44年前に読んだ本を開いたら、所々に赤線が引いてあった。亀井勝一郎監修「日本名言集~青春を生きる知恵」(青春新書、青春出版社、昭和36年12月30日発行、定価220円)で、昭和40年10月28日と買った日付を書き込んであった。あの転向文学者の亀井氏である。高校生の頃だから、そんな監修者の来歴も知らず、心の襞など想像のしようもなく、ただあの「大和古寺風物誌」を書いた人が選んだ名言だ、ということで読んだのだと思う。残念なことに、今になると、なぜその部分に赤鉛筆で線を引いたのか、の理由も線を引いた事実も覚えていない。心に響かなかったのかもしれない。
当時は、大学受験のために受験勉強の日々を送っていた。私が通っていた都立の高校は一風変わっていて、理科系志向の生徒が多く、文科系志望者が小さくなっていた雰囲気もあった。物理・化学が苦手だった私は最初から文科系志望だったが、どんな勉強をしていたのかも、あまりに昔なのではっきりは覚えていない。
ただ、社会的なものごとに関心が全くなかったことだけは覚えている。小説を読みまくっていた。そんな中の息抜きのつもりの一冊だったのだろう。
パラパラとめくって、赤線を引いてある言葉を読むと、いいことが書いてあるので、幾つかメモしておこうと思った。もはや青春は遠く去り、いまさら「青春を生きる知恵」でもないもんだ、とは思う。この本は、そういう若者向けの本だったから、「老い」とか「病気」に関する言葉は意識しては拾っていないが、「人生」とか「生と死」とかの項目の中で幾つかは拾っている。亀井氏が50代半ばで読み込んだ本の中から選んだだけあって、言葉には亀井氏の思いが込められているようでもある。
<分別過ぐれば大事の合戦は成し難し>
黒田孝高(くろだ・よしたか)「名将言行録」
ウィキペディアによると、黒田孝高とは黒田 如水、通称黒田官兵衛のことだ。キリシタン大名として。ドン・シメオンという洗礼名も持っていたから、四つの名前で生きていた人だ。天文15年11月29日(西暦では1546年12月22日となる)、黒田職隆の嫡男として姫路生まれ。永禄10年(1567年)頃に家督を継ぎ姫路城代。永禄12年(1569年)、赤松政秀が足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正と別所安治の支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるが、300の兵で奇襲攻撃を仕掛け撃退した青山・土器山の戦いですでに天才ぶりを発揮している。
その後、長篠の戦いで武田勝頼を破った信長の配下に入り、天正4年(1576年)には毛利は小早川隆景の水軍の将、浦宗勝を5000の兵で攻め込ませるが、英賀に上陸したところを孝高は500の兵で攻撃し退けた。1年間の捕虜生活で左脚関節に障害が残り、歩行がやや不自由になる。本能寺の変で信長が死んだことを知った孝高は秀吉に毛利輝元と和睦し、光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させた。
天正11年(1583年)の秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加。毛利との外交に手腕を発揮し国境線を確定し、実質的に秀吉配下に加えた。天正17年(1589年)、家督を長政に譲って隠居。文禄元年(1592年)から秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参加、文禄2年(1593年)に石田三成と確執を生じ、秀吉の怒りを買って出家、中津城に引退した。
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると如水は12月に上洛し、吉川広家に書状を書いた。
<かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候>
如水は遠からず天下の覇権をめぐって大乱が起きると予想していた。慶長5年(1600年)、徳川家康らが会津の上杉景勝討伐のため東へ向かうと、7月17日(8月25日)石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。嫡男・長政は家康の養女を正室として迎えていたことから秀吉の死去前後から家康に与し、豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み後藤基次ら黒田軍の主力を率いて家康に同行、関ヶ原本戦で武功を挙げた。
九州にいた如水は領内の百姓中心に9000人ほどの速成軍を作り上げ、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突、勝利した。合戦の後、長政は家康から勲功第一として筑前国名島(福岡)で52万3000石を与えられた。如水も中津城から福岡城に移り、政治に関与することなく慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。
「名将言行録」には徳川秀忠が孝高を評した
<今世の張良なるべし。>
という言葉も残されている。
また、秀吉が孝高を恐れたことを示す言葉として、
<秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ。>
も名将言行録に残されている。ウィキペディアにはエピソードも豊富だ。
秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねた。家臣たちは徳川家康や前田利家の名前を挙げたが秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前たちはやつの本当の力量をわかっていない。やつに100万石を与えたらとたんに天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は身の危険を感じて隠居を申し出たという。文禄4年(1594年)の伏見の大地震の際、倒壊した伏見城に駆けつけたが、秀吉は同じ蟄居中の加藤清正の場合には賞賛したのに対し、如水に対しては「俺が死ななくて残念であったであろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。
晩年は家臣に対して冷たく振舞ったとされる。これは殉死者を出さないためとも、当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためとも言われている。村重謀反のとき、信長は翻意するよう説得に向かった孝高が帰ってこないのは村重に寝返ったからだと判断し、人質として預けられていた長政を殺害するように命じた(村重と一緒に主君の小寺政職も裏切った事がこの疑念を助長している)。しかし重治(半兵衛)は密かに長政を匿った。このため、重治への感謝の気持を忘れないために黒田家は家紋に竹中家の家紋を用いた(この家紋とは黒餅の事を指す。黒餅とは石高の加増を願う家紋である)。遺訓は「人に媚びず、富貴を望まず」だった、と書いてあった。
以上の基礎知識を学んだ後に、亀井氏の選んだ「 分別過ぐれば大事の合戦は成し難し」を見ると、黒田如水の生き方の何を若者に伝えたいのか、はなはだ分からなくなる。人生訓だったら、遺訓の
<人に媚びず、富貴を望まず>
ではないか。
亀井氏が選んだ徳川家康の遺訓はあまりにも人口に膾炙されているきらいはあるが、じっくり噛み締める価値がある言葉だ。
<人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なく心に望みおこらば困窮した時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基。怒は敵と思へ勝つ事ばかりを知って負くる事を知らざれば害その身に至る。おのれを責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるより優れり。>
山岡宗八の「徳川家康」を昔、読んだ。あれは山岡宗八の家康だった。つまり、山岡宗八という人間がその大きさの家康を描いた小説だった。戦後の日本の荒廃の中、日本人に気概を持て、と発破をかけた小説だった、と思う。いろいろな小説家、歴史家が家康を描いているが、こうした本人の言葉を読むことの大切さは若者に伝えたいものだ。
いろいろな読み方ができると思うが、私は「失敗しても諦めるな」、「成功してもいい気になるな」、「心を強く持ち、澄み渡らせよ」と言っているように思えた。どう受け取るかはそれぞれの勝手だ。
<一時に怯懦の心を発作して終身の恥辱を帯ぶる勿れ>
乃木希典「訓示」
この文を打ち込んでいて驚いた。「きょうだ」と打っても、「怯懦」が出てこないし、「まれすけ」と打っても「希典」が出てこないのだ。私はIMFスタンダードの入力方式にしているのだが、外国の製品だからなのか? 最近よく使われる日本語には不自由しないのだが、昔、と言ってもせいぜい明治時代の文を打とうとすると、すべて手書きのIMFパッドのお世話になるのも何だか情けなくなってきた。
この言葉は微妙だ。何も知らない若者ならば、言葉通りに受け取るかもしれないが、私たちはすでに二〇三高地での乃木の失敗をしっているだけに、この言葉を見ると、複雑な思いが湧いてくるのだ。
乃木を認める人びとと、「能力がなかったので、必要のない戦死者の山を築いた」と批判する司馬遼太郎のような人が今でも両派に分かれて論争している状況で、いわく言いがたいが、きっと乃木さんは<終身の恥辱>と思い込んでいたのだろう、と想像する。犬死のように戦死した兵士も痛ましいが、この乃木さんの言葉も痛ましい。
しかし、あの戦いはせざるを得なかった戦いだったし、日本は国運を賭けて戦い、ロシアを破ることができたから、独立国として生き残れたのだと思う。あの場面で戦わなかった朝鮮は戦後処理で日本の保護国となり、その5年後に国としての体裁を失った。
戦うべきときは戦わねばならない。しかし、戦いは戦死者だけでなく、生き残った人々の心にも死ぬまで残る恥辱を植えつける。
<心なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり>
吉田兼好「徒然草」
「おっさん、よく見てるね」と言いたくなるこの言葉、思わず笑ってしまった。
市場原理主義の経済学者として政府の提灯持ちのような審議会で活躍しながら、市場中心の主流経済学が批判されると、すべて打っちゃって、「私は改心しました」とまたノコノコ出てくる人(面白い本だったのでたしか書評を書いたと思ったが)、朝のテレビのコメンテーターとして軽い言葉を毎日切り売りしてる人々、そして、旧社会党系の「北朝鮮は素晴らしい国だ」と言っていた人たち、韓国に頻繁にでかけては「独島(普通、日本人は竹島と言います)は韓国のものだ」と言い歩いている和田とかいう東大の先生……、顔が思い浮かんでしまって笑いが止まらなかった。
彼らはきっと、「一時に怯懦の心を発作して終身の恥辱を帯ぶる勿れ」と思って、勇気を出して生きているのだろう。
ちょっと理屈っぽいが、次の言葉を亀井氏が選んだのも面白かった。
<政党には、党勢拡張、政権獲得などいう一種の病気がつきまとう。そのために、あるいは種々の不正手段に出たり、あるいは敵に向って進む勇気を失ったりすることがある。これを監視し激励するのが言論に従事する人々の責任でなければならぬ。>
犬養毅
これもウィキペディアのお世話になろう。
犬養 毅(いぬかい・つよし)、通称は仙次郎。号は木堂。1855年6月4日(安政2年4月20日)― 1932年5月15日。第29代の首相で立憲政友会第6代総裁。備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山市川入)に大庄屋 犬飼源左衛門の次男として生まれ、後に犬養と改姓した。一時二松学舎にも通い、最終学歴は慶應義塾退学。郵便報知新聞(後の報知新聞)記者として西南戦争に従軍。東海経済新報記者をへて、1882年(明治16年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党、活躍する。
1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を作る。1913年(大正2年)の第一次護憲運動の際は第3次桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は辛酸をなめながら小政党を率いる。
第2次護憲運動の結果成立した第1次加藤高明内閣(護憲三派内閣)で逓信相。小政党に限界を感じ、革新倶楽部を立憲政友会に吸収させ政界引退するが、世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させ、衆議院選挙で当選させ続けた。政友会総裁の田中義一が没すると後継総裁をめぐって内紛が生じ、犬養は幹部に乞われて1929年(昭和4年)に第6代立憲政友会総裁に就任する。
1930年(昭和6年)ロンドン海軍軍縮条約に統帥権干犯を絡めて、鳩山一郎とともに政府を攻撃した。これは軍部に統帥権を武器として使えることを教え、自らの死につながった。1931年(昭和6年)12月に立憲民政党(民政党)の若槻禮次郎内閣が崩壊したため、反対党の総裁である犬養に組閣の大命が降下、内閣総理大臣に就任する。世界恐慌、そして満州事変の最中という荒波の中の船出であった。大蔵大臣には高橋是清を任じ、組閣と同時に金輸出再禁止を行い積極財政をとるなど、不況対策に努めた。また、外務大臣には女婿の芳澤謙吉を任じることにより、軍部に左右されがちな外交政策をリードしようとした。犬養の就任後は桜田門事件、血盟団事件と不穏なテロ事件が相次ぎ、ファッショ排撃を訴えた犬養自身も5.15事件で、海軍将校の凶弾に倒れた。享年77歳。
犬養には常に毀誉褒貶が付きまとった。第1次護憲運動では尾崎行雄とともに「憲政の神様」と崇められ、東京朝日新聞の記者だった中野正剛は
<「咢堂が雄弁は珠玉を盤上に転じ、木堂が演説は霜夜に松籟を聞く」>
と評した。
犬養の演説は理路整然としていて無駄がなく、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があったという。
その犬養が一旦藩閥政権である寺内内閣への内閣不信任案の共同提出を憲政会(桂に引き抜かれた元国民党議員が所属)に対して呼びかけながら、不信任案反対派の政友会と憲政会の足の引っ張り合いを皮肉って、政権を巡って右往左往する憲政会の態度を切って捨てて、そのまま衆議院解散に持ち込み、総選挙では孤立した憲政会に大打撃を与えた上で寺内正毅の要請を受けて寺内内閣の臨時外交調査会に入ったため、たちまち「変節漢」の悪罵を浴びた。その落差は大きい。
その後も、山本権兵衛内閣や護憲三派による加藤高明内閣にも閣内協力をした。ただ、これだけで犬養を「変節漢」と呼ぶのはいささか酷かもしれない。犬養は普通選挙の実現をはじめ、経済的軍備論、南方進出論、産業立国論など独自の政策を温めていた。その実現のために、よりましと思われる政権に加わったとも解釈できる。
明治の政界で隠然たる影響力を誇っていた山縣有朋が
<「朝野の政治家の中で、自分の許を訪れないのは頭山満と犬養毅だけ」>
と語ったという話もある。同じように藩閥支配に敵意を抱きながら、原敬は山県に接近し、その力を利用して自らの勢力拡大を図った。一方で犬養はその道をたどらず、ほとんど少数政党に身を置いて苦労を重ねた。
犬養は毒舌でも有名だった。親友の古島一雄は、犬養の毒舌がやたらに政敵を増やすのを見て「ご主人の出掛けに口を慎めと必ず言ってくれ」と夫人に頼んだほどである。これは、意志が強固で悪や卑劣を憎む犬養の性格からくるものからでもあったと思われる。
私生活では全く無欲の人で、細かいことには無頓着だった。嫌いな食べ物が出ても文句を言わず、着せられる着物を黙って着ていた。議会事務局で働く少年が病気になると、自宅に引き取って学校に通わせるなど、困った人を見ると援助の手を差し伸べずにはいられないところもあった。
宮崎滔天ら革命派の大陸浪人を援助し、宮崎に頼まれて中国から亡命してきた孫文や蒋介石、インドから亡命してきたラス・ビハリ・ボースらをかくまったこともあった。宮崎は当初、犬養が大隈重信寄りだったため警戒していたが、自宅で会ってみると、煙草盆片手にヒョロヒョロと出てきて、あぐらをかいて煙草を吸い全く気取らない。宮崎は直感的に「好きな人」と判断したという。ちなみに孫でエッセイストの安藤和津によると、ひどく女好きであったという。
犬養が首相に就任したのは「憲政の常道」のルールが確立されていた上に、元老・西園寺公望は犬養が満州事変を中華民国との話し合いで解決したいとの意欲を持つことを評価して、昭和天皇に推薦したため。この時、犬養は数え年で77歳。新聞は「昭和の実盛」と書いた。白髪を黒く染めて戦った源平期の老武将斎藤実盛になぞらえたのだ。
<情けは人のためならず>、 <禍福は糾へる縄の如し>
太平記
この言葉は西欧の諺か何かの翻訳だ、と勘違いしていた。太平記だったとは……。
<学者になる学問は容易なるも無学になる学問は困難なり>
勝海舟「海舟全集」
勝はここで何を言わんとしているのか? ぼにゃり想像はできるが、本当にそうなのかどうか。「無学になる学問」の意味が分からないと、この言葉の深さは感じられない。
<改めて益なきことは、改めぬをよしとするなり>
吉田兼好「徒然草」
このへんになると、政治を思い出す。制度改革をやる時、民主主義国家では、このような言葉で野党が攻めてくるケースは多い。「益なし」なのか「益あり」なのかの論争になるのだが、未来の話をしているので、結局分からず、声の大きい人が言い勝ってしまう、というパターンだ。しかし、そうした政治的な使われ方をされる、という点を除いてこの言葉を虚心に読んだ時、「そうだなぁ」と頷くことが多いだろう。保守の保守たる所以を垣間見せる言葉なのかもしれない。
<兵の勝敗は人にありて器(き)にあらず>
頼三陽「日本外史」
これって、その通りなんだけど、先の戦争を少しでも知っている世代から見ると、誤読される危険性に目が行くのではないか。戦争に勝つか負けるか、は兵器のよさではなくどれだけ人的資源を有するかにかかっている、優秀な司令官、参謀をtkすあん擁していれば、少しぐらい軍備が劣っていても負けるものではない、という意味だろうと思う。
先ほどの黒田如水ではないが、5000人の軍隊を500人でやっつけた歴史もある。ただ、逆に徹底的に軍備が劣っていて、後は人間魚雷と竹やりしかない、という時には、この言葉はあてはまらないのだ、ということを後世の日本人にしっかり伝えていくのが、先の世代の義務なのではないか、と思う。
日本人って普段はそうでないのに、そういう時だけ、付け焼刃の精神論をぶって、竹やり精神を説くようだから。
<古人の跡をもとめず古人のもとめたる所をもとめよ>
松尾芭蕉「風俗文選」
そういうことだと思う。ケインズの講義録や著作の重箱の隅をつついて、合っている間違えている、などと論争し、現実を見ようとしなかったケインズ学派なるものもあったし、マルクスの心を無視して、「資本論」読みに没頭した学者は掃いて捨てるほどいた。しかし、彼等のやっていたことは違うんだよ、と丁寧に芭蕉が教えてくれている。
<口に才ある者は多く事に拙なり>
伊藤東涯「間居筆録」
これも、見た瞬間、笑ってしまった。昔、「君は新聞記者より、新聞話者が向いているね」という流行語がマスメディア関係者の中で流行したことがあった。今のように新聞記者が誰かれなくテレビのニュースショーにコメンテーターとして出演し、自分の得意分野でもないのに、知ったかぶりの知識をひけらかす、などということは、まだなかった時代のことである。新聞社では朝刊の出稿予定を編集局の会議で各部が報告しあう。それを当日の編集責任者がまとめる形で1面トップ記事や社会面トップ記事が決まるのが普通のスタイルだった。そして、この会議に出す出稿予定メニューを作るため、各部のデスクは記者がいる記者クラブに電話をしたり、政治部などの場合には国会記者会館に出向いて、各記者クラブのキャップから出稿予定を聞き取っていた。まだ、ネットなどない時代のことだから、パソコンを使った意思疎通ができず、アナログで動いていた。
その聞き取りに答えるために、複数の記者がいる大クラブのキャップやサブキャップは若い記者たちから何を書くのか、聞いておく。発表モノだけでなく、調べて書く独自記事があれば、内容にまで突っ込んで話し合い、1面に出せるのか、中面でもトップにできるのか、付加価値を付けられるのか、応援の取材が必要かどうか、などを討議する。
その時、本当に面白い話をする記者がいる。話をテープレコーダーに入れて、そのまま記事にしたら、読者が喜んで、洛陽の紙価もさぞかし上がるだろう、というドキドキワクワクの話も多い。「じゃあ書いてね、頼むね」と言い残して本社に帰り、期待して原稿を待つと、出てきた記事はありふれたただの原稿。話にあった面白いところが書いてない。「なぜ書かないのか」と電話で聞くと「まだ、そこのところは裏がとれていない」とか「ストレートに書くと○○政治家に迷惑がかかるので」などの言い訳が次から次に出てくる。
そのことを思い出してしまったのだ。
伊藤氏はまた違ったシチュエーションを考えて言ったのだろうが。
<撃つべきの機は、その間に髪を容れず>
頼三陽「日本政記」
これも頼三陽である。しかし、これも閑話休題だが、この頼三陽も変換できないのだ、このパソコンは。「らいさんよう」と打ち込むと「礼讃洋」と出てくる。仕方なしに「頼む」と打って「む」を消し、「三つ」と打って「つ」を消し、「太陽」と打って「太」を消している。だから、同じ文章に何度も出てくるとイライラする。コピペするのだが、めんどうで……。
この言葉は大岡昇平の「俘虜記」を思い出させた。「撃つ」の意味は実は、頼と大岡とでは違っているのだが、若くて新米だと思われた米兵を撃てるのに撃たなかった大岡の迷いは頼が言っている「撃つべき機は、その間に髪を容れず」を実行できなかった近代人の迷いだった、とまあ、ありきたりなことを思ったのだ。間髪容れずにやらないといけない、という頼の「撃つ」は戦国大名が下克上を知ったときに、平定するとか、そういう意味だろうと思うのだが。
<真(まこと)の善悪(よしあし)を云はば、鉄(くろがね)最も善(よろ)しく、銅(あかがね)これにつぎ、金(こがね)銀(しろがね)これにつぐべし>
権田直助「心の柱」
鉄が一番だ。何にでも使える。銅は使い道は限られているが、銅だけにしかない使途もあり有用だ。それに比べて金銀は何に使うのか?
貨幣、通貨という交換価値をこっちに置いておいて、使用価値だけで見れば、という話だろう。現実の世界ではそうはいかないから、非現実的でそれこそ「何の役にも立たない論」と言われてしまうかもしれないが、この発想は面白い。
無人島に漂流した100人の男女が鉄と銅と金銀と何がほしいのか、聞かれてどう答えるだろうか? もしも、前の社会に戻るということを前提にすれば金銀だろう。たっぷり持って帰れば大金持ち。何でもできるから。しかし、その「何でもできる」というのは交換価値だ。無人島で畑を耕したり、家を建てる際には金銀よりは鉄が役立つ。使用価値がある。100年後、200年後、錬金術が成功して、誰でもどこででも金を作れるようになったら、金は一番先に人気をなくすのではないか。今は希少価値だから人気があるだけなのだから。
人工ダイヤモンドがもう少し精密になって、天然と識別できなくなったら、天然ダイヤモンドの価格は暴落するだろう。ダイヤモンドも金も単に希少価値だから、価値がある。でも、鉄は違う。
この論理って、ポスト資本主義を考える時、ブレイクスルーをもたらす一つのキーワードにならないかな?
<生死は車の輪の如くにて、始りては終り、畢(おわ)りては始り、いつを始め、いつを畢(おわ)りともいふ事あるべからず>
水鏡
この輪廻思想が日本独特の思想なのか、南方始原なのか知らないが、少なくとも一神教の西欧にはない思想だ。死を身近に感じ、恐れず、生と死との連続性を信じ……、といいことだらけのようだが、この死生観」が行き過ぎると「己を喪へる生は死よりも意義なし、己を喪はざる死は生よりも意義あり」(長谷川如是閑「如是閑語」)となってしまう。この考えだって本当は尊重されてしかるべきなのだが、これを東条英機のような輩が「戦陣訓」などに書き込んで、国民に押し付けると、「人命尊重をないがしろにした」などと批判されるようになってしまう。この西欧的な「人間主義」の限界が今回の世界同時不況や核支配の世界を生んだのだ、と思うのだが、人道主義の旗を高く掲げている方々にはこの理屈は通じないから、あまり言わない。
<春くれて、後夏になり、夏はてて秋のくるにはあらず、春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気。草も青くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちてめぐむにはあらず、下りよきざしつはるに堪へずして落つるなり、迎ふる気下にまうけたる故に、待ちとるついで甚だはやし。生老病死のうつり来る事、また是に過ぎたり。四季は猶定まれるついであり、死期はついでを待たず>
吉田兼好「徒然草」
兼好法師らしい文章だが、デジタル的に、「はい、春は終わり、次は夏さ~ん」という具合に四季が移り変わるのではなく、春の中にも夏を含んでいる、という、当たり前のことを当たり前に書いていて、それが連綿と800年も読まれているというのは、書物、文字文明というものの危うさを吉田兼好がいみじくも言い当てている、その教訓を易しい言葉で警告しているからではないか。「春」t言えば、春を思う。その中に少しは夏を含むと知ってはいるものの、「春」と言われた瞬間、含まれている夏の要素がどこかに飛んでいってしまう。ただ単純な「春」だけになってしまい、平板なものとなる。でも、「春」には「冬」の名残もあるし、「夏」の先行指標も入っているんだよ、と常に思うべし、と。そういう理解をしないと、計量経済学が大失敗したように、言葉の魔法にかかって、人類は大失敗するよ、と兼好法師が教えてくれているのかもしれない。
<神道に書籍なし。天地を以って書籍となし、日月を以って証明となす>
吉田兼好「神代上下鈔」
これも兼好法師。ずっと後の時代、本居宣長は「吉凶(よしあし)き万(よろ)づの事を、あだし国にて、仏の道には因果とし、漢の道々には天命といひて、天のなすわざと思へり。これはみなひがごとなり」(『直毘霊』 )と、仏教、儒教なにするものぞ、神道だけが正しい、と言っているのだが、その神道が理論体系ではなく、日本列島の自然と人間の同一化の中にあることを示した輝く言葉だ。
<口は禍の門なり、舌は禍の根なり>
十訓抄
何か、そういうことだよなぁって納得する。最初のほうはよく知っていたが、後ろがあったんだ。
<商人は死ぬまで金銀を神仏と尊ぶ。これが町人の真の道>
近松門左衛門
なるほど。作品名は書いてないが、何かの人形浄瑠璃の中で登場人物に言わせているのだろう。本当に日本のシェイクスピアだ。この江戸爛熟期の文化人が見た商売道、アメリカのリーマンだ、ゴールドマン・サックスだ、という人たちと似てないか。あまりアメリカが特殊だとか、日本は違う、とか言わないほうがいいだろう。ギラギラした時代だってあったんだから。日本にも。ただ、江戸幕府という政治は腐敗していたかもしれないが、この商人資本主義が暴走するのを適度に押さえ込んでいた。今流に言えば、政治が機能していた。
<思ふべし、人の身に止むを得ずしていとなむ所、第一に食物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三に過ぎず。飢えず、寒からず、風雨にをかされずして、閑(しずか)に過すを楽とす。ただし人皆病あり、病にをかされぬれば、其の愁忍びがたし。医療をわするべからず薬を加へて四の事、求め得ざるを貧しとす。此の四の外をもとめいとんむを驕(おごり)とす。四の事倹約ならば、誰の人か足らずとせむ>
吉田兼好「徒然草」
またまた徒然草だが、内容がいいから、何度でも出てくる。衣食住に医療を加えて、貧困のメルクマールにしている。吉田兼好という人、本当にすごい人だなぁ、と思う。今、米国でも全員福祉はできていない。日本は医療保険制度で貧乏人でも薬をもらえるようになっているはずだ。実態はなかなか違うかもしれないのだが。しかし、兼好法師の言うとおりだろう。雨露を凌げる家があり、一日三食のご飯が食べられ、寒いときには厚着ができて、風邪を引いたり、お腹が痛かったら医者で薬をもらって直せる。ここまで過ごしやすい国に住んでいて何の文句があるんだい? と麻生首相に聞かれたら、何と答えよう。
<災難にあふ時節には災難にあふがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候>
良寛
何か鯰を素手で掴もうとしたら逃げられ、また掴もうとして……といった感じの禅問答の一部なのだろう。災難にあってわけが分からなくならずに、「これは災難だが、どんな災難なんだ」と冷静になっていろ、という教えなのか? 理解できないが、面白い言葉だ。
<人生五十功なきを愧ず>
細川頼之
何もいえねぇ、か。私はアラウンド還暦なのに、功なきもいいところですから。
<年五十になるまで上手にいたらざらん芸をば捨つべきなり。励み習ふべき行末もなし>
吉田兼好「徒然草」
何もそこまであけすけに言わなくとも。まだまだコツコツやろうと思っているのに、ダブルパンチを食らわされてしまった。
<学をなすに三要あり、志なり、勤なり、好なり。>
伊藤東涯
ここまできて、少しホッとする。
<志を立つることは大にして高くすべし。小にしてひくければ、小成に安んじて成就しがたし。天下第一等の人とならんと平生志すべし。>
貝原益軒「大和俗調」
私はもう手遅れだが、若い人にはいいアドバイスだと思う。
このほか、吉田兼好の言葉で気に入ったのが幾つかあったが、書き写すのに疲れたので、この辺にしておく。面白かったのは、小林秀雄が「作品は自然の模倣を出られない」(「文学と自分」)と書き、松尾芭蕉が「心花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし、鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひて造化に帰れとなり」(「笈の小文」)と、いずれも人間と自然との融合に大きな価値を見出していることだ。やっぱり日本人だ、と思う。
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