 国際社会から「矜持もなければ、志もない国」と思われるのではないか。

 独断と偏見を言わせてもらえば、村山談話に縛られて、大きな発想ができなければ、21世紀の日本の生き残り策だって、縮こまった変なものしかできないだろう、と思うのだ。

 非核三原則が禁じる核兵器保有にしてもなぜオプションとして検討しないのか。検討すれば、現実的ではない、という結論が出るのは明らかなのに。

 また、米国や中国に上目遣いでお願いし、韓国や北朝鮮にいつも謝ってばかりいるよりも、大東亜共栄圏を考えた時代の思想潮流をもう一度検証し、アジア解放という理念が果たして当時の日本にあったのかどうか、有色人種の代表という視点があったのかどうか、きっちりと検証する中で、日本人の手でもう一度戦争責任を追及すべきだ、と思う。

 そこまでしなければ、抜本的な対策にはならないと思う。

 若宮氏のように逃げ腰で表面的な正義の論理を振りかざすだけで、自衛官というか軍人が「命を賭けて守るべき日本」を示しえた、と思っているのだろうか?

 朝日新聞が産経新聞と並んで田母神問題を追究し、問題解明に集中していることは非常にいいことだと思う。また、いろいろな言論が出ること自体、素晴らしいことだ、ということを大前提にしながら、以上を書いておきたい。

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2008年11月28日 (金)

産経新聞の田母神前空幕長インタビュー~11月28日朝刊から

 産経新聞らしいなぁ、と思った。11月28日朝刊3面の3分の2を使って田母神俊雄・前航空幕僚長(60)のインタビューを掲載していた。聞き手は野口裕之記者。見出しは<田母神前空幕長に聞く/自国を悪く言う将校いない/村山談話は言論弾圧の道具>だった。

 11月11日の参院外交防衛委員会で参考人招致は、

 <国会で私の意見を正々堂々と述べようと思っていました。しかし、民主党の北沢俊美委員長は私が話す前から発言を制限した。だったら何のために私を呼んだのか。私から発言を引き出して政府や防衛相を攻撃する格好だった。言論の自由を掲げる立法府とメディアがそろって異なる意見を封じ込めようとした。立法府とメディアの自殺行為ではなかったでしょうか。>

 というものだったらしい。

 田母神氏の主張は終始一貫している。海外に駐在する武官は各国武官と頻繁に交流するのだが、各国の将校、武官はまず自分の国を弁護する。自分の国を悪く言う外国人将校に会ったことがない、日本人でも将校は日本は素晴らしい国だ、と言うのは当たり前なのに、「日本は政府見解で悪い国となっている」「日本はろくな国でなかった」とは言いたくない、更迭されたということは「日本はろくな国でない」と考えている人を航空幕僚長にせよということではないか。米露英仏などが侵略国家といわれないのになぜ日本だけがいわれるのか。よその国が侵略国家でないなら、日本も侵略国家ではない、と言いたかったのだ、というものだ。

 田母神氏の核武装論は傾聴に値すると思うので、書き写しておこう。

 <(戦前は軍が暴走した…ということについて)そういう人たちはよっぽど日本人、つまり、自分自身が信用できない人なのではないでしょうか。あるいは文民統制に自信がないのかもしれません。政治が少しの異論も許さない言語空間に閉ざされていれば、国は弱くなります。徹底的に非核三原則を堅持すべきだという意見もあっていい。だけど民主主義だったら核武装すべきだという意見もあっていい。核兵器を持たない国は核兵器を持った国の意思に最終的には従属させられることになりかねない。

 <北朝鮮が核兵器を持ちたがる理由は、1発でも米国に届く核ミサイルを持てば、北朝鮮を武力で制圧するのは、絶対にできなくなるからです。そういった核兵器についての基本が、日本では議論されたことがない。核兵器を持つ意思を示すだけで、核抑止力はぐんと向上します。逆に、初めから持たないといっただけで、核抑止力は格段に低下するといったことが政治の場で理解されていない。

 <航空自衛隊も少しずつ自立の方向に進むべきでしょう。自前で空軍としての能力を整え、日米が互いに足らない分を協力して補うことが望ましい。これまでの米国は矛、日本は盾という考え方は直したほうがいい。米国の若者の血は流すが、日本は後にいますでは、日米同盟はもたない。>

 この核兵器に関する見解はさすがに自衛隊最高幹部だけあってリアル・ポリティクスの荒波に洗われた経験を持つ人の現場で構築した理論そのものだ、と思う。

 北朝鮮が何を言っても核開発を手放さない理由だし、だからこそ、日米間が一致結束して北朝鮮を追い詰め、核開発を断念させなければならない理由でもある。

 こうした議論を封じているから「なぜ北朝鮮の核で騒ぐのか。どうせチンピラ国家、カネもないのにできっこないだろう」などという暴論がまかり通っている。防衛に関してはタブーを作ってはいけないし、様々な議論を封じてはならない、と思う。

 軍人と愛国心に関して田母神氏の発言も書いておこう。

 <私の一件をきっかけに防衛省の内局が自衛官の歴史観や思想信条について政府見解に合致しているかをチェックするのだとしたら、それは軍隊を精神的に解体することです。自衛隊の士気を下げ、きっと中国や北朝鮮は大歓迎していることでしょう。軍隊は、自分の命がかかれるほど、使命感がなければ動けなくなる。使命感とは、自分たちがやっていることが正義なんだ、という気持ちです。この国のために命をかけることが正しいんだという気持ちがないと軍は動けない。その根本には愛国心があると思います。この国は残虐でろくな国じゃなかった、お前たちは力を持ったらすぐ悪人になるんだ、と言われたんでは使命感は生まれようがない。

 愛国心とは何か、とか追究すれば、田母神氏の言っていることが理論的には相当ずさんではあろうが、一線の兵士、将校が自分の胸のうちにコトンと落ちる論理を今の政治は与えているのだろうか? 五百旗頭真・防衛大学校長がいうように、故郷の愛する人々を守ることと、いわゆる愛国心を一致させるような手しか、今の日本にはないものなのか? ここはもう少し考えなければならないところだろう。

 田母神氏は政治と国家について、インタビューの結びで語っていた。

 <善人で国民の安全を守れない国家よりは、腹黒くてもいいから国民の安全を守れる国家の方がよい。性格が良くて無能な政治家と正確が悪くても有能な政治家なら公社の方がよい。この国はどうしてすべてがきれい事なのか。そのくせに歴史認識だけは「自虐史観」です。いつの日か私の論文が、普通に語られる日が来るのを望んでいます。>

 18世紀のフランスの思想家、ヴォルテールは「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを言う自由は死んでも守る」と言ったそうだ。それが自由主義であろう。共産主義でもナチス全体主義でも戦前のファシズムでもないと今の政治家やメディア関係者が胸を張るのならば、姑息な手を使って田母神氏の意見表明を封じようとせずに、堂々と論戦すべきではないか。

 少なくとも、この産経新聞の記事で日本核武装の可能性についてタブー視せず議論する必要があることは多くの人が理解するのではないか、と思うのだが、産経新聞を購読していない人には伝わらないだろうし。もっとタブーなしで論争しよう。

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2008年11月26日 (水)

市場経済派と修正資本主義派~毎日新聞11月26日夕刊[雑誌を読む]中西寛氏

 毎日新聞11月26日夕刊文化面[雑誌を読む 11月]で中西寛・京大教授(国際政治学)が日本の経済論壇を市場経済派と修正資本主義派に分類していたのが面白かった。

◆市場経済派=竹森俊平、高橋洋一

①バブルとその破綻を資本主義経済にはある程度不可避な破壊と創造のプロセスと見る。

②バブル破綻の際は政府による金融緩和と財政出動で乗り切る。

③日銀の積極的な金融緩和とマクロな財政出動を求め、円高抑制による輸出産業の収益維持を提唱する。

④危機克服にはアメリカの経済力が基本的に復活する。

⑤金融部門に好況時にはあくなき利益追求、不況時には政府による救済という特権的地位を与える傾向がある。

◆修正資本主義派=榊原英資、水野和夫、(佐伯啓志)

①今回の危機はアメリカ型の金融経済の構造的転機。

②政府が平時から市場に部分的に介入する産業政策を肯定。

③金融緩和には消極的で円高を前提として農業、地方財政、中小企業などミクロな経済政策を重視する。

④アメリカの復興よりも新興国の実需成長を重視する。

⑤政府介入が腐敗と非効率を生む傾向を持つ。

◆佐伯啓志氏の「脱成長モデル」論

 =アメリカでは70年代までに製造業大企業が主導する「北部型経済」が行き詰まった結果、資源や農産物を低賃金で生産する「南部型」へと移行し、それに「東部型」の金融と「西部型」のIT産業が結びついて90年代のグローバル化が進んだ。こうした金融化は実物経済の空洞化をもたらし、金融だけの活況はいずれ破綻せざるをえない。現在の金融緩和などの策は短期的にはやむを得ないが資本過剰を更に助長し、将来の更なる大破綻を用意する。「脱成長モデル」の経済体制への移行こそがこうした悪循環を脱する道だ。

 中西氏はこのように分類したうえで、各国の国情、有権者の意向に合わせて、各国政府はいずれに比重を置くかを選択すべきだ、という。

 この点で重要な<政治の役割>について、若田部昌澄が「Voice12月号」で指摘しているように世論調査で市場も国家も日本では信頼度が低く、好まれるのは規制だ、として、その国民意識が近年、様々な規制が導入される底流を作っている、と対談で話しているそうだ。

 そして、中西氏は「最後は目先の政策にとらわれ年金、医療費、財政再建といった問題を先送りしている政治の室の問題に帰着しよう」という。中西氏は、

 <国会を通過したはずの法律が施行されて、「そんな内容とは知らなかった」と堂々と話す現代の政治家を見ると、「幕末は薩長に倒される前に自壊していた」という野口の言葉には悲しいほどに得心させられる。>

 と書く。野口武彦氏が中央公論12月号「政体の末期に人材が払底するのはなぜか」で幕末江戸幕府がいかに人材不足に陥っていたかを数々の例で教示。将軍も老中も無能な者が続き、幕末6年間に24人も老中職に就いた、という。彼らは政治の実権を現場の役人や下僚に委ねる人形のような存在で、勘定奉行なのに「金銭のこと聞きたることなし」と言って米人ハリスに「日本は羨ましきお国柄なり」と皮肉られた人もいたそうだ、と書いている。

 最後は政治無策の話でみんなが納得する、というのは平和な時代ならばいいけれども、今はそんな時代じゃないんだけどなぁ、と思う。

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盧武鉉政権はテレビ局と組んで金賢姫を謀略にかけようとしていた~産経新聞11月26日

 産経新聞11月26日朝刊1面トップは黒田勝弘ソウル特派員の記事である。

 見出しは<金賢姫元死刑囚「謀略説」に苦悩の書簡/「親北」盧政権を批判/テレビ局も結託/田口さんに思い>である。

 北朝鮮の女性元工作員、金賢姫元死刑囚については、以前、盧武鉉政権の北朝鮮融和勢力によって苛められている、という噂は聞いたことがあった。金元死刑囚が発表した25日の書簡をもとに1面トップで記事化したのは黒田氏ならでは、だと思う。

 というのは、金賢姫元死刑囚の書簡に全面的に依拠するだけでは記事はできないからだ。発言が真実である、という裏付けを何らかの形で取らなければならないが、黒田氏は長い特派員生活の中で、噂の真偽を含めて相当に取材を進めていたので、25日発表の書簡をもとに分厚い記事にできたのだ、と思う。

 記事は1987年11月29日に乗客上院115人を乗せた大韓航空機がミャンマー沖で爆破された大韓航空(KAL)機爆破テロ事件の実行犯である金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚が親北朝鮮で左翼的だった盧武鉉前政権時代に情報機関の協力の下でテレビ各局などが繰り広げた”KAL機事件謀略説”に対して抗議と怒りの書簡を25日に発表した、という内容だ。

 記事の内容を書き留めておこう。

 <書簡は人権団体のイ・ドンボク北韓民主化フォーラム代表に送られてきたもの。金賢姫の対外的な訴えは初めてだ。書簡は彼女が北朝鮮で受けた工作員教育の際、日本語を教えてもらった田口八重子さん(北朝鮮では李恩恵=リ・ウネ)について「彼女の存在と彼女が拉致日本人だったことは北朝鮮も認めているではないか」とし、謀略説とそれに便乗した政府機関、親北・左派勢力のでたらめさを改めて非難している。>

 北韓(プッカン)というのは韓国人が北朝鮮を呼ぶ呼称だ。

 <謀略説というのは「事件は韓国当局がデッチ上げた自作自演で北朝鮮は関係ない。金賢姫はニセ者」というもので、事件当時、北朝鮮当局や朝鮮総連、日本の親北・左翼系などによって流布された。>

 大韓航空機撃墜に関する謀略説に基づいた分厚い本を読んだことがある。陰謀史観にありがちな「先に結論ありき」の断定調で、都合のいい話だけをつなぎ合わせた代物。「9.11はなかった」同様、ひどいうものだった。その程度といえば、田母神氏の論文が立派に見えるほどだ。

 <国際的には「北朝鮮のいつものでたらめ宣伝」としてほとんど相手にされなかったが、社会的に親北・左派勢力が幅を利かした前政権時代になって「過去史真相究明委員会」など政府機関やマスコミなどで大まじめに取り上げられ、執拗に”金賢姫追及”が行われた。>

 日本の新聞ではこうした盧武鉉政権の悪事はほとんど報じられなかったので、日本人でこういう経緯を詳しく知っている人はいないだろう。今回だって、黒田氏がこのように注目して取り上げなかったら、盧武鉉大統領の「偏向」が日本人の目に写らなかったかもしれないのだ。

 <金元死刑囚がとくに問題にしているのは、確実な捜査結果や彼女の自供内容は紹介せず「金賢姫とは何者か」「16年間の疑惑と真実」「金賢姫の疑問の足跡」などと題して一方的に謀略論をあおったテレビ各社。しかも彼女を管理していた情報機関の国家情報院は、偏向報道に利用されることを知りながら彼女に対しテレビ出演やインタビューをしきりに勧めたという。>

 韓国という大統領制の国の怖さである。

 主体思想を身につけた北朝鮮シンパの大統領が何かの弾みで大統領に選ばれたら最後、国家情報機関も握って、情報操作もし放題だったわけだ。

 大統領選挙は韓国において人気投票の様相を示しており、よく知られているように盧武鉉大統領は保守分裂と公職選挙法の管理が行き届かなかったインターネットをフルに利用して、勢いで大統領に就任した左翼分子である。

 米国のように民主制度が定着し、多様な文化が並存する国でも大統領制の衆愚政治化の危険性が指摘されているが、韓国人は日本人に似て一枚岩になりやすい国民性だ。人気投票的な大統領選びで選ばれたのが盧武鉉大統領だった。

 <これまで彼女の住所は北朝鮮による報復テロなどの危険性から秘密になっていたが、テレビは情報機関の協力で自宅に押しかけ撮影までしたため移転を余儀なくされた。また国家情報院は彼女に”海外移民”まで勧めたという。>

 盧武鉉政権とテレビ各局との蜜月は有名だった。

 その逆が新聞社と盧武鉉政権との対立である。韓国はもともと新聞社のステータスが異常に高く、新聞記者のプライドも高く、給与もいい。だが、朴正煕政権で認められていた新聞社の販売、広告の特権が金大中政権で徐々に剥奪され、新聞社と親北朝鮮の金大中・盧武鉉政権との対立は深まっていた。

 この間隙を突くように、今まで新聞社の下の地位に甘んじていたテレビ局が青瓦台(大統領府)に接近し、政権のスピーカーの役割を果たすようになっていた

 記事によると、盧武鉉政権は超えてはならない一線を越えて、邪魔になった金賢姫元死刑囚にニセ証言をさせようとし、それができないと、テレビの歪曲報道に加担させるなど、国家公務員としてしてはならない行為をしていた、という。

 韓国人が多数犠牲になった大韓航空機事件の生き残った実行犯の片言節句をつなぎ合わせて、その信憑性を疑わせ、大韓航空機事件が韓国軍事政権の陰謀だった、と主張するテレビ局に協力する――日本人から見れば考えられないことを一国のトップかトップに近い官僚たちがしていた、というのである。

 盧武鉉前大統領には愛国心もなければ、民主主義を守ろうという気概もなければ、自由、人権感覚もなかったことが明らかになったわけだ。これでよく「日帝36年」などを非難していたものだ、と驚く。従軍慰安婦問題なども、日本に対して強く出るための手段として大事にしただけではないか、という疑念もわいてくる。

 <書簡は、謀略説の最大の狙いは「テロ作戦は金正日総書記の指示」とした彼女の供述をひっくり返すことだったとし、テレビ制作陣は彼女を出演させ彼女が「良心宣言」をすることを画策したという。>

 やはり、金正日総書記への気がねなのだろう。

 <国家情報院に対する不満、批判としては、盧武鉉政権時代の政治的な過去否定作業の中で、1987年のKAL機事件捜査を担当した前身の国家安全企画部に対する否定的見方が強く、親北風潮に便乗し謀略説に毅然と対応していないとしている。>

 過去史とか過去検証とかの言葉がバンバン飛び出すのが韓国の親北朝鮮勢力の特徴である。

 狙いは歴史の書き換えである。日韓併合条約が無効だ、というのは韓国の1965年条約当時からの主張で、条約では日韓双方が自分に都合がいいように読める文言に落ち着いているのだが、そういう経緯を知らない日本人は声の大きい韓国の親北朝鮮勢力とその仲間である日本のW氏らの言い分をもっともだ、と受容する風潮も出てきている。

 韓国政府の当時の総理大臣らが半ば強制的に併合条約に調印させられたことと、条約そのものの有効無効を結びつけ、「韓国は日本の植民地ではなかった」「日本と一緒になったことなどなかった」というのが北朝鮮シンパの主張らしい。

 盧武鉉政権はそういう種類の人たちの政権だった。

 <彼女は田口八重子さんに関連し「彼女が残してきた幼い2人の子供に会いたいと涙ながらに語っていた姿を思いだします。成人になった息子の様子を日本のテレビで見ましたが大きな目がお母さんに似ています。会ってお母さんの話をしてあげられない私の現実が残念です」と記している。>

 記事は以上である。

 不況で李明博政権が苦しんでいるのを見て、この盧武鉉勢力が蠢き出したらしい。朝日新聞記事にあったのだが、朝日の記事はこの「民主勢力」に期待する論調だった。

 彼らは本当に「民主勢力」なのか? そう決めつけるには、もう少し検証が必要なのではないか。その意味で、黒田氏の記事は盧武鉉政権下で何が行われていたか、を実証的に伝える貴重な記録だと思う。

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2008年11月23日 (日)

田母神氏と22年前の藤尾正行氏の共通点+朝日新聞11月20日朝日新聞の林香里東大准教授論文への反論

 田母神論文で藤尾正行氏を思い出した。頑固一徹で、よく怒鳴るので、政治記者からは嫌われていた。読売新聞の記者出身とは思えないマスコミ嫌いだった。

 1986年7月22日、中曽根内閣の文部大臣就任記者会見からして異例だった。大体、新米の大臣が来ると役所は記者会見の想定問答を用意し、短い時間でレクチャーする。今までの行政の方向と逆のことを言ってもらっては困るからだ。

 もしも理解力に欠ける大臣が逆の方向の話をしたら、その後で事務次官か担当局長が「先ほど、大臣が○○と申し上げたのは、▽▽という意味です」と、全く逆の説明をして糊塗してきた。記者クラブというのはいいもので、そういう変な慣習を長い間受け入れてきた。

 大臣は1年でいなくなるが、役人は一生、その省で生活する、役人の言うことを聞いていたほうが今後、特ダネがもらえたり、と何かと便利だから、大臣の意思などはなから無視していたのだ。

 藤尾新大臣はこの慣習を破った。文部省が決めた秘書官候補者が持ってきたメモを見もせず、「オレはやりたいようにやる。役人の言うことは聞かない」と言い切ったのだ。当時、永田町には「藤尾氏は通産大臣になりたかったのに、軽量ポストの文部大臣にされたので、頭にきていた」という解説が流れたそうだ(2008年7月17日日経新聞夕刊[名言迷言])。

 藤尾氏は硬骨漢だ。誰が何と言おうと自分の信念を貫く。栃木2区という中選挙区で立候補、そのような性格だから選挙に強いはずがなく、落ちたり受かったりの繰り返しで、大臣初就任は遅かったが、自民党政調会長を3期務め、安倍晋太郎派幹部でもある党の重鎮、党内右派の有力者だった。

 1986年夏は中曽根康弘首相にとってわが世の春だった。金丸信・自民党幹事長と練りに練った衆参同日選挙を7月6日に実施、自民党が512議席中当日公認候補で300人、選挙後の追加公認した保守系無所属候補を入れると304議席というかつてない大量議席を獲得。参院選挙でも126議席中72議席を得て安定多数を確保。秋の自民党総裁任期切れを前に自民党は金丸氏を中心に総裁任期1年延長を決めた。得意絶頂の中曽根首相は夏の自民党軽井沢セミナーで「左のウイングを取り込んだ」と、胸を張った。その後できた内閣で藤尾氏が文部大臣に就任したのだ。

 世の中の空気は革新勢力の退潮を当然と受け止め、自分たちの賃金アップのためにストを繰り返す国鉄の労働組合を白眼視する世論が醸成されていた。中曽根内閣の国鉄民営化政策は臨調トップに「おかずは目刺し」という禁欲主義者の土光敏夫氏を持ってきた戦術もあいまって、国民の後押しするところとなった。それが、この自民党の歴史的大勝に現れていた。

 中曽根首相のお友達の文化人たちは「柔らかな個人主義」が日本に定着してきた(山崎正和氏)、「新中間大衆の時代」が来た(村上泰亮氏)などとこの勝利を意義づけたが、経済成長が国民意識を保守化させたことは事実だった。

 中曽根首相は国家主義者である。愛国心を持った国民が日本という国を愛し、豊かにしべきだ、と首相になるまえから考え、若い頃から憲法改正草案を練っていた人だ。靖国神社への参拝もそういう中、自然の流れで行われた。しかし、この参拝に中国、韓国から「A級戦犯を祀る神社に参拝するのはけしからん」というクレームがつく。

 すったもんだの末、86年は後藤田正晴官房長官が談話を出し、中曽根首相の公式参拝見送りを表明した。

 藤尾氏がほえまくったのはそんな時だった。先ほどの日経夕刊で紹介されたエピソードを中心に書いておこう。

 7月25日には復古調の記述が問題となっていた高校日本史教科書について「文句を言っている奴は世界史の中でそういったこと(侵略)をやったことがないのか」と発言して、韓国マスコミが一斉に「妄言」と非難した。

 月刊誌向けの8月21日のインタビューで藤尾文相は「東京裁判は一種の暗黒裁判」「日韓併合は形式的にも事実の上でも両国の合意の上に成立している」と語り、大問題に。9月に中曽根首相の訪韓を控えていた政府はこれ以上文相の失言を放置できなくなった。

 藤尾文相は9月8日の記者会見で発言の経緯や歴史観を繰り返し説明した。進退については「自ら辞めれば信念を変えることになる。罷免していただきたい」と言い張り、思想信条を原因に大臣の首を切る前例を作りたくなかった中曽根官邸と自民党執行部は、8日夜に中曽根首相、金丸副総理、竹下登幹事長、安倍晋太郎総務会長が首相官邸に藤尾文相を呼んで説得したが、文相は「信念は変わらない」と辞職に応じなかったので、在任50日で首切り(更迭)となった。

 「信念を曲げたくないので、自分では辞任できない」などの藤尾氏の行動パターンは今回、22年の歳月をタイムスリップしたかのよう、田母神氏に引き継がれた。信念の問題なのだ。

 しかし、86年の中曽根氏の「戦後政治の総決算」は憲法改正もできなかったし、教育改革も臨調方式の臨教審をつくってはみたものの、成果はほとんどない。つまり、新保守主義的改革、もっといえば戦前回帰的な改革は国民の心理的抵抗が強く、できないのが現状なのだ。

 この面で半歩進んだのが安倍晋太郎氏の子息、安倍晋三首相時代。教育基本法を改正し「国を愛する心」を条文化し、憲法改正のための国民投票の手続き法も成立させた。中曽根首相の問題提起から25年もかかってようやくここまでの改革ができた、という段階だ。藤尾氏や田母神氏の言う戦前回帰は今の大多数の日本人が生きている時代には日本人のコンセンサスにはならないだろう、と思う。ただ、「憲法9条を守ろう」ばかり言って、現実の脅威への対応をおろそかにすると、いざという時にその反動でどこまでも戦前・戦中に回帰する恐れがあるのではないか、とも思う。

 ほどほど、という言葉を忘れてしまったような最近の日本人にほどほどの愛国心、ほどほどの防衛力、ほどほどの個人主義と公共心を身につけてもらえるような、そんな政治とメディアの努力が必要なのではないか、と思う。

◆林東大准教授の「歴史認識というアジェンダの共有」問題

 朝日新聞11月20日朝刊[私の視点]に林香里・東大准教授(ジャーナリズム・マスメディア研究)が<田母神論文 政府は歴史認識を語れ>で麻生首相らが政府の歴史認識を語ることを避けており、メディアの多くもこれに引きずられてしまい、文民統制や任命責任などに重きを置いて報道してきたが、ことは思想や歴史観の問題であり、文民統制や任命責任という手続き論がすべてと簡単に片付けずにもっと深く語れ、と呼びかけていた。

 林氏の言いたいことが今一つよく分からないのだが、次の言葉がポイントのようだ。

 <歴史認識は、特別な政治的アジェンダ(議題)として政府と国民が認識を共有するべきだ。そのための努力を怠ってはならないという責任感が、政治家にもメディアにも欠落していないか。>

 首相が率先して田母神氏の主張に反論し、政府が毅然とした姿勢を示すことで文民統制をより強固にできる、とも書いている。ただ、何をもって政府の歴史認識とするのだろうか。村山談話が今のところ最新の歴史に関する政府見解だと思うのだが、麻生首相も他の自民党・政府要人も「村山談話は維持する」と話している。それ以上のどのような歴史認識を語れと言っているのか、よく分からない。

 それに、メディアは…というが、朝日新聞は田母神論文について逐条的に学者の反論を載せ、事実関係が誤っている、と指摘していたが、細かい話が多く、なかなか全部読むという人はいなかったのではないか、と思う。

 林氏のいう「歴史認識」とは何なのか? 特別な政治アジェンダとして政府と国民が共有するとはいっても、ご存知の通り、満州事変、日中戦争、太平洋戦争については戦争責任からして国民的コンセンサスはできていない。このため、戦後60年の年に読売新聞がその歴史を大型企画で振り返り、どの時点だったら戦争を防げたのか、誰がそれをサボったのか、ポイント・オブ・ノーリターンを探す旅を連載したのだが、私から見れば尻切れトンボで終わっている。

 これは仕方ないことで、明治憲法の規定をそのまま読めば、昭和天皇の戦争責任を避けては通れず、そこに触れない戦争責任論はいずれも中途半端に終わる運命にあるからだ、と思う。近衛文麿が昭和天皇に譲位を申し出て断られ、そのせいで近衛はGHQと宮廷の連合軍にしてやられて、最終的に自殺したのあ、と解釈している。

 天皇の戦争責任は本島長崎市長が表明して右翼に命を狙われたように、発言すること自体命がけである。だから、誰も発言しない。そして、戦前の軍部批判だけがいつまでも残る、という悪循環が繰り返されている。

 過去、かくありせば、は歴史の語り方ではないのだろうが、昭和天皇が敗戦直後に譲位し、平成天皇が即位していれば、徳川慶喜が謹慎ですんだように、誰も昭和天皇を処刑しようとはしなかった、と思う。かえすがえすも残念なのだが、それが違う歴史になって戦後が始まってしまったのだから、仕方ない。

 そんな歴史の闇の部分を抱えながら高度経済成長、バブル崩壊と過ごしてきた戦後日本で、政府と国民が特別な政治的アジェンダとして歴史認識を共有するなどということはできない相談なのではないか。

 基本的に中国に批判されるから、とか、韓国が怒るからというような問題ではなく、ことは日本国内の60年以上積み重ねられてきた「本音」と「建前」の二重構造の問題だと思うのだが、どうなのだろうか。

 林氏のいうようにスッキリ割り切りたいのは誰でも同じだろうとは思うのだが。

 それに、もう一点、林氏の論文に意見を言いたいのは、田母神氏は細かい歴史的事実の真偽をいかにあげつらっても何も痛痒を感じないのではないか、ということだ。田母神氏の言いたいのは「守るべき祖国、愛する祖国のために命を賭けて戦う」将兵が感じている「自虐史観」への反感を代弁したことだろうと思う。自虐が韓国、中国を尊敬し、ということではないことは十分理解するが、自分が生命をかけて守る国がくだらない国だ、ということは軍人には許せないのではないか、と思うのだ。

 この問題は重要だと思う。ここを解決しないと、いかに文民統制を強化しても、仕方ないのではないか、と思う。それに、歴史認識の政府と国民の共有というのは、信教の自由、思想の自由を押し潰しかねない危険な匂いのする言葉だ、ということも注意喚起しておきたい。

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2008年11月21日 (金)

田母神俊雄前航空幕僚長~11月15日産経石川水穂コラム+17日毎日新聞山田孝男コラム

 田母神俊雄前航空幕僚長の論文について今、自分の意見を開陳したくない。卑怯かもしれないが、実際、自分がどう考えているのか、自分でもよく分からないし、問題の整理ができていない状態なのだ。だから、この問題でブログに書くのは遠慮しておこうと思ったのだが、私の悪い癖で、このブログをスクラップブック、メモ帳代わりに使っており、気になった表現などは書いておかないと忘れるので、自分の評価を抜きにして二つのコラムの中の言葉をピックアップしておく。

 まずは毎日新聞11月17日朝刊2面で山田孝男専門編集委員が<「田母神支持58%」>のタイトルで書いていたコラム[風知草]。国会参考人質疑で田母神氏が「ヤフーの質問(=投票)で58%が私を支持している」と語ったことから書き始めており、まさに、この58%こそが問題なので、マスメディアは面倒な問題から逃げずに、国民にきちんと分かるように説明すべきだ、という主張を展開していた。田母神氏の共産党謀略説を各メディアで否定した秦郁彦氏(75)についての説明がよかった。

 秦氏の「張作霖爆殺事件の再考察」(2007年5月、日大法学部紀要「政経研究」)▽「盧溝橋事件の研究」(1996年、東大出版会)▽「検証・真珠湾の謎と真実」(2001年、PHP研究所)で田母神氏の謀略説は実証的に反論されている、という。

 山田氏が問題にしているのは田母神氏の主張の結論部分「集団的自衛権を行使できず、武器使用の制約が多く、攻撃的兵器の保有も禁じられている現状では自力で国を守れない」というくだりはもっともな主張で、この一念で問題提起した田母神氏は歴史論争に負けても引っ込むわけにはいかないというのが心境だろう、と推察している。

 <自衛隊の国際平和協力業務定着に伴い、武器使用の制約をめぐる矛盾は拡大している。集団的自衛権、まして攻撃的兵器は議論の余地が大きいが、安倍晋三がアクセルを踏み、福田康夫がブレーキをかけ、安全保障政策は漂流中だ。折も折、世界の軍事・経済を牛耳ってきた米国のパワーが落ち、本能的に対米依存脱却=自立の必要を感得した民衆が、理屈を度外視して田母神論文に反応しているというのが私の現状理解である。>

 として、「俗説の継ぎはぎの駄作論文」に300万円を与えた企業が論文の英訳を出版して世界にばら撒くのを茫然自失して見守るのではなく、何が誤りかを明確に指摘するのが政治家の役目で、メディアも歴史問題を確かに論じ、安保政策を不断に議論する必要がある、と結んでいた。

 きっと納得する人の多い常識論なのだろう、と思う。

 一方、産経新聞11月15日のコラムで石川水穂論説委員が<村山談話の検証が不可欠だ>のタイトルで書いていたのは、論点が山田氏と全く異なり、議論はかみ合わない。

 石川氏は、

 <今回、そのような試料評価の問題は、それほど重要ではない。問題は、幕僚長更迭の根拠とされた「村山談話」の当否である。>

 と書く。つまり、田母神氏が幕僚長を更迭されたのは政府方針に反したからで、その政府方針というのが村山談話だったので、その根本になった村山談話自体を問い直せ、という主張である。

 村山談話は1995年の戦後50年の節目で発表された。村山富市首相が閣議決定して発表した。その前の95年6月には渡辺美智雄元副総理兼外相が「日韓併合条約は円満に結ばれた」と発言し、韓国の反発で渡辺氏は謝罪した。8月には島村宜伸文相が「侵略か侵略でないかは考え方の問題」などと発言して中国・韓国が反発して文相は厳重注意を受けた。村山談話発表後も10月に村山首相が参院本会議で「日韓併合条約は法的に有効に締結された」と答弁したら韓国が反発し、首相は「相互の立場が平等ではなかった」「舌足らずだった」と釈明。11月には江藤隆美総務庁長官が内閣記者会のオフレコ懇談で「植民地時代に日本は韓国にいいこともした」と話した内容が月刊誌に漏れ、村山首相は江藤長官を厳重注意したが、韓国は納得せず、江藤長官は辞任した。

 石川氏によると、村山談話が決定された8月15日の閣議では、

 <閣議に先立ち、野坂浩賢官房長官は有力閣僚や与党幹部に内容を詳しく説明せず「総理の気持ちなので、どうか何も言わずに了解してほしい」と頭を下げて根回しした、という。閣議では古川貞二郎官房副長官が村山談話を読み上げた。閣僚は誰一人発言せず、出席者によると「水を打ったような静けさだった」という。>

 と書いている。

 また、

 <閣議後の会見で村山首相は国策を誤った時期について「断定的に言うのは適当ではない」と明言を避けた。日本がいつの時代までさかのぼって謝罪しなければならないのか、今も明確でない。>

 石川氏は当時、運輸相だった平沼赳夫氏、故人となった江藤隆美氏が後にしゃべればよかった、と悔やんでいた、と書いていた。

 また、

 <村山談話は当時、内閣副参事官だった松井孝治氏(現民主党参院議員)が起草し、内閣外政審議室長だった谷野作太郎氏(後の駐中国大使)が親しい学者と相談して仕上げたものだといわれる。>

 として、

 <今後、国会がすべきことは、村山談話の作成から閣議決定に至る過程をきちんと検証することである。>

 と結んでいた。田母神氏の参考人招致などよりももっと大事なことがあるじゃないか、と言いたいようだ。

 そういう二つの思想の流れが今、日本の言論界で並存している。

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2008年11月14日 (金)

これじゃあアメリカに負けたわけだ~日経新聞11月4日夕刊文化面から

 日経新聞11月4日夕刊文化面<開戦前夜の調査アーカイブ保存に一石/米公文書が暴く日本の戦争能力>はショッキングな話である。

 九州大学の三輪宗弘教授が約20年前から米国国立公文書記録管理院を頻繁に訪れ、日本軍が戦争に不可欠な航空燃料をどのように調達していたか、を研究する過程で、太平洋戦争中に米国が日本の戦争遂行能力を輸入品の徹底調査でった大掛かりな調査リポートを作成した、その膨大な資料群にたどり着いた、という。三輪氏は近く同リポートを核とする資料集を刊行するという。

 このリポートは米国司法省戦時経済局が作成。三菱商事、三井物産、大倉商事、安宅商会、山武商会など当時の日本を代表する商社の在米支店から接収した資料を徹底的に分析し、約200のリポートにまとめたものだ、という。

 1941年12月の開戦に至る5年間、日本が米国から輸入した機械や装置、部品、原材料などを網羅、総額は6億㌦に達する。機械を購入したのは陸海軍のほか日本企業約2000社。米戦時経済局は日本側がどんな機械をどの工場に設置したかまでつかんでいた。並行して鉄道網や港湾、発電所なども調査。対象は日本本土にとどまらず、旧満州、朝鮮半島、台湾、インドシナ半島など当時の日本の勢力圏全域に及んでいた、という。集めた資料は詳細に分析されただけでなく、機械を据え付けた技術者や布教活動をしていた宣教師からの聞き取り調査までする徹底ぶりで、リポートが生まれた。

 三輪教授はこのリポートが空爆の目標絞込みを念頭に置いていることがうかがえる、と話す。日本の陸海軍が戦前、米国に派遣した工作機械購買団がどのような機械を購入したか、商社別、造兵廠別、機械別など様々な角度からデータを解析、中島飛行機などが購入した機械がどこに据え付けられたかまで入念にフォローしている、という。

 そして、この対日調査プロジェクトが1944年に終結すると、このリポートは同年に設置された米国戦略爆撃調査団に引き継がれた。だから、空爆目標の絞込み、という話になるらしい。司法省の管轄下に様々な政府機関から調査員が集められていた、という。

 記事はこの内容というよりも、これを残していた米国の公文書保存のあり方が素晴らしい、という趣旨で書かれているので、ポイントが少しずれているのだが、この米国による日本の戦争遂行能力徹底調査について、ここまでの資料は今までなかったのではないか。

 竹やりで「鬼畜米英に勝つ」と叫ばされた日本の庶民たち。東条英機はバカだが、そんな東条がえばる時代にしたのは一応は大正デモクラシーを経験してきた日本のエリート層、つまり選挙権を持っている層だった。スローガン政治の恐ろしさを思ってもいい、山本五十六の最初だけは華々しくやってやろう、という言葉を思い出してもいいが、無敵を誇るアメリカにして戦争となればこれだけの調査を必死になってやり遂げている、という事実の重さを今改めて噛み締めておくことが重要だ、と思う。

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2008年11月 5日 (水)

<フォークソングの時代>っていうと何か感じが違うんだけど…~毎日新聞11月5日朝刊文化面[40年前 <政治の季節>を再考する]+日経新聞[春秋]

 [40年前<政治の季節>を再考する]は毎日新聞朝刊文化面の月1回の連載企画。毎回、地味だが、内容は面白い。今回は<フォークソングの時代>がテーマで、音楽評論家の中村とうよう氏の寄稿と、フォークシンガー、高石ともや氏のインタビューと<フォークソング関連年表>からなり、1ページを切り抜いておけば、「あの時代が懐かしく甦る」(?)という趣向である。

 記事の前文は、

 <街頭に響いた若者の声は、デモ隊のシュプレヒコールだけではなかった。1960年代後半、反戦平和や自由を訴える歌詞を自作の曲に乗せギター一本で歌うフォークソングは、軽音楽の「革命」だった。多くの個性的な歌手が登場する一方、東京・新宿のフォーク集会には機動隊も導入された。雑誌『ニューミュージック・マガジン』を創刊(1969年4月)し、フォークのレコード化にも取り組んだ音楽評論家、中村とうようさんの寄稿と、「受験生ブルース」などで初期のブームを先導した歌手、高石ともやさんのインタビューで振り返る。>

 である。中村氏って名前だけは知っていたが、ポピュラー音楽評論家だったんだなぁ。知らなかった。

 中村氏寄稿の見出しは<「学生」と「関西」が二大勢力だった/新宿西口の集会で社会現象に>である。

 ダイジェストしながら、書き写そう。

◆団塊の世代がどこまで昔を懐かしむことができる文章か、は人によるかも…

 <ポピュラー音楽の世界で、フォークソングが初めて大きな注目を浴びたのは、キングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」のヒットだ。1958年、アメリカのヒットチャートでトップになった。今からちょうど50年前だ。フォークソングつまり民謡は、もともとは民衆のあいだで自然に歌い継がれたものだったが、「トム・ドゥーリー」は古くから伝わった民謡がプロの手で化粧直し、商品化されてヒットしたもの。民謡とポピュラーソングの境界線にまたがる存在だった。この大ヒットで民謡風ポピュラーソングが次々生み出され、60年代にかけ大きな潮流に高まった。アメリカの流れが日本に波及し、日本独自のフォークソング・ブーム現象を引き起こした。>

 なるほど、そういうことだったのか。キングストン・トリオは日本ではそんなには流行しなかった、と思うのだが、好きな人たちには堪えられなかったのだろうなぁ。

 <1963年、ジョーン・バエズの「ドンナ・ドンナ」のLPが日本発売されたころにはアメリカでのフォーク・ブームの噂は一部の若者の関心を引き始め、ギターを弾きながらフォークソングを歌う学生グループの活動が急速に盛り上った。そんなアマチュアたちの間から出たマイク真木が「バラが咲いた」のヒットを放ったのが1966年4月。「黄色いさくらんぼ」などで知られる人気作曲家、浜口庫之助の作品だった。>

 1966年12月には高石友也デビュー。フォークルといえば、「イムジン河」が発売中止になったのが68年2月。このころはまだ朝鮮総連が飛ぶ鳥を落とす勢いで、無理難題を吹っかけては社会を混乱させていた時期だった。高石の「受験生ブルース」が同じ1968年2月。
 そうかぁ、「バラが咲いた」は浜口氏の作曲だったか。忘れていた。

 <間もなく東京の学生フォークと一味違う動きが、関西で起きた。高石友也や岡林信康たちが現実社会の問題をリアルに取り上げる歌を作り、その土壌から1967年12月に生まれた大ヒットが加藤和彦らフォーク・クルセダーズ(65年8月結成)の「帰ってきたヨッパライ」。1969年にはURC(アングラ・レコード・クラブの頭文字)というフォークソング商品化目的の日本初のインディーズ・レーベルが誕生した。>

 こういう寄稿でも岡林信康氏はなかなか名前を出しづらいのかなぁ。

 <アメリカでは既に1965年、フォークのトップスターとして人気最高だったボブ・ディランがエレキギターを使用したロックっぽい曲を試みていた。同様な歌で1968年に姿を現わしたのが遠藤賢司で、フォークとロックの境界を無意味化した。遠藤のレコードが出た1969年は日本のフォークソングの盛り上がりの頂点であり、分水嶺でもあった。>

◆ぼくにとっての60年代後半はビートルズとPPMとバエズとGSだった

 フォークとロックの融合かぁ、ピーター・ポール&マリーとか、ジョーン・バエズはこうした歴史には登場しないんだね。

 <1969年春から新宿西口の地下広場には、土曜日ごとにアマチュアのフォークシンガーが集まって自由に歌う、当時フォーク・ゲリラと呼ばれた集会が展開され、それを聞きに集まる人たちは最大で5000人とも1万人とも言われたが、5月に警視庁が「そこは広場ではなく道路だ」と道路交通法で集会を禁止。70年安保を境に「シラケ」という語が広くささやかれ、フォークソングの商品化が進み、72年1月に吉田拓郎(この時は平仮名のよしだたくろう、だった)の「結婚しようよ」がヒットしたころには、フォークソングはニューミュージックへ変質をとげた。>

 そういう流れとして整理できるのか。

 何か、団塊世代の青春史みたいだが、こんな薄っぺらいものだったかなぁ? もう少し思想があったような感じもするし、このフォークソングの大流行の一方ではザ・スパイダースやザ・タイガーズとかのグループサウンズ全盛期があったはずだ。フォークとグループサウンズがいつの間にか融合して、ニュー・ミュージックになった、という理解をしていたんだけど、違うのか?

 年表から補足すると、1972年2月には井上陽水「傘がない」が出ている。

 年表はなぎら健壱「日本フォーク私的大全」(ちくま文庫)などから作成した、と書いてあった。

◆何か時代が戻っちゃった感じがしたんだけど……高石氏インタビュー

 高石ともや氏のインタビューの見出しは<個人で世界と切り結ぶ 若者の「もがき方」認める空気があった 深夜放送のつながり、今も>である。高石氏は1941年生まれで、マラソンランナーとしても知られるそうだ。聞き手は大井浩一記者。

 高石氏は、60年代後半は個人で歌を作って世界と切り結ぶことができたまれな時代。その後はみんな売れなきゃいけないからレコード会社という企業、組織に走った。呼び名もニューミュージックに変わり、ヒットソングを歌うようになった。自分らしく歌えたら、それだけでいいという価値観は1969年で終わり。しかし、今から見ると70年以降しか目に入らない、と語る。

 また、京大のバリケードで歌ったり、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)に参加し新宿西口の反戦フォーク集会にも出た。あの時期、若者が若いなりのもがき方をするのを認める空気がまだ日本社会にあった。ギターで世界が変えられると思えた、と昔を懐かしんでいた。

 何か、今の新聞紙面に高石氏が出てきて、こういう話をされると、時代が戻っちゃったのかな、と変な感じもするんだけど…。彼の話に未来に向けてのどのような意味があるのだろう? 「この40年は夢だった」、なんて、冗談でも言わないでほしい、と思うのだが。

 やっぱり、貧乏な時代という連想から「山谷ブルース」→フォークソングということなのかなぁ? 分からないけど。読み終えても<フォークソングの時代>というより、フォークソングとGSの時代なのか、フォークとロックとGSの時代なのか、そんな感じがする。フォークソングだけを60年代後半に結びつける必然性は薄い、と思うのだが。

 日経新聞11月5日朝刊[春秋]に捕まった小室哲哉容疑者(49)が13年前に1世代上の歌手、吉田拓郎さん(62)に「あ、売れる方程式ですか? ”ディスコ、プラス、カラオケ割る二”なんですよ」と話し、吉田さんが「割っちゃうのがすごいよね、二で」と答えていたエピソード(「小室哲哉音楽対論2」)を紹介していた。

 春秋子は、

 <なるほど、この方程式を武器に売りまくったのか。振り返って売れ方のすさまじさに改めて驚いた。同時に二〇〇〇年代に入るとさっぱりだったのが意外だった。沖縄サミットのイメージソングを作ったのが二〇〇〇年。政治は周回遅れで流行に便乗するのが常だ。思えばこのころが人気の潮目だったのだろう。>

 と書いていた。吉田拓郎さんはこの時、皮肉交じりで「あなたは今が『食い時』だけど十年たったらまた会おう」と言っていたそうだ。吉田さんの慧眼なのか、単なる皮肉なのか、ポピュラー音楽の流行の儚さを見せつけた小室哲哉容疑者逮捕だった。

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2008年10月30日 (木)

坪井善明氏のホー・チ・ミン論+負の歴史逆転という発想~毎日新聞10月22日夕刊・中島岳志氏との対談から

 毎日新聞10月22日夕刊文化面[中島岳志的アジア対談]で坪井善明早稲田大学教授とのホー・チ・ミンをめぐる対談が掲載されていて、面白かった。2003年に札幌市長選に出馬、落選したベトナム政治・社会史専攻の大学教授である。著者紹介には、坪井氏は1948年生まれ、パリ大学で博士号取得、北大教授などを経て現職。著書に「ヴェトナム『豊かさ』への夜明け」(アジア・太平洋特別賞)、「ヴェトナム新時代」「YOSAKOIソーラン祭り」(共著)など、とあった。

 学究に籠ってヴェトナム研究に打ち込んでいるイメージが強かったが、どうしてどうして、ベトナムに興味を持ったのはベトナム反戦運動に参加してから、と普通の団塊の世代そのままの動機。「日本が近代をどう受容したかが私の基本テーマ」「日本の再生をベトナムを通して考えています」など、坪井氏の気持ちが分かって面白い。

 ホー・チ・ミンについて、坪井氏は「彼の主眼はあくまで独立だった。彼の有名な『独立と自由ほど尊いものはない』との言葉は、どう読んでもマルクス主義と無関係」、「独立の過程でも、ホー・チ・ミンはアメリカにとても期待していた」、「ホー・チ・ミンの共和主義は、まさにその民衆のナショナリズムです。同じアジアの社会主義でも、毛沢東は皇帝のように振る舞い、金日成は世襲王朝を作った。ホー・チ・ミンは彼らと違い、前王朝と同じ秩序を作る気がなかった」、「大切なのは、生活実感と政治思想をどう結ぶかです。2人(ホー・チ・ミンとガンジー)は、たとえ演技であっても、なるべく民衆のそばにいて、民衆の意志を結晶化させ、それを投げ返して広げた。いわば民衆のスピーカーだった」と社会主義者ホー・チ・ミンではなく、共和主義者ホー・チ・ミンを讃える。

 さらに坪井氏は「彼(ホー・チ・ミン)は、民衆の大乗仏教や道教的な信仰を尊重し、取り込まないと運動は作れないと自覚していました」とも言っている。

 そして、「ベトナムの心ある知識人は、今の一党独裁からの着地点をそこ(ホー・チ・ミンの共和主義)だと思っていますね。背景に、隣接する中国の問題がある。中国が強大になると、ベトナムは埋没する。中国に対抗することは、独立にかかわる問題です。中国より先に政治改革をして、国際社会の信頼を集めないといけない現実的な要請があります。次の2011年のベトナム共産党大会で、『ホー・チ・ミンの教え通り、多党制と共和制に戻す』という方針が出る現実的な可能性はかなり高いと思います」と話し、ベトナムの地政学的位置を重視し、それが政治変革を後押しする可能性に期待する。

 また、「ベトナムの世論調査では、75%が『平等でなくなるならば経済発展はしねくてもいい』と答える。ベトナムには、まだ共同体意識を通した本当の意味での『平等主義』が残っている。こうした『平等主義』が、結構、アジアにはある。そこも、ちゃんと拾っていかないといけないでしょう」と言うのが面白い。

 平等性の重視である。途上国における経済発展は中国がその典型だが、超金持ちと食うや食わずの貧困層への極端な二極分化を引き起こす。ベトナムの民衆がその事実を知っているとは思えないのだが、この75%という数字はベトナム民衆のメンタリティに温かいアジアの血を感じないわけにはいかない。

 日本とベトナムとの比較も興味深い論点だった。坪井氏は、「ベトナムでは、人々が宗教や文化、歴史を生活の中で生かしている。日本は、あまりに経済中心で、文化や歴史が飾りもの化、記号化している。これと、日本社会の劣化は、関係があるのでは」と問題提起する。宗教はさておき、文化、歴史と切り離された日常生活こそが、良かれ悪しかれ今の日本の特徴だと思うのだが、特に歴史を知らない、歴史を現在に生かさない、というのは日本人の特異な生き方だろう。

 坪井氏の発言の中で賛否両論あるだろうが、注目すべきは次の言葉だろう。

 <札幌市長選に出た時、フランスのナント市のことを考えました。昔、アメリカへの奴隷貿易の中継で栄えた街が、15年くらい前にそれを謝罪したんです。そして新たに、自らをアフリカとアメリカをつなぐ文化の交易地位置づけ直して、音楽会などを開いている。日本の地方も、直接、世界と文化的につながればいい。北海道も炭鉱で中国人を働かせたような負の歴史があります。それを逆転させて、日本社会を再生させられないかと思います。>

 <負の歴史逆転で日本再生を>の見出しがついていた。

 私も団塊の世代の一人として、今の政治の機能不全には世代的に責任を負う一人だと思っているのだが、なぜ日本の政治が機能不全になったまま起き上がれないのか、つらつら考えてみると、国民が官僚(政治学者は官僚を「国家」というらしいが)を信用していないという事実がコアにあると思われるのだ。

 なぜか? 反省がなく、責任を取らないからである。

 太平洋戦争の開戦責任、敗戦責任は日本では追及されていない。みんな極東軍事裁判で裁かれた、と思っているかもしれないが、あの東京裁判を裁いたのは戦勝国家であり、日本人は自分の手で裁いていない。空腹で政治どころではなかった時代に、東久邇内閣が「一億総懺悔」と宣言して、官僚政治的にはそれで終わったことになっているのである。

 それで一時的には誤魔化せたかもしれないが、この問題が高度経済成長を遂げた1970年代から何度もぶり返して、戦争責任問題として論壇で論議された。

 しかし、現実政治のアジェンダにはならず、村山政権の戦争責任宣言も周辺諸国への日本国としての謝罪、という顔の見えない行為に過ぎなかった。

 それも、日本国家が迷惑をかけた周辺国に謝っただけで、国民への謝罪はないし、誰が悪くて無謀な戦争に突入したのか、を究明し、その誰かを非難する決議をするという国家行政行為をいまだになしえていないのだ。

 戦後も官僚たちは国家行政組織法と各省庁の設置法に守られ、ミスをしても、個人的な責任を問われるケースは戦後せいぜい2、3回しかなかった、と思う。こうした「国家」のあり方が続く限り、国民は国家を信用しない。だから、スウェーデンやフィンランドのような福祉国家化への変革など、国家公務員の権限が強まる改革は望むべくもない。

 こうして、日本の様々な「行き詰まりを探っていくと、国家への不信というコアが出てくる。児玉誉士夫、田中角栄、小佐野賢治が旧軍の物資を掠め取り、それをもとに戦後、金を稼いでも、「too big too fail」で日本国家を守護する検察はメスを入れなかったのに、小さなこそ泥はどんどん捕まる。

 日本の末期的症状について、日本に居続けてもこのくらいの内容は考えることができるのだが、坪井氏には外からの視点で日本の近代化と戦後改革の問題点を斬ってほしい。どういう日本論が出てくるか、楽しみである。 

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2008年10月10日 (金)

書評「マネー敗戦」吉川元忠著(文春新書)~2010年の米国債償還、さあどうする?

 昔の本である。1998年10月20日第1刷発行、定価660円+税で693円。手元の本は1999年3月20日第11刷発行だった。当時は「マネー敗戦」が流行語になるほどよく売れた本だったが、吉川さんが亡くなったこともあって、今では古書店の100円均一に並んでいる。

マネー敗戦 (文春新書) マネー敗戦 (文春新書)

著者:吉川 元忠
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 亡くなる前にはアメリカ陰謀論に加担しているのか、と思うくらいアメリカの影の力を大きく見ていた吉川さんだが、この本は非常に実証的な論理展開で、まともである。

 問題意識は一貫している。

 日本は世界の中心的債権国になったのに、大蔵省の役人と銀行が既得権益死守のため、円建て経済圏の拡大に踏み切らず、アメリカにその弱点を突かれて、国民の汗と涙の集積であるドル建て在米債権が減価して、国民の財産が半分以下に減ってしまった。この構造はまだ続いており、このままでは日本は「金融敗北」を繰り返すしかなくなっている、という結論である。

 一読、その通り、と思うのだが、もう少し、この論点について説明しておこう。

 世界史を紐解けば、世界には工業化による豊富な経常収支の黒字を対外投資に振り向け、世界の資本移動の中心軸になった国々があった。時代順にイギリス、アメリカ、日本。この3国は歴史上の「中心的債権国」または「中心的資本輸出国」といえる、と吉川さんは言う。

◆パクス・ブリタニカのもとでの「ビクトリア循環」は海運収入に支えられていた

 19世紀半ばに産業革命をほぼ完成した頃のイギリスはその圧倒的な経済力にもかかわらず貿易収支は終始赤字だった。

 イギリスの貿易構造はインドなどの植民地向けが輸出の3割近くを占め、また三角貿易などの複雑な仕組みもあったけれども、結局のところ再輸出を加えても製品輸出総額は輸入額の8割程度にすぎなかった。

 これは製造業の競争力に早くも黄信号が点り始めていたことを示しているが、マネー循環の立場から見れば、この赤字はイギリスが自国通貨のポンドを基軸通貨として国際的に散布するチャネルが満足に機能していた証しでもあった。

 イギリスの貿易赤字は20世紀に入ってからも続いたが、その間、経常収支ベースでは常に黒字であり、しかもその黒字幅は拡大基調にあった。

 それは、世界の商船隊の約3分の1を擁する大海運国として海運収入によって貿易赤字を生め、経常黒字を維持していた。

 しかも、この経常黒字はさらに海外への投資に向かい、その利子収入がもともと大きかった海運収入に加わり、経常収支の黒字を一層引き上げた。

 海外投資→利子収入による経常収支黒字増→海外投資という循環の中で、19世紀後半には黒字の雪だるま式増大の家庭が明確に見て取れるようになった。

◆イギリスの海外投資の隆盛の原因は内外金利差

 資本循環の面で「大西洋経済」を成立させていたイギリスの海外投資が隆盛を極めた原因は内外金利差だった。

 当時、アメリカ国債の長期金利はイギリスより高かった。これは海を隔てた国への投資がはらむ心理的リスク、債務不履行リスクを埋め合わせるためだったが、イギリスは「周辺部」の植民地をフルに利用して、リスクを軽減。

 基軸通貨ポンドを国際的に散布しては回収した。シティー(ロンドン金融市場)の中でもポンドの守護神であるイングランド銀行などが「世界の銀行」の一大インフラとして機能した。

 覇権国家の経済力はもっとも端的には国際マネー循環に現れる。世界経済をリードするマネー循環を形成し、その中心軸に位置できるか否か、そうした存在になるためには対外純資産を擁し、それを背景に自国通貨を基軸通貨として世界に信認させる必要がある。そうしてはじめてマネーはパワー性を発揮する。その意味でパクス・ブリタニカは極めて安定した基盤の上に成立していたし、世界派遣の一つの「理念型」を示している。これがイギリスの「ビクトリア循環」だ。(以上は本文のP14~18)

◆国際収支発展段階説

 19世紀末から国際経済学などで展開されてきた学説である。大債権国の対外(経常)収支や資本輸出はあるパターンをたどって進展する、という内容だ。

 どのような発展段階なのか?

 外国資本の流入で工業化を推進していた経常赤字国は経常収支の黒字化とともに債務の返済を始め、いずれ返済し終えると未成熟の債権国になる。

 やがて年を追うごとに増加する経常黒字がそのまま資本輸出に結びつき、やがては成熟債権国の段階に至る。

 しかし、成熟期は永遠には続かず、ピークを過ぎるとその後は経常収支の赤字化などによって債権を取り崩すようになる。

 債権が取り崩され、成熟債権国の看板を下ろした後は、おそらくは債権小国として生き残る道が想定されている、という段階を踏む考え方である。いろいろとバリエーションがあるらしいが、以上はその共通項だ、という。

 イギリスはこの「発展段階説」のモデルとなったもので、「ビクトリア循環」は成熟段階に至った後、第一次世界大戦をきっかけに変調をきたす、という。

◆第一次大戦はイギリスとドイツの金融覇権を争った戦争でもあった

 イギリスは新興工業国・ドイツと対決する連合国側の盟主として戦費を調達するためにアメリカなどから借り入れを行う一方、自らの購入してきた米国債や連合国側の保有する大量の債券類をニューヨーク市場などで売却した。

 さしもの対外資産も相当の侵食を余儀なくされ、イギリスの大債権国としての基盤を揺るがしたが、これに拍車をかけたのが1929年ウォール街の大暴落を契機とする世界恐慌であり、それに続く1930年代の世界経済の混乱だった。

 イギリスの中心的債権国としての地位は後退し、資本輸出の中心はアメリカに移る。

 こうして第二次世界大戦後はパクス・アメリカーナが確立する。

 それでも投資収益などの寄与によるイギリスの経常収支の黒字は驚くべきことに1986年まで崩れなかった。

 90年代に入って経常赤字国に転じることはあっても、債務の累計が長期にわたって資産残高を越えることはなく、イギリスは日本、ドイツに次ぐ世界第3位の純資産国(対外投資残高が債務残高を上回っている国)として踏みとどまっている。

 いかに19世紀からの対外投資が手厚かったかを物語るものだ。

◆パクス・アメリカーナの確立

 一方、鉄道建設などに主としてイギリスから大量の資本を導入していたアメリカは第一次世界大戦前には世界最大の工業国の地位を占め、大戦を契機に債権国、資本輸出国に変貌をとげていた。

 第一次世界大戦の圏外にあったことが幸いして、工業力を無傷のまま維持できたため、戦中から輸出を急増させ、ありあまる外貨で負債の償還や直接投資を行えた。

 1918年にはGNPの8%近い対外純資産を持つ。1930年には海外投資残高がイギリスとほぼ肩を並べ、その後は瞬く間に差を広げて「中心的資本輸出国」の座についた。

◆ケインズを破ったホワイ→ブレトンウッズ体制=金ドル本位制

 戦後のマネー秩序を決定するブレトンウッズ会議でイギリスは新たに国際決済同盟とその通貨単位である「バンコール」創設を打ち出すケインズ案を提案しドルの浮上を抑えようとしたが、アメリカはウォール街の利益を反映させ、基軸通貨ドルを前提にIMF(国際通貨基金)をアメリカの分身として生み出そうというホワイト案を打ち出し、イギリスとアメリカの戦いはアメリカの勝利に終わった。

 ただ、この時にはドルは中央銀行間では金とのリンクを維持するものとされ、これによって将来のドルの暴走に歯止めがかかるものとして了承された。

 金ドル本位制と呼ばれる変則的な金本位制を採用したのだが、フランスのドゴール大統領はフランスの保有するドルを一挙に金と交換するようアメリカに求めたことがある。

 アメリカに対するドゴールの嫌がらせで、アメリカは応じざるを得なかったが、これでアメリカの金保有の底が見えたとも言われている。

◆マーシャル・プランやアメリカの自由貿易主義選択は世界へのドルバラマキの道具

 すぐに基軸通貨交代が実現するわけではなかったが、アメリカはヨーロッパ復興援助のために130億㌦にのぼるマーシャル・プランを実施。ドル建てで行われたため、ドルがポンドを押しのけてヨーロッパに浸透するために活用された。

 パクス・ブリタニカの自由貿易体制の時代にアメリカは後発工業国家として19世紀以来、その巨大な市場を常に高率関税などで保護してきたが、この伝統的政策を転換し、国内市場の開放に踏み切った。

 第二次世界大戦後に成立するガット体制にアメリカの果たした役割は大きいが、アメリカは自由貿易主義を選択し、自ら求めて輸入増を志向したのは、ドルを海外に散布し、国際的なドル支配を打ち立てるためのコストでもあった。

◆60年代は資本輸出国アメリカの絶頂期:ヨーロッパでの反米感情

 やがて各国で戦後復興が進むとアメリカの次の戦略はドルによる対外投資だった。

 アメリカは60年代には資本輸出国として絶頂期を迎える。その中軸は直接投資。化学、石油、自動車などの生産、販売拠点をヨーロッパに移動させた。

 当時のヨーロッパ人に「アメリカの挑戦」(セルバン・シュレベール)と映り、少なからぬ脅威感を抱かせた。

◆スエズ運河派兵めぐり「英国債を売却するぞ」と脅したアメリカ

 対外債権が一定の政治力を生むことをアメリカはよく知っていた。

 1956年、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化宣言にイギリスはフランス、イスラエルとともに、スエズ出兵、軍事干渉をしたが、アメリカは干渉に強硬に反対し、イギリスが応じなければ保有する英国債を売却する、と警告、英国は引き下がった。

 (これを読んで思い出したのは、アメリカが北朝鮮を金融鎖国したときの北朝鮮のあわてぶりだった。金融は国家安全保障上の有力な手段だ、とアメリカでは認識されているというが、中国やロシアもこの間の北朝鮮金融騒動を見れば、金融の安全保障上の重要性は認識したと思う。そこに気付かないのは残念ながら日本だけなのだろう)

◆戦後初めて貿易赤字になった1971年

 しかし、債券大国アメリカの覇権も長くは続かなかった。

 60年代に入ると、早くもアメリカからの資本流出が逆にドル不安を招く現象も発生。

 ケネディ大統領がドル防衛策を打ち出す。

 60年代後半にかけてはアメリカの貿易収支が黒字幅を狭め、1971年には戦後初めて貿易赤字を記録した。

◆1971年8月の「ニクソン・ショック」→短期間のスミソニアン体制→変動相場制へ

 1971年8月、ニクソン大統領は「新経済対策」を発表した。

 金・ドルの交換停止がメーンで、これ以後、ドルは金の束縛から逃れ、その価値の変動が世界経済を混乱させる独特の基軸通貨となった。

 世界経済は大混乱に陥った。ニクソン・ショックである。

 日本はフランスと違って保有ドルの金との交換を手控えていたのでダメージも大きかった。

 ドルが金という価値基準の裏付けを失ったため、スミソニアン体制という固定相場制への試みがわずかな期間で挫折すると、世界の通貨はたちまち変動相場制に移行した。

◆1980年代日本の失敗はドルの不安定さを認識しなかったこと

 ドルはもはや制度上は特別の通貨ではなかった。

 ただ、ドルに代わる基軸通貨が誕生することもなかったので、その後もいわば不安定な国債通貨として相対的な信認を受け続けたのだが、そのドルに対してあたかも金ドル本位制が健在であるかのように付き合ってしまったのが1980年代の「円」であった。

 もっとも、70年代はドルの価値の不安定さが露呈することなく過ぎていった。

 1973年には石油危機が世界を襲ったが、アメリカは石油消費量の半分を国産でまかない、産油国通貨だからドルは強い、と外国為替市場はアメリカ経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)よりもそのことを評価した。

 また、ドルは「有事に強い」通貨としても評価され、相対的に上昇さえ見せた。

 ところがドル相場が安定していたのは1976年までで、70年代後半にはアメリカの経常収支の趨勢的な悪化が顕在化し、政府当局者の口先介入を契機にドルはたちまち下がり始める。

 その間、アメリカはついにベトナムで建国以来初めて敗戦を体験。

 79年にはイラン革命が発生し、これが第二次石油ショックとなって国際経済を揺るがすが、特にアメリカにとっては在イラン大使館人質事件という悪夢と重なり、政治的威信を傷つけることになった。

 さらにソ連によるアフガン侵攻でアメリカは冷戦下における西側の盟主としての政治的対応も迫られた。

 金ドル本位制放棄に始まる70年代は基軸通貨ドルにとっても波乱の10年間だったが、アメリカは政治的にもパクス・アメリカーナの維持再編に汲々としていた。

◆レーガノミックスの登場

 こうした背景の下、「強いアメリカ」を掲げる共和党のロナルド・レーガンが80年代の大統領として選ばれた。アメリカのマネー経済はレーガン政権の下、急激な変貌を遂げた。

 アメリカの経常収支は83年から赤字の拡大が目立ち、これを埋めるため、海外からの投資がさかんに行われ、資本の純輸入国になった。

 一般に経常赤字の国は赤字を埋めるための資本の流入を必要とする。

 それは直接投資を含めて広い意味での負債を増加させる。

 フローの受入超過が続くとストック面でも対外純資産、つまり「貯金」がその分だけ減る。これが続くといずれは「貯金」を使い果たし、その後は対外純債務だけが累積する。

 アメリカの対外純資産が規模として最大になったのは1981年の1400億㌦だった。

 その後、経常赤字の拡大が続き、84年には早くもほぼ「貯金」がゼロになり、その後は経常赤字を埋める資本流入がそのまま純債務として積み上げられ、世界最大の債務国が出現した。

 「国際収支の発展段階説」とあまりに異なっていっため、世界は当惑した。

 また、アメリカが必要とする資本輸入の規模の大きさにも世界は当惑した。

 経常赤字は86、87年には対GNP比で3%以上になった。

 世界最大の経済規模を持つ国がかくも大規模な資本輸入を必要とし、しかもなおドルが基軸通貨然として世界に流通している姿は世界経済にとって未体験ゾーンだった。

 アメリカの「中心的債権国時代」はせいぜい60年程度と、イギリスに比べればはるかに短かった。

 これは一つには対外純資産の厚みがかつてのイギリスに比べると意外に薄かったことにもよる。

 純資産額が世界最大だった81年でも対GNP比では4.6%にすぎず、経常収支の変化に対して脆弱な面があった。

 アメリカの経常収支は80年代初めまでは過去の直接投資の果実である利子・配当などの投資収益が貿易収支の赤字をカバーする形になっていたが、その投資収益も貿易収支の急激な悪化には勝てなかった。

 対日貿易赤字がその主たる原因としてクローズアップされた。(以上はP19~P32)

◆80年代「中心的資本輸出国」は日本だったが、基軸通貨は円でなくドルという異常さ

 アメリカは日本に対しては資本の輸入国であったが、中南米などに対しては資本輸出国として振る舞った。

 この奇妙な基軸通貨・ドルの流れをあるエコノミストは「帝国循環」と皮肉を込めて名付けた。本当の「帝国循環」はビクトリア循環である。

 1980年代の「中心的資本輸出国」はアメリカでもドイツでもなく、資本輸出国として70年代後半から急速に頭角を現した日本だった。

 もっとも、アメリカは日本から得た資金の一部を他国に散布しているので、日米を一国と考えればアメリカは引き続き中心的資本輸出国といえるのかもしれない。この着眼には、たいへん深い意味が含まれている。

 (この部分は非常に示唆的だ。日本がアメリカの州である、とか、植民地である、という主張=アメリカ陰謀論=に限りなく近づく主張になるからだろう、この本では吉川氏は深くは触れようとはしていない。)

 ビクトリア時代の基軸通貨はポンドイギリスは海外債券への投資をポンド建てで行い、その果実もポンドという自国通貨で得た。

 アメリカの中心的資本輸出国時代もやはり基軸通貨・ドルが資本循環の主役だった。

 ただ、80年代に始まる日本の中心的債権国時代のみ円建てではなく、主としてドル建てで行われている。

 歴史的に見て、これは異常な現象だ。

 ポイントはレーガン政権以降のアメリカのマネー戦略だった。

 それに日本がどのように対応し、その結果、無残な結末を迎えるに至ったか、が問題だ。(P33~34)

 ……以上、「序にかえて」と「第1章」の要約である。

 吉川氏がこの本で何を言おうとしているか、が大体書いてあるので、丁寧に写してみた。

 この歴史の概略を見ただけでも、日本の「円」が不当に貶められていたことが分かる。

 第2章以下は要点筆記するが、そこにはもっと具体的にクリントン政権のカンターUSTR代表とか、日本嫌いの人々がいかに無茶苦茶なことを言っていたか、が出てくる。

 ポイントだけを要点書き出しするが、醍醐味を味わうには吉川氏の本を読んでいただくしかない。

◎第2章「日米共同幻想 1980~1985」

 レーガン政権前期のドル高は日本発だった。ジャパン・マネーが集中的にドル買いに走った結果だった。(P39)

 世界経済のシンボル経済化(P40)

 為替取引における実需原則(P41)

 ディーリングにおける為替取引、投機的売買(P42)

 「マネー敗戦」の端緒、日本側の誤った一歩は80年代、対米貿易を中心として手にした膨大な貿易黒字、経常黒字でドルを買い支え、為替レートを捻じ曲げたこと(P43)。

 日本からアメリカへの資本流入はカーター時代の70年代末~80年代初頭の日米金利差に引かれて始まった。(P44)

 レーガン政権は双子の赤字で中長期の国債発行を急増させる→日本の生保など機関投資家が購入した。ジャパンマネーは全体の3~4割を占めた(P44)。

 1977年1月の欧州通貨制度(EMS)発足で西ドイツのアメリカ離れ。80年代初頭の高金利政策は西独から日本へアメリカ経済の支え役の交代の為に仕掛けられたというロバート・ギルビン・プリンストン大学教授(「国際関係の政治経済学」)の説も(P46)。

 ロン・ヤスの経済はズグニュー・ブレジンスキー「アメリッポン」説。(P49)

 80年代前半は「中心的債権国の交代」現象で戦後国際経済史に特筆されるべき5年間だった。日米が冷戦の占有という共同幻想でスムーズに交代が進行した。(P50)

◎第3章「国際政策協調の病理 1985~1990」

 邦銀は国内でカネをかき集め、短期ドル買い→6、7年ものの米国債を買うことで、利ざやを稼いだ。1984~の異常なドル高の背景。95年、不良債権に苦しむ邦銀は短期ドル買いに高金利を課された(ジャパン・プレミアム)…米欧の金融機関は返済期限の差を利用して利鞘を稼いでいた邦銀の弱点を狙った(P54)。

 稼いだ貿易黒字を米国に還流させ、米国はそのカネで好況を維持して日本の製品を買う→日本は自分のカネで自分の製品を買い、それを米国人に使わせた上に貿易黒字と呼んでいたようなものだ(P56)。

 1984年11月レーガン再選。1985年2月、資本市場重視派のリーガンから通商派のジェームズ・ベーカーに財務長官が交代。ベーカーはレーガノミックスを否定し、為替相場への協調介入をセットする。1985年9月プラザ合意で急速な円高。1987年2月、G7のルーブル合意(直前に1㌦=150円)。それまではベーカーやフレッド・バーグステン国際経済研究所長ら専門家の度重なるトークダウン(口先下げ介入)でドルが下がった。(P60)

 ポール・クルーグマン「貿易におけるヒステリシス」の仮説(P63)。クルーグマンとW・グリーンの「マサチューセッツ・アベニュー・モデル(MAモデル)」→クリントン政権の「円高カード」(思い切ったドル安による輸出攻勢)(P64)。

 プラザ合意で生じた日本の対外純資産の為替差損は約3.5兆円。(P70)

 日本からの巨額の対米投資がドル建てで行われていた(P71)。

 プラザ合意は対米徳政令。アメリカという債務者に元利払いの軽減を許した。ドル安誘導で①日本保有のドル資産の価値を殺ぎ②モノ経済面では米国輸出産業の競争力を増大させる→基軸通貨ドルの魔術(P72)。

 非ドル通貨国はできる限り自国通貨で対外経済関係を結ぶしか有効策はない。プラザ合意ではドル安への介入に最も協力的だったのは日本で「2割まではOK」と竹下蔵相は渋るドイツを後目に大見得を切ったと伝えられる。竹下氏は甘かった(P73)。

 プラザ合意後も機関投資家のジャパンマネーが米国に流れたわけは?(P74)

 86年2月の日米独協調利下げは一方的なアメリカの要請によるもので、ドルの悲惨な暴落を避けるための資金流入の手当て策。この時、FRB内で宮廷クーデターあり。(スーザン・ストレンジ「カジノ資本主義」岩波書店)。(P76)

 87年→89年5月まで2.5%という超低金利を続けたためバブルを呼び込んだ。円高不況は87年には回復、日本経済はプラザ合意以前の5%成長を取り戻していたのに。(P77)

 「大蔵省(MOF)はブッシュの選挙事務所」といわれた。プラザ合意後ドルはつるべ落としに下落し続け、87年にはブラック・マンデーというNY株式市場の暴落があり、ドルは一時120円まで下がったのに、日本の機関投資家がドル債券を買い続けた理由は大蔵省の行政指導。レーガンからブッシュへの共和党政権継続の成否をかけた大統領選間近な1988年3月、アメリカの債券市場は日本の機関投資家が年度明けにドル債を売りに出るのではないか、との噂で持ちきりだった。大蔵当局は債券市場の動揺を抑えようと日本の生命保険会社に「4月になっても債券を売るつもりがない」と声明を出すよう求めた。この声明を市場が信用していないと知ると、大蔵省の担当者が自ら市場関係者を回って声明の背後には大蔵省がいる、と強調した。さらに日銀は「保有する外貨準備の9割はドルで運用している」ことを公表し、市場の安定に努めた。9割といえばカナダの運用状況に匹敵する。(P80)

 バブル経済の発生…機関投資家にとってバブルの膨大な含み益は為替差損への隠れた緩衝装置(バッファ)だった。→88年7月のBIS規制の網にかからない生命保険会社(相互会社であり、株式会社ほどの規制を受けない)を使って、大蔵省が共和党のために工作した。(P82)

 1987年10月19日のブラック・マンデーと裁定取引。(P88とP121)

 ドル暴落、NY市場暴落を防ごうとした大蔵省の獅子奮迅の働き。①4大証券に東証を買い支えさせる②特金、ファントラにまで株を買わせる→「ドルを支える他に独自のマネー戦略を持たない日本」の姿を露呈した(P90)。

 60年代後半には米ドルの強力なサポーターだったドイツは70年代末にはアメリカ離れしていた→日本の突出振りがいやでも目に付く(P91)。

 NYのロックフェラーセンター買収「アメリカ人の魂を買った」との批判(P94)。

 88年7月G10決定のBIS規制(国際業務銀行の自己資本比率を8%以上とする)は日本の銀行の伸張を抑えようとしたアメリカの意図による。なぜ8%か。アメリカの銀行にはたやすくクリアでき、邦銀には難しい数字だった。他に合理的根拠はなかった。日本は銀行保有の株の45%を含み益として自己資本に算入することで妥協したが、ドイツは含み益の自己資本化を拒否。日本は当座はよかったが、バブル崩壊後に苦労する。BIS後、邦銀は国際融資に慎重になる。世界の円建て融資はゼロに近くなる。(P95)

 80年代の実体経済面での日米貿易戦争。裏では資本輸出国日本が為替リスクを負担するという奇妙な構造が莫大な為替差損を生み、日本経済を弱らせていた。マルク、ポンド、金などへとリスク分散をしなかった罪。(P99)

◎第4章「日米再逆転 1990~1995」

 17世紀オランダのチューリップ投機(P102)

 バブル経済を86年の「前川レポート」が打ち出した「内需主導型経済への転換」だと称賛したのが当時の主流的論調だった(P103)。

 エクイティ・ファイナンス(株の時価発行増資)など(P105)

 アメリカは日本の高株価のカギが①株式持合い(配当収入に関心のない株主の増加)②エクイティ・ファイナンスで利回り採算の悪さ、キャピタルゲイン増、株価上昇見込みという原因だと考え、この原因潰しをはかってきた。(P106)

 株式市場の水準を示す指標…日経平均は値動きが激しい。TOPIXは対象銘柄の株式総数まで考慮に入れるので、より実態に近い(P108)。

 1989年ジェームズ・ファローズ「日本封じ込め」。1989年秋、日米構造協議(SII)スタート(P111)。

 アメリカのメッセージ「日本の高株価を望んでいない」+アメリカは「土地戦略ノート」を用意していた(P114)。

 バブル経済の教訓…日本はマネー経済の成熟に失敗し、個人から企業への富の移動。国民除外。銀行は融資を地価の7~8割にとどめておけばよかった。調整はピークから2~3割下の水準が限界だったのに、やりすぎた。三重野氏は89年春の超低金利修正、89年10月、90年2月、8月と連続して公定歩合を上げて公定歩合を6%としたが、余りにも急ぎすぎた。90年4月には大蔵省が金融機関の総量規制を実施した。(P118)

 アメリカは政府部門の赤字増大による経常黒字縮小を狙った。日本は10年間で430兆円の公共事業を対米公約した。財政破綻の一つの原因。アメリカがSIIでバブル潰しを狙ったとしたら、それ自体は成功した。大蔵当局にはアメリカの態度はショックだったか? バブル崩壊の米証券仕掛け人説=米国が日本に無理やり許諾させた裁定取引をフルに使い、日本にまだ禁止規定がないことをいいことに、狙いすましてやった、という説はもっともらしい。ウォール街基準がここでも生きている。(P115とP121とP122)

 1991年湾岸戦争戦費のカラクリ。540億㌦の湾岸戦争戦費の国際支援が経常赤字をほとんど消してしまった。対イラク戦争で米軍が使用した武器弾薬類は、大部分がすでに予算処理されており、実際に経費として支出されたのは100億㌦以下だと推定されており、アメリカは国際的な政治力で500億㌦近い海外からの資金流入を確保した。(P126)

 クリントン政権の円高誘導戦略…フレッド・バーグステン「日本には自分の鍋で自分を煮させる」。93年4月の日米首脳会談でクリントンは「日本の黒字削減には円高が有効」と。ベンツェン財務長官「日本の黒字が世界の成長を阻害する」。→94年2月の日米包括協議決裂、クリントン大統領は「貿易戦争」を宣言。4月末にはカンターUSTR代表の強硬発言で円高→ドル全面安になり、アメリカはあわてた。(P128)

 バブル崩壊+円高で日本経済に大打撃(P130)。

 対米貿易黒字の内訳、勝ち組はハイテク産業だけだった。包括協議、日米貿易戦争、CIAの盗聴事件、自動車産業の米現地生産化。日本のモノづくり産業が受けたダメージは深刻だった(P134)。

 アメリカ産業にとってドル安は見えない補助金だった(P140)。

 財政健全化はレーガノミックスが10年後に生んだ成果ではなく、ドル安による「補助金」をアメリカが活用した結果だった(P142)。

 日銀の円売りドル買い介入でたまったドルで米国債を買い、米国民の財は株式市場に回すことができたため、米国の株式市場が活況を帯びた(P143)。

 平成大不況の原因の一つは不良債権問題だが、米国の円高誘導が及ぼした直接的影響はものすごく大きい。日本の高コスト構造が平成不況を生んだのではなく、円高デフレが大不況の原因だったことは購買力平価の比較で一目瞭然だ。円高ドル安の為替変動は日米間の所得の実質的移動を意味するP145)。

 日本の大不況時の財政出動効果なし、はケインズ政策の限界ではなく、手法が間違っていたため。ケインズは通貨の過大評価(過度の円高)がもたらす不況に対しては、まったく別の処方策を提示したであろう。(P148)

 日米構造協議による長期公共投資拡大公約は公共工事にかかわる政官業の利益集団のパワーを強化した。円の過大評価は日本の「土建国家」化を促した。(P151)

 日本は早い時期に円建ての投資環境を整備するべきだった。円建ての帝米と牛が多ければ、いたずらに米国が円高にする政策は取れなかったはずだ。(P152)

◎第5章「マネー敗戦 アジアへ 1995~」

 95年1月に金融市場に冷たいロイド・ベンツェンからウォール街出身のロバート・ルービンに財務長官が交代した。95年4月のG7「相場の変動を秩序ある形で反転させることが望ましい」声明→95年8月に榊原・サマーズで大規模介入。1=100円を回復、97年には120円を超えた。ルービン=グリーンスパン関係も重要。95年、10年ぶりに円高の時代が終わった(P157)。

 橋本デフレ。90年代後半の平成不況第2幕。16兆円の公共投資(景気対策)に市場は反応せず。95年9月~約3年間0.5%の公定歩合を続けた。年間約10兆円の金利所得が消えた。異常な低金利で国内資本が外国資産に向かった。再びアメリカの資本循環に組み込まれた日本。新「帝国循環」の時代。(P159)

 97年のアジア危機は米国に流入した資金の余剰分がアジアに還流したもの(P166)

 過度な円高(購買力平価に対して乖離が大きすぎる客観的基準で「過度」と見る)(P167)

 いままで投機資金が悪さをしていたヨーロッパ市場が統合され、悪さができなくなり、アジア市場が投機資金に狙われやすくなった(P171)。

 ルービンはタイ政府の通貨防衛策に反対し、ヘッジ・ファンドの味方をした(P172)。

 コロンビア大学のジャグディッシュ・バグワディ教授は「かつての軍産複合体ではなく、いまや財務省・ウォール街複合体が国際金融を取り仕切っている」と。(P173)

 1980年代のマハティールの東アジア経済協力体構想(EAEC)、ベーカー国務長官が宮沢首相に圧力をかけて断念させた。「EAECは太平洋を分断する。APECこそが双方の利益にかなう」と。(P174)

 日本の金融政策当局の不作為の罪(P178)

◎第6章 「鎖国の代償」

 1997年春の日産生命破綻の意味。一連の金融機関破綻と違い、円高により、持っていた米国債などが減価して破綻した。大蔵省の罪。大蔵省が負うべき責任は重い。(P180)

 大蔵省は金融業界への影響力を失うことをおそれ、銀行は既得権益を失うことを恐れ、「ドルの世界」をそのまま受け入れ続けることを選択した。これが日本の苦渋の原因だった(P184)。

 格付け機関の未発達(P192)

 ジャパンマネーの過度の対米還流を生み出したもの①日本の対米特殊ポジション②日本独自の経済社会制度(P194)

◆問題は2010年の米国債償還だ

 昔の本だが、最後の<終わりに キリギリスの「ニュー・エコノミー」>で吉川氏は

 「2010年には、奇しくも日本が80年代初めに大量購入したアメリカ国債(最長期・30年もの)が償還期を迎える。償還を受けて手にしたドルは、さて今度はどのような投資に振り向けられるだろうか。『償還』ではなく、大部分がドル債の単なる『乗り換え』になってしまっては、日本はドルの鎖の中に国富が流出する構造から永遠に抜けられないだろう。そうならないように、と願って筆者はこの一冊をまとめた」

 と書いてあった。問題は2010年なのである。まだ間に合うではないか。ちょうど10年前に書かれた本なのに、<死せる吉川、生ける財務省を動かす>となるかどうか?

 今の国際金融危機を理解するのに役立った気がした。読み直して良かった。

 自民党政権ではこのような大胆な金融政策の大転換は無理だろう。

 政権交代するしかないのだが、小沢民主党は財務相に擬せられる榊原英資氏を中心にどのような戦略を描いているのか? 

 乞うご期待、では済まされない、喫緊の課題である。

 できれば、総選挙の争点としてアジェンダ・セッティングすべきなのではないか、と思う。

 しかし、アメリカはこの問題を表面化させたメディアにも意地悪するのだろうなあ、と想像する。まして、当落が分かれる政治家に公約させることは期待できないだろう。

 反米的な政策を訴えて政権を取ると、その後の政権運営をアメリカに邪魔されるということもある。

 アメリカは気に食わない日本の政権を引き摺り下ろす、という噂もある。

 田中角栄の資源外交に腹を立てて、ロッキード事件で失脚させたというまことしやかな噂を信じる永田町関係者は今でもいる。

 細川護煕首相は日米首脳会談で「NO」と言った首相だったが、短命に終わった。

 まあ、最後の部分は与太話だが、金融危機の現象面だけに気を取られずに、もう少しロングスパンで見る努力をしてみよう。そうすると、違う風景が見えることもあるから。

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2008年10月 7日 (火)

書評「金融行政の敗因」西村吉正著(文春新書)~9年前の本。金融危機対処の参考に+東京新聞西村氏インタ

 10月6日のニューヨーク株式市場は金融危機を背景とした世界的な景気後退への懸念が強まり、ダウ平均株価(30種)は一時、2004年10月以来約4年ぶりに10000㌦を割り込んだ。2007年10月に付けた過去最高値(14164.53㌦)に比べて約3割下落した。同日のアジア、欧州の株式市場も軒並み下落し、米国発の金融危機は世界同時株安に発展した(読売新聞10月7日朝刊1面トップ前文)。東京市場も7日、日経平均が10000円を割った。

金融行政の敗因 (文春新書)

 サブプライム危機を発端とした米金融危機は米国だけでなく、欧州の金融機関の破綻を招いただけでなく、途上国経済などにも影響し始めている。

 新聞を読んでも、エコノミストや経済学者が目先のことしか話していない気がする。

 例えば、私が愛読している日経新聞[大波小波]。10月7日は六光星氏だったが、「未曾有の金融危機に世界が揺れている」として、過剰流動性を問題にしている。米国は中央銀行の力に頼り過ぎ、資金供給で輸血をしているが、病巣に直接働きかける力はないのに、膨大な資金提供は再びカネ余りを招き、資産バブル(通貨価値下落)の温床になる、と。一時しのぎが制御不能の怪物を作る繰り返しだ、という。

 「このままでは21世紀の世界は、物価も成長率も資産価格も過剰流動性の人質になってしまう」と危機感を訴え、アメリカはなぜかつての日本のようなデフレと流動性のワナにはまり、出口を見失う方向に進むのか、と悲鳴をあげる。

 申し訳ないが、今の危機の解決策を考える参考にならないと思うのだ。現象面の説明が中心で、その意味合いが述べられていないからだ。

 そこで、思い切って10年前の本を本棚から引っ張り出してきて、読み返した。

 住専問題の時に大蔵省銀行局長だった西村吉正・早稲田大学ビジネススクール教授が1999年10月20日第1刷で出した文春新書「金融行政の敗因」(定価710円+税金)を手にとってみた。

 バブル崩壊の際、政府内部で最も深く関わった、いわば「マネー敗戦」の”戦犯”である。自分でもミッドウェー海戦の司令官になぞらえていた。ひかれものの小唄だ、と切り捨ててもいいのだが、どうも内容が気になっていたので、もう一度きちんと付き合ってみたのだ。

 西村氏はその後も、金融に関する研究を続けている。この本は9年前に書かれたのだが、その時点での専門家の見解であることは間違いない。10年後に検証するのにふさわしい本だ、というだけでなく、現在の世界金融危機の中での日本のあり方を考える際に参考になるのではないか、と思って、読み返してみたのだ。

 本の裏表紙から西村氏の略歴を引き写しておく。

 1940年滋賀県生まれ。1963年東京大学法学部卒業。大蔵省入省後、経済企画庁課長、大阪税関長などを経て1989年から銀行局審議官、1992年財政金融研究所長、1994年銀行局長。1996年に退官後、スタンフォード大学特別客員研究員を経て現在、早稲田大学アジア太平洋研究センター教授。主な編著書に「復興と成長の財政金融政策」(大蔵省印刷局)、「世界の中心は回り持ち」(東洋経済新報社)など、とあった。

 9年前の情報だから、今は違うのでは? と思い、早稲田大学のホームページを見たら、次のように載っていた。コピペする。

 <現早稲田大学ビジネススクール教授である。早稲田のホームページによると、専門分野は金融論(特に金融制度)、経済政策論(特に財政、金融、行政)。

 講義科目は金融ビジネス概論、経営と経済・社会。

 1940年生まれ(滋賀県大津市)、東京大学法学部卒業、博士(学術、早稲田大学)、1963年 大蔵省(現、財務省)入省、1979年 欧州共同体(EC)日本政府代表部参事官、1984年 大蔵省主計局主計官(防衛予算担当)、1986年 経済企画庁総合計画局計画課長、1992年 大蔵省財政金融研究所長、1994年 大蔵省銀行局長、1996年 大蔵省退官、スタンフォード大学特別客員研究員、1997年~ 早稲田大学教授。

 主要著書一覧としては「日本の金融制度改革」(2003、東洋経済新報社)、「金融行政の敗因」(1999 文春新書)、「世界の中心は回り持ち」(1997 東洋経済新報社)、「復興と成長の財政金融政策」(編)(1994 大蔵省印刷局)、「金融危機再検証 今が好機」(2007 日本経済新聞「経済教室」)、「脱・脱亜入欧のすすめ」(2008 中央公論)、「日本人を値下げしよう」(2003 中央公論)。

 研究テーマは「規制緩和、市場化、グローバル化などの激流の中で変革を続ける金融システムの将来展望を探る。理論を踏まえつつ、かつ、現実の課題に応えられるように、21世紀の金融機関経営の構想を描く」とある。

 本人からのメッセージとしては「30年あまり公務員として日本政府(大蔵省、外務省、経済企画庁)で働いてきた。とりわけ住専問題などの金融機関の破綻処理を取り扱った銀行局長の時代には、印象に残る行政経験が数多くあった。このような経験を活かしながら、理論と実践の接点を探る研究・教育活動を進めたい」。

 プロジェクト研究はグローバル化時代の金融戦略の研究 [MBA] 、金融業務戦略指導[博士後期課程]>

 とあった。以上がホームページの情報だ。

 さて、「金融行政の敗因」の内容に移ろう。

◆バブルの最中はバブルと感じない

 まずバブルの発生・崩壊だ。「80年代後半から現在に至る資産価値(地価・株価など)の急激かつ大幅な上昇・下降の過程」(P12)。必ずしも経済の実態に即したものとは言えなかったという意味で、「特に大幅な下落が起きてから、この現象は苦渋を込めて『バブル』と呼ばれるようになった」(P13)とあるように、景気がよかった時は、バブルとは認識されていなかった。崩壊して、初めて「バブルだった」となる。いつの時代も同じだ。

 1980年代後半には日本を含め、アメリカ、イギリス、北欧、韓国、台湾など世界の各地において地価及び株価の上昇が見られたが、この共通の背景は

①1985年9月のプラザ合意後の各国の協調利下げ

②石油価格の下落

③マネーゲームの興隆、

 があった。しかし、内実は各国バラツキがある。日本同様に第二次世界大戦後、右肩上がりの経済発展を続けてきたドイツはバブルの発生・崩壊を経験しなかった。ドイツでは土地政策が確立し、土地が投機対象とされなかったこと、経済全般について対米依存度が日本ほど大きくなく、経済政策は対米協調より国内安定を優先する傾向が強かったためだそうだ。(P17)

 1980年代後半に日本で生じた資産価格の急激かつ大幅な上昇(バブル発生)の原因は、

①長期にわたる景気拡大や円高による国際的地位の上昇の過程で日本経済の先行きについて強気の期待が高まったこと

②歴史的な低金利やマネーサプライの高い伸びなど金融緩和が長期にわたるなど、マクロ経済政策に適切さを欠いたこと

③金融機関のリスク管理体制などの整備が不十分なまま、金融自由化が過度期を迎え、その中で金融行動が著しく活発となったこと

 ――の三つだった(P17)。

 1985年のプラザ合意による急激な円高が日本経済を襲い、円高不況が来るという危機感が列島を覆ったが、大きな混乱もなく乗り切った。不況感が急速に払拭され、非製造業のウェイトの高まりなどで多数の収益機会が生じた。相変わらず不況下の物価高(スタグフレーション)に苦しむ欧米先進国を尻目に日本の1人当たりGDPは世界最高水準に達し、キャッチアップの時代は終わった、と感じられた。

◆経営者の判断を誤らせたもの→結果は過剰投資

 このような予想を上回る契機の好調は経営者の判断を誤らせ、過剰投資を招く。

 「土地神話」は戦前には存在しなかった。高度経済成長により土地一単位当たりの生産性が大幅に上昇したうえ、人口の都市集中のため、特に大都市の地価は経済発展をはるかに上回る店舗で上昇。70年代以降、長者番付(個人申告所得ランキング)の上位を土地成金が独占したことを通じて土地神話がますます定着した。広範な人が土地は他の資産に比べて有利な商品であると信じていた。

 地価は戦後1回(1974年)しか下がったことはなく、これもオイルショック後の例外中の例外として無視された。「土地本位制度」がバブル発生の原因となり、崩壊後にそれが故に日本経済の心臓部にダメージを与えることになる(P22)。

◆規制緩和が悪いのか、政治家のリーダーシップのなさが悪いのか?

 80年代はサッチャー首相、レーガン大統領によって主唱された新保守主義の経済学と規制緩和が世界的に関心を呼び、日本でも中曽根政権がサッチャー・レーガン路線を踏襲し、1985年4月の国鉄の分割民営化が象徴だった。

 経済・社会の自由化、国際化は時宜にかなった政策目標だった。規制緩和による経済活性化は第二次石油ショック後の沈滞した雰囲気を明るくしたが、もしかすると、結局はバブル経済を推し進めることでより大きな傷跡を残す結果になったのか。それとも、竹下政権以降、短期間で政権交代を繰り返し大きな政策決定を実行する力が弱まった政治のリーダーシップの欠如が原因なのか。転換期にある日本経済の舵取りをすべき政治がこの時期、政治改革にかなりの力を吸収されたことも日本経済にとって不運だった(P23)。

 1985年に1人当たりGDPが11000㌦、アメリカが17000㌦だったのが、1990年には日本24000㌦、アメリカ22000㌦と逆転し、日本は主要国の中で1位となったが、これは為替レートの激動による数字の魔術、錯覚だ。円ベースで見ると、日本のGDPは85年に324兆円で、バブルを経て90年でも3割増の439兆円。これが実態であり、生活実感だ。これをドル建てで見ると、85年の1.45兆㌦が90年には2倍以上に増えて、3.10兆㌦になる。5年で倍増。外国人はドル建てで見るから日本の膨張ぶりにびっくりした。その様子を見て日本人(特に国際派や金融関係者)もすっかり自信をつけてしまったのではないか。

◆邦銀がアレヨアレヨで世界一になった日

 この頃、日本の金融業が国際金融市場で占める地位も急速に上昇。円高前の82年には日本で第1位(資産額)の銀行も世界では第8位だったが、プラザ合意による円高後の88年には資産額を4倍にして世界のトップバンクになってしまった。

 単純化すると不動産融資で2倍、円高で2倍、合わせて4倍ということだ。80年代後半には世界のベストテンを邦銀がほぼ独占する。この頃、BISがまとめた国際金融市場リポートでも85年以降、邦銀の海外資産は急拡大したものの、これは国内市場が未整備で国際市場に迂回した取引が多かったため、と分析している。邦銀の「オーバープレゼンス」(目立ちすぎ)も円高によるイリュージョンの要素が強かった。邦銀のランキングも実はソニーやトヨタをはじめとする製造業の実力で獲得した円の価値上昇(円高)の反映に過ぎなかった。金融行政にもその意識が足りなかった。

 それまでは前近代性と結びつけて考えられていた終身雇用制、メインバンク制度、株式の持ち合い、企業間の長期的信用取引関係などの慣習が「日本的経営」と称賛され、債権大国、資産大国、金融大国など「大国」という言葉が流行語となった。

◆流行語「大国」、昔は「一等国」

 19世紀末から20世紀初頭、日清・日露戦争に勝利した日本では「一等国」が流行語だった。このような大国化現象は急激な円高で計算上出現したバーチャルな産物だったから、バブル崩壊後、日本の金融が天国の高みから奈落の底に墜落したように悲観する必要はない。もともとそんなに高所にいたわけではない。今回のバブルは17世紀前半のオランダのチューリップ狂、1920年代のアメリカの大恐慌に先立つブーム、18世紀前半のイギリスの南海泡沫事件同様、急速な経済的興隆が人々の強気を産んだ例だ(P26)。

 今回の事例は日本を筆頭としたアジアの雁行経済発展国家群が挫折した20世紀末の事件として、欧米の人々の優越感をくすぐる格好の話題を提供した。世界史上今までに何度かあったイエロー・ぺリル(黄禍論)の一こまだが、この史劇は21世紀に中国が主役を引き継ぐことになり、まだ幕を閉じていない(P27)。

 80年代後半、日本の金融は大幅に緩和された。公定歩合は86年1月から87年2月までのほぼ1年間に5%から2.5%という史上最低の水準へと引き下げられた。この水準は89年5月に3.25%へと引き上げられるまで2年3カ月継続した。マネーサプライも87年度から90年度にかけて4年間連続して2桁増となるなど、量的にも大幅な緩和が行われた。

◆日本はなぜ金融引き締めが遅れたのか?

 87年10月のブラックマンデー(NY市場での株価暴落)後、アメリカでは88年3月に市中金利の高め誘導をした。8月には公定歩合を引き上げた。

 ドイツも88年7月と8月に公定歩合を引き上げた。

 しかし、日本では①円高の進捗②経常黒字と内需拡大要請③物価の安定という3要因の為に、金融引き締めが制約され、金融政策の転換は89年5月まで持ち越されてしまった。

 三重野日銀総裁(当時)は93年5月24日「金融財政」で「悔いが残るといった、その事態に対する最大の教訓は、やはり金融政策は消費者物価とか、卸売物価だけじゃなくて、資産価格についても十分目配りしていかなければならなかった、ということだ」と回想している。

 金融政策のみならず、経済政策発動のタイミングは極めて難しい。特に現状に満足しているときに、金融引き締めで国民の頭から水を掛けるということは、言うべくして難しいものだ。転換のターニングポイントとなる時点では、決定的な指標が出ているわけではない。

 政策決定者はよほどの見識と決断力と、そして確固たる地位が必要だ。このような意味で中央銀行の政治からの独立性が世界各国で尊重されている(P33)。

 日本は89年に入りドルが円に対し強含みに転じ、金融政策に対する為替面からの制約が小さくなった。一方、国内では人手不足と輸入物価上昇による国内物価上昇が懸念されるに至った。出稼ぎに来たイラン人が東京の街に目立つようになったのもこの頃だ。

◆「平成の鬼平」はやりすぎだったか?

 89年5月、公定歩合は2年3ヵ月ぶりに引き上げられ、以後90年8月までの計5回の引き上げで、その水準は短期間のうちに6%となった。当時の日銀総裁は「平成の鬼平」と称賛されたが、この急激な金利引き上げはあまりにも急激にブレーキをかけたものとして、後にはむしろ批判の対象となった(P34)。

 この頃の経済政策を巡り「財政再建を優先しすぎたため、金融政策に過度の負担がかかった」との見方がある。行政改革は当時の鈴木・中曽根内閣の最大の政治課題であった。財政政策と金融政策のポリシーミックスを決定する上で、一つの制約になった面があったことは否定できない(P36)。

 80年代に入って資金の需給関係に変化が生じていた。日本企業はオイルショック後の安定成長への移行に伴い、資産・負債の増加を抑える減量経営を志向。製造業の主要企業全体では内部資金化率が高まり、76年以降、全体としては設備投資資金を借入れに依存する必要がない状態になった。70年代半ばを転機に、製造業の金融機関借入金依存体質は急速に低下し、80年代に入ってからもこの傾向は続いた。80年代には書受け院形態での資金調達の自由化が進行し、これも銀行離れを促進した。

◆不動産投資が集中したワケ…財テクブーム

 銀行にとってはカネ余りになった。大企業が借りないため、ほとんどの銀行は一斉に配下のノンバンクも含め、不動産貸出に走った。金融緩和と預金金利自由化で資金が継続的に流入する環境に押し流されるように、銀行は「向こう傷は問わない」姿勢で貸し付けた。銀行はこの時期、審査部門を縮小した。

 80年代後半には企業は設備投資に加え、収益重視の観点から積極的な金融資産の運用である「財テク活動」を活発化させた。特に大企業は資金不足がkぅを大幅に上回る大量の資金を調達し積極的に金融資産を積み増す、いわゆる「両建て取引」を行った。85年から89年の間の企業の資金調達を見ると、エクイティ・ファイナンスを中心とする有価証券とCP発行が大幅に伸びたのが特徴だった。

 当時は、財テクに関心を持てない経営者は無能といわんばかりの罪深い経営書が数多く出版された(P47)。

 私(西村氏)は1986年~88年、経済企画庁で将来展望を作る作業をしたが、この4年間に個人消費や政府支出は25%程度しか伸びていないのに、民間設備投資と住宅投資は約60%伸びている。結局、バブル期といっても、実体経済面では民間の突出していただけで、通常の国民生活そのものは案外平静、平常だった(P49)。

 バブル崩壊過程で1㌦=79円の円高があった。アメリカは為替レートを貿易戦争の武器に使ったに過ぎないだろうが、この円高は予想以上の効果を及ぼし、日本経済は自壊した(P51)。←(これは非常にものすごい指摘だと思う。)

 前川リポート(1986年4月7日)の主張する経済構造改革が注目されたが、「内需主導型」が曲者で、内需主導型への経済構造変革を目指すべきだったのが、景気対策により内需振興を図ることにすり替わってしまった。もともと、高度経済成長時の日本は生活を豊かにするためにカネを使わず、ウサギ小屋に住んで、貧しい中でGDPを伸ばした。本来は国民生活の水準を上げておくべきだった(P53)。

 あの時期、日本の経済政策の思考方法・決定過程は予算編成に偏っていた。底では政策の主たる関心が国内の利害調整に埋没する状況で、政治も行政も世界の経済大国としての日本をたくみに運営する体制ができていなかった(P56)。

◆英エコノミスト誌の卓見

 英エコノミスト誌の「バブル崩壊論」の卓見(1990年12月)(P66)。

 世論はバブル潰しを喜んだ(P71)。

 日米の不良債権処理の違い。S&L程度と見たのが間違いだった(P86)。

 痛みを伴う政策の政治決断ができなかった。弱い政治(P89)。

 ジャパン・プレミアム問題(P134)。

 生保各社の経営を悪くした低金利(P138)。

 自民、社会、さきがけ連立政権での住専処理。最初は与党プロジェクトでリーズナブルな方法。途中から党幹部の担当となり、自民幹部はプロジェクトチームを無視し、農協向けの結論を出した。住専問題をハードランディングさせた原因は闇勢力が経済活動に現われ、銀行支店長殺人などを繰り返し、ソフトランディングでは闇社会の食い物にされる、という恐れがあったため(P145)。

◆吉冨勝氏の住専処理批判と反論

 吉冨勝氏による住専処理批判の詳細な説明とそれへの回答(P153)。

 1997年11月3日の三洋証券破綻→戦後初のコール市場でのデフォルト。11月17日拓銀破綻。11月24日山一証券自主廃業。11月26日德陽シティ銀行自主再建断念。11月28日財革法成立(P179)。

 梶山静六氏のイニシアチブで1998年2月16日金融安定化緊急措置法成立、預金保険法改正も。98年6月22日金融監督庁発足(海外市場では「ハシモト・リセッション」の批判起きる)(P187)。

 金融機能が円滑・有意義に活動するためには、金を貸したものよりも金を借りたものの方が相対的に良い結果を得られるという社会にすることが必要だ(P198)。

◆最終章は現在に生かすべき教訓が山盛りだ

 西村氏の卓見は第5章「金融行政の曲がり角」(P205~P252)を見れば、現在にも通じる骨太のものの見方として表れている。小見出しだけを拾っておく。

1 事前行政から事後行政へ(護送船団方式とは何だったのか/金融検査の本質と限界/信用の価値=BIS規制/経営者の責任追及問題)

2 金融の再編成(直間比率=銀行と証券=/土地本位制度の崩壊/一勧・富士・興銀/伝統的金融業と先端的金融業)

3 なぜこんなに時間がかかるのか(金融だけが原因なのか/人口の減少と国民の閉塞感/冷戦終結とデフレ/平和の逆配当/これからどうするのか)

◆米金融業のおさかしさ→現在の破綻の原因はここにある?

 世界的に活躍するアメリカの金融機関のROE(株主資本利益率)は14%以上ともいわれる。先進諸国の実体経済の成長率が2~3%のときに、金融機関だけが飛び抜けた利益を上げ続けることに納得できないのは、単なる感情論ではない。従来の金融行政は、伝統的な金融業を対象とし、どちらかといえば金融業の公共性・安定性を重視してきた。これに対し、ビッグバンなどという言葉に代表される最近恩金融論議や行政批判には、先端産業としての金融業の立ち後れに対する苛立ちがこもっている。この間には、案外深い川が流れているのではないだろうか(P234)。

◆高度成長とは将来の成長期待だった

 高度成長の時代とは、いま成長しているということよりも、将来も成長が続くという見通しの持てる時代、「将来性を買う時代」だった。将来性を買ったからこそ、地価は収益還元レベルを超えていた。そのうえさらに将来の発展を見込んで地価は上昇した。それに比して90年代になると、「現実を踏まえてその延長線を見つめる時代」になった。このような意識変革の最大の要因は20世紀末の日本が人口の屈折点に差し掛かっていることだ。租税負担の増加、年金財政の崩壊など国民の漠然たる将来への不安も根底には日本の社会が人口減少によって縮小均衡に向かうことを国民が感じているからだろう(P238)。

◆少子高齢化の影響が大きいこと

 第二次世界大戦が終わってまもない時期にベビーブームがあり、その直後、出席率は49年から59年のわずか10年間で4.32から2.04へと、世界的にも例を見ないほど急速に低下した。当時、それまでの「人ばかり多くて貧しい国」から脱却するための施策が成功したものと考えられた。

 しかし、人口の増加がわが国の成長・発展にとってむしろ原動力であったことを、今日、人口の屈折点に立って初めて痛感させられている。

 わが国の人口が減少した経験は約250年前、18世紀中期にまで遡る。徳川吉宗の時代であり、享保の改革はおそらく人口停滞によるデフレの時代に行われたのであろう。それでも約70年間の人口減少率は4.5%であるから、横ばいないしは微減というところである。それに比べると、今回の人口減少は厚生省人口問題研究所の推計によれば、今後約百年間で半数近くになってしまう。

 それに匹敵する減り方は、縄文時代中期から後期にかけて(4500年~3500年前)の約1000年間の動きまで遡るらしい。こう考えると、バブルの崩壊や総量規制と関係なく、日本の地価がここまで下がることは早晩、必然であったのだ。

 頭数が半分に減れば、1人当たりの土地は2倍に増える。また、わが国の高度経済成長が、キャッチアップの課程を終えればいずれ普通のスピードになることも、早くから認識されていた。モノも資本も自由に移動する時代になれば、土地の値段もまさにグローバル・スタンダードに近づくことは必然だったのである。

 地価だけがグローバル・スタンダードと無関係でいられるはずがない。日本だけに土地神話が存在することこそ、むしろ以上だったのである。しかし残念なことに高度経済成長を成し遂げた後は、わが国にはそういう大きな方向性について舵取りをする機能が欠けていたのだ。

 わが国の地価政策上、土地保有税が必要であることはすでに60年代半ばに各方面で主張されていた。それは人口が増加し、経済成長率の高い段階でこそ必要・有効なものだった。わが国の人口の減少が懸念され、ゼロ成長にあえぎはじめる時点になってやっと地価税が導入されたのは、誠に皮肉なことであった(P240)。

 冷戦の終結は、世界の人口の3分の1が市場経済に参入し、それだけモノ・労働力のバランスが変化したことを意味する。わが国も当然、この世界的な供給過剰の中にいる。さらに日本は円高に対応するため、安い土地や労働力を求めて現地生産を拡大し、その流れを加速した。デフレ経済は必然的である。

◆デフレ下では不良債権処理が進まない

 70年代後半から80年代初めにかけては、アメリカ経済は高インフレ・高金利に苦しんでいたので、日本にとって円高によるデフレ効果はむしろ喜ばしいことだった。ところが80年代半ばから90年代半ばになるとアメリカの物価が安定にしたにもかかわらず円が上昇し続けたために、わが国は世界的な風潮以上にデフレとなり、マクロ経済運営に大きな支障をきたすことになった(P242)。

 不良債権の処理にとって、デフレは最も不利な環境である。インフレは債権・債務の実質的価値を減らす。すなわち過去を清算し、既得権の重荷から解放する。インフレが老人や弱者に冷酷であるのはそのためであるが、そのことは同時に、現在の強者、新たに発展しようとするものの活動をし易くすることをも意味する。

 これに対しデフレは逆である。既得権益の価値を重くするから、社会の発展・前進の足かせとなる面がある。いま日本経済がしっぽを咥えて同じところをグルグル回っているのは、デフレという足かせをはめられていることも大きな原因となっている。日本は過去2度、終戦直後に不良債権問題があったが、銀行を救ったのは卸売物価が約60倍になった超インフレだった。列島改造時の不動産融資による不良債権も第一次オイルショック後の「狂乱物価」(卸売物価上昇率37%)によって軽減された(P243)。

◆冷戦終結の意味合い→安全保障を各国が自前で構築する時代

 冷戦の終結によって、安全保障問題を各国が自前で構築する必要が出てきた。いまさらながら日本の脆弱性・孤立性を痛感させられる。

 世界の人々も「日本経済の奇跡」の時代の敬意と警戒から解放され、日本の脆弱性、辺境性に気づいてしまった。最近における国際的な日本の地位の低下(ジャパン・バッシングやナッシングとか自嘲しているもの)は、このことを反映している。

 …象徴的に言うならば、ニューヨーク市場は「ドルと英語とペンタゴン」によって支えられている。東京市場は今のところ、そのすべてを欠いている。

 …「マネー敗戦」という意識から遅まきながら円の国際化論が最近勢いを増している。しかし、通貨の力は単なる「経済大国」では獲得・維持できない。円の国際化が何を意味するのかは人によって違うようだが、外国でお札が通用するようになるのは、東京市場の国際化などという生易しい話ではない。

◆憲法9条問題

 憲法9条の改正から始めなければならないことになる。冷戦の終結により、そういうことが明確になってしまった。経済大国とは「裸の王様」のことであった(P246)。

 日本が難問にぶつかるのは、むしろこれからである。ここ10年ばかりの経験はその予告編に過ぎない。人口の減少に対処するには、これから、社会の安定化活力か、の厳しい選択に迫られる。ヒトの輸入に踏み切るか。アメリカのように外から活力を無制限に入れるほど日本社会は強くないだろう。日本には日本のやり方がある。日本のやり方が欧米にも通用するという意味でのグローバル・スタンダードにならなかったとしても、それでやっていくほかない。できうえば、近隣にそれを共にする友人(中国、韓国)があったほうが良い(P249)。

◆高度成長の中に潜んでいた第二の敗戦の芽

 第一の敗戦後に実現した「日本経済の奇跡」の中でも、第二の敗戦の種は播かれていた。経済優先の高度成長である。やむを得ずこの路線を選択した吉田茂首相はこのことをおそらく自覚していたであろう。日本人はそのうち、これが世を忍ぶ仮の姿であることを忘れ、「町人国家論」を本気で信じてしまった。だからマネー敗戦を不本意と主張するならば、戦後の経済市場主義をも修正しなければならないことになる(P251)。

 以上が本書の内容である。

 新書の帯に<護送船団最後の指揮官元大蔵省銀行局長の告白的論考!>とあるが、いい内容である。9年前にここまで見通して、書いている。この10年、日本の政治・経済はこの時点と比べてどこまで進歩したのか、退歩したのか?

 その検証は別の機会にするとして、今日はここまで、と思ったが、東京新聞の昨年4月号に西村氏のインタビューがあり、ネットの東京新聞ホームページに保存してあったので、コピペしておく。

◆東京新聞2007年4月25日朝刊の西村吉正氏インタビュー記事(ネットからコピペ)

 東京新聞2007年4月25日付朝刊(ネットで見つけた)に[検証・拓銀破たん10年特別リポート]<①西村吉正・旧大蔵省銀行局長に聞く>があったので、ついでに、コピペして、貼り付けておく。

◎「正論」拓銀のみこむ 経営悪化なら厳正処理を

 <1997年11月17日、北海道拓殖銀行が破たんした。あの激震から10年が経過しようとする今、破たんの前年まで旧大蔵省銀行局長を務めた西村吉正・早稲田大学大学院商学研究科教授(66)に「拓銀はなぜつぶれたのか」をあらためて聞いた。元銀行行政のトップは、当時の国内を覆っていた強硬な構造改革路線に国内経済が落ち込んでいく局面が重なり、国の方針を存続ではなく破たんに向かわせたとみる。(経済部・沢田信孝)>

【96年夏まで】

◎中小行の処理で金融正常化できる

 <西村氏が銀行局長に就任したのは、自民、社会、新党さきがけ3党による村山富市連立内閣が発足した直後の1994年7月。96年7月に退任するまでの間、金融機関の破たん処理に道筋をつける一方で、住宅金融専門会社(住専)の不良債権問題の対応に追われた。ビルや土地を買いあさり、バブルを生み出した主役の一つである住専への公的資金投入は、その先にある問題、住専に巨額資金を貸し込んできた銀行の不良債権問題を国民に強く意識させることになった。

 ――当時、拓銀を含む金融機関経営に対する認識はどのようなものだったのでしょう。

 「銀行局長に就任し、金融機関の実情を知るに連れ、破たん処理は避けて通れないと強く感じました。ただ、その対象はあくまで中小金融機関でした。率直に言って、大手行まで破たん処理しなければならない状況だとは認識していなかった。バブルに踊った一部の中小金融機関を処理すれば、金融システムは健全化すると考え、94年12月から東京の2信組(東京協和、安全)、コスモ信組(東京)、兵庫銀行、木津信組(大阪)…と破たんさせた。私が局長時代、拓銀まで破たんするなどとは思いもしませんでした」

 ――しかし、そのころから週刊誌などの「拓銀危機報」道が徐々に盛り上がり始めました。

 「確かに拓銀と日債銀(日本債券信用銀行)に関心が集まり始めました。あのころの週刊誌は『拓銀を放っておいていいのか』『つぶさなくていいのか』と金融当局に要求を突きつけてくる感じでした。ただ、彼らも本当につぶれるかもしれないと思っていたら、ああいう書き立て方はしなかったでしょう。いざとなれば、大蔵省が救うに違いないと思っていたからこそ、無責任な内容になっていった。そんな状況ですから、外国人記者にまで、『大手21行は大丈夫か』と聞かれました。その記者は拓銀を念頭に置いていたのでしょうね。私は『日本の金融システムの崩壊につながる事態を防ぐのが、金融行政の責任者の役目だ』と答え、間接的な言い回しですが、『大手行はつぶさない』という政府方針を示したものです」

 ――拓銀にまで破たんが及ばないと考えた根拠は何だったのですか。

 「日本経済への自信です。日本は創意工夫によって、敗戦を克服し、オイルショックや、プラザ合意(85年)後の急激な円高も乗り切ってきました。95年当時、私たち行政当局はもちろん、国民全体にもまだ自分の国への自信が残っていた。バブルの後遺症を軽視したつもりはありませんが、弱い中小金融機関を破たんさせて不良債権処理すれば、景気が回復し、金融システムも正常化すると確信していたのです。拓銀が破たんする事態にまで経済状況の悪化が進むとは、考えられませんでした」>

【急転の97年】

◎時代の空気 生き残りの道狭めた

 <結局、拓銀に「退場」を宣告したのは大蔵省ではなく、「市場」だった。1997年11月3日、三洋証券が破たんし、コール市場(短期金融市場)で初の債務不履行が発生すると、拓銀への信用不安も一気に高まり、株価は額面割れ寸前に。コール市場では資金の貸し手が現れず、資金繰りに行き詰まった拓銀は同17日についに破たんした。さらに1週間後の同24日には、山一証券も自主廃業に追い込まれる。当時の首相は、故橋本龍太郎氏。金融改革や構造改革、行政改革などの6大改革を「火だるまになっても断行する」と宣言。それまでは当然のように受け止められていた大蔵省の「護送船団方式」が突然通用しなくなった、と西村氏は振り返る。

 ――西村さんが銀行局長を務めた96年半ばまでは大手行を破たんさせない方針だったのに、わずか1年半後に拓銀が破たんした理由をどうお考えですか。

 「私は96年から97年にかけての時期を『正論の時代』と命名したい。今や小泉純一郎前首相の専売特許のような構造改革ですが、初めて本気で『思い切った改革を実行しなければ日本の将来はない』と言い出したのは橋本龍太郎さんです。実際に(金融機関の規制緩和を進める)日本版ビッグバンなどの改革に取り組んだ。筋を曲げるのが嫌いな橋本さんは『正論の人』。国民も支持した。96年暮れから97年半ばまで橋本内閣の支持率は非常に高かったんです。そこに拓銀と山一証券の危機が浮上した」

 ――「正論路線」が拓銀を破たんさせたと…。

 「山一の場合は『飛ばし(損失隠し)』の発覚がきっかけでした。それ以前なら経営陣は処罰しても、証券市場をめちゃめちゃにしてはいけないという政治の自制が働き、会社を残す方向に進んだ可能性もあった。しかし、『厳正に処理することが日本の将来のため』という正論によって自主廃業に追い込まれた。拓銀もこうした空気の中で、生き残りの道が狭められた側面があったように思います。時代の空気と無関係に行政運営が行われることはあり得ません。それは非常に大きな要素、いや、すべてと言っていいほどの影響を持つものです」>

◆都銀ゆえのマイナス

 <――「正論の時代」ではなかったら、拓銀も存続できたということでしょうか。

 「難しいところです。経営難の金融機関を存続させるにしても、破たんさせるにしても、返すべき預金額と、不良化によって目減りした資産との差額は、税金などの公的資金で埋め合わせする点は変わりません。問題は、差額を税金で埋めて銀行を生かすか、銀行をつぶしてから税金で穴埋めするかの判断です」

 「当時は経済環境も悪化し、差額という穴がどんどん広がっていく状況にありました。仮に、行政当局が先に税金で穴埋めするという手段によって、拓銀を生かそうとしたとしましょう。当初は穴が1兆円だとみて埋めてみたが、2兆円、3兆円と広がっていく可能性が強い。そうなると追加支援が必要になり、拓銀は『不良債権を隠していたんじゃないか』と国民に疑われ、行政は『見込みが甘かった』と批判を浴びます。時の政権への打撃にもなりかねません。正論の時代だったからこそ、あの時期に拓銀が破たんしたとはいえますが、時代が拓銀存続を許したとして、その後もずっと行政が支え切れると判断したかどうかは微妙なところでしょう」

 ――道民には今も「拓銀は不良債権処理の実験場にされたのでは」「国に見捨てられた」という思いがあります。

 「それは断じてあり得ません。第三者の学者なら『実験してみたらどうだ』と言えるかもしれないが、大混乱が起きるのが明らかな実験をするなどというのは、行政や政治の責任ある立場の人間の発想ではありません。それでなくても、役人というのは思い切った措置を避けたがるものなのです。当時の行政当局は、ぎりぎりまで破たん回避の努力をしたと思う」

 「あえて言うなら、最終局面で拓銀の位置付けが北海道の地域経済にマイナスに作用したのかもしれません。拓銀がもっと小さな北海道の地方銀行だったら、北海道経済と拓銀の経営問題が1対1の重みのあるテーマとして議論されていたはずです。例えば(債務超過に陥り、2003年12月に一時国有化された)足利銀行が生き残ったのは、地域経済への影響が配慮された点が大きかった。正論の時代にあって、拓銀は『都市銀行』の看板を背負っていたがゆえに、地域の問題が後回しにされてしまった可能性もあります。これは私の推測にすぎませんが」>

【そして現在】

◎復活した大手行…サービスは低下

 <この10年間で、日本の金融秩序は一変した。かつて、大蔵省が「つぶさない」と明言した21の大手行は再編に次ぐ再編により、3大メガバンクを中心とする6グループに集約された。2001年4月には小泉純一郎政権が発足し、竹中平蔵金融相が「金融再生プログラム(竹中プラン)」を公表(02年10月)、大手銀行に05年3月末までに不良債権比率の半減を求めた。国内景気回復の追い風に支えられて目標は達成され、金融庁は同年5月に金融システム正常化を宣言した。拓銀破たんが残した教訓とは……。

 ――小泉・竹中改革への評価は。

 「ハードランディング論者と言われる竹中さんですが、政策的には実はソフトランディング路線でした。竹中さん以前の約10年で拓銀を含め180の金融機関が消えましたが、竹中さん以降は実質ゼロ。足利銀行もりそな銀行もつぶさなかった。金融システム崩壊の危険性をよく認識されていたと思います。それでも『改革者』の印象が強いのは、努力しない経営陣の首を飛ばすなど、銀行経営者に厳しい姿勢を示したからです。改革を掲げる小泉政権の維持に必要な演出で、役人にはできないことです。竹中さんは学者ながら、優れた政治家でもあった」

 ――拓銀危機の当時に竹中さんが指揮を執っていたとしたら…。

 「それでも拓銀は救えなかったでしょう。日本経済は02年1月から回復期に入りました。小泉政権の誕生とほぼ同時期です。こうなると金融機関を生かしておく方が悪影響は少ない。貸したお金が返ってきて、不良債権の穴がどんどん小さくなる。りそなグループの公的資金も戻る見通しです。竹中さんの手腕は評価しますが、日本経済の回復が大きく寄与したのです。とはいえ、不良債権処理に使われた90兆円の大半は金融機関が負担した。破たんせずに済んだ銀行も、高度成長期から蓄積した資産をすべて吐き出す痛みがあったことを忘れてはならないでしょう」

 ――拓銀破たんが残した最大の教訓は何だと考えますか。

 「何が、と問われると難しいですが、『金融機関もつぶれる』という認識ではないでしょうか。競争に負けると市場から退場しなければならないのが市場主義です。ところが大蔵省の護送船団方式の下、金融業界だけは、負けても退場しないのが当たり前だったのです。この価値観の下で、金利自由化や銀行の証券参入などの制度改革をやっても、どの銀行も率先して経営改善やサービス強化に取り組もうとはしません。ところが拓銀が破たんし『競争に負けると落ちこぼれるぞ』となった途端、金利自由化などの取り組みが表面化してきた。この10年で3大メガバンクに集約される大再編が起きたのも業界の意識改革があったからでしょう」

 ――一方でそうした金融業界の経営改善が預金者に十分に還元されているとは思えません。

 「メガバンクの寡占化を国民が認めたのは、経営安定と引き換えに優れたサービスと国際競争力向上を期待したからです。ところが、店や現金自動預払機(ATM)の数が減り、ATMの前にお客の長い行列ができている。同じ銀行の別の店に金を振り込んでも手数料が取られる。海外での活躍もほとんど聞かない。金融危機を教訓とした合理化を否定しませんが、規模が大きくなったのにサービスが低下している現状はおかしい」

 「メガバンクが北海道などの地方都市に営業攻勢をかけ、信金と客を奪い合っているのも問題です。メガバンクは地域の金融機関を追い込むために経営規模を拡大したわけではない。もっと国民の期待に応える事業を進めてほしい。それが拓銀破たんという痛みを無駄にしないことだと思うのです」

 以上である。残念ながら、米国のサブプライムローンに関する言及はなかった。

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2008年9月13日 (土)

書評「対論 部落問題」組坂繁之、高山文彦著

 平凡社新書、2008年9月16日初版第1刷、定価756円。

対論部落問題 (平凡社新書 434) 対論部落問題 (平凡社新書 434)

著者:組坂 繁之,高山 文彦
販売元:平凡社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 <部落解放同盟トップリーダーの組坂氏と「水平記――松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年」や「エレクトラ――中上健次の生涯」といった破壊力のある作品を生み出してきた作家の高山氏が戦後の部落解放運動を検討し、あるべき今後のあり方を語り合った一冊>と出版社による宣伝文書にあった。

 <部落差別とは何か。人はなぜ差別をするのか――。同和対策事業特別措置法の廃止から数年が経ち、解放運動は今、大きな曲がり角を迎えている。運動の再構築を図る部落解放同盟の指導者と、人間存在の根源をみつけてきた作家が、差別の本質に向き合い、運動のこれからを語る。未だ残る部落差別に向き合うために、全国民必読の書!>というのが、表紙裏の宣伝文句。

 本の著者紹介によると、組坂繁之氏は1943(昭和18)年2月25日福岡県小郡市生まれ。大学卒業後、27歳で部落解放運動に入る。部落解放同盟福岡県連合会書記長、中央本部書記長を経て、98年に中央本部執行委員長に就任。2008年で5期11年目に入った。ほかに、世界人権宣言中央実行委員会副実行委員長、部落解放全国共闘会議議長、折尾愛真短期大学講師(非常勤)などを歴任。

 高山文彦氏は1958年宮崎県高千穂生まれ。2000年、「火花――北条民雄の生涯」(飛鳥新社、角川文庫)で大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞を受賞。2008年、高千穂あまてらす鉄道株式会社代表取締役社長に就任。著書に「『少年A』14歳の正三」「水平記」(ともに新潮文庫)、「鬼降る森」(幻戯書房)、「エレクトラ」(文藝春秋)など、最新刊に「孤児たちの城」(新潮社)がある。

 最初、あまり読みたくなかった。いつもの部落解放ものなのか、「差別はいけない」と頭ごなしに説教を垂れる形の本なのか。そんな本など読みたくない、と思っていた。

 韓国の内政・人々の暮らしを紹介する本や、在日韓国人に関する本が昔、そうだった。

 麻布十番長坂交差点から川沿いに南に歩くと、二の橋か何かの橋の近くにあった大きなビルは昔、韓国大使館だったこともあるビルで、その当時は在日韓国居留民団の本部になっており(今でもそうかもしれないが、最近は行ってないので分からない)、当時、在日朝鮮・韓国人問題に興味を持っていたので、ビルを訪ねたことがあった。書籍がそろっていた部屋でいろいろと本や雑誌を見たのだが、皆同じ内容で、日本政府に選挙権を求めたり、法的地位に関する要望が前面に出された本がいろいろとあったのを覚えている。

 「ああ、権利要求ばっかりか」というのが、その時の感想だった。

 がっかりした。

 当時は1988年のソウル五輪はまだまだ先の話で、煙も立っていなかった。

 日本との格差はものすごく、韓国観光といえば男性によるキーセン観光が流行しており、日本の女性たちにとって韓国ときけば、男性天国、キーセン売春など汚らわしい印象がこびりついていた時代だった。

 そんな中でも韓国は高度経済成長を続け、ソウル市民は軍事政権の下ではあるが、少しずつ豊かな生活を楽しみ始め、日本にお追いつけるかもしれないという希望を上流層の一部だけでも抱き始めた頃だったと思う。

 そのような時代の息吹が民団で見た本には感じられなかった。

 それだけではなく、帰還船で在日朝鮮人が北朝鮮に帰っていった、その欺瞞を正面から突いた本もなかった。

 力道山や大山倍達ら在日韓国人の有名人に関する本もなく、すべてが在日朝鮮人の苦しみに関する本だけ。「苦しみだけじゃあないだろう。駅前の一等地を買い占めてパチンコ屋やサウナやキャバレーをやっている在日は可哀相なのか」とものすごい違和感があったのだ。

 実態を無視して理念だけを大声で叫ぶと、実態との解離が生じて、言葉が空しくなる。

 同じことは部落問題にも言えた。

 部落問題と聞いて思い出すのは白土三平の一連のサンカ漫画だ。サンカと被差別部落は違うかもしれないが、白土は天皇権力、武士権力と普通の人々、それも稲を栽培する農民と、それ以外の非農民など、あたかもマルクスの階級闘争史観のように非人の生活ぶりが図式のようではあるが、それなりに生き生きと描かれていた。

 それだけでなく、当時は、白土漫画の意味について朝日ジャーナルなどで評論家や学者が熱く語っていた時代だった。

 被差別部落問題も当時は実態を詳しく観察せずに、理念重視で「けしからん」と怒ったり、差別の不合理を嘆いたりしていた時代だったのではないか、と思う。

 しかし、僕らの世代は全共闘でゲバ棒を振り回した連中もいたが、翌月にはケロリとして就職試験を受けて一流企業に入っていたっけ。怒るといっても、怒る「ごっこ」を楽しんだんじゃないか、とあの時代の「いい加減さ」について今になって思うところもある。

 白土三平の一連のサンカ漫画を「ガロ」で見ながら、中世・近世の非農耕民の生き方はこんなものだろう、と想像した私にはリアルな「部落」への差別意識はない。

 私は東京で生まれ育ち、誰が部落出身なのか、どこが「部落」の地域なのか、に関する知識が全くない。日常的に部落差別をしたこともないし、具体的に想像できないのだ。

 関西や九州の部落差別の話を聞くとひどいことをするやつがいるなあ、と思う。

 逆に、部落解放同盟が行政での優遇を悪用して税金を騙し取っているというニュースを見れば、「解放同盟ってきれいごとを言っているけど、実態は利権集団ではないのか」と思ったり、まあ、そうではないことは知ってはいるのだが、そうも思いたくなる世相に嫌になる、という軽い人間だ。組織の関係者や非差別の当事者から見れば、ミーちゃんは―チャンの部類に入るだろう。

 この本は部落解放同盟の現職委員長と、部落解放運動の父と言われた松本治一郎の伝記を書いた作家の対談だから「結局は『部落解放同盟頑張れ』で終わるのではないか、宣伝用の文章を平凡社ともあろう出版社がよく出したなあ」と思ったくらいだった。だから、最初は読むつもりはなかった。

 読もうと思ったのは、<未だ残る部落差別に向き合うために、全国民必読の書!>と赤い大きな字で表紙裏に大書してあったからだ。

 単純な奴と思われるかもしれないが、「そうか、全国民必読の書と書いてあるのならば、読んでやろうじゃないか。それで下らない本だったら読者カードで文句を書いてやろう」くらいの気持ちで読み始めたである。

 組坂氏が生まれた小郡市の家の近くに太刀洗飛行場がり、1945年に爆撃を受けた。当時、太刀洗飛行場には航空廠があり、それから特攻機地の鹿児島県・鹿屋基地に行ったりしており、巨人軍の青田昇氏も太刀洗にいた、という。

 そういう時代の人が一方にいて、一方は僕よりも若い人である。

 話がかみ合わない部分も多かったし、対話の醍醐味である火花を散らす言葉が、思いもかけない深い洞察を生むという言霊の作用も見えなかったのは残念だった。

 「おわりに」で組坂氏が書いていたが、松本冶一郎を研究して伝記を書いたノンフィクション作家と話すことに躊躇したそうだ。松本氏という理想形を知っている人は当然、対談相手を松本氏と比較して見るから、今時点の組織や組坂氏の欠点ばかり見られるのではないか、と思ったらしい。それでも話し合って良かった、と思っている、と書いてあった。

 いくつか新しい知識は得られたが、それだけのことだった。残念だったのは、最近の国会で廃案になったり継続審議になっている人権擁護法案について対談で全く触れていなかったことだ。

 今最もホットな問題は人権擁護法案ではないのか。なぜ触れなかったのか?それとも、部落解放同盟が言う「人権」と、この「人権」とは関係がないのか? 人権という概念自体、欧米中心主義がもたらした「人間」概念から出ている日本国憲法で保障されている。「人権」「基本的人権」は、お二人が使っている意味以上に深く遡って考えるべきだろう。

 インドの仏教は少数派だが、ほとんどがアンタッチャブル=不可触賎民=アウトカーストだ、とは知らなかった。

 江戸時代、被差別部落民は「上見て暮らすな、下見て暮らせ」の鎮め石の役割を受け持ち、同時に百姓、町人の犯罪者の逮捕、護送、拷問、処刑など下級警察の役割も部落民に課していた。弱いもの同士をいがみ合わせるという分裂政策。あの時代は強引に取り締まるので、恨みは部落民に向かった。特にひどかったのが長崎の隠れキリシタン弾圧に部落民が使われたこと。隠れキリシタンの逮捕、拷問、それもすさまじい拷問を被差別部落の人々にやらせていた。黒瀬曻次郎「切腹」は島原の乱鎮圧後に初代の代官となった鈴木重成を主人公にした小説だが、鈴木は隠れキリシタンを単に弾圧したのではだめだ、と考え、坊さんだった兄の鈴木正三を領地に招く。感謝した人たちが正三神社を作った。鈴木重成は幕府に年貢の引き下げを直訴する。島原の乱というのは単なるキリシタン一揆ではなく、当時の藩主・松倉勝家農民からものすごく搾取したものだから、それに対する一揆でもあった。幕府に申告した石高は実際の収穫の倍以上だったとも言われている。だから、農民に対する収奪も激しくて、空に困って娘を遊郭に売らなければならないような、もう本当に苛斂誅求という状態で、それに耐えかねてキリシタンになって一揆に加わったという人もたくさんいたわけです。そうした事情を知った鈴木重成は2回江戸に直訴するが、幕府は石高を下げることを許可しない。最後の3回目に鈴木重成は江戸の自宅で諫死する。願いを聞き入れてもらうために切腹して、農民を救おうとした。素晴らしい人ですよ。また、この人は転びキリシタンの娘さんを嫁にもらう。転びキリシタンですから顔を焼かれて髪まで焼かれて、化r打中やけどだらけだったそうですが、その女性を嫁さんにするわけです。すごい人です。後に奉られるだけの人ではあったんですね。(組坂)

 だから、長崎では隠れキリシタンと被差別部落の人とはずっと仲が悪かった。(高山)

 長崎市長を4期務めた本島等さんが狙撃される少し前に部落解放同盟九州地方協議会主催の全九州研究集会を長崎でやった。そのとき、本島市長に講演してもらったら、彼はキリシタンで、明治政府が廃仏毀釈でキリシタン弾圧をしたときに、お祖父さんがやっぱり拷問を受けていて、片方の足が不自由だったらしいのです。自分の祖先がそういう弾圧の被害を受けたから、私にも差別問題を語る資格があると言われ、原爆や平和のことなどいろいろ話してもらいました。とても感動的な内容でした。そんなこともあり、最近はキリシタンの人たちとの関係もとてもよくなってきました。(組坂)

 大逆事件では熊野の新宮というところの一つの被差別部落が事件の舞台になりました。浄泉寺という大谷派の寺の住職、高木顕明が逮捕され、実刑になったわけですが、この方は新宮の部落のほとんどを檀家として見ておられた。貧しい人たちがどぶさらいや鼻緒のすげかえなどで稼いだ金の中から寄進してくれるので、彼は按摩を習って、それでお返ししようとしていた。その浄泉寺で談話会が催され、そこに幸徳秋水が着たり、大石誠之助が来たりしていたわけです。高木自信も「余が社会主義」という文章を書いていますが、彼は徹底した非暴力主義者なんですね。それでも天皇暗殺計画に加わったとして逮捕され、新宮の部落外の人々から石もて追われ、最後は恩赦が下って無期懲役となった。秋田監獄に移されたわけですが、奥さんがはるばる秋田まで訪ねてきて、このままではとても暮らしていけないので、とうとう娘を芸者置屋に身売りしたとなきながら言う。その後、高木顕明は絶望し、首をくくって死ぬんです。僕は「狂死」だと思うんですが、そういう悲劇が、中上健次が言うところの「路地」を舞台に起きている。(高山)

 被差別部落には浄土真宗信者が多い。

 「鼠浄土」「舌切り雀」は貧者が富者となる話。「竹取物語」は隼人の恨み節。隼人族のように中央の大和民族に滅ぼされた者、あるいは選民階級の差別されてきた者たちが日本の文化、伝承、芸能を作り上げてきたんでしょう。かぶき踊りの創始者、出雲阿国もそうですし、能の世阿弥なども中世賎民といわれている。(高山)

 この本の[注釈]は役立つ。特に人名事典的な内容は良かった。知っておくほうがいい人のファイルなどを写しておく。 

 上杉佐一郎(うえすぎ・さいちろう 1919~1996年)福岡県生まれ。1948年から部落解放運動に参加。63年に部落解放同盟中央執行委員、68年同書記長、82年中央執行委員長に就任、死去までその地位にあった。88年には「反差別国際運動」(IMADR)を組織して理事長を務めた。92年小郡市名誉市民。

 松本治一郎(まつもと・じいちろう 1887~1966年)福岡県生まれ。「解放の父」と呼ばれ「不可侵不可被侵」(侵さず侵されず)を心情とした部落解放運動家。戦前・戦後を通じて国会議員としても活動し、初代参院副議長。1922年3月、全国水平社が結成されると、その呼びかけに応じて運動を起こし、25年の全国水平社第4回大会で議長に就任。千円、2度にわたるでっち上げ事件(徳川公爵位辞退勧告闘争での暗殺未遂、福岡連隊爆破陰謀事件)によって、懲役刑を受ける。戦後は46年2月の部落解全国委員会(55年に部落解放同盟と改称)の結成以来、委員長を務め、最期までその地位にあった。世界の水平運動を提唱し、アジア・アフリカの被抑圧人民の解放にも尽力、日中友好協会の初代会長を務めるなど国際的にも活躍した。「社会運動派万年被告の覚悟でやれ」「命より長い刑期はない」が座右の銘。1948年1月、参議院副議長だった松本は通常国会開会式に臨席の天皇に対し、「カニの横ばい」式の拝謁を拒否、世間の耳目を集めた。この横ばい式拝謁は天皇に横顔を見せることを不敬とした旧憲法下帝国議会以来の慣習だったが、次の国会から改められた。

 楢崎弥之助(ならざき・やのすけ 1920~)福岡県生まれ。松本冶一郎の秘書を経て1960年の総選挙で福岡1区から衆院に初当選(左派社会党)。1977年に社会党を離党、翌年江田五月らと社会民主連合を結成し、初代書記長、副代表を歴任。安保・防衛問題などで爆弾質問で売り出し、「国会の爆弾男」の異名を取った。1996年に政界引退した。

 この本では事業法を推し進めようとした上杉佐一郎氏が松本冶一郎氏に相談に行ったら「事業法は解放運動を堕落させるから求めるな」と強く言われた、という。上杉は被差別部落を取り巻く環境の劣悪さを強調して必死に説得した、と。楢崎氏は著書に中で松本氏が「事業法は大きなカネが動くから利権や腐敗が必ず起きる。宣言法のような基本法でもいいのではないか」と言って、相当抵抗したとして、「そのときの上杉サアちゃんは鬼気迫るような表情で涙ながらに訴えた」と書いているという。それが最終的に松本氏を動かし「そのかわり変なことにはならないようにせいよ」と言われ、上杉委員長も「利権腐敗が起こらないようにするから」と約束して法案にゴーサインを出した、という。特別措置法が成立する前に松本冶一郎は死去した。

 中上健次(なかがみ・けんじ 1946~1992年)和歌山県生まれ。小説家。被差別部落という出自に向き合い、独自の世界を築いた。1975年発表の「岬」で芥川賞を受賞。

 西山廣喜(にしやま・こうき 1923~2005年)宮崎県生まれ。戦後、松本冶一郎の下で日本社会党結成に参画するが。1961年、右翼団体昭和維新連盟を結成する。右翼シンクタンク「日本政治文化研究所」の理事を務めるなど、裏から政財界に睨みを利かせ「最後のフィクサー」と呼ばれた。母が大逆事件に連座した大石誠之助(死刑執行される)の従姉妹で親戚同然の付き合い。また、大杉栄と伊藤野枝の遺児、伊藤ルイさんの面倒も見ている。伊藤野枝の実家が福岡で、玄洋社の代準介が甘粕正彦に会って残された遺児を福岡に連れて帰る。代は野枝の叔父になる。

 朝田善之助(あさだ・ぜんのすけ 1902~1983年)京都府生まれ。1922年3月の全国水平社創立大会に参加以後、解放運動に入る。1931年、「全水解消意見」を発表し、運動に衝撃を与えた。戦時中、松本冶一郎ら主流に対立し、水平社内の旧共産派と国策協力運動を企て、1940年に除名。戦後は解放運動再構築の中心となり「差別の本質」「差別の社会的存在意義」「社会意識としての差別観念」を解放同盟全国大会の議を経て定式化市し、朝田理論を確立した。67年から75年に中央執行委員長を務めた。30年代初頭の水平社解消運動は絶望から来る松本への裏切り行動だったが、これを先導したのが朝田だった。全国の水平社組織では荊冠旗(水平社旗)を焼く動きが強まり、福岡も焼かれそうになったときに、松本が金庫にしまって防いだが、この焼く勢力の中心が朝田。近衛体制ができて、みな「バスに乗り遅れるな」と一斉に体制翼賛運動に馳せ参じた中の解放同盟版。

 とまあ、<部落解放同盟のトップと大宅賞作家がすべてを語る!>の帯にしては不満が残る内容だった、というのが結論。

 入門書、基本書のつもりならば、基礎知識をもう少し入れてほしかった。歴史的事実を補強しながら、具体性も持たせて書いてほしかった。「現状を斬る」という趣向なら、同和不正の分析や人権擁護法案への対応をきちんと書いてほしかった。その意味でちょっと中途半端だったと思うが、読めばそれなりにためになる本だと思う。

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2008年9月 6日 (土)

書評 竹内宏著「エコノミストたちの栄光と挫折~路地裏の経済学 最終章」

 東洋経済新報社、2008年9月4日発行、定価2100円。

エコノミストたちの栄光と挫折 ─路地裏の経済学・最終章─ エコノミストたちの栄光と挫折 ─路地裏の経済学・最終章─

著者:竹内 宏
販売元:東洋経済新報社
Amazon.co.jpで詳細を確認する


 著者紹介によると竹内宏氏は1930年生まれ、静岡県清水市出身。東京大学経済学部卒業。日本長期信用銀行入社、同行専務取締役・調査部長、長銀総合研究所理事長などを経て、現在、竹内経済工房を主宰。この間、東京大学、武蔵大学、学習院大学、法政大学講師、静岡文化芸術大学特任教授を歴任。また、現在は静岡総合研究機構理事長、静岡新聞論説委員、価値総合研究所特別顧問としても活躍中。「路地裏の経済学」「路地裏の経済学 続」「国際版路地裏の経済学」「路地裏の中国経済」「各県別路地裏の経済学(全6冊)」「柔構造の日本経済」など、著書は80冊を超える。
 半世紀以上もエコノミストとして生活してきた著者によるちょっと風変わりな回想録で、自分を含めたエコノミストや学者、政治家、官僚がその時々の経済をどう見て、どう対応してきたのか、を数多くのエコノミストを登場させて描く経済人脈地図でもある。「えっ、あの人も昔、長銀調査部だったのか」という驚きがいたるところにあるのは私が素人だからだが、玄人が読めばもっと面白いだろう。
 ただ、残念なのは長銀が破綻し、無残に潰れる場面こそ日本経済のドラマのクライマックスなのだが、その当時、竹内氏はいわばあまりにも当事者であり過ぎたのか、逆に長銀本体からの情報途絶地点に隔離されていたせいか、バブル崩壊から金融破たんに至るダイナミックな動きの説明が少なかったのが意外だった。
 誰かに遠慮している、というわけではないことは、長銀企画部長として1989年に第6次長期経営計画をマッキンゼーに丸投げして作成し、無理やり投資銀行への変身を図ろうとした水上萬里夫氏が国際本部長に昇進し、その後、副総裁に昇進して、1993年には長銀総研の2代目社長に就任し、50人以上の大部隊である産業調査の研究員をアナリストに変えようとした。産業だけでなく企業ベースの調査もやれ、ということで、またまた波紋を呼んでいたところ、本体が崩れてゆき、最後には竹内氏すら月給10万円になっていまい、倒産したという。どうも、竹内氏の文章を読んだ限りでは、この企画部長経験者が長銀破綻の犯人の1人であることは間違いないようだ。
 そこまで個人名を挙げて糾弾しているのだから、バブルの発生と消滅に関してもう少し突っ込んだ分析が読みたかった、というのが偽らざる本心だ。
 バブル経済の発生についても日銀が金利水準を低い水準のままにした大きな原因はアメリカ経済への気の使い過ぎがあったことを批判するのではなかったのか、と思うのだが、その部分が薄い。
 この本の趣旨が戦後のエコノミストの活躍ぶりを描く、ということなので、仕方ない部分もあるが、逆に言えば、歯に衣着せずに物を言える竹内氏だから期待していたのだが。
 通読して一番面白かったのが最初の部分だった。
 戦後日本がどのように復興していくのか、の過程だ。
第1期 ルーツを探る(1945~49)
 第1章 エリートの温存(日本の解体、懺悔した人、活気付いた人、待機していたエリート、マル経と近経の協力)
 第2章 エコノミストの花開く(銀行救済の預金封鎖、軍需銀行・興銀の復活、吉田茂の学者好み、ケインジニアン石橋湛山、有沢広巳の仲間たち、新進エコノミストの群れ、ドッジの夢崩れる)
第2期 夢が広がる(1950~60)
 第3章 新しい国策銀行(興銀の統制経済論、長信銀の生存メカニズム、長銀に就職する)
 第4章 長銀・調査部の発足(屋根裏部屋、素人調査部、過大なノルマ、敗戦国日本の強さ、工場の現場、塩漬け組)
 第5章 新しい経済学に挑む(技術革新、単行本の生産、計量モデルに突き進む、産業組織論を学ぶ、玄人の興銀、素人の長銀、通産省担当)
 という部分である。
 どぎつい事実も出てくる。
 大蔵省の中核職員は徴兵を免れた。宮沢元首相は召集されたが、翌日解除になった。死ぬと国家にとってマイナスになる人は徴兵されなかった。一流学者も徴兵されなかった、という記述なども知る人ぞ知るだろうが、私は明示的には知らなかった。
 興銀は戦争責任を問われるべき国策銀行であり、かつ破綻寸前であったにもかかわらず、日本経済の再建を担う最も重要な産業銀行として再生する道が開けた。興銀スタッフの産業機関についても戦前と戦後が見事に連結した。
 <社会党の片山哲首相の内閣が1947年に発足した。国民が飢え、経済が危機にあるから、とにかく基礎物資の供給量を増やさなければならなかった。石炭、鉄鋼の次には米の生産量を増やすために肥料が必要であり、肥料の生産には電力がいる。片山内閣は、経済計画に力を入れた。経済計画の拠点は経済安定本部(安本)だった。GHQは政府の各省に分散していた経済行政を1ヵ所に集中して権限の強化を求めた。片山内閣は早速10の局からなる職員数2000人の巨大組織、経済安定本部を作った。>
 <経済安定本部は物資、資金、物価、労働に関する総合計画を立て、生産資材や食料の配給、物価政策の策定など、経済計画を企画・実施し、日本経済の生死を握る重要な官庁だった。民間企業、満鉄調査部、官庁、学会から一流の人材が集められた。大内兵衛、有沢広巳、中山伊知郎などの学者が教え子に働きかけたという。メンバーはまばゆいばかりの顔ぶれだ。戦時中に国内に温存されたエリートが総動員され、それに海外からの引き揚げ組が加わった。>
 として、和田博雄長官、勝間田清一秘書官。局長、課長クラスが都留重人、永野重雄、稲葉秀三、下村治、大川一司、工藤昭四郎、大来佐武郎、ヒラ職員には後藤誉之助、平田敬一郎、谷村裕、小倉武一、向坂正男、宍戸寿雄、宮崎勇、矢野智雄、宮下武平、小島英敏、小島正興。メンバーは若かった。トップの和田が45歳。稲葉、都留がそれぞれ40歳と35歳。大来は32歳。その他の大部分のメンバーは20代だった、という。
 <明治政府が発足した時のような若々しさだ。明治政府の中軸を担った人材は、松下村塾と薩摩藩の下加治屋町・郷中から出た。前者の代表は伊藤博文、山県有朋、前原一誠であり、後者の代表は西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎である。彼らは小さな町内で一斉に育った。安本はその町内に似ている。危機意識とナショナリズムに燃えているグループの中にいると人間は育つのである>
 ここに最も感動した。
 この34ページは、これに続く部分もいい文章だ。
 若い人材が日本を築く。
 どうして今の日本ではこれができないのだろう。
 小沢一郎という人はもう67歳とかになってしまった。昔に比べて性格が丸くなり、凄みが消えたので、日本をどこまで改革できるのか、あまり期待そうもない、とも思うのだが、実は小沢氏が15年ほど前に首相になっていれば、この竹内氏の本のように若い人たちによる革命が起きたかもしれない。
 今は他に期待できる人はいないのではないか。
 知らないだけなのかもしれないが。
 長銀破綻に至る経緯は組織の肥大化と風通しの悪さだけでなく、上昇志向の強い権力亡者が組織内の知恵者に相談することなく、突っ走ったせいだった。今の日本の官僚システム、官僚と業界の癒着関係は大鉈を振るわなければ断ち切れない。
 明治維新と戦後の維新と平成の維新。やっぱり小沢なのか? 他に人はいないのだろうか?

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2008年8月16日 (土)

読売新聞橋本五郎コラム<岩倉使節団に学ぶ>

 読売新聞8月16日付朝刊解説面コラム[五郎ワールド]で橋本五郎特別編集委員は<岩倉使節団に学ぶ/英名を四方に宣揚せよ>の見出しで、グローバル化の大波に洗われ、方向性を見失っている今こそ、明治創業期の誇り高い日本人たちからサムライマインド、勇気、知恵を学ばなければならない、と訴えていた。

 右大臣岩倉具視を特命全権大使に、副使に木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら維新新政府の実力者が名を連ねた明治維新期の岩倉使節団。1年9カ月にわたって欧米12カ国を視察した前代未聞の大使節団のことを泉三郎さんが「誇り高き日本人」(PHP)としてまとめ、出版した、という。橋本氏によると、泉さんは三十数年前から「米欧回覧実記」の魅力に取り付かれ、「実記を読む会」を重ねる一方、8年の歳月をかけて使節団がたどった道を踏破した、という。「誇り高き日本人」は使節団研究の決定版だ、と橋本氏が折り紙をつけ、「本書を読んでいると、歴史に学ぶことがいかに必要か痛感される」と書く。

 コラムでは泉氏の本の中に紹介された使節団員の言葉、欧米の新聞の報道ぶりなどを引用し、いかに誇りにあふれた使節団だったか、を教えてくれている。そして、最初に書いた「グローバル……」は本の中の泉さんの言葉だそうだ。

 橋本氏が使節団を思い出したのは福田康夫首相による内閣改造翌日早朝、軽井沢に中曽根康弘元首相を訪ね、内閣改造についてインタビューした際だった、という。

 中曽根氏の手元にはびっしり書き込まれたメモが置かれ「私もどうしても言いたいことがありました」と迎え入れてくれた、と。

 8月4日に「各紙世論調査結果数字の違い」について書いた際に、橋本五郎さんが行った中曽根康弘インタビューにも触れたと思う。中曽根氏が内閣改造後2週間か1カ月以内に衆院を解散せよ、と主張したことに驚き、「これは中曽根氏が読売の世論調査結果を見て考えたことなのか、他紙の、特に朝日や毎日の支持率が上がっていない調査結果を見たら、中曽根発言は果してあのままだっただろうか」と疑問を呈した。

 今回の橋本コラムはその疑問に答える内容だった。

 中曽根氏は、橋本氏がインタビューを申し込んだ時から準備を開始し、すでに回答内容は決まっていたこと、インタビューは内閣改造翌朝に行われ、まだ各社が調査を行っている最中だったことが分かったのだ。

 ということは、中曽根氏は福田内閣の支持率急上昇という数字を知らずに、自分で考え抜いて、早期解散を勧めていたことになる。

 橋本氏はコラムでこう書いている。

 <今度のインタビューで中曽根氏が強調したのは、日本は今、転落するかどうかの縁に立っている。首相は乾坤一擲、総力を結集して悲観論を一掃し、転落を防止しなければならない。そのためには、改造後、2週間から1カ月以内に衆院を解散せよということだった。

 新しい陣容で実績を上げてから解散というのが与党の通常の発想である。それではだめだ。

 「オレの内閣の顔ぶれを見てくれ」という気概がなくてどうするというのである。

 日米関係についても、米大統領選の行方に手をこまぬいているのではなく、優秀な対日関係スタッフを付けるよう、日本側から大統領候補に働きかけるぐらいの戦略的発想がなければならないと激を飛ばす。

 福田内閣のキャッチフレーズである「希望と安心」についても、消極的過ぎる、国民はその程度の言葉に打たれない。非常時に立ち向かう断固とした意思こそ示すべきだという。90歳と思えぬ気迫に圧倒された。>

 <国の行く末に責任を持つ政治家の気概を考えていて、>

 岩倉使節団のことを思ったのだ。

 そうか。もしかしたら、中曽根氏は内閣改造をする、と聞いた瞬間から、改造後の顔ぶれを見る前から、この早期解散論を固めていたのかもしれない。

 この早期解散論は非常に戦術的に有効なのだ。戦争は必ず仮想敵国があり、今回の福田自民党の仮想敵国は言うまでもなく民主党、小沢一郎党首の民主党である。民主党が秋の党大会、代表選挙をこなした後で解散するのか、今、自分の陣営だけ体制を整えて、相手がまだ武装を解いている状態の時に戦闘を始めるか。どちかが有利か、言うまでもないだろう。

 小沢氏らが「だまし討ちだ」と非難したとしても、メディアはそんな言い分を大きくは取り上げず、「政権交代か、自民中心の連立維持か」と煽り立てるだろうし、世論は総選挙一色になる。もしかしたら、社会保険庁の失点が消されるような大きな争点を中曽根氏は考えていたのかもしれない。

 高邁な理念、理想を掲げながらあくまで獰猛な肉食動物の本能を剥き出しにして相手に襲い掛かり、完膚なきまでに粉砕する。政治家はその両面ができなければ一人前ではないのだよ、と90歳の大勲位は若い(といっても、福田首相は世間で言えば若くはないが)政治家に諭しているようにも見える中曽根発言だった。

 これで疑問が一つ解けた。

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2008年8月15日 (金)

星野智幸氏「自殺という戦争」と8・15の戦没者310万人~東京新聞夕刊から

 東京新聞8月15日夕刊1面コラム[放射線]で作家の星野智幸氏が<自殺という戦争>というタイトルで書いていた。書き出しは次のような文章である。

 <終戦の日がお盆のさなかにあることにはいつも、巨大な追悼の意思が働いているような不思議な感慨を覚える。だが、近年は「終戦」という言葉が少し空しく感じられる。確かに爆撃などはないけれど、本当に平和なら、どうして年間3万人以上もの一般人が、自殺していくのだろうか。>

 63回目の終戦記念日。日本武道館では政府主催の全国戦没者追悼式が天皇、皇后両陛下をはじめ各界の代表や遺族ら約5700人が参列して行われた8月15日のコラムに「自殺」を持ってくるのは相当、自分自身にプレッシャーがかかったのではないか、と想像するのだが、星野氏は自殺者数を計算する。

 <10年連続で3万人超、合計30万人が自ら命を絶っている。一つの都市が消えたようなものだ。自殺志願者や未遂者を含めると、数は10倍にのぼるとも言われる。つまり、少なくとも300万人以上が死の瀬戸際まで追いつめられている社会なのだ。>

 星野さんの周囲ではこの5年で4人もの知人を自殺で失った、と書き、

 <自殺者の苦しみは、周囲の者に受け渡される。私は、戦時中に生き残った人が死者にやましさを覚える気持ちを、少し理解できるようになった。この感情は、死者が返らない以上、消えることはない。>

 と。この部分は戦没者の関係者らから反発を受ける部分なのではないか、と思うのだが、星野氏はあえて書き続ける。

 <300万人が、生きづらい社会から自らを消す代わりに、自分を追いつめた社会を壊す、つまり他人を破壊しようとしたら、どうなるか。その兆候は、無差別殺人の増加という形で現れている。現状ではこの傾向は強まるばかりだ。>

 そして、結びの文章は次のようになっている。

 <死者を追悼するとは、その苦しみを理解しようと努めることだ。今年のお盆には、身近で自殺した者たちの、表明されなかった言葉に耳を澄まそうと思う。>

 さあ、どう考えるか。

 自殺者年間3万人という異常事態が10年続いている、というニュースをテレビで見て、新聞で読んでもこのようなインパクトは受けないだろう。「何? 30万人都市が10年間で消えたのか」と改めて知らされることの重さ。考えるきっかけをくれたことは非常に有難いことだと思う。そして、自殺未遂者、自殺志願者まで視野に入れて、合計で300万人という数字を提示された時、自殺問題は単なる「他人の問題」から、日本社会の大きな問題に質的転換をきたすだろう。

 その想像力には「さすがに作家だ」と感心する。

 でも、「しかし」と思うのだ。

 日中戦争と第二次世界大戦の日本の軍人・軍属約230万人と民間人約80万人、合計約310万人といわれる戦没者の「死」と10年間の自殺者の「死」を同じ「死」だから、と同一レベルで論じていいのか? という根本問題があるように思うのだ。

 星野氏の考え方を延長すると、「戦争はまだ終わっていない」という主張に連なるかもしれないし、すべてを国家や社会の責任とする考え方に収斂されかねないのではないか、というおそれを感じるのだ。

 佐藤卓己・京大大学院准教授が様々な書物や論文で言っているように、8.15にすべてを収斂させることの意味合いはまた別に考えなければならないし、お盆と終戦の日を合致させた意味もまた別に考えるべきだろう。

 つまり、死者を追悼する、という「生者と死者」の一般的な哲学的関係論は戦争の死者という特殊な死者の問題とは別に論じるべきではないか、と思うのだ。

 まあ、目くじら立てることではないのだが、こうした論理の迷路のような話しぶりが沸騰していくと、思わぬところに議論が行きかねないので、一応は指摘しておこう。

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2008年8月11日 (月)

森山良子さんの父はサンフランシスコ生まれの日系2世

 8月10日朝日新聞朝刊教育面連載[おやじのせなか]は歌手、森山良子さんが日本ジャズ界草分けの父、森山久氏を語っていた。1967年の「この広い野原いっぱい」のデビュー以来、森山のファンだが、父親については全く知らなかった。

 1910年サンフランシスコ生まれの日系2世で、23歳の時(1943年?)にトランペットを持って船に乗り、日本へ仕事に来て、終戦の翌年、一つ年上の兄が生まれた。そのころ、父はトランペットを吹くかたわら、米兵の通訳をしており、東京ローズの裁判にもかかわり、証言もしている、と。

 面白いのは、そういうことを森山が知ったのは10年ほど前、父が亡くなって後だった、というところだろう。

 「あったかくて、包容力がありました。私にはいつも『良子の好きなように、自分の思った通りにしなさい』と。ただ、歌に関してはしつこいくらい注意されました。小学校の時、コニー・フランシスが流行っていました。歌ってると父が『ハニー・カムヒア』って呼ぶんです。LとR、BとVを正しく発音できるまで言わされました。怒らないけど『違う。もう一回』『そうそう、その調子』って正しくできるまで何度も。でも、できた時はうれしい。『オーケー』とか『そうそう』って言われるのがうれしくて。」

 家にはいつも78回転のレコードやFENの音楽番組で、古き良き時代のアメリカの音楽が流れ、兄が23歳で亡くなった時にはあまりに衝撃が強くて白髪がいっぺんに増え片耳が聞こえなくなったこと、がんを患っても最期までユーモアを忘れなかったこと、亡くなって18年、いまでも父のDNAを受け継いでいるなって日々感じている、と。愉しいことが好き、お酒が好き、前向きで楽天的だsったが、それは2世特有のたくましさかな、と思う、と。

 「二つの祖国に揺れる心情を父は話さなかったけど」

 が結びの言葉である。

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 戦後の日本音楽が2世たちのジャズから始まった、とはよく聞く話だったが、1967年にデビューした森山のDNAがまさにこの戦後2世のDNAだったとは。そう分かると、何か森山の歌がより理解できる感じがする。心のこもったいい文章だ。

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2008年8月10日 (日)

<東京から北京、「戦後」の終わり>~日経新聞2面コラム

 北京五輪に関するコラムは初日の日経新聞社会面の大型コラムを褒めたが、別の意味で日経新聞10日朝刊2面コラム[風見鶏]の中沢克二政治部次長の<東京から北京、「戦後」の終わり>と題したコラムは考えさせる内容だった。

 「アジアで初のオリンピックである1964年の東京五輪。ジェット機が大空に五色の雲の輪を描く華やかな開会式の映像が、日本の戦後復興の様子とともに世界に流れてから6日後、中国・新彊で不気味な雲が昇った。中華人民共和国はアジア唯一の核保有を宣言し、東京五輪に対抗した。」

 44年前のこと、忘れていた。そういうことだったんだなあ。

 「戦後19年。東京に向けてアジアを走り抜けた聖火は、先の戦争に絡み複雑な対日感情が残る地に、平和国家日本の戦後の歩みを印象付けた。ラングーン、バンコク、クアラルンプール、マニラ、香港、台北……。ただ、肝心の中国大陸は迂回する。」

 五輪と政治。東京新聞9日夕刊1面コラム[放射線]で酒井啓子・東京外語大大学院教授が書いていたことも思い出す。酒井氏は64年の東京五輪2年前に行われたインドネシアでのアジア競技大会でインドネシア政府がイスラエルの参加を拒否したため、IOCがインドネシアの五輪参加資格を停止したため、同じく反イスラエル姿勢を取るアラブ諸国の多くが五輪ボイコットを表明し、最終的にはボイコットは回避されたが、パレスチナ問題が影を落とした大会になった、と書いていた。

 さらに酒井氏によると、1972年ミュンヘン五輪は1967年の第3次中東戦争でアラブ側が大敗し、70年にはヨルダン政府がパレスチナゲリラを弾圧するという緊張のさ中の大会で、パレスチナゲリラがイスラエル選手村を襲撃。1980年のモスクワ五輪は前年のソ連軍のアフガン侵攻で西側諸国がボイコット。次の1984年ロサンゼルス五輪はソ連、東欧諸国がボイコットし、1988年のソウル五輪でようたく東西両陣営がそろって参加した。90年代の五輪ではソ連崩壊やユーゴ内戦で旧社会主義国の選手の凋落が目立った、という。

 このような外国のことは覚えていたのだが、肝心の日本の五輪について何故このように忘れているのだろうか?

 「10年ぶりに中国トップが来日した今年5月。『国民も戦後、努力して経済発展し、戦後が終わったと東京五輪開催で思った』。会談後、福田康夫首相は胡錦濤国家主席を前に『日本の戦後の終わり』として東京五輪を振り返った。」

 「当時の中国紙は核実験成功で埋まり、自国選手団がいない東京五輪の影さえない。『人民が勝ち取った偉大な成果。止めようとしても徒労に終わる』。中国の物言いは今の北朝鮮に似ている。日本人が戦後の終わりと感じた東京五輪。中国が蚊帳の外だったことは国交正常化後、歴史認識問題が延々と続く伏線になる。」

 福田首相の折角の挨拶が中国国民には通じない。中国人は東京五輪をほとんど知らないで育っている。これもショックな事実である。いろいろな事実を合わせれば、こういうことになるのだろうが、こう書いてもらわないと実感として分からない。

 「日本で『戦争への反省』の雰囲気が最も濃いのは50、60年代の東京五輪までだろう。日中の国交正常化と平和友好条約の締結は70年代だが、人的交流が深まるのは中国の『改革・開放』後の80年代。戦後政治の総決算を掲げる中曽根内閣が登場していた。」

 「中国側は平和国家として必死に努力した時代の日本を知らず、首相の靖国神社参拝など『反省しない日本』という印象を深める。世代交代した日本でも戦争は遠い過去になっていた。『いまさら反省といわれても』との反発が生まれ、負の連鎖が始まる。」

 「自明に見える『戦後日本の平和国家としての歩み』を中国が評価したのはなんと2年前だ。両首脳が署名した日中間の第4の政治文書『戦略的互恵関係の包括的推進に関する共同声明』への盛り込みは今年5月。中国はようやく『日本の戦後の終わり』を認めた。」

 日中の認識ギャップを生んだ大きな原因はこんなところにあったのだろう。ODAで日本が中国に寄贈した施設なのに、中国の国民が見える場所に「日本」の名前がない、など個々の事象は知っていたが、こうした大きな枠組みで示してもらうと、よく分かる。

 「東京五輪から40年以上もかかった遠因はアヘン戦争以来、列強に踏みにじられた中国独特の心の傷ともいえる。五輪開催で中国の長い戦後も終わり、日本の戦後の終わりを受け入れる自信と余裕が生まれた。」

 「5月と7月の胡主席来日の合間に東シナ海のガス田問題で合意し、両首脳は今回も北京で会った。『率直に何でも言い合える仲になりつつある。素晴らしい』。福田首相が自賛する蜜月。それはなんとしても五輪を成功させるため、日本を味方に引き込む必要があったからでもある。チベット問題での日本の態度は欧米ほど厳しくなかった。」

 「福田首相、ブッシュ大統領、プーチン・ロシア首相……。8日の開会式には中国の狙い通り、各国の首脳級がずらりと並んだ。」

 「五輪成功のための方便としての微笑外交――。とすれば揺り戻しもあり得る。最近、中国内で開かれた対日政策の検討会合。多くの有識者が『日本に譲歩し過ぎ』と批判し、外交当局者も説明に苦慮する場面があったという。問題は5月の共同声明に、日本の国連安保理常任理事国入りに道を開きかねない表現がある点や、ガス田合意などだった。」

 「問われるのは北京五輪後だ。ギョーザ問題を含め難題が残る。東京五輪から半世紀近く。やっと戦後を終えた両国は、首脳が頻繁に顔を合わせる対等な隣国関係づくりのスタート台に立ったにすぎない。」

 今の日中関係を考える時、このような歴史を踏まえたパースペクティブをいかに示せるか、で思考の深みが違ってくるのだろう。

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2008年8月 9日 (土)

北京五輪開幕と各紙大型コラムについての短評

 8月8日午後8時8分(日本時間9時8分)、第29回夏季オリンピック北京大会の開会式が北京市北部の国家体育場(愛称は鳥の巣)で始まった。テレビの同時中継で見ていたが、中国お家芸の人海戦術とCGなどを多用した豪華な式典だった。

 過去最多の204カ国・地域から1万1193人の選手が参加した。3万発の花火が祭典の始まりを告げ、フィールドに白く光る五つの輪が浮かび上がり、悠久の歴史と現代の躍進、平和を連想させる演出が続いた。約1時間後に選手入場。日本選手団は卓球の福原愛選手が旗手をつとめた。中国選手団の中には四川大地震でがれきの下から脱出して級友を助けた「英雄少年」の一人、四川省の小学2年、林浩君(9)がいた。聖火の点火者は元体操中国代表の五輪金メダリスト、李寧氏(44)、ワイヤにつり下がり、会場の垂直の壁を走った。参加国・地域は前回アテネ五輪の202を上回った。

 9日付各紙朝刊で最も読みやすかったのは日経新聞社会面、大島三緒編集委員の<北京発熱 東京はどこへ>というコラムだった。

 五輪開幕を目前にした北京で

 「しゃべる怒鳴る叫ぶ。食べて飲んで笑う。しゃべって食べて飲む。おーい服務員! 呼ばれた方も負けてはいない。しゃべる怒鳴る叫ぶ。」

 という光景がいたるところで見られる、と書く。

 「すさまじいエネルギー。国民性だけではあるまい。何という体温の高さだろう。」

 と呆然とするような感銘を受け、

 「発熱。たしかにこの街は発熱している。それを引き起こしたのは五輪という魔物だ。空港ターミナル、高速道路、地下鉄、どれも狂おしいほどの勢いで姿を現した。」

 と言う。うん、そうだ、そうだ。

 「今日より明日はきっと良くなる。魔物は人々に希望をもたらし、実感もまた与えてきた。」

 夫婦で年収10万元(約150万円)ほどの中流世帯がひしめいている北京市北部の巨大団地で37歳のある住民は「給料は10年前の7倍。徐々に家具や家電をそろえ、部屋の模様替えをして、やっとここまできました」と言い、「もう満足?」という質問に「まさか。まだまだですよ」と。そう書いてはないが、きっとギラギラした目をしているのだろう。

 「部屋は買ったときの3倍に高騰した。しかし都心のマンションに住み替えるとなるととても足らないという。まだまだ、欲しいものがあるのだ。」

 この書き出しからたった42行の短い記事の中に今の中国の人心の特徴が凝縮されているように見える。いろいろと書きたい要素を捨てたところに成り立つシンプルさが目立つ文章だ。文章は1988年のソウル五輪の回想に転じる。

 「ちょうど20年前、やはり五輪を迎えて高揚のただ中にあった韓国・ソウルを思い出す。郊外の団地に住む若いサラリーマン夫婦は苦労して分譲の一戸を手に入れたばかりだった。『海外旅行に行きたい。庭付きの家に住みたい。会社での地位が欲しい』。ソウルも目まぐるしく変容していた。人々はモーレツに働き、あれをこれを夢見て、また夜を日に継いで働いた。欲しいものがあったのだ。」

 そして、もっと昔。そう、日本の44年前の話だ。

 「日本も記憶を持っている。1964年東京。アジアで初の五輪だ。『てんやわんやの狂騒』とは開高健の名コメントだが、地下鉄も高速道路も新幹線も死にものぐるいの突貫工事で生まれた。まさに狂騒の時代だった。都会は至るところが掘り返され、交通事故は激増し、川はよどみ空はくすんでいた。それでもみんな、欲しいものがあった。農村からの出稼ぎ労働者が、集団就職の若者が東京をつくった。」

 高度経済成長時代、植木等が「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」と歌った、エネルギーあふれた時代の表情が思い浮かぶ。

 「魔物に魅入られた歴史と現在を持つ東アジアの三都。もちろん単純な比較は禁物だろう。明日の北京は中国はどこへ、と問われれば誰もが答えに窮する。格差、環境汚染、テロ。そして社会主義国家という現実――。とはいえ、都市には膨大な中間層が育ち、欲しいものを求めてやまぬ人々が無数にいる。そんな北京の雑踏に旅人は戸惑う。男も女も、しゃべって怒鳴って叫んで食べて飲んでいる。」

 うまいねえ。社会部遊軍記者の鑑のような文章だ。そして、一転、今の日本を斬る。

 「さて、そういう国の五輪を見つめる日本である。何という体温の低さだろう。厄介な事件が多々あるにせよ観光客は大きく減り、まなざしは冷ややかだ。七日に飛んだ日航のチャーター便は搭乗率が33%だった。」

 「競技への関心は抱いても、その舞台への好奇心はソウル五輪の韓国ブームと比してもずっと薄い。1964年ははるか遠景となり、東京への再招致機運も低調だ。欲しいものを見いだせないニッポン人の虚無感を物語っているのだろうか。」

 「それでも、五輪である。この祭典はじつに様々なものを見せてくれる。発熱と狂騒はかなたに過ぎ去った日本社会だが、北京のそれが私たちの失った何かを教えてくれるかもしれない。そう思い直してみようか。」

 「奥林匹克。漢字でオリンピックをこう表す。思えば古代からあまたの文物が渡来し、今も文字を共有する地の五輪だ。少し、熱くなってもいい。」

 昨年1月、朝日新聞論説委員だった轡田隆史氏の文章の書き方についての本の内容を書き留めておいたが、轡田氏はこの文章をどう評するだろう。

 誰もがテレビで開会式を見ている。その翌日、読者は自分が見た映像の意味合いを知ろうと新聞を手にする。その時、社会部編集委員が44年前の東京の世相を思い出させながら、ソウル五輪の取材経験にも触れ、今の北京の庶民のギラギラした欲望に満ちた目を描く。「発熱」「体温」と「魔物」がキーワードだ。

 中国中間層の純粋なまでの生への欲望を見て、軽蔑の念は沸かなかった。日本人に失われた活気に眩しさを感じるくらいだった。そういう感情を読者に呼び起こさせる優れたコラムだった、と言ってはほめすぎだろうか。

 読売新聞朝刊2面は中国総局長が<独裁下の「平和の祭典」>と題したコラムを書いており、ソウル五輪開会式の瞬間、板門店にいたが、何も起こらなかった、という20年前の取材経験を紹介している。

 「前年11月、北朝鮮が五輪阻止を狙って大韓航空機を爆破した。五輪開会時の最前線を見ようと思ったのだった。」

 ソウルは「厳戒五輪」という点では今回と同じだったが、今回ほどの圧迫感はなく、

 「むしろ、ソウル五輪では、当時は韓国と国交のなかった中ソ、東欧諸国も参加し、社会には弾むような感じがあった。おそらく北京とソウルの違いの背景には『独裁』かどうかがある」

 というのが、筆者が最も書きたかったポイントなのではないか。しかし、そう割り切ること、つまり頭で現実を整理してしまうことと、実際の中国中間層の現世的な欲望にギラギラした目を具体的に描くことでは、訴求力の違いは言うまでもない。

 朝日は1面から2面にかけての外岡秀俊編集員のコラム<百年の夢 中国貫徹/心にメダル 被災者も>が売り物だろう。「中国百年の夢」といわれるこの五輪がなぜ「百年の夢」なのか、を丁寧に説明している。1932年のロス五輪に初出場した陸上選手の劉長春の話である。

 「日本は建国宣言したばかりの「満州国」代表として、大連生まれの劉を送ろうとした。五輪を通して満州を世界に認めさせるためだ。劉は拒み、ただ一人の中華民国選手として大会に臨んだ。だが、22日間の船旅ですっかり体力を使い果たし、予選落ちの苦杯をなめた。」

 「北京五輪開幕の3日前、大連で銅像が公開された。除幕式に出た三男の劉鴻亮さん(76)は今年3月、聖火リレー16番目の走者としてオリンピアを走った。四男の劉鴻図さん(63)も先月17日、瀋陽の第1走者を務めた。」

 淡々と劉氏に関する動きを報告する。今年5月には映画「たった一人の五輪」も公開された、という。この劉さんに関する動きがコラムのメーンテーマだ。

 1面コラムだけあっていい表現もある。

 「北京は故宮を中心とする南北の縦軸に沿って街ができた。皇帝の権力の絶大さを示す中軸線だ。この線を北に延ばしたところに位置する競技場『鳥の巣』は、隆盛な経済力を背に『帝国』の威光を目指す象徴となるのか。世界に開かれた中国への序章を示すのか。それを占う大会でもある。」

 続きの2面では四川大地震被災者のドラマに絞った。そして結びの文章は次のようなものだった。

 「被災地には、気力、体力の限界をかけて生き延びた無数のドラマがある。脚光を浴びることはない。だが被災者一人ひとりが心に、自分だけのメダルを持っている。」

 実際の被災者や、劉さんの関係者に取材、生の声で構成しているのだが、その構成が理知に傾いていないか。理想論を聞かされているようだ。「それはよございましたね」という以上の感想が沸かないのだ。

 こうした大イベントを丸ごと意味づけ、書くコラムの難しさだろう。

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2008年8月 6日 (水)

広島平和宣言とドキュメンタリー映画「アメリカばんざい」+石川水穂氏の広島平和宣言批判

 8月6日(水)の63回目の広島原爆の日に広島市中区の平和記念公園で午前8時から平和記念式典が行われた。戦争体験の風化が言われ、「平和の大切さをいかに伝承していくか」が真剣に論議されている。

 8月6日朝日新聞夕刊対社面に<米兵「その後」見えた貧困/ドキュメンタリー映画監督・藤本さん/「戦争の入り口と出口」描く>という見出しのハコ記事が出ていた。東京中野区のポレポレ東中野で上映中だそうだ。藤本幸久さん(54)が1年7カ月かけて撮影した映画。帰国しても仕事がなく、PTSDに悩まされたり、ホームレスになった兵士もいる。そのから見えるのは米国社会を覆う貧困と格差だ、と。

 ニューヨークの貧しい地域で育ち、大学に進学したが、学費が払えず海軍へ行ったパブロさんはアフガニスタン攻撃で多くの市民が犠牲になったことを知り、アラビア海への派遣を拒んで除隊になり、今はNGOで働きながら、高校生たちらに軍隊を志願しないように訴えている、と。母子家庭に育ったダレルさんは家族を養う金に困り、砲兵隊としてイラクへ派遣させられた。「襲撃されたら居合わせたもの全員を殺せ」と教えられ、次第に心を病んでいく。今も他人との接触の多い仕事は長続きしない。――など、映画では戦争で傷ついた様々な人々がカメラの前でそれぞれの思いを語っている。

 ブートキャンプと呼ばれる新兵教育訓練所の場面が挿入され、到着した新兵たちは家族に電話をかける。壁に掲げた「せりふ」以外は話してはならない。「今着きました。食べ物は送らないで。ありがとう。さようなら」。とまどう若者たちを教官が怒鳴りつける、と。

 藤本さんは2005年には米軍基地建設が進められようとしている沖縄・辺野古や米軍の射爆場に近い韓国・梅香里で反対運動をする人々を描いた「Marines Go Home」を作り注目された、という。辺野古の撮影時に少年のような兵士を見かけ、帰国した後に彼らはどうなっているのだろうか?と。それを見なければ戦争は描けない、と渡米7回計200日、見えてきたのが米国の戦争を底辺で支える「貧しさ」だった、という

 まさしく堤未果「ルポ貧困大国アメリカ」(岩波新書)の映画版だ。

 8.6と8.9と8.15――「8月ジャーナリズム」が続く。「またか」と思わせてはジャーナリズムの敗北だろう。このような、昔にも今にも通底している問題点を抉る努力が若者に対する伝承を応援するのだ、と思う。

 平和記念式典で秋葉忠利広島市長が読み上げた「平和宣言」は次の通りだ。

 年末の大統領選挙をにらみ、原爆を落とした国、アメリカに「反核の大統領を当選させて」と訴えたのが大きなポイントだ、と思う。

 <平均年齢75歳を超えた被爆者の脳裡に、63年前がそのまま蘇る8月6日が巡って来ました。「水を下さい」「助けて下さい」「お母ちゃん」――被爆者が永遠に忘れることのできない地獄に消えた声、顔、姿を私たちも胸に刻み、「こんな思いを他の誰にもさせない」ための決意を新たにする日です。

 しかし、被爆者の心身を今なお苛む原爆の影響は永年にわたり過小評価され、未だに被害の全貌は解明されていません。中でも、心の傷は深刻です。こうした状況を踏まえ、広島市では2カ年掛けて、原爆体験の精神的影響などについて、科学的な調査を行います。

 そして、この調査は、悲劇と苦悩の中から生まれた「核兵器は廃絶されることにだけ意味がある」という真理の重みをも私たちに教えてくれるはずです。

 昨年11月、科学者や核問題の専門家などの議論を経て広島市がまとめた核攻撃被害想定もこの真理を裏付けています。

 核攻撃から市民を守る唯一の手段は核兵器の廃絶です。

 だからこそ、核不拡散条約や国際司法裁判所の勧告的意見は、核軍縮に向けて誠実に交渉する義務を全ての国家が負うことを明言しているのです。さらに、米国の核政策の中枢を担ってきた指導者たちさえ、核兵器のない世界の実現を繰り返し求めるまでになったのです。

 核兵器の廃絶を求める私たちが多数派であることは、様々な事実が示しています。

 地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」が平和市長会議の活動を支持しているだけでなく、核不拡散条約は190カ国が批准、非核兵器地帯条約は113カ国・地域が署名、昨年我が国が国連に提出した核廃絶決議は170カ国が支持し、反対は米国を含む3カ国だけです。今年11月には、人類の生存を最優先する多数派の声に耳を傾ける米国新大統領が誕生することを期待します。

 多数派の意思である核兵器の廃絶を2020年までに実現するため、世界の2368都市が加盟する平和市長会議では、本年4月、核不拡散条約を補完する「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を発表しました。

 核保有国による核兵器取得・配備の即時停止、核兵器の取得・使用につながる行為を禁止する条約の2015年までの締結など、議定書は核兵器廃絶に至る道筋を具体的に提示しています。目指すべき方向と道筋が明らかになった今、必要なのは子どもたちの未来を守るという強い意志と行動力です。

 対人地雷やクラスター弾の禁止条約は、世界の市民並びに志を同じくする国々の力で実現しました。また、地球温暖化への最も有効な対応が都市を中心に生まれています。市民が都市単位で協力し人類的な課題を解決できるのは、都市が世界人口の過半数を占めており、軍隊を持たず、世界中の都市同士が相互理解と信頼に基づく「パートナー」の関係を築いて来たからです。

 日本国憲法は、こうした都市間関係をモデルとして世界を考える「パラダイム転換」の出発点とも言えます。

 我が国政府には、その憲法を遵守し、「ヒロシマ・ナガサキ議定書」の採択のために各国政府へ働き掛けるなど核兵器廃絶に向けて主導的な役割を果たすことを求めます。

 さらに「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、また原爆症の認定に当たっても、高齢化した被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を要請します。

 また来月、我が国で初めて、G8下院議長会議が開かれます。開催地広島から、「被爆者の哲学」が世界に広まることを期待しています。

 被爆63周年の平和記念式典に当たり、私たちは原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、長崎市と共に、また世界の市民と共に、核兵器廃絶のためあらん限りの力を尽くし行動することをここに誓います。
 2008年(平成20年)8月6日  広島市長  秋葉忠利>

 (追記=8月9日)

 産経新聞8月9日朝刊オピニオン面<土曜日に書く>で石川水穂論説委員が<現実に目を背けた平和宣言>の見出しで、秋葉市長の平和宣言を批判していた。

 眼目は前文の締めにある「今年も、昨年と同様、北朝鮮の核には全く言及がなかった」だろう。

 旧社会党出身の秋葉市長はこれまでも北の核への言及を避けてきた、とある。昨年の原爆の日は北の核実験(一昨年10月)の後だったにもかかわあらず、平和宣言はそれに触れず、「憲法遵守」と「米国批判」を強調した、と書いている。また、北の核開発が明らかになった直後の2002年10月に米の大学で行った「広がる核の脅威」と題する講演でも、米の各政策への非難に終始し、北の核には触れなかった、という。

 <長崎の田上富久市長が昨年8月9日の平和宣言で新たに核兵器を保有した北朝鮮などの国名を挙げ、北の核廃棄に向けた6カ国協議での「ねばり強い努力」を訴え、昨年4月に凶弾に倒れた伊藤一長前市長も、平和宣言で北の核に言及することを忘れなかった。これが被爆地の首長として当然の対応であろう。>

 <日本にとって、当面する最大の脅威は北の核だ。それを取り上げない広島の平和宣言は、あまりにも現実と遊離している。>

 というのである。

 また、1994年10月の米朝枠組み合意成立で産経新聞が「この『合意』を素直に喜んでいいものだろうか」(10月19日付主張)と疑問を呈したのに、朝日新聞は「難航してきた米朝交渉が妥結を見たことは、金(正日)書記が対話と協調の路線で指導力を発揮していることを間接的に証明している」(同日付社説)と、また毎日新聞は「米朝両国が公式外交文書に調印することは、北朝鮮にとっては金正日書記の後継体制発足を飾る、歴史的な合意である」(同日付社説)と米朝合意を高く評価していたが、

 <金正日氏(現・総書記)への期待が裏切られたことは、その後の朝鮮半島の歴史が証明している。北はもらうものだけをもらい、秘かに核開発を続けていた。金正日体制への甘い期待は禁物である。>と、14年前の紙面を持ち出しながら、朝日、毎日批判を展開していた。

 その後のプレスコードをめぐる米国の原爆報道介入や米国の戦争責任検証問題も、大切な問題だと思う。戦後の同時代で隠されてしまった事実であるため、当時を生きた人々の記憶にはない事実だ。だから、意識的に勉強しないと知る機会がなかなかない。知らせる努力はマス・メディアが率先してすべきだろう。

 それにしても、石川氏に言われるまでもなく、「広島宣言」で秋葉市長は北朝鮮やパキスタンの核に触れるべきだった。なぜ触れなかったのだろう? 石川氏の言うように旧社会党的体質から「北朝鮮批判はしない」とイデオロギー的に決めているのだとすれば、それは改めてもらわないといけない。まあ、全文を読んでもそうした問題意識が沸き上がらなかった私自身、反省しているのだが。

 ただ、何度も書いているように、北朝鮮の核兵器が日本にとって本当に「脅威」なのかどうか、はもう少しギリギリの検証を含めて、正確に書くべきではないか、とも感じた。原爆を開発したことは確かだろうが、運搬手段としてのミサイルへの搭載ができるほどの小型化に成功していない、というのが一般的な見方ではないのか? それとも、石川氏は「搭載可能」という確定情報を持っているのだろうか?

 また、北朝鮮を含めた核保有国全部に核廃棄を求めるのは被爆国日本の使命だが、其の中でも日本に2度も原爆を投下、核戦争を戦ってしまった米国への指弾は別格で行わねばならないのではないか。その米国は今でも世界最大の核大国なのだから。

 だから、米国批判を徹底的に行い、返す刀で北朝鮮などの核を批判する、という対応が素直ではないか、と思うのだが。

 なお、各紙9日夕刊掲載の長崎平和宣言(田上富久市長朗読)には次のくだりがあった。

 <日本政府は朝鮮半島の非核化のために、国際社会と協力して北朝鮮の核兵器の完全な廃棄を強く求めていくべきです。>

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2008年8月 5日 (火)

麻生「ナチス」発言と林健太郎「ワイマル共和国」

 福田康夫首相の自民党役員・内閣改造人事で党幹事長に就任した麻生太郎氏が4日、江田五月参議院議長の部屋に挨拶回りした際に民主党をナチス扱いしたという。改造内閣誕生に目を奪われているマスメディアは「