思想・哲学

2009年8月25日 (火)

<「戦後日本」の新たな自画像>という問題意識は面白い:分水嶺は保守VS.革新ではないと思うのだが…酒井哲哉・東大教授の寄稿~読売新聞09年8月25日

 久しぶりに文化欄で面白い記事を見つけた。読売新聞09年8月25日朝刊コラム[ワールドスコープ]の酒井哲哉・東大教授(日本政治史)が書いた<「戦後日本」新たな自画像を>である。ビートルズの「When I‘m Sixty-Four(64歳になったら)」を思い出させてくれるイントロからして楽しい。いい曲だった。落ち着いた曲調、のんびりした雰囲気。ジョンが歌ったていたのだろうか? と思い出したところで、「戦後日本は今夏で64歳である」とくる。

 <64歳の日本は、何を歌えばよいのだろう。私達はいま、どのような戦後史の自画像をもてばよいのだろうか。>

 と問いかけて前文を終わっている。つまり、これがこのエッセイのテーマなのだ。論理の運びも面白いし、言葉遣いも「ホー」という表現が案外多かったから、ここからは全文を書き写す。面倒だが、こういう寄稿はインターネットにアップされていないので、仕方ない。

 <戦後思想史は知っているようで知らない分野である。まずそれは学校で教わらない歴史である。若者の多くは、丸山真男や小林秀雄の名前さえ聞いたことがないかもしれない。より年長の世代にとって、戦後は保革の対立構図で理解される歴史である。「護憲」対「改憲」、「平和主義」対「日米安保」という図式は間違いではないが、歴史の複雑さを伝えない。保革対立の古典的構図が崩れた現在、このような図式からこぼれてしまう問題群に目を向ける必要がある。>

 歯切れのいい文章である。丸山真男氏は中学か高校で「であることとすること」くらいは習うのではないか、と思ったのだが、それは昔で、今はカリキュラムが変わり、教えていないのだろうか。小林秀雄氏は昔は、中学の国語の教科書に出てきたものだった。今は出てこないのかな? 随分と変わったのだろう。もっと上の世代というと私も含めてもらっているのだろうが、その世代には「戦後」は「保革対立」の歴史だった、と。思想史というジャンルでものを見ようとしていることを忘れてはいけない。あくまで思想という問題に絞って考えた場合、ということなのだろう。

 しかし、それでも「保守VS.革新」という区分けは1989年のベルリンの壁崩壊後は通用しづらくなっているのではないか。冷戦崩壊後、思想史的に考え直せば「あれがターニングポイントだった」という時点を各自持っているはずだ。高度成長とか、それこそ60年安保とか東京五輪とかテレビの発達とか。92、93年ころからの政治思想史の流れで言えば、それは「保守対革新」ではなく、「ハイポリティクスVS.開発政治」や「自民党=社会党55年体制=親米保守VS.アジアに開かれた新しい保守」などの区分けも可能かもしれない。

 <保革のイデオロギー構図が固定化したのは、60年安保前後である。それ以前はもっと入り組んだ構図があった。まず占領期には、保守政権とともに、片山・芦田内閣という中道左派政権が存在した。また平和論においても、現実主義は軽視されたわけでは必ずしもなかった。試みに当時の丸山真男の論説を再読してみればよい。そこでしばしば強調されているのは、悪をなし得る人間性への着眼である。政治は人間を「問題的な存在」として扱わざるを得ないという発想は、丸山の思想の根底にある。そもそもファシズムと戦争を経験した世代が、お目出度い楽観論者である訳はないだろう。>

 なるほど。丸山真男は単なる平和ボケの象牙の塔学者ではなかった、と。

 <従って、60年安保後の論壇が、「理想主義」対「現実主義」という形で平和論を定式化したのは不幸なことであった。のみならず、それ以前は中道左派政権を支えるべき理念であった民主社会主義も、「保守」の議論と見做されるようになった。このように半ば以降の日本の保守主義は、本来「革新」の議論であった主張を包摂する形で成立している。さらにそれは、60年代末の新左翼の産業社会批判をも部分的に取り込んだ。80年代にポストモダン論が、しばしば保守の論客から取り上げられたのは象徴的である。>

 この「ねじれ」というか、保守のバキュームカーのようなキャッチオール的曖昧さはいろいろな論者がそれぞれの言葉を尽くしながら説明してきたものだ。ただ、この「理想主義]対「現実主義」という分水嶺を不幸というが、それはいかがか。

 全面講和か部分講和か。日米安保には賛成か反対か。四つの組み合わせができて、政治勢力の合従連衡が進み、この大波をかいくぐった後には統一社会党結成、保守合同に向かって動きが加速するのではないか。その時に、現実政治の舞台である国会や討論会で「理想論を言っても始まらないじゃないか。もっと現実的になれ」という批判が一方から出され、逆からは「憲法前文、国連憲章の理想に反する行為は将来に禍根を残す」という論が出されて、この論議はどこまで行っても平行線だったのだ。

 あの時代、「理想主義]対「現実主義」という分水嶺以外、考えつかなかったのは致し方ないのではないか、と思うのだが。

 <今夏の政治劇が示すのは、ある時期まで保革対立の前提をなすものと信じられてきた要素が、もはや単純には維持できなくなったという現実である。だがそこから、過去の歴史や思想に学ぶものがないと考えるのは短絡すぎだろう。64歳の人生には、理想と現実がまだら模様になった知恵の集積がある筈である。「保守の中の革新」そして「革新の中の保守」という入り組んだ系譜から、新たな戦後日本の自画像が描かれるべきだろう。>

 酒井さんという方はこういう考え方をする人なのか。襞の部分が面白い感じだ。

 ウィキペディアによると、酒井哲哉氏は1958年4月27日生まれ、51歳。日本の政治学者で専門は日本政治外交史、国際関係思想史、外交論。

 福岡県出身。東京大学法学部卒業後、同大学院法学政治学研究科修士課程修了。同大法学部助手、北海道大学法学部助教授を経て現在は東京大学大学院総合文化研究科教授。

 著書に『大正デモクラシー体制の崩壊―内政と外交』(東京大学出版会、1992年)▽『近代日本の国際秩序論』(岩波書店、2007年)。

 編著に『岩波講座「帝国」日本の学知①「帝国」編成の系譜』(岩波書店、2006年)があるそうだ。

 論文は▽「『9条=安保体制』の終焉―戦後日本外交と政党政治」『国際問題』372号(1991年)▽「戦後外交論における理想主義と現実主義」『国際問題』432号(1996年)▽「戦後思想と国際政治論の交錯―講和論争期を中心に」『国際政治』117号(1998年)▽「後藤新平論の現在―帝国秩序と国際秩序」『環』8号(藤原書店、2002年)▽「国際関係論と『忘れられた社会主義』―大正期日本における社会概念の析出状況とその遺産」『思想』945号(2003年)▽「戦間期日本の国際秩序論」『歴史学研究』794号(2004年)▽「国際政治論のなかの丸山眞男―大正平和論と戦後現実主義のあいだ」『思想』988号(2006年)▽「国際秩序論と近代日本研究」『レヴァイアサン』40号(2007年)▽「社会民主主義は国境を越えるか?─国際関係思想史における社会民主主義再考」『思想』1020号(2009年)。

  単行本所収論文で新しいのは「近代日本外交史」李鍾元・田中孝彦・細谷雄一編『日本の国際政治学④歴史の中の国際政治』(有斐閣, 2009年)とあった。随分と細かくアップしている人がいるんだなぁ、びっくりした。

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2009年8月 9日 (日)

時流に阿っていた石川達三の軍国主義批判、産経新聞批判が納得されていた時代もあった~産経新聞09年8月9日[昭和正論座]

 産経新聞の[昭和正論座]が面白いのは昔、「当然だろう」と思われていたような言説に対し、右派(?)文化人がいちゃもんをつけるコーナーが「正論」だったように思うのだが、34、35年経つと、その「当たり前」だったはずの論がいかにお粗末で時流に阿っていたものだったか、がはっきり分かるからだ。今回の石川達三氏の「正論」批判がそれに当たるだろう。

 産経新聞09年8月9日朝刊オピニオン面の[昭和正論座]だ。

 この紙面の別項[視点]で(石)氏が、

 <日本ペンクラブ会長だった石川達三氏が「新潮」昭和51年新年号で産経新聞のオピニオン雑誌『正論』50年9月号の特集「日本の防衛力総点検」を「核武装までも暗に力説」、「サンケイ新聞(当時)はいつから軍国主義的になったのか」などと批判した。これに対する西氏の反論である。西氏は特集にある米の政治学者の論文や日本の外交評論家の自衛隊体験記などを精読した結果、軍国主義的な論調はどこにもなく「石川氏はよく読んでいないのではないか」と疑問を提起した。石川氏は昭和31年、ソ連や中国を訪問後「共産国家に自由はある」などと両国を賛美した作家として知られる。>

 と石川氏を茶化して書いていたが、石川氏は当時はものすごい権力を持っていた作家だった。

 いわゆる文壇の実力者である。今だったら誰なのだろう? 丸谷才一氏あたりを想像すればいいのかもしれない。そういう実力者らしく、「新潮」編集部に頼まれて書いたのか、自分で怒りに任せて書いたのか知らないが、「正論」攻撃をしたのだそうだ。

 1976年新年号というから、1975年の冬には原稿を書いていたのだろう。

 筆者は西義之・東大教授でこの「正論」自体は昭和50年(1975年)12月19日掲載だ。見出しは<雑誌「正論」批判、石川達三氏に反論>で、小見出しは≪ショッキングな正論批判≫、≪お門違いの「軍国主義化」≫、≪核武装暗に力説も間違い≫、≪アレルギーどころか妄想≫だった。

 本文を読んでみよう。

 <なにげなく近着の新年号「新潮」のページをめくっていると、作家・石川達三氏のつぎのような文章があった。>

 <「サンケイ新聞出版局は去年あたりから『正論』という綜合雑誌を出している。その九月号は(日本の防衛力総点検)という特集を組んでいるが、その内容をざっと見ると、要するに日本の防衛力あるいは戦力を増大させろという論調である。のみならず核武装までも暗に力説しているようなところもあるそれが全頁をあげて、何か人心を戦備に駆り立てるような語調であって、私は少なからず驚いた」>

 石川達三は中谷巌氏に似ているのかもしれない。じっくりと自分の頭で考えることができないから、自分が属している共同体の怒り、喜び、悲しみなどの感情を自分が代わって表現する、言葉を替えて言えば自分の考えではなく「みんな」の考えを表現することに巧みだった作家だ。だから戦争中は「風にそよぐ葦」「生きている兵隊」などと兵隊シリーズを書き続け、戦後「戦犯じゃないか」と責められると、今度は日本民主主義の旗手として反軍国主義の急先鋒のような論を書く。つまりお先棒担ぎがうまい人なのだ。

 言っては悪いが、中谷巌氏にもそういう気配がある。気をつけてほしい。

 石川氏は1975年秋から冬にかけてこの文章を書いたのだろうが、1975年という年はどういう年だったか、もう一度おさらいをしておこう。日本の首相は三木武夫。佐藤栄作長期政権の1972年7月5日に開いた自民党第27臨時大会で田中角栄を新総裁に選出、7月7日に第1次田中角栄内閣が成立した。この年の9月1日にハワイでニクソン大統領と日米首脳会談。9月29日には日中共同声明を発表して日中国交回復。これにより日台条約は失効した。72年11月には衆院解散、12月総選挙。72年は2月に浅間山荘事件とニクソン訪中・上海米中共同コミュニケ。4月に外務省公電漏洩事件もあった。

 1973年は1月27日にパリで米国、南北ベトナムと臨時革命政府の4者がパリで和平協定・議定書に調印、法的には1946年の第1次インドシナ戦争以来27年間も続いていた戦争は終わった。しかし、これは米国がベトナムから撤兵するという儀式に過ぎず、南北ベトナムの戦争は続き、最終的には北ベトナムによる吸収合併となる。73年8月8日には金大中拉致事件。9月11日にはチリで軍部のクーデターが発生、アジェンデ大統領は大統領官邸で自殺した。10月10日には田中・ブレジネフの日ソ首脳会談で平和条約締結に関する共同声明を発表した。

 1973年10月6日、エジプト軍はスエズ東岸へシリア軍はゴラン高原へ進撃しイスラエルと交戦、10月13日にはサウジアラビアが参戦したことでアラブ側は10カ国が参戦した。10月16日にはOPEC湾岸6カ国が原油公示価格を70%値上げ。10月17日にはOAPEC生産削減と供給制限(石油戦略)を決定。18日にはサウジアラビアが原油の対米・オランダ輸出禁止。OAPEC諸国が追随した。10月21日の国連安保理の中東戦争に関する米ソ共同提案の12時間以内の現状停戦を採択し、22日にイスラエルとエジプトが受諾。23日にはシリアも受諾したが、PLOは戦闘継続を宣言した。

 これが第4次中東戦争と石油ショックである。ローマ・クラブは10月24日開いた東京大会で「成長の限界」を打ち出し、21世紀の大破局を避けるには「ゼロ成長」が必要だ、というショッキングな提言をした。11月には日本のスーパーからトイレットペーパーが主婦の買い占めでなくなる、というトイレットペーパー騒ぎが起き、驚くべき「狂乱物価」。田中角栄首相の日本列島改造論で土地投機に注ぎ込まれていたカネが悪性インフレを起こした。田中首相は政敵の福田赳夫氏を蔵相に起用し、物価沈静化を図った。

 1974年1月の田中首相の東南アジア5カ国歴訪ではタイ、インドネシアで反日デモ、日本製品ボイコットにあった。「日本経済帝国主義の侵略に反対」という主張で日本への恨みがこもる東南アジアという現実に「豊かな社会」の日本人は戸惑った。

 1974年7月7日の参院選挙は「企業ぐるみ選挙」で自民党敗北。8月15日には朴正煕大統領が在日韓国人に狙撃され、大統領夫人が死去。日韓関係が緊張した。10月初旬発売の文芸春秋11月号に田中角栄金脈批判が掲載され、最初、日本の新聞は無視しようとしたが、米国の新聞などが報じたため一斉に報じ、自民党内からも田中批判が噴出。11月18日のフォード米大統領が現職の米大統領として初来日したのを置き土産に田中首相は11月26日に辞意を表明。12月1日に椎名自民党副総裁が三木武夫を新総裁に推薦する、という「椎名裁定」を出して、12月9日に三木内閣が成立した。

 とまあ、そういうことで、佐藤内閣から田中内閣を経て三木内閣に至ったのだ。そういう時代の話である。

 <そして石川氏は言う。「サンケイ新聞はいつから軍国主義的になってきたのか。それとも産業界が戦争を待望しているので、それを反映しているのか。いずれにせよこの雑誌を見ると、原爆の悲惨な経験などは夙に忘れているとしか思われない」>

 <ここまででも中々ショッキングな発言であるが、石川氏は「この雑誌のような言説がくり返しくり返し流布されているうちに軍国主義は育てられて行くのだ」と言い、最後を「私は『正論』のような雑誌がそのような悪質な報道の最初の杭をここに打ち立てるのではないかと恐れるのだ」と結んでいる。>

 <私は「少なからず」どころか、大変びっくりした。私の承知しているかぎり、新聞「正論」と雑誌「正論」とは編集の主体もちがい、雑誌のほうは新聞「正論」のいくつかを転載しているが独自の編集をしているようである。私は正直言って(雑誌一般の熱心な愛読者でないせいもあり、自分のが転載されることが少ないせいもあって)雑誌「正論」をあまり読んでいない。この九月号も全く読んでいなかったのだが、「サンケイ新聞が軍国主義的になってきた」ということでは、新聞「正論」の執筆者の一人としても聞きずてにはできないので、私は大急ぎで雑誌「正論」九月号をさがし出して精読してみた。以下はその感想である。>

 <軍国主義的論調にみちあふれ「全頁をあげて、何か人心を戦備に駆り立てる」勇ましいラッパでも鳴りひびいていると思ってこの雑誌を手にした私は拍子抜けしてしまった。石川氏はべつの雑誌を読んだのではあるまいか、と思ったほどである。モーゲンソーが核兵器を論じているが、これは米ソの問題であり、例の自衛隊クーデター論文というのは国会でとりあげられた例の事件であり、解説者は「かりそめにもクーデター研究などやれば、かえって共産革命をつけ入らせることになるだけだろう」と警告しさえしているし、加瀬英明氏の自衛隊体験記も、駄目だと思っていた自衛隊も案外やっているという、見直した報告である。「非常事態発生! 陸海空自衛隊はかく戦う」という架空のルポは結局、日本の自衛力がどの程度かということを素人にも分るようにお話にまとめたものにすぎない。納税者(タクスペイヤー)として、このくらいの知識はあってもよかろう。石川氏はむかしの「日米もし戦わば――」などを連想したらしいが、よく読んでいないのではないか? 私があえて石川氏の「サンケイ新聞、軍国主義化」発言の根拠を推測するとすれば、おそらく「日本は核武装すべきか--生存のための研究会」という論文一篇によるのではないかと考える。>

 <さてこの論文であるが、この研究会は実は文芸春秋七月号に「楽園は終った」という安全保障論を書いて、国際的に「センセーションを巻き起こした」会らしく、この「楽園は終った」も私はいまはじめて探し出して読んだのだが、くらべてみると--国際的反響の大きさにびっくりしたのか――「正論」のほうはトーンダウンして、いわば二番煎じの感をまぬかれないものである。前者には、核武装のほうが安上りで、「ジェット機一機で住宅がどれだけ建つという素朴な庶民の声にも応えられることになる」とか「核武装を多くの選択(オプション)の一つとして持つべきことに、世論の注意を喚起したいのである」とかいう誤解をまねきそうな言葉があるが、雑誌「正論」のほうでは「われわれは核アレルギーを打破すべきことを主張しても、核武装すべきだとは主張していない」と強くことわっている。石川氏は「核武装までも暗に力説しているようなところもある」と言うが、むしろこれは「楽園は終った」のほうに当てはまるのではないか。>

 <もっともこの「生存のための研究会」が核武装は主張しないが、核アレルギーは打破すべきであるというとき、どの程度の核アレルギーを意味しているのか、私にもかならずしも明確ではない。日本共産党が抗議するような米軍の核模擬爆弾投下演習や、あるいは原潜寄港に対するアレルギー程度のことなのか、この会の主張の歯ぎれはよくない。この会がもっと防衛についての論議がおこることをすすめ、国民的合意がつくられることを提唱しているのはわるくないが、自衛隊違憲論や安保論争のレベルではなさそうなところにむずかしさがある。>

 <とにかく私の読んだかぎり、雑誌「正論」の防衛特集は、石川氏のいうように「全頁をあげて、何か人心を戦備に駆り立てるような語調」はなく「核武装までも暗に力説して」いるふうもない。むしろ新聞「正論」から高坂正堯氏の「核防批准のあるべき姿」が採られていて、その一節「逆に、日本は通常軍備による進攻に対しては、かなり守り易い存在である。なんといっても日本が島国であるという事実が大きいし、それに日本列島が細長いことなど、利用できる点がいくつもある。それ故、不幸にしてアメリカの『核のカサ』がなくなり、軍事的進攻の可能性が生じた場合においてさえ、日本の安全保障政策の第一の努力は軍事衝突を通常軍備のレベルに抑えることになければならない」と、きわめて理性的な判断も述べられている。ペンクラブの会長までしている石川氏がこういう判断もふくめて「サンケイ・軍国主義化」を言うのは困ったことである。>

 <私には見当もつかぬことだが「産業界が戦争を待望している」徴候がどこかにあるのだろうか? これではアレルギーどころか、妄想としか思えない。しかしいかに私が力説しても、妄想患者はどんな枯尾花をも幽霊に仕立てあげる傾きがあるから、「正論」がそんなに軍国主義の「悪質な報道の最初の杭」を打ち立てているかどうか、やはりその判断を冷静な読者諸氏にゆだねるほうが賢明かも知れない。>

 こう読んでみると、良識派の西氏の言い分が至極もっともような気がしてくる。時代というものは怖いものだ。当時はこの西氏の論は極右ととられたのかもしれない。そして、石川氏が「良識派」と見られたのだろう。

 現在の私たちを取り巻く環境で、同じようなことが進行している可能性がある。後世の歴史に耐えうるようなしっかりとした地に足をつけた思考をしたいものだ。

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2009年7月13日 (月)

臓器移植法改正A案が成立=解散前の異常な議員心理が原因だと~朝日新聞、読売新聞、毎日新聞ウェブ版から

 参院は選挙前のバタバタで良識を欠いてしまったようだ。臓器移植法が衆院通過と同じA案で成立してしまった。どうなるか、日本社会のアレルギーが今後噴出してくるのではないか、と想像している。
 読売新聞のネットHPは<脳死は「人の死」、改正臓器移植法が成立>で次のように報じた。
 <臓器移植法の改正をめぐり、脳死を「人の死」とすることを前提に臓器提供の年齢制限を撤廃する改正臓器移植法(A案)が13日午後、参院本会議で賛成多数で可決、成立した。>
 という前文。本来ならば1面トップだろうが、衆院解散日程が決まったために、これは各紙夕刊で1面2番手扱いになるだろう。
 <1997年に成立した現行法下では禁じられている15歳未満からの臓器提供に道が開かれることとなった。改正法は公布から1年後に施行される。採決は押しボタン方式で行われ、A案の投票結果は、賛成138、反対82だった。共産党を除く各党は党議拘束をかけず、各議員が個人の判断で投票した。>
 この票差は何なんだろう? 参院でも河野太郎氏が多数派工作をしたのだろうか?
 <改正法は「脳死は人の死」とする考えが「おおむね社会的に受容されている」との認識に立ち、臓器を提供する場合に限って脳死を人の死としている現行法の考え方を大きく変更するものだ。>
 社会的に受容されている、とは言えないのに。
 <現行では意思表示カードなど生前に本人が書面で同意していることを臓器提供の条件としているが、改正法は、本人の意思が明確でない場合は、家族の承諾により臓器提供ができる。また、現行制度は意思表示が可能な年齢を15歳以上としているが、改正法は意思表示を臓器提供の絶対的な条件に設定していないため、15歳未満でも家族の同意で臓器提供ができる。>
 この辺はどうでもいいのだ。
 <現行法が成立した1997年以降、国内での脳死臓器移植は81例だが、日本移植学会や患者団体などは、書面による本人の意思表示を求める臓器提供条件と、年齢制限によって、脳死臓器移植の機会が大きく狭められているとして法改正を求めていた。>
 これは経過説明部分。
 <臓器提供条件の緩和のほか、書面により親族への臓器の優先提供の意思を表示することができる規定も盛り込んだ。>
 これはどういう問題を生むのだろうか?
 <この日の参院本会議では改正法に先だって、改正法の骨格を維持しながら、脳死を現行法通り臓器移植時に限り「人の死」とする修正案が採決されたが、反対多数で否決された。またA案の対案として参院野党有志が提出した「子ども脳死臨調設置法案」は、先に採決された改正法が過半数の支持を得たため、採決されずに廃案となった。>
 修正案は否決されたのか。どうなっているのだろう?
◆朝日新聞
 朝日新聞も<「脳死は人の死」臓器移植法成立/A案、参院でも可決>のタイトルでネットにアップしていた。
 <「脳死は人の死」を前提に、本人の意思が不明な場合でも家族の承諾で0歳からの臓器提供を可能にする改正臓器移植法(A案)が13日、参院本会議で可決、成立した。施行は公布から1年後。現行法は臓器移植の場合に限って脳死を人の死と認めており、死の定義を大きく変えるとの懸念もある。1997年の同法制定後、改正は初めて。>
 という前文だ。
 <参院議員は現在241人。採決は押しボタン投票で行われ、欠席・棄権を除いたA案の投票総数は220(過半数111)、賛成138、反対82だった。野党有志が提出した子ども脳死臨調設置法案に賛成の共産党はA案に反対。他の主要政党は個人の死生観にかかわるとして党議拘束をかけずに採決に臨んだ。>
 過半数の数字などが詳しい。
 <A案に先立ち、「脳死は人の死」を臓器移植の場合に限ることを明記した修正A案も採決されたが、投票総数207、賛成72、反対135で否決された。子ども脳死臨調設置法案はA案成立により採決されないまま廃案となった。>
 この数字が意味するものを後で考えなければならない。
 <A案をめぐっては、「脳死は人の死」と法律で位置づけることが、移植医療以外の分野にどんな影響を与えるのかが議論の焦点となった。宗教団体や、脳死後も心臓が長期間動き続ける「長期脳死」の子どもがいる家族らの反対が根強く、参院では野党を中心に移植要件の緩和に慎重な議員から修正を求める声が相次いだ。>
 そうだったのだ。
 <そんななか、A案が過半数の支持を集めたのは、衆院解散・総選挙も絡んで政局の流動化が予想されることから、今国会での改正実現を優先する議員心理が働いたものとみられる。>
 やはりそうだったのか。国会の不作為を攻められては堪らない、という議員心理だ。
 <A案は2006年3月に中山太郎衆院議員(自民)らが提出した。親族へ臓器を優先的に提供することも認める。脳死からの臓器提供の機会が増えることを望む移植学会や患者団体が支持を働きかけ、衆院では263人(うち自民党が202人)の議員が賛成した。>
 中山太郎氏は確信犯だ。
 <臓器移植法は1997年10月に施行された。脳死からの臓器提供には、本人があらかじめ臓器提供の意思を書面で示し、家族も拒まないことが必要で、15歳未満からの提供は禁止されている。書面による意思表示は進まず、脳死からの臓器提供は12年間で81例にとどまっている。国内で移植を待つ待機患者が解消されない一方、世界保健機関(WHO)が渡航移植を規制する動きを見せたことから、今国会で改正論議が高まった。>
 ということ。
 つまり、衆院解散前の異常な議員心理がこのような結果を生んだ、という分析だった。だから、衆院は仕方ないにしても参院は慎重な審議をしてほしかったのだが。
◆毎日新聞
 毎日新聞のウェブ版も<臓器移植法/参院も「A案」で成立/「脳死は人の死」>というタイトルでアップしていた。鈴木直記者の署名記事だった。
 <臓器移植法改正案は13日午後、参院本会議で採決され、3法案のうち、脳死を一般的な人の死とする「A案」(衆院通過)が賛成138、反対82の賛成多数で可決、成立した。15歳未満の子どもの臓器提供を禁じた現行法の年齢制限を撤廃し、国内での子どもの移植に道を開くとともに、脳死を初めて法律で「人の死」と位置づけた。ただ、死の定義変更には強い慎重論が残る。このため、A案提出者は審議の中で「『脳死は人の死』は、移植医療時に限定される」と答弁し、配慮を示した。>
 答弁でどう言ったって仕方ない。誤魔化しだ。
 <現行法では15歳以上でないと臓器提供ができず、小児が自分のサイズにあう臓器の移植を受けるには渡航するしかない。だが、世界保健機関(WHO)は海外での移植の自粛を求める方向で、将来渡航移植の道が狭められるのは確実だ。1997年の法施行以降、国内の脳死移植は81件にとどまっており、A案は年齢制限の撤廃とともに脳死を人の死とすることで、臓器提供の機会拡大を目指す。>
 ひどい話だ。
 <臓器移植法の改正をめぐっては6月18日、衆院でA案が投票総数の6割の賛成で可決され、参院に送付された。しかし、A案に対し参院側は「移植の拡大は必要だが、死の定義変更には社会的合意がない」と考える議員も多い。このため、与野党の有志はA案を踏襲しつつ、脳死の定義は現行通りとする修正A案を提出した。>
 それだったのに。
 <一方、A案支持の中核議員は「脳死の位置づけを変えたらA案の意味がない」と修正を拒否し、A案派は分裂した。しかし「一般医療で脳死後の治療中止が広がりかねない」といった慎重論には配慮せざるを得ず提出者は新しい死の定義について「臓器移植法の範囲を超えて適用されない」と答弁した。>
 <A案への懸念は、本人の意思が不明でも家族の同意だけで臓器摘出ができる点にもある。臓器摘出後に本人が拒否していたと分かることも否定できない。成人より難しいとされる、子どもの脳死判定も課題となる。>
 脳死判定、どうするつもりなのか?
 <採決は修正A案、A案に続き、現行法の枠組みを残しながら子どもの臓器移植のあり方を1年かけて検討する「子ども脳死臨調設置法案」の順で行う予定だったが、修正A案が賛成72、反対135で否決後、A案が可決されたため、臨調設置法案は採決されなかった。臨調法案に賛成の共産党以外の各党は党議拘束をかけず、各議員が自らの死生観に基づいて投票した。>
 死生観に基づいた投票だったのか、多数派工作が行われたのか?

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2009年6月24日 (水)

ハル・ノートを唯唯諾諾受けて戦わず、今以上の経済敗戦を経験するより、戦って負けて良かった、と総括した江藤淳氏が没後10年だそうだ~SAPIO7月8日号特集から

 小学館の雑誌「SAPIO」の7月8日号の第2特集[歴史を振り返れば現代が見える]は<没後10年いま蘇る 江藤淳の「遺言」>。いろいろな人が書いていた。文芸評論家の富岡幸一郎氏の<もしも江藤淳が健在であれば現在の日本をどう批評しただろうか>にあるように江藤は平成11年(1999年)7月21日自殺した。没後10年だ。時代の精神も体現せず、個としての三島由紀夫は将来忘れられるだろうと思う。大江健三郎も逆の意味で、後世の人々に忘れられるだろう。しかし、江藤淳はアラウンド還暦の私が死んだ後も輝きを増すだろうと思う。なぜならば、本当の意味でのナショナリズムを自らの生き方で体現した男だからだ。

 そのナショナリズム、上質の、本物のナショナリズムは時代に受け入れられず、保守の論客と珍重されながらも、晩年は自らの主張とは全く逆の世相が深まり、日本のどうしようもなさを嘆きながら病魔に苦しみながら、自殺したのだろう。

 富岡の原稿には江藤の言葉が引用されていた。書き写そう。

 <人が死ぬ如く国も滅ぶのであり、何時でもそれは起こりうる。

 <人間は、言語以外によって、世界を把握することはできない。映像に意味を与えているのも言語であり、すべての現象を、我々は言語で区切って認識している。だから、言語、特に母国語の教育は重要なのだ。どういう言語の枠組みで何を見るかということがはっきり把握できていないと、初めから終わりまで二次元的な、ミミズがはっているような認識しかできない。だが、少なくとも三次元、時には四次元的な把握をしなければ、国家社会、あるいは国際社会のすべてをひっくるめた人類の将来など考えられない。

 <日米戦争を”世界最終戦”と規定したのが、稀代の戦略家石原莞爾のおかした最大の誤りだったと、私はこのごろ考えるようになった。それは”最終戦”ではなく、”持久戦”(中略)であり、消耗戦である。つまり、じつはそれは”終わりなき戦い”なのである。>

 遠藤浩一・拓殖大学教授の<「親米」に溺れず「反米」を煽らず江藤が説いた「他者としてのアメリカ」>には、1996年に橋本竜太郎首相とクリントン大統領による「日米安全保障共同宣言」が取り交わされた。冷戦終結を受けて、対ソ軍事同盟という意味合いが強かった日米安保をアジア・太平洋地区の脅威に対処する条約にする、という実質的な条約改定だった、として江藤が、

 <世界の中でもっともパワーバランスが流動化しているアジア・太平洋地域において、その流動的な情勢にクサビを撃ち込んだところに、この再認識の重要性がある。>

 としたうえで、しかし、それは、

 <北朝鮮からミサイルが飛んでこようが、中国が新たに開発したミサイルを能登沖に落とそうが、こうした核の脅威に対しては米軍が対応するということである。それは、いいかえれば、日本は今回の再認識において日本の安全をアメリカの核能力に託し続けるという選択をしたことになる。

 と13年前に早くも日本の安全保障の致命的欠点をぐさりと指摘していた、とある。今書かれたと言われたら信じてしまいそうだ。

 杉原志啓・学習院女子大学講師の<無謀と知りつつ起たねばならぬ「戦」があるー―西郷隆盛を通して訴えた立国の源泉たる「精神気魄」>も面白い論考だったが、この中でも江藤の言葉が出てくる。

 <ハル・ノートを、あのまま受け入れていれば戦争をしなくてすんだでしょう。しかし、受け入れていても、戦争をして全部敗けたと同じ結果になるだけです。戦争をしておいたために、まだ日本はもっているのです。そのことを絶対忘れてはいけない。

 敗戦必至の戦いに突き進んだ西郷について、

 <人間には、最初から「無謀」とわかっていても、やはりやらなければならぬことがあるからである。>

 そして、江藤は今や日本は内側から崩れていくようだ、として、

 <(その)崩壊と頽落を、死を賭してそれを防ごうとした者どもがいたという事実そのものによって、国の崩壊を喰い止めなければならない。何故なら、このようにして死んでいった人々の記憶は、かならず後世に残るからである。死者たちの記憶を留めた後世が、何らの記憶すら持たぬ後世とは違うことはいうまでもない。ならば後世の記憶となるために死のう。

 江藤は西郷が「今、国を守らなければ必ず国は滅びる」という精神気魄ゆえに戦に踏み切った、と書いている、というのが杉原氏の解釈である。江藤は大東亜戦争でまたまた爆発したこの「曲譜」を今の日本人が忘れ去っていること、いやむしろ、必死に忘れたがり、目をそむけようとしていることに怒る

 <国民の気概、国、国民は一体何を求めて生きるのか――という根本的な問いを忘れて久しい。経済は悪いが、国民みんなが小金持ちになり、全部寄せると千兆以上の資産がある。だが、精神はゼロ以下になった。これが国なのか、という根本的問題に直面している。

 つまり、ひたすら無事安寧を希う「精神はゼロ以下」の日本。「戦」の文字すら恐れ、忌避する日本。国がらみの人さらいにあってさえ、手も足も出さぬ、の日本。亡き坂本多加雄氏も「遺憾ながらこの人間の世には暴力をもってしか解決できない事柄がある。ところが戦後の日本人は、そうした『』非常の変』=『戦』への構えからして『ゼロ』なのだ」というのだ。

 そして、江藤が昭和53年(1988年)から文芸時評をやめ、占領軍による言論弾圧の研究に入る。これが江藤の歴史に残る仕事なのだと思う。巧妙に仕組まれたGHQの検閲。検閲されていたことすら知らずに、僕らは少年時代を過ごしたのだ。富岡氏が引き続き書いている。長いタイトルは<言語を奪い、文化を殲滅し、歴史を改竄した占領期の「閉ざされた言語空間」が今もこの国を支配している>である。

 富岡氏は「江藤淳が挑んだのは米国の占領政策の実態を改めて白日のもとに晒すことで戦後史を民主化の歴史として見るようなイデオロギーが徹底して偽物であり、日本人の自己欺瞞であることを暴き出すことであった」として、江藤氏の、

 <なぜ”戦後史”は”敗戦史”であってはいけないのか? そしてそれが敗戦史であれば、この歴史は、獲得したものの歴史というよりはむしろ喪失の歴史であり、建設の歴史というよりはむしろ崩壊の歴史としてとらえたほうが、一層正確な実像を表すのではないだろうか。

 戦後史を「喪失の歴史」「崩壊の歴史」として捉え直す時、初めて見えてくるものがある、それは戦後史がタブーとしてきた現実を明らかにすることだった、と富岡氏は書く。

 江藤氏の言葉のデフォルメだろうか。富岡氏は、

 「この『喪失の歴史』を日本人は直視せずに「『民主主義』と『自由』と『平和』という空虚な観念によってごまかし続けてきた。経済的繁栄という物質の虚構によって自らを欺き『戦後』体制によって利益を得てきた国内の様々な勢力は、このタブーをタブーとして意識化し自覚することを、あらゆる手段を講じて阻止してきた。政治・教育・文化等のあらゆる分野にわたる”戦後利得者”たちは『日本』が『日本でない国』となろうが一向に構わない。そして、その『利得の構造』は米ソ対立という冷戦構造によって支えられていた

 と書いている。江藤氏の著作に入れてもおかしくない文章だろう。

 この続きのように江藤は言う。

 <今日の日本に、あるいは”平和”もあり、”民主主義”も”国民主権”もあるといっていいのかも知れない。しあし、今日の日本に”自由”は依然としてない。言語をして、国語をして、ただ自然の儘にあらしめ、息づかしめよ。このことが実現できない言語空間に”自由”はあり得ないからである。

 <日本の読者に対して私が望みたいことは、次の一事を措いてほかにない。即ち人が言葉によって考えるほかない以上、人は自らの思惟を拘束し、条件づけている言語空間の真の性質を知ることなしには、到底自由にものを考えることができない、という、至極簡明な原則がそれである。

 これらの言葉は「閉ざされた言語空間」の中の言葉だ。

 「閉ざされた言語空間」は1989年文芸春秋刊。文春文庫になったが、品切れ中らしい。ちくま学芸文庫の「江藤淳コレクション1」には全文ではなく、抄録が載っているそうだ。

 昔の昔「1946年憲法ー―その拘束」は読んだと思うのだが、覚えていない。1980年文芸春秋刊だが、私は文春文庫版で読んだ。当時はあまり、そういう問題意識がなく、面白くなかったことを覚えている。

 江藤淳しの言葉は過激に聞こえても、それがナショナリズムだ。ナショナリズムを怖がりすぎるため、ナショナリズムを押さえつけすぎると、噴火した際のマグマはものすごく大きくなるのではないか。江藤の言う通り、日本は年々悪くなっていくようだ。末法の世の中がやってきたのか。

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2009年5月28日 (木)

中西寛氏が推薦する「ポスト冷戦後」論文~毎日新聞5月28日朝刊[論壇を読む]

 毎日新聞5月28日朝刊文化面[論壇を読む 5月]は京都大教授・中西寛氏による<20年の「ポスト冷戦」期/日本がとるべき政策は>だった。

 取り上げている論文は次の通り。

①「ポスト冷戦」の終わり(納家政嗣)=アステイオン70号
②「砂社会」ロシアの復活(袴田茂樹)=同上
③中国共産党政権の本質は何も変わらない(清水美和)=中央公論6月号
④平成皇室の「象徴力」とその危機(ケネス・ルオフ)=世界6月号

 最近、いろいろな紙面で「アステイオン」という雑誌が出てくるのだが、近くの本屋には置いていない。丸善にでも行かないとないのかもしれない。年に2回ほど出ている雑誌で、昔はTBSブリタニカが出していたが、売れなくて休刊していたと思った。1000円しない雑誌だから、買うのには抵抗感はないのだが、普通の本屋でも置いてほしい。

 中西氏の論を読もう。

 <今年はベルリンの壁が崩壊し、アメリカのブッシュ(父)大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が冷戦の終結を高らかに謳ってから20年目になる。しかし、当時の希望に満ちた空気はほぼ一貫して裏切られ、現在は世界経済危機の中にある。今の我々の位置を理解する上で20年間の軌跡を振り返ることには意味があろう。>

 というのが中西氏の今回の論文を通底するであろう問題意識のようだ。

 <『アステイオン』は内外の政治学者、経済学者が冷戦終結後20年間の総括を試みた本格的な特集を組んだ。代表的な論考として国際政治学者の納家による①を紹介する。それによれば、過去20年間の「ポスト冷戦」期は、アメリカ発の新自由主義思想が普遍性のある価値ないしイデオロギーとして世界的に共有され、その一環として進められた市場経済の浸透や政府規制の緩和が格差の拡大、市場の暴走、テロなどの非対称的脅威といった諸問題を顕在化させる過程と捉えられる。現在はこうしたアメリカ主導の新自由主義に対する反省ないし反動の時期であり、政府規制の拡大やロシアの復活、中国などの新興国の台頭などといった国家の再評価の時代ではあるが、それは決して「ポスト冷戦」前の時代への逆行を意味するわけではなく、グローバリゼーションやその中でのアメリカの主導性は基本的に保たれる、という認識である。>

 これが「ポスト冷戦後」ということなのか。

 納家氏の論文を読んでいないので、何とも言えないが、少なくとも地政学者、戦略学者らによる「ポスト冷戦後」議論を取り込んだものになっていないと面白くはないのではないか、とも思った。

 読んだばかりの孫崎享氏を何度も引用してしまうのだが、「日米同盟の正体」(講談社新書)は冷戦後に対応する米世界戦略が1993、1994年ごろに策定され、その後、2001年の9.11を経て、より米国世界一極支配的戦略が色濃くなった、と見ていた。その延長線上に2005年の日米安保条約の実質的見直しがくる、という論だった。

日米同盟の正体~迷走する安全保障 (講談社現代新書) 日米同盟の正体~迷走する安全保障 (講談社現代新書)

著者:孫崎 享
販売元:講談社
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 また、経済学者たちも「帝国」概念を使う人、使わない人の差はあるが、米国中心のドル循環体制の成立と強化を分析する中で、ポスト冷戦後に迫ろうとしていた。

 当然、そういう議論を取り込んだ論文なのだろう。読んでみたいものだ。

 <袴田は②で冷戦のもう一方の当事者ロシアの側から過去20年を振り返る。ソ連崩壊後のロシアで知識人たちが主導した自由化、西側追随は1990年代を通じて幻滅へとつながり、一般国民の中に潜在していたナショナリズム、大国願望の復活に帰結して大国ロシアの復活を唱えるプーチン体制の強大化を支えた。しかし、メドベージェフとの二頭体制が始まった昨年、経済危機の開始によってロシアの自信は急速に崩壊し、ロシア独自の道への愛着と国際協調主義の間で戸惑いが広がりつつあると袴田は分析する。>

 この袴田茂樹・青山学院大学教授の分析は正しいと思う。戸惑いが広がって、世論が分裂するのか、プーチン―メドベージェフ双頭体制が求心力を持って統合を強化するのか、今年の大きな見所なのか? 日本にとっては、北方領土問題も絡んでくる。

 <社会主義体制の崩壊を経験したソ連東欧諸国に対し、中国は民主化運動を弾圧して体制の維持に成功し、グローバリゼーションの潮流に乗って世界的影響力を高めつつある。しかし、中国を観察し続けてきた清水は③で、天安門事件後20年を経て中国の悩みも深まっていることを指摘する。>

 清水美和氏は東京新聞の論説委員。今でも覚えているのは温家宝来日の前に光華寮裁判で最高裁が予想もしなかった時期に判決を下し、台湾の負け、中国(胡錦濤の中国)の勝ち、との裁きを出し、日を置かずに従軍慰安婦などの日本国への請求権を認めない、との判決を出し、各地裁、高裁で係争中の裁判の指針を出したことと、温家宝来日を結びつけて論じていたことだった。司法と行政の独立とは真っ向から対立するのだが、日本という国の国家意思を決める際に、最高裁事務局と外務省条約局とで続けられている水面下の接触が生きたケースだった、という趣旨だったと思う。

 相当詳しく取材している記者なのだなぁ、と舌を巻いたものだった。

 去年くらいに出たちくま新書の「『中国問題』の内幕」も面白かった。注目の中国分析家である。

「中国問題」の内幕 (ちくま新書) 「中国問題」の内幕 (ちくま新書)

著者:清水 美和
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 <天安門事件は改革開放の恩恵に恵まれなかった知識人、学生の不満が鄧小平と趙紫陽の路線対立に利用されて起きた事件だった。勝利した鄧小平とその継承者は体制批判の抑圧と市場開放の急進化を両立させる路線をとった。今や共産党は経済的特権集団となり、多くの知識人もそこにとり込まれたが、逆に労働者、農民の生活は困窮し、不満は鬱積している。今回の金融危機にあたって西側との協調を維持すべきか、中国独自の道を主張すべきか、潜在的な路線対立もほの見えるという。>

 中国共産党に入っている人は金持ちになり、非党員は金がない。不満も出てくるだろう、と思うが、その不満を情報統制と警察力で押さえつけられている、というのは驚くべきことだ、と思う。

 <20年前に繁栄の絶頂期にあった日本はバブル崩壊以降、経済的、政治的混迷が続いてきた。その間に大きく変化したのは天皇、皇室に対する国民の関心、発言のあり方である。④は外国人研究者の視点から天皇夫妻の「象徴」としての取り組みと、皇室が抱える課題を整理した好論文である。>

 これも読みたいが……。

 <他方、未来に向けて日本が国際政治上とるべき政策について論壇の議論は活気に乏しい。今号で休刊となる『諸君!』も過去を振り返るトーンが強い。櫻井孝昌『アニメ文化外交』(ちくま新書)は、日本外交のこのテーマでの取り組みを紹介していて興味深いが、今後予想される国際政治の荒波をアニメ外交だけでは乗り切れまい。近づく総選挙をきっかけに本格的な外交論議を期待したい。>

 中西氏の言う通り、アニメじゃないでしょ、麻生さん。

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2009年5月11日 (月)

臓器移植問題、毎日新聞の社説が良かった~各紙の4月末から5月11日までの社説

 5月11日の毎日新聞社説<臓器移植法改正/にわか勉強では困る>はまともな論だった、と思う。今の国会の臓器移植法改正の動きを冷静に分析し、「急ぐな」と提言しているのだ。

 その論拠は、

①世界保健機関(WHO)の移植指針改正の主眼は臓器売買にからむ「移植ツーリズム」の規制で、通常の渡航移植制限ははっきりしていないし、WHOの指針改正は1年先送りされる見通し。

②臓器移植法変更は人々の死生観や医療への信頼にかかわる重い課題で、国会議員が勉強不足のまま「一夜漬け」で採決すべきでない。

③現行法では脳死者からの臓器移植には本人と家族両方の同意が必要。長年の議論で「脳死は人の死」と考えない人にも配慮した内容。15歳未満の子供からは臓器摘出できない。河野太郎氏らの「A案」は脳死者を一律「死者」とみなし、年齢にかかわらず、本人が拒否していなければ、家族の同意で臓器を摘出できる内容だ。子供は大人より脳死判定が難しいとの指摘もあり、脳死の背景に虐待がないことをどう確かめるか、の課題も残る。

④「脳死は人の死」と考えない人も提供者となりうることを国民が受け入れるか、よく検討する必要がある。

⑤臓器提供同意可能年齢を12歳まで引き下げる「B案」や15歳未満は家族の同意で臓器提供可能とする「D案」もある。大人でも難しい問題を12歳の子供に決めさせられるのか。

 というものだった。全く同感である。

 わが意を得たり、と思った。

 というのは、それまで、各紙の臓器移植に関する社説は「何しろ困っているのだから早く決めろ」という乱暴な論が目立ったからだ。

◆読売新聞の大衆受けを狙った社説

 最近の例で言うと5月6日の読売新聞社説<臓器移植法改正/国内で完結すべき命のリレー>がそうだった。

 <日本国内で臓器移植を厳しく制限しながら、海外で臓器をもらう。身勝手な振る舞いと見られても、やむを得まい。5月中に世界保健機関(WHO)が「臓器移植は自国で完結させるべきだ」との指針を決定する。背景に日本の現状への批判が含まれている。この“外圧”を前に、国会は連休明けから臓器移植法改正案を本格的に審議することになった。採決の際には、与野党とも党議拘束をかけない見通しだ。国会議員一人ひとりが、脳死と移植医療をどう考えるか、重い問いと向き合わねばならない。>

 という書き出しを見れば分かるように、まず日本人が身勝手だ、それを是正する必要がある、という論理が先に来ている。

 <現行の臓器移植法は1997年10月に施行された。だが、11年半の間に行われた脳死移植は81例だ。米国では毎年数千例、欧州の主要国でも年間数百例の脳死移植があるのに、あまりに少ない。>

 と日本の異常さを国際比較の中で浮き彫りにする手口で論が進む。

 <欧米などでは、本人の意思が分からない場合は家族の同意で臓器提供が可能である。ところが日本では、まず本人がカードなど書面で提供意思を残していることが絶対条件だ。それでも家族が反対すれば移植はできない。提供意思の表示能力があるのは民法上15歳からとされるため、乳幼児は臓器の大きさが合わず、国内での移植はまず不可能だ。このため、多くの子どもが支援金を募り、海外で移植を受けてきた。大人も、中国で死刑囚から摘出したと見られる臓器の移植を受けるなどしている。WHOの指針により、こうした渡航移植は強く自粛を求められる。>

 何か日本人が「ベニスの商人」のシャイロック並みに描かれている。

 読売新聞の論説委員に訴えたい。今や日本の新聞の社説はすぐに各国語に翻訳され、内容次第ではインターネットで各国の一般人が閲読可能な状態になっている。このような書き出しの「国辱」ものの社説を反日中国人らは喜んで転電し、反日をあおるだろう。

 読売社説は国会の3案を説明し、

 <「人の死」における脳死の位置付けや、虐待されて脳死となった子どもを見分ける体制整備など、詰めるべき論点は多い。死生観の絡む、難しい問題である。だが、これからは海外で臓器がもらえなくなることははっきりしている。国内だけで命のリレーをどう形成するのか、もはや答えを先送りすることはできまい。>

 と、留保条件をおまけのように付けながら、早期採決を促しているのだ。論理的でないことこのうえない。詰めるべき点が多いのならば、宗教学者や宗教家、倫理学者、脳科学者、現場の医師、子供を脳死で失った親、わが子の臓器移植を待ち望む親らを集めた徹底討論をするなりして、論議を重ねるべきではないか。困っているのだから、基準を下げろ、国際基準に合わせろ、という論議は日本人の矜持を大切にする読売新聞の論説委員会とも思えぬ非論理的で粗すぎる論だ、と思う。

◆産経新聞も竹中平蔵氏と付き合ってからおかしくなった

 国粋主義者の集まりだったはずの産経新聞もこの問題では欧米中心のキリスト教的粗雑さを容認する主張をしていたので驚いた。4月21日「主張」(産経新聞の社説の呼び方)である。タイトルは<臓器移植法/ドナー増加を促す改正に>である。

 <長い間たなざらしにされてきた臓器移植法の改正案を成立させようとする機運がやっと盛り上がってきた。世界的なドナー(臓器提供者)不足の中で、移植する臓器がなく、命を失う患者が後を絶たない。人の生命にかかわる重要な法案だ。きちんと審議し、一刻も早く実現させるべきだ。>

 という前文を読むだけで、結論が見える。産経新聞はいつから「パンとサーカス」の新聞になり下がったのか、と溜息が出る。

 <日本は臓器移植法の施行(平成9年10月)後も脳死ドナーの数が異常に少なく、欧米の移植先進国に頼ってきた。とりわけドナーが15歳以上に限られる子供の場合は渡航移植しか術がない。このため国内外から「どこの国でもドナーが足りないのに外国に頼るのはおかしい」との批判が出ていた。>

 と、これも国際標準を批判の論拠にしているのは読売新聞と同じである。

 <改正案のひとつは脳死を人の死とし、ドナー本人が臓器の提供を拒否していない限り、家族の同意で提供できるようにする。この案だと、確実に脳死ドナーを増やすことはできるが、死生観の違いなどから脳死が一律に人の死となることに難色を示す意見もある。第2の案は、ドナーの生前の意思が確実に確認できなければ提供できないという現行法の枠組みは変えず、ドナーになる年齢を「15歳以上」から「12歳以上」に引き下げる案だ。脳死を臓器提供に限ることで、死生観をめぐる悩ましい問題は回避できる。しかし、ドナー増加には結びつきにくい。第3は、脳死判定基準を厳しくする移植慎重派による案だが、いま以上に脳死ドナーが減る。三つの法案の要素を取り込んだ第4案も検討されているが、妥協の産物になったのでは問題外だ。>

 というのが改正案への評価である。ドナー増加に結びつくのはA案だけだ、として、D案も否定する。

 <自分の心臓や肝臓、腎臓などの臓器を死後に無償で提供しようとする善意のドナーと、その臓器がなければ命を失う患者とを結び付けて支えるのが、臓器移植法の本来の姿だろう。ドナーの増加を無理なく促す改正となるように、国会で知恵を絞ってほしい。>

 この結論は逃げである。「ドナーの増加を無理なく促す」などときれいごとを言っているが、闇世界の臓器売買が増え、自己破産した人々が腎臓を売るはめになる、などの非人道的事件も増えかねない。

 こういう問題は副作用をきちんと議論してから実行すべきなのに、その部分を人情論だけですませれば、あとから大変なことが起きる。

 また、日本人の「日本人らしさ」を担保してきた死生観が変容しかねない大きな問題だ、という意識がなさ過ぎる。本当にあの産経新聞の社説なのか、と疑いたくもなる。

◆まともだった朝日新聞の社説

 朝日新聞は4月25日の社説<臓器移植/幅広い視野から合意点を>で、

 <臓器移植は、提供者の死を前提とする特殊な医療だ。私たち一人ひとりの死生観も絡む。幅広い観点から慎重に議論し、多くの人が納得できる答えを見つけてほしい。>

 というのが結論だろう。

 <現行法の基本を守りつつ、なんとか子どもの移植に道が開けないか、知恵を絞ってほしい。>

 として、

 <移植医は、日本の子どもが国内で移植を受けられないのは不公平という。小児科医は、子どもの場合、脳死の診断後に何カ月も生きたり脳の機能が回復したりする例もあり、判定は100%完全とは言い切れないと述べる。親が子どもの突然の死を受け入れるには時間がかかることも強調した。>

 と公平な書き方をして、

 <そのことをうかがわせる数字がある。心臓停止後にしても16歳未満の臓器提供は昨年がゼロ、その前の2年も1件ずつ。04年の5件が近年では最高だ。子どもの臓器提供は簡単には増えそうもない。>

 <一方、救急医は、脳死移植を認めつつ、救急現場の厳しい実情を訴えた。納得して臓器を提供できるには、最後まで救命の手立てが尽くされることが大前提だ。大人についても同じことが言える。救急現場の疲弊が、ここにも影を落としかねない。>

 <法の施行以来、脳死移植は81例にとどまる。世界的にもきわめて低い水準であることは間違いない。議論の盛り上がりは社会的合意づくりの好機である。真摯な意見調整を注目したい。>

 と結んでいた。

 朝日新聞もここでは良識を発揮している。少なくとも、読売新聞や産経新聞のように世論に阿って「急げ、急げ」とは言わなかった。

 4月23日の東京新聞社説は<臓器移植/渡航せずに済むように>で、ああでもない、こうでもない、と書いていた。そして、

 <脳死移植は第3者の死を前提にする特異な医療だけに、できるだけ多数の理解を得て進めたい。>

 と常識の線でまとめているのに、見出しは<渡航せずに済むように>である。ここに東京新聞の本音が見えるのではないか。つまり、最も考えていない社説だ、ということだろう。

 今国会では、結局、何もせずに終わるだろうし、結果的には毎日新聞の主張通りになる可能性が大きいとは思う。

◆河野太郎氏を当選させている神奈川のみなさん、考えてほしい

 しかし、河野太郎氏のような「日本の伝統」「日本人の心情」「日本の醇風美俗」を全く無視するアメリカ人のような人間が衆院議員をしていることが信じられない。神奈川県の選挙民は日本がアメリカの51番目の州になってもいいと思っているのだろうか?

 (追記)あとのエントリーでも書いたが、次の二つは是非モノだと思う。お勧めだ。

http://allatanys.jp/B001/UGC020005320090626COK00327.html

http://mainichi.jp/select/opinion/watching/news/20090621ddm004070026000c.html

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2009年5月 8日 (金)

WHOの移植指針先送り、ホッとしたが、それにしても河野太郎氏は……毎日新聞、朝日新聞5月8日朝刊

 毎日新聞5月8日朝刊1面<「移植指針」先送り/WHO、インフル対策優先>はジュネーブ支局の澤田克己特派員の記事。世界保健機関(WHO)が今回総会で予定していた臓器移植の国内拡大を求めるガイドラインの採択を1年延期する、という内容だ。WHOの臓器移植問題のメンバーが新型インフルエンザ対策に関わるメンバーとほぼ同じであるため、あまりにも長い期間、総会で縛り付けておくと、新型インフルエンザ対策に遅れがでてはいけない、とチャン事務局長が決断したらしい。

 毎日新聞は<法改正目指す国会論議影響も>のベタ見出しで今国会で採択する予定の臓器移植法改正の動きに影響が出るだろう、と書いていた。そうなるだろう。

 国会で様々な意見が開陳されたことは以前、このブログにも毎日新聞の記事をコピペしておいたから、お分かりいただけると思うが、この国会での意見開陳はあっても、国民レベルで理解が進んだとは到底言えない状態ではないか、と思う。

 今まで厳しい規制があって臓器提供を申し出る人が少なかったから、海外で手術をする人が大多数だった日本にとって、「臓器は自国で調達せよ」というガイドラインは厳しいものである。人情から言えば、またどこかで抜け道を見つけて助かる命を助けるのが医者の仕事ではないか、という声が聞こえてきそうだ。

 そうなのかもしれない。その論を掲げる第一人者が河野太郎衆院議員だ。河野陽平衆院議長の長男で、大病をした議長のために自分の腎臓だかを移植してあげた、という美談の持ち主である。この人たちは「脳死が人の死」ということを法律に書け、と言っている。

 柳田邦夫氏の本を何冊か読んだが、果たして脳死を人の死と認めていいのかどうか、私は疑問だと思っている。脳死とは脳波が止まった状態である。科学的に、停止状態がどのくらいの長さ続くか、とか、何度検査する、とか決めているが、心臓が動いている人間を「死んだ」と決め付ける法律は日本人の感性にそぐわないのではなかろうか。

 朝日新聞は5月8日朝刊2面<臓器移植インタビュー/「脳死は人の死」明確に/A案を提案 河野太郎氏(自民)>のタイトルで写真つきでインタビューを掲載していた。南彰記者がインタビューアーだ。

 河野氏はここで予想通りの一点の曇りない話しぶりで、脳死を人の死とすべきだ、と話している。スカッとしているのが河野流なのだろうが、スカッとしている、ということは逆に言えば「単細胞」なので、いい意味でも悪い意味でも「坊ちゃん議員」、「二世議員」の特徴が最も顕著な人物なのだろう。

 河野氏の話の中で気になった点だけ書いておこう。

①現行法が国際基準から著しく逸脱している、という主張

 「国際基準」という言葉が出てくるところから、この人の頭の中が透けて見えるようだ。人の死という人生観、死生観、文化、伝統に最もかかわる部分でどうして「国際基準」が出てくるのだろうか? イスラム教が豚を食べないのは国際基準から外れているのか? 「国際基準」というのは今の世の中では「欧米基準」という意味しかないだろう。明治政府は徳川幕府の政治を転換して欧米に追いつこうとして、鹿鳴館をつくり、モノマネ外交を展開した。あの当時はそれも必要だった。欧米基準を満たしていないと認定されれば「野蛮」と分類され、帝国主義国に侵略されても文句が言えない時代だった。しかし、鹿鳴館時代はすぐさま反動に襲われる。国粋主義が台頭し、日本の伝統を墨守する勢力が出てきた。明治政府は欧化政策と伝統墨守政策の両にらみで国家を運営せざるを得なかった。

 日本は戦後もアメリカを見習って、日本の伝統を壊す作業を続けたが、その行き過ぎた欧米主義の欠陥がようやく露呈してきた。川端康成のノーベル賞受賞演説「美しい日本の私」は日本ナショナリズムのありようを世界に宣言した講演だった。

 そして今、アメリカが主導した金融資本主義が行き詰まり、日本的な循環社会が世界標準になるかどうか、の時代を迎えている。「世界標準」、「国際標準」というのは時代によって変わるのだ。今の臓器売買でも何でも強いものがやるのは許そう、という考えは欧米肉食社会の悪い部分だと思う。

 少なくとも日本では「分を知り」、「華美を求めず」、「天寿を全うする」ことが大切だ、という心情が大切にされてきた、と思う。

 臓器移植とはありていに言えば、他人の臓物を奪ってきて、自分の命を長らえさせる行為である。体にメスを入れることを先祖からの教えで拒否する人もいるだろうし、自分の子供だったら手足だけでなく、自分の心臓だってあげる、という親もいるだろうが、なぜ他人を助けるために臓物を奪われるのか、と釈然としない人だって多いはずなのだ。

 国際基準をかざして論破しようとするのは傲慢である。

②脳死を死ということを拒否できる、と言うが、錯乱している家族がそんな理性的対応が出来るか

 どっちを原則とし、どっちを例外とするか、は大切な話だ。すべての関連法を策定する際に、原則に準拠した法律になる。今は人の死を自然死、つまり心臓が止まった段階で死んだ、ということにしているので、相続にしてもその死を基準に動いている。しかし、脳死を死とすれば、社会のルールは激変する。

 大体、80歳で脳死となって生きている人はそう長くは生きないだろうからあまり問題ではないのだが、一番問題は若くして事故などで亡くなるケースだ。幼稚園で滑り台から落ちて打ち所が悪く、脳死した。しかし、心臓は動いている。この親に、医者は「脳死しました。あなたの娘さんは死にました」といって死亡診断書を出すように言ったとする。あなたの妻が半狂乱になって「そんなこと言ったってまだ心臓が動いているじゃないですか。何かのショックで脳だって動き出すかもしれません」と言ったら、あなたはどうするのだろう? 娘は死んだのだ、と割り切れるのだろうか? この時、忙しい医者が「まだ死んでない、と言えますよ」という適切なアドバイスをしなければ、娘は頬がピンク色のまま荼毘に付される。

 こんな事態がどこでも頻発するだろう、と想像するのだ。よほど強い意思を持った人でなければ拒否などできないだろう。アメリカの文化と違って日本の文化には「長いものには巻かれろ」文化があり、拒否ということはアメリカ人と違って大変な意志力が必要なのだ。河野氏はこのような文化面の日米の違いなど無視するだろうが。

③子供脳死臨調は必要ない、という断定

 本当にそうなのか? 柳田氏の著書には「脳死です」と言われて随分時間がたってから生き返った例を報告していた。人の死をフォーディズムのようなベルトコンベア的な考えで割り切ると、大変な禍根を残す。少なくとも宗教学者や心理学者、脳科学者、倫理学者らの徹底したオープンな議論が必要なのではないか。ただ、海外で調達できないから急ぐのだ、では通用しない。

④反対派が審議拒否してきたのは国の不作為

 河野氏のように一見人道的なように見える議論を展開して、反省のない人間が国会議員をやっていることが問題なのだ、と私は思っている。反対派がなぜ議論に応じていないのか知らないが、このような一方的な意見を認めさせるための議論だったら必要ないだろう。不作為というのは、もっと根本的なものではないか。

 人の臓器を使わずにip細胞を使って臓器移植意ができるように京大研究室に今の100倍の予算をつけるとか、東洋医学的な療法を研究するとか、国会議員だったら、そのような国家百年の大計を考えた議論をしてほしい。

 「困っている人をどうするのか」と恫喝するような議論に他人を巻き込むような強盗的な議論だけはやめてほしいと思う。

 と言っても河野氏には通じないだろう。父親が従軍慰安婦への国家関与を認め、あとで官房副長官が「あれは根拠がなかった」とばらしたように、韓国、中国への異常な阿りで生きている人物である。その息子も同じDNAを持っているらしい。

 ただ、日本人はアホではない。少しずつ学習している。河野一族がいかに信用できないか、分かってきている。次の総選挙で落とそうではないか。

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2009年4月26日 (日)

山折哲雄氏の西欧文明批判と日本の生き方考~読売新聞4月26日朝刊[地球を読む]から

 4月26日読売新聞朝刊1、2面のコラム[地球を読む]の山折哲雄氏の<金融危機と宗教/無常観で冷静対処を/循環原則 生死も景気も>を興味深く読んだ。

 いろいろ書いているが、約めて言えば、欧米のユダヤ教、キリスト教は「無常」を理解せず拒否するので、「危機を乗り越えるための生き残り戦略」が最大関心事になり、無常というアジア的エートス(精神)ほど退嬰的で虚無的な思想はない、と考える。無常観が確固として存在した日本でもこのアングロサクソン流の生き残り戦略の傘の下にすっぽり包み込まれ、グローバリゼーションという名の戦略に加担することに日本人は夢中になりすぎたのではないか、という問いかけであり、世界経済危機も景気循環のひとつなのだから、冷静に対処しよう、という呼びかけである。なぜなら、「怒りの神も愛の神ももたないわれわれ自身のエートスが、世界からためされている」からだ、ということだと思う。

 通常の景気循環で説明が付かない世界経済危機とはいっても、たしかに栄えたものは滅び、繁栄は没落の一歩だし、そこであがいても、輪廻転生はすでに起きているので、新しい局面が開けるだけで、今までの繁栄そのものが続くというわけではない、という意味では山折氏のいう「景気循環の一つ」という捉え方は正しいと思う。多くの経済学者は「違う」と言うだろうが。

 <そもそも無常には、三つの考えが含まれている。この世に永遠なるものは、何一つ存在しない。形あるものは、必ず壊れる。人は生きて、やがて死ぬ。以上の3原則だ。これを否定することは誰もできないだろう。よほどのひねくれ者でないかぎり、まずは疑うことの出来ない客観的事実であるといっていい。>

 として、その客観的事実を認めるにしても、それを自己の血肉化しない文明としてユダヤ・キリスト教文明、アングロサクソンによって形成された西欧社会だ、というのだ。

 たしかに、今の日本ではこの無常観を抱きながら、グローバリズムという名の怪物と西欧と同じ土俵で戦うべきだ、とする論が蔓延っている。50年、100年に一度の暴風雨でも輪廻、景気循環に変わりはない、という言葉の意味合いは重いと思う。

 この景気循環という言葉を分かり易く言い換えれば「無常」だ、というのも分かる。

 山折氏のいうように、

 <景気循環=無常の原則に立って長期的な展望を持ち、この事態に冷静に対処するように努力していく>

 ことが今ほど求められている時はないのだろう、とは思う。

 ただ、逆に言えば、私はこの世界不況は「お祭り」ではないか、と思うのだ。

 「ええじゃないか」とか、「打ち壊し」とか、「徳政令」とか、つまり、今までのパラダイムを壊し、新しい地平が開ける瞬間でもありえる、ということだと思うのだ。今までの欧米文明のパラダイムが崩壊し、アジア的エートスを世界の人々に広げるチャンスかもしれない。

 山折氏のような論をもっと読みたい。

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2009年4月22日 (水)

臓器移植問題と映画「豚を飼う授業」~毎日新聞4月21日夕刊、22日朝刊などから

 毎日新聞4月21日夕刊は1面トップ<臓器移植法改正案/緩和か厳格化か/「脳死」議論再び/衆院小委で参考人質疑>の見出しで論議を紹介した。コピペしておく。

 <議員立法で国会に提出されている三つの臓器移植法改正案について審査する衆院厚生労働委員会の小委員会が21日、開かれた。専門家ら6人が参考人として意見を述べ、質疑に応じた。現在認められていない14歳以下の子どもの心臓移植など脳死移植の増加を求める一方、脳死判定の難しさを指摘する意見や自己決定の尊重を求める立場からの反論が出された。参考人は意見陳述順に▽日本医科大病院の横田裕行副院長▽日本弁護士連合会人権擁護委員会の光石忠敬特別委嘱委員▽国立小児医療研究センターの雨宮浩名誉センター長▽大阪医大の田中英高准教授(小児科学)▽海外で心臓移植を受けた青山茂利さん▽日本宗教連盟の斎藤謙次幹事。それぞれ約15分ずつ意見を述べ、各党の代表者からの質問に答えた。>

 ということで、毎日新聞は22日朝刊でこの発言詳報を掲載していた。

 <改正案は①脳死を一律に人の死とし家族の同意があれば年齢を問わず臓器提供を容認(A案)②提供年齢を現在の15歳以上から12歳以上へ引き下げ(B案)③脳死の定義を厳格化(C案)の3案。>

 脳死とは、

 <脳の全機能が失われ、二度と回復しない状態。臓器移植法は臓器提供をする場合に限り、脳死を「人の死」とする。法的脳死判定基準(対象6歳以上)は①深い昏睡②瞳孔が開いたまま③脳幹反射の消失④平坦脳波⑤自発呼吸の消失――の5項目について6時間以上の間隔で2回判定することを求める。6歳未満は旧厚生省研究班が2回の判定間隔を24時間以上とする基準をまとめている。一方、脳死判定後も1カ月以上心臓が停止しない患者もみられ、判定の難しさを指摘する声が出ている。>

 とあった。この日の意見は、

 <雨宮氏はA案を支持する立場から「(内閣府調査では)6割を超える人が家族の同意で提供していいと考えている。家族の同意だけで臓器を提供できるのがグローバルスタンダード。国際事情で(海外での)小児の提供は極めて困難になる」と述べた。一方、光石氏は「A案は多くのレシピエント(臓器を受ける患者)の利益のために少数のドナー(臓器提供者)の犠牲はやむを得ないという考え方に基づいている。日弁連はC案を支持する」と反論した。田中氏は、脳死判定後も脳波が戻った長期脳死の例を紹介。「判定には限界があることを知ってもらった上で改正議論を進めてほしい」と訴えた。また、「虐待による小児の脳死例が見逃される」と懸念を表明した。斎藤氏は「宗教や文化などを踏まえ総合的に検討すべきだ」と批判した。>

 というものだった。

 毎日新聞22日朝刊掲載の詳報は次の通り。

◇横田裕行・日本医科大病院副院長

 <そもそも脳死判定は、臓器提供とは関係なく、患者を救命できるかどうか診断するための行為だ。現在の判定基準で、不可逆的な全脳機能の停止は判定できる。(脳の活動を判断する)脳血流検査は必須にすべきではない。一方、提供施設の負担は無視できない。人的支援があれば臓器提供に対応できる、という施設が多い。脳死判定から臓器提供まで約45時間もかかり、人手が切迫している現場では、日常診療に支障をきたす。法律が変わり提供が増えるのはいいことだが、今のままでは施設は破綻する。移植への信頼を裏切らない法律を作ってほしい。>

◇光石忠敬・日本弁護士連合会人権擁護委員会特別委嘱委員

 <臓器提供の増加を求める流れは、移植を受ける患者の利益のため臓器提供者を犠牲にしてもよいという考え方に基づく。だが、提供者の尊厳も患者同様に守られなければならない。現行法は自己決定の思想が前提であり、本人意思を不要とするのなら新法を作り直すべきだ。また、子どもの利益につながる親の代諾は認められるが、利益にならない代諾の権利は親も持てない。現行法にない組織、生体移植を盛り込み、自己決定を中心としたC案が一番いい改正案と思う。>

◇雨宮浩・国立小児医療研究センター名誉センター長

 <日本の臓器移植法の基準は極めて厳しい。提供は増えているが、最大で年13例に過ぎない。移植を望む多くの患者が亡くなっている。国際標準である家族による提供意思決定方式を取り入れるべきだ。このため、脳死を一律に人の死とし、家族同意で提供できるA案の施行をお願いしたい。各国も提供者不足が深刻で、今後の渡航移植は困難になると予想される。特に、国内で移植を受けられない小児が、公平に移植を受けられる法改正が必要だ。もし脳死判定を受けたくないと考える場合は断ることができ、それぞれの死生観にのっとった判断をすればいい。>

◇田中英高・大阪医大准教授(小児科学)

 <先週の日本小児科学会倫理委員会で、「脳死判定をしても100%脳機能が戻らないとは断言できない。意見表明ができない子どもの人権が損なわれる恐れがあり、A案には賛成できない」との合意がほぼ得られた。被虐待児のまぎれ込みを防ぐことは非常に難しく、小児の脳死判定には小児科医の7割が「不可能または分からない」と答えている。小児の脳死判定には限界がある。判定後に自発呼吸が戻るなど長期脳死の例もあり、小児科医は「自信を持った判定ができない」との不安を肌で感じている。その事実を広く国民に知ってもらいたい。>

◇米国で心臓移植を受けた青山茂利さん

 <1999年9月、45歳のとき突発性拡張型心筋症を発症し、余命3年と宣告された。自分のために家族を犠牲にできないと思い、渡航せず日本で提供を待つことにした。時間切れになれば潔く死のうと決めた。一方、「だれかの死を待つ」自分に苦しみ、希望がゼロではないことは絶体絶命よりつらかった。生きることをあきらめ、自分の気持ちを保った。ある日、車椅子に座る自分とは違い、米国で移植を受けて自分の足で立っている患者仲間と再会した。彼がまぶしく大きく見え、その夜は一睡もできなかった。渡航移植を決意し、米国で移植を受け、私の闘病生活が終わった。>

◇斎藤謙次・日本宗教連盟幹事

 <脳死移植は、個々人の死生観にかかわる重要な問題。医療現場の状況だけでなく、宗教、文化などを総合して検討すべきだ。社会的合意を得たうえでの改正を願いたい。脳死を人の死としてはならない。脳死では心臓が動き、温かい血液が流れている。日本人は心臓や呼吸が停止し、瞳孔が開くことを人の死として受容してきた。脳死を一律に人の死とする改正案は、将来に禍根を残す。他者の臓器摘出を前提にした医療は緊急避難的であり、普遍的とはいえない。過半数で決するのでなく、社会的合意ができるまで検討を重ねるよう求める。>

 難しい問題で、その後の動きもあるが、なかなか日本人がほぼ納得できるというような案ができる見通しはないのではないか。

◆映画「豚を飼う授業」

 思い出したのは当時、議論を呼んだ映画のことだった。

 桑畑四十郎という方がご自分のブログで、この映画を紹介しているので、彼の昨年11月23日のブログをコピペする。

http://ameblo.jp/kuwabatake/entry-10168904732.html

 <大阪の小学校での “豚を飼う授業” のお話。実話であるという点をしっかりふまえてご覧下さい。監督は、前田哲。原案(つまり、当事者の先生)は、黒田恭史。著書 「豚のPちゃんと32人の小学生」 があり、1993年にフジテレビの 「今夜は好奇心」 で放送されて、賛否両論を巻き起こしたそうです。出演は、妻夫木聡、甘利はるな、大杉漣、原田美枝子、田畑智子、戸田菜穂、ピエール瀧、その他たくさんの子供たち、豚。>

 というような紹介から始まって、

 <思ったより健全な映画に仕上がりました。“青少年映画審議会推薦” “日本PTA全国協議会特別推薦” “文部科学省選定” などというすごい肩書きがついているので 、家族揃って見ても大丈夫です。…俺的にはちょっと不満が残りますが。>

 と、この映画が文部科学省も認定した「良い子路線」であることを教えてくれる。そして、映画紹介だ。

 <6年生の担任を受け持つことになった新任教師・妻夫木先生は、いきなり教室に子ブタを持って登場。『…このブタをみんなで育てて、最後は食べようと思います。』 生徒たちは困惑するも、かわいいブタに魅せられ、一生懸命に世話をするようになる。食肉のつもりだったブタが、クラスのペットになってしまい…。>

 <本作は、食育という面と、人間と動物の関わり合いという面、ひいては人同士のつながりにまで波紋を広げていく。いやはや、ブタ一匹でここまでの騒動になるとは。Pちゃんもすごいプレッシャーですねえ。こんなに有名なブタも珍しいんじゃないでしょうか。まさに伝説のブタ。ブタだけに、“豚(トン)デモな授業” といったところですね。>

 <人生においては、答えのないことが実に多い。優等生は、答えを覚えておけば点は取れるが、社会に出るとそれだけではうまくいかない。相手や環境が変われば、それまでの常識はいとも簡単に覆される。そこで大事なのが、“考える力” なんです。あらゆる状況において、自分の頭で考えて、自分で行動を決めていく能力を磨く。それこそが、勉強する理由であると俺は思うんです。そしてそれは最終的に、自分の人生を生き抜いていく力になる。>

 <自分が小学生だった頃を考えても、彼らと同じ視点にはなれない。時代も環境も違うから。情報の洪水のような今の世の中において、正しい基準なんてもうないのかもしれない。誰かが何かを言えば、賛同する人も批判する人もいる。だけど、大切なのは志。黒田先生はいい授業をしたと思います。そしてそこにいた生徒達も、いい授業を受けたことを誇りに思って欲しいと思う。少なくとも、食べ物に感謝できる大人になっていることは間違いない。>

 <今どきの子供、今どきの大人。俺自身も、社会性に乏しい落ちこぼれのトンデモブロガーですが、みんなひっくるめて考えれば、いい悪いに差異はあまりないと思うんです。子供は決して純粋無垢じゃないし、大人も悪い人ばかりじゃない。子供が立派とか、先生が変だとかじゃなくて、この先生と生徒という “組み合わせ” が良かったんだと俺は思うんです。>

 <教える側と、学ぶ側。双方がしっかりしていれば、教材がトンデモであっても授業は成り立つ。逆に、トンデモな授業だからこそ面白いのだ。ここでしか学ぶことができない、貴重な時間を大切にして下さい。子供たちよ、しっかりがんばって、楽しく学んで下さい。>

 と論を展開されていた。

 私は最近、DVDを借りてきて観たのだが、見ていてイライラした。何という先生なのだ。先生としての自覚もないし、勝手なことをして学校全体に迷惑をかけて、と。しかし、観ているうちに気付いたのは、この映画はそのように観客をイライラさせたい映画だったのではないか、ということだった。

 桑畑四十郎さんが言うように、人生に簡単に◎×で決められることがらは多くない。その中で小異を捨てて大同についたり、迷ったりしながら人生を歩んでいくのだが、少なくとも「他人様に迷惑をかけてはいけない」とかの「道徳」は私の世代は親や学校の先生から叩き込まれていた。今はどうも違うようなのだ。どっちがいいのか、一概には言えないのだろうが、「道徳」を叩き込まれた世代からすると、電車を待つホームで列を作らずに割り込んで平気な若者や、肩がぶつかっても謝らない若者にイラつくこともある。

 この映画は映画でイライラさせることで、現実社会でのそんなイライラを鎮める効果を持っているのかもしれない。

 そして、本題である。

 この映画で豚を北朝鮮、卒業するから学校のどこかのクラスに譲って当然という児童たちを「飢え死にする人が可哀想だから援助しよう」といって、核開発を進める現状には黙ってしまう進歩的文化人、約束したのだから豚を殺して食べよう、という苦渋の決断をする児童は対北朝鮮強硬派なのか、と思ってみたりもした。別に北朝鮮の方々を愚弄する意味で例えたわけではないことを注記しておく。金正日総書記の独裁政治で人々は何も知らされていないのだから、余計に始末に悪いのだ。

 そして、脳死についてもこの児童の意見対立と同じだと思うのだ。

 どこに自分の立ち位置があるか、で言うことが違ってくる。

 欧米は一応、キリスト教文化圏としてのコンセンサスで「死」を見ていくだろうが、日本の八百万の神のいる列島ではどうなのだろうか、と。

 今の世の中で「モンスターペアレント」ではないが、勝手な人々が「何が悪いのか」と居直っているのを見ると、飼うときには「可愛いから」と飼い始め、卒業間じかになると「仲間だから殺すのは可哀想」と言う児童たちの精神構造、行動様式と同じであることに気付く。

 その精神をどのようにして「責任ある人間」にまでブラッシュアップするか、が問題だと思う。安倍晋三元首相の推進しようとした右傾教育路線だけでその目的が達成されるとは思わないが、そのブラッシュアップが終わらないと、脳死論議も勝手なことを言い合うだけで、哲学や宗教の深みに到達できないまま小手先の案でまとまる危険があると思うのだ。

 河野太郎氏のように、ブログを読むと訳の分からないことばかり書いてあり、勝手な論理満載。そのうえ、いつまでも日本人は自虐していろ、と言わんばかりの論理。日本人とも思えないような方なのだが、国会議員となっており、親子そろって一定の影響力を持っていることを考えると、この問題は一筋縄ではいかないだろう、とも思っている。

 功利主義と「あるべき」論と死生観と哲学。ベンサムとヘーゲルとカント。

 もっと勉強しないと分からないことが多いのだ、この世の中は。

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2009年4月 1日 (水)

永井陽之助氏追悼文(中嶋嶺雄氏と粕谷一希氏)~3月19日読売新聞朝刊と4月1日毎日新聞朝刊の寄稿

 2008年12月30日に国際政治学者、永井陽之助氏が亡くなった。84歳だった。各紙は3、4月に追悼文を掲載していた。毎日新聞は4月1日朝刊で中嶋嶺雄・国際教養大学長の追悼文を掲載した。見出しは<永井陽之助氏をしのぶ/平和論に切り込んだ現実主義者>だった。文章を書き写しながら、読んでみよう。

◆中嶋嶺雄氏による追悼文

 <文学、哲学から物理学や精神医学にいたる豊饒な学識、坂口安吾や丸山真男、E・フロム、ハンナ・アーレント、エリック・ホッファーからD・リースマン、スタンレー・ホフマンにいたる知的系譜、研ぎ澄まされた文章と挑発的なレトリック、まさにわが国20世紀知識人の最も優れた到達点を示し続けた国際政治学の永井陽之助氏は昨年末に逝去されていた。大きな喪失である。>

 という書き出しである。知的系譜として出てきた名前は綺羅星のようだ。ただ、この名前で普通想像する系譜に脈絡がないところが面白い。「堕落論」以後、日本文化を追求し続けた坂口安吾。進歩的文化人の代名詞である丸山真男、「自由からの逃走」のエーリッヒ・フロム、私が尊敬するハンナ・アーレント。「孤独な群衆」のデービッド・リースマン。こういう人たちの論の中からステレオタイプでない魂の部分を引き出してきた、ということなのだろう。

 <私個人にとっても永井先生はかけがえのない存在であった。私の著書を引用されたからと名著『平和の代償』(中央公論社)を署名入りで贈ってくださったのが1967年初頭だったので、もう40年以上も前のことになる。同書は、氏が在米中に出会った1962年のキューバ危機に強い衝撃を受け、朝鮮戦争からべトナム戦争までを見据えて、核時代の日本外交の拘束と選択の有様を示した力作であった。平和論過剰のわが国の言論界にいわば現実主義の立場から切り込んだ挑戦である。>

 産経新聞のオピニオン面に当時の論を再掲しているが、当時の「平和の過剰」は今になるとはっきり分かる。

 <私が永井氏に最初にお会いしたのは1967年春、日米知識人会議への出席を松本重治氏から要請された、国際文化会館での準備会のときであった。ウイリアムズバーグで開かれたこの会議は日本側が笠信太郎、桑原武夫、永井道雄、加藤周一、坂本義和の各氏ら、米国側がD・リースマン、E・ライシャワー、ダニエル・ベル、スタンレー・ホフマン、R・スカラピーノ各氏らの錚々たる面々で、中国の文化大革命とべトナム戦争がテーマであった。この会議では私が最年少かつ最初の訪米だったので、会議の後に永井氏とワシントンDCやハーバード大学へご一緒させていただいた。>

 こういう右も左も同席する話し合いの場が昔はあったのだ。だから、論壇という存在も命を吹き込まれ続けたのだろう、と思う。

 <中国の文化大革命の余波は、まもなくわが国の大学紛争へと連なっていった。東大の安田講堂落城が注目されたけれど、実は東京教育大と東京外大の紛争も深刻で、やがて東京工業大へも波及していった。私は東外大の教授会代表委員として過激派学生と対決せざるを得なかったが、永井氏も東工大で人社系を代表する立場にあり、私の東外大での経験を東工大で講演したこともあった。この学園紛争を国際的視野で論じた書が『柔構造社会と暴力』(中公叢書)である。同じ中公叢書にはキッシンジャー外交や日中友好外交を批判的に論じた『多極世界の構造』、政治的資源としての「時間」を「非対称紛争」としてのベトナム戦争に当てはめて論じた『時間の政治学』がある。>

 大学紛争を中国の文化大革命と関連付けて論じるとは、いかにも中嶋氏らしいが、日本の若者の反乱は中国の毛沢東の復権闘争である文化大革命と比較するよりは、フランスの「若者の反乱」や米国のヒッピー運動との関連の強さを論じたほうがいいとは思う。

 <こうした旺盛な言論活動のなかでの学術的貢献が、永井主査による文部省科学研究費特定研究「国際環境の基礎的研究」であった。この共同研究は、国際的な冷戦研究として注目を集め、京都シンポジウムには世界第一線の学者が集まった。その成果が英文ではコロンビア大学出版会から出され、わが国では永井著『冷戦の起源』などの「叢書 国際環境」(中央公論社)となり、永井氏は日本国際政治学会理事長にも就任された。>

 この辺はさすがにインナーグループにいて、永井氏の近くで過ごした方の思い出話だ、と思う。参考になる。

 <当初は現実主義の立場から理想主義者の平和・安全保障論を鋭く批判した永井氏だったが、言論や政治に軍事優先傾向が強まるなかで氏は、主に岡崎久彦氏との論戦を意識して防衛論を『文藝春秋』に1年間連載、1984年度文春読者賞を得ている。>

 そうなのだ。永井陽之助氏の分かりにくさはこの辺にもあるのだ。

 <永井氏の1985年の東工大最終講義を巻頭にした『二十世紀の遺産』(文藝春秋)は、粕谷一希氏と私もお手伝いした浩瀚な編著であり、氏の人脈の広さを物語っている。そこに登場する高坂正堯氏も江藤淳氏もすでに亡く、神谷不二氏もつい最近、永井氏の後を追って急逝された。これらの方々は、佐藤栄作政権の時代以降、首席秘書官・楠田實氏のもとで日中関係や日米関係の方策を永井氏とともに提言した論客でもあった。永井氏が論じた軽武装・日米同盟重視の「吉田ドクトリンは永遠なれ」との見解が一部で誤読されてもいる昨今だけに、氏の一貫した警告を忘れてはなるまい。>

 そうかぁ、佐藤政権のブレーンだったのか。

 <なお永井氏は毎日新聞社アジア調査会アジア研究委員会の代表幹事としても貢献された。>

◆粕谷一希氏による追悼文

 永井氏の業績はあまりに幅広いので、なかなか一言では言えない、というのだろう。中嶋氏が共同作業をした、として名前を挙げていた評論家の粕谷一希氏も3月19日読売新聞文化面に<永井陽之助さん追悼/壮大・華麗な思考の社交家>のタイトルで追悼文を寄稿していた。「論壇で大活躍をしていた1970年当時の永井陽之助さん」のポーズ写真がついていた。

 粕谷氏は5、6年前まで中嶋氏、粕谷氏らとの勉強会に出てきたが、ある時からプッツリと外界との関係を断ち、我々とも連絡が取れなくなった、と書き出している。文化人の中にはそういう人が結構多いようだ。衰えた姿を他人に見せたくないのだろうか?

 粕谷氏は、

 <1960年代後半から70年代前半にかけて、永井さんの舌鋒は圧倒的な迫力を持ち、壮大・華麗な体系的思考を展開して、論壇の中心的存在となった。歴史畑出身の人が多かった政治学界で、政治理論、政治社会学、政治意識論などを専門とされた。キューバ危機で米ソの正面衝突を危ぶまれた米国での経験を機に、国際政治に関心を移していかれた。>

 と書く。「歴史畑出身」というのは日本政治思想史を専攻した丸山真男氏を考えれば分かりやすいだろう。

 <私は北大時代から、永井さんと接触があり、編集者として、当時流行だったD・リースマンとW・ミルズの比較論を「思想の科学」に掲載した。やがて高坂正尭、萩原延寿など、新しい感覚の欧米帰りとの交わりは、私にとって”職業上の青春”と言ってよい。原稿を読むたびに、読み手の私が興奮し、高揚し、新しい想念の刺激を受けた。「平和の代償」の諸論考は、文学的感性を刺激し、福田恒存は「論壇のバラバラ事件」と評し、三島由紀夫は即座に面会を申し込んだ。以後「柔構造社会と暴力」、「冷戦の起源」など、またアンソロジーの傑作「政治的人間」が当時の読書人の意識を変えた。永井政治学の魅力は斬新な理論的枠組みにあった。またヨーロッパの正統派、R・アロン、S・ホフマン、C・シュミットなどを深く読み込み、アメリカとヨーロッパの幸福な融合を自分のモノとしていた。>

 「壮大・華麗」の中身が語られている。

 <永井さんは警句とジョークを愛していて、若い女性とのたわいない会話を楽しんだ。読書はその合間に集中的にやるらしく、我々は社交人永井氏を存分に味わった。警句では、ビスマルクの「愚者は自分の経験に学び、賢者は他人の経験に学ぶ」という言葉を好み、つねにヒントにしていた。>

 なるほど、このビスマルクの言葉は深いなぁ。読書は他人の経験に学ぶ最たるもの。どれだけ深く読み込めるか、で他人の経験を自分の経験と同一化できるかどうか、決まるのだろう。

 <今日、社会科学者は政府の審議会のメンバーであり、大きな対立もなく、論壇も総合雑誌も影が薄くなった。細分化された思考はますます専門化し、素人には見えない世界になってしまった。永井政治学の壮大と華麗を想い起こすのも、今日の意識と言語とを省みるひとつの方法かもしれない。>

 いいことを言っている。さすが粕谷氏だ。細分化した「知」を再び総合化する大きな手段がヘーゲルなのではないか、と誰かが書いていたのを思い出したのだが、名前を思い出せない。

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2009年3月26日 (木)

佐藤優氏のテロリズム論と現代日本論~毎日新聞3月26日夕刊[中島岳志的アジア対談]より

 毎日新聞3月26日夕刊文化面[中島岳志的アジア対談]はゲストが作家の佐藤優氏とあって、期待して読んだ。期待に違わず面白かった。見出しは<高天原、『資本論』にインテリジェンス/保守が反貧困の論理を 中島さん/雨宮、勝間両氏に注目 佐藤さん>だった。鈴木英生記者は、

 <今回のゲストは作家で起訴休職中外務事務官の佐藤優さん。右の『正論』『諸君!』から左の『週刊金曜日』『情況』まで、膨大な数の雑誌に登場し、専門分野のロシアやインテリジェンス(特殊情報)、キリスト教に保守思想、マルクス主義まで縦横に論じている。中島岳志さんとも貧困問題や国際問題などで濃密な議論が交わされた。>

 と書いているが、見出しだけ見ても相当に幅広い話が出たようにみえる。

 面白そうな部分をピックアップして書き写しておく。

▽中島氏=最近、貧困問題を解決すべしとの政治的共通認識が一定程度はできたが、一部「保守」から労働運動などへの冷ややかな視線が出て来た。

▽佐藤氏=昨年来『中央公論』に雨宮処凛さん、『文芸春秋』に湯浅誠さんが登場した。日本の社会体制を強化し、資本主義を安定的に発展させる観点で貧困を考える流れが保守に出来てきたのはいい現象だ。むしろ、問題は保守、右翼の中の分断だ。近代保守主義の父、バークの根っこには中世の実念論があり、この論は日本の高天原と極めて近い。我々の背後には必ず形而上的、超越的なものがあるという感覚が一部保守や右翼層から失われたので、この層からものすごい罵倒やせん滅戦が生まれる。あれは、最悪のレーニン主義とでも言うべきものだ。

▽中島氏=保守は今こそ貧困問題を乗り越える論理を積極的に展開すべきだ。

▽佐藤氏=私は違う意見だ。貧困は保守ではなく、左翼・労働運動の課題で、保守はそれを邪魔しない形で関与すべきだ。今、思想的に新自由主義を乗り越えつつあるのは2人の女性。雨宮処凛さんは「生きさせろ」、最低限の人としての尊厳を維持させろと言う。映画「遭難フリーター」の監督で、派遣労働者でもある岩淵弘樹さんの昼食は80~100円。私のいた東京拘置所の方がずっといい。だから、企業は最低限、東京拘置所と同じ飯を保障せよと。東京拘置所でもウナギやビフテキは出るから。もう一人は勝間和代さん。彼女の著書を新自由主義的に勝つ自己啓発本とする理解は全く違う。彼女は、マルクスの『資本論』の論理だと熟練労働者にあたる。新自由主義者から「断る力」の発想は出てこない。彼女は余暇や生活領域を分けて残りで働き、その単価をどう上げるか考える。しかも印税の2割を難民支援などに寄付する。経済合理性を排している。それに対し資本家のマニュアルは『資本論』だ。資本主義システムが回るために必要な賃金の要素は三つある。まず、家を借り、服を買い、食事をして、ちょっとしたレジャーをするお金。第2は、家族を持ち、子供をつくり、教育を与えて立派な労働者にするまでの経費。独身者の結婚資金やデート資金もそこに入る。3番目、技術革新に対応する教育費。これが資本主義システムに不可欠だと、マルクスは資本家向けに言っている。今の日本は2、3番目が忘れられ、一つ目もぎりぎりに切りつめている。これでは資本主義そのものが崩壊する。その賃金は、端的に言えば暴力が水準を規定する。つまり、資本家の方が強いから、労働者が団結しない限り、資本主義システムは持たなくなる。組織された戦闘的な労働組合は資本主義の維持に必要だ。保守的で金のある人はその金を労働運動に出すか、労働運動が救い切れない、たとえば湯浅誠さんの活動に1万円、2万円を出す。こういうできるところからの再分配が、保守の仕事だと思う。ワンクッション、勝間さんみたいな位置の人を挟む必要もある。熟練工で年収1000万円を超す。でも、自分は労働者という意識を持ち、200万円は再分配に回す。そういうお金がプールされればいい。おさい銭箱方式だ。いくら入れても関係ない。神主たちが勝手に使うということで。

▽中島氏=その動機付けはどうやって作るのか?

▽佐藤氏=難しい。キリスト教の土壌があれば簡単だが。

▽中島氏=ナショナリズムはどうか?

▽佐藤氏=敵なしで築くナショナリズムがあり得るのか。敵のイメージで日本をまとめるなら中国や北朝鮮、ロシアでは無理。もっと強い敵を相手にしないと。反米ナショナリズムだ。それをやり切れるのか。

▽中島氏=しっかりした政府への信頼感という形でのナショナリズムは?

▽佐藤氏=無理だから、湯浅誠さんみたいな人が重要だ。東大法学部で大学院まで入ったわけだから競争社会に強い。でも、今の社会があまり良いとは思えなかったのだろう。こうした何人かの指導的キャラクターが、物語を作ってゆくのではないか。

▽中島氏=現状を戦前の世界恐慌ごろにたとえる人もいるが?

▽佐藤氏=もう少し前かな。

▽中島氏=1919年ごろか。戦後不況で労働運動や普選運動が高まった。渦中にいたのが21年に安田財閥の安田善次郎を殺した朝日平吾だ。うっ屈と社会状況が相まって安田を殺す。彼の影響で1カ月後、原敬が暗殺され、昭和維新テロの土台になる。この流れの前夜と似ている気がする。

▽佐藤氏=田母神俊雄さんみたいな明るいキャラだから、あの程度で済む。あの感覚は社会常識から突出していない。朝日平吾級の人や、もっとアジテーター的な力のある人が出てきたらどうなるか。

▽中島氏=昨年の元厚生事務次官殺傷事件でも……。

▽佐藤氏=官邸筋にも新聞社のデスクにも読者にも、「テロが起きてもおかしくない」「テロでもないと世の中は変わらない」という深層心理があったと思う。それを整理しないと。テロをする側から見れば、テロをされるヤツは悪いヤツとなるでしょう。でも、テロをするとその悪いヤツが被害者になって不必要な同情が集まる。また、国家はテロが起きると過剰な暴力でテロリストを抑える。一度堰を切って暴力を使うようになった国家はものすごく怖い。

▽中島氏=佐藤さんは国家機能強化とファシズムを結びつけないための思想的作業を重視している。その土台が崩れつつある。言論の文脈を抜いた一部に熱狂的な批判が起きる。似た現象が世界である。インドも昨年のムンバイのテロ以降、パキスタンへの中傷競争が激しい。

▽佐藤氏=心配なのは、小さな核がカシミールで爆発すること。死傷者の数にもよるが、各国がエゴイスティックになっている状況で大きな国際的反発が起きない危険性がある。そこで、核兵器のハードルが下がる。すると、各国がテロに過剰反応を起こす。9.11以降のテロに対する意識は、戦前の「コミンテルンの脅威」と同じだ。コミンテルンはネットワーク型組織で各国は脅威にならないでくれと交渉する相手国がなかったから、国内で「非国民」排除に向かった。9.11以降も交渉相手がいない。この状況はファシズムに結びつきやすい。イギリスあたりは多分、アフガニスタンにタリバンを含めた連立政府ができることを考えている。それでタリバン穏健派という認識の枠組みを作る。イギリスはかつてアイルランド紛争でテロ組織IRAの政治部門であるシンフェイン党に議席を与えた。取引できるゲームのルールを作ったらIRAはテロをやめた。こういう連立方程式を解くために地域と国際情勢、インテリジェンスの専門家が学際的に考えないといけない。

 以上である。

 ほぼ全文を書き写してしまった。

 やはり佐藤優氏の論理はすごい。

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2009年3月16日 (月)

若宮啓文氏の五百旗頭氏擁護は五百旗頭氏を利用する卑怯なやり方だ~朝日新聞3月16日朝刊[風考計]

 朝日新聞3月16日朝刊オピニオン面に「本社コラムニスト」の肩書きで若宮啓文氏が自分のコラム[風考計]に<防衛大学校/校長を悩ます「田母神」応援団>のタイトルで論文を掲載していた。

 朝日新聞のネット版で捜したが、若宮氏の最近の論文はアップされていないようだった。仕方なく、グーグルで検索し、他の方のブログに全文が転載されていたのをコピペしてきた。論文を読みながら、コメントしていきたい。

 <日本は蒋介石の手で日中戦争に引きずり込まれた被害者だし、日米戦争はルーズベルトの罠にはまったもの。だから日本は悪くないという論文で空幕長を解任された田母神俊雄氏は、あれから4カ月半、意気軒高のようだ。一部の月刊誌ではしきりに応援歌が歌われ、本人も講演などに引っ張りだこ。その近著を読んでみれば、相変わらず都合のよい史料の解釈が並び、ますます勇ましさが加わった。いまや右派論壇の救世主といった趣である。>

 この書き出しからして高慢さと偏見に満ち満ちていることが分かるだろう。アプリオリに「田母神=悪」と規定するそのやり方は戦時中の軍部の「お前は非国民だ」という規定に通じるものがある。新聞記者という職業が事実の積み重ねの中から真実を追求することに喜びを見いだす職業だとしたら、若宮氏はすでに新聞記者として失格だと思う。思い込みだけでこのような文章を書けるのは新聞記者の仕事ではないからだ。だからこそ、「コラムニスト」と名乗っているのだろうが、そうすると、このような思い込みと偏見だけで公の紙面を専有する人物に定期的に機会を与えている朝日新聞編集局の責任ということになる。

 <日本の侵略を謝罪して政府の外交基盤となった「村山首相談話」に真っ向挑戦しただけに、文民統制に反すると処分されたのだが、その開き直りには「文民にも村山談話を批判してきた政治指導者がいるのに」との思いがのぞく。さもありなん。その代表格といえる元首相の安倍晋三氏は月刊誌に登場して「田母神論文に対するマスコミの反応は常軌を逸する」と批判。できるなら村山談話を塗り替えて「安倍談話」を出したかったと無念を語った。もし安倍政権が続いていたら、今度の問題にどう対処したのだろう。>

 田母神憎しが安倍晋三憎しに転化する。これだっておかしな話だ。

 <2月19日に田母神氏を自民党本部に招いて話を聞いたのは「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」だ。この会の前身は安倍氏や中川昭一氏らが作ったもので、今の会長は中山成彬氏。彼もまた成田空港建設をめぐる「ゴネ得」発言や激しい日教組批判で麻生内閣の国交相を辞めた人だが、「空幕長の発言は村山談話を見直すいい機会だったのに、急に更迭されたのは大変残念」とホームページで熱いエールを送っている。>

 どこまで他人の思想を貶めれば気が済むのか。中山氏は大臣を辞めてケジメをつけたのに、その後まで貶める必要があるのか? 大臣を辞めたのだから発言はするな、ということなのか? 自分と違う主張を発信する人たちへのこのような攻撃的な書き方は朝日新聞の品格を疑わせるものだろう。

 <さて、その裏返しのように、いま田母神シンパの一部から激しい攻撃を受けているのが、防衛大学校の五百旗頭真校長だ。事件のすぐ後、毎日新聞のコラム「時代の風」(2008年11月9日)で田母神氏の処分を強く支持したことから標的となった。>

 これはベテランのジャーナリストがよく使う手である。自分の極端な物言いを正当化するために、世間で尊敬されている人物の言説を持ってきて、<自分=尊敬される人物>という構図を作る。そして、その人の言説を歪曲して紹介して、自分の支持を広げる、という手法である。ヒトラーなどが得意としたファシズムの手法だ。

 <コラムでは「軍人が自らの信念や思い込みに基づいて独白に行動することは、軍人が社会における実力の最終的所有者であるだけに、きわめて危険である」と書いて文民統制の重要さを説き、戦前の苦い教訓を挙げて自衛官に自重を求めた。長い歴史を考えると日本人は卓抜した能力がある立派な国民だが「その中での遺憾な局面が、あの戦争の時代」だったとして、今もその誤りを認められない人々を厳しく批判もした。>

 それだけじゃないのだ、五百旗頭氏の論文は。このブログの最後に参考に五百旗頭論文を付けておこう。虚心坦懐に読んでいただければ、これだけじゃないことを分かっていただけると思う。

 <神戸大教授だった五百旗頭氏は2006年夏に防大校長に登用された国際政治学者。故・高坂正垂京大教授の直系らしく柔らかな現実主義が持ち味だ。政府のアドバイザーとしても重用されてきたが、イラク戦争や首相の靖国参拝には反対だっただけに、選任した小泉首相の度量が話題になった。しかも、退任する小泉氏のメールマガジンに「小泉政治5年」寄稿を求められ、その外交を全体としてたたえつつも、米国のイラク戦争失敗や靖国参拝の深い傷を率直に盛り込んだ。それで構わないと言って平気で掲載した小泉氏には、思うところがあったのだろう。そういえば、小泉氏は村山談話の熱心な継承者でもあった。>

 小泉礼賛ですか。小泉=竹中路線に乗って、規制緩和を進めた朝日新聞の論説のトップが若宮氏だったことを今、思い出しました。

 <このメルマガに募っていた右派の不満に今度の件で火がついた。田母神氏が文民統制違反なら、首相の参拝などを非難し、新聞に勝手な持論を書く校長も同罪ではないか。そんな批判が表れ、田母神氏も「あの人はひどい」「おとがめなしは差別じゃないですか」と雑誌の対談で問題にした。>

 <確かに防大教授らも自衛官の身分をもつが、学者としての言論には自由があり制服組とは違うというのが政府見解で、中曽根内閣のころ非核三原則を批判した防大教授が不問に付されている。ましてメルマガは首相の注文だったし、コラム執筆も防衛省の許可を得ているから批判は筋違いだ。>

 若宮氏は五百旗頭氏を擁護しているように見せかけて、この問題をあぶりだして、公の場での論争にすることを企んでいるようだ。何しろ何の機会でもいいから、ちょっとでも「村山談話」を批判する勢力はこらしめてやろう、という魂胆なのだろう。

 <だが「校長罷免」の声はやまない。「反日」「媚中」「左翼」などの言葉が投げつけられ、周りの防大教授らにはメール攻勢もかけられる。そんな中、3月1日に大阪市で予定された関西防大0B会での五百旗頭氏の講演が中止に追い込まれた。防大OBを含む一部の活動家が抗議の電話をネットで呼びかけ、OB会長への直談判にも及んだ末である。混乱回避へのためとはいえ、中止を決めた会長は「敗北感」を口にする。>

 五百旗頭氏が批判されるという世情もおかしなものだが、「村山談話にあらずんば日本人に非ず」的な論調で、ナショナリズムの発露を封じ込めた朝日新聞には大きな責任があると思う。最近の毎日新聞は北朝鮮問題を見ても、日本人の安心・安全を最優先するという当たり前の路線に戻っているが、朝日新聞だけは北朝鮮批判を「悪」と思い込んでいるかのような紙面をいまだに作っている。この偏向路線の張本人が若宮氏だった。

 <もっとも2月22日に都内で行われた防大同窓会の総会では五百旗頭氏が防大教育の信念を語り、降りかかる火の粉を払って理解を得た。空自で田母神氏の先輩だった竹河内捷次会長(元統幕議長)は「先生の言動の一部分をとらえて攻撃する人もいるが、全体を見れば理解でき、尊敬もできる」ときっぱり語る。こんな空気こそ校長の大きな支えに違いない。>

 五百旗頭氏が問題ではなく、五百旗頭氏をこのような形で利用し、いかにも左翼の代表のように「使う」メディアに問題があるのです。

 <ところで「ルーズベルトの罠」に似た解説は靖国神社の遊就館にも展示されていたが、2007年に削られた。外交評論家の岡崎久彦氏が「知のモラルを欠く」として未熟な反米史観を廃せ」と産経新聞で唱えた(2006年8月)のがきっかけだ。米国からの批判もあってのことだが、それをむし返した田母神氏の感覚は、日米安保体制の要職にいた人とも思えない。>

 だから、前にも書いたが、田母神氏の論文の細かい部分をあげつらっても生産的でないと思う。田母神氏が全体として何を問題としていたのか、がここでは語られていない。田母神氏は北朝鮮が日本に核ミサイルを発射した時、日本はどう対処するか、を語り、今の日本は日米安保体制自体も整備不足で、自衛隊も独自で何もできないし、結局、地方都市が原爆を被爆する可能性がある、という危機感から論文を書いている。様々な論点を網羅しているものの、日本国民の安全保障問題への提起なのである。

 その部分を全く書かずに、日教組を苛めている勢力と同じだ、とか、田母神氏の論を矮小化するのに忙しい。そんなことばかりしているから、田母神氏支持勢力が増えているのだ、ということが分からないのだろうか?

 五百旗頭真・防衛大学校長が2008年11月9日付毎日新聞朝刊2面[時代の風]に寄稿した<文民統制の重要性/国、国民への「服従」は誇り>の論文をコピペする。

 よく読んでいただければ、若宮氏の引用した部分だけではない広い論点から論じていることが分かると思う。

 若宮氏らは五百旗頭氏の論点を絞り込むことで、いかにも「反田母神」の最右翼という雰囲気を作りたいのだろう。その背中に隠れて何かを言うのが一番気楽だから。しかし、そういうやり方を世間では「卑怯」という。

 以下が五百旗頭氏の論文の全文である。

 <田母神俊雄航空幕僚長が、戦争の過去について政府見解と異なる主張を公募懸賞論文に展開し、政府によって更迭された。>

 <制服自衛官は政治的問題につき政府の決定に服する責めを負う。もちろん制服を含め、誰しも自らの意見を持つことができる。しかし、個人の思想信条の自由と、職責に伴う義務とは別問題である。軍人が自らの信念や思い込みに基づいて独自に行動することは、軍人が社会における実力の最終的保有者であるだけに、きわめて危険である。それ故にすべての民主主義国にあって、軍人は国民によって選ばれた政府の判断に従って行動することが求められている。これがシビリアンコントロール(文民統制)である。>

 思想信条の自由にきちんとふれている。

 <航空幕僚長が官房長に口頭で論文を書き応募することを伝えたのみで、原稿を示すことなく、政府見解に反する主張を発表したことが明らかになったとき、防衛大臣は即日幕僚長の解任を決定した。>

 <これに関連して想起するのは、1928年の張作霖爆殺事件である。関東軍の河本大作参謀は、上司と政府の指示なく、独自の政治判断に基づき、現地政府のトップを爆殺した。それ自体驚くべき独断専行であるが、それ以上に重大であったのが軍部と政府がこの犯行を処罰しなかったことである。そのことが、軍人が国のためを思って行う下克上と独断専行はおとがめなしとの先例をなした。軍部に対するブレーキが利かないという疾患によって、日本は滅亡への軌道に乗った。シビリアンコントロールがいかに重要かを示す事例である。>

 張作霖事件を持ってきたことが田母神氏シンパを怒らせたのだろうか?

 <それを思えば、このたびの即日の更迭はシビリアンコントロールを貫徹する上で、意義深い決断であると思う。制服自衛官は、この措置を重く受け止めるべきである。>

 しかし、防衛大学校の校長とすれば、ここまで言うのは仕方ないだろう。防衛大学校の学生たちへの訓示でもあるのだから。

 <一部には解任措置だけでは不十分との主張もある。そうした新聞の一つは、筆を伸ばして「防衛大学校での教育」への疑念にまで言い及んだ。幕僚長が防大の卒業である以上、そうした疑念にも無理からぬ面もあろう。防大教育の実情について報告する義務を負っているものと解したい。>

 忘れてしまったが、これは朝日新聞批判ではなかったか? こういう部分を若宮氏は絶対書かない。

 <防大の創設は、このたびの論点となった戦争の過去と密接に関係している。ダレス特使の再軍備要求に抵抗した吉田茂首相であったが、防大の設立にはなみなみならぬ意欲を示し、「下克上のない幹部」をつくることを求めた。これを受けて槙智雄初代校長が民主主義時代にふさわしい幹部自衛官育成の精神とかたちを築いた。その教育方針は「広い視野、科学的思考、豊かな人間性」を培わんとするものであった。>

 <旧軍が、自国愛に満ちて独善に陥り、国際的視野を見失った過去、「大和魂さえあれば」とか、「竹やり三千本」の言葉に示される観念論・精神主義の過剰の中で成り立たない戦争にのめり込んだ過去、戦争への没頭の中で政府・大本営が他国民への惨禍と自国民への犠牲に鈍感となり、人間性豊かな自省を弱めてしまった過去、こうした過去の克服を期する指針であることは容易に解されよう。>

 極めてリーズナブルな論だ、と思う。

 <私が感心するのは、過去への反省に立つ指針が、同時に戦後の新しい時代への洞察とも結びついていた点である。「広い視野」は国際化が急速に進む戦後世界に、「科学的思考」は科学技術革命の爆発する時代に、「豊かな人間性」は民主主義社会において国民との共感が不可欠な時代に、それぞれ予言的なまでに適合しており、それゆえに今なお妥当性を失わないのである。>

 <槙校長の事跡と思想を展示する記念室をたまたま先日防大資料館内に開設したが、その中に「服従の誇り」という不思議な言葉がある。通常、服従は奴隷的であり、屈辱的である。個性の確立と自主自立こそが誇りであろう。槙校長は、国民と政府への自衛官の「服従」が、自発性に基づく積極的なものであり、それが国と国民に献身せんとする大義に発するものであるならば、立派に「誇り」たり得ることを、創立期の防大生に対して説いたのである。言い換えれば、槙校長はシビリアンコントロールを外力への服従としてではなく、自らの信条として内面化することを語りかけたのである。>

 この「服従の誇り」がテーマでもあり、シビリアンコントロールの説明でもある。

 <このたびのことがあって、私は防大における歴史教育の内容がどのようなものであるか、改めて調べてみた。あの戦争を賛美するような講義内容は、一般教授の「政治外交史」や「日本近現代史」にも、また制服の先輩教授が教える「日本戦史」などにもまったく見あたらなかった。すべてが資料根拠に忠実な実証研究のスタイルであった。むしろ実証を踏まえつつも、もう少し意味づけや斬新な解釈を打ち出していいのではないかと感じるような着実な傾向であった。>

 そうだろうと思う。

 <私自身も歴史家であるが、世界の中の日本を全体的に見れば、千年前に源氏物語を生み、非西洋世界の中で真っ先に近代化を成功させて西洋諸国と並び立つ国となり、戦後もまた、格差の最も少ない豊かな民主主義社会を築くなど、卓抜した能力を示してきた立派な国民だと考えている。その中での遺憾な局面が、あの戦争の時代であり、今なお誤りを誤りと認めることができずに精神の変調を引きずる人のいることであると考えている。>

 最後の「遺憾な局面が、あの戦争の時代であり、今なお誤りを誤りと認めることができずに精神の変調を引きずる人のいることであると考えている」は挑戦的な言葉だ。なぜ五百旗頭氏ともあろう方がこのような挑戦的な言葉を使ったのか、当時、首をひねった思い出があった。

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2009年3月14日 (土)

中谷巌氏の「ざんげ録」への意見表明、朝日新聞に載っていた~日経新聞3月11日夕刊の佐和隆光氏コラム、3月14日[大機小機]、朝日新聞文化面

 日経新聞3月14日朝刊[大機小機]は(盤側)さんの<「百年に一度」は天災用語>だった。今回の米国発金融危機を「百年に一度の危機」というが、これだと天災は百年に一度やってくる、というのと同じで諦めの気持ちを抱かせ、経済学無用論に結びつきかねない、と書き出す。なるほど、と思うが、(盤側)さんはこの言葉がもともとは前FRB議長の「百年に一度か五十年に一度の危機」という言葉から出ていることはご存意だとは思うが、あえて省略したのだろう。

 面白かったのが、次のくだりだ。

 <経済学者の中には「ざんげ録」のような”転向”の書物を刊行した人もいる。これを読むと、経済学はこんなに底の浅い信仰に似た感覚で世の中を動かしてきたのかと驚いてしまう。だが反省している以上、昔の主張か今の反省かのどちらかが正しいはずだ。反省しない経済学者は、一貫して正しいのか、一貫して間違っていたのか分からないので、全員がこの書物について意見を表明すべきである。>

 というくだりだ。

 実は、同じ3月14日の朝日新聞朝刊文化面<構造改革の旗手、行き過ぎた市場経済を批判/中谷巌氏「転向」の波紋/「正直」「責任は」賛否両論/「空気に過敏な論壇」>、<「人間、成長して意見変える」中谷氏に聞く>でこの(盤側)さんの疑問に答えようとしているのだ。こういうのを「阿吽の呼吸」とでも言うのだろうか。最近、朝日新聞・読売新聞・日経新聞の連携がつとに進んでいるやに聞くが、まさか連動していることはないとは思うのだが。

 朝日新聞の記事は思想、論壇を担当している藤生京子記者によるものだ。

 私もたしかこのブログで書評を書いたと思ったのだが、昨年12月に集英社インターナショナルから発売された「資本主義はなぜ自壊したのか」である。経済書としては異例の13万部のベストセラー記録を更新中だ、と書いてある。皆、怖い物見たさで買っているのか?

 本の内容は書評を見ていただくことにして、藤生記者がコメントを取った経済学者たちの反応を書き出しておこう。

◆中谷氏賛成派

▽土居丈朗・慶大准教授=日本人の気質に合った日本にふさわしい経済構造の構築を訴えかけている。(1月11日の読売新聞で好意的に論評)

▽伊東光晴・京大名誉教授=(自らの非を認めた)著者は正直である。(2月8日毎日新聞で皮肉を込めて)

◆中谷氏批判派(藤生記者は「経済は水物だけに主張の変更自体を否定する意見は少数派」と書いている)

▽松原隆一郎・東大教授=経済情勢が変わるくらいで、立場を簡単に変えるべきではない。(中谷氏はこれまでも日本的経営をめぐり自説を修正してきたが)時流を意識したとしか思えない。彼らの政策で首を吊った人もいるかもしれない。倫理的・道義的責任を自覚しているのか。

▽金子勝・慶大教授=根本的な一貫性がみえること、変える以上は大きな世界観で、独自の理論を示してほしい。

▽若田部昌澄・早大教授=経済学者なら、経済学的知見をもって語るべきだ。格差の原因も、経済学的に精査すべきだろう。(専門家から得た知識を援用して欧米の一神教思想との比較などを持ち出す中谷氏の手法への批判)

▽斎藤誠・一橋大教授=命がけのはずの「転向」や宗教的意味のある「懺悔」という言葉を大げさに使ってほしくない。(沈黙を促す)

▽橘木俊詔・同志社大教授=メディアでの発言をやめるくらいなら気骨を感じるのに、これではオピニオンリーダーが自由をエンジョイしただけ。

▽松井彰彦・東大教授=気になるのは、日本の論壇に、KYならぬ「空気を読みすぎる」傾向があること。例えば今こそ自由の価値とは何かの議論をすべきなのに、構造改革批判のムードに覆われてやりにくい気配を感じる」(藤生記者のコメントとして、「論壇の停滞が久しい中、経済論壇は、不景気で逆に活況を呈したといわれる。だが、経済紙で経済論壇の時評を担当している松井氏は、疑問も感じている。一つが論壇と学界が「水と油」の関係になってきていること。学界の最前線では、中谷氏が単純化するような野放図な市場主義が礼賛されてきたわけではないのに、学者が大学に閉じこもっていることもあって、研究知識の蓄積が論壇に反映されない。その構造こそが問題だという」と書いている。つまり、中谷氏の本は大げさでいい加減だ、と言わんばかりの書き方だった。)

▽浜矩子・同志社大教授=変えないこと、真理の前に謙虚であることとの間でバランスが不可欠で、そのうえで人々の側に立って臆せず発言すべきだ。(主張の変更が問題にされると、学者がますます発言しなくなる恐れもある、というコメントを藤生記者が書いた後に)

 藤生記者がまとめた中谷氏の主張の変遷もちょっと意地悪だが、この変化は随分とはっきりしている。1987年の「転換する日本企業」、1990年の「ジャパン・プロブレムの原点」などはまだ曖昧なのだが、1996年の「日本経済の歴史的転換」では「やさしい気持ちが全体の活力を奪い、日本経済を失速させている」と書いていたそうだ。

 つまり、温情あふれる日本的経営の否定論だ。ところが、2008年の「資本主義はなぜ自壊したのか」では、「グローバル資本主義や市場原理が本質的に個人と個人のつながりや絆を破壊し、社会的価値の破壊をもたらす『悪魔のシステム』である」と180度違う論を展開している。

 この文章を比較して読むと、中谷氏の言葉遣いが相当にセンセーショナルな言葉を多用していることが分かる。つまり、言葉がきついのだ。学問的留保などは全く考えていない、あっけらかんとした書き方だ。この人の性格なのだろう。

 中谷氏のインタビューは読まなくても見出しだけで内容が分かるし、書き写していたら、笑っちゃうので、書かない。

 以上が朝日新聞の区分けなのだが、どうも読み終えてみると、(盤側)さんが望んでいた意見表明とは違うようだ。(盤側)さんはそれぞれの経済学者やエコノミストが新自由主義的市場経済論をどう評価するか、を読みたかったのだろうし、私もそういう内容を読みたかったのだが、この意見表明は「転向」を批判するのか、「やむを得ない」とするか、の意見表明だったからだ。

 内容の比較はいずれ、東洋経済かエコノミストでやってほしい、と思う。期待しよう。

 そして、日経新聞[大機小機]に戻る。(盤側)さんは、中谷氏の「転向」を論じた後、

 <米国人は反省しない人たちだと思っていたら、さすがにオバマ新大統領は議会演説で、規制が問題に適切に対応できなかったと述べ、これが米国的な規制のあり方に関する問題であるとの認識を示した。加えて米国人は百年に一度の危機がなぜ米国発なのか自問する必要もあるだろう。>

 と書いていた。

 <米国は貯蓄金融機関(S&L)破綻危機に際して証券化という手法を開発したが、その住宅ローン危機を今回はさらに深刻な形で再現させた。LBO(借り入れで資金量を増やした買収)で散々使ったジャンク債の次は、今回の「ジャンク証券化商品」である。同じようなことを何度でも繰り返して、懲りることのない体質なのではないか。>

 として、

 <経済学者は相も変わらず「ゼロ金利にしたので、お金の流れがおかしくなった」などと論評している。だがお金が余ろうとどうだろうと「してはいけないことは、できない」となっていれば、お金の流れも違ったはずだろう。やはりルールを検証すべきだ。>

 野放図ではいけない、ということだ。そして、EUは米国式の野放図を許さない新しい規制のルールを4月2日のロンドンG20で発表するが、日本もこの会議にどういう姿勢で臨むのか、はっきりさせろ、と言う。

 <本当は今、日本で最も話題になっていなければならない問題なのだが。>

 という結びである。言外の政治批判なのだろう。検察批判なのかな? でも、論理展開が少し散漫だったが、(盤側)さんが何かに相当に怒っていることはよく分かった。誰だって怒りたくなるよね。

◆佐和隆光氏のコラムも面白かった

 これに関連してメモしておかねばならないのが佐和隆光氏の日経新聞3月11日夕刊1面コラム[あすへの話題]である。タイトルは<実務家と経済学者>だが、まさに、この学説と思想の問題を掘り下げている。

 書き出しはケインズの「いかなる知的影響からも無縁であると自ら信じている実務家たちも、過去のある経済学者の奴隷である」という少しショッキングな言葉の紹介だった。そして、佐和氏は

▽規制緩和・所得税減税・民営化→ミルトン・フリードマンの奴隷

▽世界不況下で金融緩和と財政出動を政府に求める→ケインズの奴隷

 という面白い組み合わせを披露する。そして、

 <多くの実務者を奴隷に従える「偉大」な経済学者といえば、アダム・スミス、ケインズ、マルクス、フリードマン、ガルブレイス、スティグリッツぐらいのものだろう。普通の経済学者は「偉大」な経済学者が創始した学派に属する。政財界の主流派の見解と合致する学派が、時の主流経済学の地位を占める。その意味では、普通の経済学者と実務家の関係は、ケインズの言う意味での主客の立場が転倒している。>

 と面白い説を展開するのだ。なるほど、言われてみればその通りだ。「主流経済学者」とか言うが、結局は経済財政諮問会議をはじめとする政府の政策形成に役立つ理論を提供する学者が「主流」で、そうでない学者はいまや経済論壇にも入れない悲哀を託っているわけだから。

 しかし、この「偉大」な経済学者の中にはもっと多くの人々が入るべきだ、とは思うのだが。特にジョーン・ロビンソンをなぜみんな忘れているのだろうか? 彼女の理論こそ、今のフリードマン理論が破綻した世の中で見直されてしかるべき理論ではないか、と思うのだが。

 続きを読もう。

 <米国の経済学者は、自由で競争的な市場を万能視する新古典派か、市場の不完全性を前提とするケインズ派か、そのいずれかに与するのかを、思想構造をも含めて選択している。>

 そういうことだ。その亜流こそが必要なのに。思想的な部分でも。

 <ところが、日本の経済学者の多くは、理論を支える思想構造には全く無頓着である。>

 ここが問題なのだ。

 <それにしても不思議なのは次の点だ。つい数ヶ月前までフリードマンを奉っていた日本の経済学者、経営者、政治家の多くが、世界同時不況の襲来後、今度はケインズの前にひれ伏すようになった。他方、昨年9月に金融安定法案を否決、12月に自動車産業救済法案を廃案に追い込んだ米上下両院議員の多くは、自由で競争的な市場の敗者を国が救済することを「否」とするフリードマンを奉り続ける。その首尾一貫性に対し、私は心より敬意を表したい。>

 以上である。つまり、日本では時流に阿るのが仕事のエコノミストだけでなく、本来は経済思想のバックボーンを持って論を立てなければならないはずの経済学者までもがバックボーンなしに口先で論をしゃべっていた、ということだろう。いい加減だ、といいたいわけだ。その通りだとは思うが、転換したこと自体は否定的に捉えなくてもいいとは思う。どのように転換したのか、できれば自分を含めた「大きな物語」を語れるような経済学者が宇沢弘文氏以外にも育ってほしい、と切に思っているのだが。

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2009年3月 4日 (水)

毎日新聞長期連載[40年前~<政治の季節>を再考する]が最終回~3月4日毎日新聞朝刊から

 毎日新聞の長期連載[40年前 <政治の季節>を再考する]は「団塊の世代」が20歳前後だった1967~69年の激動の時代を問い直すシリーズ。2007年4月から21回にわたり連載し、3月4日朝刊で最終回。今回はかつて全共闘にも参加した社会学者の橋爪大三郎氏明治以降の文化史に詳しい評論家の坪内祐三氏当時の映画事情を専門に研究する平沢剛氏の3世代の論客が「60年安保」との比較から、「50年後」への展望までを語った、という。近く単行本として刊行されるらしい。楽しみだ。

 平沢剛(ひらさわ・ごう)氏は1975年生まれ。明治学院大文学部卒。編著に『アンダーグラウンド・フィルム・アーカイブス』『ファスビンダー』『若松孝二 反権力の肖像』など。▽坪内祐三(つぼうち・ゆうぞう)氏は1958年生まれ。早大文学部卒。著書に『靖国』『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』『一九七二』『変死するアメリカ作家たち』『考える人』など。▽橋爪大三郎(はしづめ・だいさぶろう)氏は1948年生まれ。東大大学院博士課程修了。著書に『橋爪大三郎コレクション(全3巻)』『アメリカの行動原理』『冒険としての社会科学』など、と紹介されていた。

 記事の見出しは<座談会・シリーズを総括する/価値観・文化・生活…大きく転換/ヒントも残した全共闘―橋爪/思想・運動の実験あった―平沢/テレビが世界同時性生む―坪内>だった。

 いつものように、気になった発言を書き写しながら、コメントしていこう。

◆橋爪大三郎氏

▽第二次世界大戦後から現在まで、世界的には冷戦終結が大きな区切りだが、日本は60年代後半から70年代初めに区切りがある

 これを言う人が多いのだが、本当にそうなのか? 単なるノスタルジアではないのか? 区切りと言えるだけの客観的な事象が欠けている気がする。

▽音楽では66年に来日公演したビートルズが受け入れられ、大学生がジーンズを着て学生服は姿を消した。今も続く様々なことが初出し定着したのが40年前だった。

全共闘(全学共闘会議)は大学ごとにできた任意団体で、参加したのは大部分が一般学生。60年安保時の全学連(全日本学生自治会総連合)は街頭闘争で警官隊にぶつかり負けたが、全共闘は学内闘争で外から入ってきた機動隊に学内で負けたから、その後大学は正常化し授業が再開した。

▽戦後のベビーブーマーによってこの時期、世界で一斉に若者文化、カウンターカルチャー(対抗文化)が起こる。日本と欧州は左翼運動、社会主義の政治運動の性格が濃かったが、マルクス主義の影響がほとんどない米国はカウンター・カルチャーや反戦運動の側面が強かった

▽当時、団塊の世代の多くが左翼になったのは、資本主義に反対で、既成左翼の社共もダメと思っていたからで、全共闘から見ると社共、ソ連がダメなのは一国社会主義だから。

全共闘を含む新左翼は国際共産主義で世界連帯を唱えたから、どの外国も基本的には敵視しない。グローバル化が進まないうちから意識だけはそうなっていた。だからロックを聴いたりした。

▽総力戦だった20世紀前半の戦争と異なり、核兵器ができて限定戦争になると、ベトナム戦争のように正規軍が勝てるとは限らない。だが、戦争の勝ち負けとは無関係に冷戦の枠は維持され、日本はどうあがいてもその枠を左右できない無力感が冷戦期の日本の政治や外交につきまとった

最も現実的に考えることと最も空想的に考えることが等価になる感覚があり、全共闘的左翼の「結果無責任」につながったのかなと感じる。

▽「消費」概念ができた。60年前後の「三種の神器」(白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫)だとかなり気張って買う感じがあったが、「消費」は必要かどうかではなく個人の便益・効用に応じて自由にモノを選んで買うこと。衣食住すべてにわたって大きな変化が起こった。消費が出てくると同時に大衆も出てきた。

▽社会変化で発生した非合理的問題に対して、若者たちは街頭闘争参加などで政治を動かそうとしたが、政治というより運動だった。運動は半ば空振りに終わったが、半ばは時代を超えるヒントを残したかもしれない。今は当時の運動を冷静に評価できるようになったが、政治によって解決すべき構造的問題が出てきた。

◆坪内祐三氏

▽「1968年革命」という言い方がある。68~72年ごろにパラダイム・チェンジがあり、価値観や世界のあり方が変わったとよく言われるが、注意したいのは個別のテーマごとに考えると、全体の連関性が見えにくくなる点だ。

▽当時小学生だった自分の感覚で、69年1月に全共闘の東大安田講堂が落ちた後は、アポロ11号の月着陸(7月)、翌年の大阪万博での「月の石」展示と、時代は未来イメージに変わった。

60年安保は反米意識が強かったが、団塊の世代はベトナム戦争には反対だけどファッションや社会風俗の面ではアメリカ的なものを受け入れた。その米国に対する意識の分裂は興味深い。

世界同時性ではテレビの影響が大だ。ベトナム戦争にしても、テレビで放映されることによって戦争の悲惨さが人々に伝わった。キング牧師のデモ行進でも、暴力的に排除される時、大げさに転んで見せたりしたように、テレビを強く意識していた。メキシコ五輪の記憶が鮮明だが、衛星中継で海外の動きもリアルタイムで伝わるようになった。カラーテレビも出始めていた。

▽69年5月に東名高速道路が全通したが、マイカーが普及した時代でもあった。当時の少年雑誌で描かれる未来都市像には高速道路網が肯定的に描かれていた。

▽あと10年たって、68年から50年後になった時、どう論じられることになるか興味がある。今が歴史の大きな変動期だと思うからで、これから10年の変化を経た後に、68年がどういうイメージで見えるかを考えると面白い。

◆平沢剛氏

▽昨年、68年から40年後に際して海外で開かれたいくつかのシンポジウムに参加したが、日本では68年を振り返る機会がなかった。冷戦崩壊で共産主義、社会主義の失敗が強調されるが、今の金融危機の中、資本主義とは何だったのかも問い直す時代だ。68年前後に歴史的転換点があったとするならば多角的に読み直し、現在の観点から見つめ直す必要がある

▽「全共闘」「68年」のキーワードで語られる「大文字の歴史」に集約されがちだが、実際には「68年」的なものはヨーロッパでも日本でも70年代まで多様な形態で続いた。神話化した部分は検証し直さないといけない。

当時の理論や実践は、今の反グローバリズムの思想が訴える反権威主義、脱中心主義を予見的に提示した面もあった。評価は様々にあるとしても、巨大な思想・運動の実験が行われていたことは強調したい。

▽テレビに比べタイムラグはあっても、当時の映画にも世界的に共通の関心をもって結びついていく特徴が見られた。海外旅行に簡単には行けなかった時代に、国際問題に関心を持ち、盛んに考えたり分析したりしていた。

そのころ日本にもあった国際的な想像力を今、取り戻す必要も感じる。50~60年代には黒澤明や溝口健二ら巨匠の映画が日本という国民国家の芸術として評価を受けたが、この時期になると大島渚、吉田喜重、若松孝二の各氏など若い世代の作品が同時代の表現として評価されるようになった。映画や漫画、写真、美術といった単独のジャンルでは語れないようなジャンル横断性が生まれたのは文化史的にも特異だろう。

都市と農村の二項対立の失効があった。東京五輪(1964年)や大阪万博(70年)に伴う国土再開発が本格化し、高速道路をはじめ、均質化された日本の風景を準備することになった。今の日本の問題を分析するうえでも重要だ。

▽68年の運動には、今だからこそ見えるイメージも含まれている。構造的問題を分析しながら、あり得たかもしれない「可能性としての68年的なもの」がどこにあり、どう引き継いでいけるのかを冷静に考えなければならない。

 何か舌足らずな言葉が並んでいるようにも見えるが、様々な問題提起はされている。

 この68年問題は単純に人口論で見るとどうなるのか? 「団塊の世代」などと堺屋太一氏が名付けてしまったので、日本特有な現象のように見えるが、世界的に1945年は戦後の始まりだったわけで、出生率が一斉に上昇した。1945~1950年生まれの大群が今や還暦を迎えたので、高齢化の問題が出てきている。60年代後半から70年代前半はその世代が成人する時期だ。世界的に政治的思春期が来た、ということではないか。あまり秩序感覚もなく、思想への忠誠心もない大きな塊が大人になった時期、何があったのかである。

 このような社会学者の分析も議題設定には欠かせないが、やはり、経済の変化と政治の変化をもう少し精密に見る必要性があると思う。1968年は米国は実は経済的には困り始めていた時期で、71年には破綻するのだから。政治的には東西冷戦の諸相と日本の関連、それに中国を変数として入れないと見えてこない部分もあるだろう。

 その中での日本国民精神史である。

 でも、相当に面白かった企画だったことは間違いない。

 ついでに記事につけてあった年表を写しておく。

[政治の季節]年表

1966年5月 中国文化大革命始まる

 〃  6月 ビートルズ来日

 〃  7月 三里塚への空港設置を閣議決定

1967年4月 美濃部亮吉が東京都知事に当選

 〃  6月 自動車保有台数1000万台突破

 〃  8月 ASEAN発足▽公害対策基本法公布▽状況劇場が新宿で初のテント公演

 〃  10月 「オールナイトニッポン」放送開始▽ツイッギー来日

 〃  12月 佐藤首相が非核三原則を言明▽テレビ受信契約数2000万件突破

 〃     ATGと独立プロによる1000万円映画の製作が始まる

1968年1月 ドプチェクがチェコスロバキア共産党第1書記就任(プラハの春始まる)

 〃  4月 キング牧師が狙撃され死亡▽米コロンビア大をベトナム反戦学生が占拠

 〃  5月 パリ5月革命

 〃  7月 東大全共闘結成

 〃   8月 ソ連など5カ国軍がチェコスロバキアに侵入(チェコ事件)

 〃   10月 国際反戦デー(新宿騒乱)▽明治百年式典▽三島ら楯の会結成▽メキシコ五輪

 〃   12月 3億円事件

1969年1月 東大安田講堂攻防戦

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2009年2月24日 (火)

「新聞は愛国主義的である必要はない」とアマーティア・セン教授は言うが…朝日新聞2月24日朝刊インタビューから

 朝日新聞2月24日朝刊3面[あしたを考える]にアマーティア・セン米ハーバード大学教授のインタビューが載っていた。紙面の人物紹介にあるように1998年にノーベル経済学賞を受賞した1933年インド・ベンガル生まれの75歳の長老である。英ケンブリッジ大卒。「哲学や倫理学に根差す豊かな人間観を経済学に採り入れた。近著『アイデンティティーと暴力』では人々を宗教や文明で画一的に分類する考え方を批判、グローバル社会での人間のアイデンティティについて論じている」とあった。一部に熱狂的な「信者」を持つカリスマ的な学者でもある。

 これだけでは分かりにくいから、例によってウィキペディアのお世話になろう。

 <9歳の時、200万人を超える餓死者を出した1943年のベンガル大飢饉でセンの通う小学校に飢餓で狂った人が入り込み衝撃を受けた。この頃、ヒンズー教徒とイスラム教徒の激しい抗争で多数の死者も出た。「インドはなぜ貧しいのか」という疑問から経済学者となる決心をし、カルカッタ大学経済学部卒後、1959年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで博士号取得。「アダム・スミスとカール・マルクスに影響を受けた」という。コルカタ、デリー、オックスフォード、ハーバードの大学で教え、1997年から2004年までの間ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジの学寮長。2004年の1月にハーバード大学に戻った。経済の分配・公正と貧困・飢餓の研究における貢献で1998年にノーベル経済学賞、翌年にはインドの文民に与えられる最高の賞、バーラト・ラトナ賞を受賞。1994年アメリカ経済学会会長。>

 <センのミクロ経済学の視点から貧困のメカニズムを説明した研究は経済学に限らず社会科学全体に衝撃を与えた。特に途上国の購買力と飢餓の関係を説明した論文は尊敬と畏怖をもって経済学者達に迎えられた、なぜならば彼以前は貧困とは単純に生産性の問題だけだと考えられていたが、市場競争における市場の失敗によってもたらされた事を簡潔にそして明瞭に表してしまったからである。>

 <経済学において最も高度な数学を使う厚生経済学や社会選択理論においても牽引者適応選好や潜在能力(capability: ケイパビリティ)アプローチ、「人間の安全保障」などの概念は現在日本の高校公民授業で教えられることがある。>

 <センは経済学は数字だけを扱うのではなく、弱い立場の人々の悲しみ、怒り、喜びに触れることができなければそれは経済学ではないと主張した。「飼いならされた主婦、あきらめきった奴隷は、ほんの少しの幸せでも満足してしまう」とし、弱い立場の人々が潜在能力を生かし社会参加することを主張している。>

 <経済学は、「人はいかに生きるべきか」「人間にとっての善」という倫理学と工学の2つの大きく異なる起源から派生しているとされている。センは、前者を「モチベーションの倫理的な考え方」と呼び、後者を「それを達成するための手段」としている。センは、現状の経済学を批判するが、経済学のもつ分析力は否定せず、敬意を払っている。彼が取る分析手法は経済学の一般的テクニックに根ざしている。>

 <センのノーベル経済学賞受賞は「厚生経済学・社会的選択」での功績だが、彼の学説で最も有名な概念は「潜在能力。これは「人が善い生活や善い人生を生きるために、どのような状態にありたいのか、そしてどのような行動をとりたいのかを結びつけることから生じる機能の集合」としている。具体的には、「よい栄養状態にあること」「健康な状態を保つこと」から「幸せであること」「自分を誇りに思うこと」「教育を受けている」「早死しない」「社会生活に参加できること」など幅広い概念だ。そして「人前で恥ずかしがらずに話しができる」「愛する人のそばにいられる」も潜在能力の機能に含められるとしている。>

 <センの潜在能力アプローチを発展させたものが、国連開発計画(UNDP) の人間開発指数(HDI:Human Development Index)だ。HDIは、平均寿命、識字率、国民所得(一人当たりGDP)の3つの指標からなっている。最初、センは、1990年にパキスタンの経済学者マブーブル・ハックの提唱した生活の質や発展度合いを示す「シンプルな指標」であるHDIに難色を示した。その理由をセンは、「HDIの平均寿命・識字率・国民所得も手段であって、目的そのものではない。目的は、人それぞれ多様なものであり、社会的・文化的背景によって異なる」と述べている。しかし、最終的にはセンも同意し協力メンバーの一人となった。HDIは1993年から国連年次報告「人間開発報告書(HDR)」の中で国連開発計画によって毎年発表されている。現在では、経済中心のGDPに代わる人間性を加味した指標として日本政府も注目している。>

 <2001年1月、センと緒方貞子前国連難民高等弁務官を共同議長に「人間の安全保障委員会」が、日本政府とアナン国連事務総長のイニシアティブによって欧米とは別に創設された。同委員会は、2003年6月まで継続し、最終報告書を持って解散した。その後、「人間の安全保障ユニット」として国連人道問題調整部(OCHA)に移行し、日本政府は2006年度までに335億円を供出している。>

 <次のエピソードも面白かった。トリニティ・カレッジ学寮長時代、毎朝の『もっとも重要な仕事』だった英王室ゆかりの19世紀から動き続けている柱時計のぜんまいを巻くことを忘れてしまい、時計を止めてしまった。「どうせ私は植民地の人間だから。」(セン)。娘のナンダナー・セーンはセクシー女優としてインドで映画デビュー。大学生のとき、顔面がんになり、切除手術を受ける。アマルティアとは「永遠に生きる人」という意味。名付けたのはインドの詩聖と言われアジア人初のノーベル賞に輝いたラビンドラナート・タゴール。>

 <主な著書は、杉山武彦訳『不平等の経済論』(日本経済新聞社, 1977年)▽志田基与師監訳『集合的選択と社会的厚生』(勁草書房, 2000年)▽黒崎卓・山崎幸治訳『貧困と飢饉』(岩波書店, 2000年)▽大庭健・川本隆史訳『合理的な愚か者―経済学=倫理学的探究』(勁草書房, 1989年)▽鈴村興太郎訳『福祉の経済学―財と潜在能力』(岩波書店, 1988年)▽徳永澄憲・松本保美・青山治城訳『経済学の再生―道徳哲学への回帰』(麗澤大学出版会, 2002年)▽池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳『不平等の再検討――潜在能力と自由』(岩波書店, 1999年)▽石塚雅彦訳『自由と経済開発』(日本経済新聞社, 2000年)▽大石りら訳『貧困の克服』(集英社[集英社新書], 2002年)▽細見和志訳『アイデンティティに先行する理性』(関西学院大学出版会, 2003年)▽佐藤宏・粟屋利江訳『議論好きなインド人―対話と異端の歴史が紡ぐ多文化世界』(明石書店, 2008年)▽『人間の安全保障』(集英社[集英社新書], 2006年)。共編著は水谷めぐみ・竹友安彦訳『クオリティー・オブ・ライフ―豊かさの本質とは』(里文出版, 2006年)など。>

 朝日新聞紙面に戻る。

 インタビューは英国のケンブリッジで大野博人特派員によって行われた。ハーバードの教授ではあるが、いつもはケンブリッジに住んでいるのか?

 記事の見出しは<市場依存 危機生んだ/国家の役割 否定は誤り/人間としての意識こそ重要>だった。

 気になった言葉を書き留めておく。

◆グローバル化そのものは「悪」ではない

 <グローバル化は多くの国にとって利益の源泉だ。明治以来、日本を豊かな国にしてきたのも一種のグローバル化だ。今の問題のほとんどはグローバル化自体よりも、ほかの事情による。政治力、所有物、経済手段などの巨大な不平等が世界に非対称性を生み出しているのだ。>

 <危機の原因もグローバル化そのものではなく、米国の経済管理の誤りだ。それが相互依存の進む世界に広がっていった。グローバル化はその過程を可能にし、早くした。>

◆新自由主義は市場万能主義という意味では非生産的な考え方

 <新自由主義という用語にはきちんとした定義がないが、もし市場経済に基礎を置くことを意味するだけなら、結構なことだ。市場経済はどこでも繁栄のもとなのだから。だが市場経済体制はいくつもの仕組みによって働いている。市場はその一つに過ぎない。なのに市場の利用だけを考え、国家や個人の倫理観の果たす役割を否定するなら、新自由主義は人を失望させる非生産的な考え方だということになる。>

◆政府の役割と市場の役割

 <(レーガン元米大統領が「政府は問題の解決策ではなく、政府こそが問題だ」と主張したが、それは)愚かしい。確かに政府が出しゃばり過ぎれば問題だ。改革開放前の中国などがその例だ。しかし、政府は解決でもある。国民皆保険制度を作るのは政府の役割だ。それは人々に幸福だけでなく自由をもたらす。健康でなければ、人は望むことも実現できない。識字教育だって公教育を通して実現される。国家の役割は社会の基盤を作る点で非常に大きい。

 <国家は金融機関の活動を抑制する点でも重要だ。早く金を儲けようとして市場を歪めるのを防がなければならない。米国は金融機関への規制をほとんど廃止したので、市場経済が混乱に陥った。

◆「規制緩和万能」という考え違い

 <規制緩和は非常によいことだと見られてきたが)その考え方には途方もない混乱があった。つまり市場はとても生産的だから、それ以外は何も要らないというのだ。市場に出来ることがあれば出来ないこともあるし、国家が引き受けるべきこともある。こんな基本的なことが無視されてしまった。背景に「国家は悪」という非常に強い右派の政治思想もあった。理論というより衝動みたいなもので、思い込んでいる人は正当化の理屈を後から考える。

 この部分は切り取って竹中平蔵氏にファックスしてあげたい。宮内義彦氏、小泉純一郎氏もだ。「規制緩和=善」というあまりにも単純な考え方、思想は危険だ。

◆問題解決にはグローバルな諸制度が必要

 <問題の解決には国家だけではなくグローバルな諸制度も必要だ。>

◆ナショナリズムとグローバルなアイデンティティー

 <(ただ、国家はナショナリズムのような帰属意識に訴えて人々を統合してきました、という質問に)ナショナリズムは有害なこともあるが役にも立つ。暴力が宗教的対立に起因する時、ナショナリズムは宗教を超えて人々を統合する力になる。インドは人口の80%がヒンドゥー教徒でイスラム教徒やキリスト教徒、シーク教徒などは少数派だ。それでも今、首相はシーク教徒だし、与党の党首はキリスト教徒だ。前任の大統領はイスラム教徒だった。これは人々が指導者たちをインド人と見るから実現した。ナショナリズムが宗教的アイデンティティーを圧倒し、人々の統合を進めたのだ。日本のナショナリズム第2次世界大戦では問題だったが、明治維新からの発展には国民統合が欠かせなかっただろう。>

 <(しかし、世界同時不況のような問題の解決にはナショナリズムは役立ちそうになく、逆に政治を保護主義に走らせる懸念もありますが、という質問に対し)今重要なのは国家や宗教を超えて人々を統合するグローバルなアイデンティティーだ。グローバルな諸制度を支えるためだけではない。現実に我々の行動が他者の生活に影響を及ぼすようになっているのだから、それにはまず、1人の人間が様々なアイデンティティーを持つことを認めなければならない。日本人で、ロンドン在住で、ジャーナリストでという具合に、人はいくつものアイデンティティーを持つ。居住地への愛着、母国への愛着、文化への愛着。どれも矛盾なく共存する。>

◆多様なアイデンティティーの並存を認める、ということ

 <(いずれも争いごとの原因となりそうですが、という質問に)争いごとは、様々なアイデンティティーの一つだけを特別視し、他を無視するから起きる。第1次世界大戦で争った欧州各国の人たちはみなキリスト教徒だし、ほかにも共通点は多かった。ところがナショナルアイデンティティーだけを特別視するから対立になった。第2次大戦でもナショナルアイデンティティーがほかを吹き飛ばした。最近の問題は宗教的アイデンティティーだ。イスラムのテロリストは宗教的帰属を強調するばかりか、ほかのアイデンティティーを否定する。>

◆人間としてのアイデンティティー

 <(とはいえ、国を超えて人々を統合するような市民意識は可能でしょうか、という質問に)グローバルなアイデンティティーは誰にもある。他者への基本的な同情心だ。道で転びそうになる人を見たら思わず支える。どこの国の人か、何教徒か、何語を話すか、助ける前に考えない。人間だからとしか言いようがない。人間としてのアイデンティティーとも言える。その理解を深めなければ。>

 <(どのようにして深めるのか、という質問に)教育が重要だ。学校教育だけではない。たとえばメディアどうニュースを伝えるか、どんな意見を紹介するか。それは教育的意味を持つ。>

 <(メディアもグローバル化しなければならないと言うのか?という質問に対して)新聞などはもっと自由になるべきだ。愛国主義的である必要はない自国の視点から離れた報道や論の展開は可能だ。友人の大江健三郎氏は、日本人であると同時にグローバルな普遍的人間でもある。知識人はこの二重の役割を担わなければならないが、それはメディアについても同じだ。

 「自国の視点から離れた報道」とは何を指しているのか? セン氏は多様なアイデンティティーの並存が今後のグローバル世界には必要、というが、その並存するアイデンティティーには重要度で違いがあるのではないか? 例えばゾルゲ事件でソ連に内通していたとされた知識人は祖国を裏切った。これは日本人というアイデンティティーとマルクス・レーニン主義というアイデンティティーの狭間に陥った知識人の大失敗だった、と思うのだが、その意味では祖国を裏切らない、というのは最低限必要な条件ではないのか? そうでなかったら、国家存亡のときに、そういう知識人は国を滅ぼす勢力になる。やはり、並存するアイデンティティには重要度で段階がある、と思う。

 問題は、メディアの役割、使命に関してである。メディア人こそ愛国者でなければならない、というのが基本だと思っている。ただ、戦時中の国家神道の神官のようにしろ、というのではない。世界の情勢を目を見開いて観察し、世界の趨勢を読み、日本という国家が、私たちの子々孫々が生き残るために今どうしたらいいか、を考えて発信するのがメディア人の役割だと思う。

 よく言われる話だが、ナショナルを抜きにしたインターナショナルはない、と思うからだ。根無し草は必ず、ずるい国家に利用される。スターリンに利用されたインターがいい例だった。

 大江健三郎氏はあくまで小説家だ。小説家と新聞記者を同一に論じることはできない、と思うのだが、どうだろうか?

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2009年2月21日 (土)

「遅く考える」時間の大切さ:中山元氏の論に賛成~朝日新聞2月21日夕刊

 哲学者の中山元氏が朝日新聞2月21日夕刊文化面に寄稿していた。<言葉と思考 遅さの技法/朗読・翻訳 その豊穣な時間>のタイトルだ。短文だが、書いてある内容は滋味に富んでいる。今、政治家だけでなくマスメディア、思想家、文芸評論家たちを含めて言葉の軽さが問題になっている時、この「言葉」=「思想」を理解するために時間をかける、という「ゆっくり」のススメは貴重な提言ではないだろうか。

 中山氏はデリダ、フーコー、カントらの翻訳書が多いので、どちらかといえば翻訳家として知られているかもしれないが、その本質は現代が抱える諸問題をすべて自分の頭で考えて解いていく、という珍しい哲学者だと思っている。借り物の欧米思想を物差しのように当てて、計算機に頼るような真似は間違ってもしない人だから、安心して著書が読める。この記事で紹介されている「賢者と羊飼い」は読んだことがなかったが、哲学入門のような題名は忘れたが、分厚い文庫本を読んで感動したことを覚えている。

 寄稿に移ろう。中山氏はまず、

 <思考は言葉によって紡がれる。言葉にならない思考は、昨晩の夢のようなものであり、雰囲気としては残っていても、揺らいでいく。思考は言葉に定着させる必要がある。>

 <言葉のうちで思考は育ってゆく。蚕が糸を紡ぐように、思考は言葉を繭として、言葉のうちで育まれ、成長し、やがて羽ばたくようになる。思考は言葉の網の目のうちで息づく命のようなものだ。>

 と、「言葉」と「思考」との密接な関係に注目する。

 <だから他者の思考を理解するということは、そのひとの言葉のうちで呼吸している思考を理解するということだ。しかしただテクストを読んでいても、著者の思考の鼓動を感じ取れないことがある。優れたテクストの多くは長い時間をかけて書かれたものであるのに、読む者の目は、しばしばテクストの上を高速で滑走してしまうからである。>

 これは、いつも経験していることだ。

 <思考を読み解くためには、遅さというものが大切なのだ。テクストの背後と行の間を読み込み、その白紙の部分にみずからの思考を書き込みながら、長い時間を過ごす。著者との沈黙の対話のうちに過ごすこの時間は無駄ではない。それこそが豊穣な時間なのだ。>

 ここまで読んで、万歳をしたくなる。いつも、私はこのような新聞掲載の論文を読みながら、パソコンに手でキーボードを叩いて入力し、それへのコメントを短く書いているのだが、その行為をも意味ある行為だ、といってくれているような感じを受けるのだ。「読む」という作業は、今の忙しい時代、一人一人の心の中で、徐々に軽んじられてきているのではないか、と思うのだ。読んでも、たいしたことが出ていないな、とか、表題だけチェックして、自分の興味のある記事だけ熱心に読むが、それも、斜め読み。事実関係だけ知れば、あとは新聞を棄てる。そんな「読書」が今、一般的になってしまったのだ、と思う。しかし、思考の格闘をしなければ、本当の読書とはいえない、というのは正しいと思う。

 中山氏はこの「遅さ」を担保する方法として、テクストを朗読し、録音し、その自分の声の録音をじっと聞く。何度も聞くことによって、目と耳を通した他者の思考と対峙する、という。次第に自分の思考と絡み合ってくる。その生き物のような変化が微妙で深い、と書く。

 また、翻訳してみるのだ、という。これは誰にでもできることではないが、思わぬほど思考の道筋が見えてくるのだ、という。日本語のテクストだったら、覚束なくとも他の国の言葉に翻訳してみるのだ、という。

 <翻訳という営みでは、もとの言葉の網の目のうちに入りこみ、著者と同じようにその思考の鼓動を感じ取ろうとすることが、決定的に重要な意味を持つ。翻訳家というぼくの仕事では、どうしても肌の合わない文体の思想家のテクストを翻訳するときに苦しくなることがある。それは相手と思考を共有しにくいためなのだ。>

 なるほど、翻訳ねえ、できればいいのだけれども。

 <必要なのは、滑りすぎる目の速度から、どのようにして思考を「遅らせる」かということなのだ。>

 だから、すでに翻訳がある、例えばジョージ・オーウェルの「1984年」の原著をペンギンブックスで買って、自分だけで翻訳して読むのも価値があるのだ、という。それはそうだろう。

 <「遅く考える」時間をぼくにくれるのだ。>

 という方法を自分たちで見つけるしかないのだろう。ぼくは、このブログに、特に書評を書く時には、本の内容をなるべくエッセンスにして略述しているが、そういう略述する、という作業の中で著者と会話しているつもりだ。

 中山氏の深い思考と比べるのは牽強付会だろうが、各自自分の方法で「遅く考える」手段を見つけることが大切なのだろう。

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2009年2月19日 (木)

[ナショナリズムと中間団体]に関する中島岳志、中野剛志両氏の対談~毎日新聞2月19日夕刊から

 毎日新聞2月19日夕刊文化面の連載[中島岳志的アジア対談]は評論家の中野剛志氏との対談でタイトルは<金融危機、保守と国家>だったが、議論がそうは深まっていないように思う。経済政策が今後、社民勢力も保守勢力も似たようなものになるだろう、というような話とナショナリズムの話。

 このナショナリズムに絞って、中野氏の経済ナショナリズム論をもう少し多面的に話し合ったほうが深まったのではないか、と思った。

 中野剛志(なかの・たけし)氏は経済産業省産業構造課課長補佐。1971年生まれ。東大卒。旧通産省入省後、英エディンバラ大大学院に留学。同大学院博士号取得。経産省新エネルギー対策課課長補佐などを経て現職。雑誌『表現者』などで論考を発表。著書に『国力論』『経済はナショナリズムで動く』と人物紹介してあった。中島岳志氏同様、西部邁氏に影響を受け「経済ナショナリズム」論を展開している、という。どちらかと言えば右派の若手論客らしい。

 対談記事の見出しは<中野さん 不況に対し構造改革でミス/中島さん 左派も賛成し違い不鮮明に>、<中野さん 経済政策はナショナリズム/中島さん 国が乗っ取ると暴力が加速>だった。今、「かんぽの宿」問題をめぐって問い直されている郵政民営化をはじめとする小泉構造改革の是非なども、もう少し突っ込んでほしかった。

 発言の中で面白い部分を書きとめておく。

▽中野氏 日本はバブル崩壊後の不況で民営化、規制緩和、小さな政府など新自由主義的構造改革を行った。手本は80年代の米英。当時の両国はインフレに悩み、緊縮財政、規制緩和、競争促進でデフレを起こし、価格上昇を止めようとした。日本の平成不況はデフレが懸念されたのにインフレ対策をした。初歩的なミスを10年以上続けた。

 そういう見方があるのか。知らなかった。視点を変えればそういう事実が見えるのか、これは勉強になった。

▽中野氏 欧米は今、金融規制を強化しようとしている。日本は平成不況の原因を金融ではなく産業構造や社会システムとして、金融市場を規制緩和し、米国型金融システムを導入しようとした。日本の構造改革は今の欧米と全く逆のことをやった。

 金融ビッグバンを平成大不況が顕在化する前に橋本政権で決めてあり、そのスケジュールに則って進めていた。当時は金融、特に世界的な過剰流動性が大きな原因だ、とは分からなかった。

▽中島氏 日本は、保守も「左派」もそれを推し進めた。保守と新自由主義に共通するのは「左派」的な理性で良き社会を設計するという設計主義への批判だが、保守は人知を超えた常識や経験知を重視し、新自由主義は市場に依拠する。

▽中野氏 米英保守が80年代、新自由主義に転じた理由は、その通りかもしれないが、日本の構造改革論者で伝統や地域社会を重視した人はいなく、レベルの低い議論だった。気になるのは「左派」だ。福祉国家で弱者への配慮を言っていた人たちがなぜ小さな政府で痛みを伴う改革に賛成したのか。マスメディアは右も左も団結して賛成した。メディアは戦後ずっと「軍国主義を反省して全体主義反対」と言っていた。なのに、全体主義的に構造改革に賛成した。

 このメディア批判は重要だと思う。確かに小泉構造改革に正面切って反対した社説はなかった。その当時の社説に対する反省の弁も見ていない。日本の論説は言いっ放し、書きっ放しの傾向があるのだろう。別に年がら年中反省していなくてもいいが、今のような節目に昔を振り返ることくらい、やってもらいたいものだ。

▽中島氏 人間の努力、英知で平等社会を実現できるとするのが「左派」の最大公約数的定義で、手段は二つ。国家を通してか、市民社会を通じてか。社民主義、社会主義と自立した個人の連帯で平等社会を実現する市民主義的な立場で、極端なのがアナキズムだ。この両者が勘違いした。社民主義者は政治改革を主張する延長線上で足元が見えなくなった。市民社会派は小さな政府は小さな権力になると思ったのではないか。

▽中島氏 今後、保守と社民の違いが経済政策ではよく分からなくなるだろう。財政出動をすべきとの点で同じになる。両者の違いは「中間団体」への認識の違いではないか。中野氏はナショナリズムが単なるステイティズム(国家主義)にならないよう家族や職業団体など中間的なものが必要だ、と強調するが、この中間団体を保守は自生的、歴史的なものと見て、社民は、人工的に作れると考える。

 この中島氏が紹介した中野氏の中間団体論は佐藤優氏も近著の「テロリズムの罠」で書いていた。人民の国民意識の高まりは国民史の中で再生された「想像上の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)に至り、それが新しい集団的自己アイデンティティーの結晶化の核となる」ユルゲン・ハーバーマスの「他者の受容―多文化社会の政治理論に関する研究」からの引用で、(佐藤本右巻P100~)、佐藤氏は続けて雨宮処凛氏の思想に触れながら、国家に強制されない多層「社会」の必要性を強調し、ナショナリズムをファシズムや宗教原理主義と並べたf形で論じる、という離れ業を展開して、読者を惹き付けている。

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▽中島氏 保守とは自生的秩序をそのまま称揚するのではなく、何かを伝統として選び直す立場で、理想社会が実現不可能なら状況に応じた漸進的改革が必要と考える。

▽中野氏 左派にも過激な暴力革命論から漸進的な福祉国家論まである。保守も中間団体が壊れたら理性で計画的に作り直すが、その理性の根拠は良識や伝統、慣習に行き着くと保守は言う。左翼思想家にも似た議論をする人がいる。米国では共和主義が保守とされるが西欧の社民主義やマルクス主義論者には共和主義者が多い。結局、保守と「左派」を厳密に分類しても、あまり意味はないのかもしれない。

▽中野氏 国民国家が遂行する経済政策はすべてナショナリズムと無縁ではない。それ自体に善悪はないが、ナショナリズムは暴走の危険性もあり、それを防ぐには中間団体が大事だ。

▽中島氏 現実のナショナリズムの多くがステイティズムを含むから難しい。ナショナリズムはフランス革命のように主権を求める国民の要求として下から生じるが、内での同質化と外への排除が出る。それを国家が上から乗っ取り、権力的暴力が加速する。

▽中野氏 下からのフランス革命の結果はとても排他的だ。旧ユーゴスラビア、ルワンダなど下からの民主化で虐殺が起きた例は多い。むしろ上からできるのが、保守思想が好む国民国家のスタイルだ。王朝の下で暮らす人々が同じ国民となり、時間をかけて穏健に民主化する。たとえばイギリスだ。王朝がある限り暴力的な革命はない。国民が殺し合わないためには、王朝の権威をねつ造しても構わない。

▽中島氏 ナショナリズムは国民がそれをフィクションだと知りつつ引き受けて、初めて可能な概念だと思う。

▽中野氏 ナショナリズムがフィクションだと国民全体が知る必要はあるのか。知らないから排外的になるわけではない。ナショナリズムに限らず、仲間意識は排他性を伴うが、排他性にも限度がある。問題は排他と博愛ではなく極端か極端ではないかだ。「ナショナリズムは悪いことをしたから全否定」では「悪い大人がいるから大人は全員信用できない」という話。結局、物事の複雑さをとらえるためには、いろんな議論が必要だと思う。

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2009年2月14日 (土)

「歯切れを悪くする」市民の役目:曽野綾子氏の34年前の論~産経新聞[昭和正論座]から

 曽野綾子さんの昔の論文を読んで、今も昔も同じだと思った。

 産経新聞2月14日朝刊[昭和正論座]の<矛盾と混とんは社会の摂理>である。昭和50年(1975年)1月3日掲載だ。論文を読む前に、当時がどんな時代だったかを見ておこう。

 1972年7月7日に成立した田中角栄内閣は日本列島改造論をひっさげて過疎と過密の同時解消を狙う。9月29日には訪中した田中首相と大平正芳外相が日中共同声明を出し、外交関係を樹立した。その前の佐藤栄作政権時の1971年8月15日にニクソン米大統領が金とドルの交換を一時停止するなどのドル防衛策を発表し、国際通貨体制は揺らぎ始めていた。1973年10月6日には第4次中東戦争が勃発。アラブ産油国が石油価格を上げ、輸出を制限したため、日本では11月16日から主婦がトイレットペーパーに群がる「狂乱物価」騒ぎが起きた。

 始まっていたインフレは列島改造論で加速され、石油値上げで油を注がれた。過剰流動性は地価を押し上げた。1974年の参院選挙は田中首相がヘリコプターで全国を飛びまわり、企業が自民党を推す「企業ぐるみ選挙」となったが、自民tの右派改選議席70に届かない62しか取れず、敗北。保革接近参院が出現した。8月15日には朴正煕大統領夫人が在日韓国人に狙撃され死亡。1973年8月8日に起きた金大中拉致事件の処理をめぐっても日韓が対立した。

 8月4日にはニクソン米大統領がウオーターゲート事件を引責辞任。5日にフォード大統領が就任した。文藝春秋11月号の立花隆論文などの田中金権批判が外国プレスの報道で火がつけられ、日本の新聞も報道。11月18日に現職大統領の初来日という記念すべきフォード米大統領来日をこなした後、田中首相は辞任表明。

 12月1日の椎名裁定で三木武夫氏が12月9日に首相になった。12月27日に通常国会が召集され、院の構成を決めて自然休会。1月中旬から再開される、その直前の1975年1月3日に掲載された論文である。

 曽野さんはこの当時から根性が座っていた。書き出しがいい。

 <年の初めに当たり、何を望むかと言われると、私は、ますます深く迷いたい、と思っている。などというと体裁はいいが、実は、昔から、私は何事につけても、なかなか本質が見えてこないので、それがよく見えるようになるまで、かなり長い時間、待たねばならぬことを何とかして正当化しようとしているのかも知れない。>

 である。相当に謙虚だが、「本質が見える」人などほとんどいないのだ。だから、曽野さんは時間がかかるけれども「私は本質が見えるようになるまで見続ける」と言っているのだ。

 交通戦争でトラックの運転者が加害者という論理、ヘドロを出す製紙会社が加害者、と割り切れない現実をあげ、加害者と被害者が大抵の場合重なっているという事実、その矛盾がまさに人生そのものだ、と書くのである。

 チクロという薬の発がん物質と認定されたり、また使用可能となったり、という歴史に触れながら、炎上したタンカーを沈没させようとして自衛艦から魚雷を撃ったが、一発で沈まなかったことなどの「矛盾」をあげていく。

 そして、本ボシである。田中角栄首相退陣に触れる。

 <クリーンな政治家が、田中内閣後にひとしきり望まれるようになった。もちろん、政治家といえども、私生活はきれいな方がいいだろう。しかし、本当にひたすらふるまいのきれいな政治家がもしあるとすれば、その人は恐らく国際社会で日本の国益になるような交渉はできまい。人間が、個人としても集団としても、あることを決定するまでには、決して単純ではない、複雑な配慮が必要になって来るからである。>

 曽野綾子氏の人間観察は透徹している。悪い人、いい人と単純に区分けできないこの世の仕組みを述べて、

 <私たち大部分の平凡な市民にとって、大切なことは、せめて軽挙妄動、即断をせぬことではないか、という気がしてならない。あらゆるものは毒を含み、すべての美と善は、醜と悪のうらうちによって支えられる面が必ずあるからである。>

 <一人の首相が全くきれいだったり、一人の総理が悪いことしかしなかった、というのは、むしろ人間性の面から見て、不可能なことなのである。>

 <この矛盾の中にただよっていると、本当に歯切れは悪くなる。しあkし、私は歯切れ悪くしていることが、むしろ一人の市民のささやかな役目のように思うのである。>

 立派な言説だ。先ほど歴史を見たように、この時期は「田中ケシカラン、三木は素晴らしい」とテレビも新聞も一斉に報道していた時期である。これだけのことを言える曽野綾子氏は腹が据わっている。

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2009年2月13日 (金)

森達也氏のセキュリティ意識過剰論はおかしい!~毎日新聞2月13日夕刊[特集ワイド]から

 毎日新聞2月13日夕刊[特集ワイド~この国はどこへ行こうとしているのか]は作家の森達也さん(52)の<暴走防ぐ「違和感」>だった。森氏は1956年広島県生まれ、立教大卒業後、俳優などを経てテレビ番組製作会社に入り、数々のドキュメンタリーを手がける。自主制作した「A」(1998年)が話題となり、続編の「A2」(2001年)は山形国際ドキュメンタリー映画祭で審査員特別賞に。「放送禁止歌」「下山事件」「悪役レスラーは笑う」「死刑」など著書多数、と紹介してあった。

 <「最近、気づきませんか? 地下鉄の駅に張られた防犯カメラのステッカー、以前は『作動中』だったのが、いつの間にか『監視中』になっているんです。結構大きなことだと思うんですよ。『お前ら監視してるぞっ』と言っているわけですからね」>

 なるほど、気付かなかった。「監視中」かぁ。何か国家の暴力性を象徴するような言葉ですね。

 <「放送禁止歌」ではメディアの自主規制の問題からこの国の宿痾とでもいうべき差別問題に迫り、オウム真理教をテーマにしたドキュメンタリー映画「A」「A2」では異物を排除しないではいられない日本の社会を描いた。「死刑」問題もしかり……。誰もが見ているのに、気づかない、気づこうとしない禁忌領域に迫り、押しつけではなく自らが感じた「違和感」を提示して見せる。>

 というのは地の文で、隈本浩彦記者が書いている。禁忌など何か曰く言い難い言葉遣いをする記者だなぁ。

 <「よくコンビニとかにもぶら下がっていますけど、『特別警戒実施中』の看板。24時間、一年中なのに『特別』というのもおかしな話ですよね。セキュリティー意識が過剰なほど高まっている。その行き着く先は大きな悲劇のような感じがするんです」>

 「安全」「安心」と国家の問題を語るのか?

 <初の本格小説「東京スタンピード」を出版した。スタンピードとは群れが恐怖、興奮で一斉に暴走するさまを意味する。近未来の日本を舞台に、危機意識の高まりが虐殺事件を引き起こす群衆の「狂気」を描いた。執筆の動機は「福田村事件」だった。関東大震災の5日後の1923(大正12)年9月6日、千葉県東葛飾郡の利根川沿いの村で、香川県からやってきた行商人の一行9人が自警団に虐殺された事件だ。関東大震災では「朝鮮人が日本人を襲撃している」といううわさが流れ、朝鮮人、中国人それに社会主義者の6000人を超える人たちが自警団らによって惨殺されたことは比較的知られている。けれどもこの事件は日本人が日本人を襲っていた。四国の言葉が聞き慣れず、朝鮮人と思い込んだらしい。>

 と毎日新聞から出版された「東京スタンピード」の粗筋を書き、

 <「背景には過剰な危機管理意識があったと思います。当時、日本が朝鮮を植民地としたことで、多くの日本人は朝鮮人にいつ襲われるか分からないという恐怖感があった。そして震災。流言飛語のなかで自警団が結成され、自分たちから見て『異質』な人々を次々に襲い殺していった。重要なのは襲った側が『善』である点なんです。アウシュビッツにも行きましたが、当時のドイツ人すべてが邪悪だったわけではない。人はよこしまな欲望だけで大勢の人を殺すことはできません。セキュリティー意識、あるいは愛するものを守るという大義名分が高まったときに人は虐殺に走る。『悪』という存在に目を奪われがちですが怖いのは『善』だと思う。善の陶酔、善の暴走がスタンピードを起こす。関東大震災の自警団だって『善』と信じて虐殺に走ったんです」>

 なるほど、これが「森哲学」の一端ですか。悪は目に見えるし、制御できるが、善はみんなアプリオリに安心して従う。思考停止になる。そして、その結果、悪が行われる、ということだろう。

 <集団暴走を考えるきっかけはオウム真理教事件だった。>

 というのは記者のト書きである。

 <「オウムのドキュメンタリー作品(『A』『A2』)は、オウム施設の内側から日本社会がどう見えるのかということをテーマにすえました。警察の捜査、メディアの報道、市民の反応のどれをとっても『集団暴走』を感じた。オウムも同じですが、個としての考えは吹き飛んで周りに同調して一つの方向に突き進む。その怖さを知りました」>

 見ていないので何とも言えないが。

 <「A2」はオウム信者の退去を求める「善良」な市民をとらえているが、集団となって「異物」を排除しようとする姿は、関東大震災での自警団もかくやと思わせるほど日常から逸脱した雰囲気が漂う。そのオウム事件が起きた1995年を境に日本の社会は変調をきたしたと見る。>

 これも記者のト書き。「関東大震災の自警団もかくや」と書いているが、自分の家の隣にオウムのアジトがあったら、この記者はどうするのだろう。「オウムだっていい人がいるのだから。法律違反はしていないのだから」と日常生活を今まで通り続けることができるのだろうか? やはり、オウムは近くにいてほしくない集団ではないか。

 <「膨大な報道を通して更生できない邪悪な人間、組織が存在する、という刷り込みが徹底してなされたと思う。その結果、監視カメラなどの設置が進み、危機管理意識が高揚し、犯罪に対する厳罰感もどんどん進行している」>

 私もそんな「刷り込み」をされた一人に過ぎないのか?

 <死刑廃止論議はすっかりなりを潜め、それどころか死刑相当犯罪の時効廃止について論議されようとしている。>

 毎日新聞がキャンペーンしているのではないか。

 <もう一つ危惧するのは、同調圧力に弱く周りを気にしやすい国民性ゆえに、共同体への帰属意識が強い点だ。>

 それは昔の話だろう。今は異質な人間、「アトム化した個」がうじゃうじゃいるじゃないか。

 <「稲作、島国という条件が影響しているのでしょう。和を重んじる文化もある。今も同じです。仲間内で状況が読めないとKY(空気が読めない)と呼んで排除したりする。歴史問題で中国、韓国が反発するけど、集団化したときの日本人の怖さみたいなものを民族の記憶として継承しているのではないかと思う」>

 何か、このへんは薄べったい感じがするし、第一、牽強付会だ。

 <いま、この国を見渡せば、「100年に1度」の名のもとに派遣、正社員切りの動きが加速する。そう、あたかもスタンピードのように。>

 100年に一度の言葉と派遣切りとは直接関係ないだろう。100年に一度だから思い切り国費を使った経済対策をする。派遣切りはその前の小泉政権の申し子ではないか。混同している。

 <「断言」「反復」によって群衆は自覚的な個を喪失して扇動されると指摘したのは、フランスの社会心理学者のル・ボン(1841~1931年)。扇動者として想定したのは為政者で、ヒトラー、スターリンらの出現でその説は実証された。けれども今日、仕掛けるのは為政者ではなく無自覚なメディアではないか――。森さんはそう考える。>

 この辺のメディア批判は面白い。私もファシズムとメディアとの関係は研究したいテーマだ。

 <「メディアは過剰に危機をあおる傾向にあります。刺激的でないと視聴率はとれないし、読者も離れていく。だからますます扇情的にならざるを得ない。メディアが『断言』『反復』の危険な連鎖に陥っている。問題なのはメディアの無自覚性だと思うんです。『放送禁止歌』もそうだったんですが、だれも制限なんかしていないのにみんな勝手に放送してはダメだと思いこんでしまっている。思考が止まってしまっているんです。オーウェルの『1984年』(全体主義が支配する世界を描いた小説)で最高権力者として『ビッグブラザー』が設定されているが、最後まで姿を見せない。つまり実体がないものに、過剰な忖度で空白を埋め合わせているわけです」>

 そうかぁ、この人が「放送禁止歌」の研究をしていたんだっけ。「1984年」のビッグブラザーは今流行といっていい。

 次は記者のト書きだ。

 <果たして人ごとだろうか。おもしろい話を聞いた。モンゴルでは羊の群れに何頭かのヤギを放すという。群れへの依存度の高い羊は草を食べ尽くすとその場で立ちつくしてしまう。ヤギは違う。草がなくなれば別の場所に向かう。結果として羊も移動する。>

 これって有名な話なのかな? 前にも誰かに聞いたことがある。

 <「ヤギは群れようとしない。同調圧力に強い。摩擦を起こし足並みを乱すことで、破滅的な危機から群れを救っているわけです。私たちも同じですよ。個人が抱く『違和感』という『摩擦』が危機的な集団暴走を防ぐ」>

 牽強付会な比喩が始まる。 

 <東京メトロによると、防犯カメラのステッカーの表現が「作動中」から「監視中」に変わったのは北海道洞爺湖サミット前の昨年6月。けれども広報担当者は「聞かれるまで知らなかった」と話した。ふだん見ているのに、見えない、気づかない変化の積み重ねの先に控えているのは、どういう国のかたちなのだろうか。>

 と隈元浩彦記者は読者に問いかけて終わる。何かなぁ、テレビ朝日の夜のニュースショーの例の男性キャスターを思い出すので、こういうような問いかけは嫌いなんだけど。

 一読、違和感を覚えた。森氏の「人間主義」と日本人固有の「どうでもいい」感覚は合わないのではないか、と思うからだ。汎神論ではなく、一神教の考えだろう、森氏の言っていることは。人間中心主義、近代理性万能主義。それではうまくいかなかくなったから、日本の心を探そう、ということではないか。それとオウム真理教がどこで結びつくのか? 悪いものは悪いのではないか? ゴミ屋敷の主が森氏の隣に引っ越してきても文句一つ言わずにニコニコできるのか? という単純なことを問いたい。

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2009年2月12日 (木)

日本人の「初期設定」、国民合意がないのは昔からか?~内田樹氏の毎日新聞2月12日夕刊寄稿から

 毎日新聞2月12日夕刊文化面連載[水脈]に内田樹・神戸女学院大教授(フランス現代思想専攻)の<日本特殊論/他国と比較「だから、どうした」>が掲載されており、面白かったので書いておく。何が何だか分からないと思うので、第一段落を書き写しておこう。

 <「日本特殊論」という言説がある。任意の論件について「日本は他国とこう違う」ということおを列挙し、そこから「だからダメなんだ」と「だからよいのだ」と二種類のどちらかの言明を導くものである。私はそれ以外の第三の言明もあってよいのではないかと思う。「だから、どうした」である。>

 この文章を読めば、内田氏が他者に論争を挑もうとしているのが分かる。楽しい論争を、である。今、若者に抜群の人気の哲学者だという。論争相手には不足だろうが、一応、内田氏の論にコメントをつけながら読んでみる。

 まず内田氏はオバマ米大統領の就任演説について「アメリカ的なスピーチだと思った」として、

 <清教徒も、アフリカから連れてこられた奴隷たちも、西部開拓者も、アジアからの移民たちも、それぞれが流した汗や涙や血は、どれも今ここにいる「私たちのため」というものだったという国民の歴史の連続性が強調されていたからである。>

 <アメリカ人がアメリカ人であるのは、「かつてアメリカ人がそうであったようにふるまう」限りにおいてである。つまり、アメリカ人の国民性格はその建国のときに初期設定されている。だからもし、アメリカがうまくゆかないことがあったとしたら、それはその初期設定から「逸脱」したせいなのだ。彼らはそう考える。そういう場合には「初期設定に戻す」のである。(誤作動したコンピューターといっしょである。)>

 アメリカ人はリセットできる、という。ところが、日本人には立ち還るべき「初期設定」が一杯ありすぎて、どれが「初期設定」なのか、国民合意ができていない、というのだ。「敗戦」なのか「明治維新」なのか「天孫降臨」なのか、と。

 <だから、私たちは危機に際会したときに立ち還るべき原点を持たないのである。>

 という問題提起は重いと思う。

 <私たちがうるさく語り合うのは「アメリカではこうだが、日本ではこうだ」、「フィンランドではこうだが、日本ではこうだ」という類の他国との比較だけである。私たちには「時代を超えて継承されてきた国民性格」に基づいて、国民として果たすべきことを叙するという習慣がないのである。>

 これは、今の時代というか明治維新後を見ればその通りだと思う。特に戦後は「戦前、戦中はすべて悪だった」というGHQの史観を受け入れながら民主化が進んだこともあって、この考え方がほぼ日本を覆い尽くしている観がある。

 しかし、内田氏の次の言葉が挑戦的に聞こえるのだ。

 <私たちは「そういう国民」なのだ。私たちは「あるべき国民像」を、祖先たちの生き方を範とすることでなく、同時代の他国との比較でしか語れない国民なのである。それが「時代を超えて継承されてきた国民性格」であるなら、「それで何か問題でも?」と反問しつつ、その「同じ旅程」を私たちもたどる他ないだろう。>

 である。

 内田氏ほどの方だから、「反米」と「親米」、「鎖国」と「摂取」、「愛国」と「国際化」など対立する概念を一つの人格の中に持つ近代知識人の煩悶の歴史を知らないわけがないだろう。夏目漱石、和辻哲郎、柳田國男、小林秀雄、江藤淳各氏らの努力はまさにそこにあったわけだろう。

 だから、内田氏の言いたいことは軽佻浮薄で伝統の重みを全く理解できないマスメディアと文化人、学者や政治家への痛烈な批判なのだ、と理解している。

 内田氏は温故知新ができないことを「日本人の国民性格」というが、兼好法師や紫式部、親鸞や日蓮を見れば、あふれるほどの愛国心と伝統を大切に受け継ぎながら一部を壊し、新たに建てるという作業を繰り返してきたことが分かると思う。日本人の国民性を考えた時、決して、縦の思考(歴史的思考)ができずに平目のような横の思考(世界比較)だけで生きてきた民族とは思っていない。

 しかし、内田氏はそんなことは百も承知で言っているのだろう、と思う。内田氏が言うように他国比較を絶対である如く言う「文化人」「政治家」が多すぎるし、テレビメディアなどを通じて、相当の悪影響を日本国民に与えていると思う。「だから、どうした」の視点は非常に大切だ、と思う。

 特に外人による日本論、日本人論を有難がって拝聴し、神棚に祭り上げることだけはやめたほうがいい。最近の新聞でチャルマーズ・ジョンソンのインタビューが出ていた。例の日本異質論者だ。最近は日本の左翼と相性がいいようだが、そんな連中の片言隻句に一喜一憂することはやめよう。外人の話も日本人の話も同じ地平で見るようにすれば、違ったものが見えてくると思う。

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2009年2月11日 (水)

亀井勝一郎氏が選んだ「心に沁みる名言」から

 44年前に読んだ本を開いたら、所々に赤線が引いてあった。亀井勝一郎監修「日本名言集~青春を生きる知恵」(青春新書、青春出版社、昭和36年12月30日発行、定価220円)で、昭和40年10月28日と買った日付を書き込んであった。あの転向文学者の亀井氏である。高校生の頃だから、そんな監修者の来歴も知らず、心の襞など想像のしようもなく、ただあの「大和古寺風物誌」を書いた人が選んだ名言だ、ということで読んだのだと思う。残念なことに、今になると、なぜその部分に赤鉛筆で線を引いたのか、の理由も線を引いた事実も覚えていない。心に響かなかったのかもしれない。

 当時は、大学受験のために受験勉強の日々を送っていた。私が通っていた都立の高校は一風変わっていて、理科系志向の生徒が多く、文科系志望者が小さくなっていた雰囲気もあった。物理・化学が苦手だった私は最初から文科系志望だったが、どんな勉強をしていたのかも、あまりに昔なのではっきりは覚えていない。

 ただ、社会的なものごとに関心が全くなかったことだけは覚えている。小説を読みまくっていた。そんな中の息抜きのつもりの一冊だったのだろう。

 パラパラとめくって、赤線を引いてある言葉を読むと、いいことが書いてあるので、幾つかメモしておこうと思った。もはや青春は遠く去り、いまさら「青春を生きる知恵」でもないもんだ、とは思う。この本は、そういう若者向けの本だったから、「老い」とか「病気」に関する言葉は意識しては拾っていないが、「人生」とか「生と死」とかの項目の中で幾つかは拾っている。亀井氏が50代半ばで読み込んだ本の中から選んだだけあって、言葉には亀井氏の思いが込められているようでもある。

分別過ぐれば大事の合戦は成し難し

 黒田孝高(くろだ・よしたか)「名将言行録」

 ウィキペディアによると、黒田孝高とは黒田 如水、通称黒田官兵衛のことだ。キリシタン大名として。ドン・シメオンという洗礼名も持っていたから、四つの名前で生きていた人だ。天文15年11月29日(西暦では1546年12月22日となる)、黒田職隆の嫡男として姫路生まれ。永禄10年(1567年)頃に家督を継ぎ姫路城代。永禄12年(1569年)、赤松政秀が足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正と別所安治の支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるが、300の兵で奇襲攻撃を仕掛け撃退した青山・土器山の戦いですでに天才ぶりを発揮している。

 その後、長篠の戦いで武田勝頼を破った信長の配下に入り、天正4年(1576年)には毛利は小早川隆景の水軍の将、浦宗勝を5000の兵で攻め込ませるが、英賀に上陸したところを孝高は500の兵で攻撃し退けた。1年間の捕虜生活で左脚関節に障害が残り、歩行がやや不自由になる。本能寺の変で信長が死んだことを知った孝高は秀吉に毛利輝元と和睦し、光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させた。

 天正11年(1583年)の秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加。毛利との外交に手腕を発揮し国境線を確定し、実質的に秀吉配下に加えた。天正17年(1589年)、家督を長政に譲って隠居。文禄元年(1592年)から秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参加、文禄2年(1593年)に石田三成と確執を生じ、秀吉の怒りを買って出家、中津城に引退した。

 慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると如水は12月に上洛し、吉川広家に書状を書いた。

 <かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候>

 如水は遠からず天下の覇権をめぐって大乱が起きると予想していた。慶長5年(1600年)、徳川家康らが会津の上杉景勝討伐のため東へ向かうと、7月17日(8月25日)石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。嫡男・長政は家康の養女を正室として迎えていたことから秀吉の死去前後から家康に与し、豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み後藤基次ら黒田軍の主力を率いて家康に同行、関ヶ原本戦で武功を挙げた。

 九州にいた如水は領内の百姓中心に9000人ほどの速成軍を作り上げ、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突、勝利した。合戦の後、長政は家康から勲功第一として筑前国名島(福岡)で52万3000石を与えられた。如水も中津城から福岡城に移り、政治に関与することなく慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。

 「名将言行録」には徳川秀忠が孝高を評した

 <今世の張良なるべし。>

 という言葉も残されている。

 また、秀吉が孝高を恐れたことを示す言葉として、

 <秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ。>

 も名将言行録に残されている。ウィキペディアにはエピソードも豊富だ。

 秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねた。家臣たちは徳川家康や前田利家の名前を挙げたが秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前たちはやつの本当の力量をわかっていない。やつに100万石を与えたらとたんに天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は身の危険を感じて隠居を申し出たという。文禄4年(1594年)の伏見の大地震の際、倒壊した伏見城に駆けつけたが、秀吉は同じ蟄居中の加藤清正の場合には賞賛したのに対し、如水に対しては「俺が死ななくて残念であったであろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。

 晩年は家臣に対して冷たく振舞ったとされる。これは殉死者を出さないためとも、当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためとも言われている。村重謀反のとき、信長は翻意するよう説得に向かった孝高が帰ってこないのは村重に寝返ったからだと判断し、人質として預けられていた長政を殺害するように命じた(村重と一緒に主君の小寺政職も裏切った事がこの疑念を助長している)。しかし重治(半兵衛)は密かに長政を匿った。このため、重治への感謝の気持を忘れないために黒田家は家紋に竹中家の家紋を用いた(この家紋とは黒餅の事を指す。黒餅とは石高の加増を願う家紋である)。遺訓は「人に媚びず、富貴を望まず」だった、と書いてあった。

 以上の基礎知識を学んだ後に、亀井氏の選んだ「 分別過ぐれば大事の合戦は成し難し」を見ると、黒田如水の生き方の何を若者に伝えたいのか、はなはだ分からなくなる。人生訓だったら、遺訓の

 <人に媚びず、富貴を望まず

 ではないか。

 亀井氏が選んだ徳川家康の遺訓はあまりにも人口に膾炙されているきらいはあるが、じっくり噛み締める価値がある言葉だ。

 <人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なく心に望みおこらば困窮した時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基。怒は敵と思へ勝つ事ばかりを知って負くる事を知らざれば害その身に至る。おのれを責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるより優れり。

 山岡宗八の「徳川家康」を昔、読んだ。あれは山岡宗八の家康だった。つまり、山岡宗八という人間がその大きさの家康を描いた小説だった。戦後の日本の荒廃の中、日本人に気概を持て、と発破をかけた小説だった、と思う。いろいろな小説家、歴史家が家康を描いているが、こうした本人の言葉を読むことの大切さは若者に伝えたいものだ。

 いろいろな読み方ができると思うが、私は「失敗しても諦めるな」、「成功してもいい気になるな」、「心を強く持ち、澄み渡らせよ」と言っているように思えた。どう受け取るかはそれぞれの勝手だ。

 <一時に怯懦の心を発作して終身の恥辱を帯ぶる勿れ

 乃木希典「訓示」

 この文を打ち込んでいて驚いた。「きょうだ」と打っても、「怯懦」が出てこないし、「まれすけ」と打っても「希典」が出てこないのだ。私はIMFスタンダードの入力方式にしているのだが、外国の製品だからなのか? 最近よく使われる日本語には不自由しないのだが、昔、と言ってもせいぜい明治時代の文を打とうとすると、すべて手書きのIMFパッドのお世話になるのも何だか情けなくなってきた。

 この言葉は微妙だ。何も知らない若者ならば、言葉通りに受け取るかもしれないが、私たちはすでに二〇三高地での乃木の失敗をしっているだけに、この言葉を見ると、複雑な思いが湧いてくるのだ。

 乃木を認める人びとと、「能力がなかったので、必要のない戦死者の山を築いた」と批判する司馬遼太郎のような人が今でも両派に分かれて論争している状況で、いわく言いがたいが、きっと乃木さんは<終身の恥辱>と思い込んでいたのだろう、と想像する。犬死のように戦死した兵士も痛ましいが、この乃木さんの言葉も痛ましい。

 しかし、あの戦いはせざるを得なかった戦いだったし、日本は国運を賭けて戦い、ロシアを破ることができたから、独立国として生き残れたのだと思う。あの場面で戦わなかった朝鮮は戦後処理で日本の保護国となり、その5年後に国としての体裁を失った。

 戦うべきときは戦わねばならない。しかし、戦いは戦死者だけでなく、生き残った人々の心にも死ぬまで残る恥辱を植えつける。

 <心なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり

 吉田兼好「徒然草」

 「おっさん、よく見てるね」と言いたくなるこの言葉、思わず笑ってしまった。

 市場原理主義の経済学者として政府の提灯持ちのような審議会で活躍しながら、市場中心の主流経済学が批判されると、すべて打っちゃって、「私は改心しました」とまたノコノコ出てくる人(面白い本だったのでたしか書評を書いたと思ったが)、朝のテレビのコメンテーターとして軽い言葉を毎日切り売りしてる人々、そして、旧社会党系の「北朝鮮は素晴らしい国だ」と言っていた人たち、韓国に頻繁にでかけては「独島(普通、日本人は竹島と言います)は韓国のものだ」と言い歩いている和田とかいう東大の先生……、顔が思い浮かんでしまって笑いが止まらなかった。

 彼らはきっと、「一時に怯懦の心を発作して終身の恥辱を帯ぶる勿れ」と思って、勇気を出して生きているのだろう。

 ちょっと理屈っぽいが、次の言葉を亀井氏が選んだのも面白かった。

 <政党には、党勢拡張、政権獲得などいう一種の病気がつきまとう。そのために、あるいは種々の不正手段に出たり、あるいは敵に向って進む勇気を失ったりすることがある。これを監視し激励するのが言論に従事する人々の責任でなければならぬ。

 犬養毅

 これもウィキペディアのお世話になろう。

 犬養 毅(いぬかい・つよし)、通称は仙次郎。号は木堂。1855年6月4日(安政2年4月20日)― 1932年5月15日。第29代の首相で立憲政友会第6代総裁。備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山市川入)に大庄屋 犬飼源左衛門の次男として生まれ、後に犬養と改姓した。一時二松学舎にも通い、最終学歴は慶應義塾退学。郵便報知新聞(後の報知新聞)記者として西南戦争に従軍。東海経済新報記者をへて、1882年(明治16年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党、活躍する。

 1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を作る。1913年(大正2年)の第一次護憲運動の際は第3次桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は辛酸をなめながら小政党を率いる。

 第2次護憲運動の結果成立した第1次加藤高明内閣(護憲三派内閣)で逓信相。小政党に限界を感じ、革新倶楽部を立憲政友会に吸収させ政界引退するが、世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させ、衆議院選挙で当選させ続けた。政友会総裁の田中義一が没すると後継総裁をめぐって内紛が生じ、犬養は幹部に乞われて1929年(昭和4年)に第6代立憲政友会総裁に就任する。

 1930年(昭和6年)ロンドン海軍軍縮条約に統帥権干犯を絡めて、鳩山一郎とともに政府を攻撃した。これは軍部に統帥権を武器として使えることを教え、自らの死につながった。1931年(昭和6年)12月に立憲民政党(民政党)の若槻禮次郎内閣が崩壊したため、反対党の総裁である犬養に組閣の大命が降下、内閣総理大臣に就任する。世界恐慌、そして満州事変の最中という荒波の中の船出であった。大蔵大臣には高橋是清を任じ、組閣と同時に金輸出再禁止を行い積極財政をとるなど、不況対策に努めた。また、外務大臣には女婿の芳澤謙吉を任じることにより、軍部に左右されがちな外交政策をリードしようとした。犬養の就任後は桜田門事件、血盟団事件と不穏なテロ事件が相次ぎ、ファッショ排撃を訴えた犬養自身も5.15事件で、海軍将校の凶弾に倒れた。享年77歳。

 犬養には常に毀誉褒貶が付きまとった。第1次護憲運動では尾崎行雄とともに「憲政の神様」と崇められ、東京朝日新聞の記者だった中野正剛は

 <「咢堂が雄弁は珠玉を盤上に転じ、木堂が演説は霜夜に松籟を聞く」

 と評した。

 犬養の演説は理路整然としていて無駄がなく、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があったという。

 その犬養が一旦藩閥政権である寺内内閣への内閣不信任案の共同提出を憲政会(桂に引き抜かれた元国民党議員が所属)に対して呼びかけながら、不信任案反対派の政友会と憲政会の足の引っ張り合いを皮肉って、政権を巡って右往左往する憲政会の態度を切って捨てて、そのまま衆議院解散に持ち込み、総選挙では孤立した憲政会に大打撃を与えた上で寺内正毅の要請を受けて寺内内閣の臨時外交調査会に入ったため、たちまち「変節漢」の悪罵を浴びた。その落差は大きい。

 その後も、山本権兵衛内閣や護憲三派による加藤高明内閣にも閣内協力をした。ただ、これだけで犬養を「変節漢」と呼ぶのはいささか酷かもしれない。犬養は普通選挙の実現をはじめ、経済的軍備論、南方進出論、産業立国論など独自の政策を温めていた。その実現のために、よりましと思われる政権に加わったとも解釈できる。

 明治の政界で隠然たる影響力を誇っていた山縣有朋が

 <「朝野の政治家の中で、自分の許を訪れないのは頭山満と犬養毅だけ」

 と語ったという話もある。同じように藩閥支配に敵意を抱きながら、原敬は山県に接近し、その力を利用して自らの勢力拡大を図った。一方で犬養はその道をたどらず、ほとんど少数政党に身を置いて苦労を重ねた。

 犬養は毒舌でも有名だった。親友の古島一雄は、犬養の毒舌がやたらに政敵を増やすのを見て「ご主人の出掛けに口を慎めと必ず言ってくれ」と夫人に頼んだほどである。これは、意志が強固で悪や卑劣を憎む犬養の性格からくるものからでもあったと思われる。

 私生活では全く無欲の人で、細かいことには無頓着だった。嫌いな食べ物が出ても文句を言わず、着せられる着物を黙って着ていた。議会事務局で働く少年が病気になると、自宅に引き取って学校に通わせるなど、困った人を見ると援助の手を差し伸べずにはいられないところもあった。

 宮崎滔天ら革命派の大陸浪人を援助し、宮崎に頼まれて中国から亡命してきた孫文や蒋介石、インドから亡命してきたラス・ビハリ・ボースらをかくまったこともあった。宮崎は当初、犬養が大隈重信寄りだったため警戒していたが、自宅で会ってみると、煙草盆片手にヒョロヒョロと出てきて、あぐらをかいて煙草を吸い全く気取らない。宮崎は直感的に「好きな人」と判断したという。ちなみに孫でエッセイストの安藤和津によると、ひどく女好きであったという。

 犬養が首相に就任したのは「憲政の常道」のルールが確立されていた上に、元老・西園寺公望は犬養が満州事変を中華民国との話し合いで解決したいとの意欲を持つことを評価して、昭和天皇に推薦したため。この時、犬養は数え年で77歳。新聞は「昭和の実盛」と書いた。白髪を黒く染めて戦った源平期の老武将斎藤実盛になぞらえたのだ。

 <情けは人のためならず>、 <禍福は糾へる縄の如し

 太平記

 この言葉は西欧の諺か何かの翻訳だ、と勘違いしていた。太平記だったとは……。

 <学者になる学問は容易なるも無学になる学問は困難なり

 勝海舟「海舟全集」

 勝はここで何を言わんとしているのか? ぼにゃり想像はできるが、本当にそうなのかどうか。「無学になる学問」の意味が分からないと、この言葉の深さは感じられない。

 <改めて益なきことは、改めぬをよしとするなり

 吉田兼好「徒然草」

 このへんになると、政治を思い出す。制度改革をやる時、民主主義国家では、このような言葉で野党が攻めてくるケースは多い。「益なし」なのか「益あり」なのかの論争になるのだが、未来の話をしているので、結局分からず、声の大きい人が言い勝ってしまう、というパターンだ。しかし、そうした政治的な使われ方をされる、という点を除いてこの言葉を虚心に読んだ時、「そうだなぁ」と頷くことが多いだろう。保守の保守たる所以を垣間見せる言葉なのかもしれない。

 <兵の勝敗は人にありて器(き)にあらず

 頼三陽「日本外史」

 これって、その通りなんだけど、先の戦争を少しでも知っている世代から見ると、誤読される危険性に目が行くのではないか。戦争に勝つか負けるか、は兵器のよさではなくどれだけ人的資源を有するかにかかっている、優秀な司令官、参謀をtkすあん擁していれば、少しぐらい軍備が劣っていても負けるものではない、という意味だろうと思う。

 先ほどの黒田如水ではないが、5000人の軍隊を500人でやっつけた歴史もある。ただ、逆に徹底的に軍備が劣っていて、後は人間魚雷と竹やりしかない、という時には、この言葉はあてはまらないのだ、ということを後世の日本人にしっかり伝えていくのが、先の世代の義務なのではないか、と思う。

 日本人って普段はそうでないのに、そういう時だけ、付け焼刃の精神論をぶって、竹やり精神を説くようだから。

 <古人の跡をもとめず古人のもとめたる所をもとめよ

 松尾芭蕉「風俗文選」

 そういうことだと思う。ケインズの講義録や著作の重箱の隅をつついて、合っている間違えている、などと論争し、現実を見ようとしなかったケインズ学派なるものもあったし、マルクスの心を無視して、「資本論」読みに没頭した学者は掃いて捨てるほどいた。しかし、彼等のやっていたことは違うんだよ、と丁寧に芭蕉が教えてくれている。

 <口に才ある者は多く事に拙なり

 伊藤東涯「間居筆録」

 これも、見た瞬間、笑ってしまった。昔、「君は新聞記者より、新聞話者が向いているね」という流行語がマスメディア関係者の中で流行したことがあった。今のように新聞記者が誰かれなくテレビのニュースショーにコメンテーターとして出演し、自分の得意分野でもないのに、知ったかぶりの知識をひけらかす、などということは、まだなかった時代のことである。新聞社では朝刊の出稿予定を編集局の会議で各部が報告しあう。それを当日の編集責任者がまとめる形で1面トップ記事や社会面トップ記事が決まるのが普通のスタイルだった。そして、この会議に出す出稿予定メニューを作るため、各部のデスクは記者がいる記者クラブに電話をしたり、政治部などの場合には国会記者会館に出向いて、各記者クラブのキャップから出稿予定を聞き取っていた。まだ、ネットなどない時代のことだから、パソコンを使った意思疎通ができず、アナログで動いていた。

 その聞き取りに答えるために、複数の記者がいる大クラブのキャップやサブキャップは若い記者たちから何を書くのか、聞いておく。発表モノだけでなく、調べて書く独自記事があれば、内容にまで突っ込んで話し合い、1面に出せるのか、中面でもトップにできるのか、付加価値を付けられるのか、応援の取材が必要かどうか、などを討議する。

 その時、本当に面白い話をする記者がいる。話をテープレコーダーに入れて、そのまま記事にしたら、読者が喜んで、洛陽の紙価もさぞかし上がるだろう、というドキドキワクワクの話も多い。「じゃあ書いてね、頼むね」と言い残して本社に帰り、期待して原稿を待つと、出てきた記事はありふれたただの原稿。話にあった面白いところが書いてない。「なぜ書かないのか」と電話で聞くと「まだ、そこのところは裏がとれていない」とか「ストレートに書くと○○政治家に迷惑がかかるので」などの言い訳が次から次に出てくる。

 そのことを思い出してしまったのだ。

 伊藤氏はまた違ったシチュエーションを考えて言ったのだろうが。

 <撃つべきの機は、その間に髪を容れず

 頼三陽「日本政記」

 これも頼三陽である。しかし、これも閑話休題だが、この頼三陽も変換できないのだ、このパソコンは。「らいさんよう」と打ち込むと「礼讃洋」と出てくる。仕方なしに「頼む」と打って「む」を消し、「三つ」と打って「つ」を消し、「太陽」と打って「太」を消している。だから、同じ文章に何度も出てくるとイライラする。コピペするのだが、めんどうで……。

 この言葉は大岡昇平の「俘虜記」を思い出させた。「撃つ」の意味は実は、頼と大岡とでは違っているのだが、若くて新米だと思われた米兵を撃てるのに撃たなかった大岡の迷いは頼が言っている「撃つべき機は、その間に髪を容れず」を実行できなかった近代人の迷いだった、とまあ、ありきたりなことを思ったのだ。間髪容れずにやらないといけない、という頼の「撃つ」は戦国大名が下克上を知ったときに、平定するとか、そういう意味だろうと思うのだが。

 <真(まこと)の善悪(よしあし)を云はば、鉄(くろがね)最も善(よろ)しく、銅(あかがね)これにつぎ、金(こがね)銀(しろがね)これにつぐべし

 権田直助「心の柱」

 鉄が一番だ。何にでも使える。銅は使い道は限られているが、銅だけにしかない使途もあり有用だ。それに比べて金銀は何に使うのか?

 貨幣、通貨という交換価値をこっちに置いておいて、使用価値だけで見れば、という話だろう。現実の世界ではそうはいかないから、非現実的でそれこそ「何の役にも立たない論」と言われてしまうかもしれないが、この発想は面白い。

 無人島に漂流した100人の男女が鉄と銅と金銀と何がほしいのか、聞かれてどう答えるだろうか? もしも、前の社会に戻るということを前提にすれば金銀だろう。たっぷり持って帰れば大金持ち。何でもできるから。しかし、その「何でもできる」というのは交換価値だ。無人島で畑を耕したり、家を建てる際には金銀よりは鉄が役立つ。使用価値がある。100年後、200年後、錬金術が成功して、誰でもどこででも金を作れるようになったら、金は一番先に人気をなくすのではないか。今は希少価値だから人気があるだけなのだから。

 人工ダイヤモンドがもう少し精密になって、天然と識別できなくなったら、天然ダイヤモンドの価格は暴落するだろう。ダイヤモンドも金も単に希少価値だから、価値がある。でも、鉄は違う。

 この論理って、ポスト資本主義を考える時、ブレイクスルーをもたらす一つのキーワードにならないかな?

 <生死は車の輪の如くにて、始りては終り、畢(おわ)りては始り、いつを始め、いつを畢(おわ)りともいふ事あるべからず

 水鏡

 この輪廻思想が日本独特の思想なのか、南方始原なのか知らないが、少なくとも一神教の西欧にはない思想だ。死を身近に感じ、恐れず、生と死との連続性を信じ……、といいことだらけのようだが、この死生観」が行き過ぎると「己を喪へる生は死よりも意義なし、己を喪はざる死は生よりも意義あり」(長谷川如是閑「如是閑語」)となってしまう。この考えだって本当は尊重されてしかるべきなのだが、これを東条英機のような輩が「戦陣訓」などに書き込んで、国民に押し付けると、「人命尊重をないがしろにした」などと批判されるようになってしまう。この西欧的な「人間主義」の限界が今回の世界同時不況や核支配の世界を生んだのだ、と思うのだが、人道主義の旗を高く掲げている方々にはこの理屈は通じないから、あまり言わない。

 <春くれて、後夏になり、夏はてて秋のくるにはあらず、春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気。草も青くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちてめぐむにはあらず、下りよきざしつはるに堪へずして落つるなり、迎ふる気下にまうけたる故に、待ちとるついで甚だはやし。生老病死のうつり来る事、また是に過ぎたり。四季は猶定まれるついであり、死期はついでを待たず

 吉田兼好「徒然草」

 兼好法師らしい文章だが、デジタル的に、「はい、春は終わり、次は夏さ~ん」という具合に四季が移り変わるのではなく、春の中にも夏を含んでいる、という、当たり前のことを当たり前に書いていて、それが連綿と800年も読まれているというのは、書物、文字文明というものの危うさを吉田兼好がいみじくも言い当てている、その教訓を易しい言葉で警告しているからではないか。「春」t言えば、春を思う。その中に少しは夏を含むと知ってはいるものの、「春」と言われた瞬間、含まれている夏の要素がどこかに飛んでいってしまう。ただ単純な「春」だけになってしまい、平板なものとなる。でも、「春」には「冬」の名残もあるし、「夏」の先行指標も入っているんだよ、と常に思うべし、と。そういう理解をしないと、計量経済学が大失敗したように、言葉の魔法にかかって、人類は大失敗するよ、と兼好法師が教えてくれているのかもしれない。

 <神道に書籍なし。天地を以って書籍となし、日月を以って証明となす

 吉田兼好「神代上下鈔」

 これも兼好法師。ずっと後の時代、本居宣長は「吉凶(よしあし)き万(よろ)づの事を、あだし国にて、仏の道には因果とし、漢の道々には天命といひて、天のなすわざと思へり。これはみなひがごとなり」(『直毘霊』 )と、仏教、儒教なにするものぞ、神道だけが正しい、と言っているのだが、その神道が理論体系ではなく、日本列島の自然と人間の同一化の中にあることを示した輝く言葉だ。

 <口は禍の門なり、舌は禍の根なり

 十訓抄

 何か、そういうことだよなぁって納得する。最初のほうはよく知っていたが、後ろがあったんだ。

 <商人は死ぬまで金銀を神仏と尊ぶ。これが町人の真の道

 近松門左衛門

 なるほど。作品名は書いてないが、何かの人形浄瑠璃の中で登場人物に言わせているのだろう。本当に日本のシェイクスピアだ。この江戸爛熟期の文化人が見た商売道、アメリカのリーマンだ、ゴールドマン・サックスだ、という人たちと似てないか。あまりアメリカが特殊だとか、日本は違う、とか言わないほうがいいだろう。ギラギラした時代だってあったんだから。日本にも。ただ、江戸幕府という政治は腐敗していたかもしれないが、この商人資本主義が暴走するのを適度に押さえ込んでいた。今流に言えば、政治が機能していた。

 <思ふべし、人の身に止むを得ずしていとなむ所、第一に食物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三に過ぎず。飢えず、寒からず、風雨にをかされずして、閑(しずか)に過すを楽とす。ただし人皆病あり、病にをかされぬれば、其の愁忍びがたし。医療をわするべからず薬を加へて四の事、求め得ざるを貧しとす。此の四の外をもとめいとんむを驕(おごり)とす。四の事倹約ならば、誰の人か足らずとせむ

 吉田兼好「徒然草」

 またまた徒然草だが、内容がいいから、何度でも出てくる。衣食住に医療を加えて、貧困のメルクマールにしている。吉田兼好という人、本当にすごい人だなぁ、と思う。今、米国でも全員福祉はできていない。日本は医療保険制度で貧乏人でも薬をもらえるようになっているはずだ。実態はなかなか違うかもしれないのだが。しかし、兼好法師の言うとおりだろう。雨露を凌げる家があり、一日三食のご飯が食べられ、寒いときには厚着ができて、風邪を引いたり、お腹が痛かったら医者で薬をもらって直せる。ここまで過ごしやすい国に住んでいて何の文句があるんだい? と麻生首相に聞かれたら、何と答えよう。

 <災難にあふ時節には災難にあふがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候

 良寛

 何か鯰を素手で掴もうとしたら逃げられ、また掴もうとして……といった感じの禅問答の一部なのだろう。災難にあってわけが分からなくならずに、「これは災難だが、どんな災難なんだ」と冷静になっていろ、という教えなのか? 理解できないが、面白い言葉だ。

 <人生五十功なきを愧ず

 細川頼之

 何もいえねぇ、か。私はアラウンド還暦なのに、功なきもいいところですから。

 <年五十になるまで上手にいたらざらん芸をば捨つべきなり。励み習ふべき行末もなし

 吉田兼好「徒然草」

 何もそこまであけすけに言わなくとも。まだまだコツコツやろうと思っているのに、ダブルパンチを食らわされてしまった。

 <学をなすに三要あり、志なり、勤なり、好なり。

 伊藤東涯

 ここまできて、少しホッとする。

 <志を立つることは大にして高くすべし。小にしてひくければ、小成に安んじて成就しがたし。天下第一等の人とならんと平生志すべし。

 貝原益軒「大和俗調」

 私はもう手遅れだが、若い人にはいいアドバイスだと思う。

 このほか、吉田兼好の言葉で気に入ったのが幾つかあったが、書き写すのに疲れたので、この辺にしておく。面白かったのは、小林秀雄が「作品は自然の模倣を出られない」(「文学と自分」)と書き、松尾芭蕉が「心花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし、鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひて造化に帰れとなり」(「笈の小文」)と、いずれも人間と自然との融合に大きな価値を見出していることだ。やっぱり日本人だ、と思う。

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2009年2月 9日 (月)

吉本隆明氏の内村剛介氏への追悼文、勉強になった~東京新聞2月9日夕刊から

 東京新聞2月9日夕刊文化面に[追悼・内村剛介さん]として吉本隆明氏が語った話を大日方公男記者がまとめた文章が掲載されていた。タイトルは<国家や主義に同化せず>。いい文章だった。内村氏はずっと以前、たしか「収容所」ものを1冊読んだだけで、ロシア学者だ、ということは知っていたものの、ご本人がどのような方か、は全く知らなかったが、吉本氏の文章を読み、その名前さながらの剛直さ、芯が通っている生き方に感動した。最近「内村剛介著作集」(恵雅堂出版)が出始めた、と書いてあり、読んでみたくなった。

  最初に内村氏の訃報を見てみよう。朝日新聞の記事がネットにあったので、コピペする。<評論家・元上智大教授の内村剛介さん死去>1月30日午後1時過ぎに配信された記事だ。

 <内村 剛介さん(うちむら・ごうすけ=評論家、ロシア文学者、元上智大教授、本名内藤操〈ないとう・みさお〉)が30日、心不全で死去、88歳。通夜は2月5日午後6時、葬儀は6日午前10時から東京都品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場で。喪主は長女冨永まなみさん。栃木県出身。ロシア文学研究とともに、シベリア抑留体験に基づく評論活動を展開した。著書に「生き急ぐ」「呪縛の構造」ほか。>

 随分と簡単な訃報だった。各社、訃報本記はこの程度の扱いだったのだろうか? と思って、ためしに毎日新聞のネットを見たら、詳しい訃報が出ていた。<内村剛介さん 88歳 死去=シベリア抑留…独自の思索ロシア文学者>とあって、

 <シベリア抑留体験を背景に社会や文学に対して独自の思索を進めた評論家でロシア文学者の内村剛介さんが30日、死去した。88歳。栃木県生まれ。元上智大教授。>

 までは同じ。その後に、

 <14歳で中国東北部に渡り、ハルビン学院などで学んだ。関東軍に徴用されたが、敗戦時にソ連軍に捕らえられ、以後1956年の帰国まで、約11年間にわたって、監獄や強制収容所で過ごした。帰国後は商社勤務の傍ら文筆活動を続ける。収容所で身につけたロシア語を基に、ロシア人の思考方法を深く洞察。ソ連国家を厳しく告発しスターリン批判を行った。同時に現代日本の思想の軽薄さについても警鐘を鳴らした。主な著書に「生き急ぐ」「呪縛の構造」「ドストエフスキー」「ソルジェニツィン・ノート」、訳書に「エセーニン詩集」など。>

 <抑留体験が原点>の小見出しがあって、

 <沼野充義・東京大教授(ロシア・東欧文学)の話 ロシア文学者の系譜で、批評家として自立した独特な人でした。原点にあったのはシベリアでの抑留体験。ソ連という巨大な怪獣のはらわたの中に入って地獄巡りをし、一対一で立ち向かった。反権威の人で若手には優しく目をかけてくださった。>

 と、識者の談話を入れていた。この扱いが正当だろう。それに比べると、朝日新聞は何か、不当に内村氏の業績を貶めている感じを受ける。

 毎日新聞記事で大体の輪郭を得た後、東京新聞夕刊に戻って、吉本氏の話を読んでみよう。

 <内村さんは日本の高等小学校を出てすぐ満州に渡り、後藤新平がつくった満州国立大学ハルピン学院でロシア語やロシア文学を学んで、優秀でしたから関東軍に軍属として徴用された。そして二葉亭四迷以来の、ロシア(ソ連)の文化を探求し、社会政治事情を調査する<ロシア学>を身につけた。

 満州育ちなのだ。

 <満州は多くの民族や移民がおり、ソ連と中国と日本の力が拮抗する面倒な場所でした。敗戦間際にソ連軍が侵攻し、内村さんも抑留され、シベリアの強制収容所を転々とした。関東軍の軍属でロシア語も堪能ですから、ソ連軍から見ると内村さんは最も目をつけるべき人間で、収容所よりも監獄生活が長かった。>

 そういう生活だった。

 <ロシア文学者の江川卓さんのような戦後に進歩派と呼ばれた知識人も抑留されており、多くはソ連と折り合いをつけて帰国しましたが、内村さんはソ連の共産主義体制に頑強に同化しなかった一人で、それが11年間という長い拘束につながったと思います。昨年出た陶山幾朗さんの「内村剛介ロングインタビュー」(恵雅堂出版)は、そういう生涯を完璧に近く丹念になぞっています。>

Book
内村剛介ロングインタビュー
販売元 恵雅堂出版
定価(税込) ¥ 2,940

 <かくのごとく僕は内村さんを、国家や主義に頑強に同化しない二葉亭につながる<ロシア学>の最後の学徒だととらえていました。彼らはロシアの風土や宗教や文芸、西洋的ロシアと東洋的ロシアの違いなどを探求し、それを日本に紹介した。それはレーニンの革命理論の中心をなす西洋的ロシアの教養や認識では包摂できないロシア像だったと思います。彼らに比べれば、戦後の日本共産党の同伴知識人のロシア認識も問題にならないと感じていました。>

 このへんから深い話になっていく。こういうインタビューものが楽しいのは、ロシアを論じる時に、こういうことを知っていて論じるのか、それとも、今の新聞や雑誌の表面的知識の継ぎはぎで論じるか、同じように見えても違う、と思うからだ。吉本氏の内村氏評価は確かに深い。

 <スターリニズムの毒が凝縮された強制収容所という場所で痛めつけられ、ようやく帰国してから、内村さんはわが身を絞るかのような発言を始めました。抑留中に日本の左翼のことも勉強したようで、帰国後に用心深く左翼知識人を歴訪した。「ソ連が死ぬか、俺が死ぬか」という思いで帰国した人の目に、僕らのような日本の発言者の姿は、お寒く写ったようでした。>

 内村氏はソ連との戦いに勝ったわけだ。

 <安保までは進歩的だった江藤淳が「小林秀雄」を書いて転身したような「一身にして二世を生きる」経験は認めなかったし、僕が埴谷雄高や花田清輝と付き合うのも内心は快く思わなかったようです。>

 江藤淳が進歩派だった、とは迂闊にも知らなかった。60年安保で相当数の文化人が転向したのか。埴谷、花田を認めない、というのは今の時代から見れば「了見が狭い」と言われるだろうが、内村氏にはそういう言い方は適切ではないだろう。

 <内村さんと初めて会ったのは1960年ごろ。僕が出していた「試行」に連載してもらい、ロシアについて僕は生き生きと教えられました。トルストイやドストエフスキーの小説の描写や会話はなぜごてごてと長いのかと聞くと、ロシア人は理屈が大好きで屁理屈でも徹底すれば納得してしまう、だから長弁舌になる、と解説してくれたのは内村さんが初めてでした。戦後すぐのドイツ政府はあれだけ敵対していたソ連に交渉して捕虜の返還を求めて了承された、と陶山さんのインタビューで言っています。ソ連が科学技術や文化をドイツに依拠していたからでしょうが、堂々とした理屈が正当であるなら彼らは無視しない。

 ここは非常に重要な部分だ。

 <僕はロシア人もアメリカ人も毅然とした態度と理屈で訴えていけば通ると思います。日本人もそうすれば占領も捕虜の問題も早く解決されたでしょうし、最近で言えばイラク派兵や三浦和義の裁判や疑惑の死の問題も、もっと正面から合理で臨むべきだと思います。戦後何十年もたっていますし、遠慮する必要はないですね。>

 日本人から「毅然さ」が失われてしまったことを嘆いているのだろう。内村氏の思想を借りて、吉本氏が自分の主張を展開している、と見たほうがいい。

 そうなのだ、と私も思う。

 すべて、堂々と正面から向かい合う、という態度が必要なのだ。すぐに「近隣条項」などと気を遣ったふりをするその偽善が国民も国際社会も嫌気がさしてきているのだ、と思う。幕末のちょんまげを結った訪米使節団は好奇心の強い米国民からバカにされず、歓迎を受け、幕末明治の日本人は来日した欧米人から、その礼儀作法などが絶賛された。

 <内村さんは自分一個で旧ソ連邦全体に向き合い、その姿勢は世界を見る時にはどれほど重要なことかを単身で示しました。

 以上である。心にしみる言葉が並んでいた。なぜ、日本人がこうなってしまったのか? 安倍元首相的な戦後否定しか解決策はないのか? 大平正芳が今生きていたら、どのような形で「古き良き日本の心」を取り戻そうとするのだろうか?

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2009年2月 7日 (土)

清張生誕百年=朝日新聞2月7日夕刊<清張なら「いま」どう描く>と毎日新聞朝刊の昨年10月からの長期連載の中の「点と線」

 松本清張生誕100年で新聞紙上にも清張に関する記事がよく掲載されるようになった。

◆朝日新聞2月7日文化娯楽面<清張なら「いま」どう描く>

 最近では毎日新聞朝刊文化面で昨年10月から連載している[清張とその時代 生誕百年]が面白いので、記事を切り抜いているが、今日2月7日の朝日新聞夕刊文化・娯楽面の<清張なら「いま」どう描く/バブル後に届く先見性と時代的限界/リアルな社会派始祖の視座>も難しい言葉を使っていて読みづらいが、内容は面白かった。

 結局、松本清張の時代、つまり戦前を引き摺り、戦争の生々しさが記憶に鮮明で、戦後のGHQの無理無体が許される時代には、犯罪が「貧しさ」から抜け出す、という動機で起こることが多かった、ということと、今ではそういう貧しさ、貧乏やそういう家に生まれたことへの卑下はほぼ消えたけれども、<人間が社会に承認されず、犯罪によって「成り上がる」ことすら不可能な社会>だ、というのだ。鳥居達也記者の解釈だ。秋葉原の無差別殺傷事件「アキバ事件」などを経た現代犯罪学的な見方なのだろうか。

 この記事に出てくる大澤真幸・京都大学教授(社会学)が「現実の向こう」などで清張論を展開していることは初めて知ったが、その大澤氏が、「砂の器」の「和賀」や「けものみち」の成沢民子、「黒革の手帖」の原口元子ら一見勝ち組的な生き方について「だが、その繁栄は、先の戦争(死者のまなざし)を棚上げして、米国流民主主義と経済市場主義に滑り込んだという思想的ごまかしを土台としていた」と言った、というのだが、文脈の中で、この言葉が浮いてしまっている。

 <清張は、和賀を大衆から遊離した前衛音楽家と設定することで、虚妄性を強調した。和賀を通じて、戦後日本社会の繁栄のもろさと危うさを暴いて見せたのだ。大澤教授は、そこに清張の先見性を見る。と、同時に「時代的制約」もあると話す。>

 大澤氏の言葉である。

 <「『砂の器』では多くの人が和賀を勝ち組とみなしていたが、80年代後半以降は、社会的成功やそれに基づく幸福がどこか底の浅いものであることをみんな知ってしまった。例えばホリエモンや小室哲哉の成功はどこかむなしい、というふうに。金融バブルがはじけた『ポスト虚構の時代』の今は、清張が鋭い洞察力を持って暴いた社会の虚妄性・欺瞞性は、犯罪を犯てでも隠すべきものどころか、自明の前提となった」>

 前半は分かるのだが、最後の部分で、なぜ隠したり、自明だったりするのか、がどうも分からない。何か論理の飛躍があるのではないか?

 鳥居記者は続けて、

 <加えて、「100年に一度の不況」下での格差の拡大。著書「新しい階級社会 新しい階級闘争」で橋本健二・武蔵大教授(理論社会学)は書く。「階級構造の底辺には『階級以下』の存在、つまり『アンダークラス』」が大規模に形成されていると。それは、ホームレスの支援活動を行っている湯浅誠氏が著書「反貧困」で、社会から排除された人間が「自分自身からの排除」に行き着いて暴発する可能性に言及した認識と重なる。>

 として、アキバが出てくるのだ。どうも理解できない。

 何か、清張を出汁に使って、現在の状況を大澤氏と湯浅氏に語らせただけのような気もするのだが、言おうとしていることは「清張の時代よりも良くなった、といわれるけど、そうじゃないんだ」ということだったのか? 何しろ考えさせる記事だった。

 そして、毎日新聞の連載だ。

◆毎日新聞の清張生誕百年連載=初回3回の「点と線」だけ取り上げる

 タイトル通り、2009年が松本清張の生誕100年にあたることから、今の時代から見直してみよう、という趣旨のようで、「点と線」、「小説 帝銀事件」、「「ゼロの焦点」などと続いている。「点と線」は上中下、2008年10月6日、13日、20日付の3回で、筆者は鈴木英生記者だ。

 上は<『点と線』/あさかぜ/感傷が見つけた「東京駅の4分間」>だった。

 <1957年の1月14日午後6時前後、東京駅15番線ホームに姿を見せた一組の男女。2人は6日後、福岡県の香椎海岸で死体となって見つかる。男性は汚職事件の渦中にあった××省課長補佐、佐山憲一、女性は東京・赤坂の料亭に勤める、お時。当初、心中に見えた2人の死は、××省汚職の隠ぺいが絡む殺人事件の線が濃くなってゆく。疑いの目は、同省出入り業者の安田辰郎に注がれた……。『点と線』は、言わずとしれた松本清張の初期代表作だ。57年2月から1年間、雑誌連載され、58年2月に単行本が出た。>

 元祖社会派推理小説だが、

 <今の視点では、経済白書が「もはや戦後ではない」とうたった時代の東京と地方の距離感がうかがえることも、興味深い。>

 と書いている。具体例は次のようなことらしい。

 <佐山とお時が乗ったのは1956年秋に登場した博多行き夜行特急「あさかぜ」。終点まで約17時間半は当時最速。事件を追う刑事の三原紀一は、博多まで20時間以上かかる急行を使った。博多まで「あさかぜ」3等寝台下段が3250円、急行は3等座席車で1790円。飛行機なら1万2600円かかり、大卒初任給とほぼ同額である。今春の大卒初任給は平均20万6969円で、57年の約16倍だが、夜行特急の料金はB寝台2万3040円と約7倍になっただけ。飛行機の割引料金は夜行より安く、所要時間1時間40分。>

 そして、

 <『点と線』の連載誌が『旅』だったことも興味深い。旅行が今よりはるかに大変だった当時、この作品は、読者に長距離を移動する興奮をバーチャルに与えていた。>

 なるほど、今だったらアテネで出逢った男女がニューヨークの投資銀行で仕事をして、香港で遊び、インドに旅行に行くようなものか。

 清張は、『点と線』連載の少し前まで朝日新聞社に勤め、53年に小倉から東京へ単身赴任。帰宅途中の東京駅で「この夜行列車に乗れば明日の昼には小倉の家族に会えるのだが」という感傷がホームでの4分間の目撃シーンを思いつく背景となった、という。

 <東京発の九州行き夜行は57年に8本あったが、今は「はやぶさ」と「富士」の2本だけ。「あさかぜ」は既に廃止された。9月のある日、「はやぶさ」に乗ってみた。東京―博多間は、かつてより1時間半だけ速い。乗った車両は、東京出発時点の客が4人で定員の1割強。小説では、佐山のポケットにあった食堂車の受取証が警察の疑問を呼び、殺人事件の捜査が始まるきっかけになった。今の「はやぶさ」に食堂車はなく、朝まで車内販売すら来ない。東京からの乗客は、全員が鉄道ファンだった。九州行き夜行は来春にすべて廃止となる。だから、廃止前に乗っておくのだという。>

 中は<『点と線』/香椎海岸/多喜二が殺された年、歩いた街>は<西鉄香椎駅で降りて、海岸の現場までは、歩いて十分ばかり>の遺体発見現場。今は変わってしまったのだ、という。

 今は福岡高速道のすぐ横にある川の南側とされ、作中では<石ころの多い広い海岸>とされたが、北側が後年埋め立てられて団地となったため、今の海岸線は、川より500㍍ほど奥にあり川は、両岸がコンクリートで固められて高速道と近くの国道3号の音が響いていたそうだ。そして、新しい海岸線は、『点と線』に出てくる<黒い岩肌のごつごつした>、<これはいかにも荒涼とした>場所ではなく、人工的に砂浜が作られ、海岸に沿った道に街路樹もあり、家族連れが散歩を楽しみ、遠くにはショッピングセンターやマンションが見えるような場所に変わっていた、という。

 <清張が香椎に遊んだのは1933年。貧しさの中、尋常小学校高等科を出て以来9年間、働き詰めだった。文壇デビューは、まだ17年も先だ。4年前は、友人がプロレタリア文学雑誌を購読したことに絡んで検挙された。>

 そういう時代だった。

 西鉄香椎駅とJR香椎駅前間は5分もかからない。西鉄香椎駅は2年前に建て替わり、JRも駅ビルが建ち、県内上位の乗降客数がある。駅前と海岸をつなぐ道の両脇は商店が建ち並び、歩道は大変な混雑。JRの駅前に、『点と線』で海岸へ向かう男女を目撃した店主のいた果物店が、今はたばこ店となって残る。店は40年ほど前に持ち主が変わった。今の店「恒久堂」の店主、大部慶金さんは当時、小学生だった。「道路は未舗装で、西鉄より海側は、小説通りのさみしいところでしたね。よく、通りで遊びました。にぎやかになったのは、団地ができて以降です」と振り返る、とあった。

 <清張がこの駅前にも来たであろうその年、プロレタリア文学作家、小林多喜二が警察に殺されている。それを思うと、『点と線』が、汚職の隠ぺいで殺された死体を香椎海岸へ置いたことに、評論家・小説家、伊藤整の、次の言葉も重なってくる。清張は、<プロレタリア文学が昭和初年以来企てて果たさなかった資本主義社会の暗黒の描出に成功>した(「『純』文学は存在し得るか」)。>

 そういう読み方もできるのか。勉強になる。

 下は<『点と線』/造船疑獄/踏み出せない憤り>。この回も記者は、時代を反映している部分をピックアップして訪問している。

 <『点と線』は、省庁の汚職を殺人事件の背景としている。この作品が書かれた1950年代、日本経済は戦後復興から高度成長への助走期間に入る。そして、似たような汚職が多発した。特に、54年の「造船疑獄」は、『点と線』を解説する際、しばしば引き合いに出されてきた。造船疑獄では、石川島重工社長の土光敏夫ら、政官財の計約70人が逮捕された。しかし、焦点だった佐藤栄作・自由党幹事長の逮捕は、犬養健法相の「指揮権発動」によって政治的に回避されてしまう。池田勇人・同党政調会長も無傷だった。>

 「点と線」の解説で造船疑獄が取り上げられているとは知らなかった。

 <「かわいそうなのは、その下で忠勤をはげんで踏台にされた下僚どもです」。『点と線』の最後で警視庁の刑事、三原紀一が、福岡県警の刑事に手紙を送る。現実の汚職で、事件解明の鍵となる<下僚ども>は、自殺する例が少なくなかった。造船疑獄でも、運輸省の課長補佐や石川島重工の取締役が自殺した。作中の三原は、××省課長補佐、佐山憲一が殺されて、「安堵の胸を撫でおろした佐山の上役はずいぶん多いでしょう」と、こぼす。>

 そういう意味で関連付けられているのか。分かった。

 <ところで「『清張以前・清張以後』という言葉がある」(『松本清張を読む』細谷正充著)。現実にあり得る犯罪をリアルに扱った作品群は、「それまで限られたマニアの読み物だったミステリーを、一般読者へと開放した」(同前)。つまり、『点と線』はプロレタリア文学を引き継ぐかのように社会悪をえぐった。しかも、社会派推理小説という新分野を広く認知させるほど、多くの読者を獲得した。ここで、そのわけを考えたい。>

 随分と学問的なのだ。

 <戦前のプロレタリア文学には、労働者の決起を促すという目的があった。だから、どうしても「希望」が描かれなければならなかった。『点と線』も社会悪を弾劾した。だが、その完全な排除は無理だという、ある種のあきらめをも描いたような面がある。このあきらめが、ポイントではないだろうか。たとえば、殺された佐山の上司や殺人の片棒を担いだはずの事務官は出世してゆく。それを見ても、三原は、<役所というものはふしぎなところですね>と記すことしかできない。この後味の悪さが、むしろ、作品に現実味を与え、読者の心をとらえたかに思える。北九州市立松本清張記念館の中川里志・学芸担当主任は「松本清張は、普通の庶民の視点で社会を見て、憤った。しかも、憤ってもその先に踏み出せない状況を描いたのです」。三原のセリフは、まさに、この状況を象徴しているだろう。>

 と一般論を書き、

 <造船疑獄で逮捕を免れた佐藤栄作と池田勇人は、後に首相となり、高度経済成長を推進した。汚職の温床でもあった政官財のトライアングルは、フル回転で成長を支えた。同じ疑獄で逮捕された土光敏夫は、80年代、臨時行政改革推進審議会会長などとして3公社民営化などを提言。高度成長期の枠組みを解体する、そのさきがけとなる。高度成長と土光臨調との間に、幾多の佐山憲一、清張の言う「気の小さい、善良な人間」がいたのではないか。造船疑獄と絡めて『点と線』を読み返すと、そんな思いにとらわれる。>

 と具体論を書いている。

 それが日本社会なのだ、と思う。「許す」というのとは違う何かがある。単純に「流される」というのともまた違うと思う。

 毎日新聞の連載は読みでがある。いずれ一冊の本にまとめてもらいたい。

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[古典の思想家 再注目―世界不況の経済学]藤生京子記者のまとめは役立った~朝日新聞2月7日朝刊から

 朝日新聞2月7日朝刊文化面[古典の思想家 再注目/世界不況の経済学]は世界不況を読み解くツールとしての現代経済学の有効性に疑問が呈された中で経済学の古典が注目されている、というまとめ記事だが、随分と幅広く取材しているらしく、参考になる見方を提示してくれていた。

 「国富論」で有名なアダム・スミス(1723~90)の「道徳感情論」に注目して、<他者への「同感」を社会秩序の要と説く思想の上に、最下層の人々の幸福を念頭におく経済理論が確立したと主張する>堂目卓生・大阪大教授の「アダム・スミス」は昨年暮れ、サントリー学芸賞を受賞し、6万2000部売れた、という。堂目さんの話を紹介している。

 <「といって、スミスは単に欲望の抑制を唱えた人ではありません。野心や虚栄の表れである競争意識が、経済的繁栄の源泉である点も認めた。だからこそ各人にフェアプレーの精神、内部の「公平な観察者」という基準を求めた点に光を当てました」>

 <企業人と話し、スミスへの関心は、危機意識と結びついていることを知った。政府の規制によらず、いかに我が身を律してコンプライアンス(法令順守)を実現するか。今の論壇に多い、構造改革か規制緩和反対かという分かりやすい図式を突破する道を、保守穏健派のスミスの知見に探ろうとしている。「うれしい発見でした」と堂目さん。>

 なるほど。そういう読み方をされていると知ればうれしくなる。私もいつも書いているように、構造改革は必要だが、それが即規制緩和全面賛成論に結びつくのはおかしい、という素朴な意見をどう理論化できるのか、興味があったのだが、企業人の中で、同じ意識を持ってスミスを読んでいる、というのは驚きでもある。

 昨年刊行が始まった「日経BPクラシックス」ではガルブレイス(1908~2006)、ドラッカー(1909~2006)、フリードマン(1912~2006)の「資本主義と自由」、ウェーバー(1864~1920)の「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」も出す、と。

 「世界」2月号は日本総合研究所の寺島実郎氏がウェーバーと渋沢榮一(1840~1931)を評価している、という。また、「エコノミスト」2月3日号では神野直彦・東大教授が米国流の新自由主義に対抗する道として「働くための福祉」をめざす北欧モデルを示し、「創造的破壊」を提唱したシュンペーター(1883~1950)を参照した、と書いてあった。

 そして、本命登場だ。ケインズ(1883~1946)だ。

 <米国で大規模な財政出動が決まって以来、1929年の大恐慌後のニューディール政策に指針を与えた理論をめぐる議論が熱気を帯びている。>

 として、昨年「雇用、利子および貨幣の一般理論」(一般理論、岩波文庫)の新訳を出した間宮陽介・京大教授の考えとして、以下のように書いている。

 <不況の原因を需要不足に求め、失業が生じる構造の分析など現実感覚に富んだ「歯医者の経済学」を提示したケインズは一方で、数式を多用しない思想家でもあった。彼が呼び戻される背景には、「だれのための経済成長か」という問いが置き去りにされ、実証主義に偏る現代経済学への批判もあるのではないか。金融工学など、経済界の要請に応えたにすぎない――。>

 そして、同じ問題意識を間宮氏も共有している、という。間宮氏が勧めるのがケインズのほか、マルクス(1818~83)、ポランニー(1886~1964)、ベブレン(=ウェブレン、1857~1929)ら「異端の経済学者」だ、という。

 <例えばベブレンが20世紀初め、すでに金が金を生む、金儲けの手段としての企業のあり方を問い、現代を先取りしていたことは、あまり知られていない。>

 と書いてあった。

 <冷戦期のようなイデオロギー的な読み方も後退した。>

 という記述には複雑な思いがする。学者というだけでなく、ジャーナリズムがイデオロギー的な取り上げ方で論壇を形成してきたのが冷戦期だったからだ、と思うからだ。

 1月から春秋社でハイエク(1899~1992)全集の第二期の刊行が始まった、という。

 <自由の用語のために計画経済を批判、市場を信頼する「自生的秩序」を唱えて、フリードマンと同じ潮流とされることが多い人だが、訳者の一人で小樽商科大学教授の江頭進さんは反論する。>

 として、ハイエク擁護論を掲載している。

 <主張の根幹は、市場の価格調整機能を混乱させるすべての要因への批判だった。貨幣発行権を政府から取り上げようと提案したのも、貨幣供給が恣意的に統制されることへの警戒感があった。「逆説的ですが、金融資本が当局の制限を離れて独り歩きし、実物経済の価格にまで影響を及ぼす現状に、ハイエクは批判的だと思います」>

 そりゃあそうだろう。今、生きていたら、誰でも現状を「これでいい」とは言わない、という意味では。ただ、このハイエク擁護論は理屈になっていない。

 <どうやら特効薬はない資本主義の近未来。「経済学という教養」などの著書で社会倫理学という、いわば外野から発言してきた明治学院大教授の稲葉振一郎さんが指摘するように、公共政策と個人の生活をつなぐ回路が、人間社会を、深く多角的に洞察する古典の知見から見つかるかもしれない。>

 これが結びである。結びに稲葉氏をもってきたか。たしかに魅力的な論なのだ。私はNTT出版から出た何とかいう本を読んだが、大いにインスパイアされた覚えがある。

 しかし、ここまで書いてくれるのだったら、ケインズの異端の弟子である英国の女性経済学者、ジョーン・ロビンソン(Joan Violet Robinson, 1903~1983)にも触れてほしかった。彼女だけがハイエク、フリードマンと堂々四つに組んで、新自由主義批判を展開していた。弟子に宇沢弘文氏がいることでも知られるが、女性で唯一ノーベル経済学賞候補になったことでも有名な頑固ばあさんだ。マルクス経済学からイデオロギー的側面を取り除き、ケインズを超えたのではないか、と思っているのだが、そこまでの国際的評価はないのかなぁ。

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2009年1月22日 (木)

同心円と楕円:田中角栄と大平正芳考~1月22日日経新聞夕刊から

 日経新聞1月22日夕刊[永田町インサイド]の左脇の小さな連載コラム[明言迷言]は気に入った時だけ読んでいるが、今日のは[同心円でいこう 田中角栄元首相]と私にとっては生々しい言葉が歴史的な言葉に格上げされて出ていたので、読んでみた。見出しは<「鉄の軍団」終わりの始まり>である。

 1985年2月13日朝、竹下登蔵相(今の財務相に当たる)が東京都文京区目白台の私邸に田中角栄元首相を訪ね、「先日お話しした勉強会ができたのでご報告に来ました。色々ご心配、ご迷惑をおかけしました」と頭を下げた。それに対して田中元首相が言った言葉がこの「いや、いいんだ。とにかく同心円でいこうや」だった、と書いている。

 信濃川河川敷問題を追及されての首相辞任。復活を目指して田中派の膨張作戦を遂行し、巨大派閥を作り上げたが、米国議会で飛び出したSEC報告書でロッキード事件が明るみに出て、コーチャン証言などもあり、田中元首相は三木内閣時代に逮捕されてしまう。起訴され、一審有罪、控訴という段階で死去したのだったかどうか、記憶がもう曖昧になっている。なにしろ、膨張した田中派内の内輪もめが起きたのだ。大きな原因はマスメディアでいつもいつも「罪人の味方」「悪の仲間」と叩かれ、ほとほと嫌になっていたという底流があるのに、膨張作戦を挙行中の田中氏はそんなことにはお構いなく、他派からの鞍替え組みを重用したため、生え抜きが怒ったのだ。

 そして、金丸信、梶山静六、小沢一郎各氏を中心に「竹下を立たせよう」となって、「創政会」を秘密結社のように作って、それが将来、「経世会」に発展し、田中派を乗っ取る、という話である。

 すでに力関係は竹下氏が田中氏を上回っていた。というか、まだ政界への影響力は田中氏のほうが圧倒的に大きかったが、その影響力を支えていたのが数の力だったわけで、その数を侵食されたのは田中氏にとって致命的だった。こうならないように、早坂氏や秘書の佐藤女史を使って情報収集をしていたのだが、金丸グループはおやじさんのその心を知り抜いていたため、おやじに隠れて新グループを立ち上げる際には死ぬか、と思いながらやったそうだ。だから、グループができた時点で勝負はついていた。グループができた、ということはもう田中一人の力で百数十人が一糸乱れず動く集団ではなくなった、ということを意味したからだ。

 この「同心円でいこうや」は過大評価された言葉である。田中角栄氏としては「楕円でいい」とは口が裂けても言えなかったに違いない。しかし、「同心円」など、ありえるはずがない。同心円というのは同じ中心点があり、円が二つあっても三つあっても、中心は同じ、つまり、中心には常に田中角栄が座っている、という意味である。そうはならない。新グループを田中角栄が仕切れない以上、同心円ではありえないのに、この苦しい言葉「同心円」をあたかも新しい田中戦略かの如く解説していたのが当時のマスコミだった。

 早坂秘書が怖かったから、「田中角栄の影響力はこれで消えていく」と書けなかったのだろう、と推測するが、当時の政治記者はそんなレベルだったのだ。

 だから、この「同心円」と大平正芳の「楕円の哲学」の意味するもの、言葉の持つ深みは全く違う。

 ただ、新聞を見ながら、「同心円」と「楕円」の両方が思い浮かんだので、メモしておくだけだ。

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2009年1月16日 (金)

「日本は米国の属国なのに政治家は国民を誤魔化している」と75歳の岸田秀氏は言った~1月16日毎日新聞夕刊

 毎日新聞1月16日夕刊[特集ワイド~この国はどこへ行こうとしているのか]は精神分析者の岸田秀(きしだ・しゅう)氏(75)にインタビューしていた。もう75歳なのか、と少し驚く。

 <1933年香川県生まれ。早大文学部心理学専修卒。80年代初めにニューアカデミズムの旗手の一人として注目された。著書に「ものぐさ精神分析」(中公文庫)、「日本がアメリカを赦す日」(毎日新聞社)、「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」、「『哀しみ』という感情」(以上、新書館)など。>聞き手は西和久編集委員だ。

 とあった。見出しは<対米の欺瞞 直視を>だ。岸田氏のデビューは70年代終わりの「唯幻論」だと書いてあった。注釈があり、

 <唯幻論とは「人間は本能の壊れた動物である」ことから、人間やその集団は、本能に代わる行動規範として自我や、自我を正当化するための「物語」といった幻想の体系を作り上げた、とする。>

 だった。何か吉本隆明に似ているような気がする。岸田氏の発言のいくつかをピックアップしておく。

▽日本社会と違って、米国は貧乏人に対して同情がない社会です。貧乏は自業自得と考えられ、格差が米国の強さを生むとさえ信じられています。

▽オバマ氏が失敗しても、白人支配は安全です。

▽大統領が黒人であるという看板を立てているだけで、白人大統領が行うのと同じことしかできないのではないか。スローガンの”CHANGE”は空念仏に終わるのでは。

▽ローマ帝国の歴史を思い起こしてほしい。ローマ帝国は4世紀の初め、それまで差別し虐殺してきたキリスト教徒を公認した。キリスト教を国教にし、皇帝が改宗したことで、ローマ帝国の崩壊が始まった。ローマ文明を支えてきた多神教が捨てられ、ローマ人貴族階級が支配権を失い、差別されてきたゲルマン人キリスト教徒が代わりに台頭して従来の体制を変革しようとしたからです。

▽ローマ帝国の先例が現代の米国にあてはまるかどうかは、もちろん分からないが、従来の支配構造に執着する白人層と、差別のない社会への希望を抱いた非白人層に分裂し、第二次南北戦争が起こりかねません。それを免れる唯一の道は米国を支配してきた白人層がその権力意識、差別意識を本当の意味で克服することだが、そんなことが果たして可能かどうか。

▽日本は政治が混乱しているが、日本という国をどのような基本原則で維持していくか、そのことに確信を持っている政治家がいないのが一つの原因です。戦後日本の政治はずっと国民に嘘をつき、誤魔化してきた。

近代日本は外国を崇拝しあこがれる外的自己と、外国を嫌い憎む誇大妄想的な内的自己とに分裂していた。とりわけ対米関係についてはペリーによって無理矢理開国させられて以来、分裂が極端に振れてきた。内的自己が高揚して真珠湾攻撃にいたり、戦後は外的自己がのさばっている。しかし、もう一方が消えてなくなったわけではない。

現在、日米はお互いに対等なパートナーと言っているが、これは嘘である。日本国内に米軍基地があり、日本の政府は常に米国の顔色をうかがっている。首相が交代するたびに米国へ参勤交代に行く。軍事的、政治的には属国なのだ。

現実には屈辱的な状況にありながら、プライドを保つために、戦後日本の政治は、対等だと言って誤魔化してきた。

▽こうした自己欺瞞のゆえに、日本の政治家は確信を持った政治ができないのではないか。現実を明らかにした上で、そこからどうすれば脱出できるかを考える。今がいいチャンスだと思うのですが。

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2009年1月12日 (月)

タイトルにつられて読んでみた:長谷川三千子氏の<ホントは怖い「多文化共生」>~産経新聞1月12日[正論]

 産経新聞1月12日の[正論は]埼玉大学教授・長谷川三千子氏の<ホントは怖い「多文化共生」>だった。「共生」はいいことでなかったの? と疑問を持って読み始めた。

 長谷川氏は▽2004年に内閣府が作った「共生社会政策担当」という部署が「共生社会」の実現を推進中▽総務省が06年に「多文化共生推進プログラム」を提言し、各自治体に多文化共生推進の大号令が下っている――と例示して、「共生」が今後流行のスローガンになるだろう、という。

 そして、この「共生」という言葉について、内閣府は意味不明で使っているが、総務省の「多文化共生推進プログラム」は狙いが明確で、近年の外国人定住者増加現象にともなって出てきた話だという、と書く。

 <このプログラム提言の立役者、山脇啓造先生は、多文化共生の発想は、外国人をいかにもてなすかという従来の「国際交流」とは違うのだと言って、こう説明しています――「今求められているのは、外国人を住民と認める視点であり」「同じ地域の構成員として社会参加を促す仕組みづくりである」。>

 ここからが長谷川氏らしくて面白い。

 < なるほど、これまで日本人は外国人のすることはみな「お客様」のすることとして大目に見てきたけれど、「住民」だとなればキッチリ地域のルールを守ってもらいましょう。日本語もしっかり覚えてもらって、「ニホンゴワカリマセーン」の逃げ得を許さない、ということですね、と思うとさにあらず。今後外国人の定住化がすすめば「『日本人』と『外国人』という二分法的な枠組み」それ自体を見直す必要が出てくるだろうという。その上で、「国籍や民族などの異なる人々が」「互いの文化的違いを認めあい、対等な関係を築こうとしながら、共に生きていくこと」が多文化共生だと山脇先生はおっしゃるのです。つまり、これから外国人定住者がふえつづければ、やがて日本文化は日本列島に存在する多くの文化の一つにすぎなくなる。そしてそれでよい、というのが「多文化共生」の考えだということになります。なんともどうも、怖ろしい話です。>

 そうきたか。

 <どうしてこんな話がまかり通ってしまったのか。おそらくその鍵は「共生」という言葉にあります。生物学では、異種の生物同士が同一の場所で互いに利益を与えたり害を与えたりしながら生きてゆくことを総称して「共生」と言うのですが、「共生」と聞くとわれわれはすぐ、アリとアリマキのような共利共生を思いうかべてしまう。だから「共生」イコールよいこと、というイメージが出来上がってしまうのです。>

 やはり、曖昧な言葉には注意せよ、ということになるだろう。1960年の「安保反対」も思想的には空虚な号令だった、ということが21世紀になってようやく理解される世の中だ。今から警告を発しておくことはいいことだ、とは思う。

 <しかし、実際の生物世界の共生は、互いに害を与え合うことすらある苛酷な現実そのものです。そして、それにもかかわらず、なんとか多種多様の生物たちがこの地球上を生き延びてこられたのは、そこに或る平和共存のメカニズムが働いているからであって、それが「棲み分け」なのです。>

 棲み分けと共生の違いかぁ、なるほど、そこに持って行ったか。これは理解できる議論だろう。

 <これは、かつて今西錦司さんが、同じ一つの川の中でも、流れの速いところ遅いところ、住む場所によってカゲロウの幼虫が違う体形をしていることから思い至った理論です。つまり生物たちはそれぞれ違った場所に適応し、棲み分けて、無用の争いや競争をさけているということなのです。実は人間たちも(カゲロウのように体形自体を変えることはできなくとも)多種多様な文化によって地球上のさまざまの地に適応し、棲み分けてきました。>

 そうです。今西さんの理論です。

 <それぞれの土地に合った文化をはぐくみ、そこに根づいて暮らす――これが人間なりの棲み分けシステムなのです。ところがいま、この平和共存のシステムは世界中で破壊されつつあります。日本に外国人定住者が増加しつつあるのも、そのあらわれの一つに他なりません。この事態の恐ろしさを見ようともせず、喜々として多文化共生を唱えるのは、偽善と言うほかないでしょう。>

 そこまで言うか、とも思うが、外国人労働者を安く使うことばかり考え、その社会的影響を軽視し続けてきた企業トップと政治家にはきっちりと考えてほしい問題ではある。

 鎖国しろ、と言っているのではない。だが、日本列島は日本人が住んでいる土地なのだから、日本語が通じる人たちが住み、その文化を繁栄させるような文化政策をこそ政治家は推進すべきだ、と思う。明治維新の欧化政策の反省をまじめに総括すればそうなる。

 ただ、長谷川教授のように全部ダメとは言えないとも思う。その辺、難しくてまだ詰めて考えてはいないのだが。

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2008年12月29日 (月)

「糞坊主」「悪党」オンパレードの座談会が最終回~12月29日聖教新聞

 会社の職場に聖教新聞が来るので、たまに目を通しているのだが、座談会が面白くて愛読している。

 12月29日の4面座談会[新時代を勝ち開け!]が86回目で「完」となっていたので、読んでしまった。

 この座談会はいつも面白いのだ。日蓮正宗のお坊さんの悪口とか、反創価学会のライターらへの悪口のオンパレードなのだが、その言葉遣いが宗教者にあるまじき猛烈な卑語が飛び出すので、「へぇ、ここまで言うのか……」と感心しながら読める。つまらない小説よりはドキドキさせられて、暇つぶしにはいい。

 この最終回は前半が創価学会の悪口を書いた週刊新潮と乙骨氏が最高裁判決で敗訴したことを受けての悪口三昧。後半は竹入 義勝元公明党委員長への悪口で終止していた。「あれっ」と思ったのは、創価学会と竹入氏が和解したのではなかったのか? と思っていたからだ。

 グーグルで調べたところ、どうも「和解」とは言っても部分的な和解のようなのだ。共同通信の12月4日配信記事が見つかったので、コピペしておく。

 見出しは<公明党が竹入氏と和解/「互いに誹謗中傷せず」>である。本文は、

 <公明党が竹入義勝元委員長に対し、党の資金を着服したとして550万円の損害賠償を求めた訴訟は4日、東京高裁(宗宮英俊裁判長)で和解が成立した。関係者によると、和解条項では「双方が相手方に違法な誹謗中傷をしないことを確約する」と明記。竹入氏が遺憾の意を表明すれば、請求棄却の1審判決に対する控訴を党が取り下げることが盛り込まれたという。>

 <公明党側は「竹入氏は委員長在任時の1986年6、7月ごろ、党の資金を着服し、百貨店で妻の指輪を購入した」などと主張していたが、今年3月の1審東京地裁判決は「当時は衆参同日選の最中で、竹入氏が百貨店で妻を伴って買い物をする余裕があったか疑わしい」と退けていた。竹入氏は67年2月から86年12月まで、公明党委員長を務めた。>

 というものだ。

 勘違いしていた。あくまで公明党と竹入氏の和解であり、それも「違法な誹謗中傷」をしないというだけで、合法的な誹謗中傷は許されており、なおかつ創価学会は訴訟の当事者ではないから、何も束縛されなかったのだ。知らなかった。

 またウィキペディアのお世話になろう。竹入氏の項目である。

 <1926年1月10日、長野県生まれ、政治大学校卒業。国鉄(現JR)勤務。59年4月、東京都文京区議会議員選挙に無所属(創価学会推薦)で立候補、当選。61年11月、公明政治連盟結成。63年4月、東京都議会議員選挙に北区から公明政治連盟で立候補、当選。64年11月17日、公明党結成、党副書記長就任。67年1月29日、第31回衆議院議員総選挙に旧東京10区(後の東京17区)から公明党公認で立候補、初当選(以降連続8回当選)。この選挙で公明党は25議席獲得し大躍進。>

 <67年2月、辻武寿氏(参院議員)退任にともない公明党委員長就任。党の衆院重視への転換を示す。69年に政治評論家の藤原弘達氏による公明党と創価学会の政教分離問題が表面化、竹入氏は田中角栄・自民党幹事長に問題解決を依頼、矢野絢也書記長と田中・藤原会談を見守った。71年6月27日、第9回参院選で公明党は得票を減らし敗北。72年、社会党の成田知巳、佐々木更三現元委員長らと中国訪問。日中国交正常化交渉の極秘下折衝、9月の田中首相訪中、国交正常化に貢献。12月10日の総選挙では公明党は29議席と完敗。75年には成田社会党委員長と初の社公党首会談、反自民で一致し選挙協力に発展。79年には佐々木良作・民社党委員長と公民連合政権構想に合意。79年10月7日の総選挙では社公・公民選挙協力が成功、自民大敗。80年1月に飛鳥田一雄・社会党委員長と社公連合政権構想に合意、共産党とは絶縁(革新ブロックの解消)。80年6月22日の衆参同日選挙は総選挙で50議席割れ、参院選では25議席割れの惨敗。84年の自民党総裁選挙で佐々木民社党委員長と「二階堂擁立」抗争に巻き込まれる。>

 <86年12月、各党の世代交代の中、委員長在職20年目を前に退任、党最高顧問に就任。90年、政界引退。97年、勲一等旭日大綬章を受章。>

 <98年に「公明党と創価学会が政教一致の関係にあった」と『朝日新聞』に「55年体制回顧録」を掲載。回顧録に学歴記述の矛盾などが見つかった。これを機に反創価学会の立場を鮮明にし、公明党、創価学会から除名処分を受けた。>

 <2006年5月19日、公明党は「内部調査により、竹入が公明党委員長在職中の1986年7月に自分の妻へ送った指輪の購入代金を公明党の会計から支出し着服横領した」として、総額550万円の損害賠償を求める民事訴訟を東京地方裁判所に起こした。翌日には、創価学会の機関紙『聖教新聞』において提訴が大々的に報道され、提訴後も同紙には折に触れて横領を非難する記事が掲載された。>

 <08年3月18日、東京地裁は「党の会計から私的流用したとは認められない」として請求を棄却。判決文では「横領したという当時は衆参同日選の最中で、党トップの竹入氏が秘書や警護官もともなわずにデパートで夫婦そろって高価な指輪を購入するのは不自然」と指摘したうえで、購入した指輪の具体的な種類や形状が特定されていないことなどを理由に、流用の事実は認められないとした。>

 <公明党側は即日、東京高等裁判所に控訴。08年12月4日に「互いを誹謗中傷せず、竹入が遺憾の意を表明した場合は党側が控訴を取り下げる」との条件で和解が成立した。『聖教新聞』は着服横領提訴の判決が出るまでは着服横領を複数回1面トップに持ってくるほど大々的な報道を行っていたが、敗訴判決の事実および竹入氏との和解の内容を機関紙『聖教新聞』では公表していない(極小記事での扱い)。>

 この29日の座談会の見出しは<公明議員は立ち上がれ/支持者の期待に結果で応えよ/戸田先生「私利私欲の議員は叩き出せ」>である。

 見出しを見てびっくりはしない。

 いつものような「魔界」とかが出てくるほうがおどろおどろしくていいのになぁ、とは思うが、公明党も与党慣れしてきたし、あんまり常識を疑わせるような表現はできなくなったのだろうか? もう少しえげつないほうがいいのに。

 この座談会で面白いのは女性の言葉の汚さである。

 この日も三井婦人部長という方が「竹入は40年以上も有権者を騙し続けてきた。国民を欺き抜いてきた」と言えば、棚野男子部長は「こうした悪党が二度と出ないよう、竹入という嘘つき男を厳しく糾弾しておかなければならない。それが後世のためであると信ずる」という陸軍航空士官学校卒業生の言葉を紹介していた。

 竹入氏が陸軍航空士官学校に籍を置いたのかどうか、客観的に調べられないのかどうか。竹入氏も何か証拠を示せないのかどうか。

 というよりも、「犬神家の一族」ではないが、あの当時は何が何だか分からなくなっており、皆生きるのに必死で泥棒も殺人もなんでもやっていた時代じゃないか、と思うのだ。国敗れて山河あり、の時代だ。その時代の経歴詐称を今更持ってくるほうがどうかしているのだが、竹入氏ももしも嘘をついたとしたら、どうして嘘をついたのだろうか。分からないことが多いのだ。

 創価学会にしてみれば竹入氏や矢野絢也氏は目の上のたんこぶなのだろう。あまりにも秘密を知りすぎている。抹消したいだろうが、そうはいかないから、社会的に発言できない立場、または発言しても皆がまともに取り上げないようにしようと必死なのかもしれない。

 でも、創価学会はなぜそんなに必死なのだろう? 以前「創価学会の研究」を読んで書評にも書いておいたが、今や昔の日本と違って創価学会への負のイメージは相当になくなってきているだろうし、明るい話題も多くなっている。特に芸能界への大量進出で、テレビ画面で学会員の芸能人を見る機会が増えて、特に学会員だからといって忌避するような風潮はなくなった、と思うのだ。

 この日の新聞にも女優の本名陽子さん、歌手のカズン(漆戸啓さんと古賀いずみさん)のインタビューが出ているが、彼らが学会員だからといって差別されるようなことはないと思う。

 もう少し普通の宗教組織になってもいいのではないか、竹入、矢野氏ら反創価学会的人間はほうっておけばいいのではないか、とも思うのだが、そうはいかないのだろうか。

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2008年12月24日 (水)

長部日出雄氏の<真の独立><楕円と再生の思想>を読んで~日経新聞12月17、24日夕刊から

 日経新聞夕刊1面コラム[あすへの話題]は毎日欠かさず読む。12月17日の長部日出雄氏の[真の独立に向かって]に感動して感想を書いておこうか、と思ったのだが、「当方担当の最終回となる次週の本欄で述べたい」とあったので、今日の夕刊を首を長くして待っていたら、[楕円と再生の思想]というタイトルで長部コラムが掲載されていた。

 ということで、この2回のコラムを紹介しながら、ちょっとだけコメントしたいと思う。

 まず12月17日[真の独立に向かって]だ。「真の独立」という言葉を見て、「アメリカからの独立」を思い浮かべる人は多いだろう。まさに長部氏の書いているのはそのことだった。ただ、安全保障面での独立とか、政治面での独立ではなく、日本人の精神、心に関する「独立」である点が政治家や政治的学者と違うところだ。古くは江藤淳氏らの保守思想に連なる系譜と言っていいのだろう。

 長部氏には申し訳ないが、コメントを書く都合上、逐条的に書き写す。著作権上の問題が発生するのかもしれないが、どうか大目に見てください。

 <わが国の政治家の大半が、すっかり小粒になって、とても安心して国を任せられない状況になったのは、戦後のある時期からアメリカの属国の地位に甘んじて、自国を独立国として統治する経綸も矜持も必要とせずにやって来られたからである。国家の主権の正当な認識がなく、従ってそれを的確に行使する術に熟練する筈もなかった。>

 「戦後のある時期」について長部氏は2回のコラムで具体的に書いていないのだが、いつ頃なのだろうか? 外交文書公開で明らかになった佐藤栄作首相の日米首脳会談や米国防長官との会談での中国への核攻撃を米国に約束させる鬼気迫る交渉ぶりには頭が下がるが、こういう心根が責任ある政治家から失われたのはいつなのか? つまり、東久邇稔彦、幣原喜重郎、吉田茂は間違いなく国益を考えた政治をした。社会党の片山哲だって非武装中立なんて言わなかった。芦田均もある意味、国士だ。鳩山一郎の筋金入りの日本主義は米国に嫌われたほどだ。岸信介も個人的には嫌いだが、あれだけの反対の中、日米安保条約の改定をやり遂げたのは、当時の国益に沿っていただろう。池田勇人の高度経済成長は決して軟弱路線ではなかった。土性骨が座った国富政策だった。そして、佐藤栄作である。そこまでは何とか及第だと思う。

 そうすると、問題はその後だ。田中角栄はどうなのか? 金権腐敗のうえ、日本の航空政策を米国のロッキード社に売り渡し、ワイロをもらったかのように指弾され、名誉も奪われて失意の死を迎えた天才には国益観念があったのかどうか? 私には今コメントする能力がない。

 三木武夫という椎名裁定で図らずも総理大臣になって田中角栄逮捕のために暗躍したような男は保守政治家の風上にも置けない。失格間違いなしだ。小派閥の長で国民の支持ばかり気にしているから、重要な政策に腰を据えて取り組めない。GNP比1%枠とか、どんな意味があったのだろう。

 福田赳夫はアジアを向いていた。米国の核の傘の下にいるのは仕方ないと考えながら、日本はアジアで支持を広げなければ先細りになる、と具体的に動き始めたのは評価できる。ただ、この人も気が弱いのか、連続爆弾事件の犯人が牢屋から犯人を逃がすように要求した時「人命は地球より重い」とか言って、超法規的措置で犯人を釈放するなど、無原則極まりないことをやった。日本は国家ではない、という批判が上がったが、西欧的な「人間主義」がひねくれた形で導入されていた日本ではマスメディアがこの問題への深入りを避け、曖昧にされた。それが後々まで尾を引いて、最後には小泉首相時代の「自己責任論」に結びついたのだと思うのだが、どうも「地球より重い」人命などないし、「自己責任」は国家の責任放棄だ、という常識論が通じなくなっていたようだ。極端から極端に振れる日本人の悪い点をあますところなく露呈している。だから、福田氏だけを責めてはかわいそうかもしれないが、総理大臣というのは何を言われてもやるべきことはやらなければならないのだから、やはり、福田首相は失格だろう。

 大平首相は愚直な人だった。一般消費税をまじめに考えて導入しようとしたら、野党の集中砲火にあっただけでなく、福田氏との「40日抗争」で心身をすり減らし、病死した。憤死のようだった。正義派の国益重視派と言っていいだろう。

 鈴木善幸氏は暗愚の宰相と言われた理解能力に欠けた人間。田中角栄氏のロボットとしては便利だったというだけだが、やはり「日米同盟に軍事は含まない」などメチャクチャ過ぎる発言は最低だった。言うまでもなく失格だ。

 中曽根康弘氏は合格でいいだろう。

 竹下登氏も合格と言っていいのかどうか。消費税を導入して高齢化社会への対応を図ったことは立派だった。ただ、竹下、安倍晋太郎、宮沢喜一の大正生まれ3人、「安竹宮」は線が細く、政治信念の底の底を覗けば国家への不信が見て取れる。軍国主義日本によって死ぬ一歩手前まで行った年代だが、その上の世代のように自分の意思でコントロールできたのではなく、あくまで命令に従って黙々と死に向かって生きていた世代だ。自分の確固とした信念もない世代。竹下氏が「わしらは明治のじいさまと昭和の若者のつなぎの世代」と言っていたように、実際つなぎ世代でしかなかったし、そもそも戦争での死亡者が多く、人口構成で見てもこの世代は少ない。

 宇野宗佑、海部俊樹はロボット。コメントに値しない。宇野は竹下のダミー。海部は金丸のダミー。

 宮沢喜一は竹下のところで述べたとおり。宮沢回顧録で御厨貴氏らのインタビューに答えていろいろ言っていたが、印象に残ったのは決断できない官僚そのもの、という姿。自分では客観的に振り返っていたのだが、佐藤政権で沖縄返還を実現するためにも「糸と縄の取引」が必要になった時、佐藤氏は宮沢氏を通産相に据え、国内の調整と対米交渉を任せたのだが、国内調整が全くできず、つまり米国に何も回答できず、あきれた佐藤首相が通産相を田中角栄に替えて、打開したケースなどがそうだ。優柔不断で、政治家ではない。耳に優しいことは言えるが実行できないから政治家ではない。

 細川護煕、羽田孜、村山富市は前2者は小沢一郎氏のダミー。村山氏は自民党のダミーだったから、論外。

 橋本龍太郎は個人的には合格点をあげたいのだが、あまりにも細かいことを気にしすぎて大局を見ていなかった。だから、最終的に失敗した。省庁再編をやり遂げたり、経済財政諮問会議の枠組みを作るなどの改革は良かったが、厳密に考えれば、失格と言わざるを得ないだろう。

 小渕恵三氏も悩ましい。大平氏に似ているところがあり、バックにいた竹下氏がこのケースではロボットにするのではなく、小渕氏の手足として動くことで政権のために一肌脱いだことを考えれば、小渕+竹下=合格なのか?

 森喜朗氏は勿論不合格だろう。

 小泉純一郎は合格だろうか? いくら後世の史家が郵政民営化のインチキ振りを暴き、北朝鮮政策の失敗をあげつらっても、バブル崩壊で腑抜けになっていた日本国民に「構造改革をやれば少しは良くなる」という夢をバラまいたことは確かだ。だから、5年間という長期政権になった。しかし、その結果は企業だけ焼け太りして、国民はやせ細り、ワーキングプアが常態化した。アメリカ様の言うことは何でも聞くが、日本の国民の言うことは聞かない、という政治を見れば、失格に入れるしかないだろう。ここの判断は微妙である。何が国益なのか、厳密な論議が必要だろう。

 安倍晋三、福田康夫、麻生太郎は3人とも失格。

 と戦後の総理大臣を振り返れば、佐藤栄作までは何とか合格点をあげるとして、その後は大平、中曽根、竹下、小渕には合格点を与えても、田中角栄は?がつく。他の首相は不合格、となる。

 <この点においてはメディアと学者文化人の多くも似たようなもので、政治と経済において学ぶべき規範はことごとく欧米にあり、わが国に固有の伝統は押しなべて過去の遺物で、国際的な普遍性を欠いた誤謬と見做され、殆ど一顧もされなくなった。>

 そうなのだ。全くその通りなのだ。

 <だが、何よりもまずインターナショナリズムやグローバリズムを唱え、ある一元的な原理によってそれが実現できる、とする主張には気をつけたほうがいい。コミンテルンが人類に共通する理想として掲げたインターナショナリズムが、実はソ連の軍部と国家官僚層を掌握した指導者が独裁するクレムリン帝国主義の別名でしかなかったことは、既に白日のもとに曝された。自分たちの学説を、世界中全ての国に普遍妥当するものと信じたアダム・スミスに始まる古典派経済学の部分的で単純な拡大解釈によって「新古典派」あるいは「新自由主義」と称された学派の唱導したグローバリズムの実態が、砂上の楼閣を金殿玉楼に見せかけようとしたウォール街による金融帝国主義であったことも、今や大方の目に明らかになった。>

 しかし、長部氏はよくここまで思い切ったことを書いたなぁ、と溜息が出る。言っていることはその通りで、私も大賛成である。ただ、長部氏といえば、私も最近マックス・ウェーバーに関する新潮選書をパラパラと読んだばかりだが、欧米思想を肯定的に受け止めているのか、と誤解していた。そうではなかったのだ。

 コミンテルンの32年テーゼは日露戦争に負けたロシアがソ連と国名を変えた後も日本に対する怨念を持ち続け、復讐の機会をうかがい、日本弱体化のために日本共産党に強いた政策だった。国際共産主義運動のはずが、日本だけをターゲットにしたテーゼというのも後から考えればおかしな話だが、当時の共産党にはコミンテルンを批判的に見る視点がなかった。長部氏が言うように、肌の白い人間が言うことを金科玉条として、日本の伝統を馬鹿にしていた知識人の大失敗だ。この傾向は丸山真男以後の戦後知識人にも連綿と引き継がれている。

 こういう言説が公に出るようになったのは、世界金融危機のおかげなのかもしれない。

 <ソ連とアメリカの覇権が共に崩壊した今日、われわれは真の独立を目ざす道へ歩みださなければならない。そのさい何を軌範にすべきかについては、当方担当の最終回となる次週の本欄で述べたい。>

 として、次週の12月24日のコラム[楕円と再生の思想]になる。

 こちらは最近どこかで誰かが書いていた神仏習合の見直し論につながる「楕円の思想」だった。

 <「日本」という国家の原型は、古代史上最大の内乱であった「壬申の乱」によって生み出された。当方の考えるところ、これは唐風文化一辺倒の大友皇子を奉ずる近江朝廷と、国風文化を重んずる大海人皇子との戦いで、結果はご承知の通りである。では、勝利を収めて即位した天武天皇の治世が、こんどは国風を唯一絶対とする原理主義になったかといえば、決してそうではない。>

 長部日出雄氏は1934年9月3日青森県弘前市生まれ。故郷、津軽に関する小説、エッセイが多く、津軽出身の棟方志功、太宰治らの評伝も執筆している。ウィキペディアで略歴を見ると、1953年に早稲田大学文学部に入学、中退。57年、週刊読売記者。大島渚、永六輔、野坂昭如、筒井康隆、小林信彦らを一早く評価し、彼等と深く交友。退職し、雑誌『映画評論』編集者、映画評論家・ルポライターを経て作家。73年に『津軽じょんから節』と『津軽世去れ節』で直木賞受賞、とあった。「天皇はどこから来たか」(新潮社、1996年)、「反時代的教養主義のすすめ」(新潮社, 1999年)「二十世紀を見抜いた男 マックス・ヴェーバー物語」(新潮社, 2000年)、「天皇の誕生 映画的『古事記』」(集英社、 2007年)、「『古事記』の真実」(文藝春秋、2008年)という著作目録を見れば、私の勘違いで、実は日本の古典、古代への造詣が深かったことが分かった。

 <漢字と和語を綯い交ぜにして、話し言葉と書き言葉の双方の働きをそなえた「日本語」を最初に確立した「古事記」の口誦しながら、天武天皇は官寺の造営にも力を注いで、日本中の家々に異国の教えである仏教を浸透させた。このような原理主義者がどこにいるだろう。和語と漢字の見事な融合、神と仏の和らかな共存。世界に類のないこの二元の構造こそは、わが国の文化の最大の特徴で、壬申の乱が「日本」という国家の原型を生み出す基になった……というのは、そういう意味なのである。>

 なるほど、である。やはり古代史への造詣が深い。

 <異質で相反する要素の和らかな共存を図って、二つの焦点を持つ楕円形の国家を形成したい、というのが天武天皇の願った理想の和の国の姿であった。伊勢神宮において旧宮と新宮の敷地が隣接し、二十年毎に神儀(御神体)がその間を往復する……という奇跡的な遷宮制度の創始者も天武天皇である。希望を失って真っ暗闇と化した世の中に、ふたたび天照大御神が新たな光明をもたらす「天の岩屋戸」神話は、死と再生の劇であり、遷宮はその祭祀化なのである。この「楕円と再生の思想」こそ、日本を救う。ぼくはそう確信して疑わない。>

 そうなのだろう。明治維新の際に薩摩や長州の若手武士がこれらの国の物語を軽く扱い、国家神道化した。そして、戦争に負けた後、マッカーサーが神道指令で国家神道をやめさせた。その後の日教組の教育で神話が不当に弾圧された。

 今はじっと沈思黙考しながら、日本を再び考える人が増えることを望みたい。インターナショナリズムはナショナルを理解してはじめて理解できる、とはよく聞いた話だが、その通りだと思っている。長部氏が説くように、そろそろ虚心坦懐に日本を見詰め直そう。

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秋葉原「心の闇」事件の遠因はニュースピーク、という鹿島茂氏のご託宣~12月24日毎日新聞朝刊から

 毎日新聞12月24日朝刊[引用句辞典 不朽版]で鹿島茂氏(仏文学者)は<ニュースピーク>を取り上げていた。「ニュースピーク」とは、知る人ぞ知るジョージ・オーウェルの近未来SF小説「1984年」の全体主義社会で住民たちが話す言葉である。と言ってもよく分からないので、もう少し作品そのものを説明しておかなければならないだろう。

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8) 1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

著者:ジョージ・オーウェル,新庄 哲夫,George Orwell
販売元:早川書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 となれば、やっぱりウィキペディアの出番だ。少し長めに引用する。(以下ウィキの引用を少し書き直したもの)

 <トマス・モア『ユートピア』、スウィフト『ガリヴァー旅行記』、ザミャーチン『われら』、ハクスリー『すばらしい新世界』などのディストピア(反ユートピア)小説の系譜を引く。スターリン体制下のソ連を連想させる全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描く。「1984年」は執筆された1948年の4と8を入れ替えたアナグラムで、当時の世界情勢そのものへの危惧を暗に示した。出版当初から冷戦下の英米で爆発的に売れ、同じ著者の『動物農場』やケストラーの『真昼の闇黒』などとともに反全体主義思想のバイブルとなった。あらゆる形態の管理社会を痛烈に批判した本作のアクチュアリティは、コンピュータによる個人情報の管理システムが整備されつつある現代においても、その輝きを全く失ってはいない。>

 <1950年代発生の核戦争を経て1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国が分割統治。紛争地域をめぐる戦争が絶えない。作品の舞台であるオセアニアでは思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビで屋内・屋外のほぼすべての行動を当局に監視されている。>

 <ロンドンに住む主人公ウィンストン・スミス(39)は妻キャサリンとは別居中。真理省記録局の役人として日々歴史記録の改竄作業を行っていた。物心ついたころに見た旧体制やオセアニア成立当時の記憶は、記録が絶えず改竄されるため、存在したかどうかすら定かではない。スミスは古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという、禁止された行為に手を染める。ある日の仕事中、抹殺されたはずの3人の人物が載った過去の新聞記事を偶然に見つけたことで体制への疑いは確信へと変わる。「憎悪週間」の時間に遭遇した真理省創作局の同僚で青年反セックス連盟の活動員、ジューリア(26)から手紙で告白され、出会いを重ね、黒髪のグラマラスな女性と愛し合う。また、下町のチャリントン(63)の古物商店で隠れ家を提供されるが、実は年齢も60歳代ではなく、秘密警察の隊員だったが、ウィンストンは隠れ家でジューリアと過ごした。ウインストンは夢に度々出てくる真理省党内局の高級官僚の1人、オブライエンを自分の味方で話が分かる男と思い込み、現体制への疑問を告白。オブライエンは秘密結社『兄弟同盟』の一員であると名乗り、 エマニュエル・ゴールドスタイン(レフ・トロツキーがモデルでトロツキーの本名はブロンシュタイン)の禁書を渡すが、実はオブライエンはオセアニアの指導者、偉大なる兄弟(ビッグ・ブラザー=ヨシフ・スターリンがモデル)によって率いられる唯一の政党「党」に忠誠を尽くす男で、ウィンストンを騙す嘘だった。思わぬ人物の密告からこうした行為が明るみに出て、ジューリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、オブライエンによる尋問と拷問を受ける。彼は「愛情省」の101号室で自分の信念を徹底的に打ち砕かれ、党の思想を受け入れ、心から党を愛しながら処刑(銃殺)される。>

 <オセアニアは旧アメリカ合衆国をもとに、南北アメリカおよび旧イギリス、アフリカ南部、オーストラリア南部(かつての英語圏を中心とする地域)を領有する。他の超大国はソ連をもとに欧州大陸からロシア極東にかけて広がるユーラシア(イデオロギーは「ネオ=ボリシェビキズム」)、旧中国や日本を中心に東アジアを領有するイースタシア(イデオロギーは「死の崇拝」あるいは「個の滅却」)。どの国も一党独裁体制であり、イデオロギーにもそれほど違いは無い。これら3大国は絶えず同盟を結んだり敵対しながら戦争を続けている。表向きは、各国とも世界支配のため他の大国を滅ぼすべく戦っているが、実際は世界を分割する3大国が結託し、労働力を浪費して富の増加による階級社会の不安定化や崩壊を防ぎ、支配と権力を半永久的に維持するために行っている永久戦争。3大国はどれも戦争で滅ぼすことは不可能である(オセアニアは海に守られているため、ユーラシアは国土が広大であるため、イースタシアは人口が多く勤勉であるため)。 北アフリカから中東、インド、東南アジア、北オーストラリア一帯は3大国が半永久的に争奪戦を繰り広げる紛争地域。>

 <「偉大なる兄弟」は国民が敬愛すべき対象であり、町中の到る所に「偉大なる兄弟があなたを見守っている」 (BIG BROTHER IS WATCHING YOU) という言葉とともに彼の写真が張られているが、正体は謎に包まれ実在すら定かでない。党の最大の敵は「人民の敵」ゴールドスタインで、国民は毎日、テレスクリーンを通して彼に対する「2分間憎悪」を行い、彼に対する憎しみを駆り立てる。テレスクリーンの登場により、全国民は党の監視下に置かれ、私的生活は存在しなくなっている。>

 <党のイデオロギーはイングソック(IngSoc、Ingland Socialism、つまりイングランド社会主義の略)と呼ばれる一種の社会主義。核戦争後の混乱の中、社会主義革命を通じて成立したようだが、誰がどのような経緯で革命を起こしたのかは、忘却や歴史の改竄により明らかではない。エマニュエル・ゴールドスタインのパンフレットによれば、そのイデオロギーの正体は「寡頭制的集産主義」とでも呼ぶべきもので、「社会主義の基礎となる原理をすべて否定し、それを社会主義の名の下におこなう」ことであるらしい。もとは社会主義運動の中から発したが、現在は中層階級が下層階級を味方につけて上層階級を倒す事態を永久に防ぎ、非自由と不平等を恒久的なものにすることを目的としている。>

 <党には中枢の党内局(inner party)と一般党員の党外局(outer party)がある。党内局員は黒いオーバーオールを着用し、貴族制的な支配階級(上層階級)で、世襲でなく能力によって選ばれ、テレスクリーンを消すことができる特権すらある。党外局員は青いオーバーオールを着る中間層(中層階級)で、党や政府の実務の大半をこなす官僚たち。党に関わりを持たない人々はプロレ(the proles、プロレタリア)と呼ばれ、人口の大半を占める被支配階級(下層階級)の労働者たち。娯楽(酒、ギャンブル、スポーツ、セックス、ほか「プロレフィード(Prolefeed)」と呼ばれる人畜無害な小説や映画、音楽など)がふんだんに提供されている。>

 <「戦争は平和である(WAR IS PEACE)」「自由は屈従である(FREEDOM IS SLAVERY)」「無知は力である(IGNORANCE IS STRENGTH)」という党の三つのスローガンが至る所に表示されている。>

 <ニュースピーク (Newspeak、新語法)とは思考の単純化と思想犯罪の予防を目的として、英語を簡素化して成立した新語法。すべての言葉は意図的に政治的・思想的な意味を持たないようにされ、この言語が普及した暁には反政府的な思想を書き表す方法が存在しなくなる。ニュースピークは現代英語を必要最小限にまで簡略化することを目指し、現在では別々の言葉が似たような意味を持つという理由で統合され名詞や動詞の区別も接尾語により変化する。たとえばthought(思想[名詞])はニュースピークの文法ではthink(考える[動詞])で代用でき、speed(速さ[名詞])に形容詞をあらわす-fulや副詞をあらわす-wiseを加えることでそれぞれの品詞に自在に変化する。badをあらわすにはgoodに否定の接頭語un-をつけたungoodでこと足り、強意表現はplus-,doubleplus-といった接頭語をつけることで表現される。また、Minipaxなどのように略語を極端に採用しているが、これによって本来の語源を考えることなく、全く自動的に単語を話すことができる(これにはかつてソ連が「コミンテルン」などのような略語を多用したことの影響がある)。>

 <新語法(ニュースピーク)辞典が改定されるたびに語彙は減るとされている。それにあわせシェークスピアなどの過去の文学作品も書き改められる作業が進められている。改訂の過程で、すべての作品は政府によって都合よく書き換えられ、原形を失う。freeの意味も「free from ~」の意味しか残らず「政治的自由」「個人的自由」の意味は消滅しているなど変化しており、原文の意味を保って自由や平等を謳う政治宣言などをニュースピークに翻訳することは不可能になる。なお、ニュースピークという言葉自体が既にニュースピークである。本来、speakという単語に名詞としての用法は無い。>

 <ダブルシンク(doublethink、二重思考)とは1人の人間が矛盾した二つの信念を同時に持ち、同時に受け入れることができるという、オセアニア国民に要求される思考能力。現実認識を自己規制により操作された状態でもある。過去を支配する者は未来まで支配する。現在を支配する者は過去まで支配する。政府が過去を改竄し続けているのは、党員が過去と現在を比べることを防ぐため、そして何よりも党の言うことが現実よりも正しいことを保証するためである。党員は党の主張や党の作った記録を信じなければならず、矛盾があった時は「犯罪中止」により誤謬を見抜かないようにし、万一誤謬に気づいても「二重思考」で自分の記憶や精神の方を改変し、党の言うほうが正しいということを認識しなければならない。>

 <「古代の専制者は命じた。汝、するなかれと。全体主義者は命じた。汝、すべしと。我々は命じる、汝、かくなり、と」。オブライエンの言によれば、かつて専制国家は人々に対しさまざまなことを禁止していた。ソ連などは人々に理想を押し付けようとした。現在のオセアニアでは人々はニュースピークやダブルシンクを通じ認識が操作されるため、禁止や命令をされる前に、すでに党の理想どおりの考えを持ってしまっている。党の考えに反した者も、最終的には自由意思で屈服し、心から党を愛し、党に逆らったことを心から後悔しながら処刑される。>

 <「2足す2は5である」(2+2=5、Two plus two makes five)というフレーズはこの小説を象徴するフレーズの一つ。スミスは当初、党が精神や思考、個人の経験や客観的事実まで支配するということに嫌悪を感じて(「おしまいには党が2足す2は5だと発表すれば、自分もそれを信じざるを得なくなるのだろう」)自分のノートに「自由とは、2足す2は4だと言える自由だ。それが認められるなら、他のこともすべて認められる」と書く。後に愛情省でオブライエンに二重思考の必要性を説かれ拷問を受け、最終的にはスミスも犯罪中止と二重思考を使い、「2足す2は5である、もしくは3にも、同時に4と5にもなりうる」ということを信じ込むことができるようになる。>

 <ダブルスピーク(doublespeak、二重語法)とは矛盾した二つのことを同時に言い表す表現。「戦争は平和」・「真理省」のように、例えば自由や平和を表す表の意味を持つ単語で暴力的な裏の内容を表し、さらにそれを使う者が表の意味を自然に信じて自己洗脳してしまうような語法。他者とのコミュニケーションをとることを装いながら、実際にはまったくコミュニケーションをとることを目的としない言葉。実は作品には登場しない用語であるが、初版発刊後の1950年代に発生し一般化した言葉で、しばしば作品由来と考えられている。ニュースピークのB群語彙の定義におおむね影響を受けている。また、現実にある政策や婉曲話法などを批判的に言及する際に「二重語法」という言葉を使うことがある。たとえば事業の再構築を意味するリストラクチャリング(リストラ)を単に「従業員の大規模解雇」の意味に使用するなど。>

 という「1984年」をベースにした話である。

 見出しは<言葉の簡体化が導いた「心の闇」の大量発生>。

 毎日新聞コラムの鹿島氏の言説をほぼ全文引き写しながら、コメントを加えてみる。

 以下が本文である。

 <全体主義社会では、住民たちはニュースピークと呼ばれる簡易言語を話すようになるというエピソードがあったと思う。語彙の少ない簡易な表現ですべてコミュニケーションが成り立ってしまうのである。>

 として、

 <この未来予測は、少なくとも日本にかんする限り、見事に当たった。「ムカつく」「感動した」「泣ける」「KY(空気読めない)」etc。まさにニュースピークそのものである。それどころか、ニュースピークの首相まで現れ、マスコミでもニュースピーク派が多数派を占めるという状況が生まれてきている。全体主義社会ではないにもかかわず、である。>

 と小泉純一郎元首相の「ワンフレーズ・ポリティクス」を強烈に皮肉りながら、その小泉戦略に簡単に乗せられたマスコミ批判を繰り広げる。

 <では、なにゆえに、高度資本主義の社会で、このようなニュースピーク化現象が起きるのかと考えているときに、右の言葉に出合った。>

 右の言葉とは吉本隆明の次のフレーズである。

 <「社会が、ますます機能化と能率化を高度におしすすめてゆくとき、言葉は言葉の本質の内部では、ますます現実から背き、ますます現実からとおく疎遠になるという面をもつものであり、言語は機能化にむかえばむかうほど、この言語本質の内部での疎遠な面を無声化し、沈黙に似た重さをその背後に背負おうとする。つまり、コミュニケーションの機能であることを拒否しようとする」>(「自立の思想的拠点」徳間書店)

 鹿島氏が吉本説を解説する。

 <すなわち、社会が機能化と能率化を追求していくと、当然、言語もそれに伴って機能化・能率化する(つまりニュースピーク化する)わけだが、その一方で、個々の言葉は、現実から遠ざかるという指摘である。ソシュール理論のシニフィアン・シニフィエで言うと、シニフィアン(音声・文字記号)によって喚起されるシニフィエ(概念)の中で、その概念抽出のもとになる「現実」とのつながりが失われてしまっているということだ。吉本の言語理論なら、指示表示ばかりが前面に出て、自己表出が稀薄になることだ。>

 さあ、難しくなってきたぞ。でも、難しいのはここだけ。ぶっちゃけて言えば、どんどんと情報化が進めば、言葉が進化して、現実を表わさなくなる、ということではないか。

 <しかし、では、こうした現実から離れ、薄っぺらになったニュースピーク(機能化言語)を用いている人は、それによって、コミュニケーションがより円滑になっているのかといえば、そんなことはない。むしろ、逆であって、ニュースピークでは掬いきれずに残る感情と心理の余剰部分(自己表出部分)は、澱となって心の底に沈み、無声の言語、すなわち沈黙でしか表現できないものと化す。

 <その象徴が、殺人や傷害致死などの重大犯罪を犯して逮捕された少年・少女たちの口から漏れてくるあきれるような言葉の数々である。犯罪の動機というには、あまりにも幼稚で単純な言語! 「なぜ殺したのか?」「ムカついたから!」「なぜムカついたのか?」「無視されたから」「どのようなところで無視されたと感じたのか?」「わからない」これはつまり、「言語のコミュニケーション機能の拒否」である。>

 なるほど、やっぱりここに結び付けましたか。動機なき殺人、誰でもよかった、ムカついたから、などの供述を聞いても大人には理解できないから、何とか理解しようとして鹿島氏は言葉の面から切り込んだわけだ。

 <彼ら少年・少女(ときには中年・中女)はニュースピークを用いているからといって、感情や心の襞がないわけではないし、それを表出したいという願望がないわけではない(ニュースピークによるブログの繁盛を見よ)。ただ、困ったことに、ニュースピークでは、最も本質的な部分つまり、一番言いたいことが、沈黙という言語でしか語りえない構造になってしまっているのである。>

 分かりやすい。ここに持ってくるのに、ジョージ・オーウェルを使ったんですか。

 <なんというパラドックス。機能化・能率化を目指した社会は、機能化・能率化言語としてのニュースピークを生んだが、しかし、そのニュースピークは逆にコミュニケーション機能の喪失をもたらし、いわゆる、語りえない「心の闇」を大量発生させる結果となったのである。>

 この「心の闇」論。鹿島氏は半分おふざけで書いたかもしれないが、実際そういうことかもしれない、と思うのだ。語るべき言葉を持たない日本人たちが大量に生まれているのかもしれない。

 秋葉原事件をはじめとする殺伐とした事件を起こす容疑者たちの心は計り知れない。

 その心の中を語るべき言葉を持たないことが、逆に言えば問題の解決を妨げているのではないか、と思う。

 自分の頭の中でもいい、自分が何に対して怒っているのか、を言葉にして論理的に考えることができれば、突然噴き出す衝動的怒りの発作もある程度制御できるようになるだろう。

 その制御はオセアニアのビッグブラザーの洗脳によるダブルシンクではない。自分で紡ぎ出した言葉で自分で考えることで生み出させるものに違いない。

 ということは、テレビなどのステレオタイプ的言葉の押し付けがニュースピークの大き原因になっているのではないか、とも思えてくる。本当はテレビ、インターネットを含めた現代情報社会のありようだけでなく、家族制度や社会そのものの変化が原因なのだが、そこまで話を広げると収拾がつかなくなるので、とりあえず。

 <ところで、マルクスの指摘をまつまでもなく、言語のような上部構造は、経済という下部構造を、ある種の歪んだかたちで反映しているという。ならば、効率化・能率化を追い求めたあげくに自爆した経済を、これからの言語はどのようなかたちで反映することになるのだろうか? ニュースピークの解体だろうか、それともさらなるニュースピーク化の加速だろうか? こちらも予断を許さない状況になってきているようである。>

 なるほど、頭の切れる鹿島氏はそこまで言うか、と思う。なるほど、である。

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2008年12月19日 (金)

奥谷禮子ザ・アール社長の「派遣」論~朝日新聞12月19日朝刊から

 朝日新聞12月19日朝刊生活面[働く]で[派遣の行方]をテーマに2人のインタビューが掲載されていた。シリーズ7回目で、今回は脇田滋・龍谷大学教授と奥谷禮子ザ・アール社長だ。何かとお騒がせな奥谷氏が臆せずにインタビューに応じたのは立派だ、と思ったので、読んでみた。奥谷氏の言説の背後には小泉政権で単純労働にまで規制緩和を広げた新自由主義人脈が見え隠れするだろうし、今、こうした派遣社員大量解雇という事態で彼らがどういう思考をしているか知るよすがになるとも思ったからだ。

 聞き手は林恒樹記者。見出しは<「やる気」下支えを>である。奥谷氏の略歴を写しておく。1950年生まれ。日本航空勤務後、人材コンサルティング会社「ザ・アール」を設立。86年、経済同友会初の女性会員になり、現在は幹事、とあった。

 これじゃあ分からない。やっぱりウィキペディアの出番だ。部分的にコピペする。

 ウィキペディアによると、奥谷禮子氏の本名は米澤禮子で1950年4月3日兵庫県神戸市生まれ。奥谷姓は旧姓だ、という。甲南大学法学部卒業後、日本航空で国際線客室乗務員、VIPラウンジ勤務。退職後の1982年、同僚と人材派遣会社ザ・アールを設立。1986年には経済同友会初の女性会員の1人に選ばれた。同年から6年間、当時の堤清二セゾングループ代表との縁で、セゾングループが設立した人材派遣会社ウイル(現株式会社ミレニアムキャスティング)の社長を兼務。2002年5月には株式会社ローソンの社外取締役に就任。2006年1月には日本郵政の社外取締役に就任。

 そうかぁ、スッチーだったんだぁ。だから、年配の男性の心を捉えるのが上手で、成り上がってきたのか?(というのは言い過ぎだろうが……)。

 現職は日本郵政・ローソン・楽天野球団各社の経営諮問委員会委員、経済同友会幹事、独立行政法人国立新美術館運営協議会評議委員、神戸市市長諮問委員会委員、神戸市神戸経済特区研究会委員、WOWOW放送番組審議会委員。

 過去の公職は厚生労働省労働政策審議会臨時委員(労働条件分科会会員)、郵政省郵政審議会委員、内閣府未来生活懇談会委員、国土交通省交通政策審議会委員、通商産業省産業構造審議会委員、通商産業省航空機宇宙産業審議会委員、内閣府規制改革会議委員、公正取引委員会「21世紀にふさわしい競争政策を考える懇談会」会員。
 元経済同友会の代表幹事である牛尾治朗・ウシオ電機代表取締役会長(安倍晋三と姻戚関係。兄嫁の父)とは現在も親しくしている、という。小泉純一郎元首相と懇意。林真理子の「不機嫌の会」(林の小説「不機嫌な果実」に由来する)という夕食会に小泉、野田聖子、宮内義彦らとしばしば出席。郵政民営化に反対していた野田聖子と郵政社外取締役だった奥谷は親しかったが、2人を取り持つ関係として野田が米国アムウェイ本社社長の表敬訪問を受けるほどのアムウェイ擁護派であることが挙げられる。規制改革関連の審議会長を多数務めた宮内義彦とも懇意。

 「格差論は甘えです」と格差社会論そのものに否定的な人物の一人。2006年10月24日に開催された第66回労働政策審議会労働条件分科会に使用者側委員として参加し、過労死の問題について、「自己管理の問題。他人の責任にするのは問題(=自己責任論)」「労働組合が労働者を甘やかしている」と発言。さらに週刊東洋経済のインタビューで「労働基準監督署も不要」「祝日もいっさいなくすべき」と発言し論議を呼んだ、とあった。

 以上がウィキの情報である。ウィキには週刊東洋経済での発言が詳しく載っていたが、興味のある方は是非お読みいただきたい。

 朝日新聞のインタビューに戻る。全文を書き写しておこう。

 <派遣は雇用の創出に寄与している。日本では事業主の解雇規制が強すぎるので、正社員の採用には二の足を踏んでしまう。景気の悪化に伴って派遣社員の解雇が問題視されているが、派遣という働き方があったから雇用が創出されてきた。いま法規制を強めれば、1日単位の派遣でどうにか暮らせていた人までが失業状態に追い込まれてしまう。>

 この解雇規制の問題は派遣労働法導入の基礎となった考え方である。面白いもので、総評、同盟という二つの労働組合ナショナルセンターが強くなりすぎた。特に総評が政治ストまで始めて、同盟の企業内運命共同体的組合組織論を批判、戦闘的となり、社会党が常に支持母体である総評を援護。高度成長時代に労働分配率を上げるための春闘で高い賃上げを勝ち取るだけでなく、労働者を会社が首切りできないような労働法体系ができあがってしまったことは、奥谷氏の言う通りである。

 だから、円高不況など一連の景気変動に苦しんだ企業は柔軟な雇用形態を求めて政治を動かした。本来は強くなりすぎた組合の権限を弱める法改正をすべきだったのに、それは総評と社会党の既得権を傷つけることになるのでできず、今後就職する未成年に差別的労働を強いることで決着した。社会党も派遣労働法を潰そうという本格的な動きをしなかったし、総評も同盟も(その後継である連合も)自分たちは正社員だから痛くもかゆくもないので、座視していた。

 そして、派遣労働者がごくわずかの範囲で認められ、それが本格的になったのが小泉構造改革最中のことだった、というわけだ。

 つまり、派遣労働法改正の経緯を見れば、企業(日本経団連)と組合(連合)のナーナーでできたえいた、と理解すべきだと思う。連合が非正規従業員問題に少し関心を持ち出したのはせいぜいこの1、2年だ。それまでは正社員のことしか考えていなかったのだから。

 だから、奥谷氏のような言説がまかり通ったのだ、と思う。

 <働く側の意識が多様化する中で、多くの人は自分のライフスタイルに合わせて働き方を選んでいる。本当にどうしようもない働き方ならば、派遣社員がこれほど増えるはずがない。「日雇いや短期派遣は禁止せよ」「登録型もダメだ」と非難するのは誤りだ。>

 この働く人の意識の多様化、という言葉ほど便利なものはない。誰が好き好んで安い賃金で酷使される派遣労働者になりたいものか。

 <もちろん、高額の手数料(マージン)を取ったり、社会保障への加入を渋ったりする悪質な派遣会社は厳しく罰すればいい。だが一律の規制は弊害が大きい。政府は派遣法改正案のうち事前面接の解禁を除いた変更は見送り、派遣という働き方の自由度をより高めるべきだろう。>

 ここから奥谷氏は派遣会社の中にはいい会社も悪い会社もある、という論法でかわそうとする。「一律の規制は弊害が大きい」というのが一番いいたいことだろう。

 <その上で、意欲や向上心がある人に能力開発の機会を与えて支援する、訓練中の住居費や生活費を援助するなど「やる気」の下支えをしてほしい。やる気がない人まで救うのは税金の無駄だが、運悪く落ちこぼれた人に手を差し伸べるのは政府の大切な役割だ。>

 派遣は派遣で認めなさい。やる気のある人には政府で職業訓練をしなさい、と。

 <能力開発については派遣会社も担う必要がある。いかに付加価値をつけて質の高い人材に育て上げるか。私は教育こそが派遣会社が果たすべき社会的な責任であり、その責任から逃れようとする企業は、いずれ市場での競争の中で淘汰されると考えている。>

 ここは自分のPRのつもりなのだろう。「誰がお前なんかに教育されるものか」という派遣労働者の声が聞こえるようだ。「教育」をはき違えている。何を教育しようというのだろうか? 少なくともこの人には青少年を教育させたくないのだが。

 <85年の派遣法制定から20年あまり。法規制で押しとどめようとしても、働き方の多様化は今後も進んでいく。「雇用の原則は正社員」という幻想はもはや通用しない。>

 ここまで企業の中で派遣が定着したのだから、今更やめることはできない、と企業側の本音を代弁しているのだろう。

 <そうした中では、同一価値労働同一賃金という理念を実現することが大切だ。加えて、同一能力という考え方も欠かせない。同じ能力の人が同じ仕事をすれば同じ賃金を支払う。これこそが、目ざすべき「平等」の形ではないか。>

 この「同一労働同一賃金」という言葉を便利に使っているのだが、言葉の遊びだろう。ホワイトカラー・エグゼンプションを導入しようとする企業は「同一労働同一賃金」で働きの悪い正社員の給与を下げようとたくらんでいるとしか思えない。

 と、悪口ばかり書いてしまったが、今の企業の実情を見ると、仕事をしない、仕事ができない人も年功序列で若い人よりも高い賃金をもらっているケースはまだまだ多い。この弊害をなくすのは喫緊の課題だとは思うのだが、それと派遣労働是認とは話が違う。やはり派遣労働は高度に知的な職種にしか認めない、という形に戻すしかないのではないかと思う。それで企業の生産現場が日本から逃げ出し、海外に工場を作って海外生産拠点が中心になれば、それはそれでいいじゃないか。何も日本人労働者を嫌いな経営者に雇ってもらわなくとも、新しい産業を生み出せばいい。限りなく内需拡大に貢献しながら、輸出も視野に置くことができる産業。それは農業だと思う。農協という中間搾取組織を打ち破って早く農業分野の規制緩和を実行してほしい。そして、農家が自分勝手に好きなものを作れるようにしてほしい。無農薬でおいしい作物をきっと日本人は作るだろう。そうすれば金持ちになった中国やインドの上流階級は日本から輸入するだろう。

 奥谷氏らに代表される企業の労務屋の言うことを聞いていては日本が滅びる。

 私は個人的に法人は人ではない、と思っている。心がなくてなぜ人なのか? 法人擬制説をもう一度見直す中で、企業の社会的責任、企業の限界をきっちり議論する時が来ている気がする。政治献金も企業や「組合からのは禁止するのは当然だ。

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2008年12月12日 (金)

「伝統を切り捨てる天才」が閉塞感の原因~森本哲郎氏(83)インタビュー(毎日新聞12月12日夕刊)

 毎日新聞12月12日夕刊[特集ワイド この国はどこへ行こうとしているのか]は83歳の作家、森本哲郎氏のインタビュー。1925(大正14)年東京生まれ、東大哲学科卒、同大大学院社会学科修了。東京新聞を経て朝日新聞。学芸部員として世界各地を歴訪し、文明論、比較文化論の視点から記事を担当した。退社後の88~92年、東京女子大教授。主著に「文明の旅」「詩人 与謝蕪村の世界」「日本人の暮らしのかたち」。社会や日本文化などへの評論活動も、とあった。聞き手は坂巻士朗記者。

 森本氏の主な発言次の通り。

▽今ほど便利な時代はない。コンビニに行けば24時間、何でもそろう。本屋に出向かなくたってパソコンで注文すれば本を届けてくれる。友達の家を訪ねなくとも携帯のメールでピピッと連絡を取れば終わりです。だけど、今ほど閉塞感に満ちた時代はない。子供だったせいもあるが、戦前さえもまだ充実感があった。現代はものがたくさんあり、情報があふれかえって無力感が生まれている。便利なのに、決して豊かではない。何でもあるのに何か足りないという飢餓感をみんなが持っていると思うのです。

▽(閉塞感の土壌には何があるのか?)日本は伝統を切り捨てる天才です。何でも新しいもの、海の向こうからくるものを取り入れて、伝統というものは古臭いという一言で切り捨ててきました。文明開化は成功したといえる。因習にとらわれていたら、社会は進歩しないですから。ただ、伝統を捨ててしまっては歴史の教訓が生きないんです。戦後もそうです。日本の手本は米国だった。経済の先生は1903年に創業された自動車製造のフォード社。それから100年、アメリカは因習に縛られずに自由な天地を謳歌した。しかし、最初は健全だった自由主義、合理主義がどんどん進んでいき過度になった。大量に作って大量に消費するシステムだ。日本はこの60年あまり伝統を切り捨ててアメリカの猿真似をしてきたわけです。上っ面の同調化とでも言いますか。アメリカ式の自由主義、民主主義、合理主義を推し進めていった。アメリカのやり方を何でもありがたがるというのは、大いにマイナスだった。

▽まずは「アメリカなら何でもいい」から目を覚まさなければ。合理主義一辺倒、もうけ一辺倒になって、金にならなければ何もやらないって、そういうもんじゃない。物を次々買っても、狭い家に置く場所はない。じゃあ、テレビをもっと薄くしますか。きりがない。人間が生きるために、それほど多くの物はいらないですよ。

▽取材はマッカーサーの時代から。1951年4月、東京新聞の記者としてGHQのマッカーサー元帥が日本を離れる様子を見届けた。羽田空港に続く沿道にたくさんの人が詰め掛けていました。みんな涙を流して「さようなら」って手を振っていたね。当時の報道機関はマッカーサー元帥を恩人としてたたえた。新聞の使命は民主主義の確立である、とのGHQの方針で他社の記者とともに米国に招かれた。4ヶ月間、シカゴ、テキサスなど広く各地の新聞社を回り、取材活動をした。新聞報道は客観的でなければならないということを徹底して言われた。

▽今はテレビもインターネットもあるので、新聞が売れなくなったと聞く。確かに速報性では劣るけれども、権力に向かい合って主張すべきを主張し、キャンペーンを張る報道がないためではないか。売れないのは本来の姿勢を失っているからではないか。

▽世界中を旅して、あるとき、パリで急な雨に降られて広場のカフェを見つけて一休みしたが、「なるほど」と気づいた。ヨーロッパの建物には庇がない。雨宿りを許してくれる軒がないんです。窓はあまりに明るく、あまりに乾きすぎている。自然と人間が窓で対決している気さえした。しかし、日本の家屋も今や洋風になった。高度成長とともに、コンクリートの団地やマンションが増えた。戦前まで日本の家屋は自然と親しんでいた。縁側が住居と庭をつないでいた。ぼくの家も小さい庭があるけれども縁側がない。だから、ほとんど庭に出ることがない。縁側で子供が遊び、近所の人が腰掛けて話をすることもなくなった。自然が遠ざかり、人間的な温かみが切断されてしまった。

▽英国の動物行動学者、デズモンド・モリス(1929~)は「都会は今や人間の動物園だ」と言うんですね。食べ物はたっぷりあってそこそこ安全な場所に閉じ込められていると。まさにその通りだと思います。

▽一度手にした便利な生活を放り出すのはなかなか難しい。この国の行方は見えないなあ。過ぎたるは及ばざるがごとし、という格言がありました。腹八分目なんていうのも。つまり、抑制ですね。受け継がれてきた伝統や歴史という重みこそが、過剰を抑制してくれるのだと思います。

▽<なつかしき冬の朝かな。湯をのめば、湯気がやはらかに顔にかかれり。>ぼくの好きな石川啄木の歌です。26歳で亡くなった啄木には死の予感があったんでしょう。寒い朝、一杯の湯を飲もうとして、ふわっとほおに触れる湯気に、安らぎを感じた。幸せは遠くにあるんじゃない。ありふれた日常の中にあるんですね。

 森本氏の新潮選書が何冊か、私の書庫に眠っている。水道橋のいつも行く古書店で店頭の台で安売りしていたのを買ってきた。3、4冊になったか。今度読もう、今度読もう、と思いながらまだ読んでいない。今度読もう。

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2008年12月 6日 (土)

ハイデガー哲学の流行~日経新聞12月6日文化面に木田元氏の名前がない

 日経新聞12月6日朝刊文化面<激動の現代見直す視点/ハイデガー哲学色あせず/中堅・若手が研究リード/存在の根源問う>が載っていた。さすが日経、哲学までフォローしている、と少し驚いた。舘野真治・文化部記者の記事である。

 書き出しはこうだ。

 <20世紀を代表するドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーの研究が熱を帯びている。40代前後の中堅・若手の著者刊行が相次ぐほか、新たな研究組織も発足。人間存在の本質を根底からとらえた巨人の思想は、金融危機など激動する世界情勢の中で輝きを増しているようだ。>

 1889年に生まれ、1976年に没したハイデガーは「存在と時間」などで「存在とは一体どのようなものなのか」という自明なようでいて実はとらえがたい根源的問題を徹底的に解き明かそうとし、逆に人間が本来は最も大切な存在論を忘れ、日常に埋没して世間に流されることを批判した、とも書く。

 記者が取材したのは9月20日から都内で開いた「ハイデガー・フォーラム」大会。2日間で延べ160人が出席、半数以上が一般参加だった、という。このフォーラムの第1回は2006年で今年が3回目。

 旗振り役の森一郎・東京女子大教授は「あえて学会という体裁にせずに誰でも参加できるようにした」という。

 出版も目立っている、として、いろいろ書いている。

 雑誌「理想」今年2月号で「ハイデガーという広場」特集。森教授も寄稿したと。森教授は1月に主にハイデガーを論じた単著「死と誕生」を出した。

 門脇俊介・東大教授は解説書「『存在と時間』の哲学1」を6月に出し、仲原孝・大阪市立大教授は研究書「ハイデガーの根本洞察」を6月に出した。フォーラム創設メンバーの一人の秋冨克哉・京都工芸繊維大学教授は05年に「芸術と技術 ハイデガーの問い」を出した。

 これまで日本のハイデガー研究を牽引してきたのは今年2月に亡くなった渡邊二郎・東大名誉教授ら1920~30年代生まれの重鎮だったが、彼らに教えを受けた世代がキャリアを積み、成果を出し始めた、という。森、秋冨氏はともに1962年生まれで40代半ば、まさに脂が乗りつつある、と書いている。このへんが書きたかったことなのかなぁ、とも思う。

 ドイツ現代思想が専門の北川東子・東大教授は「物事を突き詰めて考える姿勢、根本から問いを立てる力がすごい。世界を覆う金融危機など従来の常識では捉えきれない事態が次々と生じる中で既存の枠を飛び越える問いや思考法が求められている」と見ているそうだ。

 <現在、よく言及されているのは「技術」についての批判的な論考だ。ハイデガーの見方によれば技術は自然の様々な物を本来の在り方とは関係なく、何らかの目的に役立つ資源やエネルギーとしてとらえ、取り立て収奪する側面がある。人間自身も「人的資源」「臨床事例」などと呼ばれ、駆り立てられる。そうした流れに疑いを差し挟む思想は、技術による利便性の向上を当然とする現代的な考え方を見詰め直す契機になる。「大きな問題をその場しのぎではなく、深く思索する視点を与えてくれる」(森教授)。ただ、その議論は抽象度が高く、環境破壊などの個別事例にすぐ応用できるわけではない。ハイデガー自身も「哲学は本質的に時代向きではない」と公言。流行のように注目されることを嫌がった。「彼の思想を何かの問題に役立てようとすること自体がその内容に反する」(東大の石原孝二准教授)との声は根強い。それでもハイデガーの議論が示唆に富み、多くの人をひきつけるのは紛れもない事実。技術論にしても人間の存在を揺るがすという単純な疎外論には終わらない。例えば「存在論的メディア論」などの著書がある和田伸一郎・中部大学講師はハイデガーの技術論の肯定的な側面に着目。「携帯電話やインターネットなどの技術が、人減存在の本質を新しい形で引き出す可能性もある」との考えを示す。世界の中で開放的に、遠くにいる人にも配慮する在り方につながるとの見方だ。>

 少し長くなったが、これがどうも著者が今言いたいハイデガーと技術との新しい切り口の研究の「現時点」なのだろう、と思う。そして、

 <ハイデガー思想は「とてつもない広さと深さ」(北川教授)を持つが故に、こうした様々な議論をくみ出せる。技術論に限らず多義的な魅力を備える哲学者は、様々な難題に直面する現代人が立ち返る原点として注目され続けそうだ。>

 と結んでいた。

 不思議だったのはハイデガーと言えば木田元といわれるほど日本のハイデガー研究で有名な木田氏の名前が記事に一回も出てこないとだった。

木田元の最終講義  反哲学としての哲学 (角川ソフィア文庫) 木田元の最終講義 反哲学としての哲学 (角川ソフィア文庫)

著者:木田 元
販売元:角川グループパブリッシング
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 2008年5月25日初版発行の「木田元の最終講義 反哲学としての哲学」(角川文庫、税込み660円)を読むと、1928年生まれの木田氏は海軍兵学校、山形県立農林専門学校を経て1950年に東北大学文学部哲学科に入学。同大学院哲学科・特別研究生課程に進学し、東北大学文学部助手、中央大学文学部専任講師、助教授を経て1972年に中央大学教授。99年に定年退職、名誉教授に就任した。「ハイデガーの思想」「ハイデガー『存在と時間』の構築」など既存のハイデガー解釈を一新した、というのが文庫本の人物紹介にあった。

 木田氏の最終講義は中央大学文学部で1991年1月23日に行われた「ハイデガーを読む」と1992年2月25日に中央大学人文科学研究所で行われた「哲学と文学~エルンスト・マッハをめぐって」があり、文庫本ではこれに<最終講義・補説>として「『存在と時間』をめぐる思想史」をつけてあり、素人にも分かりやすい。

 木田氏はハイデガーはソクラテス・プラトン・アリストテレス以前のギリシャに遡って哲学を考え直した、つまり、西洋哲学の見直しを行った、と見た。以下は文庫版のP52からの引用である。

 <西洋哲学史を見なおすといっても、ハイデガーが考えているのはなんとも思いきったことで、彼はプラトン/アリストテレスからヘーゲルにいたるまでの西洋哲学の全体が間違っていたのではないか、少なくともおかしな考え方、不自然な考え方だったのではないかと考えているのです。しかも<哲学>と呼ばれてきたこの不自然な考え方が、西洋文化経世の青写真の役割を果たしてきた、そのため、西洋文化が全体としておかしな方向に形成されることになった、とそんなふうに考えているらしいのです。>

 木田氏はこれはニーチェと同じ問題意識なのではないか、と言うのだ。一読、同感だったのだが、日経新聞の記事にある技術論の問題はこうした大きなパースペクティブで見れば、近代文明=西洋文化に内在する問題点だ、と言えるのではないか。

 というようなことを木田氏は考えさせてくれるのだから、こういう記事にも木田元氏の名前を入れてほしかったなぁ、と思う次第だ。日経新聞の夕刊1面コラム[あすへの話題]で定期的に寄稿しているし、日経文化部記者だって日常的に話を聞けるんじゃないのかな?

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2008年12月 3日 (水)

山折哲雄氏の「散り際」「退き際」考…権力維持の知恵だった~毎日新聞12月3日夕刊から

 毎日新聞12月3日夕刊2面[特集ワイド]に山折哲雄氏(77)が<散り際の美学>について小松やしほ記者のインタビューに答えた記事が掲載されていた。面白かったのでメモしておく。

 山折氏は1931年米サンフランシスコ生まれ。国立歴史民俗博物館教授、白鴎女子短大学長、国債日本文化研究センター所長などを歴任。「近代日本人の宗教意識」など著書多数。近著に「信じる宗教、感ずる宗教」(中央公論新社)がる、と紹介してあった。

 最初から面白かった。記者が「散り際の美学」「退き際の美学」について聞こうとすると、山折氏は、

 <退き際、散り際というと、後ろに美学と付けたくなる心情は分かりますが、本来はそういうものではない。権力を維持する知恵なんです。王が死んで次の王が即位するまでの間に、何が問題になるか。一つは王権の正統性を何で保障するかということ、失敗すれば空位期間が発生する。それを避けるためにはどうするか。この二つです。(そこで考えた最高の知恵が)死んでも死んだことにしないこと。一番安全な方法は譲位です。生前に決めておく。余力を残して退くということです。そうすれば次の権力に対し口を出すことができる。>

 <定年とは、システマチックに身を退くということです。美学などというセンチメンタルなものは、入り込む余地はないわけです。>

 <見事ですね。小泉さんは、余力を残して退くということをよく知っていたんですよ。彼には大きな野心があるのかもしれません。後継を息子にしたのは、人物の卑小さを暴露したというところかな。>

 <(引退が美学と併せ語られるようになったのはいつからか?)やはり武士道ですね。平家物語に出てくる源氏方の武将で源頼政という人がいます。戦いに敗れ、宇治川で切腹するのですが、その前に歌を詠むんです。~埋木の花咲くこともなかりしに身のなるはてぞかなしかりける~(辞世の歌を詠み、西を向いて念仏を唱え、刀を腹に突き立てる。壮絶な死である。)これが武士の美しい死に際と、当時の人々には映った。歌を詠み、西方往生という信仰の心を持つ。それがこの世から退いていく時の心の作法、死ぬ作法です、覚悟の死が感動を与えるのです。>

 <その心がやがて、かの有名な良寛の歌へとつながっていく。~裏を見せ表を見せて散るもみぢ~散るという言葉が死と重なっている。彼の遺言のような歌にはこうあります。~形見とて何残すらむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉~>

 <頼政にも良寛にも、我々が考えるセンチメンタルな意識などなかったと思う。あったのは死の作法、覚悟だったんじゃないかな。権力に恋々としてもいい。しがみつきたいと思う心があってもいい。でも、ギリギリのところであきらめ退いていかなければならない。その悔しさを、最後の場面でどこかに昇華してほしいんだよね。そうすれば、なるほどと人々にわかってもらえる。それが一言の言葉ですよ。>

 <安倍さん(晋三元首相)や福田さん(康夫前首相)に歌を作ってくれとは言いませんよ。言いませんが、辞めるときにああそうかと思わせるような一言がないよね。いかに今の日本の政治家に言葉がないか。我々の先祖は武人であろうと、歌人であろうと、きちんとした言葉を残して表舞台から去っている。言葉の貧しい民族じゃないんですよ。>

 <(いつから言葉が貧しくなったのか?)06年のトリノ冬季五輪の期間中、過去の日本選手の活躍を振り返る回想番組で1932年のロサンゼルス五輪で銀、36年のベルリンで金メダルの故前畑秀子選手が当時を振り返る映像が流れた。「母の言葉」を胸に、スタート台に「死ぬ覚悟」で立ち、号砲の直前、心の中で「神様」と叫んだ、と言っていた。前畑選手だけじゃない。どの選手も同じキーワードを支えにしていたのではないか。送り出す国民も、同じ感情を持っていたのではないか。今はそれが「自分らしく」「楽しく」「笑顔で」の三つに変わった。約70年の間に価値観の変化があったんだ。かつての日本人が使った言葉を、今は使わなくなった。言葉が薄くなったのか、生き方が薄いのか、と初めは考えて落ち込みました。だが、それでも金メダルを取っているじゃないか、と思い直した。彼らも心の奥底では、母の言葉を胸に刻み、死ぬ覚悟で、神様と叫んでいるかもしれない。大人の社会が聞こうとしていないのではないか。特に上っ面の言葉しか聞こうとしないマスコミの責任は重大です。プレッシャーがかからないようにという思いやりかもしれないけれど、それは甘やかしです。我々自身の価値観を封印してしまっている。それでだんだんと言葉を失い、政治家までが、退き際に本気で思いを述べることができなくなってしまった。

 <(やはり退き際には言葉が必要なのですか?)ただ美しい言葉を並べればいいというものではない。沈黙という姿勢もある。退き際というのは、新しく登場する人がいれば、去る人もいなければならない。それを制度としてどう調整するかということなのです。そこに美学をあてはめるのは、そうありたいという庶民の願望かもしれないね。>

 と言って、山折氏は最後に細川ガラシャの辞世の歌を紹介したそうだ。~ちりぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ~。

 いい記事だと思う。毎日新聞夕刊の特集ワイドは時々このようないい記事が載るので目が離せない。

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2008年11月27日 (木)

秋山駿が語る「ドストエフスキーと現代」~日経新聞11月27日夕刊

 日経新聞11月27日夕刊[シニア記者がつくるこころのページ]に文芸評論家、秋山駿氏のインタビューが掲載されていた。<ドストエフスキーと現代/生きる意味求め読む/理由なき殺人の時代>のタイトルだ。

 秋山氏は1930年生まれ。少年時代からドストエフスキーを読み込んできた、という。16歳のとき、敗戦直後の混乱の中、どう生きるか分からず新宿の街を歩いていたら、青梅街道沿いの古書店で内田魯庵訳の「罪と罰」を見つけ、立ち読みしているうちにラスコーリニコフが自分を呼んでいるような高揚感を覚え、ほかの古書店で三笠書房の米川正夫訳「罪と罰」上巻を買って徹夜で読み、興奮して頭に血が上った感覚になった、という。下巻もすぐに探して読み、「地価生活者の手記」「白痴」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」と立て続けに読んだ、と言っている。

 つまり、16歳にしてドストエフスキーに出会い、それだけ共鳴できた、というのだ。素晴らしい理解力だと思う。

 <生きていることにどういう意味があるか、自問自答する時代には必ずドストエフスキーが読まれるんです。最初のブームは内田魯庵訳「罪と罰」が出た明治20年代。北村透谷の「罪と罰」の評論が出るなど、ドストエフスキーのリアリズム文学に新しい文学を発見した。二度目のブームは敗戦直後。埴谷雄高「死霊」、椎名麟三「深夜の酒宴」、大岡昇平「俘虜記」、三島由紀夫「仮面の告白」などのドストエフスキーに影響された戦後文学が一斉に登場した。いまのブームは三度目。生きることの意味を探り始めた現代人がドストエフスキーを読んでいるのです。>

 「罪と罰」の中でドストエフスキーはラスコーリニコフが自問自答しながら歩く際の心の動きを詳しく描いているが、そういう描き方は日本文学にはなかった、という。ラスコーリニコフの日のあたらない部屋で金貸しの老女殺しの考えを生み出すが、

 <児童連続殺傷事件を起こした神戸の14歳の少年も「人間の壊れやすさを確かめるために聖なる実験をしました」とノートに記し、内部から凶行を宣言していた。「罪と罰」は「理由なき殺人」を描いたものだと思う。いま読まれているのも、秋葉原殺傷事件などの青年の「理由なき殺人」が頻発していることがあるだろう。>

 秋山氏は「罪と罰」で最も魅力的なのは娼婦にして聖女のソーニャがラスコーリニコフを再生へと導いていく過程、神の問題を描いた場面だ、という。

 <日本人は「神は死んだ」というニーチェの言葉をすぐに持ち出しますが、これは全く軽薄だと思いますね。今日の日本人が向き合わなくてはいけないのはむしろ、ラスコーリニコフのように神を探すことにあるでしょう。もっとも日本人にとってこれは難しい問題があります。神は、キリスト教の伝統のない日本人にjはなかなかなじめない。小林秀雄と正宗白鳥が、私とカトリック教徒の小川国夫が神をめぐって論争したのもそこから発しています。しかし、神は死んだと安易に断定することはできない。>

  秋山氏は日本文学になくドストエフスキーの文学にあるのが悪魔、悪の問題だという。「罪と罰」のスヴィドリガイロフ、「白痴」のラゴージン、「悪霊」のスタヴローギン、「カラマーゾフの兄弟」のイワンなどドストエフスキー作品には悪霊に取り付かれた人間、悪の化身たちが登場する。日本文学ではこうした真の悪人が登場しない。

 <ただ法律に背いたり、犯罪を犯すのではなく、悪魔が体内奥深くに眠っている人間。それが描かれているからこそ「カラマーゾフの兄弟」の父親殺しも、「悪霊」のリンチ殺人事件も生きてくる。さらに見逃せないのが男たちを破滅させる「カラマーゾフの兄弟」のグルーシェニカのような恐るべき美女たち。ボードレールの詩集「悪の華」とも重なる悪と美です。これこそ文学の魅力といえる。>

 ドストエフスキーの文学には酔っ払いなどこっけいな登場人物もいる、という。そして、

 <「カラマーゾフの兄弟」には諄々と道を説くゾシマ長老のような聖者が登場しますね。いまテロや殺人などが横行していますが、我々が求めているのは、ゾシマ長老のような人物だと思います。>

 でインタビューが終わっていた。78歳になっても矍鑠としている。秋山氏の評論は高校生時代に何か読んだのだけれども忘れた。ドストエフスキーを描いた「内部の人間」「神経と夢想~私の『罪と罰』」くらいは読んでみようかな。

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2008年11月19日 (水)

宗教と「死生観」、団塊の世代と全共闘運動etc.…各紙の文化面などから

◆四谷怪談、イザナギ、イザナミ神話…生と死について

 東京新聞夕刊連載企画[生きる 心のページ]は地味だが、中高年にそれなりの固定読者を持っているのではないか? と推察させる記事である。最近の記事を見てみよう。

 8月26日、9月2日で上下で連載した[想像する死と無常]は㊤が<死後の救いを願わぬ現代人/生者の都合だけで完結>。㊦は<冷徹に生を洞察する眼差し/「私」見失った今こそ必要>。

 筆者は廣澤隆之・大正大学人間学部仏教学科教授、智山伝法院院長、八王子市・真言宗智山派浄福寺住職。1946年東京都生まれ。専門分野はインド大乗仏教教理学。著書に「図解雑学・仏教」(ナツメ社)や難しい名前の本がたくさんある。そうかぁ、この間、友人の父親の通夜で行ったお寺の住職さんだ。この人がお経を詠んでいた。

 内容は難しかった。約めて言えば、最近は身近な人が死ぬと甘く美しい思い出の世界に行き続ける、という考えが一般的になっているのだが、これは生きている「私」の都合を優先させ過ぎていないか? と問い、

 <生きるために不都合なものを抱え込み、死者との不条理な関係を生きることが見失われているのが現代の文化の特徴かもしれない。>

 と言うのだ。「千の風になって」の歌詞への批判である。

 <かつては、おどろおどろしい闇の世界から死者が私たちに語りかけてくることが想像されていた。それは数多くの謡曲でも、あるいは卑近な幽霊譚にも見られる。死者の世界を想像することは、生きている自分の根本を問いただすものであった。たとえば四谷怪談では自分の都合で身勝手な生活をする伊右衛門に貞淑な妻であった岩が復讐するのであるが、それは勧善懲悪的な道徳律であると同時に、死者との共存が見失われた生者の生存が危機的になるという宗教性を含みもっていた。>

 <死者の世界は生者によって身勝手に想像されるのではなく、深いところで生き方を支える死者と生者の共存が私たちの文化を伝統的に基礎づけていたのではあるまいか。私たちはそのことを凝視することなく、むしろ死を直視する文化を捨て、生きる者の都合のみで完結する消費文明を極端にまで推し進めてしまっている。しかも近代の文明は死の管理を徹底し、もはや死体を直視することもなく私たちは死を想像する。>

 として、清潔な病院での死、清められた身体、数日後に死体を火葬し、もはや死体を直視することがない現代では、

 <死が嫌悪すべき醜悪な様相をもって私たちに迫らなくなっているからこそ、私たちは死者との交わりを稀薄にしているのではないかと考えられる。>

 という。ここまでくると、イザナギ、イザナミを連想するだろう。著者はその話題に入る。

 <かつて人は死をまざまざと見なければならなかった。死体は硬直し、次第に腐爛し、むきだしの骨となる。このような死体を見た者は、けっして死者の世界を甘美なものとだけ想像することはできない。それはイザナギノミコトが黄泉の国に死んだ妻を訪うという神話にも見られる。かつて情愛で結ばれた甘美な思い出の中の死者への感情と、他方では現実の醜悪な死を忌避する感情、この背反する感情が同居するにしても、そこに生きる「私」を見つめることを神話は記述しない。死者を直視する「私」が生きることの意味を問う文化は、日本に仏教的無常観が伝えられて著しく展開する。>

 仏教の「無常観」を体得するために、釈迦は修行者に死体置き場で死体を直視するよう教えたのだという。そして、林の中で瞑想し、死体を思い浮かべるのだ、という。死体が硬直し、次第に斑点が浮かび、腐爛し、ついには犬やカラスなどによって死肉が食われて骨が散乱する。この過程をまざまざと直視し、林の中の瞑想でそれをありありと思い浮かべるのだ、という。次に自分の死体が同じように骨となって散乱するまでを思い浮かべる。そのようにして無常な身体への執着を離れるとき、修行者は真に無常を体得し、生きるためにかき立てられた欲望を抑制することができるようになる、というのだ。

 このような瞑想を「不浄観」といい、「無常観」の一つだそうだ。

 <きびしい実践による人間の生死への洞察が無常観なのである。このような洞察を抜きにして無常は知られない。このことを知らなければ私たちは無意味に生と死を繰り返すのみである。>

 ところが、次第に日本の文化の展開の中で死を凝視し生を洞察する態度が変容し、はかなく移ろうものへの詠嘆の感情によってイメージされる死が文学的に表現されることが多くなった、という。永遠に生きると思われた釈迦でも老いて死ぬという厳然たる事実を通した「諸行無常」のイメージと現世のはかなさが重ねあわされた詠嘆が「平家物語」だ、という。インド仏教とは違った傾向が日本仏教に浸透している証拠だ、と。「方丈記」もそうだ、と。

 <時間の流れを超えた来世に希望を託す浄土往生の宗教感情は、現世に生きることのむなしさをことさらに強調する情緒を強める。だが他方で、現世の享楽にこだわる文化も日本には根強い。現世に生きる価値にこだわりつつ、美文調の詠嘆が美化されると、死のイメージは自然の風物の中に溶け込み、稀薄になる。美しい自然の中で生きることを日本文化の特徴と見る傾向が強いが、そこには無常観のように冷徹に死と生を凝視することもなく、むしろ生と死の密接な関係を稀薄化する傾向もあわせもってしまっているのかもしれない。>

 <このことが現代の世相の中で問われる意義があ