書評「プレイバック1980年代」村田晃嗣著:池明観氏のインチキさ、核密約、冷戦崩壊…+吉崎達彦「1985年」
水道橋駅近くのいつも立ち寄る小さな古書店の隣に少し大きい新刊と古書の双方を販売しているお店がある。丸沼書店という。日大法学部や経済学部の教科書を扱っているらしく、店内には難しそうな本がずらりと並んでいるのだが、このお店の店頭の100円バルクセールは今まで文庫本ばかりで面白みがないものだったが、最近、新書を置き出したので、俄然、チェックを入れるようになったのだが、早速、村田晃嗣著「プレイバック1980年代」(文春新書、2006年11月20日第1刷発行、890円+税)を100円で買ってしまった。倉庫から直接持ってきたのだろう、新本そのままの外観である。324ページの新書だから、結構読み応えがあり、1週間かけて読み終えた。
| プレイバック1980年代 (文春新書) 著者:村田 晃嗣 |
タイトルそのまま、1980年代に何が起きたか、を村田さんの目で切り取って料理し、提供している。
◆「はじめに」 本当に導入部。読まなくてもいい。
◆「出発点 1964年」 こういう本のお約束らしいが、1980年代に至る大事なエポックメイキングな年を二つピックアップした中の一つ。東京五輪の年だ。この章で、これも珍しくはないのだが、村田氏は戦後60年をライフ・サイクルになぞらえて15年ごとに区分していた。そして、
<この時代区分は1947~49年に生まれた700万人近い「団塊の世代」のライフ・サイクルと重複する。青年期には学園闘争に狂騒し、壮年期にはバブル経済を謳歌し、初老期にリストラや出向、住宅ローン、家庭の不和に苦しみ、そして、2007年から大規模な定年退職を迎えるのである。>
と私たちの世代(私は1950年の早生まれなので、自分では「団塊の世代」だ、と思っていたのだが、村田氏の区分によると対象外のようでもある。いつも、曖昧な年代なのだ)について約15歳年下の筆者がまとめてくれているのだ。こういう表現にぶち当たると、ちょっとこそばゆい感じがするのは、「まあ大体はその通りなんだけど、学園闘争に狂騒したのはほんの一部で、普通のノンポリは狂騒なんてしていなかったよ」とか「バブル経済を謳歌したというけど、たしかに会社で接待という名目でカネが使えたから、料亭に行ったことだってあるし、お客さんを招いたことにして、仲間内でおいしい酒を飲みに行ったこともあったけど、せいぜいそのくらいで、浮かれていたという記憶はないなぁ」とかの感想を持ってしまったりする。今時点のリストラ、出向、住宅ローンはまさしくその通りだけど。
村田氏の区分は以下の通りだ。
①幼少期 敗戦から60年ごろまで。60年安保闘争は思春期の反抗に該当する。
②青春期 60年ごろから第1次石油ショックを経てベトナム戦争の終わる75年ごろまで。経済成長を基調とした性急な時代である。筆者の生まれた64年は、戦後社会の青春の真っ盛りであった。
③壮年期 75年ごろから90年ごろまで。70年代後半の不安定な助走期間を経て、本書のテーマである1980年代は、自信と元気に満ちた「保守」の時代となる。
④初老期 90年ごろから今日に至る。バブル後の「失われた十年」に苦しみ、ようやく再建に向かいつつある。
この村田氏の区分を書き写していたら、同じ日に同じ店で買った吉崎達彦著「1985年」(新潮新書、2005年8月20日発行、定価680円+税)の区分を思い出した。
| 1985年 (新潮新書) 著者:吉崎 達彦 |
<日本の国運における40年周期説>というもっともらしい名前がついている。
①1868年~1904年(明治維新から日露戦争まで)=上り坂
欧米列強のアジア進出に危機感を抱いた日本が明治維新を行って富国強兵に努め、最後はロシアとの戦争に勝利するまで。その結果、日本派列強の一角を占めるが、国内的には目的を喪失した状態になる。
②1905年~1945年(日露戦争後から第2次世界大戦の終戦まで)=下り坂
目標を失った日本が対外関係を悪化させ、中国戦線の泥沼に踏み込み、最後は米国との戦争に敗れるまで。国土は荒廃し、広大な領土を失い、日本は文字通りゼロからのスタートを余儀なくされる。
③1946年~1985年(戦後からプラザ合意まで)=上り坂
敗戦でどん底に落ちた日本が経済の復興に専念し、見事に先進国入りを果たすまで。しかし、プラザ合意以後の円高に対応する過程でバブルが発生し、次の下り坂への道が開かれる。
④1986年~2025年?(バブル経済から??)=下り坂
日本経済が順調だったのは戦後40年目の1985年くらいまでで、その後はバブルの発生と崩壊、不良債権問題、金融不安、デフレ経済、そして「空白の十年」と呼ばれる90年代の低成長期を迎える。プラザ合意は1㌦=250円だったのが一気に3年後には1㌦=120円になってしまった。
とあり、
<戦後日本経済の「上り坂」がいかにすさまじいものであったかを確認しておこう。35年間の間にGNPは80倍になり、1人当たりの国民所得は50倍になり、輸出は140倍、輸入は90倍になった。昨今の中国経済の成長がいかに目覚しいといっても、これほどではない。そして今日の中国の台頭が周囲の警戒を招いているのと同様に当時の世界で対日警戒論が生じたのは無理からぬことであった。>
というのだ。1950年と1985年の数字比較である。この表も書き写しておこう。
<戦後経済の発達>
1950年 1985年
国民総生産(GNP) 4兆円 317兆円 80倍
アメリカとの比較 26分の1 3分の1
1人当たりの国民所得 4万円 208万円 50倍
アメリカとの比較 14分の1 3分の2
鉄鋼生産 400万トン 1億1000万トン 30倍
自動車生産 7万台 1227万台 170倍
貿易額(輸出/輸入) 3000億円/3500億円 42兆円/31兆円 140倍/90倍
(出展は「戦後50年の日本経済」勝又寿良、東洋経済新報社)
以上、吉崎氏の著書に回り道した。
村田氏の本に戻る。
◆性急で不安な時代 1970年代
硬派から軟派まで細かい事象から大きな政治的、国際的事件まで拾っているだけに、深みがないのが惜しいのだが、結構忘れていたり、知らなかったことが出ていて面白い。気付いた点をメモしておこう。
▽1975年は敗戦30年目に当たったが、8月15日に三木武夫首相が靖国神社を「私的に」参拝した。現職首相による終戦記念日の参拝は初めて。
中曽根康弘首相の公式参拝だけがクローズアップされるが、「私的」も「公式」「もないだろう。首相になった政治家が靖国神社に参拝することの近隣諸国に与える影響を十分に理解したうえでの参拝だったのかどうか。特に、この三木武夫という信用できない政治家は自分の信念に基づいて行動するのではなく、必ず裏がある。つまり、靖国神社に参拝することで右翼勢力を慰撫、取り込もうとしたのだろう。
三木の浅はかな行動が戦後30年閉じていたパンドラの箱の蓋を開け、その後の中曽根、小泉首相の参拝に結びつき、日中「不毛の5年間」を生んだ。三木の責任は重い。昭和天皇はA級戦犯の合祀された靖国神社へは参拝しなかった。三木のようなバルカン政治家がルール違反をしてしまったのだ。
▽1975年にフランスのランブイエで開催された第1回先進国首脳会議(サミット)が開かれ、三木首相が出席したが、村田氏は、
<発案者のジスカールデスタン大統領は当初日本の参加を考えていなかったが、西ドイツのヘルムート・シュミット首相が強くそれを求めた。各国首脳がファースト・ネームで呼び合う中、日本の首相だけは「ミスター三木」と呼ばれたという。それでも日本派なんとか石油危機を乗り切って、ここにアメリカ、西ヨーロッパと並ぶ国際経済の一極として承認された。単なる先進国から責任ある経済大国へと、壮年期を歩みだしたわけである。>
と書いている。
▽T・K生という匿名の韓国人著者による「韓国からの通信」(岩波新書)の問題
| 韓国からの通信―1972.11~1974.6 (岩波新書 青版 905) 著者:T・K |
<当時の韓国はしばしば独裁国家と形容され、そのイメージは今日の北朝鮮並みに暗かった。信じられないという向きには「T・K」という匿名の韓国人著者による「韓国からの通信」(岩波新書)をご覧いただきたい。そして、韓国に関する日本人一般の知識や理解は、お粗末なほど乏しかった。>
前にも書いたかもしれないが、「民団新聞」2008年7月9日(水)3面の特集[韓国語版「韓国からの通信」出版を機に検証]<「T・K生」池明観氏の場合/韓国「民主人士」の不思議な北韓体制認識/「擁護」から一転して批判/”惨状”目撃、いたたまれず/「早くなくすべき体制」/「6・15」南側委員会の場合/統一へ「民主化」を不要視/「金日成民族」にも目つぶり>という多くの見出しが並ぶ紙面を思い出し、もう一度、スクラップブックを引っ張り出してきて、読んでみた。
朴容正・編集委員による前文には、こうある。
<「韓国からの通信」は当時、韓国の独裁体制を流言飛語の類まで引用、口を極めて攻撃した。その一方で北韓の独裁体制には批判的にならぬよう気を使い、時には弁護さえしていた。その結果、日本人の韓国認識、「韓国=悪」イメージ形成に大きな影響を与えた。現在のように南北関係が微妙な時ほど北韓認識が重要だ。韓国「民主人士」の北韓体制認識をあらためて見てみると…。>
本文を見ると、<「世界」連載中は「国家テロ」を弁護>という小見出しが入った部分では1983年10月のビルマの首都ラングーン(現在はこの悪いイメージをぬぐい去るためかどうか、名前をそれぞれミャンマー、ヤンゴンと替えてしまった)で起きた北朝鮮の武装工作員による全斗煥大統領暗殺未遂事件(未遂とは言っても閣僚らが死亡した)について、北朝鮮は「韓国軍事政権の自作自演だ」と宣伝していたが、「T・K生」(池明観氏)は「世界」1983年12月号で、
<彼(全斗煥)がすぐ北の仕業と決め付け、反共キャンペーンをやり出したから、これは彼自身が企んだことではないかという疑いが起こった。>
<自分に批判的な連中をとりのぞき、北がこのように浸透しているのだと宣伝し恐怖雰囲気をつくろうとした、というのだ>
<北がなしたことであるとしたら、それに対する責任の少なくとも一端は全政権にあるといわなければならない。>
<(オリンピックをはじめ多くの国際会議のソウル誘致など)狂熱的に北を刺激し、愚かにも軍人的勝利感で自ら誇り、内政における黒星続きを覆い隠そうとした>
と書いていた、とあった。また、1987年11月の大韓航空機爆破事件もT・K生は「世界」88年2月号に北朝鮮によるものではなく、韓国の陰謀だ、と書いている。米国はこの事件を機に北朝鮮を「テロ支援国家」に指定したが、北朝鮮はラングーン事件も大韓航空機事件もいずれも「韓国当局のでっち上げた陰謀」と主張している。
<T・K生は75年6月号で「北を非難することは今では彼(朴正煕大統領)を助けることになる」「北に対する非難や批判をわれわれは当分の間カッコに入れておかなければならない」と主張していた。しかし、韓国以上の「長期・軍事独裁体制」で同胞に対するテロまで強行した北韓当局に対する「非難や批判」は、結局、連載中(合計176回)の15年間、一度もなかった。>
という朴氏のコメントは非常に重要だと思う。朴氏が丁寧に調べ上げたように、池氏は2003年7月に「T・K生は自分だ」と名乗り出て「北に対してかなり肯定的な文章が入っているのですが、それはそうすることによって北を動かしたいという気持ちがあったからです。いま考えると純真な話ですけどね」と「世界」2003年9月号のインタビューで語っているのだ、という。
03年9月の毎日新聞への寄稿ではこの調子を維持したが、直後の03年9月15日の東京新聞のインタビューでは2003年3月末にKBS(韓国放送公社)理事長として平壌を訪問した時のことを想起しながら、それまでのトーンとは一転して「北の体制を国際的に保障することで、朝鮮半島に幸せがもたらされるとは考えられないのです」と述べ、「北の体制を限定的な形――核施設や権力中枢への(米国の)武力行使によって壊すしかないのか。/いくら限定的な攻撃でも、犠牲は伴う。犠牲が多く出るのは、私自身耐え難い。ただ、今の来たの現状からすれば、強硬策もやむを得ない。せいぜい考えられるのは…いかに犠牲を少なくするか。いかに非人間的にならずに現実に対応できるか…こんなジレンマに陥ったのは初めてです」としゃべっている。
翌年2004年、韓国の「月刊中央」とのインタビュー(6月号掲載)ではさらに踏み込んで「北韓は一日も早くなくすべきだ」と明言した。「北韓は一日も早くなくすべき体制だ。北韓が現体制から漸進的に改善して良くなると期待することは考えられない」としゃべっている。朴編集員は
<北韓独裁体制への言及と批判は、「韓国からの通信」連載終了から、実に15年後のことであった。>
と書いていた。
特集記事の左半分は当時の韓民統(韓国民主回復統一促進国民会議日本本部)が今、韓統連(在日韓国民主統一聯合)と改名して、いまだに金正日総書記万歳をいい続けていることへの批判に終始していた。批判は当然である。
しかし、池明観という男は金大中、盧武鉉政権では重用されてKBSの理事長をしていたとは! 日本で言えばNHKである。こんないい加減な男がトップにいれば北朝鮮万歳路線に傾くのは仕方ないだろう。日本にいたときには女子大の教授だったと思ったが、韓国では翰林大学というところにいるらしい。こういう男を飼っている大学だ。よく覚えておこう。
たしか、昨年7月25日に岩波書店から発行された「陸羯南~政治認識と対外論」(7600円+税)を書いた朴羊信氏も翰林大学校翰林科学院研究教授だったな。
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陸羯南―政治認識と対外論 著者:朴 羊信 |
こんなひどい男が当時の空気を作っていた。今では信じられないかもしれないが、韓国のイメージはキーセン観光(買春観光)で北朝鮮は社会主義の理想というイメージが植えつけられていた。北朝鮮の工作がうまかったのと、韓国内で文民らが軍人を一格下に見て馬鹿にしながら悪口を言って、その悪口を池のような無責任な「学者」が広げたため、村田氏が書いてるようにいびつな韓国像が日本で形成されてしまったのだ。
池氏の責任は非常に重い。しかし、問題は池氏の個人的な素質でこういう問題がおきたのではない、ということなのだ。岩波書店=朝日新聞=社会党左派=総評・自治労という人脈が北朝鮮のスパイとして動き回る中でこういう仕組みが出来上がったのだろう。つまり、今でも続いている話なのだ。
私がいつも書いているように李明博政権を引き摺り下ろしたい勢力=金正日支持勢力が韓国内にほぼ2分の1いる。何か政権不祥事が起きればこの勢力が騒ぎ出し、米国や日本の「進歩的文化人」を動かしながら、またまた「空気」をつくるだろう。だかrふぁ、私達は日本人として、日韓の友好を未来まで続ける気持ちを持っている李明博政権を支えなければならないのだ。
▽80年は大平正芳首相の死去と7月17日の鈴木善幸首相就任。8月には全斗煥大統領就任。
▽81年は本の扉というか、「小説『なんとなく、クリスタル』を手にした田中康夫氏」のキャプションの写真を見ると「ヤッシー」の若い頃の写真があった。こう見ると、細川護煕元首相にも似ている。あの独特のうるさいしゃべりがなければ案外いい男なのかもしれない。そういえば、早稲田大学で9月16日に開かれたジャック・アタリ氏の講演会に来ていたなぁ。質問までしていたが、何を聞いているのか分からないような質問で、アタリ氏もぼんやりした答えをしていた。案外、IQは低いのかもしれない。
1981年で見るべきは毎日新聞のスクープとなったライシャワー発言。伊藤正義外相が鈴木善幸首相のいい加減な発言を諌めるために辞任した翌5月18日の朝刊に掲載されていたそうだ。米国は核を持ち込んで寄港していたのだ、とライシャワー元駐日米大使が古森義久記者のインタビューに明確にしゃべった、というのである。核密約問題だ。
85ページから86ページにかけては現在の核密約問題を考える際のいい基本資料になるだろう。
▽1982年では1月から極東有事研究が始まった、と。日本有事の担当は防衛省だが、極東有事は外務省なんだってさ。今「周辺事態」と騒いでいるが、これが今言われることのなくなった「極東有事」のことだ、とあった。このように、分かりやすい本である。
82年のもうひとつのトピックは6月26日付各紙朝刊が報じた「侵略→進出」書き換えという誤報問題である。この誤報をきっかけに韓国、中国では「歴史問題」が歴史カードになってしまった。日本の戦後があまりにも目をつぶり、反省しなかったことはまず責められるベきだろう。だが、このような自虐的な誤報をなぜしたのか? 当時の文部省担当記者は譴責処分を受けたのかどうか? 当時の新聞などを見ても分からない。
▽「ロン・ヤス」時代の幕開け、と題された83年では、中曽根首相が訪韓より1年も前に韓国語を勉強し始めていた、というエピソードには驚いた。1年前からタイムスケジュールを考えていたのだね。(P124)
▽「オーウェルの予言」と題した1984年。1Q84という小説が売れているようだが、これはその本物の話だ。9月に全斗煥大統領が韓国大統領として初めて来日した。つまり、朴正煕大統領は大統領として来日していなかったんだ! 来たかっただろうに。
▽1985年は「転換期」というタイトル。ゴルバチョフの登場、プラザ合意、中曽根の8月15日の靖国神社参拝。
▽1986年は「大爆発と総決算」。大爆発は1月28日のスペースシャトル「チャレンジャー」爆発7人全員死亡と、4月26日のチェルノブイリ原発の4号炉爆発。総決算は衆参同日選挙の自民党圧勝と中曽根による「戦後政治の総決算」路線。国鉄分割民営化。前川レポートもあった。
86年を振り返った時、思いがけないほど大きかったのがフィリピンの政変だ。村田氏の感覚の鋭さだと思う。
反政府運動が高まる中で独裁者マルコス大統領は大統領選挙を繰り上げて151万票の大差で圧勝した。1983年に暗殺されたアキノ上院議員の未亡人コラソン・アキノが野党統一候補。不正選挙だった。アメリカ上院がまず声を上げ、これを受けてフィリピン軍部が叛旗を翻し民衆も蜂起した。レーガン米大統領もついに反共の友に引導を渡すしかなく、マルコス一家は米軍のヘリコプターでかろうじてマラカニアン宮殿を脱出し、ハワイに亡命する。こうして「コリー」ことアキノ夫人が大統領に就任した。
<このフィリピンでの政変は、同じ開発独裁の韓国にも波及し、全大統領は89年に大統領直接選挙を実施すべく、憲法改正を言明せざるをえなくなった。>
これは知らなかった。不明を恥じている。
▽87年は「終わりの始まり」のタイトル。10月20日未明の中曽根裁定で竹下登が次期自民党総裁に決まるのだが、このことを中曽根氏が日記に書いているのだ、と。これも初めて知った。フーン。竹下氏を選んだ理由はこの日記を読むとよく理解できる(P147)。
韓国の「6月抗争」で全斗煥を説得したのがガストン・シグール米国務次官補(東アジア太平洋担当)だったことも知らなかった。私はなんてものを知らないのだろう。しかし、12月の大統領選挙では金大中、金泳三が両方出たため、票が割れ、軍部出身の盧泰愚が当選した。
ポール・ケネディ「大国の興亡」は誤訳が多すぎる、と村田氏は書いている。後にネオコン(新保守主義)に多大な影響を与えた政治哲学者アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」。
▽1988年は「消費税、リクルートと『自粛』」。これは分かりやすい。そのまんまだ。
▽1989年は「昭和の終わりと冷戦の終焉」。1989年1月7日午前6時33分、天皇死去、享年87歳。この章は案外面白い。P298.P300はアルシュ・サミット。
<11月9日に東ドイツ政府が国民オ海外旅行と海外移住手続きの大幅な簡略化を決定。1961年以来東西ベルリンを遮断してきたベルリンの壁が事実上開放された。71年前に第1次世界大戦に敗れてドイツ帝国が崩壊した、ちょうどその日だった。……この11・9から世界はポスト冷戦の時代に入り、12年後の9.11にさらにポスト・ポスト冷戦の時代に突入することになる。>
9.11をこのように位置づけるかどうかは疑問だが。
P311からの<エピローグ――1980年代とは何であったのか>も分かりやすかった。読んで得する本だと思う。この本が100円? 出版社も大変だなぁ。



















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